将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

盤外ひととき

2017年8月 8日 (火)

お天気キャスターの森田正光さんと竹俣紅女流初段との記念対局

お天気キャスター

7月30日に東京・渋谷の東急百貨店で開催された「将棋まつり」で、お天気キャスターの森田正光さんと竹俣紅女流初段の記念対局が行われました。森田さんはアマ三段の棋力があり、以前は街の将棋クラブに通って腕を磨いていました。

記念対局の手合いは飛車落ち。下手の森田さんは右四間飛車の定跡を用いて攻め立て、竹俣女流初段に対して終盤で勝利寸前の形勢になりました。しかし自玉の簡単な5手詰めをうっかりして逆転負けを喫しました。いったん詰めろを受けておけば必勝でした。

お天気キャスター

局後の大盤解説の光景。左から森田さん、解説を務めた私こと田丸昇九段、竹俣女流初段、聞き手の里見咲紀女流初段。

じつは森田さんは2008年、小学4年生だった竹俣さんと会ったことがありました。場所は朝日小学生新聞が催した作文コンクールの表彰式でした。全国から寄せられた約3万の作文の中からまず30点がノミネートされ、選考委員の森田さんらによって決められた高学年の優秀賞(3人)に竹俣さんが選ばれたのです。将棋に夢中になっていた竹俣さんに、祖父が温かく激励する内容でした。森田さんと竹俣さんは思いがけない形で9年ぶりに再会して、とてもうれしそうでした。

記念対局の後には、森田さん、佐藤天彦名人、田中寅彦九段、田丸九段、山口恵梨子女流二段らによるトークショーが行われ、将棋とお天気の話題で話が盛り上がりました。

森田さんが「気象予報の世界では、10年以上も前からコンピューターが予報していて、私たちはそれを元に解説しています。人間は予報の精度で、コンピューターにとても敵いません」と言うと、田中九段が「ここにいる佐藤名人も今年の電王戦でコンピューターに2連敗しました」と笑いを誘いました。

森田さんは気象協会の職員を務めていた30年以上も前の頃、大山康晴十五世名人の「将棋が強くなるには、良い道具を持つことです」という言葉をかみしめていました。そこでボーナスが出たある日、都内の碁盤店へ将棋盤を見に行きました。しかし気に入ったカヤの高級盤は高くてとても手が出ません。諦めて店を出ようとすると、店主がツゲの駒も付けて半額の30万円で売ってくれると言ったのです。現金でもらったボーナスの額でぴったり買えたのです。喜んで自宅に帰ると、奥さんにこっぴどく叱られたそうです。

森田さんは2年前、「なんでも鑑定団」というテレビ番組でその将棋盤を出品しました。本人評価額は60万円でした。しかし専門家の鑑定は10万円でした。碁盤店の店主が言った九州の宮崎産というのは間違いで、中国の雲南省の産だったのです。

でも将棋盤がどこの産であれ、ずっと愛用することが大事です。森田さんはこれからも、自前の盤を使って将棋を楽しんでほしいものです。

 

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2017年4月 6日 (木)

日本画家の荒川由貴さんが開催している将棋棋士の対局姿を描いた個展

日本画家の荒川由貴さんが開催している将棋棋士の対局姿を描いた個展

将棋を愛好して多くの棋士と交流がある日本画家の荒川由貴さんが、将棋棋士の対局姿を描いた作品を発表する個展「~華麗なる勝負師の物語Ⅱ~」を、東京・京橋「アートスペース羅針盤」で4月3日から8日まで開催しています。※会場の住所・電話・時間・交通アクセスは下記。
【東京都中央区京橋3-5-3京栄ビル2階 03-3538-0160  午前11時~午後9時(7日)・午後5時(8日) 地下鉄銀座線京橋駅2番出口から徒歩1分・地下鉄有楽町線銀座1丁目駅9番出口より徒歩3分】

私は5日に会場を訪れ、約15点の作品を鑑賞しました。荒川さんの承認を得たので、その中からいくつか紹介します。

写真・上は、今回の個展で最も大きな120号(194センチ×130センチ)の大作。荒川さんは以前に新宿「紀伊國屋ホール」で開催された女流棋士の公開対局イベントで客席からスケッチし、それをイメージに描いたそうです(右は香川愛生女流三段、左は室谷由紀女流二段)。富士山と荒れ狂う波濤の背景には、大山康晴十五世名人をはじめ約20人の棋士が描かれています。※下地は麻紙、顔料は岩絵の具、墨、金箔など。

日本画家の荒川由貴さんが開催している将棋棋士の対局姿を描いた個展

中央の左側を拡大した部分。白髪姿は私こと田丸昇九段。その下は弟子の櫛田陽一七段。ほかに三浦弘行九段、先崎学九段、中村太地六段など、武将に扮した佐瀬一門の棋士たちがいます。

日本画家の荒川由貴さんが開催している将棋棋士の対局姿を描いた個展

羽生善治三冠。対局中の特徴をよくとらえています。

日本画家の荒川由貴さんが開催している将棋棋士の対局姿を描いた個展

対局者は里見香奈女流五冠(左)と加藤桃子女王。後列右から、「ヒフミン」こと加藤一二三九段、愛児を抱く矢内理絵子女流五段、竹部さゆり女流三段。

日本画家の荒川由貴さんが開催している将棋棋士の対局姿を描いた個展

香川女流三段。凛とした雰囲気があります。

荒川さんは多摩美術大学大学院で日本画を専攻し、精力的に活動しています。近年は将棋棋士・囲碁棋士の勝負師の世界をテーマに取り組んでいます。今回の個展では将棋を知らない人でも、テレビ番組によく登場する加藤一二三九段、株主優待券で生活する桐谷広人七段、初の外国人棋士のカロリーナ・ステチェンスカ女流3級の姿を見ると、すぐにわかるそうです。

日本画家の荒川由貴さんが開催している将棋棋士の対局姿を描いた個展

私と荒川さん(左)のツーショット。5日の夜は、目白「ホテル椿山荘東京」で開催された名人戦の前夜祭で合流し、二次会では私の知人たちと一緒に飲んで楽しく過ごしました。

今回の荒川さんの個展の期間はあと2日です。都合がつけばぜひ会場を訪れ、知的で優美な女流棋士、勇ましく果敢な男性棋士の対局姿を描いた作品を鑑賞することをお勧めします。

 

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2016年8月31日 (水)

3月に京都の南禅寺、大覚寺、嵯峨野などを観光

3月に京都の南禅寺、大覚寺、嵯峨野などを観光

私は今年の3月下旬に竜王戦の対局で関西を訪れたとき、対局の後に古都を観光しました。季節外れになりますが、今回は前回の奈良に続いて、京都での話をテーマにします。

京都駅の東北部にある「南禅寺」をまず訪れました。南禅寺は鎌倉時代の13世紀に亀山法皇が開基した臨済宗南禅寺派の大本山の寺院で、日本のすべての禅寺の中で最も格式が高いとされています。寺院の入口にそびえる重要文化財の「三門」は、歌舞伎のある演目で石川五右衛門が「絶景かな絶景かな…」という名セリフを語った場面になりました。

写真・上は、南禅寺の本堂の手前にある別院の「南禅院」の一部屋。亀山法皇が離宮を寄進して禅寺を建立したもので、南禅寺の発祥の地です。80年前には将棋史に残る大きな勝負が行われたことでも知られています。

昭和12年(1937年)2月5日。木村義雄八段(十四世名人)と伝説の棋士といわれた阪田三吉(贈名人・王将)の対局が始まりました。対局日数は7日、持ち時間は各30時間、封じ手は交互、という取り決めで行われました。両対局者は南禅院に泊まり込み、外出は禁じられました。関係者以外の出入りも一切禁止でした。対局室は奥の書院の8畳間が当てられました。写真の部屋は関係者の控室になったようです。

昔は「終生名人」の制度がずっと続きました。昭和10年に関根金次郎十三世名人が勇退すると、実力で名人位を争う「実力名人」の棋戦が創設されました。土居市太郎八段、花田長太郎八段、金子金五郎八段など、時のトップ棋士だった10人の八段によるリーグ戦(正式名称は名人位決定大棋戦)は2年半かけて行われ、昭和12年2月の時点では木村八段が最有力の名人候補でした。そんな状況において、木村と阪田三吉の対局の企画が持ち上がったのです。

阪田三吉は関根の好敵手でしたが、大正10年に阪田をはじめ大半の棋士から推挙を受けて関根が十三世名人を襲位しました。その4年後に阪田が地元の関西棋界の後援者に後押しされた形で「関西名人」を名乗ると、中央棋界から名人を詐称したとして長いこと絶縁されました。その阪田の才能を惜しむ関係者たちが水面下で動き、阪田は16年ぶりに将棋界の表舞台に登場することになったのです。

木村八段は「阪田と対局するには、この機会を逸したらない」と考えて受諾しました。将棋大成会(日本将棋連盟の前身)は、名人候補の木村が会員ではない阪田にもし敗れたら、将棋界の大本として創設された名人戦の権威に響くと危惧し、木村に辞退を促しました。しかし木村が「大成会の会員として参加できないなら、個人の資格で対局する。場合によっては脱会もいとわない」と強い意思を示すと、大成会はやむなく承諾しました。そうした経緯で行われた木村―阪田の大勝負については、改めてブログのテーマとします。

3月に京都の南禅寺、大覚寺、嵯峨野などを観光

南禅院の庭園。天竜寺や苔寺の庭園とともに、京都の三名勝史跡庭園に指定されています。池の周囲は深い樹林で包まれ、幽遠な雰囲気が漂っています。私は以前にも対局で関西を訪れたとき、対局前にこの庭園に寄ることがありました。往時の大勝負を偲びながら、清澄なたたずまいの中で戦意を高めたものです。

3月に京都の南禅寺、大覚寺、嵯峨野などを観光

南禅院の裏側にある琵琶湖疎水の水路閣。明治時代に琵琶湖の湖水を京都市へ流すために建設されました。今ではドラマのロケ地としても有名です。

3月に京都の南禅寺、大覚寺、嵯峨野などを観光

南禅寺の後は、京都駅の西北部にある「大覚寺」を訪れました。平安時代の9世紀に嵯峨天皇が建立しました。写真は、本堂から眺めた「大沢池」

3月に京都の南禅寺、大覚寺、嵯峨野などを観光

大覚寺からほど近い「嵯峨野」の竹林。源氏物語や平家物語の舞台になりました。

3月に京都の南禅寺、大覚寺、嵯峨野などを観光

嵯峨野の一角にある「大河内山荘庭園」の展望台から眺めた京都市内。角度を変えると保津川の清流も見えます。戦前の時代劇の名優だった大河内伝次郎が30年の歳月をかけて、この優美な庭園を造り上げました。その本人は訪れると持仏堂にこもって念仏をひたすら唱え、関東大震災の被災者たちの冥福を祈ったそうです。

京都の寺院などを観光した後、祇園に行きました。花見小路通りの路地にある「やま福」という店で京料理を賞味し、季節の炊き込みご飯(春は竹の子ご飯、秋は松茸ご飯など)でしめました。そして近くにあるバー「サンボア」でカクテルを飲み、生前は常連客だった作家の山口瞳さんの思い出を店の人と語り合いました。艶やかな着物姿の芸妓さんもいて京都らしい雰囲気でした。私は京都を訪れたとき、将棋を愛好した山口さんに紹介された京都に住む陶芸家の方に案内されたのがきっかけとなり、どちらの店にも寄ることにしています。

 

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2016年8月20日 (土)

3月に奈良の法隆寺、興福寺、東大寺などを観光

3月に奈良の法隆寺、東大寺、興福寺などを観光

私は今年の3月下旬に竜王戦の対局で関西を訪れました。引退が内定しているので、機会があれば関西将棋会館で対局したいと以前から思っていました。8年ぶりの関西での対局の後に、奈良と京都で観光したい、という意図もありました。季節外れになりますが、その話をテーマにします。

対局の翌日の3月25日。大阪の福島(関西将棋会館の最寄り駅)からJR・大阪環状線と大和路線を乗り継ぎ、最初に奈良県斑鳩町の「法隆寺」を訪れました。法隆寺は7世紀の飛鳥時代に創建された聖徳太子ゆかりの寺院です。世界最古の木造建築として知られ、1993年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。

写真・上は法隆寺の五重の塔で、釈尊の遺骨を泰安するための重要な建物です。ほかに金堂、夢殿、大宝蔵院などには、数えきれないほどの国宝と重要文化財があります。私は広大な境内をゆっくり歩いて巡りました。早朝だったので観光客はまだ少なく、荘厳な雰囲気に浸ることができました。

法隆寺から歩いて駅に戻り、大和路線で奈良に向かいました。JR奈良駅から奈良公園への道には、観光シーズンとあって多くの人たちで賑わっていました。とくに目立ったのは中国・韓国・台湾などから来たアジアの人たちで、公園に放たれた鹿との写真を「自撮り棒」を使ってスマホで撮りまくっていました。

3月に奈良の法隆寺、東大寺、興福寺などを観光

「興福寺」の五重の塔。3年前に旧境内の井戸の遺構から、過去の出土例では国内最古といわれる11世紀の平安時代の将棋の駒が発見されました。長さ25ミリ、幅15ミリ、厚さ20ミリほどの木製の墨書された4枚の駒です。2枚の駒の表は「桂馬」「歩兵」と書かれ、裏は「金」でした。ほかに「中将棋」(縦横12マス・駒数92枚)の駒のひとつの「酔象」もありました。酔象は「玉将」の右横にいて、真後ろ以外の7方向に1つ動けます。もう1枚の駒の種類は不明だそうです。

3月に奈良の法隆寺、東大寺、興福寺などを観光

「東大寺」の大仏殿。8世紀の奈良時代に聖武天皇が建立しました。その後、大仏殿は兵火などによって損傷するたびに再建されてきました。私が40年前に初めて訪れたときは「昭和の大修理」が行われていました。少しばかりの寄進をすると50センチほどの細長い板を渡され、私が「大願成就」と書いた板は建物の一部に使われたようです。今になって人生を振り返ってみると、「大願」は成し遂げられませんでしたが「中願」は果たせたかなと思っています。なお2003年4月の名人戦(森内俊之名人―羽生善治竜王)第1局は東大寺の本坊で行われました(結果は羽生が勝ち)。

3月に奈良の法隆寺、東大寺、興福寺などを観光

東大寺の大仏殿の北側にある「正倉院」。校倉造りの高床式倉庫で、聖武天皇や光明皇后のゆかりの品をはじめ、天平時代を中心とした数多くの美術工芸品が所蔵されていました。現在は改築された建物だけが残っていて、所蔵品は宮内庁が別の場所で管理しています。

奈良での観光は、電車に乗った以外はすべて歩き通しました。かなり疲れましたが、人込みをなるべく避けて散策したことで、古都の静かな雰囲気を味わえました。次回は、翌日に観光した京都での話をテーマにします。

 

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2016年1月15日 (金)

1月5日の東京の将棋会館での指し初め式、田丸が現役最後の新年の対局で勝利

1月5日の東京の将棋会館での指し初め式、田丸が現役最後の新年の対局で勝利

謹賀新年。半月遅れの挨拶となりましたが、今年もこのブログのご愛読をよろしくお願いします。

1月5日に恒例の「指し初め式」が東京の将棋会館5階の特別対局室で行われ、棋士、将棋関係者、将棋ファンなど、多くの人たちが参加しました。会館の子ども将棋スクールで習っている男の子が▲7八飛と意外な初手を指すと、盤側の渡辺明竜王、郷田真隆王将、佐藤康光九段、森内俊之九段らの棋士は笑顔を見せました。将棋連盟会長の谷川浩司九段(右)は△8四歩と指しました。指し初め式ならではの対局光景です。

1月5日の東京の将棋会館での指し初め式、田丸が現役最後の新年の対局で勝利

先手側の2人目は同じく子どもスクールの女の子で、谷川九段が続いて指しました。

1月5日の東京の将棋会館での指し初め式、田丸が現役最後の新年の対局で勝利

その後は棋士とアマの組み合わせで1手ずつ指しました。右は渡辺竜王。

1月5日の東京の将棋会館での指し初め式、田丸が現役最後の新年の対局で勝利

塚田泰明九段(右)と塚田恵梨花女流2級の親子棋士が揃って指しました。

1月5日の東京の将棋会館での指し初め式、田丸が現役最後の新年の対局で勝利

私こと田丸昇九段は中盤で△7六歩と歩を取りました。現役棋士として最後の指し初め式なので、盤側の人に記念に写真を撮ってもらいました。

1月5日の東京の将棋会館での指し初め式、田丸が現役最後の新年の対局で勝利

指し初め式に先だって、会館の向かいの鳩森神社の境内で「将棋堂祈願祭」が執り行われました。宮司が祝詞をあげた後、連盟の理事や棋士らが将棋堂に榊を奉じ、今年の将棋界の隆盛を祈願しました。

1月5日の東京の将棋会館での指し初め式、田丸が現役最後の新年の対局で勝利

将棋堂の大きな駒に彫られた「王将」は、大山康晴十五世名人の書です。

指し初め式で参加者が1手ずつ指すと、途中で指し掛けとします。勝負をつけないのが習いです。その後は別室で新年の酒宴となりました。冒頭で谷川会長は「今年は村山聖九段の評伝『聖の青春』の映画化、漫画『3月のライオン』のアニメ化など、将棋界にとって明るい話題が多いです。良い年になりそうです」と挨拶しました。

私は今年の3月で44年間にわたる現役棋士生活を終えます。現役最後の新年の対局は、1月12日の竜王戦で相手は小林宏七段でした。中盤で少し苦しい形勢となりましたが、開き直って指すと相手に疑問手が出ました。そして厳しく攻め込み、終盤で一手勝ちを収めました。何と1年ぶりの勝利でした。

竜王戦の次の相手は、昨年のアマ竜王戦で優勝して竜王戦に出場し、1回戦で若手棋士の石井健太郎四段に勝った吉本悠太アマ。私が公式戦でアマと対局するのは、9年前に竜王戦で加藤幸男アマ(元アマ竜王)と対局して以来です(結果は田丸の勝ち)。引退を前にしてやや複雑な心境ですが、自然体で指したいと思います。

 

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2015年12月31日 (木)

今年10月に実施された第3回将棋文化検定の東京・立教大学での模様

今年10月に実施された第3回将棋文化検定の東京・立教大学での模様

今年は10月から12月にかけて執筆の仕事が立て込み、ブログの記事の更新が滞ってしまいました。

時期が遅れましたが、10月4日に実施された第3回「将棋文化検定」の模様をお伝えします。検定は東京・大阪・名古屋・福岡・札幌・広島の各地で行われました。過去2回の東京の会場は調布の明治大学の付属校でしたが、今年は池袋の立教大学に変わりました。検定委員を務める私は、東京の会場に出席しました。

今年10月に実施された第3回将棋文化検定の東京・立教大学での模様

将棋文化検定はABCDの各コース(問題数はいずれも60題)があり、東京では2教室(AB・CD)に分かれて行われました。

今年10月に実施された第3回将棋文化検定の東京・立教大学での模様

将棋文化検定を初めて受検した高見泰地五段。じつは立教大学の文学部史学科に在籍する4年生です。ゼミでは『源氏物語』の作品で知られる紫式部を研究しています。卒業論文は「将棋の歴史と変遷」をテーマにしました。

高見五段は最上級のAコース(1級・2級を対象)を受検しました。思った以上に難易度が高く、自己採点では正解は6割程度と予想しました。しかし84点(満点は128点)を獲得して2級に合格しました。なお90点以上だと1級に合格しました(今年の合格率は15%)。

今年10月に実施された第3回将棋文化検定の東京・立教大学での模様

お天気キャスターの森田正光さんはCコース(5級・6級を対象)を受検しました。かなり苦戦したそうですが、78点(満点は120点)を獲得して6級に合格しました。まったくわからなかった問題は将棋連盟のマスコットキャラクターの名前で、①SHOちゃん②SHOきち③SHO太郎の三択のうち、自身が経営する気象会社に勤める社員と同じ名前の③と答えたら不正解でした。正解は①です。

今年10月に実施された第3回将棋文化検定の東京・立教大学での模様

将棋文化検定の試験が終了した後は、各コースの受検者たちは同じ教室に集まり、トークショーで感想を語りました。

今年10月に実施された第3回将棋文化検定の東京・立教大学での模様

トークショーで壇上に並んだのは、左から高見五段、連盟理事の佐藤秀司七段、お天気キャスターの森田さん、私こと田丸昇九段。

今年10月に実施された第3回将棋文化検定の東京・立教大学での模様

今年10月に実施された第3回将棋文化検定の東京・立教大学での模様

立教大学のキャンパスの光景。将棋文化検定にふさわしい落ち着いた雰囲気でした。

では、このブログの愛読者のみなさん、よいお年を迎えてください。

 

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2015年9月15日 (火)

田丸の母校の東京・荒川一中での将棋講座と、少年時代を過ごした都電荒川線の風景

田丸の母校の東京・荒川一中での将棋講座と、少年時代を過ごした都電荒川線の風景

東京・荒川区立第一中学校で「全校ハローワーク」の催しが9月12日に行われました。様々な職業に就いている人たちが、その道に進んだ理由、仕事の内容、生きがいと苦労などを話すことで、中学校の生徒たちが自分の将来の生き方を考えるきっかけとする、というのが趣旨です。この講座は同校の恒例行事で、私は2年前から参加しています。

約30人の講師たちの職業は、新聞記者・テレビ局員・裁判官・銀行員・警察官・消防士・建築士・気象予報士・宇宙航空研究者・鉄道運転士・元プロ野球選手・テニスコーチ・デザイナー・ガードマン・音楽家・ダンスコーチ・声優・格闘家・美容師・保育士など、多岐にわたっています。これほどの規模の講座は、都内でもかなり珍しいそうです。

写真・上は、将棋棋士の私と先生、生徒たち。窓からはスカイツリーが見えます。講座は40分単位で3回に分けて行いました。生徒たちは約10人のグループごとに、3種類の講座を受講しました。

私は、小学6年に将棋を覚えて中学2年に棋士をめざしたきっかけ、将棋の専門学校である「奨励会」の仕組み、棋士になって良かったことと辛かったこと、将棋の歴史、研究の仕方、コンピューター将棋の進歩など、自分の棋士人生と将棋の世界について語りました。

この講座では将棋の指導をしませんが、盤と駒を持参してどんなゲームか実際に見てもらいました。そして『将棋は、負けた側が「ありません」「これまでです」と言って頭を下げる投了で勝負がつきます。自分で負けを認めるのは辛いですが、自己責任と潔さが大事です。一方の勝った側も、スポーツのようにガッツポーズをとるのではなく、「ありがとうございました」と言って頭を下げるのが礼儀です。勝負が終わると、目上の人が盤上の駒を駒箱(袋)に入れてしまいます。これは勝者と敗者の駒が一緒になり、ともに健闘を称え合うという意味でもあります』という話を結びにしました。生徒たちは将棋の勝負における精神を何となく理解したようです。

田丸の母校の東京・荒川一中での将棋講座と、少年時代を過ごした都電荒川線の風景

講座が終了すると、私たち講師に「給食」が出ました。カレーライス、ワカメと野菜の和え物、牛乳、冷凍ミカンという献立です。専門の栄養士が考えた手作り料理は、栄養バランスが良いうえに美味しかったです。

田丸の母校の東京・荒川一中での将棋講座と、少年時代を過ごした都電荒川線の風景

荒川一中の正門。じつは、私は約50年前にこの中学校に在学していました。校舎の外観は昔とあまり変わっていません。

田丸の母校の東京・荒川一中での将棋講座と、少年時代を過ごした都電荒川線の風景

荒川一中の近くにある路面電車の「都電荒川線」の停留所の「荒川一中前」。私の在校時代はなかったのですが、15年前に地元の商店街の働きかけによって新駅が誕生しました。自分の母校が駅名になり、とてもうれしかったものです。

田丸の母校の東京・荒川一中での将棋講座と、少年時代を過ごした都電荒川線の風景

都電荒川線と平行している商店街の「ジョイフル三ノ輪」。約300メートルにわたって日用品や食料品などを売る個人商店が並んでいます。庶民的な品揃えと値段、品質や味の良さが地元以外の人たちにも評判です。私の少年時代には日活の映画館があり、絵師が看板に描いた若き日の吉永小百合を見て心がときめいたものです。

田丸の母校の東京・荒川一中での将棋講座と、少年時代を過ごした都電荒川線の風景

都電荒川線の始発駅の「三ノ輪橋」。次の停留所が荒川一中前で、町屋駅前~王子駅前~大塚駅前を経由して、終着駅は「早稲田」です。山手線の北側の周辺を東西にアーチ形に走る路線の総距離は約12キロで、所要時間は約1時間。それぞれの地域の人たちの便利な足になっています。また、車内を貸切にした落語会や下町の風景を楽しむ企画がよく催されています。

田丸の母校の東京・荒川一中での将棋講座と、少年時代を過ごした都電荒川線の風景

三ノ輪橋の停留所の脇にある赤い鳥居。その隣の現在は美容室になっている場所には、昔は「三ノ輪将棋会所」という将棋クラブがありました。私は将棋を覚えてまもない中学1年の頃、この将棋クラブに通い始めて教わったものです。

次回は、約50年前の当時の思い出をテーマにします。

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2015年9月 1日 (火)

「鷺宮定跡」で知られる東京・中野区鷺宮での将棋同好会にお笑い芸人が参加

「鷺宮定跡」で知られる東京・中野区鷺宮での将棋同好会にお笑い芸人が参加

東京23区の北西部に位置する西武新宿線の沿線の中野区鷺宮には、米長邦雄永世棋聖が住んでいました。約30年前には青野照市九段も住んでいました。その青野九段が開発した対振り飛車の袖飛車戦法に工夫をこらし、タイトル戦の対局で成果を収めたのが米長永世棋聖でした。2人の合作によって生まれたので、その戦法は住んでいた地名を取って「鷺宮定跡」と呼ばれたものです。

鷺宮は大物棋士がかつて住んだことでも有名でした。駅前の中杉通りの西側に升田幸三実力制第四代名人と囲碁棋士の藤沢秀行名誉棋聖、東側に米長永世棋聖の自宅がそれぞれあったのです。米長は升田の自宅をたまに訪れて囲碁を打ちました。米長が升田を自宅に招き、20歳頃の羽生善治名人らの「羽生世代」の若手棋士たちを引き合わせたこともありました。私は兄弟子の米長の自宅に何度も伺いましたが、この20年ほどは機会がほとんどありませんでした。

その鷺宮で、主に地元の人たちが集まった将棋同好会の「鷺宮将棋サロン」が5年前に生まれました。主宰者は地元で精神科の医院を開業している曽根維石さん。アマ四段の棋力があり、囲碁将棋チャンネル「お好み将棋道場」の番組で佐藤秀司七段に飛車落ちの手合で勝ったことがあります(2012年8月30日のブログ参照)。

私は4年前にふとした縁で鷺宮将棋サロンの人と知り合い、西武新宿線の沿線に住んでいて近いこともあり、たまにお酒を飲んだりして交流しています。3年前には鷺宮の隣駅に住んでいた(当時)妹弟子の本田小百合女流三段を紹介し、本田女流は年に数回は将棋サロンで指導対局をしています。

写真・上は、8月30日に鷺宮駅の近くの公共施設で行われた鷺宮将棋サロンの例会。当初は5人で始めたサロンは、今では会員が約20人に増えているそうです。私はこの日、将棋が大好きというお笑い芸人のザブングル加藤さん(右側の手前)を案内しました。

加藤さんの本名は将棋好きの父親が付けた「歩(あゆむ)」。棋力は初段ぐらいで、得意戦法は四間飛車。時間があればスマホのネット将棋でよく指しています。加藤さんの相手は、将棋サロンの若手有望株の土生(はぶ)さん。名前の読み方のように、将棋はかなり強いです。右側の列の4人目は、サロン主宰者の曽根さん。

「鷺宮定跡」で知られる東京・中野区鷺宮での将棋同好会にお笑い芸人が参加

加藤さんの持ちネタのひとつは「悔しいです!」。ひょうきんなキャラで人気があります。しかし対局中は真剣な表情でした。

「鷺宮定跡」で知られる東京・中野区鷺宮での将棋同好会にお笑い芸人が参加

加藤さんの相手は有段者ばかりなので負けが込みましたが、この将棋は終盤で寄せの決め手を放って快勝しました。

「鷺宮定跡」で知られる東京・中野区鷺宮での将棋同好会にお笑い芸人が参加

丁寧な指導が評判の本田女流三段。8面指しの指導対局をして、まさに「八面六臂」の活躍ぶりでした。

「鷺宮定跡」で知られる東京・中野区鷺宮での将棋同好会にお笑い芸人が参加

会員の三沢正子さん。6枚落ちの手合で指導対局を受けました。本田女流の話によると、「最近、とても上達しましたね」だそうです。

「鷺宮定跡」で知られる東京・中野区鷺宮での将棋同好会にお笑い芸人が参加

私(右)も合間に指導対局をしました。

「鷺宮定跡」で知られる東京・中野区鷺宮での将棋同好会にお笑い芸人が参加

左からザブングル加藤さん、三沢さん、途中から参加したお笑い芸人のスパローズ大和さん。加藤さんと大和さんは同じぐらいの腕前の将棋仲間で、年に100局以上もスマホのネット将棋で指しているそうです。

将棋の例会が終わった後は、みんなで近くの焼肉料理店に移動し、将棋の話に花を咲かせました。こうして将棋が取り持つ縁で、職業・世代・性差・プロアマ・棋力を超えて交流できるのが良いところでしょう。

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2015年6月 2日 (火)

俳優、お天気キャスター、お笑い芸人の3人で将棋の「巴戦」

俳優、お天気キャスター、お笑い芸人の3人で将棋の「巴戦」

5月上旬に東京・荻窪「将棋サロン荻窪」に、将棋を愛好する3人の著名人が集まりました。右から、お天気キャスターの森田正光さん、俳優の森本レオさん、お笑い芸人のザブングル加藤さん。

私は、普段は将棋を指す機会が少ない森田さんと森本さんのために、年に1回は将棋サロン荻窪に誘っています。今年はザブングル加藤さんが初めて参加しました。

じつは4月下旬に千葉・幕張メッセで開催された「ニコニコ超会議」のイベントの将棋の企画で、出演した森田さんと加藤さんが控室で話しているうちに、加藤さんが将棋クラブでぜひ指してみたいと言って実現しました。

「ニコニコ超会議」では、斎藤慎太郎六段・森田さんvs将棋ソフト『Apery』(今年の電王戦第1局に登場)・加藤さんという組み合わせでリレー将棋(5手ずつで交代)が行われました。森田さん側は王手飛車をかけられて苦しい形勢となりましたが、斎藤六段の頑張りで将棋ソフト側に勝ったそうです。

俳優、お天気キャスター、お笑い芸人の3人で将棋の「巴戦」

まず森田さんと加藤さんが対戦しました。加藤さんは四間飛車が好きで、本局でも用いました。森田さんは棒銀で攻め込みました。

俳優、お天気キャスター、お笑い芸人の3人で将棋の「巴戦」

加藤さんは中盤で苦しそうでしたが、飛車を巧みに活用して形勢を挽回しました。終盤では森田さんの鋭い寄せが決め手となり、加藤さんは惜しくも敗れました。

私はザブングル加藤さんと初めて会いました。「悔しいです!」という持ちネタで人気があります。加藤歩(あゆむ)の本名は、将棋好きの父親から付けられました。「だから将棋の駒みたいに四角い顔になった」というネタを話すこともあります。

加藤さんは仕事ではひょうきんなキャラですが、将棋では真剣な表情で指していました。棋力は初段ぐらいです。実戦をもっと増やせば、さらに強くなると思います。

俳優、お天気キャスター、お笑い芸人の3人で将棋の「巴戦」

森本さんと加藤さんの対戦は、森本さんが勝ちました。森本さんは森田さんにも勝ちました。3人の著名人による将棋の「巴戦」は、森本さんが制しました。森本さんはドラマでは穏やかな役柄が多いですが、将棋の指し方は個性的でとても力強いです。芸能界きっての強豪といえるでしょう。

俳優、お天気キャスター、お笑い芸人の3人で将棋の「巴戦」

森田さんは気象協会に勤めていた30年ほど前、ボーナスを使って高級な榧(カヤ)の材質の将棋盤を買ったことがあります。その盤を『なんでも鑑定団』の番組(5月中旬に放送)に出品しました。将棋盤店には日向(宮崎県)榧と聞いたので、森田さんの本人評価額は買値の30万円の2倍の60万円でした。しかし専門家の鑑定は何と10万円でした。それは中国・雲南省の榧でした。本物の日向榧なら100万円に相当するそうです。鑑定人は苦笑いする森田さんに、「ぜひ使い込んでください」と語りました。

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2014年12月29日 (月)

森田正光さんの金星、長野での出会い、宮古で観光、女流棋士会イベントの写真

森田正光さんの金星、長野での出会い、宮古で観光、女流棋士会イベントの写真

この1年間にあったことを写真で紹介しながら、今年を振り返ってみます。

私の友人で将棋を愛好するお天気キャスターの森田正光さんを、東京・荻窪「将棋サロン荻窪」に3月に案内しました。この将棋サロンには、棋士・女流棋士・奨励会員がよく来て勉強しています。当日は4月1日付で女流棋士になった和田あき女流3級が来ていて、森田さんと指してくれました。森田さんはアマ三段の棋力がありますが、平手の手合いなので和田女流が圧勝しました。続いて2局目は、和田女流が少し緩めて指したのと、森田さんが実力以上の指し方をしたので、森田さんが見事に勝って金星を挙げました。

私は、和田女流は若いけど(当時16歳)、話がわかる優しい少女だと感心しました。和田女流にとって指導対局で負けたにすぎませんが、森田さんにとって夢のような話なのです。その後、和田女流は女流棋戦で活躍して、早くも初段に昇段しています。いずれタイトルを獲得すれば、森田さんの金星は終生の宝物になります。

森田正光さんの金星、長野での出会い、宮古で観光、女流棋士会イベントの写真

私が主宰している11月の懇親会の場で、森田さんは東京大学の大学院生(建築学専攻)でマイナビ女子オープンなどの女流棋戦に特別参加して活躍した鎌村ちひろさんと指しました。白ワインを飲みながらのリラックスした雰囲気でしたが、鎌村さんの指し手は厳しく、森田さんを圧倒しました。ちなみに写真の中央・奥は俳優の森本レオさんです。

森田正光さんの金星、長野での出会い、宮古で観光、女流棋士会イベントの写真

3月に将棋大会の審判と指導で長野市を16年ぶりに訪れました。長野県は私の生まれ故郷なので、懇親会では懐かしい人たちと再会しました。中でも高野学さんには、私が若い頃にお世話になったものです。高野さんは以前、長野の自宅に棋士を招いてみっちりと指導を受けました。私も20歳の頃、3日ほど滞在して将棋を指すことがよくありました。とても研究熱心な方なので、教えるというよりも共同で研究する感じでした。そしていつも多額の謝礼をいただきました。無収入の奨励会員にとって、とてもありがたいことでした。高野さんは全日本アマ名人戦に5回も出場した実力者で、1967年にはベスト8の実績を挙げました。86歳の今もシニア名人戦の全国大会に出場するなど、選手として活躍しています。

森田正光さんの金星、長野での出会い、宮古で観光、女流棋士会イベントの写真

長野市の懇親会で、将棋を愛好する戸枝洋子さんという女性から「私たちは同年の同じ誕生日(1950年5月5日)なんですよ」と声をかけられました。今までに同じ誕生日の人とは何人か会いましたが、まったく同じ誕生日の人とは初めてでした。私が「囲碁の井山裕太名人と将棋の室田伊緒女流二段は同年の誕生日のよしみで結婚しました。私たちも若い頃に知り合っていたら…」と言うと、戸枝さんは「私は勝負師の妻になっていましたかね」と応じて、和やかに談笑しました。

森田正光さんの金星、長野での出会い、宮古で観光、女流棋士会イベントの写真

6月に岩手県の久慈に将棋の指導で訪れたとき(6月18日・23日のブログ参照)、東日本大震災で不通になっていた三陸鉄道北リアス線が今春に開通したので、すぐに帰京しないで久慈から乗って宮古に向かい、宮古で泊まって観光しました。

森田正光さんの金星、長野での出会い、宮古で観光、女流棋士会イベントの写真

宮古からほど近い景勝地の浄土ヶ浜です。江戸時代にこの一帯を訪れた僧が、その美しさに感嘆して極楽浄土のようだと七言絶句を詠んだことから、この地名が付きました。私が訪れた日はあいにくの雨でしたが、かえって幻想的な雰囲気でした。なお昨年の名人戦(森内俊之名人―羽生善治三冠)第3局が近くのホテルで行われました。

森田正光さんの金星、長野での出会い、宮古で観光、女流棋士会イベントの写真

小舟に乗って浄土ヶ浜の島々を巡ると、観光客が与える特製のパンを求めて、ウミネコが群がってきました。私が初めて見たウミネコはとても機敏で、パンを投げると素早く飛びついて口にくわえました。

森田正光さんの金星、長野での出会い、宮古で観光、女流棋士会イベントの写真

11月に女流棋士会が主催した将棋イベントでの光景。この会の協賛者で精神科医の曽根維石さんが、4人の女流棋士(右から飯野愛女流1級、室谷由紀女流初段、安食総子女流初段、本田小百合女流三段)にどんな夢を見るかという質問をして、その回答で女流棋士たちの深層心理を分析するという企画でした。中でも安食女流の回答はとてもユニークで、会場は爆笑続きでした。「アジアジ」な雰囲気が漂う楽しい会となりました。

今年もあとわずかとなりました。来年もこのブログのご愛読をよろしくお願いします。ではみなさん、よいお年を迎えてください。

 

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2014年11月18日 (火)

11月10日に83歳で死去した俳優の高倉健さんの映画で田丸が好きな作品

11月10日に83歳で死去した俳優の高倉健さんの映画で田丸が好きな作品

「健さん」こと俳優の高倉健さんが11月10日に83歳で死去しました。高倉健さんと所縁がある人たちやファンから、健さんを悼む声が寄せられています。

私は高倉健さんが主演した『動乱』『幸福の黄色いハンカチ』『居酒屋兆治』『八甲田山』などの映画を見ましたが、昭和30年代の初期の頃の作品が好きです。これらの写真は、私が持っているビデオ・DVDのカバーです。

写真・上は、美空ひばりと高倉健が共演した『希望の乙女』(昭和33年・東映)。美空ひばりの芸能生活10周年を記念した映画です。歌手になる夢を抱く牧場の娘を美空ひばり、バンドマスターを高倉健、作曲家を山村聡が演じました。歌や踊りの場面が随所に出てくる青春映画です。

美空ひばりとの「3人娘」で活躍した江利チエミ(この映画の1年後に高倉健と結婚しました)、雪村いずみが特別出演しました。そのほかに新人時代の佐久間良子、中原ひとみ、丘さとみらの女優が出演しましたが、佐久間良子(写真の下側で左から3人目)の美しさは目を見張るばかりです。

11月10日に83歳で死去した俳優の高倉健さんの映画で田丸が好きな作品

美空ひばりと高倉健が共演した『三百六十五夜』(昭和37年・東映)。資産家の令嬢を美空ひばり、建築技師を高倉健、画家を鶴田浩二、薄幸の女性を朝丘雪路が演じました。

高倉健さんはどちらの映画も30歳前後の頃で、見たとおりの「イケメン」です。ただ当時の人気はそれほど高くなかったといいます。人気が飛躍的に上昇したのは、昭和40年から始まった『網走番外地』のシリーズでした。その映画で高倉健さんの魅力に引かれた男性たちは、健さんになりきった科(しな)で映画館から出てきたそうです。

11月10日に83歳で死去した俳優の高倉健さんの映画で田丸が好きな作品

昭和36年から40年にかけて、映画『宮本武蔵』(原作・吉川英治、監督・内田吐夢)の5部作が東映で公開されました。宮本武蔵を中村錦之助、佐々木小次郎を高倉健、武蔵を慕うお通を入江若葉、沢庵和尚を三国連太郎、武蔵の幼友達の又八を木村功、又八の母親を浪花千栄子、小倉藩の重臣を片岡千恵蔵らの名優たちが演じました。

私は青年時代に吉川英治の小説『宮本武蔵』を読んで感動しました。映画も演出・配役・筋書・色彩など、すべてが素晴らしいです。中村錦之助の武蔵は凛々しく、高倉健の小次郎は不敵な格好よさがいいです。

私は34年前に『宮本武蔵』の5部作を、新宿の映画館で夜の8時から徹夜で見たことがあります。その映画を見て英気を養うと、以後は将棋の調子が良くなりました。そして翌年にB級2組順位戦で昇級できました。

ところで今泉健司さん(朝日アマ名人)は11月18日に、人生をかけた勝負である「プロ編入試験」の第3局で三枚堂達也四段と対局しました。第1局で宮本広志四段、第2局で星野良生四段に勝ったので、本局に勝てば規定の3勝に達して合格となり、晴れてプロ棋士になれます。その結果は三枚堂四段が勝ちました。今泉さんの合格は12月8日の第4局(相手は石井健太郎四段)に持ち越されました。

11月20日・21日の竜王戦(森内俊之竜王―糸谷哲郎七段)第4局で、私は20日に「ニコニコ生放送」で解説者を務めます。いつものように解説の合間に、竜王戦や両対局者のエピソード、糸谷七段の四段時代の「怪物伝説」などを紹介します。ぜひ見てください。

 

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2014年11月10日 (月)

トロッコ列車で神話の世界の奥出雲、松本清張『砂の器』の舞台の亀嵩を観光

トロッコ列車で神話の世界の奥出雲、松本清張『砂の器』の舞台の亀嵩を観光

9月中旬に島根県・出雲市での高校生大会の審判と指導の仕事をした翌日。「トロッコ列車」に乗って奥出雲を観光しました。

写真・上は、トロッコ列車「奥出雲おろち号」。JR山陰本線の出雲市駅を出発して松江方面に行き、宍道駅から木次線を南下して広島県北部の備後落合駅で折り返し、木次駅が終点となる旅程です。

木次線の沿線は出雲神話の世界になっています。天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと)が高天原から降り立ち、頭と尾が八つもある八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して、奇稲田姫(くしいなだひめ)を守って妃として娶った英雄伝説は有名です。

トロッコ列車で神話の世界の奥出雲、松本清張『砂の器』の舞台の亀嵩を観光

トロッコ列車は2両連結で定員は40人。1両には壁やガラス窓がありません(横に通した柵だけ)。車窓からは奥出雲の田園風景や山々の景色がよく見えます。通り抜ける秋の風もさわやかでした。もう1両は普通の列車で、寒いときや雨の日に乗り移れます。

トロッコ列車で神話の世界の奥出雲、松本清張『砂の器』の舞台の亀嵩を観光

観光ガイドが車内で、谷底まで100メートルもある真っ赤な三井野大橋が絶景の「奥出雲おろちループ」、列車が160メートルの標高差をジグザグに上っていく「三段式スイッチバック」など、各地の名所を説明してくれました。

トロッコ列車で神話の世界の奥出雲、松本清張『砂の器』の舞台の亀嵩を観光

私は木次駅への途中にある亀嵩(かめだけ)駅に降りました。無人駅ですが「出雲そば」の店が隣接しています。

トロッコ列車で神話の世界の奥出雲、松本清張『砂の器』の舞台の亀嵩を観光

出雲そばは、そば殻と一緒に挽いたそば粉に香りとうま味があり、とても美味しかったです。

トロッコ列車で神話の世界の奥出雲、松本清張『砂の器』の舞台の亀嵩を観光

私は松本清張の小説を愛読しています。中でも亀嵩が舞台になった『砂の器』は大好きです。40年前に映画化されて人気を呼び、近くに石碑が建てられました。

『砂の器』の主人公・和賀英良は少年時代、不治の病といわれたハンセン病を患った父親と一緒に各地を放浪します。やがて亀嵩にたどり着くと、駐在所の巡査は見かねて父親を療養所に入れたり、少年を我が子のように面倒を見ます。しかし少年は亀嵩を逃げ出します。戦後の混乱期に乗じて別の戸籍を詐取し、和賀英良という人間に成りすまします。和賀は青年になると、音楽家として名声を得ます。元巡査は旅行先の映画館に掲げられた写真を見て、元少年・和賀の存在を知ります。そして2人が再会したとき、和賀は自身の出自と暗い過去を消すために恩人の元巡査を殺すという、衝撃的な作品です。

映画では、主人公の和賀を加藤剛、父親を加藤嘉、巡査を緒方拳、和賀を追い詰める刑事を丹波哲郎と森田健作が演じました。少年と父親がお遍路の姿で放浪する場面は、いつ見ても感動的です。
トロッコ列車で神話の世界の奥出雲、松本清張『砂の器』の舞台の亀嵩を観光

亀嵩温泉の「玉峰山荘」に泊まりました。露天風呂がとても良かったです。夕食は島根牛のステーキと日本海の魚料理を賞味しました。

トロッコ列車で神話の世界の奥出雲、松本清張『砂の器』の舞台の亀嵩を観光

じつは、この旅館は奥出雲町発足5周年記念として、2010年の棋聖戦第1局の対局場になりました。ロビーに掲げられた長方形の板には、羽生善治棋聖「玲瓏」、挑戦者・深浦康市九段「英断」、立会人・米長邦雄永世棋聖「左馬」と、3人の署名とサインが揮毫されていました。

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2014年11月 2日 (日)

高校生大会での審判と指導で訪れた島根県・出雲市で出雲大社を観光

高校生大会での審判と指導で訪れた島根県・出雲市で出雲大社を観光

9月中旬に島根県・出雲市で島根県高校名人戦の大会が行われ、私は審判と指導の仕事を将棋連盟から依頼されて訪れました。

写真・上は大会の光景。県内の高校から約50人が出場しました。みんな白シャツに黒ズボンという服装で、地方の高校生らしくて好感を持てました。

この大会の歴代優勝者を見ると、2004年と05年の里見卓哉さん(出雲工高)は、たぶん里見香奈女流名人の兄だと思います。12年と13年は妹の里見咲紀さん(出雲北陵高)で、今年の大会は1年・2年生が対象なので出場しませんでした。

大会のトーナメントで敗れた人から順番に、多面指しの指導対局をしました。私は下手が希望すれば、平手の手合で指すこともあります。それを伝えると、ほぼ全員と平手で指すことになりました。棋力は有段者から級位者まで様々で、レベルに応じて力の入れ具合を調整しました。その結果は、もちろん上手がほとんど勝ちました。ただ初級者と唯一の女子高生には、教えながら指して負けてあげました。

大会は午後3時頃に終わりました。私は出雲市駅前からバスに乗って、出雲大社を初めて観光しました。

高校生大会での審判と指導で訪れた島根県・出雲市で出雲大社を観光

出雲大社は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)を祀った神社で、日本神話の舞台になっています。また、縁結びの神として有名です。昨年には60年ぶりの遷宮が行われました。

高校生大会での審判と指導で訪れた島根県・出雲市で出雲大社を観光

神楽殿の正面の上部に吊るされた巨大な注連縄(左右10メートル・上下3メートル)。

出雲大社の境内の敷地はかなり広大ですが、10月5日の高円宮典子さまと出雲大社神職・千家国麿さんの結婚式を控えた祝賀ムードと、観光シーズンの連休が重なり、多くの観光客であふれていました。

高校生大会での審判と指導で訪れた島根県・出雲市で出雲大社を観光

私は神々の気配を感じる荘厳な雰囲気に浸りたかったのですが、それは時期的に難しかったようです。そこで出雲大社から日本海のほうに15分ほど歩き、日本神話の「国譲り」で知られる稲佐の浜に行きました。この浜から見える夕日は「日本百選」に入っています。日の入りまで1時間ほどありましたが、手前の弁天岩・渚・日の高い太陽・青空と雲がよく調和して美しい光景でした。

夜は出雲市内の和食料理店で、地酒を飲みながら、近海の魚の刺し身、名物のノドグロ(赤ムツ)の焼き魚、出雲そばなどを賞味しました。

翌日には「トロッコ列車」に乗って奥出雲の観光を楽しみました。その話は後日に改めてします。

 

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2014年10月14日 (火)

母校の東京・荒川一中での「全校ハローワーク」で将棋の講座

母校の東京・荒川一中での「全校ハローワーク」で将棋の講座

母校の東京・荒川一中での「全校ハローワーク」で将棋の講座

母校の東京・荒川一中での「全校ハローワーク」で将棋の講座

9月上旬に東京・荒川区立第一中学校で「全校ハローワーク」が実施されました。様々な職業に就いている人たちが、その職業を選んだ理由、仕事の内容、喜びと苦労などを話して、中学校の生徒たちが自分の生き方を考えるきっかけとする、というのが趣旨です。この講座は毎年の行事で、私は昨年から参加しています。じつは、私は1966年(昭和41年)の春に荒川一中を卒業したOBでした。

写真・上は、荒川一中の校門と校舎。母校には懐かしい思い出がいろいろとあります。

当日は午前9時に体育館で全体会が行われました。全校の生徒たちの前で、28人の講師たちは壇上に並んで順番に自己紹介しました。私は「将棋棋士の田丸です。48年前にここで卒業式を迎えたみなさんの先輩です」と挨拶しました。

講師たちの職種は、医師・弁護士・公認会計士・銀行員・警察官・消防士・自衛隊員・新聞記者・書籍編集者・音楽家・声優・気象予報士・鉄道運転士・プロ野球選手・プロボクサー・テニスコーチ・ファッションデザイナー・美容師・調理師・ケーキソムリエ・介護福祉士・保育士・ガードマン・犬の訓練士など、多岐にわたっています。警察官と消防士らは制服姿で、調理師らは白い仕事着でした。なお荒川一中の卒業生は私だけです。

全体会の後、各講座は40分単位で3回行われました。生徒たちは10人ぐらいのグループに分かれ、3種類の講座を選んで受講しました。

写真・中は、将棋講座の会場となった2階の教室(田丸は右)。女子も何人かいました。

私は「小学6年のとき、ラジオで『王将』(歌・村田英雄)という歌謡曲を聴いて、将棋に興味を持ちました。そして中学2年のとき、棋士をめざして《奨励会》という将棋の専門学校に入りました。でも、これは特殊なケースです。みなさんは、進学していろいろな勉強や経験をしていくうちに、自分の将来を考えてください。将棋の修業では、負けたときや調子を落としたとき、どう頑張って持ち直すかがとても大事です。きっと受験勉強でも同じだと思います」という話から始めました。

生徒たちはメモを取って熱心に聴いていました。3年生の1人が進行役を務め、生徒たちが用意した質問を取り仕切りました。私の中学時代に比べて、全体に大人っぽい印象を受けました。私は将棋の歴史、対局の模様、研究の仕方、コンピューター将棋など、将棋の世界について説明しました。

この講座は将棋の指導はしませんが、盤と駒を持参しました。最後に「2人で戦った後、両方の駒が一緒に駒箱に入るのが将棋の文化です」という話を結びにしました。

3回の講座が終わると全体会が体育館で再び行われ、講師たちは生徒たちの拍手に送られて退場しました。その後、控室で「給食」が出ました。1ヵ所で料理をまとめて作って各学校に配達する「センター方式」もありますが、荒川一中は東京都から派遣された栄養士の献立による「手作り」の料理でした。

写真・下は、生徒たちの一番人気というキムチ炒飯(左)とワカメスープ、野菜の素揚げ、牛乳。とても美味しかったです。私の中学時代は給食がなく、昼食は弁当か購買部のパンでした。給食を食べたのは小学校以来で、51年ぶりのことでした。

私は小学5年から中学3年まで、東京・荒川区の南千住に住みました。少年時代は引っ込み思案だったので、いつも独りで遊んでいました。そんな性格のせいか、将棋は向いていたようです。覚えるとすぐに熱中し、近所の将棋クラブに通いました。そこでは賭け将棋がよく指されましたが、少年の私はただで教えてもらいました。やがて棋士になりたいと本気で思うようになりました。当時は北区の東十条に住んでいた佐瀬勇次先生(名誉九段)の家に押しかけ、弟子入りをお願いしたところ幸運にも許可されました。

私が翌年に奨励会に入れたとき、中学の担任の先生に「月2回の対局日が平日にあるので欠席させてください」と話すと、「とんでもない」と怒られました。当時の世間は将棋への理解があまりなく、「将棋指しは親の死に目にあえない」という迷信もありました。そんなとき、師匠の佐瀬は担任の先生に掛け合ってくれて何とか承諾を得ました。

私にとって、荒川にいた頃は人生の岐路となった時期でした。なお都電の荒川線で、始発の三ノ輪橋から1番目の停留所が私の母校の名前がついた「荒川一中前」です。

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2014年8月25日 (月)

カメラに熱中していた田丸が五段時代の約40年前に撮った棋士たちの写真

カメラに熱中していた田丸が約4<br />
 0年前に撮った棋士たちの写真

「田丸九段がかつて『カメラ棋士』だったことをブログで書いたのを記憶していますが、渡辺淳一さんのポートレートはてっきりプロが撮ったものだと思いました。フィルムは今のデジタル一眼と違って感度が低く、室内でのスナップは容易ではなかったわけですが、見事な『作品』になっていると思います」という内容のコメント(8月8日)は《オヤジ》さん。

写真を誉めていただき、ありがとうございました。私は五段の若手棋士だった約40年前、カメラに熱中していました。主な被写体は対局光景、将棋イベント、棋士の素顔でした。時には巨人軍監督の長嶋茂雄さん、女優の吉永小百合さん、歌手の吉田拓郎さんらが将棋を指す場に居合わせて、貴重な写真を撮る機会がありました。

写真の腕前は、将棋ならアマ初段ぐらいでしたが、自分なりに工夫して撮りまくっていました。作家・渡辺淳一さんの写真(8月7日のブログ)は、ストロボの光を天井に当てて室内の光を全体に和らげる「バウンス」という手法を用いました。将棋でいえば「垂れ歩」の手筋でしょうか。

私の写真については、2011年10月13日・20日・26日・11月9日のブログにも書いたので、参考までに見てください。

今回のブログは、私が約40年前に撮った棋士たちの写真を紹介します。

上の写真は、1975年(昭和50年)の名人戦(中原誠名人―大内延介八段)第1局。対局場は東京・広尾「羽沢ガーデン」で、将棋ファンを招いて対局観戦や大盤解説会が行われました。当時は現代と違って、タイトル戦の公開イベントはとても珍しいことでした。この年の名人戦は大激闘が繰り広げられ、中原名人(左)が4勝3敗1持将棋で辛うじて防衛しました。※棋士の肩書はいずれも当時。

カメラに熱中していた田丸が約4<br />
 0年前に撮った棋士たちの写真

東京・日本橋の東急百貨店で開催された将棋イベント。マイクを持って席上対局を解説するのは升田幸三九段。通常は大盤の脇に立って解説しますが、足の具合が良くないとのことで客席側の椅子に座りました。それにしても、升田九段の解説を間近で聴けた将棋ファンは貴重な経験だったでしょう。なお升田の右から2人目は森雞二七段。

カメラに熱中していた田丸が約4<br />
 0年前に撮った棋士たちの写真

将棋関係者が集まったゴルフコンペに、大山康晴十段(右)が参加しました。受けの達人らしく、ゴルフでも難所を切り抜ける「リカバリーショット」が得意でした。

カメラに熱中していた田丸が約4<br />
 0年前に撮った棋士たちの写真

関西に遊びに行ったとき、森安秀光五段(右)と淡路仁茂四段に神戸の街を案内してもらいました。スナックで飲んだ後、元タカラジェンヌが経営する小料理屋で「明石焼き」を食べたのが懐かしい思い出です。

カメラに熱中していた田丸が約4<br />
 0年前に撮った棋士たちの写真

千駄ヶ谷の将棋会館の向かいにある鳩森神社の「富士塚」に上った青野照市四段。名人への高みをめざす心意気だったのでしょう。

カメラに熱中していた田丸が約4<br />
 0年前に撮った棋士たちの写真

奨励会の桐谷広人三段。当時は成績が芳しくなく、いつも悩んでいる様子でした。今では多くの「株主優待銘柄」を利用して生活する様子がバラエティー番組で取り上げられ、タレントのような人気者になっています。

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2014年8月 7日 (木)

80歳で死去した作家で将棋を愛好した渡辺淳一さんのお別れの会

80歳で死去した作家で将棋を愛好した渡辺淳一さんのお別れの会

80歳で死去した作家で将棋を愛好した渡辺淳一さんのお別れの会

80歳で死去した作家で将棋を愛好した渡辺淳一さんのお別れの会

80歳で死去した作家で将棋を愛好した渡辺淳一さんのお別れの会

4月30日に前立腺ガンによって80歳で死去した作家の渡辺淳一さんの「お別れの会」が、7月28日に東京の帝国ホテルで執り行われました。

写真・上は、紅白の花で飾られた祭壇。数多くの著作を世に送り出した作家らしく、本を見開きにしたような形です。

会場には生前に親交があったメディア関係者,作家、芸能人、愛読者など、約900人が参列しました。渡辺さんは将棋を愛好しました。そんな縁で私も出席しました。

式典では作家の北方謙三さんと林真理子さんが弔辞を述べました。北方さんは「渡辺さんと初めて会ったときは《北方さん》と呼ばれ、やがて《北方くん》《お前》と変わっていきましたが、酒場で文学について激論したほど親しくさせてもらいました」と語りました。林さんは「渡辺さんには以前から何かと励まされました。出版界は厳しい状況にありますが、出版文化を盛り立てていくことをお誓いします」と語りました。

喪主で夫人の渡辺敏子さんは「主人は自宅で半年ほど療養していましたが、苦しみはなく安らかな日々でした。亡くなった日も、訪問医の診察を受けて普通に過ごしていましたが、その日の夜に静かに旅立っていきました」と挨拶しました。

写真・上から2番目は、渡辺さんの小説『失楽園』の映画に主演した女優の黒木瞳さん。「渡辺さんのほかの作品でホステス役を演じたときは、渡辺さんに勧められて銀座のクラブに1週間ほど勤めました。渡辺さんは毎日のように来てくれました」と語りました。

渡辺さんの作品のドラマに出演したり交流があったほかの芸能人は、津川雅彦さん、豊川悦司さん、石田純一さん、三田佳子さん、名取裕子さん、川島なお美さん、秋吉久美子さんらを会場で見かけました。

写真・上から3番目の右は田丸、左は俳優・映画プロデューサーを経て東映グループ社長を今年まで12年間にわたって務めた岡田裕介さん(現在は同会長)。岡田さんは学生時代から将棋を愛好し、私はそんな縁で以前から知り合いでした。

岡田さんは「渡辺さんとは将棋、囲碁、ゴルフでよく遊びました。昭和の最後の日(1989年1月6日)の夜には翌日の平成にかけて、渡辺さんとある出版社の企画で4時間も将棋を指し、見事に負かされました」と語りました。

写真・下は、40年ほど前に自宅で将棋を指す渡辺さん(当時42歳)。左手に水割りウィスキー、右手にタバコを持ち、いたって寛いだ姿です。しかし盤面を見つめる表情はとても真剣で、いつもひたむきに将棋を指していました。※写真は田丸が撮影。

渡辺さんは熱心な将棋愛好家でした。当時から自宅に将棋好きの知人たちを集めて、定期的に将棋会を開いていました。私は20代半ばの五段時代、その将棋会の参加者と知り合った縁でたまに訪れました。メンバーの平均棋力は初段ぐらい。お酒を飲みながら和やかな雰囲気で将棋を楽しんでいました。その将棋会は渡辺さんの仕事の都合で休止した時期もありましたが、2年ほど前まで続いたそうです。

渡辺さんの作品は、かつての本業(整形外科医)の経験を生かした『光と影』(直木賞を受賞)『小説・心臓移植』などの医療もの、『遠き落日』(野口英世がモデル)『花埋み』などの伝記もの、『失楽園』『愛の流刑地』などの恋愛ものに分かれます。晩年は中高年の生き方をテーマにした作品が多くなりました。1年ほど前には、認知症や不能のテーマで実際に福祉や介護の現場を取材したそうです。渡辺さんはまさに生涯現役を貫いた人生でした。

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2014年6月23日 (月)

岩手県久慈市の柔道の三船久蔵十段記念館で見た将棋の盤駒と免状

岩手県久慈市の柔道の三船久蔵十段記念館で見た将棋の盤駒と免状

私は6月上旬に指導将棋の仕事で岩手県久慈市を訪れたとき、近代柔道の礎を築いた三船久蔵十段の記念館を地元の方に案内してもらいました。

三船久蔵は久慈の出身でした。20歳のときに柔道家をめざして上京し、講道館に入門しました。そして厳しい修練の末に、相手の動きを利用して投げる「空気投げ(隅落とし)」という神技を編み出しました。まさに「柔よく剛を制す」柔道の真骨頂でした。62歳のときに十段に昇段し、「柔道の神様」として崇められました。

三船は「柔道は動の世界であるが、人間は動だけでは調和がとれない。静の境地に入って考える習慣をつけなければならない」と、文武両道の精神をかねがね説いていたそうです。そして平常心の鍛練と集中力の養成のために、将棋を愛好したのです。

写真は、三船の記念館に陳列された将棋の盤駒と免状など。特別に許可を得て撮影させてもらいました。

三船が愛用した将棋盤は、かなり使い込んだような痕が盤上に残っています。駒は自身で彫ったという象牙製です。手前に駒の表、奥に裏が置かれています。「香車」の駒は、なぜか「京車」となっています。「歩兵」の駒は、崩し字で「歩人」と読めます。

写真の左下は、昭和28年(1953年)4月11日の日付で将棋連盟から三船に贈られた三段の免状。「会長 渡辺東一」「名人 大山康晴」「十四世名人木村義雄」と、3人の棋士が署名しました。また、記念品として三船に盛り上げ駒が贈られ、大山が駒箱の裏に「贈 三船先生 神技」と揮毫しました。

三船の三段免状の文言は、「夙ニ将棋ニ 趣味ヲ有シ 研鑽年アリ 進境顕著ナルヲ認メ 茲ニ参段ヲ允許ス 」でした。現在の三段免状の文言は、「趣味ヲ有シ」以下が「丹念ニシテ 研鑽怠ラス 上達明ラカナルヲ認メ…」となっています。

現在の免状の文言は、将棋を愛好した作家の瀧井孝作が連盟に依頼されて撰文したものです。昭和33年から段位ごとに違う格調の高い文言となりました。三船の免状を見ると、昭和28年の頃には文言の下地がある程度できていたようです。なお「進境顕著ナルヲ」は、現在の二段免状の文言になっています。

61年前の昭和28年は、名人戦で挑戦者の大山八段が木村名人を破って新名人に就いた翌年でした。日本の伝統的な文化である将棋と柔道の世界で、このような交流があったことに驚きました。

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2014年6月18日 (水)

指導将棋で訪れた岩手県久慈市の『あまちゃん』の現場と3年前の大震災

指導将棋で訪れた岩手県久慈市の『あまちゃん』の現場と3年前の大震災

指導将棋で訪れた岩手県久慈市の『あまちゃん』の現場と3年前の大震災

指導将棋で訪れた岩手県久慈市の『あまちゃん』の現場と3年前の大震災

私は6月上旬、将棋連盟の「棋士派遣」の仕事で岩手県久慈市を訪れ、地元の将棋愛好者たちに指導将棋をしました。その合間に、観光地を案内してもらいました。

写真・上は、太平洋に臨む小袖海岸。

ここは、女優の能年玲奈が北限の海女・天野アキを演じて国民的な人気を博したNHKドラマ『あまちゃん』の撮影現場でした。

写真・中は、ドラマのタイトルバックとなった小袖海岸の灯台がある防波堤。

『あまちゃん』の人気は今も続いていて、多くの観光客が小袖海岸を訪れるそうです。土曜・日曜・祝日は午前9時から午後4時までマイカー規制が実施され、臨時路線バスかタクシーを利用して区域内に入れます。私たちは夕方だったのでじかに行けました。

岩手県の北東部にある久慈市は、3年前の3月11日午後2時45分頃に発生した東日本大震災の被災地でもありました。

写真・下は、地震発生から約45分後に10メートルもの高さに及んだ大津波が沿岸部を襲った光景。※『東日本大震災 久慈市の記録』(久慈市)より転載。

大津波は何回も襲いかかりました。12メートルの防潮堤を越えて漁港・工場・家屋などを呑み込み、悲惨な爪痕をあちこちに残しました。ただ住宅街が海岸から遠かったのと、久慈川と長内川にかかる久慈大橋が大津波の遡上を食い止めたので、人的な被害は死者4人・行方不明2人にとどまりました。

大震災から3年たった現在、久慈市はかなり復興しているように見えました。しかし瓦礫の集積地が随所にあり、流された家屋の跡地を造成する工事が続いています。復興は未だ途上という感じです。指導将棋を行った久慈支部の道場は、海岸に近かったので80センチほど浸水しましたが、平日で誰もいなかったのが幸いしたそうです。

久慈は山海の珍味が豊富で、新鮮な魚と蕎麦が美味しかったです。何種類もの根菜と胡桃と黒砂糖を包んだお団子が入っている「まめぶ」汁も絶品でした。開業は明治時代という地酒の「福来」も気分よく酔えました。

久慈市には、近代柔道の礎を築いた三船久蔵十段の記念館があります。そこで思わぬ発見をしました。その話は次回にて。

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2014年1月14日 (火)

1月6日に行われた恒例の「将棋堂祈願祭」と「指し初め式」

1月6日に行われた恒例の「将棋堂祈願祭」と「指し初め式」

1月6日に行われた恒例の「将棋堂祈願祭」と「指し初め式」

1月6日に行われた恒例の「将棋堂祈願祭」と「指し初め式」

1月6日に行われた恒例の「将棋堂祈願祭」と「指し初め式」

謹賀新年。本年もこのブログのご愛読をお願いします。新年から所用が重なり、半月遅れの挨拶となってしまいました。

将棋界は新年の儀式である恒例の「将棋堂祈願祭」と「指し初め式」で始まります。例年は1月5日ですが、今年は日曜日だったので1月6日に行われました。

写真・上は、東京・千駄ヶ谷の将棋会館の向かいにある鳩森神社の境内で執り行われた将棋祈願祭。

青色の式服を着た宮司の横には、左から将棋連盟会長の谷川浩司九段、森内俊之竜王・名人、渡辺明二冠、佐藤康光九段、矢内理絵子女流四段、青野照市九段などの棋士が並んでいます。

宮司が将棋堂に向かって祝詞をあげた後、前記の棋士たちが榊を奉じて、今年の将棋界の隆盛を祈願しました。

写真・上から2枚目は、将棋堂の正面。

将棋堂は1986年11月17日の「将棋の日」に建立されました。一世名人・大橋宗桂が著した『将棋百ヶ条』、大山康晴十五世名人の書による王将の置駒などが奉納されています。今年は、昨年のJT将棋日本シリーズ子ども大会で参加者が願い事を書いた木札「ドリームピース」が納められました。

将棋堂の裏側には駒形の絵馬が掛けられていて、「将棋が強くなりたい」「女流棋士になりたい」「家内安全」「志望校に合格できるように」など、それぞれの人たちの願いが込められた言葉が書かれています。

私は11年ぶりに列席しました。以前は主に連盟関係者で30人程度でした。今年は棋士、女流棋士、棋戦関係者、将棋愛好家など、鳩森神社の境内があふれるほど多くの人たちが参列しました。

写真・上から3枚目は、将棋会館の特別対局室で行われた指し初め式。最初に谷川九段(右)と森内竜王・名人が盤の前に座り、谷川が初手を指しました。

写真・下は、連盟の子供将棋スクールで習っている男児(左)と郷田真隆九段。指し初め式ならではの対局光景です。

指し初め式では、出席者たちが1手ずつ交代で指し継ぎます。私も振り飛車対居飛車の序盤の局面で、▲9六歩と端歩を突きました。

30年ほど前の指し初め式は、棋士と将棋ファンが一緒に楽しむ趣向で行われました。千駄ヶ谷駅前に大盤を平らに設置し、誰でも自由に指しました。将棋会館の玄関前では、棋士たちが駒を杵に持ち換えて餅をつき、来場者にふるまいました。升酒のサービスもありました。人気棋士を模した「福笑い」は笑いが絶えませんでした。そんな楽しい指し初め式がまた行われるといいですね。

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2013年12月30日 (月)

将棋連盟チームと作家・逢坂剛さんチームとの草野球の試合で10 年ぶりに参加

将棋連盟チームと作家・逢坂剛チームとの草野球の試合に10<br />
 年ぶりに参加

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 年ぶりに参加

将棋連盟チームと作家・逢坂剛チームとの草野球の試合に10<br />
 年ぶりに参加

将棋連盟チームと作家・逢坂剛チームとの草野球の試合に10<br />
 年ぶりに参加

11月上旬に東京・青山の野球場で、棋士や奨励会員などの将棋連盟チーム「キングス」と、作家・逢坂剛さんが率いる出版関係者のチーム「ミステリーズ」との草野球の試合が行われ、私は10年ぶりに参加しました。

写真・上は、試合前の両チームの記念写真。

右側の緑のユニフォームがキングス。主なメンバーは、前例の左から、田中寅彦九段、1人おいて上村亘四段、中例の右から、私こと田丸昇九段、沼春雄七段、真田圭一七段、後例の右から、戸辺誠六段、武市三郎六段など。

左側の黒と白のユニフォームがミステリーズ。中央のサングラスの人が逢坂さん。その後の白い服の人が江夏豊さん(元プロ野球投手)。

写真・上から2枚目は、左が逢坂さん。『カディスの赤い星』で直木賞を受賞し、ほかに『百舌の叫ぶ夜』『幻の翼』などの著作があります。

逢坂さんは将棋愛好家です。かつて文芸誌の企画で、夢枕獏さん、大沢在昌さん、船戸与一さん、黒川博行さん、志水辰夫さんらの将棋好きの作家仲間と、「棋翁戦」という将棋の対局で激闘を繰り広げたことがあります。また20年前には、米長邦雄名人(当時)に平手の手合いで挑む機会があり、大いに善戦しました。

逢坂さんは将棋のほかに、フラメンコギター、西部劇映画、相撲、野球、古書集めと、趣味の多い人です。今回の草野球の試合は、11月1日に70歳の古稀を迎えた記念として行われました。ユニフォームには「70th剛爺(ごうじい)」と、年齢とニックネームがプリントされています。

写真・上から3枚目は、先発投手を務めた逢坂さん。変化球を駆使した絶妙のコントロールで、キングスの強打者を見事に押さえました。

写真・下は、左が江夏さん、右が田丸。江夏さんは逢坂さんと親しく、応援に駆けつけるとともに、試合前に70歳のお祝いに花束を贈りました。

私は江夏さんと初めて会いました。今でも思い出されるのは、1979年の日本シリーズ(広島―近鉄)第7戦です。広島の押さえのエースの江夏さんは、1点リードの9回裏で無死満塁のピンチを乗り切り、広島の日本一に貢献しました。野球史に残るその名場面は、「江夏の21球」としてノンフィクション小説の題材にもなりました。私もテレビで見ていて、スクイズを見破った投球がとくに印象的でした。

私は20代・30代の頃、キングスの選手(後に監督)として年間に50試合もこなしました。その後、草野球はまったくしませんでしたが、10年前に1度だけプレイしました。今回はそれ以来でした。選手時代の定位置だった外野を守り、フライを取って何とか無難に務めました。打撃はショートフライとショートゴロでした。

なお、私の帽子(Mマークはロッテ・マリーンズ)は将棋愛好家で元プロ野球選手の石井浩郎さん(近鉄、巨人、ロッテなどで活躍した強打者で、現在は参院議員)にもらいました。ユニフォームはロッテ・コーチの西本聖さん(巨人の元エース)と会ったときにもらいました。

試合はキングスの真田投手と逢坂さんの好投で接戦が展開され、終盤でキングスが放った初ヒットの長打が勝ち越し点となり、キングスが勝ちました。

逢坂さんはダブルヘッダーの全イニングに出場しました。投手・外野手・内野手を守り、打撃は外野フェンス直撃の長打を打つなど、70歳という年齢を感じさせないほど攻守にわたって大活躍しました。

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2013年9月15日 (日)

第2回「将棋文化検定」試験、「将棋世界」の連載、対局の遅刻規定について

第2回「将棋文化検定」試験が10月13日(日)に、東京・大阪・名古屋・天童・福山の会場で午後2時30分から行われます。

前回の昨年と同様に4クラスに分かれますが、今年はAコース(1・2級対象)、Bコース(3・4級対象)、Cコース(5・6級対象)、Dコース(7・8・9級対象)と分類されます。Aコースを例に説明しますと、相当な高得点を挙げた場合は1級、ある基準点以上は2級と認定します。基準点以下は不合格となります。Bコース以下もそれに準じます。

各コースの問題は60問。将棋界の歴史・プロ棋界の記録・将棋用語・棋士のエピソード・将棋雑学など、幅広い内容の問題が出ます。前回は、「名人400年」という記念の年だったので、名人と名人戦、森内俊之名人に関する問題が多く出ました。今回は、米長邦雄永世棋聖、羽生善治三冠に関する問題が多く出ます。将棋連盟が7月に出版した「将棋文化検定・公認テキスト」の中の模擬試験問題も一定数が出ます。各コースの問題はすべて「三択」ですが、難易度が最も高いAコースは「記述式」の問題が10問あります。

私は、前回に続いて将棋文化検定の実行委員を務めていて、検定の企画立案と問題作成に携わりました。試験当日は東京の会場に出席し、立会人を務めたり、試験の後のトークショーに出演する予定です。

多くの人たちが今回の将棋文化検定を受検されることを期待しています。詳しい受検要項は、将棋連盟のホームページを見てください。なお締切日は今週の9月22日(日)と迫っています。

「『将棋世界』で青野照市九段が連載していた「棋界時評」を引き継がれるのですね。来月から田丸九段の文章を読めるのが楽しみです」というコメント(9月2日)は《オヤジ》さん。

『将棋世界』では、河口俊彦七段の「対局日誌」、先崎学八段の「千駄ヶ谷市場」などの連載記事が、盤上の戦いと棋士の心理を活写して読者に大好評でした。私ははそれらの企画を引き継いだ形で、「盤上盤外 一手有情」という表題の記事を11月号(10月3日発売)から連載します。

編集部からその連載を依頼されたとき、正直なところ迷いました。現代の最先端の将棋や若手棋士のことをよく知らないからです。しかし、40年以上にわたる棋士生活で得た経験や知識を生かした内容でいいです、という編集部の考えを聞いて引き受けました。

第1回の11月号では、B級1組順位戦とC級2組順位戦の対局を取り上げ、「鬼の棲み処」や「降級点」に関する考えを述べます。どうかご愛読のほどをお願いします。

「朝日杯オープンの対局(持ち時間は40分)で阿久津主税七段が13分遅刻して、持ち時間から遅刻時間だけ引かれたことが以前にありました。通常の規定どおりに3倍を引かれたら、持ち時間は1分でした。朝日杯のような持ち時間の短い対局の遅刻規定を教えてください」というコメント(9月8日)は《popoo》さん。

順位戦(持ち時間は6時間)、竜王戦(同5時間)、王位戦(同4時間)、王将戦・予選(同3時間)などの対局で遅刻した場合、通常の規定どおり遅刻時間の3倍引きが持ち時間になります。棋聖戦・予選(同60分)、マイナビ女子オープン・予選(同30分)、NHK杯戦・予選(同20分)など、持ち時間が1時間未満の対局では遅刻時間を1倍引きします。なお10分30秒で遅刻の場合、秒を切り上げて11分の遅刻とします。

前回のブログで書いたように、テレビ放送される対局で遅刻した場合、持ち時間を引かれるだけでなく、制裁金などを課せられることがあります。

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2013年8月13日 (火)

43年ぶりに観光した北海道の知床半島と摩周湖の絶景

43年ぶりに観光した北海道の知床半島と摩周湖の絶景

43年ぶりに観光した北海道の知床半島と摩周湖の絶景

43年ぶりに観光した北海道の知床半島と摩周湖の絶景

43年ぶりに観光した北海道の知床半島と摩周湖の絶景

私は7月下旬に北海道・層雲峡で行われた王位戦(羽生善治王位―行方尚史八段)第3局の立合人を務めたとき、帰途は一行と別行動で道内を観光しました。

私が青年だった1970年代の頃、「ディスカバー・ジャパン」という旅行ブームや加藤登紀子のヒット曲『知床旅情』の影響を受けて、多くの若者たちが大自然が魅力の北海道に旅行したものです。横長のリュックサックを背負った「カニ族」という格好が定番でした。私もその1人で、夏には毎年のように北海道を旅行しました。

東京から北海道に渡るには、昔は航空機の便(羽田〜札幌)が少なかったので、上野〜青森(東北本線)・青森〜函館(青函連絡船)・函館〜札幌(函館本線)と、鉄道と船で行ったものです。ほぼ1日がかりの旅程でしたが、それなりに旅情を楽しめました。お金はなかったけど、時間はたっぷりあった青春時代でした。道内での移動は鉄道とバスを乗り継ぎ、時にはヒッチハイク(主にダンプカー)もしました。宿泊は安価なユースホステルを利用しました。そんな行動パターンの若者たちが多くいたので、途中まで連れ立ったりして、独りでも楽しく過ごせました。

今回はバスと鉄道を乗り継いで、層雲峡〜北見〜網走〜斜里というルートで移動し、オホーツク海に面する斜里のホテルに連泊しました。43年ぶりに観光する知床半島(世界遺産)と摩周湖への交通の便が良かったからです。

写真・上は、断崖絶壁がずっと続く知床半島の西側の光景。遊覧船に乗って撮りました。左側の滝は「カムイワッカの滝」。上流の滝には硫黄山から温水が流れています。

写真・2枚目は、知床半島の中ほどにある「知床五湖」。知床半島にはヒグマが生息していて、観光客が行けるのはここまでです。5つの湖を遊歩道に添って歩いて巡るコースは約1時間半。ヒグマと遭遇する危険もあるそうで、歩きながら鈴を鳴らしたり声を出して、人の存在を知らせることが大事だと関係者に指導されました。

写真・3枚目は、布施明のヒット曲『霧の摩周湖』で知られる摩周湖。その日もバスで向かっているときは霧が出ていましたが、展望台に着くと霧がさっと消え、幻想的な光景が眼前に広がりました。ロシアのバイカル湖に匹敵する透明度があるそうです。

私が43年前に書いた旅行日記には、船に乗って知床半島で釣りをしたり、知床五湖を歩いたり、摩周湖を見たことが記されています。今回もそうした絶景を見て感動しました。ただ当時と違うのは、観光施設が整えられた一方で、大自然の野趣をあまり感じられなかったことです。それと、旅行者の大半が私と同じ世代の中高年でした。昔は若者たちが多く、観光地や宿泊先やバスで隣り合わせた若い女性と知り合ったこともあったなあと、ふと懐古してしまいました。

写真・下は、白い花が咲き乱れるジャガイモとソバの畑。こんな田園風景のほうが北海道らしさを感じました。

北海道旅行中はとても涼しくて過ごしやすく、最高気温は15度から20度でした。次回は、41年前に観光した道北の稚内から礼文島に行ってみたいと思っています。

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2013年7月28日 (日)

森内俊之名人の就位式に成田市のゆるキャラ「うなりくん」が登場

森内俊之名人の就位式に成田市のゆるキャラ「うなりくん」が登場

森内俊之名人の就位式に成田市のゆるキャラ「うなりくん」が登場

森内俊之名人の就位式が7月26日、東京・目白「椿山荘」で行われました。

主催者、関係者が挨拶した後、祝辞を述べた成田市の小泉一成市長と一緒に登場したのが、成田市の観光PRキャラクターの「うなりくん」でした。

写真・上がその光景。型通りの挨拶が続いたので、約500人の出席者からは思わず笑みがこぼれました。

2004年の名人戦(羽生善治名人―森内竜王)第1局が千葉県成田市の「成田山新勝寺」で行われ、森内が先勝した勢いで名人を奪取したのが機縁となり、森内名人と成田市の交流はその後も続いているそうです。今年の名人戦では、森内に成田山のお守りが贈られました。

写真・下は、協賛社から記念品として贈られた森内が希望した「天体望遠鏡」。

名人在位が歴代3位となる通算8期(木村義雄十四世名人と同じ)となった森内名人は、さらなる高みをめざして宇宙を眺めたい心境なのでしょうか。

ちなみに2年前の記念品は暖炉型ストーブ、昨年はビンテージワインでした。

最近は「見る将棋ファン」が増えています。就位式の会場にも、着飾った若い女性の姿が目立っていました。以前は中年の男性ばかりでしたので、隔世の感があります。

秋から始まる王座戦で羽生の挑戦者となった中村太地六段の周囲には、女性たちが鈴なりになっていました。彼のようなイケメン(岡田准一に似ていますね)が活躍すると、将棋の人気が高まると期待しています。

王位戦第3局(羽生王位―行方尚史八段)が7月29日・30日、北海道の上川市・層雲峡で行われます。私はその対局で立合人を務めます。副立合人は北海道・稚内の出身で私の弟弟子の中座真七段です。

タイトル戦に初めて登場した行方八段は、内容的によく健闘しているのですが2連敗しています。とにかく初勝利がほしいところで、そうなれば勝負の流れも変わることでしょう。

では、これから北海道に行ってきます。王位戦の後は、40年ぶりに知床半島や摩周湖を観光する予定です。涼しい気候と北国の珍味を今から楽しみにしています。

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2013年6月 9日 (日)

サプライズの九段昇段の贈り物、九段免状の文言、九段昇段後の初対局

サプライズの九段昇段の贈り物
サプライズの九段昇段の贈り物

私が半年ごとに開いている知り合いの将棋愛好家たちとの懇親会が6月初めにあり、今年4月に九段に昇段した私に対してお祝いの言葉が相次ぎました。お酒好きの私にシャンパン、ワイン、酒器などの贈り物もありました。

写真・上は、中でもサプライズだった贈り物でした。

上側は、九段昇段にかけた「九谷焼」の陶器。少し見にくいですが、目が飛び出た鯛が染め付けられていて、「目で鯛(めでたい)」という意味だそうです。

下側は、私の似顔絵が描かれている駒形の「デコレーション・ケーキ」。キャンドルの数は段位と同じ「9本」でした。それにしても、ケーキ職人が私の写真を見て作り上げた似顔絵は、私の特徴をよく捉えています。その精巧さにはとても感心しました。生クリームやフルーツの部分は、みんなで分け合って賞味しました。似顔絵の部分は私が記念品として自宅に持ち帰り、今でも冷蔵庫で保存しています。

先日の懇親会では、九段昇段の喜びを改めて実感しました。

写真・下は、私の九段免状です。文言を説明します。

「夙ニ将棋ニ  天賦ノ資有  蘊奥ヲ極メ  明哲ノ師宗  ナルニ依而  茲ニ九段ニ推ス」

その意味は「早くから将棋に才能の素質があり、将棋の奥義を極め、聡明な師として尊ぶによって、九段に推薦する」です。読み方は「つとに将棋に  てんぷのしあり  うんおうをきわめ  めいてつのしそう  なるによって  ここに九段におす」です。

将棋の免状の文言は、将棋を愛好した作家の滝井孝作さん(故人)が約55年前に将棋連盟から作成を依頼され、熟慮と推敲を重ねた末に格調の高い文章を撰文しました。初段から九段まで、文言はそれぞれ違います。ちなみに初段は「夙ニ将棋ニ  丹念ニシテ  研鑽怠ラス 進歩顕著ナルヲ認メ  茲ニ初段ヲ允許ス」です。なお初段から七段までの最後の文言は「允許ス」(許可する)ですが、八段と九段は「推ス」(推薦する)です。

私は九段免状の文言のように、将棋の奥義を極めた実力は持っていませんが、今後は聡明な棋士として尊敬されるような生き方をしていきたいと思っています。

私は6月5日、竜王戦6組昇級者決定戦で植山悦行七段と対局しました。4月に九段に昇段して以来、初めての対局でした。

植山七段は今年4月にフリークラス棋士規定によって引退が内定していて、ただひとつ残っている竜王戦で敗れると引退が確定します。つまり私が本局に勝つと、佐瀬(故・勇次名誉九段)一門の弟弟子でもある植山に「引導を渡す」ことになるのです。

故・米長邦雄永世棋聖は現役時代、相手の大事な一戦こそ全力で戦えという、自ら唱えた「米長哲学」を実践してきました。私も兄弟子の米長の言葉どおり、順位戦で昇級候補の棋士を破ったことがあり、順位戦で降級候補の私が逆に負かされたこともありました。とにかく米長の哲学は後輩の棋士たちに浸透し、勝負に情実はまったくありません。

私は植山七段との対局で、米長哲学を実践する思いがある半面、自然体で指したいとも思いました。将棋の戦型は、私が得意としている矢倉模様の急戦型となりました。本来ならば、自分の棋風どおりに攻め込んでいくはずなのに、中盤のある局面でなぜか受けに回ってしまいました。さらに見落としもあって、完敗の結果となりました。

じつは、昨年の弟子の櫛田陽一六段との竜王戦、3年前の飯野健二七段との竜王戦の対局も、今年の植山戦と同じケースでした。櫛田戦は私が負け、飯野戦は私が勝ちました。

3年後に引退が決まっている私も、やはり竜王戦が最後の対局になることでしょう。その対局では「悔いのない現役棋士生活だった」という平静な気持ちで臨めるように、これからの3年間を大事にしたいと思っています。

【追記・6月20日】
私のパソコンに不具合が生じているので、ブログの更新をしばらく休止します。

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2013年5月31日 (金)

テレビのバラエティー番組で棋士がレギュラー出演したり将棋がテーマに

テレビのバラエティー番組で棋士がレギュラー出演したり将棋がテーマに

テレビのバラエティー番組で棋士がレギュラー出演したり将棋がテーマに

テレビのバラエティー番組で棋士がレギュラー出演したり将棋がテーマに
テレビのバラエティー番組で棋士がレギュラー出演したり将棋がテーマに

最近、テレビの情報番組に谷川浩司九段、渡辺明竜王、佐藤康光九段、里見香奈女流五冠などの棋士の出演が相次いでいます。将棋連盟会長・タイトル保持者・A級棋士・トップ女流棋士が、将棋界の展望・勝負の世界・棋士の生き方を語るのは、将棋のイメージ向上や普及にもなって、とてもいいことだと思います。じつは、あるバラエティー番組では棋士がレギュラー出演していました。

写真(上)は、タレントのマツコ・デラックスと矢部浩之(ともに手前の右側)が司会を務める『アウト×デラックス』(フジテレビ系列)の番組。5月22日の放送では、何と加藤一二三・九段が登場しました。後ろのゲスト出演者は、俳優の淡路恵子、坂上忍、高橋ひとみ、大鶴義丹など。

加藤九段は4月にその番組にゲスト出演したとき、独特のキャラクターが大受けし、それがきっかけでレギュラー出演者になりました。「ひふみん」という愛称で呼ばれています。

番組では「クイズを出したがる天才棋士」という企画が立てられ、加藤が「ひふみん連想クイズ」を出題しました。将棋関連の問題ではなく、ローマ帝国の英雄や日本人俳優が題材でした。加藤が今まで会った人の中で「最もカッコいい」という問題は、イギリスの人気サッカー選手「ベッカム」が正解でした。するとマツコ・デラックスが「ひふみんも可愛いわよ」と応じ、加藤は写真(上から2番目)のような笑顔になりました。

タレントは、それぞれの芸や個性を作って演じています。加藤は素のままですが、話し方や仕草の「ボケキャラ」が面白くて受けているようです。

写真(上から3番目)は、タレントの雨上がり決死隊(宮迫博之・蛍原徹)が司会を務める『アメトーーク』(テレビ朝日系列)の番組。5月2日の放送では将棋がテーマになり、「将棋たのしい芸人」という企画が立てられました。NHKの『将棋フォーカス』に出演している将棋愛好家のタレント・つるの剛士(写真・左)をはじめ、サブングル加藤、シャンプーハットてつじ、などの将棋好きのタレントたちが出演しました。

将棋を知らない視聴者のために駒の動かし方を丁寧に解説したり、タレント同士が将棋を指したり、棋士の裏話(加藤九段の長いネクタイ・佐藤紳哉六段のカツラ・山崎隆之七段のある女流棋士への想い)を紹介したりして、まるで将棋番組のような内容でした。

そういえば、私はテレビで見たことはありませんが、桐谷広人七段も『笑っていいとも』などのバラエティー番組に出演しました。株主優待券を利用した生活や結婚願望を語ったり、自転車に乗って爆走したりして、独特のキャラクターが大受けしたそうです。

棋士は対局で実績を挙げるのが本分です。しかし将棋に8種類の駒があるように、将棋の普及、将棋連盟の運営、解説や執筆、コンピューター将棋の開発、そしてバラエティー番組への出演など、棋士には様々な生き方や持ち味があっていいと思います。

じつは私も昨年7月、マツコ・デラックスと村上信五(関ジャニ∞)が司会を務める『月曜から夜ふかし』(日本テレビ系列)の番組に登場しました。「将棋のタイトル戦で対局者が食べる食事がどれも絶品な件」という企画が立てられ、ある対局場の食事が紹介されました。将棋の歴史や羽生善治三冠のエピソードを伝えるコーナーでは、写真(下)のように、私が将棋会館で取材に応じてビデオ出演しました。番組担当者は私のブログを見て、棋士生活40年の田丸なら将棋界の裏話をいろいろと知っているだろうと思い、それで取材協力を要請したそうです。

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2013年5月24日 (金)

森本レオさんと森田正光さんが東京の「将棋サロン荻窪」で久しぶりの実戦

森本レオさんと森田正光さんが東京の「将棋サロン荻窪」で久しぶりの実戦

森本レオさんと森田正光さんが東京の「将棋サロン荻窪」で久しぶりの実戦

森本レオさんと森田正光さんが東京の「将棋サロン荻窪」で久しぶりの実戦

私は将棋愛好家である俳優の森本レオさん、お天気キャスターの森田正光さんを誘って、4月に東京の「将棋サロン荻窪」に顔を出しました。

写真・上は、森田さん(中)の将棋を観戦する森本さん(左)。森田さんの対戦相手の女性は、二段の棋力があるAさん(右)。

写真・中は、芸能界きっての強豪である森本さん。四段の人と対戦して勝利を収め、満足そうに微笑みました。ドラマの役柄そのままに、ほのぼのとした雰囲気があります。

Aさんの四間飛車に対して、森田さんが居飛車穴熊に組んだ将棋は、見応えのある大熱戦となりました。終盤でAさんが即詰みで勝つ順が2回ありましたが、惜しくも逃して森田さんが勝利を収めました。

将棋の盤上と天気図はともに縦横に線が通って似た形をしていますが、森田さんは天気予報のような具合に将棋の手をなかなか読めないようです。

写真・下は、左から森本さん、森田さん、Aさん。勝っても負けても、全力で戦ったときは爽快な気分になるものです。3人の笑顔がそれを物語っています。

森本さんと森田さんは、ともにアマ四段の棋力があります。ただ最近は将棋を指す機会が少ないそうで、久しぶりの実戦に楽しそうでした。

30年ほど前の将棋雑誌を見ると、将棋クラブの広告が数多く載っています。しかし入場者の減少、ネット将棋の広まり、売り上げに見合わない高い賃料などの事情によって、将棋クラブの経営が難しくなっているのが実情です。以前に比べると、将棋クラブはかなり減っています。

そんな状況において、15年以上にわたって頑張っているのが東京の中央線・荻窪駅北口の近くにある「将棋サロン荻窪」です。

じつは2年前まで2駅となりの吉祥寺で営業していましたが、経営難によって閉店しました。その後、経営者の新井敏男さんは再開を望む多くの人たちの声に応えて、荻窪に新規開店したのです。ゆったりとした30坪の広さと明るい照明はとても居心地が良く、吉祥寺時代の常連客に加えて子どもや女性を含む新しい人たちで賑わっています。

この将棋サロンで長年にわたって教えている師範の谷川治恵女流五段の指導対局(毎月2回)は、とても丁寧で好評です。また、豊川孝弘七段もたまに指導しています。

新井さんは棋士をめざす奨励会員に対して理解があり、将棋サロンを研究の場に提供しています。奨励会員、女流棋士、研修会員らが毎日のように来て、将棋を指したり研究に励んでいます。私の弟子の井出隼平三段(21歳)、近藤祐大4級(15歳)もここで育ちました。また、若手棋士もよく顔を出します。

最近は、ネット上で将棋を指したり、将棋ソフトと指す人が増えています。確かに、場所や時間を気にしないで指せる利点があります。しかし、人間同士が頭を突き合わせて指す「生将棋」も楽しいものです。将棋クラブはそんな人たちが集う触れ合いの場であり、棋力も向上します。ぜひお近くの将棋クラブに行って指してください。それが将棋クラブの存続につながるのです。ご協力をお願いします。

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2013年1月22日 (火)

新刊本『熱血の棋士 山田道美伝』へのコメントと38年前の劇画『山田道美伝』

新刊本『熱血の棋士山田道美伝』へのコメントと劇画『山田道美伝』

私の新刊本『熱血の棋士 山田道美伝』について、《将丸》さんからは「サイン本を購入する方法はありますか」、《名無し》さんからは「サイン会を開催するのであれば、このブログで告知してください」という内容のコメントがありました。

今のところ、私のサイン会の予定はありません。私のサイン本は、東京の将棋会館の売店で1月23日以降に販売されます。また、兵庫県加古川市の紀伊国屋書店で開かれる「将棋書籍サイン会フェア」(2月1日~17日)でも販売される予定です。地理的にどちらの売店でも購入が難しい方は、手紙か葉書に住所・電話番号を明記して田丸まで郵送してください(〒151-8516 東京都渋谷区千駄ヶ谷2-39-9 日本将棋連盟気付)。そのうえで段取りを確認し合ってから、サイン本を定価(1575円)で送ります。

「これからも『熱血の棋士 山田道美伝』のような評伝を書いてください」という内容のコメントは《フライドポテト》さん。

私は山田道美九段の棋士人生と将棋について、自著『将棋界の事件簿』や『将棋世界』誌の付録(ともに2005年に刊行)で書いたことがあります。しかし、いずれも山田九段の足跡を少しばかり辿ったにすぎませんでした。私が初めて書いたこの評伝では、様々な資料を集めたり、関係者に会って取材しました。とくに『山田道美将棋著作集』全八巻(1981年に大修館書店が刊行)を、参考文献として大いに活用させてもらいました。1人の大棋士の生涯をまとめる執筆作業は大変でしたが、山田九段の盤上盤外での苦労が自分への励ましになりました。とにかく山田九段の評伝を書いたことは、とても貴重な経験でした。今後も、このような出版の機会があれば、また書いてみたいと思っています。

じつは38年前の1975年から2年間にわたって、山田九段の生涯を描いた劇画『山田道美伝』が『近代将棋』誌で連載されました。当時の私(20代の若手棋士五段)は同誌で編集の手伝いをしていて、私が立案した劇画の連載企画が編集会議で通ったのです。連載中は制作事務や資料提供を担当しました。

写真は、後編・第1回の冒頭誌面。毎号、巻末8ページに掲載されました。構成者の西沢治さんはテレビドラマの脚本家で、将棋界のことをよく知っていました。作画者の金野新一さんは画家で、墨で描いた絵は普通の漫画とは違う風雅な趣がありました。

「山田九段が《山田教室》を作って奨励会員と研鑽を積む第4章は、筆者ならではの記憶力、記録を元にした詳細な内容で、若き棋士たちの熱い青春が描かれています。私事ですが『現代将棋の急所』(山田九段の著作)や対振り飛車急戦の《山田定跡》を、分からないながらも一生懸命勉強したことが懐かしく思い出されます」というコメントは《秋葉均》さん。

私と世代が近い人たちは『熱血の棋士 山田道美伝』の感想として、以前に《山田定跡》を実戦で用いて成功したり苦しめられた話をよくされます。それにしても、40年以上も前に流行した戦法が今でも将棋ファンの記憶に残っているのはすごいことです。ちなみに《秋葉均》さんは私の中学時代の同級生です。

「『熱血の棋士 山田道美伝』を読破しました。田丸八段の山田九段への哀惜の思いがあちこちから伝わってくる素晴らしい本ですね。山田九段の詳細な伝記が後世に残るのはたいへん意義が大きいことと思います」というコメントは《オヤジ》さん。

高い評価をいただき、ありがとうございました。私は《山田教室》の元メンバーとして、山田九段の人生と将棋を現代の人たちにも知ってもらいたい一心で評伝を書きました。

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2013年1月 8日 (火)

山田道美九段の評伝『熱血の棋士 山田道美伝』を刊行しました

山田道美九段の評伝『熱血の棋士山田道美伝』を刊行しました

謹賀新年。本年もこのブログのご愛読をよろしくお願いします。

昨年の10月以降、ブログの更新がすっかり滞ってしまいました。10月29日のブログの「追記」で伝えたように、私は夏の頃から書籍の執筆にずっと取り組んでいたので、ブログを書くことを休んでいました。その書籍が12月下旬に刊行されました。

写真は、私が著した『熱血の棋士 山田道美伝』の表紙。※日本将棋連盟刊。1575円。

皆さんは山田道美九段という棋士を知っていますか。大山康晴十五世名人がタイトルを独占して無敵を誇っていた1960年代に、名人戦や王将戦などのタイトル戦で大山に敢然と立ち向かい、壮烈な闘志と力あふれる戦いぶりで奮闘しました。また四間飛車に対して、▲5七銀左の形から▲3五歩△同歩▲4六銀と仕掛ける「山田定跡」を創案しました。

山田九段は理論家として知られ、序盤の研究に打ち込みました。そして大山打倒をめざして、親しい棋士たちと実戦主体の「研究会」を定期的に行いました。さらに奨励会員を集めて「山田教室」を開き、教えるというよりも一緒に勉強し合ったのです。その教室の一員が、奨励会の有段者だった私でした。

昔の将棋界では、序盤作戦の研究よりも中終盤の力が重要という風潮がありました。だから山田将棋は「形にとらわれた非力な将棋」と評価されませんでした。そんな時代に、対局で敵になりかねない棋士同士が共同で研究するのは珍しいことでした。ましてやA級棋士が奨励会員と一緒に研鑽するというのは前代未聞でした。

現代の棋士たちは、山田九段がかつて行った研究方法を取り入れています。まさに現代棋界の研究システムの先駆者といえます。

山田九段は3度目の挑戦の棋聖戦で大山を破り、念願の大山打倒とタイトル初獲得を果たしました。それから3年後の1970年(昭和45年)6月18日。「血小板減少性紫斑病」という奇病によって、36歳の若さでA級棋士のまま亡くなりました。ずっと生きていたら、その後も将棋界に大きな足跡を残したと思います。

私は「山田教室」の一員として、今までも何かにつけて山田九段のことを紹介してきました。そして山田九段の評伝を書く機会を得ると、山田の人生を改めて調べたり、関係者に会って取材しました。

本書では、人生に思い悩んだ青年時代、大山打倒に明け暮れた将棋一筋の生活、現代の棋士が見た山田将棋など、山田九段の棋士人生を書き著しました。ひたむきに生きた山田九段の生涯は、時代を超えてとても感動的です。ぜひ読んでいただきたいものです。

なお、青年時代に山田九段から影響を受け、タイトル戦で山田と対戦した中原誠十六世名人が本書の推薦者になってくれました。

では、ご愛読をよろしくお願いします。

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2012年12月14日 (金)

10月21日の「将棋文化検定」を受検した森内名人、深浦九段らの感想と結果

10月21日の「将棋文化検定」を受検した森内名人、深浦九段らの感想

10月21日の「将棋文化検定」を受検した森内名人、深浦九段らの感想

10月21日の「将棋文化検定」は東京・名古屋・高崎・大阪の計6会場で開催されました。検定試験の後は、受検した棋士によるトークショーが各会場で行われました。

写真・上は、東京の会場(調布市の明治大学付属高校・中学)のトークショーの光景。右から、山田久美女流三段、森内俊之名人、深浦康市九段。いずれも4級を受検しました。

写真・下は、トークショーの会場。約400人の受検者が参加しました。

森内名人、深浦九段、山田女流三段が検定試験の感想を語ったトークショーの模様をお伝えします。なお、一部の問題以外はすべて三択問題です。

「年号の問題が難しかったです。半分は山勘で解きました」(森内)
「『将棋世界』の付録(9月号の将棋文化検定の模擬問題集)を読んで勉強しましたが、かなり難しかったです」(深浦)
「『将棋年鑑』『将棋世界』の付録、『将棋手帳』の記録欄を読んで勉強しましたが、予想した問題が少なかったです」(山田)
「将棋の原型(チャトランガ)というゲームの駒の種類の問題は、6種類と答えました」(森内)
「私も6種類と答えました。将棋の駒は8種類で、それから桂香を引けば6種類と考えたんです」(山田)
※正解は、歩・車・馬・象・王の5種類。

「江戸城での御城将棋の部屋の問題は、《松の間》と答えました。忠臣蔵のドラマの中で《刃傷  松の廊下》という場面があるので、それを連想したんです」(深浦)
「でも、それは部屋ではなくて廊下でしょ。私は《黒書院》と答えました。《白書院》かどうか迷ったけど、将棋の対局なら黒かと」(山田)
※正解は、黒書院。江戸時代に家元の棋士たちは、毎年11月17日に将軍の御前で将棋を披露するのが恒例の行事でした。

「明治41年に棋戦を最初に主催した新聞社の問題は、《時事新報》と答えました」(森内)
「私もそう答えました」(深浦)
「ほかのヒントが《萬朝報》と《都新聞》。私は《萬朝報》と答えましたが、何と読むんですかね」(山田)
※正解は、萬朝報。山田の疑問について、会場から「よろずちょうほう」という声がありました。「よろず重宝します」という言葉から付けられた社名だそうです。

「将棋会館が近い千駄ヶ谷駅の構内にある《王将》の石碑の場所の問題(9級)は、私たち東京の人はわかりますが、ほかの地域の人はわかりますかね」(山田)
「大阪の人は怒っているかもしれませんね(笑)」(深浦)
※正解は、《水飲み場》。ほかのヒントは《自動販売機の横》《改札口の辺り》。

「私は健康診断の結果を待つような心境です。5割以上は正解だと思います」(山田)
「試験を受けるのは10年前の運転免許以来です。何でも試験で落ちるのはうれしくないですね」(森内)
「私は成績が非公表というので受検しました。予想点数は60点。試験を受けるのは28年前の奨励会入会試験以来です」(深浦)
「来年も受検しますよね。森内さんは名人なので、2級ぐらい受けないと」(山田)
「記述式の問題が出る2級で、漢字を書けずにひらがなだと恥ずかしい(笑)。まあ来年も名人だったら受けますよ」(森内)

棋士たちの本音が出たトークショーでした。なお、3人とも4級を合格(基準点は100点満点で70点以上)しました。

来週発売の『週刊将棋』(12月19日号)では、私が不定期連載している「丸の眼」で将棋文化検定の経緯や詳しい受検結果を書きました。

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2012年11月30日 (金)

森内俊之名人、深浦康市九段らの棋士も受検した10月21日の「将棋文化検定」

森内名人、深浦康市九段らの棋士も受検した10<br />
 月21日の「将棋文化検定」

森内名人、深浦康市九段らの棋士も受検した10<br />
 月21日の「将棋文化検定」
森内名人、深浦康市九段らの棋士も受検した10<br />
 月21日の「将棋文化検定」

将棋連盟が「名人400年」を記念して初めて実施した「将棋文化検定」試験が、10月21日に東京・名古屋・大阪・高崎の計6会場で行われました。

日本の伝統文化である将棋に関する歴史、知識、雑学などを出題する試験で、棋力はまったく問いません。また、一般の受検者と一緒に多くの棋士が受検しました。棋士もアマも同じ立場で参加するところに特徴があります。9級から1級までのランクのうち、今回は9級・6級・4級・2級が対象でした。

写真・上は、東京の会場の試験前の光景。前列には右から森内俊之名人、深浦康市九段、その後列には右から中村太地六段、山田久美女流三段らの棋士が、神妙な表情で係員の説明を聞いています。この4人の棋士は、いずれも4級を受検しました。

なお、大阪の会場では豊島将之七段、糸谷哲郎六段、室谷由紀女流初段、名古屋の会場では鈴木大介八段、杉本昌隆七段、早水千紗女流二段、高崎の会場では藤井猛九段、三浦弘行八段、長沢千和子女流四段など、計25人の棋士が受検しました。

写真・中は、東京の会場の受付場所の光景。NHKの将棋番組のスタッフが受検者たちを取材していました。男性たちに交じって女性や子どもの姿を多く見かけました。

写真・下は、東京の会場となった調布市の明治大学付属高校・中学校。学内は緑がとても豊かで、校舎内の試験場もゆったりとしていました。ただ山手線の外側の郊外のうえに最寄り駅から遠く、交通の便が少し悪かったようです。

私は将棋文化検定の実行委員の1人として、今回の問題作成を担当しました。受検者たちが問題の内容や難易度にどんな感想を持ったのか、ぜひ知りたかったので東京の会場を訪れました。試験後に何人かの受検者に聞いてみたところ、「難しかった」という声が多く、「面白かった」という声もありました。

今回は「名人400年」を記念して、将棋界や名人の歴史に関する問題を多く出しました。日頃から将棋の歴史に関心を持っていないと、難しかったかもしれません。その一方で問題を通じて将棋の歴史を初めて知り、興味を抱いた方もいました。8月に発売された『将棋世界』付録の「将棋文化検定模擬試験」で勉強した方もいたようですが、同じ問題が少なかったとぼやいていました。

試験は1時間で終わり、参加した棋士によるトークショーが各会場で行われました。棋士がどんな感想を持ったのか、次回にお伝えします。

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2012年5月28日 (月)

荒川一中・3年9組の先生を交えた伊豆への最初で最後の同級会旅行

荒川一中・3年9組の先生を交えた最初で最後の同級生旅行

東京で唯一の路面電車として現存している都電荒川線(三ノ輪橋〜早稲田)で、三ノ輪橋の次に「荒川一中前」という電停があります。私は、その電停名となっている東京都荒川区立荒川第一中学校を卒業しました。46年前の1966年(昭和41年)のことです。

当時はプロ野球・東京オリオンズ(千葉ロッテの前身チーム)の本拠地だった「東京スタジアム」が近くにあり、私は怪童と言われた投手・尾崎行雄(東映)の豪速球を球場で見たことがあります。また、二重事故で電車と線路上の乗客が衝突して死者160人の大惨事となった1962年の「三河島事故」の高架線路、4歳の幼児が営利誘拐から殺害された1963年の「吉展ちゃん事件」の犯行現場も、すぐ近くにありました。

小学5年から中学卒業まで住んだ荒川は、私にとって思い出が深い場所でした。小学6年で将棋を覚え、中学1年で近くの将棋クラブに通い始め、中学2年で棋士をめざして奨励会に入会と、わずか2〜3年の間に人生の転機を迎えたからです。

三ノ輪橋の電停の近くにあった将棋クラブは、大人たちが賭け将棋を指していてすさんだ雰囲気でした。しかし将棋を指したい一心の私は、50円(席料)玉を握りしめて通ったものです。時には真剣師の人が教えてくれることもありました(もちろん無料で)。やがて10級の棋力が初段まで伸びると、棋士になりたいと本気で思うようになりました。

私は5月中旬に荒川一中・3年9組の同級生たちと、先生を交えて伊豆半島・城ヶ崎へ旅行しました。以前にも都内の飲食店でクラス会が何度か開かれましたが、一泊旅行は初めてのことです。というのは、この数年間に2人の同級生(男・女)が亡くなったからです。病気とは無縁に思えた元気な2人が先立ったことで、「私たちもいつ何時どうなるのか…」という声があり、最初で最後の同級生旅行が実現したのです。

写真は、宿泊地での記念撮影。先生と8人の男女(61歳〜62歳)が参加しました。前列の左から2人目が工藤清二先生。後列の右から2人目が田丸。

工藤先生は今年で77歳の喜寿を迎えましたが、いたって元気な様子でした。そして数多くの教え子がいるのに、私たちのエピソードや住んでいた場所、兄弟姉妹のことまで覚えていたのには驚きました。先生はクラス担任とともに、英語の教科を担当しました。東北なまり(岩手県の出身)が少し入った英語の発音は懐かしい思い出です。

私は中学3年のとき、すでに奨励会に入っていて、平日に行われた奨励会の例会(現在は土日・祝日)に行くために月に2日は学校を欠席しました。工藤先生は私の将棋への熱意を認めてそれを許可し、中学卒業後も何かと激励してくれました。

写真の後列・左から2人目は、当ブログにコメントを寄せたことがある秋葉均さん。彼は20代半ばで将棋に夢中になり、勤務していた大手出版社で作った将棋部で、私が数年ほど指導したことがありました。私とは同級生であり、将棋の弟子という関係です。

それにしても、還暦を過ぎた中学の同級生と先生が一緒に旅行するのは珍しいようです。旅先では愛称で呼び合ったり、昔話に花が咲いたりして、つかの間のタイムスリップを体験しました。みんなの私への共通の思い出は、「田丸くんって、授業が終わるとすぐ帰ったよね」でした。そうです。私は中学時代、将棋しか関心がありませんでした。

中学卒業時に配布された名簿には、全生徒の進路(高校・会社)が記されていました。当時は「中卒者は金の卵」と言われた時代で、約3割の人が就職して社会に出ました。私の進路は「将棋士」でした。それが本当に実現したのは6年後でした。

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2012年5月 7日 (月)

東京体育館での「職団戦」で「名人400年」を記念して400 人に指導対局

東京体育館での「職団戦」で「名人400年」を記念して400<br />
 人に指導対局

東京体育館での「職団戦」で「名人400年」を記念して400<br />
 人に指導対局

東京体育館での「職団戦」で「名人400年」を記念して400<br />
 人に指導対局

今年は「名人400年」を記念して、様々な催しが各地で開かれています。4月28日に東京体育館(千駄ヶ谷)で開催された第101回職域団体対抗戦(職団戦)では、参加した選手たちの中から抽選で「400人」に指導対局が行われました。

写真・上は、会場の東京体育館。今回は370チーム(各5人)が参加し、S・A〜Fの7クラスに分かれて熱戦が繰り広げられました。指導対局コーナーは、写真の奥のほうに設けられました。

指導棋士は、加藤一二三九段、大内延介九段、塚田泰明九段、森下卓九段、私こと田丸昇八段、中田宏樹八段、中川大輔八段、日浦市郎八段、伊藤果七段、土佐浩司七段、中座真七段、櫛田陽一六段、 田村康介六段、宮田敦史六段、中村亮介五段、長岡裕也五段、阿部健治郎五段、及川拓馬四段、門倉啓太四段、伊藤真吾四段など、計40人。タイトル経験棋士、ベテラン棋士、中堅棋士、若手棋士と幅広い顔ぶれです。

指導対局は午後から始まり、各棋士は5面指しを2回に分けて行いました。1人あたり計10局で、合計すると400局になります。

写真・中は、加藤九段の指導対局の光景。観戦者が最も多く、加藤のおどけた表情と様子を見て笑い声がよく起きました。加藤は「これは取る一手」「さあ、王手だ」「ウヒョー、困ったな」 などと言いながら指し、まるで縁台将棋のような雰囲気でした。角落ちの手合いで負かした相手には「私に角落ちで勝つのは大変ですよ。今後は飛香落ちぐらいで習ったらどうですか」と語り、暗に手合い違いだという口ぶりでした。

手合いは基本的にアマ側の希望で決められました。以前の指導対局では、かなり強い人でも角落ちが相場で、どうしても「平手」で指したいときは遠慮がちに希望したものです。しかし近年は、堂々と「平手でお願いします」と言う人が多くなりました。中には平手を拒否する棋士もいますが、私は受け入れることにしています。普段は平手ばかり指している人が、慣れない駒落ち定跡を用いて実力を発揮できないことがよくあるからです。

写真・下は、私の指導対局の光景。10局のうち4局が平手の手合いでした。相手の戦型は3局が「ゴキゲン中飛車」と「振り飛車穴熊」(写真の対局)。いつも得意にしている戦法でプロ棋士と指して、どこまで通用するだろうか、という感じを受けました。もともと指導対局は勝負を争うわけではありません。アマがプロとの平手戦で勉強になれば、大いに結構なことだと思います。

じつは、後半の私の指導対局で1人分の空席が生じました。せっかく抽選で当たったのに、急に都合が悪くなって帰ったのかもしれません。それともお目当ての棋士ではなく、私では不満だったのかと、ふと思ってしまいました。

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2012年4月23日 (月)

4年ぶりに行った大阪・福島の「関西将棋会館」

4年ぶりに行った大阪・福島の「関西将棋会館」

4年ぶりに行った大阪・福島の「関西将棋会館」

4年ぶりに行った大阪・福島の「関西将棋会館」

私が順位戦に在籍していた以前は、関西の棋士との対局で年に2〜3回は大阪に出向いたものでした。しかし2009年(平成21年)にフリークラスに転出してからは、関西の棋士と対局することがなく、大阪に行く機会もありませんでした。

『週刊将棋』で連載している「丸の眼」の記事の取材で関西方面に行く用事が4月上旬にあり、ついでに「関西将棋会館」にも寄ってきました。08年7月にC級2組順位戦で有吉道夫九段と対局して以来、じつに4年ぶりのことでした。

写真・上は、関西将棋会館。大阪駅(梅田)から環状線に乗って1つ目の福島駅の近くにあります。東京の将棋会館と同じように、外壁が茶色の5階建てのビルです。

写真・中は、5階の対局室。当日は対局が1局だけでした。いつもは上位棋士が対局する「御上段の間」で、竜王戦の大石直嗣四段(左)ー阿部光瑠四段戦が行われていました。

写真・下は、3階の棋士室。棋戦の勝敗表などの情報が壁に張り出され、過去の棋譜や新聞の観戦記がロッカーに保管されています。テレビ画面には5階のメインの対局の盤面が映し出され、戦いが佳境に入ると棋士たちが熱心に検討する光景が見られます。また、棋士や奨励会員がよく将棋を指しています。当日は、手前で山崎隆之七段(右)と豊島将之六段、奥で船江恒平五段(左)と斎藤慎太郎新四段が、公式戦のように真剣な態度で指していました。そうした不断の努力が「関西棋士パワー」の源になっているようです。

関西将棋会館は1981年(昭和56年)に建設されました。当時の将棋連盟会長だった大山康晴十五世名人が募金活動を精力的に展開して成し遂げたものでした。それから数年後に「バブル」によって地価が高騰しましたが、その時代だったら会館建設は難しかったでしょう。関西棋界の大御所の内藤国雄九段は会館に行くたびに、「大山先生が建ててくれた会館」としみじみ思うそうです。

関西将棋会館がある大阪・福島は、東京でいえば浜松町や神田のビジネス街という町並みです。30年前のころは駅前のパチンコ屋や大衆酒場が目立って、やや殺風景な感じがしました。しかし今では駅前にホテル阪神(東京の棋士たちの定宿)が建ち、周囲はおしゃれな雰囲気の飲食店が並んでいます。その分、店の代替わりも進んでいます。私が20年前から通っていた居酒屋は、2年前に閉店したという話でした。

私が以前に対局や所用で関西に行ったときは、仕事が終わるとすぐ帰京しました。今回は私用だったので、久しぶりに大阪市内を散策することにしました。じつは、30年ぶりに行ってみたい場所があったのです。大阪市の南部・北畠にあった旧関西本部の跡地です。その写真と当時の思い出については、次回ブログで紹介します。

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2012年4月 9日 (月)

東京・浅草橋で人気を呼んでいるつけ麺ラーメン「素家」の店主は元奨励会員

東京・浅草線で人気のつけ麺ラーメン「素家」の店主は元奨励会員

東京・浅草線で人気のつけ麺ラーメン「素家」の店主は元奨励会員

私は『週刊将棋』(駅の売店で発売)の「丸の眼」という評論コラムで、「新天地で輝く元奨励会員」のシリーズを連載しています。

今週発売号(4月11日号)では、東京・浅草橋で人気を呼んでいる、つけ麺ラーメン「素家」の店主の家田健司さん(写真・上)を紹介しています。

私がその記事の取材で店を訪れたとき、ラーメン(写真・下)を注文しました。豚骨と魚介のダブルスープ、中太の縮れ麺、チャーシュー・ゆで卵・メンマ・ワカメ・ネギなどの具と、写真からも想像できるように濃厚な美味しさがあります。さらに特製の味付けが評判となっています。それについては後ほど紹介します。

家田さんは1995年(平成7年)の14歳のとき、高柳敏夫名誉九段門下で関東奨励会に6級で入会しました。同期生は村山慈明五段など。その村山は5級へすぐに昇級しましたが、家田さんは7級に降級して前途多難なスタートでした。

家田さんは奨励会に入ってから、プロの卵たちの強さと才能を思い知ったそうです。入会当時は、渡辺明2級(竜王)と阿久津主税3級(七段)がずば抜けて強く、詰将棋を解くのが早い宮田敦史2級(六段)も異彩を放っていました。

99年に3級に昇級しました。遅い昇級ペースでしたが、くさらずに修業に励んでいました。同年のB級2組順位戦の私の対局では、記録係を務めました。しかし翌年に4級に降級すると、まもなく奨励会を退会しました。

家田さんはその後、中華料理店を営んでいた父親と同じ道を進むことにしました。別の中華料理店で見習いとして働き、塩ラーメン店、つけ麺ラーメン店でも働きました。料理の修業そのものは苦しくなかったそうです。ただプライドの高い先輩の料理人に辛く扱われたり、仲間から上司の悪口を聞かされたりして、人間関係に悩んだことがありました。

家田さんはそうした10年間の修業生活を経て、2010年(平成22年)12月に東京・浅草橋駅(総武線)でつけ麺ラーメン店「素家」(そや)をオープンしました。駅に近くて人通りが多く(東口から1分)、同業店が少なかったのでその場所に決めたそうです。店名の由来は「素材の味を家田が生かす」という意味です。

開店日は行列ができましたが、最初の半年はあまり売れませんでした。しかし家田さんは「絶対に負けてはいけない。苦しくても粘るんだ」と自分に言い聞かせ、奨励会で経験した辛抱することの大事さを経営面で心がけました。

やがて口コミによって美味しさが次第に評判となりました。それが特製の味付けの「リンゴ酢」です。スープに入れると、フルーティーな甘みと酸味が口の中に広がり、違った美味しさを賞味できます。ユズ、スダチの柑橘類を使った店はありますが、リンゴは家田さんのオリジナルでした。

渡辺竜王、阿久津七段、松尾歩七段、飯島栄治七段、片上大輔六段、遠山雄亮五段などの棋士も来店し、渡辺のブログではよく紹介されています。皆さんもいちど行ってみてはいかがでしょうか。

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2012年3月12日 (月)

田丸が『週刊将棋』の記事で紹介した新天地で活躍している元奨励会員

田丸が『週刊将棋』の記事で紹介した新天地で活躍している元奨励会員

田丸が『週刊将棋』の記事で紹介した新天地で活躍している元奨励会員

私が『週刊将棋』(駅の売店などで販売)で不定期に連載している「丸の眼」という評論コラムで、現在は新天地で活躍している元奨励会員の人たちを紹介する記事を2月から隔週で書いています。

今週号(3月14日号)では、大手テレビ局のTBSに勤務している朝比奈和夫さん(写真・下)を紹介しています。※写真の人形はTBSのマスコット人形「ブーブ」。

朝比奈さんは15歳のときの1980年(昭和55年)、佐伯昌優九段門下で奨励会に6級で入りました。同期生には日浦市郎八段、佐藤秀司七段、中田功七段などがいました。奨励会では5級へすぐ昇級しましたが、以後は不成績が続きました。そこで挫けずに頑張れば転機がいつか来るものですが、すっかり落ち込んでしまったのです。やがてアマ時代に抱いた将棋の楽しさがなくなり、指すことが苦痛に感じたそうです。そして2年後に奨励会を退会しました。

朝比奈さんはその後、TBSに就職しました。入社試験の面接では、少年時代に棋士をめざしたことを自分から話しました。奨励会を早く退会したので、挫折感はあまりなかったそうです。配属された営業の部署では、番組を協賛するスポンサーの担当者を接待することがよくありました。そんなときは、相手の担当者の食事の好みや帰宅しやすい二次会の場所など、飲みながら先のことを考える「3手の読み」をするのが常でした。また相手の担当者は年配の人が多いので、将棋やお寺(朝比奈さんの実家は鎌倉の臨済宗のお寺)の話題を出すと大いに盛り上がるそうです。このように将棋で経験したことが、営業の仕事に役立っているとのことです。

2月29日号では、作家の橋本長道さん(写真・上)を紹介しました。

橋本さんは15歳のときの1999年(平成11年)、井上慶太九段門下で奨励会に6級で入りました。同期生には豊島将之六段、村田顕弘五段などがいました。奨励会では3級まで順調に昇級しましたが、以後は成績が低迷しました。大学受験にも失敗し、何もかも中途半端で自暴自棄になったそうです。そして19歳・1級のときに奨励会を退会しました。その後、金融関係の大手企業に就職しました。しかし職場の空気になじめず、1年後に退社しました。こうして奨励会員としても社会人としても挫折したのです。

橋本さんはその後、何か創造的なことをしたいと思い、作家をめざしました。小説の構想を立て、話の展開をあれこれ想像し、執筆に集中していると、将棋との類似性を感じることがありました。小説の執筆は将棋の楽しさに似たものがあり、奨励会時代に乗り越えられなかった何かを実現できるような予感がしたそうです。そして、日系ブラジル人少女が中心人物の『サラの柔らかい香車』という将棋を題材にした作品を「小説すばる新人賞」に応募すると、応募総数が約1300作の中から受賞に至ったのです。橋本さんは、それによって作家のスタート地点にやっと立つことができました。

このブログで紹介した朝比奈さんと橋本さんは、少年時代に奨励会に入って棋士をめざしましたが、成績が低迷して退会しました。しかし早めに見切りをつけたことで、ほかの世界への転身が成功しやすかったともいえます。両者に共通するのは、奨励会で修業した経験が新天地で大いに役立っているということです。

私が『週刊将棋』で連載している「丸の眼」では、そんな人たちを短期シリーズで紹介していきます。その職種は、ほかにカメラマン、マッサージ師、ラーメン店主、税理士、競馬ライターなど、多岐にわたっています。楽しみにしてください。

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2011年12月18日 (日)

田丸の新刊書『実録 名人戦秘話』が発売されました

田丸の新刊書『実録名人戦秘話』が発売されました

田丸が著した『実録 名人戦秘話』〜棋士生活40年 田丸昇の将棋界見聞記〜(マイナビ刊)という新刊書が12月中旬に発売されました。写真は、その表紙(下側の青い部分は帯紙)。※定価は1470円(税込み)。

私は今年で棋士生活40年目を迎え、11月には将棋連盟から勤続表彰を受けました。その記念も兼ねて刊行されたのが本書です。40年間の棋士人生で経験した様々な勝負やエピソードを綴りました。本書は5章で構成されています。

第1章は「名人戦契約交渉が決裂」(1965年〜1976年)。第2章は「幻の名人戦移籍案」(1976年〜2003年)。第3章は「初の名人戦共催」(2003年〜)。

2005年に同じ版元から『将棋界の事件簿』という私の著書が刊行されました。その中では、1970年代に連盟と大新聞社の間で繰り広げられた名人戦契約を巡る葛藤を、実名や数字を上げて詳しく記述しました。読者から届いた感想は「将棋界や棋士の裏話がよくわかった」「著者しか知らない事実が興味深かった」など、おおむね好評でした。

『実録 名人戦秘話』の第1章から第3章は、『将棋界の事件簿』の続編に当たる内容です。第1章では、前作で書いた状況を短くまとめました。第2章では、私が連盟理事時代に経験した名人戦契約問題を初公開しました。第3章では、数年前に勃発した名人戦契約問題を時系列に詳しく記述しました。毎日新聞社と朝日新聞社が名人戦共催に至った一件で、読者も記憶に新しいことでしょう。

第1章から第3章は名人戦契約問題が主な内容ですが、棋士や関係者の揺れ動く気持ちや苦衷も記しました。第3章の名人戦問題が大筋で決着した連盟総会では私が議長を務め、その模様を克明に記したり自分の見解を述べました。また、時々に行われた名人戦の勝負やエピソードも紹介しました。中でも1975年の名人戦(中原誠名人―大内延介八段)第7局は将棋史に残った大激闘で、私(当時五段)が記録係として盤側でつぶさに見た戦いの模様はきっと興味深いと思います。

第4章は「思い出の対局」。四段昇段をかけて戦った2度の「東西決戦」、名人経験者の大山康晴(十五世名人)、升田幸三(実力制第四代名人)、塚田正夫(実力制第二代名人)との対局、棋王戦の挑戦者をめざした羽生善治(二冠)との対局、A級昇級をかけて直接対決した島朗(九段)との対局、A級順位戦で兄弟子の強さを痛感した米長邦雄(永世棋聖)との対局など、思い出が強く残っている対局を振り返りました。

第5章は「盤外エピソード」。カメラに夢中になっていた青年時代、北海道やアメリカでの普及活動、作家・山口瞳や政治家・菅直人との将棋を通した交流、「将棋世界」編集長時代の苦労など、私の盤外での様々なエピソードを綴りました。なお第5章に載っている大半の写真は私が撮影したもので、中には大山・升田のツーショットなどかなり珍しい写真もあります。

40年間の棋士生活を送っている1人の棋士が盤上盤外で経験したことを通して、将棋界のこの40年間の動きを物語のように楽しく読んでもらえると、とてもうれしいです。ご愛読のほどをお願いいたします。

次回は、2012年に向けての思い。

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2011年10月13日 (木)

「カメラ小僧」になって写真を撮りまくっていた若手棋士時代の田丸

「カメラ小僧」になって写真を撮りまくった若手棋士時半の田丸

この写真は、今から37年前の1974年(昭和49年)、東京・千駄ヶ谷の旧将棋会館の2階ロビーで撮影されました。後方の絵は、将棋を愛好した著名画家の方が将棋連盟に寄贈したものです。そして被写体は誰でしょうか?

すでにおわかりですね。若手棋士時代の私こと田丸昇五段(当時24歳)でした。髪の毛(当然ながら黒いです)は美容院でパーマしてウェーブが軽くかかっています。花柄シャツは当時の流行でした。私にも洒落っけを持った青春時代があったのです。

私が手にしているのはニコンの一眼レフカメラで、左はキャノンの一眼レフカメラ。どちらも私が所有していました。右のドイツ製の二眼レフカメラは、撮影用の素材にカメラマンの方から借りました。じつは当時、私は写真に凝っていたのです。

私は少年時代から文章を書くのが好きで、日記は15歳から10年間も書き続けました。棋士になると、将棋イベントや奨励会員を紹介する記事を将棋雑誌で連載しました。やがて写真も載せる必要を感じ、自分で撮り始めました。最初はいわゆる「バカチョン」カメラを使い、そのうちに性能の良いカメラで撮りたいと思うようになりました。

そこで「将棋世界」元編集長でカメラマンでもあった清水孝晏さんに相談したところ、基本的な技術を親切に教えてくれ、所有していたカメラ(左のカメラ)を譲ってくれました。また、偶然に知り合った将棋好きのカメラマンの弦巻勝さんとは、将棋と写真の交換教授をしました。その後、弦巻さんは私との付き合いがきっかけとなり、将棋の写真を本格化に撮るようになりました。弦巻さんが撮った棋士の対局姿や将棋関連の写真は、将棋雑誌に掲載されたほかに、写真誌「フォーカス」にもよく掲載されたものです。

私が写真を撮り始めたころ、ストロボが不調で真っ黒に写ったり、逆に露出オーバーで真っ白に写ったり、フィルム装填の不備で何も写ってなかったりと、失敗だらけでした。でも写真は将棋と同じです。実戦(撮影)を重ねていけば、次第に上達していくものです。いろいろと撮っているうちに、中にはでき映えのいい写真もありました。

私が撮った主な被写体は、対局光景、棋士のポートレート、将棋イベントなど。2台のカメラを持ち歩き、一方のカメラには対局写真用の45ミリか35ミリの広角レンズ、もう一方にはポートレート用の約100ミリの望遠レンズを付け、とにかく撮りまくっていました。長髪にジーパンという棋士らしくないラフな格好でしたので、「カメラ小僧」か「フリーカメラマン」に思われました。

そのうちに、著名人の写真を撮る貴重な機会がありました。私の宝物ともいえるその写真は、1975年に女優の吉永小百合さんが大山康晴(十五世名人)と将棋を指した6枚落ちの記念対局、同年にフォーク音楽界のカリスマ的存在だった歌手の吉田拓郎さんが中原誠(十六世名人)と将棋を指した6枚落ちの記念対局、76年にプロ野球・巨人軍の監督だった長嶋茂雄さんが中原と将棋を指した2枚落ちの記念対局です。

いずれの著名人は当時、将棋にはまって熱中していました。吉永さんの対局姿と表情は、じつに麗しかったです。長嶋さんの得意戦法は中飛車で、とても攻めっ気が強かったです。拓郎さんは定跡をきちんと覚え、正座して指しました。

私が写真に夢中になったのは1970年代半ばの3年間だけでした。その後は普通のカメラで日常のスナップ写真を撮るぐらいでした。今は携帯電話のカメラで撮っています。

次回は、兄弟弟子でありながら宿命のライバルとされて不仲説も流れていた升田幸三(実力制第四代名人)と大山康晴の珍しいツーショット写真を紹介します。

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2011年9月14日 (水)

田丸が『週刊!将棋ステーション』の番組で40 年間の棋士生活を振り返る

田丸が『週刊!将棋ステーション』の番組で40<br />
 年間の棋士生活を語る

「囲碁・将棋チャンネル」(スカイパーフェクTVなどで放送)の『週刊!将棋ステーション』とそれに続く『最新対局解説』の番組 (放送時間は合わせて約90分)に、私がゲスト出演しました。

写真は、収録時の光景。左から、将棋ジャーナリストの山田史生さん、司会者の恩田菜穂さん、田丸。冒頭で山田さんは、「田丸さんは自身のブログで将棋界の出来事を詳しく解説していまして、その内容がとても参考になります」と私を紹介してくれました。

前者の番組では、棋界情報のほかに、棋士の素顔を紹介する「トーク・トレイン」のコーナーがあり、田丸が奨励金入会から40年間の棋士生活の思い出などを振り返りました。

後者の番組では、田丸が王座戦(羽生善治王座―渡辺明竜王)第1局と、思い出の対局として31年前の大山康晴十五世名人との対局を解説しました。聞き手は井道千尋女流初段。

「トーク・トレイン」では司会者の《質問》に対して、私は次のように語りました。

「佐瀬(勇次名誉九段)門下に入ったのは、若手棋士の米長(邦雄永世棋聖)と西村(一義九段)が活躍していて、有望な兄弟子がいれば強くなれると思った」《佐瀬門下に入ったきっかけ》。「奨励会試験で2連敗したが、師匠が奨励会幹事(芹沢博文九段)に話をつけてくれて裏口入会できた」《奨励会入会試験》。「1級で低迷していたころ、幕末の棋聖と呼ばれた天野宗歩の将棋を勉強すると、ひ弱な将棋がたくましくなって成績が良くなった」《奨励会時代の転機》。「7期目の三段リーグで四段に昇段し、それまで心配をかけ通しだった母親を安心させたことが最もうれしかった」《21歳で四段昇段》。

「19年前にB級1組順位戦の最終戦で、A級昇級をかけて戦った島朗(九段)との直接対決。最後のチャンスと思って和服姿で臨んで幸運にも勝てた」《棋士生活で最も印象に残っている対局》。「若手棋士時代は研究家の田丸と呼ばれた。棋譜用紙を集めて戦法別ファイルに整理し、研究会を盛んに行った。強豪アマとの研究会も行い、参加者の1人の櫛田(陽一六段)とはそれが縁で師弟関係を結んだ」《将棋の勉強法》。「若いころから文章を書くのが好きで、その関連で写真に興味を持った。大山・升田の珍しいツーショット、蔵前国技館での将棋の日イベントなど、いろいろな写真を撮った」《文筆と写真》。

「『聖の青春』(村山聖九段の評伝)の出版を機に作家に転身した『将棋世界』編集長の大崎善生さんに請われて後任を引き継いだ。スタッフとの共同作業で雑誌を作り上げる仕事は、苦労もあったがとても得がたい経験となった」《10年前の『将棋世界』編集長時代》。「奨励会時代を含めて、運が良かった棋士人生だったと満足している。自分としては順位戦でA級に昇級したことよりも、B級1組に通算16期も在籍できたことが誇り」《40年間の棋士生活を振り返って》。「今後は執筆活動やブログで、将棋界の古今の情報を伝える語り部として生きていきたい」《今後の生き方》。

『最新対局解説』の番組では、田丸が王座戦第1局を解説しました。そのー戦は激闘の末に渡辺が寄せ合いを制して先勝し、羽生の王座戦20連勝を阻止しました。

次いで1980年(昭和55年)の田丸(当時六段)―大山戦の対局(オールスター勝抜戦)を解説しました。私と大山の対戦数は通算12局で、本局は3局目でした。前2局は手も足も出ない形で完敗したので、せめて一矢ー刀を浴びせたいとの思いで臨みました。大山の四間飛車に対して、私は左美濃から右銀を前線に進める急戦策を用いました。私が当時、熱心に研究していた振り飛車対策でした。その戦法で攻め合いに持ち込み、終盤で「肉を切らせて骨を断つ」寄せで迫ると、最後はうまい詰み手順が生じて私が勝ちました。大山戦での初勝利は大きな自信となり、翌年の春には順位戦でB級1組に昇級できました。

この将棋番組は9月13日に放送されました。14日・15日・18日にも再放送されるので、ごらんになれなかった方は左記の出演情報で確認してください。

次回は、王位戦(広瀬章人王位―羽生二冠)第7局で羽生が王位を奪還。

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2011年9月 1日 (木)

歌手の五十嵐浩晃さんが札幌の将棋まつりに聞き手として特別出演

歌手の五十嵐浩晃さんが札幌の将棋まつりに聞き手として特別出演

私は8月中旬に札幌の東急百貨店で開催された「夏休み将棋まつり」に参加するにあたり、札幌在住で将棋を愛好するある歌手の方に連絡してみました。プロ棋士とのお好み対局、または席上対局の聞き手に出てほしいと思ったのです。

その歌手とは五十嵐浩晃さん(54歳)。31年前に『ペガサスの朝』『愛は風まかせ』などのヒット曲を歌い、美しいメロディーとさわやかな歌声で魅了しました。当時の人気歌謡番組『ザ・ベストテン』にも出演しました。ご存じの方も多いでしょう。

五十嵐さんはその後、東京での多忙で不規則な生活が響いて体調を崩し、音楽活動をやめて故郷の北海道に戻りました。そんな落ち込んでいた時期に、癒してくれたのが少年時代から好きだった将棋でした。地元新聞が主催した中学生大会で3位に入ったこともあります。札幌の将棋クラブに通い出すと、3級で始めて10年で三段に昇段したそうです。

私が将棋連盟の出版担当理事だった17年前、五十嵐さんが将棋好きという話を聞いて、将棋雑誌の企画である女流棋士と対談してもらいました。将棋も平手の手合いで指し、矢倉戦の激闘の末に敗れましたが、なかなか本格的な将棋だと感心しました。

その後は会う機会がありませんでした。じつは何年か前に朝の情報番組『とくだね!』(フジテレビ系列)の「夜のヒットスタジオ」というコーナーに五十嵐さんが出演したとき、ある企画でプロ棋士と電話対局した将棋のエピソードを語ったので、今でも将棋を愛好しているんだとうれしく思ったものです。そして札幌の将棋まつりの件で連絡すると、出演を快諾してもらいました。

広瀬章人王位と屋敷伸之九段の特選対局で、私が大盤解説、五十嵐さんが聞き手を務めました。最初に両対局者、田丸、五十嵐さんが壇上に並びました。少年時代を札幌で過ごした屋敷は、将棋クラブで五十嵐さんに会ってよく知っていました。若い広瀬は知らなかったので、私が「広瀬さんに歌を聴かせてくれませんか」と五十嵐さんに頼んでみました。

すると五十嵐さんは自己紹介がてら、前記のヒット曲などをアカペラで1分ほどメドレー形式で歌ってくれました。「熱くもえる  まるでカゲロウさ…」の歌詞で始まる『ペガサスの朝』を美しい高音で熱唱すると、将棋の会場だけでなくほかの売り場の人たちも視線を向けました。普段は低い声なのに、マイクに向かうとキーが高くなるそうです。歌い終わった五十嵐さんが「この将棋に負けた方には、罰ゲームとして後で歌ってもらいましょう」と提案すると、会場から拍手が巻き起こりました。両対局者は苦笑いするばかりでした…。

広瀬ー屋敷戦は前回ブログで伝えたように、互いに穴熊に囲う戦型から大熱戦が繰り広げられました。五十嵐さんは将棋界の情報や両者のエピソードに詳しく、私と掛け合い漫才をするように楽しく会話を進めました。勝負の結果は、広瀬が一手勝ちを収めました。

そして負けた屋敷が罰ゲームで歌った曲目は、普段は自分の子どもと一緒に見るというテレビ番組の「ヒーローアニメ」ものの主題歌でした。もし広瀬だったら、大島優子のファンというので、「AKB48」のヒット曲を歌ったかもしれません。

上の写真は、左から屋敷、五十嵐、広瀬。五十嵐さんは広瀬と屋敷から直筆の記念扇子を贈られ、ご満悦の様子でした。

なお五十嵐さんは20年以上前から音楽活動を再開していて、アルバムの発表、ほかの歌手への楽曲の提供、CM音楽の制作など、幅広く活動しています。

次回は、コメントへの返事。

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2011年8月27日 (土)

ご当地棋士の広瀬王位、屋敷九段らが参加した札幌の将棋まつり

ご当地棋士の広瀬王位、屋敷九段らが参加した札幌の将棋まつり

私は8月中旬、北海道・札幌の東急百貨店で開催された「夏休み将棋まつり」に行ってきました。上の写真は、席上対局の光景。大盤で解説する棋士は広瀬章人王位(左から2人目)。聞き手は本田小百合女流二段。対局者は屋敷伸之九段(右側)と中村太地五段。そのほかに伊藤真吾四段、久津知子女流初段が参加しました。この中で、札幌で育ったご当地棋士は広瀬、屋敷、久津の3人です。

広瀬は5歳で将棋を覚え、札幌に住んでいた8歳から数年間は、地元の将棋クラブに通っていました。当時の指導者の話によると、広瀬少年は負けるとよく泣いたそうです。

その広瀬がアマとの記念対局で、湯上真司さんと角落ちの手合いで指しました。湯上さんは今年の朝日アマ名人戦でベスト8に進出しました。そして初めて臨んだプロ公式戦の朝日杯オープンでは菅井竜也五段と対戦し、敗れましたが161手もの大熱戦を繰り広げました。今秋のアマ名人戦でも、北海道代表になっています。

広瀬の話によると、少年時代に7歳年上の湯上さんと何局も指し、いつも負かされたそうです。広瀬にとって、いわばリベンジの一戦でした。ただ強豪アマとの角落ちの手合いはかなりきつく、実際に上手不利の形勢が続きました。しかし下手が慎重に指しすぎたので形勢が次第にもつれ、185手もの長手数の末に広瀬が勝ちました。

特選対局のカードは広瀬―屋敷戦でした。広瀬は昨年に王位のタイトルを初めて獲得し、屋敷は今春に順位戦でA級に昇級しました。両者は少年時代を過ごした札幌の将棋まつりでともに凱旋したことになり、来場者から大きな拍手を受けました。

札幌の将棋まつりは、今期王位戦(広瀬王位―羽生善治二冠)の第4局と第5局の間の週に開催されました。じつは広瀬は王位戦が始まる前、羽生に4連敗したら、札幌の将棋まつりでは肩書きが違ってしまうと、本気で心配したそうです。しかし羽生とは2勝2敗と互角に渡り合い、王位としての参加となりました。

広瀬―屋敷戦は、広瀬の四間飛車穴熊に屋敷の居飛車穴熊という戦型になりました。広瀬は中盤で屋敷に先攻されて飛車を成られましたが、さらに踏み込ませない懐の深さが持ち味です。そして持ち駒の角と自陣の飛車を巧みに駆使して反撃に転じ、終盤の寄せ合いで一手勝ちを収めました。さりげなく勝つのが広瀬将棋の真骨頂です。

大盤解説を務めた私は「来週の王位戦第5局に向けて、広瀬にとってこの勝利はいい弾みになりそうです」と語りました。すると第5局でも、広瀬の四間飛車穴熊に羽生の居飛車穴熊という戦型でした。屋敷戦とはまったく違う展開となりましたが、羽生の攻めを十分に引きつけてから反撃に転じる指し方は、札幌での将棋を見るようでした。そして終盤で一手勝ちを収め、広瀬が3勝2敗とリードして王位防衛まであと1勝と迫りました。

44年前に東急百貨店・日本橋店が将棋イベントを初めて開催しました。それがデパートの将棋まつりの先駆けでした。デパートは多くの集客を期待し、棋士はファンと交流して将棋の普及を図る。そうした両者の思惑が一致したヒット企画でした。その後、西武、近鉄、小田急、そごうなどの大手デパートも開催するようになりました。東急は東京のほかに札幌・長野などでも開催し、札幌では正月と夏休みの年2回の開催が恒例でした。

デパートの将棋イベントでは来場者の大半が男性で、集客が多くても必ずしも売り上げに直結しません。メセナ(企業が文化活動を支援すること)という意義がありました。しかし長引く経済の低迷によってデパートの売り上げが落ち込むと、その余裕がなくなってきました。近年は将棋まつりの終了や縮小が相次いでいるのが現状です。私は合間に札幌東急の店内を見て回りましたが、平日のせいか客よりも店員のほうが目立っていました。

次回は、ある歌手が特別参加した札幌の将棋まつり。

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2011年8月23日 (火)

「棋士派遣」で行った青森はねぶた祭りの前夜祭で盛況

「棋士派遣」で行った青森はねぶた祭りの前夜祭で盛況

私は7月の末、将棋連盟が実施する「棋士派遣」の事業で青森市に行き、ある団体の将棋大会の審判と指導対局を務めました。

青森県は昔から将棋が盛んでした。中でも実業家で県内の支部長だった中戸俊洋さん(現・棋道師範)は、タイトル戦や女流棋戦の対局の誘致、数多くのプロ棋士の招聘、大山康晴十五世名人の記念館の建設、地元テレビ局でアマ棋戦の協賛、「将棋天国」という雑誌や詰将棋集の出版など、約35年前から私財を投じて将棋の普及に貢献してきました。

中戸さんは、とくに子どもたちへの普及活動に尽力しました。今でこそ全国各地には子どもたちへの普及を熱心に進める指導者は多いですが、その草分けとなったのが青森の中戸さんでした。現在は、その活動を引き継いだ人たちが頑張っています。

青森の将棋大会には、今年の夏の全国大会に青森代表で出場するという小学生と中学生が来たので指導対局をしました。飛車落ちは上手が勝ったのですが、平手はどちらも終盤で逆転負けし、彼らの勝負強さに驚きました。さらに同伴した両者の母親に2枚落ちで指導すると、基本がじつにしっかりしていてうまく負かされました。母子で将棋大会に参加するところに、青森の普及状況が象徴されています。

今年の名人戦は第4局で、弘前城築城400年を記念して県内の弘前市で行われました。また、青森県知事の三村申吾さんは熱心な将棋愛好家として知られています。今後も青森県は、将棋がますます盛んになるでしょう。

将棋大会の当日は、夏の恒例行事の「ねぶた祭り」の前夜祭で盛況でした。上の写真のように、木や竹で作った枠に武者、鬼面、守護神の絵を張った大型の山車灯篭が何台も街中を練り歩きます。夕方になると太鼓や鉦の音が響き渡り、法被を着た人たちが街に繰り出して「ラッセラー」の掛け声とともに踊っていました。

私は大きな祭(三社祭、祇園祭、七夕祭など)には、それほど興味はありませんでした。しかし鳴り物が響き渡ってくる現場にいると、体の中に熱いものが流れているような興奮を覚えました。その日は前夜祭なのでゆっくり見られましたが、祭の期間中は観衆であふれて歩けないほど混雑するそうです。

旅先での楽しみは郷土料理です。私は長い飲兵衛(のんべえ)生活の経験を生かし、初めての土地でも安くて美味しい店を見つけるのに長けています。青森でも店構えと看板を見て、ある店に目をつけて入ったら当たりでした。

青森の地酒は「豊盃」「田酒」「東北泉」「白神」「竜飛」などがあり、酒器に並々とついでくれました。魚は津軽湾や日本海で採れた天然のヒラメ、ボタン海老、黒メバル、ホタテ貝、ツブ貝の刺身などで、盛り合わせで980円の廉価でした。そして締めは大間崎の本マグロの鉄火巻。まさに至福のひとときを過ごしました。

私は青年時代、夏には毎年のように北海道に遊びに行きました。時間はたっぷりあったので飛行機には乗らず、東北本線(上野〜青森)・青函連絡船(青森〜函館)・函館本線(函館〜札幌)と、列車と船による長旅を楽しみました。青森は通過するだけでした。今年の夏に初めて訪れた青森では、ねぶた祭りの雰囲気を味わったり海の幸を賞味しました。

次回は、札幌での将棋まつり。

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2011年7月28日 (木)

草創期のテレビ番組の思い出と初期の将棋NHK杯戦

テレビの本放送開始は1953年(昭和28年)でした。それから58年たった今年の7月24日、テレビの地上放送はアナログからデジタルに完全移行しました(東日本大震災で被災した岩手、宮城、福島の3県を除く)。当日は、草創期のテレビ番組を紹介した特別番組が各局で放送されました。私にも当時の思い出があります。

私は5歳だった55年、近所のおじさんに連れられて行った居酒屋で、初めてテレビを見ました。当時はテレビがある家はまだ少なく、街頭や飲食店で見るのが一般的でした。お目当ての番組は、国民的ヒーローだった「力道山」が活躍したプロレス中継でした。おじさんは酒を飲み、私は中華そば(1杯30円)を食べながら、得意の空手チョップを駆使して外国人レスラーと戦うその勇姿に興奮したものです。力道山のほかに、柔道出身の遠藤、怪力の豊登、技巧派の吉村、頭突きのグレート東郷などが個性的でした。

私が最も印象に残っているプロレスは、力道山と必殺技の「足四の字固め」を武器にしたザ・デストロイヤーとの初対戦でした(63年)。その放送の視聴率は歴代4位の64%を記録し、多くの人たちが注目しました。試合は壮絶な攻防が繰り広げられ、足四の字固めをかけられた力道山は懸命にこらえました。勝負は時間切れ引き分けとなり、力道山は試合後に「四の字固めをかけられた部分の筋肉が引っ込んだまま」と語ったものです。ちなみに力道山は将棋が大好きで、将棋連盟から三段免状を贈られました。

私の親が電気関係の仕事だったので、割りと早い時期から家でテレビを見ていました。

スポーツ番組では、天皇陛下が観戦した初の天覧プロ野球(巨人―阪神)でサヨナラ本塁打を打った長嶋茂雄(59年)、ボクシング・フライ級世界選手権で連打でKOして世界チャンピオンになった19歳のファイティング原田(62年)、東京オリンピックの女子バレーボールで金メダルを獲得した日本の「東洋の魔女」(64年)が思い出深いです。

少年活劇ドラマは『月光仮面』『まぼろし探偵』『少年ジェット』、西部劇は『ローハイド』『ララミー牧場』、外国ドラマは『ベン・ケーシー』『逃亡者』『サンセット77』、刑事ドラマは『七人の刑事』『特別機動捜査隊』『鉄道公安36号』などを見ました。

こうして振り返ってみると、子どものころは「テレビっ子」だったようです。その私が初めて将棋番組を見たのは、棋士をめざしていた中学時代の64年でした。NHK杯戦・大野源一八段―加藤一二三八段の対局でした。得意の振り飛車で軽妙にさばいていく大野に対して、受けの棋風という加藤の粘り強い指し方が対照的でした。勝負は加藤が勝ち、凛々しい加藤(当時24歳)の対局姿に魅了された私はすっかりファンになりました。

じつは後日、私は「棋士になるにはどうしたらよいのですか。ぼくはアマ6級とまだ弱いですが、加藤先生みたいに受けが得意です。ぼくを弟子にしてくれるように頼んでくれますか」という内容の手紙を将棋連盟に送りました。もちろん、そんな一方的な頼み事が通るわけがありません。連盟からの返事はきませんでした。

将棋のNHK杯戦が創設されたのは51年度で、当初はラジオ放送でした。62年度からはテレビ放送に切り替わりました。初期の出場棋士は上位8人だけでした。毎年1月から放送が始まり、囲碁のNHK杯戦と隔週放送でした。60年代半ばのころは、解説は加藤治郎(名誉九段)、聞き手は作家で観戦記者の倉島竹二郎さんがレギュラーでした。なお棋譜読み上げは木村嘉孝(七段)、記録係は元観戦記者の東公平さんが務めました。

NHK杯戦の出場棋士は、第16回の66年度から16人に増え、第27回の77年度から26人に増えました。そして第31回の81年度からは、全棋士が参加する現行制度となって50人に増え、毎週放送となりました(それ以前は囲碁との隔週放送)。

次回は、コメントへの返事。

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2011年7月24日 (日)

将棋を愛好する著名人ではトップクラスの棋力の森本レオさんと森田正光さん

森本レオさんと森田正光さん

将棋を愛好する各界の著名人が参加した将棋会が、以前は週刊誌・スポーツ紙・夕刊紙の企画でよく行われたものです。しかし近年は、参加者の高齢化やほかの趣味への転化、死亡(作家の山口瞳さん、団鬼六さんなど)によって下火となっています。

そんな状況において、今でも将棋に熱中していて著名人ではトップクラスの棋力なのが、俳優の森本レオさんとお天気キャスターの森田正光さんです。

私は年に2回、「将棋とお酒を楽しむ異業種交流会」(2009年11月11日〜23日のブログを参照)を開いています。その会の常連参加者が森本さんと森田さんで、両者は今年4月の会で初めて対戦しました(上の写真は、右から森本、田丸、森田)。

森本さんが将棋を始めたのは32歳と遅かったのですが、ある演出家の「将棋の筋が読めなくて、脚本がよく読めるな」という一言に発奮して将棋に熱中しました。それ以来、地元の東京・高円寺の行きつけの酒場で毎日のように指しました。早大出身の友人の紹介で、早大将棋部の人たちに厳しく教えてもらったこともありました。今は豊川孝弘七段、田村康介六段と交流があり、たまに指導を受けるそうです。森本さんはドラマでは、ひょうひょうとした役柄とソフトな語り口に持ち味があります。しかし将棋では、飛車が中段で暴れ回る荒っぽい指し方を得意としています。

森田さんは少年時代、プロ棋士になりたいと思ったほど将棋が好きでした。気象協会に務めていた20代のころは、将棋の本をむさぼるように読み、強い相手を求めて将棋クラブによく通いました。また、大山康晴十五世名人の「良い道具を持てば将棋が強くなる」という言葉を知り、ボーナスの大半をはたいて高級盤駒を購入したこともありました。ただ夫人に内緒の衝動買いだったので、後でひどく怒られたそうです。私は森田さんとは同年齢のよしみで約15年前から親しくしていて、飛車落ちの手合いで何局も指しました。森田さんの将棋は、定跡や形にとらわれない力強い指し方に特徴があります。

森本さんと森田さんの棋力は、ともに四段ぐらい。私はいい勝負だろうと予想しました。しかし2局指したところ、どちらも森本さんが快勝しました。森本さんは2年前に脳の病気で休養し、以前のように将棋を指していませんが、それでも往年の強さを発揮しました。

近年は、タレントのつるの剛士さん、俳優の山本耕史さん、女優の南野陽子さん、活弁士の山崎バニラさん、芥川賞作家の朝吹真理子さんなど、新しい著名人愛好家が現れています。そうした人たちを通じて、将棋の輪がもっと広がっていけばいいのですが…。

私は以前に「将棋をもっと広めるには?」というアンケートについて、「ジャニーズ系のタレントたちに将棋を覚えてもらう」と答えました。今なら大人気の「嵐」が将棋を指せば、追っかけの女性ファンも将棋に興味を示し、ひいては若い男性もつられて将棋を覚えるだろうという読みでした。しかし、今のところは絵に書いた餅のままです。

昨年、ある漫画雑誌が「AKB」のメンバー40人の顔写真と将棋の駒を組み合わせた付録を付けました。人気がかなり高い「大島優子」と「前田敦子」は、たぶん飛車と角だったかもしれません。あの企画が1号だけで終わったのは、ちょっと残念でしたね。

次回は、テレビのデジタル化と過去の番組の思い出。

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2011年7月19日 (火)

「なでしこジャパン」がサッカー女子W杯で世界一の栄冠!

サッカー女子ワールドカップ(W杯)ドイツ大会で、日本(なでしこジャパン)が決勝でアメリカ(世界ランキング1位)を破り、世界一の栄冠に初めて輝きました。日本の大黒柱の沢穂希(MF=ミッドフィルダー)は、得点女王(5点)とMVPを獲得しました。

私は当初、W杯の開催さえ知らないほど関心が薄かったです。しかし、日本が準々決勝でドイツ(W杯で2連覇)に1―0で勝ったのをテレビでたまたま見て、急に「なでしこ」たちの奮戦ぶりに興味を抱きました。準決勝のスウェーデン戦(日本が3―1で勝利)、決勝のアメリカ戦は夜中の3時に起き、テレビの前にかじりついて熱戦を見守りました。

日本はアメリカに対して、過去の試合で21敗3分と勝ったことがありませんでした。ただ後がない1番勝負では、何が起きるかわからないものです。世界のメディアの多くは、ドイツ戦・スウェーデン戦での速いパス回しを評価し、日本の勝利を予想しました。ドイツ・ミュンヘンのあの「予言タコ」も、日本の勝利を予想したそうです。

日本―アメリカ戦は、体格と技術で勝るアメリカが猛然と攻め込み、日本は何度もピンチに見舞われました。しかし海堀あゆみ(GK=ゴールキーパー)の好セーブと、相手のシュートがゴールポストに当たる幸運もあって、前半は何とか0―0で折り返しました。しかし後半ではついに先制点を入れられ、1―1で追いついて突入した延長前半でも、ワンバック(FW=フォワード)の絶妙なヘディングシュートで先制されました。

日本は試合時間の切迫で次第に追い詰められましたが、「なでしこ」たちは最後まで諦めませんでした。そして延長後半12分に「奇跡」が起きました。宮間あや(MF)のコーナーキックを受けた沢が、土壇場で値千金の同点ゴールを放ったのでした。

私は沢のゴール場面をテレビで何度も見ましたが、当初は流れがよくわかりませんでした。新聞の写真を見ると、沢はアメリカ選手たちの白い壁(ユニフォームの色)に囲まれ、ゴールを見ることもできませんでした。しかし右足の外側に当てて右後方のゴールに向かって打つと、ボールは相手選手の体を触れてからネットを揺らしたのです。じつは沢の得意技で、身長が高い相手選手を避けるために、「ニア(低くて速いボール)で蹴るね」と言った宮間とのサインプレーだったそうです。それにしても、あの状況で冷静に決断し、沢がよくぞゴールを決めたものです。サッカーの神様が後押ししてくれたのかもしれません。

試合は2―2となって、PK(ペナルティ・キック)戦に持ち込まれました。その時点で「勝負あった」ともいえるでしょう。先制点を入れて負けたことがないアメリカは、重圧で追い込まれた気分でした。一方の「なでしこ」たちは、「日本が大変な状況で、サッカーができる喜びを感じています」という心境のままでした。選手たちに「のりさん」の愛称で呼ばれている佐々木則夫監督の笑顔も緊張感を解きほぐしました。そしてPK戦では両者の心持ちの違いがはっきり表れ、日本が3―1で勝って優勝を決めました。

3月の大地震以来、津波、原発事故、政治の迷走など、日本は暗い話ばかりでした。そんな状況で「なでしこジャパン」のW杯優勝は、国民(とくに被災地の人たち)に感動と勇気を与えたと思います。今後しばらくはフィーバーが続いて、「なでしこ」たちは持てはやされることでしょう。しかし、私は一過性の現象にしてほしくないと願っています。

歴史が浅い女子サッカーの世界は、経済面や環境面でまだ途上段階です。海外で活動するプロ選手でも年収は300~400万円程度で、ほかの仕事で生計を立てながらサッカーを続ける日本代表選手もいるそうです。野球やサッカーの男子プロ選手で、コンビニでバイトするような人はいません。将棋の女流棋士も経済面で決して豊かではありませんが、将棋を中心にした生活を送っています。サッカーの女子選手も、収入はそれほど高額でなくても、サッカーに打ち込める環境にしてほいと、関係者に臨みたいです。

次回は、森本レオさんと森田正光さんの将棋。

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2011年3月13日 (日)

東北地方の大地震による被災者、被災地にお見舞い申し上げます

3月11日午後2時46分、三陸沖を震源地とした「東北地方太平洋沖地震」が起きました。地震の規模を示すマグニチュードは8.8と世界最大級(地震エネルギーは阪神大震災の200倍以上とのこと)でした。東北地方から関東地方にかけての広い範囲で震度7から5の強い揺れを観測し、その影響によって大津波、火災、土砂崩れなどが生じて、死者・行方不明者が1000人以上に達しています。太平洋沿岸の宮古、陸前高田、気仙沼、南三陸、名取、相馬などの地域では、大津波に襲われて全滅状態になっています。また、福島の原子力発電施設が崩れて放射能漏れが懸念されています。

今後は、災害の収拾、被災者の救出と援護、被災地の復興が重要問題です。政府、与野党、行政機関、自治体などは、一致協力して強力に支援すべきです。また、国会の審議が党利党略で停滞することは、国民生活に大きく影響を及ぼすので許されません。

それにしても、いかに人間社会の文明が発達しても、台風や地震などの天変地異に対しては、しょせん人間は地球上の一生物にすぎない無力な存在なんだと思い知らされました。人間はもっと謙虚になり、大自然や地球環境を大事にすべきです。

私が住む東京は震度5強で、地震発生時は自宅にいました。通常の地震は20秒以内に治まりますが、今回は2分ほど続き、いまだ経験したことがない長くて強い揺れを感じました。幸いにも本、食器、CDなどが落下しただけで、部屋が散乱した程度ですみました。

首都圏では地震後、主な交通機関が全面的に止まりました。仕事や用事で都心に出かけて帰途を絶たれた数多くの人たちは、駅・公共施設などで待機したり、自宅まで歩いて帰ったようです。私は青梅街道(新宿を起点に西の田無方面に)沿いに住んでいます。当夜に窓から見たら、歩いて帰宅する人たちの群れが深夜まで続きました。大地震に備えて「帰宅困難者」の問題が指摘されていますが、今回はひとつの訓練になったかもしれません。

16年前の阪神大震災では、著名な詰将棋作家と10代の奨励会員が死亡しました。東北地方の大地震では今のところ、将棋関係者が大きな被害を受けたという知らせはありません。ただ交通機関が止まったことで、次のような影響が出ました。

3月12日は四段昇段者(2人)が決まる三段リーグの最終日でしたが、23日に延期されました。12日・13日に行われる予定だった朝日アマ名人戦の全国大会も延期されました。11日には女流棋士会ファンクラブ「駒桜」がバスツァーを開催し、参加した女流棋士と将棋ファンが浅草とスカイツリーを観光した後は、新宿将棋センターで指導対局が行われました。しかし大地震が起きたことで、帰宅できない一部の参加者は新宿将棋センターで一夜を過ごしたそうです。

3月14日・15日に行われる王将戦(久保利明王将―豊島将之六段)第6局で、私は立会人を務めます。戦績は久保の3勝2敗で、久保が勝てば王将を防衛し、豊島が勝てば最終局に持ち込めます。対局場は神奈川県・鶴巻温泉「陣屋」。59年前の王将戦では、保持者の木村義雄(十四世名人)に対して、挑戦者の升田幸三(実力制第四代名人)が「対局拒否」をして、社会的にも注目されました。「陣屋事件」と呼ばれた歴史的舞台が第6局の対局場です。

次回は、王将戦第6局と陣屋事件について。

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2011年3月 8日 (火)

女流棋士教養講座で田丸が女流棋界の歴史を解説

田丸が女流棋界の歴史を解説

将棋連盟は昨年9月から、文化庁の事業の一環として「女性将棋指導者育成事業」を定期的に行っています。対象者は女流棋士、女流棋士をめざす研修会員、普及指導員、有段者のアマチュアなどです。その講習会は「指導対局」と「教養講座」があります。

指導対局では、A級の高橋道雄九段をはじめに中堅棋士、若手棋士が厳しく指導します。参加者はプロ棋士と1日に平手で3局指します(持ち時間は30分、30秒の秒読み)。教養講座では、将棋界の歴史・社会常識・和服の着付け・写真撮影の際の心構え・対局での所作などがテーマで、各分野の専門家や研究家が講師を担当します。

私は1月中旬の講習会で、「女流棋界の歴史」について解説しました。私は奨励会時代から将棋界の歴史に興味を持ち、古典棋書や専門書で勉強しました。また、女流棋士制度が発足した1974年(昭和49年)には、連盟の事務職員(手合係)として詳しい経緯を知っていました。そうした経験から、前記のテーマを担当することになったのです。

上の写真は、講習会の光景。参加した女流棋士は、甲斐智美(二冠)、関根紀代子(五段)、斎田晴子(四段)、谷川治恵(四段)、山田久美(三段)、高群佐知子(三段)、高橋和(三段)、本田小百合(二段)、中村真梨花(二段)、藤田綾(初段)、井道千尋(初段)、貞升南(1級)、中村桃子(1級)、渡辺弥生(1級)など約20人。

私の解説時間は約1時間。この長さでは女流棋界の歴史を語り尽くせません。そこで江戸時代から女流棋士制度発足までの時期にしぼりました。女流棋士が存在する以前の状況、女流棋界の成り立ちなどについて、時系列に話しました。その概要を、次に列記します。

将棋の文献に初めて登場した女性は江戸時代後期の大橋浪女。囲碁界では江戸時代から多くの女流棋士が出現。明治〜大正〜昭和初期の時代は将棋を指す女性がほぼ皆無。連盟は昭和中期から女性への普及活動に努める。女性初の奨励会員は蛸島彰子(女流五段)。68年から女流アマ名人戦が始まる。74年に女流アマだった関根とある将棋ファンの人の会話がきっかけで、連盟と報知新聞社の間で女流棋戦創設の交渉が始まり、両者の合意によって女流プロ名人位戦が創設されて蛸島、関根など6人が女流棋士に認定される。

私はこうした女流棋界の歴史について、様々なエピソードと自分の感想を交えながら解説しました。そして最後に、女流棋界の基礎を築いた陰の功労者は大山康晴(十五世名人)だったと強調しました。74年のころ、大山は棋士(元名人)として、連盟の運営者(副会長)として大きな影響力を持っていました。その大山は「将棋もスポーツと同じように、男と女にジャンルを分けるべきだ」と以前から提唱し、女流棋士制度発足を推進していきました。もし大山が「将棋が強くなければ、女性というだけで棋士とは認めない」という保守的な考えでしたら、女流棋界の歴史と発展はもっと遅れたことでしょう。

女流棋士たちは、私の解説をメモを取りながら熱心に聞き入りました。女流棋士制度発足に関わって参加者中で唯一の一期生の関根五段は、「37年前のあのころは将棋が弱く、今の人たちの強さは夢のようです」と往時を振り返りました。甲斐二冠は「女流棋界が始まったとき、いろいろな人たちの理解と協力があったことを初めて知り、とても勉強になりました」と感想を語りました。

次回は、コメントへの返事。

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2011年2月21日 (月)

芥川賞受賞者の作家・朝吹真理子さんは将棋愛好家で羽生善治名人と対談

朝吹真理子さんは将棋愛好家

私は2月18日に東京・日比谷の東京会館で開かれた第144回「芥川賞・直木賞」贈呈式に出席しました。今回の芥川賞は、朝吹真理子さんが『きことわ』、西村賢太さんが『苦役列車』で受賞しました。直木賞は、木内昇さんが『漂砂のうたう』、道尾秀介さんが『月と蟹』で受賞しました。中でも注目されたのが朝吹さん、西村さんでした。

朝吹さん(26歳)は慶応大学の大学院に在籍しています(専攻は近世歌舞伎)。父親は詩人で仏文学者の朝吹亮二、曾祖父は元衆議院議長の石井光次郎、大叔母はサガンの小説の翻訳家で知られる朝吹登水子とシャンソン歌手の石井好子、親族はノーベル化学賞を受賞した野依良治など。そんなアカデミックな家系の出自もあり、2年前に小説の執筆を勧められました。そして周囲の期待に応えて芥川賞を受賞し、ある選考委員から「素晴らしい感受性と表現力を持っている」と絶賛されました。

西村さん(43歳)は中卒でフリーターとなり、港湾荷役や警備員などの肉体労働で生計を立てました。トイレ・風呂なしのアパートに住み、経済苦で家賃滞納と強制退去を繰り返したこともありました。また、暴行事件で2回の逮捕歴がありました。そうした異色の経歴や体験に基づいた底辺の人たちの生活をテーマにした小説を、8年前から書いています。

このように朝吹さん、西村さんは年齢、経歴などが対照的です。それがかえって話題となり、一般の人たちの関心を呼んでいます。2人の著書、2人の受賞作が載った号の『文藝春秋』がよく売れているそうです。そんな影響もあってか、贈呈式の会場に多くの人たちが詰めかけました。上の写真は朝吹さん。私が遠い位置から撮ったので顔がはっきり見えませんが、知性あふれる美しい方です。

じつは、朝吹さんは将棋愛好家でもありました。芥川賞受賞が決まった1月中旬、NHKニュースのインタビューで「趣味は将棋とチェス。名人戦や竜王戦のテレビ中継はよく見ています」と語りました。受賞作の『きことわ』には、《棋譜が音楽になってる。E4からはじまってステイルメイトで終わる》と、チェスの話が書かれています。

贈呈式で朝吹さんの周囲は、多くの人たちで鈴なりの状況でした。私が折りを見て「将棋棋士の田丸です」と挨拶すると、朝吹さんは「あっ、将棋の先生なんですか」と笑みをたたえ、両手を差し出して握手してくれました。

朝吹さんは小学生時代から将棋に興味を持っていました。最初はチェスを覚え、同じボードゲームとして将棋も覚えました。8×8の升目が9×9に増え、取った駒を使うことで戦いが混沌とするところに魅力を感じるそうです。テレビの将棋番組の観戦は執筆の合間ではなく、「一日中かじりつくように見ています」とのことです。私が朝吹さんと話したのはほんの1分ほどでしたが、将棋が大好きという気持ちがよく伝わってきました。

朝吹さんは最近、憧れの棋士の羽生善治名人と対談したそうです。近日発売の『週刊朝日』と文芸誌『新潮』にその話が載ります。みなさんも楽しみにしてください。

次回は、歴代の芥川賞・直木賞受賞作家と将棋の関連について。

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2011年2月15日 (火)

相撲界で起きた「八百長」問題と八百長の語源について

相撲界に激震が起きています。現役力士の携帯電話に「八百長」を思わせるメールのやりとりがあったことが発覚し、それによって本場所(3月の春場所)が65年ぶりに中止となりました。この不祥事は一部力士の不正行為の問題にとどまりません。5月の春場所以降の開催の有無、公益法人としての日本相撲協会の存続にまで影響が及んでいます。この八百長問題では親方、力士ら14人に嫌疑がかかっています。相撲協会の幹部は「今までに八百長相撲はまったくなかった」と言い切っています。しかし特定の時期(昨年の春ころ)に特定の力士が行った不正行為だった、と思っている人は少ないでしょう。

「八百長」という言葉は、八百屋の長兵衛が碁を打ったとき、いつも1勝1敗になるようにしたり、弱い相手にわざと負けたことが、語源になっているそうです。本来は、碁で友好関係を築いたり弱い相手を立てる、「謙譲の美徳」の行為だったのです。しかし現代では、金品や地位のために勝負を貸し借りする意味で使われています。なお、八百屋の長兵衛が碁を打った場所は、相撲部屋だったと伝えられています。その相撲界には、昔から「八百屋」(八百長をする力士)、「注射」(金品で勝ち星を得る)、「中盆」(八百長の仲介をする力士)、「ガチンコ」(真剣勝負の相撲)などの隠語がありました。

相撲界の八百長問題がマスコミに大きく取り上げられたのは1963年(昭和38年)の秋場所でした。千秋楽で全勝同士の横綱の大鵬と柏戸が対戦し、柏戸が勝って優勝しました。体調不良で4場所連続休場していた柏戸の見事な復活劇に日本中が感動し、柏戸は支度部屋で号泣したそうです。そんな美談に異議を唱えたのが作家の石原慎太郎(現・都知事)でした。大鵬―柏戸戦は八百長の疑惑があるとスポーツ紙に書いたのです。その一件は、後に石原側が謝罪して相撲協会と和解になりました。

相撲界の八百長問題については、以後も週刊誌の特集記事でよく取り沙汰されました。その八百長の多くは、ある横綱は連続優勝するため、ある大関は関脇陥落を逃れるためなど、主に上位力士が疑惑の対象でした。

このたび発覚した八百長問題では、幕内下位や十両に位置する力士が当事者でした。相撲界では「関取」といわれる十両とその下の幕下では、天と地ほどの差があります。月給が約100万円の十両に対して、幕下は場所ごとの手当(約15万円)だけです。将棋界でいえば、棋士と奨励会員の違いのようなものです。そんな厳しさがハングリー精神の源となり、より強い力士を生んだり熱戦が繰り広げられました。しかし現実には、関取の地位をお互いに維持するための八百長相撲が仕組まれた背景になったようです。

ほかの勝負の世界でも、八百長問題が以前に起きたことがあります。1970年の「黒い霧事件」は、プロ野球選手が暴力団に先発投手の情報を洩らしたり、野球賭博に関わって八百長試合をしました。72年の「八百長競輪事件」は、競輪のA級選手が八百長レースをして暴力団に不当な利益を与えました。いずれも暴力団がらみの事件で、現役選手が逮捕されたり永久追放の処分を受けました。

相撲界の八百長問題は、暴力団とは無関係のようです。ただ内部の力士たちによる不正行為だと、逆に発覚しにくかったともいえます。次回も、相撲界の八百長問題について。

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2011年1月18日 (火)

漫画家と将棋の意外な関連と将棋漫画あれこれ

将棋漫画あれこれ

先々週の「モーニング」誌の将棋漫画『ひらけ駒!』(南Q太)には、私が主人公の母子とたまたま隣り合わせた場面に登場しました。それにしても、近年は『ハチワンダイバー』(柴田ヨクサル)、『3月のライオン』(羽海野チカ)、『王狩』(青木幸子)など、将棋漫画がよく描かれています。しかも、女性の作者が多いのには驚きます(この4作の中で柴田以外は女性)。※カッコ内は漫画の作者。以下も同じ。

漫画家と将棋には、意外な関連があります。ちばてつやさんは、下町の道端で見かけた庶民的な縁台将棋の光景が好きで、『あしたのジョー』『のたり松太郎』などの漫画に将棋の場面を出しました。漫画『ゲゲゲの鬼太郎』で知られる水木しげるさんは、少年時代に兄弟たちとよく将棋を指しました。漫画『まことちゃん』で知られる楳図かずおさんは、無名時代に「うめず」ではなく「きず」さんと呼ばれたことがありました。確かに「楳」の字は「棋」の字に似ています。漫画『キン肉マンⅡ世』(ゆでたまご)には、主人公の《キン肉万太郎》が頭・肩・腹・膝などに8種類の大きな駒をちりばめたコスチュームでリングに登場しますが、作画担当の方は実際に将棋が好きだそうです。

約25年前に発売された漫画『あぶさん』(水島新司)には、野球のユニフォーム姿の私が登場して、主人公の《影浦》や草野球仲間とドラフト制について語り合う場面があります。私は当時、棋士仲間と野球チーム「キングス(王将)」を結成していて、水島さんの野球チーム「ボッツ」とはよく試合をしました。その水島さんは将棋が好きで、約10年前に『父ちゃんの王将』という将棋漫画を描きました。

青年漫画誌にラブ・コメディーの『甘い生活』を連載している弓月光さんは、私が約40年前に知り合った友人です。弓月さんは当時から将棋に熱中していて、漫画の中で著名棋士の名前をよく使いました。私は以前に、将棋雑誌に4コマ漫画(上の写真)を弓月さんに描いてもらったことがあります。長髪の和服姿の若手棋士(モデルは田丸)が女の子に将棋を教えるという設定です。負けそうな女の子がスカートをめくり上げて、驚いた若手棋士の二歩を誘って勝つなど、滑稽な話が展開します。

将棋漫画といえば、棋士をめざす少年の熱血物語がやはり定番で、それに謎の「真剣師」がからんできます。主な作品は『あばれ王将』(貝塚ひろし)、『駒が舞う』(大島やすいち)、『5五の龍』(つのだひろし)、『月下の棋士』(能條純一)など。中でも『5五の龍』と『月下の棋士』は、一般の読者にも大いに注目されました。

『5五の龍』の作者・つのださんは、熱心な将棋愛好家でした。駒の配置や動きをわかりやすく描き、将棋界の歴史・仕組み・マナー・奨励会の制度などを広く伝えました。連載中の1970年代後半は、この漫画を読んで棋士をめざす少年が増えました。

『月下の棋士』は90年代から青年漫画誌に8年間も長期連載されました。この漫画は対局場面などが克明に描かれ、絵の美しさに引かれて将棋に興味を持った女性が増えました。また、羽生善治(名人)が96年に七冠を達成した「羽生効果」も追い風になりました。

囲碁漫画には『ヒカルの碁』という名作があります。それに匹敵する上質の将棋漫画が描かれて、将棋人気が高まることを期待したいですね。

次回は、コメントへの返事。

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2011年1月14日 (金)

「モーニング」誌の将棋漫画『ひらけ駒!』の第1話に田丸がなぜか登場

田丸が将棋漫画に登場

先週に発売された漫画誌「モーニング」(講談社)で、『ひらけ駒!』という将棋漫画の連載が始まりました。主人公は、将棋に熱中している小学生の《宝》と、その息子を暖かく見守る母親です。第1話では、親子が東京・千駄ヶ谷の将棋会館を初めて訪れます。

いつも安い駒で指している《宝》が、会館の売店にある高級な駒を見てほしがると、母親は「今度、《宝》が昇級したら、おじいちゃんに買ってもらうように頼んであげる」と励まします。そして会館を出るとき、白髪ロン毛の男性が後から歩いてきて、隣り合わせた親子に「にこっ」と微笑んで通り過ぎます(その誌面が上の写真)。親子は思わず顔を見合わせます。《宝》が「田丸昇八段だった…。本を持ってる…」と驚いたように言えば、母親は「優しそうな人だったねぇ」と印象を語ります。

じつは、私がその将棋漫画に出ることは、事前に何も知らされていませんでした。漫画誌を読んだ友人から聞いて初めて知りました。将棋を題材にした漫画なので、棋士が実名で出る場面はありそうです。しかし羽生善治(名人)や渡辺明(竜王)のような著名棋士ではなく、私のような地味な棋士が連載開始早々になぜ登場したのか、とても不思議に思いました。そこで、「モーニング」編集部に問い合わせてみました。

担当者の話によれば、作者の「南Q太」さん(女性の方です)は、将棋を習い始めた息子さんと将棋会館の道場に通っていたとき、実際に漫画のように、私と遭遇する場面を体験したそうです。そして、現役で活躍している棋士から優しく微笑んでくれたことに感銘を受け、棋士の礼儀正しさ、物腰の柔らかさ、所作の美しさなどをもっと多くの人に知ってほしい、という気持ちが将棋漫画を書くモチベーションになったとのことです。第1話に私が登場したのも、作者のそんな思いや前記の経緯が反映されたのでしょう。

私は将棋会館に行ったとき、道場に寄って対局光景を見るのを楽しみにしています。とくに、元気いっぱいの子どもの将棋が好きです。また、近年は子どもと同伴する母親たちの姿をよく見かけます。将棋が知的にも情操教育にも、とても良いものだと思ってくれているようです。私がそんな印象を日ごろから抱いていたので、会館で隣り合わせた親子に対して、自然に笑みがこぼれたのでしょう。私のふとした行為がきっかけで将棋漫画の連載が始まったとすれば、こんなうれしいことはありません。

作者の南さんはアラフォー世代の漫画家です。美大を卒業後、1992年から本格的に活動を始め、2005年には『さよならみどりちゃん』が映画化されました。自身のブログで将棋に熱中する息子さんの姿をたびたび紹介していて、将棋漫画の執筆はかねてからの願望だったようです。なおネットに載っている南さんの写真は、まさに《宝》の母親そのものの容姿です。

従来の将棋漫画は、棋士をめざす天才少年、伝説的な真剣師などがよく登場しました。この『ひらけ駒!』の主人公はごく普通の将棋好きの親子で、私はほのぼのとした情感に好感を持っています。今週に発売の第2話では、小学生大会に参加した《宝》と同行した母親が遠くから双眼鏡で戦いの様子を見て、一喜一憂する場面が描かれています。とにかく、今後の展開がとても楽しみです。

次回は、そのほかの将棋漫画について。

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2010年12月31日 (金)

11月に「棋士派遣」で訪れた山形・米沢での将棋大会と大盤解説光景

私は今年、将棋連盟が主催した「親子将棋教室」「棋士派遣」「名人戦大盤解説会」などの事業で、東北(秋田・三沢・米沢)、関東(日立・所沢)、東海(安城)、九州(大分・佐賀・熊本)などの各地を訪れ、いずれの会場も将棋ファンで賑わいました。とくに「親子将棋教室」には数多くの小学生が参加し、中にはとても強い子がいるのには驚きました。佐賀では6年生の女の子と平手で指すと、見事に負かされたものです。参加者の増加とレベルの高さは、各地の指導者の方々が地道に続けた普及活動の成果だと思います。

私は11月下旬、棋士派遣の事業で山形・米沢を初めて訪れました。山形県といえば、将棋駒の産地の天童が「将棋の町」として有名です。タイトル戦の対局やアマ棋戦の全国大会がよく開催され、私も何回か所用で訪れました。米沢は、東北新幹線・福島から山形方面に向かう途中駅です。江戸時代は上杉家が治めた米沢藩の城下町で、小説の題材にもなった上杉鷹山(ようざん)は「なせば成る なさねば成らぬ何事も…」という自身が残した言葉を実践して藩政を立て直した名君でした。米沢の名産はABCと例えるそうで、Aは林檎のアップル、Bは米沢牛のビーフ、Cは鯉料理のカープです。そのほかに、人気急上昇中の山形米「つや姫」、さっぱりした味わいの漬け物「おみ漬け」が美味しいです。

私は、米沢周辺の強豪アマたちが集まった将棋大会に出席し、大会の合間に指導対局をしました。大会の優勝者は、山形大学の学生でした。そして地元ケープルテレビで放送される記念対局の番組で、その優勝者は私と同行した中倉宏美女流二段と平手の手合いで指しました。番組での大盤解説役は、毎年担当しているという地元の強豪の方で、私は終局後の総評を担当しました。その解説光景を見ていて、解説を担当した方の明快で専門的な話しぶりにとても感心しました。いくら将棋が強いアマでも、解説のうまさとは比例しません。しかも撮り直しができないテレビ番組のうえに、面前にはプロ棋士(昨年は加藤一二三九段)がいるわけで、普通はかなり話しにくいはずです。なお、中倉女流二段と山形大学の学生との平手の記念対局は、熱戦の末に中倉が勝ちました。

その大盤解説役は、約25年前のアマ名人戦で山形代表になった小松純夫さんという方でした。そして小松さんから話を聞くと、10代のころに南口繁一九段門下で関西奨励会に所属していたそうです。1973年(昭和48年)5月に5級で退会し、直前に奨励会に5級で入会したばかりの谷川浩司(九段)とも対局しました。小松さんの話しぶりが専門的なのは、奨励会で修業した経験が生きたのだろうと納得したものです。

じつは37年前の73年の春、当時四段の私は大阪に行ったついでに関西奨励会を観戦し、谷川少年(当時11歳)の対局を初めて見ました。体はまだ小さかったですが、きちんと正座した対局姿は早くも大物感が漂っていました。将棋は入会当初から強く、終盤では「光速流」の寄せの片鱗がうかがえました。私はその模様を『近代将棋』誌の奨励会コーナーに執筆して紹介したのですが、米沢から帰って調べてみると、何と小松さんと谷川少年が指した将棋が載っていました(結果は谷川勝ち)。

本年も、このブログをご愛読していただき、ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。ではみなさん、良いお年をお迎えください。

次回は、年頭の所感と2011年の将棋界について。

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2010年11月 9日 (火)

将棋を愛好する作家・渡辺淳一さんの喜寿のお祝いの会

作家・渡辺淳一の喜寿のお祝い

作家・渡辺淳一さんの喜寿(77歳)をお祝いする会が、10月下旬に東京・日比谷「東京会館」で開かれました。渡辺さんと親しい作家、編集者、読者などが集まり、私も出席しました。写真は、渡辺さんと花束を贈呈した作家・村山由佳さん(『天使の卵』などの恋愛小説の名手。7年前に直木賞を受賞)。

渡辺さんは熱心な将棋愛好家です。30年以上前には、自宅に将棋好きの知人たちを呼んで定期的に将棋会を開いていました。私も縁あって、たまに将棋会を訪れました。メンバーの平均棋力は初段ぐらい。水割りウイスキーを飲みながら、和やかな雰囲気で将棋を楽しみました。将棋会の名称は「トン四クラブ」で、四は死の当て字。やたらとトン死をかけたがる、かけられて悲鳴をあげる、といった将棋を指したので付けられたようです。ただメンバーの年齢が上がるにつれて縁起でもないと、後に違う名称に変わりました。

渡辺さんの棋力は二段ぐらい。自ら「愚鈍」の将棋と称しました。奇手やハッタリの類の手は指さず、地道な手を積み重ねて頑張り抜く棋風です。形勢がどんなに悪くなっても、「さあ、どうやって醜くのたうち回って死んでやるか」と言っては、最後まで勝負を捨てません。言い換えれば、絶望的な局面でも楽しめるほど将棋が好きなのです。

1970年代から80年代にかけて中原誠(十六世名人)と米長邦雄(永世棋聖)がタイトル戦で何度も対決していたころ。渡辺さんは両者の戦いについて、「天下を取るには、ぎらぎらしたものよりも、愚鈍なところがなくてはいけないと思う。米長さんが中原さんになかなか勝てない理由はそこにあるのでは…」とよく語りました。ちなみに、数年前にベストセラーになった渡辺さんのエッセー集『鈍感力』には、「鈍感なのは現代を生き抜く強い力であり知恵でもある」という自身の人生哲学が綴られています。

私は若手棋士時代、渡辺さんには何かと励ましてもらいました。順位戦で昇級すると祝賀会を開いてくれ、将棋の単行本を初めて出したときは推薦文を書いてくれました。渡辺さんは今も年に1〜2回、将棋会を開いているそうです。

渡辺さんの作品は、近年は『失楽園』『愛の流刑地』などの恋愛小説が有名です。しかし以前は、札幌医大・整形外科の医師という経験を生かして、医学の分野を題材にした小説を数多く発表し、40年前に『光と影』で直木賞を受賞しました。最近は、定年退職した男性の社会や家庭での疎外感をテーマにした『孤舟』が話題作として売れています。渡辺さんは喜寿のお祝いの会で、次のような挨拶をしました。

「私は母から女難の相があると言われました。さすがにもうないでしょうが、もしあったらボケ老人の視点で書きます。70代になって、60代・50代の年下のことを書けるようになり、かえって題材が広がりました。年を取ったからこそ書ける、というのが自分の財産で、『孤舟』がその例です。中高年の人たちには、ぜひ恋愛を勧めたい。恋愛をすると、体も気持ちも若返ります。素敵な女性を見て、心をときめかすだけでもいいんです」

今春に60歳を迎えた私としては、「年を取ったからこそ書ける」という言葉にとても感じ入りました。「書ける」を何かの「〇〇〇」に充てたいと思いました。

次回は、私と弟子たちが集まった田丸一門会。

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2010年11月 2日 (火)

新宿将棋センターで20年ぶりの指導対局

新宿将棋センターで指導対局

私は10月中旬、将棋連盟から依頼されて東京・新宿将棋センターで指導対局を務めました。1970年代半ばから80年代後半までの15年間、常任講師として月1回の指導対局をしていたので、じつに20年ぶりのことでした。

新宿将棋センターはかつて「日本一の将棋クラブ」といわれました。経営者は詰将棋作家としても著名な金田秀信さん。45年前に小田急線・下北沢に出したのを皮切りに、新宿・伊勢丹の辺り、コマ劇場の辺りと経て、35年前に歌舞伎町入口の靖国通りのビル5階に移転しました。床面積は50坪以上とかなり広く、一度に150人が指せました。当時の広告を見ると、駒音が聞こえない電話コーナー、安くておいしい軽食コーナー、テレビを見れる休息コーナーなど、客に対して対局以外のことにも気配りしました。

金田さんとスタッフがまず心がけたのは、フロントで入場者に対して名前と段級をできるだけ聞かないことでした。つまり大半の客のことを把握していたのです。それと、すぐに対局を付ける、なるべく平手にするなど、客の希望に添った「手合い」を重視しました。ただ段級の認定は厳しくしたので、昇段や昇級が間際になると、少し待たせても成績の良い人を当てました。とにかく、客にいかに将棋を楽しんでもらえるかに傾注しました。そのかわり、ほかの客に迷惑をかけるような人に対しては、「お金は返すから帰ってください」と言って断固とした措置をとりました。

そうした経営努力が実り、新宿将棋センターは連日のように大入りとなりました。平日でも300人〜400人、週末はもっと増えました。手合いが付いても満席で指せない「対局難民」も現れました。私も指導対局で希望者が途切れず、15人以上と指したこともありました。そんな盛況を見て、「自分も将棋クラブを開いてみたい」と思った客もいました。金田さんは何回も相談され、そのたびに「実際は大変な仕事です」と答えたそうです。

世の中が移り変わってネット時代になると、将棋クラブで人と指すよりも、パソコンやゲーム機で将棋を楽しむ人が増えてきました。客の高齢化や経済不況も影響し、盛況だった新宿将棋センターも入場者が激減しました。そして経営立て直しの一環で、昨年の6月に靖国通りから大ガードを越えた西武新宿駅の向こう側のビルに移転しました。その後、経営形態も変わって連盟の直営道場となり、棋士たちが毎日交替で指導対局をしています。

私がその新宿将棋センターに行くと、以前のように金田さんがフロントに座っていました。今年で82歳と高齢になりましたが、てきぱきと手合いを付けていました。金田さんの話によると、入場者は最盛期の3分の1だそうです。

写真は、新宿将棋センターの対局光景。平日の昼間でも多くの人で賑わっていました。私は約10人に指導対局をしました。中には、私に20年以上前に指導を受けた人もいました。元奨励会6級という人とは平手で指しました。

ネット将棋が盛んな昨今ですが、じかに人と指す「生将棋」もいいものです。ぜひ近くの将棋クラブに行って指すことをお勧めします。

次回は、田丸が新宿の将棋クラブで手合い係を務めた41年前の思い出。

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2010年8月16日 (月)

渦中の小沢一郎も出席した「囲碁・将棋チャンネル」20周年パーティー

囲碁・将棋チャンネル

パーフェクTV、ケーブルテレビで放送されている「囲碁・将棋チャンネル」は、囲碁は竜星戦、将棋は銀河戦などを主催しています。そのほかに囲碁・将棋の定跡講座、棋界情報、お好み対局などの番組を毎日20時間放送しています。現在では視聴可能世帯が500万世帯を超え、囲碁・将棋の専門チャンネルとしてすっかり定着しました。

その囲碁・将棋チャンネルが今年で放送開始から20周年を迎え、8月6日に東京・赤坂「ホテルオークラ」で記念パーティーが盛大に開かれました。囲碁界からは日本棋院理事長の大竹英雄九段、井山裕太名人、張羽棋聖、将棋界からは将棋連盟会長の米長邦雄永世棋聖、森内俊之九段、清水市代女流王将などが出席しました。総勢で約50人の囲碁棋士、将棋棋士が一堂に会したのは、かなり珍しいことだと思います。

私はこのパーティーで、女流本因坊・女流名人など女流四冠を史上初めて獲得した囲碁棋士の小林泉美六段に久しぶりに会えるのを楽しみにしていました。父親は小林光一九段、母親は故・小林禮子七段、夫君は張棋聖と囲碁一家にいる泉美さんとは、禮子さんも含めて以前にちょっとした縁がありました。

26年前の1984年4月。私が東京・小金井の小学校に娘の入学式で行ったとき、面識があった禮子さんと同席し、新入生の泉美さんと同じクラスになったのです。初めての授業参観では、知的障害がある生徒が勝手に黒板で絵を描き始めると、保護者たちがはらはら見ている中で、禮子さんはさっと近寄って相手をしてあげました。その臨機応変の対応ぶりに、さすがに囲碁で教え慣れているものだと感心しました。それにしても、囲碁棋士と将棋棋士の娘が同じ小学校で同じ学年で同じクラスというのはすごい偶然でした。残念ながら泉美さんはパーティーに欠席したので、夫君の張さんに思い出話を伝えました。

このパーティーには与野党の政治家が何人か出席しました。原口一博(総務大臣)、海江田万里(衆院議員)、三宅雪子(衆院議員)、福田康夫(元首相)、大島理森(自民党幹事長)、山東昭子(前参院副議長)、与謝野馨(元財務大臣)など。

原口は熱心な将棋愛好家です。海江田は9月の民主党代表選挙に出馬を表明していて、与謝野とは同じ選挙区。三宅と福田も同じ選挙区。山東は以前に芹沢博文九段に将棋を習い、民放の将棋番組で詰将棋コーナーを担当したことがあります。与謝野は小沢一郎(民主党前幹事長)と囲碁仲間で、2年前に水面下で話し合われた自民党・民主党の大連立の陰のパイプ役ではないかと取り沙汰されました。このように出席した政治家たちは、それぞれが微妙な関係と立場にいました。

パーティーの終了間際、渦中の政治家が登場しました。囲碁のお好み対局の番組に出演したこともある小沢一郎です。小沢は笑顔を浮かべて歓談し、2人の女流棋士と写真に収まりました。左から、囲碁棋士の小川誠子六段、小沢、清水女流王将。一瞬のことだったので、写真の出来は良くありません。さすがに小沢は存在感があり、会場の雰囲気はがらっと変わりました。そして、疾風のように去っていきました。

次回(来週)は、コメントへの返事。

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2010年7月20日 (火)

福島・裏磐梯の民宿で山菜、竹の子の山の幸を満喫

福島・裏磐梯の民宿

私は6月下旬、友人たちと一緒に福島・裏磐梯に旅行しました。東北自動車道・郡山、猪苗代を経て「磐梯山」の東山麓を北上し、「檜原湖」の北東にある早稲沢温泉の民宿「森川荘」を初めて訪れました。檜原湖の周辺は四季それぞれに自然が美しく、冬は完全結氷した湖面でワカサギの穴釣りをするのが風物詩になっているそうです。

「シクラメンのかほり」「愛燦燦」などのヒット曲を作詞したシンガーソングライターの小椋佳は大学時代の夏休み、早稲沢に滞在して豊かな自然に魅了され、当地に小椋の姓が多いので、後年にペンネームにしたそうです。私たちが泊まった民宿の主も小椋でした。

私たちは民宿に着くと、釣り・山菜採り・散策と自由に過ごし、源泉かけ流しの温泉で汗を流してから夕食を迎えました。旅館のようにマグロ刺身や肉料理は出ませんが、山や畑で採ったばかりの山菜の料理が数多く並びました。当地は標高850メートルなので6月でも採れます。山菜はタラノメ、ワラビ、フキ、山ウド、ミズ、ミョウガなどと豊富で、山の幸を満喫しました。根曲(ねまがり)竹の炊き込みご飯も美味しかったです。

こうして山里の料理を肴に地酒や焼酎を飲んでいると、まるで時間が止まっているような雰囲気で、日々の雑事から解放されて命の洗濯をした気分です。友人が強く勧めてくれた理由がわかりました。有名な観光地に行くだけが旅行ではない、と改めて思いました。

ちなみに、この民宿ではビール以外のお酒は無料で飲み放題で、宿泊代は7000円でお釣りがきます。夏にはある大学の陸上部が合宿します。2年前の北京五輪で長距離走(1万、5千メートル)の代表選手になった赤羽有紀子も、この民宿を最終合宿地にしました。

翌日は檜原湖の南東にある「五色沼」に行きました。磐梯山は約120年前に大噴火を起こし、周辺に檜原湖をはじめとした数多くの湖沼群を作りました。五色沼もそのひとつです。毘沙門沼、青沼、赤沼、るり沼などが点在し、片道約1時間の自然探勝路が沼に沿っています。それらの名称のように、沼に溶け込んでいる鉱物や光の具合によって水面がいろいろな色に見えます。写真は、最も大きな毘沙門沼で、背景には磐梯山。山容が少し凹んでいるのは、噴火によって岩石が飛び散ったからです。

私は16歳のころ、師匠(佐瀬勇次名誉九段)に連れられて東北の将棋大会に行った帰りに五色沼に寄りました。ただ44年前に感じた秘境のような印象とは、やや違っていました。大型バスが引っきりなしに来て、観光地化されているからかもしれません。

私は、帰途は友人たちと別行動しました。民宿に連泊した翌日、磐越西線・猪苗代〜会津若松、会津鉄道・会津若松〜新藤原のルートで乗車、東武日光線、JRと乗り継いで帰京しました。お目当ては、会津鉄道の車窓から見る景色でした。約30年前に沿線の栃木・川治温泉に行ったときは、会津まで開通していませんでした。車窓には、ひっそりとした山間や集落の光景が繰り広げられました。後で聞いた話では、その一帯は平家の落人がかつて住んでいたそうで、そうした歴史的な事情もあったのでしょう。

次回は、コメントへの返事。

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2010年7月 5日 (月)

ワールドカップ観戦で思ったサッカーと将棋の共通点

サッカー・ワールドカップ・南アフリカ大会で日本代表チームは、8年前の日韓大会以来のベスト16に進出する活躍ぶりでした。大会前の評価が散々だっただけに、大いに健闘したと思います。その立役者として、2ゴール・1アシストで貴重な得点に貢献したFWの本田圭佑が脚光を浴びています。また、上位ランクチームとの4試合で失点がわずか2点と体を張って守り抜いた、GKの川島永嗣、DFの中沢佑二、マルクス闘莉王らもよく頑張りました。

私はワールドカップでの日本の4試合をテレビ観戦しました。それを見て改めて思ったのは、サッカーと将棋はゲーム性や戦術面で共通点が多いことです。ゴール(詰み)をめぐって、両チームのFW・フォワード(攻め駒)とDF・ディフェンダー(守り駒)がピッチ(盤上)で激しく交錯します。攻守に働き回るMD・ミッドフィルダーは、攻防の要の「銀」のような存在です。監督が決めるそれらのFW・MD・DFの先発選手は、まさに序盤作戦です。選手間の連携や攻防のバランスが大事なのも同じです。リザーブ(持ち駒)の選手を、いつどのように投入するかも試合の流れのうえで重要です。ドリブル、パス、トラップ、サイドチェンジなどの細かい技は「手筋」そのものです。

日本のサッカーは、かねてから得点力不足が指摘されています。その問題でスポーツジャーナリストの二宮清純は約10年前、「詰将棋を新たな引き出しに」という見出しの記事をスポーツ紙に書きました。将棋好きの二宮は大阪に行くたびに通天閣の近くの将棋クラブに立ち寄り、ガラス窓越しに観戦するのを楽しみにしているそうです。そこで飲んだくれのようなおじさんたちが、終盤で10手以上も先を読んで玉を詰める光景を何度も見ました。そんな体験から、次のような記事を書いたのです。

「詰将棋に対する情熱と分析能力は、日本の庶民が誇る立派な文化だ。これはサッカーに例えれば、ゴールに至るプロセスである。得点力不足に悩んでいる日本代表監督(当時・トルシエ)は、半日でも通天閣周辺を歩けば、日本人観を劇的に変化させるはずだ。そして、まだ使ったことのない新たな引き出しに手をかけるきっかけになるだろう…」

二宮の主張は、論理的思考で玉を詰める詰将棋はサッカーのゴールに似ているということで、暗に選手たちに詰将棋を奨励したのです。その後、日本代表監督になったジーコにも将棋を紹介し、詰将棋とゴールとの共通点を説明したそうです。

スポーツ紙に掲載されたJリーグ・サッカー選手名鑑で、将棋が趣味と記されたのはFWの北嶋秀朗(柏)とDFの波戸康広(横浜)。北嶋は日本代表選手時代の約10年前、相手の動きを読む将棋には、ゴールを奪うストライカーの役目と共通点があると考え、実際に将棋をイメージトレーニングに取り入れました。

日本サッカー協会名誉会長の川淵三郎も将棋を愛好し、社会人時代は昼休みによく指しました。東京オリンピックにも出場した選手時代は、足が速かったので「香車みたいだ」と仲間に言われたそうです。

次回は、参議院選挙に出馬が噂された棋士たち。

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2010年6月15日 (火)

東西棋士のテニス対抗戦は関西が勝ち越し

東西棋士のテニス対抗戦

私の趣味は30年も続けているテニスです。青空の下でボールを打っていい汗を流すと、爽快な気分になって健康維持に役立っています。過去を振り返ってみると、心身がリフレッシュして将棋にも良い影響がありました。ただテニスの後のお酒がおいしく、つい飲み過ぎてしまいます…。

3年前に棋士たちのテニス同好会が作られ、月1回ぐらいのペースでプレーしています。メンバーは田丸、高橋道雄九段、佐藤秀司七段、北島忠雄六段、遠山雄亮四段、潮隆次五段(指導棋士)。これとは別に、高橋九段が若手の女流棋士たちにテニスを教えていて、いずれ上達すれば仲間に加わるでしょう。

高橋もテニス歴が長く、強力なサーブとストロークが持ち味です。以前に全仏オープンを観戦にパリへ行きました。佐藤はテニススクールに通ったので基本に忠実で、東北出身らしく粘り強いです。北島は1打ごとに丁寧に打ってミスが少ないです。遠山は漫画「テニスの王子様」のモデルとなった成蹊大学のテニス部出身です。潮はインドネシアのバリ島と行き来していて、バリ仕込みの南国風テニスです。田丸は棋風と同様に攻めのテニスで、サーブ・アンド・ボレーで激しく攻め込みます。

この6人の棋士でダブルスを楽しんでいます。それぞれのプレースタイルが棋風に似ているところが面白いです。みんなの腕前は、テニス歴が長い分だけ私が少しうまいですが、だいたい同じようなレベルです。

じつは関西の棋士たちにもテニス愛好者が多く、いちど一緒にプレーしたいと思っていました。それが5月下旬に実現しました。東京で開かれた棋士総会のときに帰りを延ばしてもらい、翌日に東西対抗テニスを行いました。関西の参加者は福崎文吾九段、坪内利幸七段、東和男七段、関西本部職員の斉藤明宏さん。

写真は、前例左から佐藤、潮、北島、遠山。後列左から高橋、斉藤、東、福崎、坪内。田丸は撮影者。会場は東京・目白の「大正セントラルテニスクラブ」で、このクラブのコートをいつも借りています。

関東と関西のペアに分かれ、相手を変えながら対抗戦を行いました(試合は4ゲーム先取で勝ち)。東・斉藤ペアは、2人ともボールが鋭くて本格的でした。福崎・坪内ペアは、不思議な強さがありました。坪内が柔らかく打ったりロブ(山なりの高いボール)で相手の調子を崩し、甘くなったところを福崎がボレーで決めるパターンで、関東方はそのペースにすっかりはまりました。坪内は以前に15日連続でテニスをしたほどのスタミナがあり、福崎は棋風と同様に独特の実戦テクニックがありました。

東西対抗テニスはおよそ10試合して、関西が6割ぐらいの率で勝ち越しました。来年には再戦してお返しをしたいものです。

次回は、40年前に36歳で早世した山田道美九段。

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2010年5月31日 (月)

名人戦の大盤解説会で行った九州・熊本での観光

九州・熊本での観光

私はこの半年間、九州へ仕事で4回も行きました。昨年10月に女流王位戦の立会人で福岡県飯塚市。今年2月と3月にこども将棋教室の指導で大分市と佐賀市。そして5月上旬に全国的に開催された名人戦第3局の大盤解説会で、熊本の会場に派遣されました。

名人戦(羽生善治名人―三浦弘行八段)は羽生の4連勝で終わりましたが、いずれの対局も熱戦でした。とくに第3局は終盤で大波乱が起き、解説会で私と参加者たちは固唾を呑んで戦況を見守りました。三浦が精魂尽きて投了した局面が、じつはまだ難解な形勢だったことが局後に判明しましたが、それだけ大激闘だったのです。

近年の解説会の特徴はIT化です。解説者はパソコンのネット中継を見ながら、ほぼリアルタイムで指し手を進めます。以前は現地や将棋連盟と電話やファクスで連絡し合ったので、タイムラグがよく生じました。将棋ソフトを持参した参加者からは、「コンピュータはこの局面でこう指します」と聞かれたりします。その中には失笑するような手もありますが、時には感心するような手もあります。

近年のコンピュータ将棋ソフトの実力向上は目覚ましいものがあります。とくに詰めの有無を調べる検索で「この局面で詰みがあります」と表示すれば、間違いなく正解です。詰めの能力はすでにプロ棋士を超えているからです。

大盤解説会の翌日、すぐ帰京しないで観光しました。熊本を南下して八代に行き、肥薩線に乗り換えて人吉に向かいました。車窓からは青々とした球磨川の流れと切り立った山を眺められ、山水画のように美しい光景でした。仕事の空き時間にする観光では、ローカル線に乗って車窓を眺めるのが効率的な楽しみ方です。

阿蘇山にも初めて行きました。熊本から豊肥本線に乗って阿蘇まで行き、バス・ロープウェイを乗り継いで、火口付近まで登りました。写真は、今でも噴煙を上げている阿蘇五岳のひとつの中岳(標高1506M)。立ち上がる噴煙の下側には、この世のものとは思えないエメラルド色が見えました。湯だまりの硫酸とのことです。この火山性ガスは有毒で、風向きによって火口付近は立ち入り禁止となります。当日もロープウェイの上りの駅まで歩いていると、急に咳込みました。ロープウェイの運行も一時休止されました。

熊本では、新鮮な馬刺し、高菜ご飯、米焼酎がとくに美味しかったです。それから九州全般にいえることですが、牛・豚・鶏・馬などの肉料理がとても美味しかったです。それだけに、宮崎で起きている家畜の疫病問題が心配です。

次回は、女流棋士研修会での歴史講義。

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2010年5月10日 (月)

漫画家・さかもと未明さんを「と金人脈」で取材

さかもと未明さんを取材

私は将棋専門紙の『週刊将棋』(駅売店で発売)で、将棋を愛好したり関連がある著名人を紹介する「と金人脈」というコラムを、1年以上にわたって連載しています。

作家・政治家・俳優・歌手・スポーツ選手などと職種に分けた構成にし、これまでに山口瞳、渡辺淳一、田中角栄、菅直人、渡辺徹、吉永小百合、前川清、松任谷由実、長嶋茂雄、杉山愛らが登場しました。中には意外な顔ぶれもいますが、いずれも将棋や棋士と縁がある人たちばかりです。私は実際に会ったり話したことを元に書いています。私が30年以上前に撮った、長嶋茂雄、吉永小百合が将棋を指した珍しい写真も紙面に載せました。

先日、「と金人脈」の取材で漫画家・さかもと未明さん(写真・右)と会う機会がありました。未明さんは熱心な将棋愛好家で、定期的に棋士から指導を受けています。

未明さんは主にレディースコミック誌で活動し、小説・エッセイの執筆、テレビの情報番組出演(日本テレビ系『スッキリ!!』)と、幅広く活躍しています。そのほかに杉本彩、川島なお美らの芸能人との交流、趣味のジャズボーカルと、多彩な日々を送っています。

そんな未明さんと将棋との出会いは、漫画の取材で将棋会館を訪れた3年前でした。そして偶然の縁によって、女流棋戦の観戦記者を引き受けたのです。駒の動かし方もよく知りませんでしたが、紹介された島朗九段に基本から習うことにしました。

女流棋戦の対局観戦では、対局者を関係者と思い込んで記念写真を撮ったり雑談したら、「対局前なので集中していいですか」と言われて初っ端から失敗しました。しかし、初めて見た女流棋士たちの気合いあふれる戦いに感動したそうです。真剣な表情にも魅力を感じ、自分もこんな顔で仕事に取り組みたいと思いました。

未明さんは観戦記者の体験によって、将棋の楽しさと棋士の魅力に引かれたそうです。何事も三日坊主というのに、将棋だけはその後も続けていきました。自分で楽しむだけでなく、出演するテレビ番組や自身のブログで、将棋の楽しさを語って世間にアピールしています。また、ある女流棋戦の個人スポンサーとして女流棋士たちを応援しています。

私は未明さんへの取材後、平手の手合いで将棋を指しました。未明さんは矢倉囲いに玉を固めると、銀を中段に進めて1筋の端から攻め、1筋から破ると飛車を敵陣に侵入させました。理想的な指し方で、最後は金打ちの王手で私の玉を詰めました。

未明さんは後日、「田丸先生は私が勝てるように指してくれました。島先生の厳しい刺激的なレッスンも楽しいけど、たまにこんな風に優しく指していただくとすごく楽しい」とブログに書きました。私がメールで「将棋は簡単に上達しません。一歩一歩〈亀〉のように進んでいってください」と激励すると、未明さんから「亀でよいなら良かった。今後も生涯の趣味として、将棋を真面目に続けます。将棋には礼節で学ぶことが多いです。勝負に真摯な棋士の方々を心から尊敬しています」との返信メールがきました。

次回は、名人戦第3局と熊本での大盤解説会。

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2010年3月29日 (月)

九州、東北での「親子将棋教室」の空き時間に観光

「親子将棋教室」の空き時間に

2月から3月にかけて、「親子将棋教室」の指導で九州、東北に行きました。仕事は半日で終わったので、空き時間にちょっと観光しました。

2月下旬に九州・大分に行ったとき、地元の友人が車で案内してくれました。友人には高さと長さが日本一という「九重“夢”大吊橋」を勧められましたが、私は以前から行ってみたかった「豊後竹田」を希望しました。

豊後竹田はひなびた雰囲気の城下町です。作曲家・滝廉太郎が幼少時を過ごした地で、近くには名曲「荒城の月」のモデルになった城跡があります。私たちは滝廉太郎記念館、岡城跡、隠れ切支丹の洞窟礼拝堂を回り、帰りがけにお目当てにしたある滝に寄りました。

写真は「原尻(はらじり)の滝」で、幅120メートル・高さ20メートル。観光地図には東洋のナイアガラと記されていましたが、もちろん本場の大迫力とは格段に違います。ただ華厳の滝のような山間の滝とは違い、平地にあるのが特徴です。民家、田畑、道路に添って流れる小川が急に落ち込むのです。滝の周囲を散策でき、柵がないので落下地点まで近づけます。何か不思議な光景でした。

3月上旬に東北・秋田に行ったとき、ぜひ乗ってみたいローカル線が「五能線」(五所川原―能代)でした。日本海の海岸線を車窓から見る景色は、とても美しいそうです。最近は水森かおりの歌謡曲の題名にもなり、人気の観光コースとして知られています。

私は午前の将棋教室を終えると、秋田から在来線に乗って五能線・始発駅の能代に行きました。時間的に終着駅・五所川原は無理ですが、途中駅の深浦まで行くつもりでした。海岸線は十分に堪能でき、日本海に沈む夕日を眺められるかもしれません。しかし観光シーズンではないので発車は2時間後で、乗車すると宿泊する秋田に帰ってこれません。

しかたなく五能線の乗車はあきらめ、初めて訪れた能代市内を散策しました。日曜の午後なのに人出はまばらで、地方の市街に多いシャッター商店が目立ちました。30分ほど歩くと、東京ドームの20倍もある「風の松原」という広大な松林に着きました。当日の気温は5度以下でしたが、松林の中は日本海の浜風が遮られて意外と寒くなかったです。

能代駅前のうどん屋に入りました。細身の「片栗うどん」と漬物が絶品で、熱燗の酒によく合いました。店主や地元客の素朴な人柄もよかったです。列車の発車時刻が迫って30分ほどで出ましたが、能代にまた行ったらゆっくり過ごしたいと思った店でした。

空き時間を利用した気が向くままのローカル線の乗車と知らない街の散策。こんな「スロートラベル」も、けっこう楽しいものでした。将棋でいえば、定跡を離れた不定型の指し方でしょうか…。

次回は、今年度最終戦の中村太地四段との竜王戦。

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2010年3月25日 (木)

100人以上の小学生が参加した九州・佐賀の「親子将棋教室」

九州・佐賀の「親子将棋教室」

将棋連盟は昨年秋から今年3月にかけて、文化庁が主催する「親子将棋教室」の事業を全国各地で行い、指導を担当する棋士たちは手分けして各地を回っています。私は関東、長野、東北、九州など、7地区に行きました。どの会場も多くの子どもたちが参加して熱気があり、保護者の方たちが将棋は健全な娯楽と認識しているのが良かったです。

私は将棋を教えるというよりも、子どもたちと一緒に楽しむ気持ちで臨みました。大盤解説では、子どもたちに次々と質問しました。すると多くの手が上がり、指名された子は大盤の前で自分の考えを堂々と言いました。こうした双方向の講義は好評でした。

多面指しの指導対局では、本人が希望すれば平手で指しました。どの手合いでも、なるべく相手の狙いに応じるように指し、わざと負けてあげることもありました。とにかく「将棋って楽しいな」と思ってもらえばいいのです。

写真は、九州・佐賀での将棋教室で、会場は佐賀城内にある歴史館。何室も続く300畳の大広間に、大盤解説・指導対局・自由対局のコーナーが設けられました。当日は佐賀大学付属小学校の生徒が100人以上も参加しました。写真では見えませんが、奥の部屋には30面ほどの盤が置かれ、子どもたちが指しています。

100人以上の子どもたちが集まると、中には騒いだり動き回る子も出てきます。しかし先生方の指導が行き届いていて、じつに統制が取れていました。また、グループの班長を務める子どもたちが、自主的に整列させたり指示していました。将棋を指す子どもたちはじつにしっかりしているものだと、私は感心しました。

指導対局では「コ」の字形のテーブルの上に30面の盤が置かれました。私はできるだけ子どもたちと指したいと思い、同行した櫛田陽一六段(私の弟子)と一緒にフル回転で指しました。2時間半で合計50局は指したようです。

子どもたちの棋力は様々です。初心者の中には、銀が横に動いたり、盤上の駒がずれたり、勝手に何手も進んだりして、途中でわけがわからなくなることもありました。そんなときは自然体で指し、さっさと負けてあげます。

女の子も多かったです。中でも武富礼衣さんは、小学生名人戦の佐賀代表に2年連続でなった有段者で、今年の西日本大会では準々決勝まで勝ち進みました。私は武富さんと平手の手合いで指しました。教室終了時刻の10分前に始まったので、1手1秒の超早指しでしたが、武富さんの指し方は驚くほど正確でした。終盤では私のほうが間違えてしまい、見事に負かされました。今後の棋力向上と活躍が楽しみな女の子です。

今回の「親子将棋教室」は麻生政権の置き土産で、今年度の補正予算で組まれました。現下の鳩山政権では今のところ未定です。日本の伝統文化を子どもたちに広めることはとても意義があります。来年度も実現されることを願っています。

次回は、各地の将棋教室の合間での観光。

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2010年3月18日 (木)

「直木賞受賞式」で見かけた将棋と縁がある作家たち

2月の直木賞受賞式

私は2月19日に東京・日比谷の東京会館で開かれた「直木賞・芥川賞受賞式」に出席しました。今回の芥川賞は該当作がなく、直木賞は佐々木譲さんの『廃墟に乞う』、白石一文さんの『ほかならぬ人へ』の2作が受賞しました。

佐々木譲さんは私と同世代で、将棋が好きと聞いたので共通の知人に紹介してもらったことがあります。私が好きな作品は『ベルリン飛行指令』。戦時中に日本人パイロットが極秘指令で「零戦」に乗って同盟国のドイツへ向かう痛快な話です。最近は『警官の血』などの警官シリーズが人気作です。白石さんは父親の白石一郎さんに次いで父子二代の受賞。

写真は、選考委員を務めた作家たち。左から渡辺淳一さん、浅田次郎さん、北方謙三さん、阿刀田高さん、林真理子さん、宮部みゆきさん、山田詠美さん。じつに豪華な顔ぶれで、渡辺さん、浅田さん、北方さんの和服姿はまさに「文壇」という趣があります。欠席したほかの選考委員は、五木寛之さん、宮城谷昌光さん、村上龍さん、川上弘美さんなど。

私は以前に将棋のエッセイを文芸誌に連載していました。その関係でこうした文芸バーティーに出席することがたまにあり、将棋を愛好する作家と懇談するのが楽しみでした。

渡辺淳一さんは熱心な将棋愛好家で、文壇きっての強豪です。30年ほど前には将棋好きの編集者らを自宅に集めて将棋会をよく開き、私は若手棋士のころに何度も伺いました。渡辺さんは奇手やハッタリを用いない堅実な棋風です。どんなに不利でも勝負を捨てず、「さあ、醜くのたうちまくって死んでやるか」と言っては頑張り抜きます。こと将棋に関しては、安楽死や情死をテーマにした作家とは思えません。

バーティー会場で会った逢坂剛さん、船戸与一さんも将棋が好きです。逢坂さんは今年の正月にNHKで放送された『大逆転将棋』の番組に出演し、羽生善治名人に対して健闘しました。以前に文芸誌で『棋翁戦』という将棋バトルが企画されたときは、逢坂、船戸、夢枕獏さん、志水辰夫さん、黒川博行さんらの作家たちが参戦して盛り上がりました。

林真理子さん、宮部みゆきさんは、将棋雑誌で棋士と対談したことがあります。

林さんは直木賞を受賞した24年前、同じ山梨県生まれのよしみで米長邦雄(永世棋聖)と対談しました。林が「山梨に過ぎたるものは武田信玄と堀内恒夫(元巨人監督)と昔は言われましたが、今は信玄と米長邦雄ですね」と言えば、米長は「いや、今は林真理子とロス事件の三浦和義です」と応じ、とても和やかな雰囲気でした。

宮部さんは10年前、羽生善治と対談しました。じつは宮部の初期の作品に将棋の強い少年が出てくるので、私がパーティー会場でそのことについて話しかけてみると、宮部から「父親が大の将棋好きで、子どものころに姉と一緒に将棋を習いました」と、思いがけない返答を得ました。それがきっかけとなり、私が羽生・宮部の対談を設定したのです。

ほかの作家では、内田康夫さん、西村京太郎さんも将棋愛好家です。その話は、いずれまた…。

次回は、38年前の3月21日の田丸のデビュー対局。

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2010年1月25日 (月)

青森・三沢の「親子将棋教室」で楽しみながら子どもたちに指導

青森・三沢の親子将棋教室で指導
私は先週の週末に青森県三沢市を訪れ、「親子将棋教室」で子どもたちに指導しました。写真は、会場から見た街の光景。平年は雪があまり降らないそうですが、3日前の雪で少し積もっていました。昼の気温は晴天でも零下で、さすが北国だと実感しました。その代わり魚介類がとても美味しく、地元将棋関係者との懇親会で出された、津軽海峡産の本マグロとウニは絶品でした。

将棋連盟は昨年秋から今年3月まで、全国各地で地元支部と協力して「親子将棋教室」を実施しています。指導を務める棋士たちは、手分けして各地に出向いています。私は昨年11月の長野・飯田に次いで2回目。今回は伊藤能五段と同行しました。

三沢の将棋教室には、主に小学生の親子ペア(約30組)が参加し、女の子も何人かいました。今回は大盤による講義は省略し、多面指しの指導対局をしました。「コ」の字形にテーブルをセットした中に私が入り、周りの5人と同時に指す形です。指導対局では「駒落ち戦」が一般的ですが、子どもたちが希望すれば「平手戦」にも応じました。普段からよく指している将棋のほうが、力を発揮しやすいと思ったからです。

上級者の棋力は1級ぐらい。矢倉、四間飛車などの定跡を知っていて、狙いを持って指します。私はそれに応じて手加減し、攻めさせたり反撃したりの攻防を繰り広げました。

子どもたちの半数以上が、駒の動かし方をやっと覚えた程度でした。中には、駒を取られる手を指したり、意味不明の手を指したりします。まあ、仕方のないことです。私はそんな場合、「それは取られるよ」「歩を使ってごらん」「いい手があるよ」などと教えながら、わざと悪い手を指して負けるように指します。

私は子どもたちへの指導対局で、正しい指し方を教えながら、棋力によっては、いい手を指させて勝たせ、誉めることにしています。将棋の面白さを、勝つことで知ってもらいたいからです。ただ両方(教える・誉める)の手綱の引き具合が微妙で難しいです。学校教育や子どもの躾でも、同じことがいえるかもしれません。

今回の将棋教室では、私は子どもたちと一緒に楽しむ気持ちで教えました。その気持ちが伝わったのか、席が空くと次から次へと「お願いします」と言っては盤の前に座り、楽しそうに指していました。同席した保護者の方も、ひとつのことに集中している我が子の姿を見て満足そうでした。当日は保護者の方とも含めて20局ほど指し、勝ったり負けたり。平手戦では、初級者には負けました。

じつは、この「親子将棋教室」は麻生政権の置き土産でした。昨年の補正予算で文部科学省が主催する伝統文化支援事業が計上され、その中に将棋(囲碁も)が入ったのです。現下の鳩山政権でも、本予算で「仕分け」されずに継続してほしいと願っています。

次回は、一流棋士の証となる条件。

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2010年1月14日 (木)

ジャズピアニストの吉澤はじめさんが早水千紗女流二段に二枚落ちで快勝

吉澤アマと早水女流の二枚落ち戦
囲碁・将棋チャンネル「お好み将棋道場」の番組で、ジャズピアニストの吉澤はじめさんが早水千紗女流二段と二枚落ちの手合いで対戦し、私が解説を務めました。

吉澤さんはライブ演奏のほかに、音楽プロデュース、CM音楽作曲(森永カフェラテ、ニコンカメラなど)の活動をしています。私が主催した昨年秋の「将棋とお酒を楽しむ異業種交流会」では俳優の森本レオさんと指し、私が見たところ初段ぐらいの棋力でした。

吉澤さんの将棋番組出演は、私が推薦したものです。そこで対局前に特訓しました。アマ初段が女流プロに二枚落ちで勝つことは容易ではありません。上手(うわて・駒を落とす側)は攻め駒の飛車角はなくても金銀の守備が強いので、下手(したて・駒を落とされる側)はなかなか攻めきれず、いつのまにか押さえ込まれて完封されるのがよくあるパターンです。私との練習将棋でも、そんな結果となりました。

二枚落ちには「二歩突っきり」と「銀多伝」の定跡があります。しかし普段は平手ばかり指している人が、にわか仕込みで定跡を覚えて用いてもうまくいきません。何しろ上手は定跡の表も裏も知っているからです。

私は吉澤さんに対して、ある作戦を指南しました。吉澤さんが好む指し方をアレンジしたものです。それが写真の下手の陣形で「銀冠」という囲いです。まず守りを優先させ、早めに▲7八銀から▲8七銀と上げて上部を守ります。これによって、上手の金が五段目に出てきても▲7六歩で追えます。そして攻めでは▲4六銀と進め、▲3五銀から▲2四歩の2筋攻撃、▲5五歩の5筋攻撃を併用します。

写真の局面で、ポイントは上手の3筋の銀の動きです。△2二銀と2筋を守れば▲5五歩で5筋を攻め、△4二銀上で5筋を守れば▲3五銀で2筋を攻めます。実戦は▲3五銀△2二銀▲4六歩と進みました。この▲4六歩が好手で、次に▲4五歩と伸ばして▲4四歩△同歩▲同銀△同銀▲同角と銀交換する狙い。この攻め方も私が教えました。

じつは対局前、私が早水さんにこの作戦を伝えて応じてほしいと頼むと、了解してくれました。ただ研究と実戦はまったく別物です。上手はいろいろな策で下手を惑わします。早水―吉澤戦もそんな展開となりました。しかし下手は冷静に対処し、有利を着々と拡大していきました。そして「下手はいつか間違えるだろう」という私の予想は外れ、吉澤さんは早水女流に見事に快勝しました。

アマがテレビ対局でプロと指す場合、かなり強い人でも緊張して実力を発揮できないものです。しかし吉澤さんは「不思議なことに、とても集中することができました」とブログで語っていました。日頃のライブ活動などで精神的に鍛えられていたようです。

写真の下手の作戦はとても有効だと思います。二枚落ちで習っている方はぜひ試してみてください。

次回は、本年最初の対局について。

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2009年12月28日 (月)

「お魚好きね」と「お酒」で今年も健康な生活

「お魚好きね」で今年も健康生活
テレビの情報番組で「お魚好きね」の食べ物を取ると健康に良いと知り、日々の食生活で実践しています。これは、7種類の食品の頭文字をつなげた言葉です。私の場合、そのうえに「お酒」を常備薬として、毎日のように服用しています。そうして体をアルコール消毒しているので風邪ひとつ引かず、今年も健康な生活を送ることができました。

「お魚好きね」の「お」はお茶、「さ」は魚、「か」は海藻、「な」は納豆、「す」は酢、「き」はキノコ、「ね」はネギです。私は起きがけに黒酢ドリンク、昼は緑茶ドリンクを飲みます。朝食はサケの塩焼きに納豆、ワカメとネギの味噌汁。昼食はキノコの入った麺類。これですべて揃いますが、夜の食事でさらに補っています。

私は25年ほど前から週に2回、ある魚料理の店に通っています。そこは店主が毎朝、築地に行って鮮魚を仕入れてきます。メジマグロ、クロダイ、ワラサ、カンパチ、サザエ、ホタテなど、日替わりで多くの品数があります。すべて天然物なので美味しいうえに、量が厚切りで10切れほどあり、値段も1皿880円と安いです。刺身のつまはワカメで、これも美味しいです。そのほかに、焼き魚、煮魚、ナス炒め、冷奴、おひたしなどがあります。

春と秋には、カツオのたたきが絶品です。カツオ、ネギ、ワカメにシヨウガ醤油を和えたもので、すりおろした橙が隠し味になっています。

店主はとても山好きで、休日には山の幸を採りに奥多摩や山梨に行きます。春は山ウド、セリなどの山菜、初夏は竹ノ子の煮付け、秋はキノコ汁と、季節ごとに採りたての山の幸を味わえます。冬のこの時期は三浦海岸で採った浜大根、アシタバで、とくにカラシ菜の漬物が美味しいです。

冬は寄せ鍋、カキ鍋、ハマグリ鍋など、鍋物があります。写真は、私が大好きなハマグリ鍋。大振りの貝が何個も入っていて、貝の汁が美味しいです。鍋を食べたあとは、うどん、玉子、油揚げ、白菜を入れて仕上げます。写真の尾頭付きの焼き魚はイサキです。ちなみに鍋は980円、焼き魚は880円、うどんセットは380円です。

魚料理が安くて美味しいこの店を、みなさんにも紹介したいところです。しかし店主が望んでいないうえに、15人も入れば満席になる狭い店なので、東京の中央線沿線という以外は、最寄り駅も店名も公表しません。ひとつ、写真で雰囲気を感じてください。

次回は、大晦日に来年へ向けての思い。

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2009年11月23日 (月)

菅直人さんが田中秀征さんと厚生大臣室で将棋

菅直人さんが厚生大臣室で将棋
1996年7月。私は将棋連盟の関係者と一緒に厚生省を訪れ、厚生大臣の菅直人さん(現・副総理)に将棋の免状を贈呈する場に同席しました。経済企画庁長官の田中秀征さん(現・政治評論家)もお祝いに駆けつけました。菅さんと田中さんは当時、自民党・社会党と連立政権を組んだ「新党さきがけ」に所属し、橋本内閣で初入閣しました。

その菅さんと田中さんは将棋の好敵手で、一時期は暇さえあれば指しました。当初は菅さんの勝ち越しでしたが、途中から負けが込んできました。田中さんの将棋は型破りで荒っぽく、少しでも甘い手を指すと付け込んでくるそうです。

田中さんは棋歴が長く、大学時代は渋谷の将棋道場に通いました。少年時代の中原誠(十六世名人)が受付をしていたそうです。94年に将棋雑誌で女流棋士と対談すると、連盟から三段免状を贈られました。そのとき「棋友の菅さんにも免状を上げてほしい」と頼み、それが2年後に実現したのです。なお私は、田中さんと同じ長野県生まれのよしみで懇意にしています。

菅さんへの免状は三段の予定でしたが、本人が田中さんに遠慮して二段になりました。厚生大臣室での免状贈呈式が終わると、菅さんと田中さんは大臣室のテーブルで将棋を指し始めました。写真がその対局光景。右が菅さん、左が田中さん、中が田丸です。

戦型は角換わり腰掛け銀で、かなり本格的な将棋でした。両者は猛烈な早指しでしたが、手筋を連発し合う素晴らしい内容で、観戦した私たちは大いに感心しました。著名人に贈る免状の段位は、大半が名誉的なものです。でも菅さんと田中さんの場合、実力どおりといえるでしょう。

菅さんと田中さんの将棋は、15分ほどでお開きになりました。菅さんは対局中、笑みをずっと浮かべて楽しそうに指していました。じつは当時、厚生大臣として薬害エイズやO―157の問題で厳しい立場にあり、記者会見では苦渋に満ちた表情を見せていました。それだけに、気のおけない棋友との将棋は、つかの間のオアシスとなったのでしょう。

菅さんは田中さんのことを、「20年来の盟友で、政界の『孔明』として尊敬しています」と語っていました。しかし厚生大臣室での将棋から3ヵ月後の総選挙で、両者の立場は一変しました。当選した菅さんは旗揚げされた民主党の幹部に就任、落選した田中さんは政治評論家に転身しました。その後、将棋は指したのでしょうか…。

次回は、以前の「穂高」さんのコメントについて。

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2009年11月19日 (木)

森田正光さんの気象解説の原型は将棋番組

森田正光さんの「お天気」将棋
「紅葉はとてもきれいですが、木が自分の老廃物や排泄物を葉に混ぜて地上に落としたもの。だから紅葉は1年に1回のウンコなのです」「今年はネズミ年なので、お天気にチュー意しましょう」

テレビの気象番組といえば、実直そうな気象協会の人が歳時記風にほのぼのと語るのが定番でした。それだけに、夕方の食事時にウンコの話をしたりダジャレを飛ばす、こんなユニークな解説を以前に聞いたとき、私は変わった気象予報官がいるものだと思いました。その人が、お天気キャスターの草分けの森田正光さんでした。

森田さんは1992年、気象協会を辞めてフリーのお天気キャスターとして独立し、以前から出演していたTBSテレビと専属契約を結びました。仲間には「2年でぽしゃる」と言われたそうです。でも93年の異常気象や気象予報士試験などの社会的話題が追い風となり、業績は順調に伸びていきました。今では、スタッフ40人を抱える気象予報会社の代表になっています。

写真のように、森田さんは将棋が大好きで、じつに楽しそうに指します。20代のころから将棋に熱中し、将棋クラブによく通いました。ある年にボーナスの大半をはたいて高額な将棋盤を衝動で買うと、奥さんにひどく怒られたそうです。

森田さんはテレビの将棋番組を見ていて、芹沢博文(九段)の解説が面白かったそうです。芹沢は弁舌が達者でしたが、内藤国雄(九段)と米長邦雄(永世棋聖)の対局を「国を(クニオ)挙げての戦い」とダジャレで言ったり、話がやたらと脱線していい加減なところがありました。しかし専門的な部分はびしっと決め、それがカッコよかったそうです。森田さんは若いころ、自分もあんな天気予報をしたいと思いました。つまり森田さんの気象解説は、将棋番組が原型となっているのです。

私は森田さんと14年前に初めて会いました。それ以来、同年のよしみもあって親しく付き合っています。森田さんの棋力は三段ぐらい。玉の守りを堅くしてから激しく攻める将棋です。先日の「異業種交流将棋会」では政治評論家の田中秀征さんと指し、勝ったり負けたりのいい勝負でした。

台風が来た日の夕方のニュース番組で、堀尾キャスターが森田さんに「森田さんの人生にも嵐の時期があったようですが、今は雲ひとつありません」と意味深に言いました。じつは、森田さんは以前に写真誌のターゲットにされた一件があったのです。その森田さんと私は、来年に還暦を迎えます。お互いにたまには「マドンナ台風」に見舞われたいですよね…。

次回は、菅直人さんと田中秀征さんが厚生大臣室で将棋を指した話。

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2009年11月16日 (月)

八方破れに指す俳優の森本レオさんの「高円寺」将棋

森田レオさんの将棋は八方破れ
俳優の森本レオさんは将棋が大好きです。暇さえあれば東京・高円寺の酒場で将棋仲間と指しています。定跡にとらわれない八方破れの将棋が得意です。棋力は三段以上で、芸能界きっての強豪でしょう。俳優仲間では、長門裕之さん、大滝秀治さん、渡辺徹さん、石原良純さんらと、楽屋でよく指しました。

森本さんが将棋に熱中し始めたのは35年前。ある演出家と指して負けたとき、「将棋の筋が読めなくて、よく台本が読めるな」と言われ、それが悔しくて発奮しました。棋書を読みまくって勉強し、寝ても覚めても将棋のことばかり考えました。そして3ヶ月後に演出家と指し、散々に負かしました。森本さんが「役者より読みが甘くて、よく芝居が作れるな」と反撃すると、「将棋は強くなったけど、芝居もそれだけ熱心なら、いい仕事ができるのに…」と、またも毒舌を吐かれたそうです。

森本さんの将棋好きはやがてメディアに伝わり、テレビや週刊誌の企画で棋士とよく指しました。その相手は大山康晴十五世名人、中原誠十六世名人、羽生善治名人、米長邦雄永世棋聖、内藤国雄九段など、じつに豪勢な顔ぶれです。私も以前に森本さんと2枚落ちの手合いで指しました。序盤はいいかげんですが、中終盤がとても強い将棋です。

森本さんが行きつけの高円寺の酒場では、3分以上考えたら反則負け、待ったや口出しは5回までOK、どんなに長くても30分以内に終わらせる、という「高円寺」将棋のルールがあるそうです。ばたばたと早く指し、何回負けても「ちぇっ、ついてないや。じゃ、つぎいこう」と言って、延々と指し続けるのです。

森本さんは将棋の楽しさについて、「将棋って、2人の対局者で推理小説を作り上げるようなもの。しかも、どちらが探偵か犯人かわからず、途中で入れ替わったりします。そんな不安感を持ちながら指すのが楽しいんです。だから勝ち負けに、あまりこだわりません」と語っています。

前回のブログで紹介した「異業種交流将棋会」に、森本さんが初めて参加しました。写真は対局姿。背筋を伸ばしてなかなか絵になっています。久しぶりに有段者の強い人と指して緊張したようですが、得意の荒技を使って暴れ回っていました。

次回は、お天気キャスタ−の森田正光さんの将棋について。

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2009年11月11日 (水)

将棋とお酒を楽しむ異業種交流会

私は異業種交流の飲み会にたまに参加します。新しい人脈ができたり意外な話が聞けて、なかなか楽しいものです。じつは昨年から、お酒を飲みながら将棋を楽しむ会を季節ごとに開いています。人数は15人ぐらいで、いろいろな分野の人たちが参加します。言わば「異業種交流の将棋会」です。

この会は将棋教室ではありません。将棋を指す人、観戦する人、お酒と会話を楽しむ人など、それぞれ自由に過ごします。私は将棋の雑談に花を咲かせたり、初対面の人を取り持ったりし、その合間に将棋の講評と指導対局をします。前回の8月には、知人の高層マンションの部屋をお借りして、お台場の打ち上げ花火を眺めながら将棋を楽しみました。こんな気楽な雰囲気なので、参加者の方々にはとても好評です。

将棋とお酒を楽しむ異業種交流会

今回は10月下旬、東京・中野の和食料理店で行いました。写真は、全員の集合写真。乱雑に置かれた板盤、料理、食器などが、会の盛り上がり(?)を示しています。中央の白髪頭が田丸です。

田丸の左は、政治評論家の田中秀征さん。菅直人(現・副総理)が将棋の好敵手で、菅が厚生大臣時代に大臣室で将棋を指したこともあります。

左から3人目は、お天気キャスターの森田正光さん。専門的でわかりやすい解説は、将棋番組の棋士の解説ぶりを参考にしたそうです。

左から2人目は、俳優の森本レオさん。芸能界きっての強豪です。語り口はほのぼのしていますが、将棋の指し方はかなり荒っぽいです。

田中さん、森田さん、森本さんは、将棋の腕前が三段以上。今回、初めて対戦して大熱戦を繰り広げました。この3人の将棋好きについては、次回以降にお伝えします。

そのほかに、ジャズピアニスト、チェリスト、雑誌編集者、出版デザイナーなど、いろいろな分野の人たちが将棋会に参加して、秋の夜長のひとときを楽しみました。

次回は、森本レオさんの将棋について。

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