将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

裏話

2017年6月 6日 (火)

5月29日の日本将棋連盟の通常総会で報告された三浦九段の冤罪問題の後始末

日本将棋連盟の今年の通常総会が5月29日に行われ、会長の佐藤康光九段から指名された議長(佐藤義則九段、畠山鎮七段)の進行で議事が進みました。

最初に新会員(藤井聡太四段、大橋貴洸四段、西田拓也四段、杉本和陽四段)が紹介され、前に並んで挨拶しました。中学生の藤井四段は義務教育中なので欠席し、「まだまだ未熟者ですが、強い棋士になれるように努力します」という内容の挨拶文を師匠の杉本昌隆七段が代読しました。

その後、常務理事からの各部報告と質疑応答、平成28年度決算報告書などの承認、監事からの監査報告などの議事を経て、4月27日の役員予定者予備選挙で選任された7人の常務理事、5人の外部理事、3人の推薦理事、2人の監事が拍手で承認されました。

そして上記の理事たちの互選によって、佐藤九段が会長に再任されました。専務理事には森内俊之九段、常務理事には森下卓九段、井上慶太九段、鈴木大介九段、脇謙二八段、清水市代女流六段が就任しました。今後は、佐藤会長と森内専務の両輪で将棋界の発展を図ってほしいものです。また、女流棋士の常務理事は初めてのことです。

新任された外部理事の1人の遠藤龍之介さんはフジテレビの専務で、父親は作家の遠藤周作さんです。アマ五段の棋力を持ち、多くの棋士と交友があります。総会では「12歳から10年間、将棋に夢中になっていました。将棋の人気が出るにはどうしたら良いのか、メディアでの経験を生かしていきたい」と挨拶しました。

将棋連盟は総会に先立つ5月24日に記者会見を開き、昨年10月に起きた三浦弘行九段への冤罪問題で和解が成立したことを発表しました。三浦九段が対局中に将棋ソフトを不正使用した証拠はない、連盟が三浦九段に科した出場停止処分はやむを得なかった、というのが骨子です。そして連盟が三浦九段に慰謝料(金額は非公表)を支払うことで合意しました。会見では佐藤会長と三浦九段が同席し、佐藤会長は改めて三浦九段に謝罪しました。三浦九段は「この問題が長引いて、藤井四段の活躍で盛り上がっている状況に水を差してはいけない。今後は将棋界の発展のために頑張りたい」と語りました。

「三浦九段の名誉回復に取り組む」と公約を述べた佐藤会長は2月に就任して以降、三浦九段と継続的に話し合ってきました。その話し合いと並行して、佐藤会長は三浦九段の不正の疑いを指摘した渡辺明竜王との話し合いも続けてきました。佐藤会長は両者の立場や考えを調停する役目を務めてきたのです。しかし、なかなか折り合わなかったようです。それが5月下旬にようやく和解に至った背景には、渡辺竜王からの何らかの動きに三浦九段が納得したからではないかと、私は推測しています。ただし具体的なことは不明です。

佐藤会長は総会で「この和解をもって、一連の騒動を終結させたい」と語りました。しかし冤罪問題の後始末は、連盟の財政に影響する結果となりました。

連盟の平成28年度決算報告書の経常外費用には「電子機器問題に関する諸費用」という項目があります。佐藤会長の説明によると、三浦九段への慰謝料、第三者調査委員会の弁護士たちへの費用、連盟の顧問弁護士への費用の合計金額とのことです。それは、タイトル戦の契約金に相当するほど高額です。

じつは第三者調査委員会への費用については、多くの棋士から開示を求める声が以前から出ていました。連盟の経理からの支出なので、正会員として知る権利は当然あります。佐藤会長は4月の会合で「三浦九段の問題が決着したら金額を公表します」と答えました。しかし総会では「公表すると、三浦九段の慰謝料の金額が想定されてしまう」と、契約上の理由から開示を拒否しました。

結局、総会では平成28年度決算報告書は承認され、「電子機器問題に関する諸費用」は連盟が負担することになりました。財政が決して豊かとはいえない連盟にとって、経済的に大きな損失です。それに、その支出は本来はまったく不要なものなのです。

一般の会社や団体で不要な経済的損失が生じた場合、経営陣や当事者は何らかの責任を問われるものだと思います。しかし連盟は三浦九段の冤罪問題では、「何か」と「誰か」に「忖度」したのか、誰も責任を取らない結果となりました。大方の棋士もそれを認めるような空気がありました。

連盟は6年前に社会性が重視される公益社団法人になりました。しかし実際には身内の都合が優先される「千駄ヶ谷村互助会」みたいな一面があるようです。

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2017年4月28日 (金)

4月27日の連盟理事予備選挙で佐藤九段、森内九段、清水女流六段など7人が内定

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4月27日に将棋連盟の会長・常務理事らの任期満了にともなう「役員予定者予備選挙」が東西の将棋会館で行われました。立候補した棋士は、東京(理事定数は5人)は、佐藤康光九段、森内俊之九段、田中寅彦九段、森下卓九段、鈴木大介九段、瀬川晶司五段、清水市代女流六段らの7人、関西(同2人)は、井上慶太九段、小林健二九段、脇謙二八段らの3人。【順不同。以下も同じ】

236人の正会員(現役棋士・引退棋士・女流棋士)のうち、当日の出席者は216人(89人の不在者投票を含む)でした。東西の按分は、東京・160人、関西・56人。投票の方式は定数連記制で、各人が東京は5人、関西は2人まで投票できます。

そして開票の結果、東京は佐藤九段、森内九段、森下九段、鈴木九段、清水女流六段、関西は井上九段、脇八段が理事に内定しました。7人の当選者の獲得票はいずれも100票を超えました。中でも佐藤九段と森内九段は、投票総数の約9割という高い獲得票でした。落選者は当選者に比べて、関西の票で下回ったことが影響したようです。

理事に新任されたのは森内九段、鈴木九段、脇八段、清水女流六段の4人。清水は女流棋士として理事選挙に初めて出馬し、当選を果たしました。

そのほかに、常務会が推薦した3人の非常勤理事(棋士・女流棋士・連盟職員)、5人の外部理事(経済界・放送界など)、2人の監事への「信任投票」が行われ、いずれも信任票が過半数を超えました。

5月29日に行われる連盟の通常総会では、新しく選出された常務理事・非常勤理事・外部理事・監事らが拍手をもって正式に承認されます。そして全理事が会する理事会で、互選によって連盟の会長・専務理事が決まります。佐藤九段の会長再任という説が有力ですが、森内九段も重職に就くと思われます。

かつてはタイトル戦で競い合った佐藤九段と森内九段が両輪となって、難題が山積する連盟の運営を立て直すことを大いに期待したいものです。

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2017年4月21日 (金)

田丸が三浦九段と半年ぶりに再会。将棋連盟の理事選挙での立候補者たちの公約

田丸が三浦九段と半年ぶりに再会。将棋連盟の理事選挙での立候補者たちの公約

【追記・4月26日】
現在発売中の『別冊宝島スペシャル』の中で、田丸が「知られざる加藤一二三伝説」という内容の評論記事を掲載。他に今年の春に引退が内定した森雞二九段へのインタビュー記事も掲載。
※宝島社刊。定価500円。主にコンビニの「セブンイレブン」で販売。

私は夕刊紙『日刊ゲンダイ』の知り合いの記者から要請されて三浦弘行九段への取材を仲立ちし、4月中旬に都内の同社で行われたインタビュー取材の場に同席しました。

写真は、私と三浦九段(右)。昨年9月に将棋会館での会合で見かけたとき以来ですから、半年ぶりの再会でした。三浦九段にとっても私にとっても、激動の半年間でした。

三浦九段は一連の「冤罪問題」について、当時の心境や経緯について淡々と語りました。その取材の数日前に銀河戦の対局で勝ち、今年2月に公式戦に復帰して以来、5局目で初勝利を挙げました。そのせいもあって晴れやかな表情でした。しかし、戸惑った表情を見せたり話しぶりが揺らぐことが時にあり、不正の汚名を着せられた後遺症がまだ残っているんだなと、私は思いました。とにかく三浦九段の冤罪問題は何も決着していないのが現実です。

三浦九段が語ったインタビュー記事は、5月の連休中に発売される『日刊ゲンダイ』特別号に掲載されます。

4月27日に将棋連盟の常務理事を選出する選挙が行われます。東京(理事定数は5人)は、佐藤康光九段、森内俊之九段、田中寅彦九段、森下卓九段、鈴木大介九段、瀬川晶司五段、清水市代女流六段らの7人、関西(同2人)は井上慶太九段、小林健二九段、脇謙二八段らの3人が、それぞれ立候補しました。

私は3月28日のブログで、「大物棋士や意外な棋士の出馬が取り沙汰されている」と書きました。その前者が森内九段です。後者は社会人出身の瀬川五段、女流棋士として理事選挙に初めて立候補した清水女流六段です。なお関西は過去5期の理事選挙で定数と立候補者が同数のために「信任投票」が行われ、今年のような通常の選挙は12年ぶりのことです。

それにしても前回の理事選挙で選出された7人の理事たちが、辞任・解任・選挙不出馬という形で、すべて入れ替わるというのは前代未聞のことです。三浦九段の冤罪問題が影響していることにほかなりません。

理事選挙の立候補者たちは「政策趣意書」という文書で公約を述べ、私たち正会員に配布されました。その内容の一部を要約して紹介します。

「理事会だけでなく、会員で組織する分科会を設けて問題を解決する」「コンピューターが棋士より強くなった今、各棋士の魅力と個性をどのように伝えるかが重要」「若手棋士の育成支援と、ウェブ・メディアでの普及活動を推進する」「将棋を東京オリンピックに向けた文化伝承の国家戦略に組み込み、世界に発信する」「運営に強く関わって頂ける常勤外部理事の導入を目指す」「新たなスポンサー、自治体、対局場と提携して、棋戦を安定強化させる」「国内はもちろんのこと、海外にも日本の将棋の素晴らしさを伝えていく」「子どもたちが楽しめる大会を増やす」「困難な時代だからこそ、新たな道を切り拓く先駆けとなって進んでいく」「和の精神で常務会と正会員との協力関係を築く」

10人の立候補者のうち、7人が政策趣意書で三浦九段をめぐる諸問題に触れ、早期に解決するための考えを述べました。このたびの連盟の理事選挙で、三浦九段の冤罪問題が投票にどのような影響を及ぼすのか、社会的にも注目されていると思います。

【新刊紹介】
私こと田丸昇九段が著した『名棋士の対局に学ぶ 詰め&必死』という書籍が発売されました。※創元社・1000円(税別)。
大橋宗桂、阪田三吉、大山康晴、羽生善治など、江戸時代から現代の古今の名棋士たちの実戦譜を題材にした次の一手の問題集です。
各問題には棋士のエピソードを添え、コラムでも名棋士たちの魅力的な一面を紹介しました。将棋界の歴史を振り返りながら、終盤の寄せの力を鍛えてください。

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2017年3月28日 (火)

将棋連盟の理事制度と理事選挙について

私がこのブログで書いた三浦弘行九段の「冤罪問題」については、多くのコメントが寄せられました。その中から、いくつか取り上げて私の見解と実情を述べます。

「将棋連盟の理事は相撲協会のように、理事全員が引退棋士で担うということはできないのでしょうか。現役棋士と役員の兼務は大変だと思います。引退棋士なら人生経験が豊富で、理事の仕事に専任できます」という内容のコメント(1月26日)は《こうめい》さん。

三浦九段の「冤罪問題」では、前常務会の当初の措置や以後の対応について、棋界の内外から批判が相次ぎ、結果的に谷川浩司(九段)会長をはじめ5人の理事が辞める事態となりました。そんな状況を踏まえて、現役棋士が理事を務めるのは大変ではないか、という外部の人たちの声があります。ただ相撲界では大半の力士が30代までに引退しますが、将棋界では大半の棋士が60歳ぐらいまで現役でいます。ですから単純な比較はできません。

過去50年の連盟理事の中で、引退棋士が理事を務めたのは加藤治郎名誉九段、高柳敏夫名誉九段、二上達也九段、米長邦雄永世棋聖、西村一義九段など、数人しかいません(理事在任中に引退した例を含む)。大山康晴十五世名人、中原誠十六世名人、塚田正夫名誉十段、丸田祐三九段、大内延介九段、板谷進九段、勝浦修九段などの一流棋士たちは、現役棋士のかたわら理事を務めました。

私たち棋士はそうした歴史もあって、現役棋士が連盟理事を務めることを自然に受け止めています。しかし近年の理事の業務は、私が理事を務めた時期(1989年~1995年)に比べて、かなり繁忙になっているような気がします。理事と棋士の「二足の草鞋」を履くことがいかに大変かは、谷川会長時代の前常務会の理事たちの公式戦の成績(とくに順位戦)を見たとおりで、相当な負担がかかっていたと思わざるをえません。

約50年前には、丸田九段、広津久雄九段が公式戦を「公務休場」して理事の業務に専念したことがありました。棋士としての待遇をある程度補完すれば、そういう立場の理事がいてもいいと思います。外部の人を常勤の理事に迎える、常務理事(現在の定数は7人)のうち1人は引退棋士を当てる、といったことも検討されてほしいですが、重要な制度改定は総会での決議が必要なので簡単には実現しません。

2011年に将棋連盟が公益社団法人に認可されて以来、理事の選挙制度は少し変わりました。以前は通常総会の当日に理事選挙(2年に1回)が行われました。現行は総会の1ヵ月前に「予備選挙」を行って常務理事を選び、総会で拍手をもって承認される形式です。常務会が推薦した非常勤理事、外部理事、監事は予備選挙の日に「信任投票」が行われ、投票総数(不在者投票を含む)の過半数で承認されます。

常務理事の選挙は、定数(東京5人・関西2人)の連記制です。東西の将棋会館で投票が行われた後、投票用紙に書かれた立候補者の名前を1人ずつ読み上げ、ホワイトボードに「正」の字を書き足していきます。これらの作業は新四段たちが務めるのが恒例です。出席した棋士たちは、ホワイトボードに書かれた「正」の字の数を見て、「Aはダントツで1位」「Bはぎりぎり昇級」「Cは降級圏内」などと、順位戦の昇降級争いに見立てて予想します。そして東西の票数を合わせて当選者が決まります。

通常総会は例年、6月上旬に開かれます。しかし今年は、2月27日の臨時総会で3人の常務理事が解任されて理事の人数が減ったことによって、時期を早めて5月に開かれるようです。今年で改選となる常務理事の予備選挙も合わせて前倒しされます。立候補期間は4月10日・11日、予備選挙は4月27日と決まりました。

その予備選挙に向けて、水面下ではいろいろな動きがあります。大物棋士や意外な棋士の出馬も取り沙汰されています。なお、私こと田丸昇九段は出馬しません。新しい常務会を外側からサポートするような役目を果たしたいと思っています。

次回も、このブログへのコメントを取り上げます。

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2017年2月28日 (火)

青野九段、中川八段、片上六段らの3人の理事が解任された2月27日の臨時総会

2月27日に午後1時から東西の将棋会館において、東西の会場を映像と音声でつないだ「テレビ電話」システムを使って将棋連盟の臨時総会が開かれました。三浦弘行九段の問題に基づいて、専務理事の青野照市九段、常務理事の東和男八段、中川大輔八段、佐藤秀司七段、片上大輔六段らの5人の理事解任を決議することが主要議案です。約90年の連盟の歴史で、前代未聞の事態となりました。

総会の冒頭で、2月6日の臨時総会で連盟会長に就任した佐藤康光九段が「どのような結果になっても、わだかまりが残らないようにしていただきたい」と挨拶した後、議長に佐藤義則九段、副議長に小林健二九段を指名しました。

まず最初に、5人の理事解任を請求した28人の棋士の中で、発起人を務めた3人の1人である西尾明六段が趣旨説明しました。その要件は2月7日のこのブログで紹介したように、「常務会は、①連盟の正会員である棋士の立場を守らず、棋戦運営に支障をきたした②連盟の信用を大きく損ね、将棋ファンを失望させた③連盟に多大な金銭的損失を与えた④棋士に対して説明責任を果たさず、誤った説明をした」という内容です。そして「棋士は将棋の普及と発展に寄与する公益法人の会員で、公益の目的に著しく反した責任の所在を明らかにしたい」と結びました。じつに理路整然とした説明ぶりでした。

そして5人の理事解任の議案についての投票が行われました。234人の正会員(現役棋士・引退棋士・女流棋士)のうち、総会への出席者は216人(64人の委任状を含む)でした。過半数の109票によって決議されます。

開票は午後3時から東西で別々に始まりました。5人の理事の名札がかかったホワイトボードに、理事解任の賛成票が個別に読み上げられるごとに、1票ずつ「正」の字を一画ずつ書き足しました。やがて「正」の字が増えていくと、棋士たちは固唾をのんで見守っていました。

開票が終わって東西の賛成票を集計した結果、青野九段、中川八段、片上六段の解任、東八段、佐藤七段の留任が決定しました。過半数の109票との票差は、大半の理事が2票~8票と僅差でした。理事解任を巡って、棋士たちの見方はほぼ等しく分かれました。

5人の理事解任を請求した28人の棋士の1人である私は、数人の「同志」と情報を交換し合って投票分析をしてきました。当初は「4―6」の比率で賛成票を得れば、たとえ負けても常務会に対して影響力を及ぼせると、私たちは思っていました。やがて「5―5」でいい勝負になっていると変わり、総会の直前には「100票を超える」というある棋士の票読みに驚いたものです。そして、それが本当に実現したのです。

旧常務会が行ってきた三浦九段への一連の措置と行動について、私の想像以上に多くの棋士が批判的だったのです。5人の理事解任に賛同した若手棋士と引退棋士(多くは委任状)が多かったのも、賛成票を伸ばしました。

臨時総会が終了すると、佐藤会長、留任した東八段、佐藤七段らは「報告会」を開きました。その席上でA棋士は「虚偽の告発をした棋士に、ペナルティと損害金の補償を求める」と発言し、出席している渡辺明竜王を名指しで批判しました。それを受けて渡辺竜王は「常務会と話し合いを続けているところです。何らかの形で補償に協力したい」と語りました。「三浦九段は不正をしたと、今でも思っているのか」というB棋士の厳しい質問には、渡辺竜王は何も答えませんでした。

いずれにしても、三浦九段の問題はまだ何も解決されていません。今後も、真相究明と連盟運営の正常化が望まれます。

谷川浩司前会長を含めて5人の理事が辞めた非常事態において、理事の補充選挙は6月の任期満了まで行われないようです。そこで私は、常勤理事の人数が少なくなったこともあり、理事以外の棋士が何らかの形で連盟運営に協力できる体制を作ってほしいと、佐藤会長に要望しました。その一例が、タイトル経験者、理事経験者、有志棋士による「連盟再建委員会」の設立です。佐藤会長を中心にして、多くの棋士が一致団結して連盟を立て直すことが大事だと思っています。

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2017年2月21日 (火)

5人の理事への解任動議が議決される2月27日の臨時総会

私は1972年(昭和47年)に四段に昇段して棋士になってから45年間、将棋連盟の総会(通常総会、臨時総会)にほとんど出席してきました。その間、議論がもつれて閉会が明け方の4時に延びたり、将棋会館の建設を巡って理事会(現在の常務会)が総辞職したり、名人戦の契約問題に関する投票で2票差の僅差になったりと、深刻な事態に至ったことが時にありました。しかし今年の2月27日に行われる臨時総会で、5人の理事への解任動議が投票で議決されるようなことは前代未聞です。

そもそも昨年10月に竜王戦のタイトル戦の開幕直前に、保持者の渡辺明竜王が挑戦者の三浦弘行九段に「スマホ不正使用」の疑いがあると告発し、それを受けた常務会が確たる証拠がないのに、わずか2日で三浦九段を出場停止処分にしたこと自体が異常でした。そして連盟から委嘱された「第三者調査委員会」の報告によって、12月に三浦九段の無実が証明され、三浦九段は今年の2月13日の対局から公式戦に復帰しました。連盟会長の谷川浩司九段と常務理事の島朗九段は、責任を取って辞任しました。2月6日の臨時総会で新会長に就いた佐藤康光九段は、三浦九段に謝罪するとともに、名誉回復に努めたいと述べました。

しかし、一連の経過で問題がすべて解決したわけではありません。常務会が行ったことは結果的に「冤罪」となり、三浦九段に対して「人権侵害」と「名誉毀損」に該当する重大な過ちを犯したのです。さらに、今後は第三者調査委員会の弁護士たちへの多額な報酬、三浦九段への補償額などによって、連盟に多大な金銭的損失(約1億円といわれます)を与えることになりかねません。一般社会では、執行部は総辞職に相当する責任問題だと思います。ある理事が語った「仕事をすることで責任を果たしたい」という次元ではないのです。

2月6日の臨時総会で常務会に提出された5人の理事の解任を求める書面には、28人の棋士が署名しました。その中で3人の発起人は、元理事の滝誠一郎八段と上野裕和五段、西尾明六段であると、2月13日発売の『週刊ポスト』が報じました。西尾六段の師匠は専務理事の青野照市九段です。弟子が師匠に対して矢を向けた形ですが、別に両者の師弟関係が悪化しているわけではありません。西尾六段は連盟運営の正常化と真相究明を期したもので、正義感にあふれた立派な行動だと私は思っています。

ある理事は2月6日の総会後の記者会見で、「署名した28人はベテラン棋士ばかりで、若手棋士はいない」と語ったといいます。もしそれが事実とすれば、的外れの考えというしかありません。将棋界の発展を願う気持ちに、ベテラン棋士と若手棋士に違いはないからです。ただ現実的には、若手棋士が常務会に対して表立った批判はしにくいと思います。それに24人以上の棋士の署名があれば要件を満たすので、常務会に批判的な若手棋士を加える必要はありません。

署名した28人の棋士のうち、元理事は9人です。60代・70代の引退棋士は、私を含めて約5割です。現役棋士は約4割で、その中にはタイトル戦の経験者が3人います。つまり、連盟運営に携わった棋士、第一線で活躍している棋士もいる顔ぶれなのです。

2月27日の臨時総会では、有効投票数の過半数によって、5人の理事の解任・信任が議決されます。今回の投票(無記名です)では「委任状」が認められるので、投票率はかなり高くなりそうです。ちなみに現時点の正会員(現役棋士・引退棋士・女流棋士)は235人です。

このブログに「2月27日は将棋界の今後の運命を決める本当の意味での《将棋界のいちばん長い日》にしなくてはなりません」というコメントが寄せられました。まさにその通りです。連盟運営を正常化する第一歩として、私は力の限りを尽くすつもりです。

三浦九段の問題では、数多くのコメントが寄せられました。それらのコメントについて、私の見解をいずれ述べるつもりです。

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2017年2月 7日 (火)

佐藤康光九段が将棋連盟の会長に就任した2月6日の臨時総会の模様

【追記・2月13日】
2月13日に発売された『週刊ポスト』(2月24日号)が《三浦九段「冤罪騒動」は終わらない!   将棋連盟「紛糾総会」大混乱の現場》というタイトルで、2月6日に行われた将棋連盟の臨時総会の生々しい模様を報じていて、理事解任動議を提出した28人の棋士の中で発起人を務めた3人の棋士の実名を挙げています。『ポスト』誌は今後も三浦九段の問題を取り上げていくそうです。

【2月7日に更新した記事】
2月6日に東西の将棋会館において、東西の会場を映像と音声でつないだ「テレビ電話」システムを使って将棋連盟の臨時総会が開かれました。235人の正会員(現役棋士・引退棋士・女流棋士)のうち、出席者は186人(40人の委任状を含む)でした。

1月18日に連盟会長の谷川浩司九段と常務理事の島朗九段が辞任を表明して欠員が生じたことにともない、総会に先立って正午から理事選挙(定数は東京1人・関西1人)が行われました。立候補者は東京は佐藤康光九段、関西は井上慶太九段だけだったので、「信任投票」の形になりました。その結果、投票された177票(期日前投票を含む)のうち、佐藤九段が約93%、井上九段が83%の信任票を得て、理事に選任されました。

そして午後2時から臨時総会が始まりました。会長代行となった専務理事の青野照市九段の挨拶、議長指名(正議長は関西の脇謙二八段、副議長は東京の森下卓九段)、佐藤九段と井上九段の理事選任の承認の議事の後、総務担当理事は臨時総会の召集を請求する動議が28人の正会員からあったことを報告しました。

その趣旨は、臨時総会で5人の理事(専務理事の青野九段、常務理事の東和男八段、中川大輔八段、佐藤秀司七段、片上大輔六段)を解任する決議案の上程を求めたものです。請求理由として、①正会員である棋士の立場を守らず、棋戦運営に支障をきたした②将棋連盟の信用を大きく損ねた③将棋連盟に多大な金銭的損失を与えた④正会員に対して説明義務を果たしていない、などを挙げました。

社団法人の規程によると、正会員の10分の1(現時点で将棋連盟は24人)以上の賛同者があれば臨時総会の召集を請求でき、執行部はそれを拒否できないそうです。このたびは、元理事など3人の発起人を含めた28人の棋士が署名しました。私こと田丸昇九段もその中の1人です。ほかに潜在的な賛同者はもっと多いと思います。

午後2時30分頃から、三浦弘行九段の問題について常務会との質疑応答が始まりました。しかし副議長が「3時から理事会(常務理事、非常勤理事、外部理事などで構成)を開いて新会長を決め、4時から記者会見を開く予定です」と言うと、ブーイングが巻き起こりました。私も思わず「質問を封じるつもりか」と声を荒げました。

三浦九段の問題が起きた昨年10月以降の「月例報告会」の会合は計4回あり、いずれも時間をかけて論議しました。前回の1月23日は午後2時から5時30分までにわたりましたが、問題点は多く残っていました。それなのにわずか30分で質疑を打ち切るとはとんでもないことです。総会の後に記者会見を開くのは通例ですが、いつもは午後5時ぐらいでした。「ニコニコ生放送」の番組に合わせて午後4時に設定したとしたら、総会の重要性を軽んじて本末転倒です。結局、棋士たちの抗議によって質疑応答は60分ほどに延びました。

席上では、三浦九段が公式戦出場停止に追い込まれた経緯の詳しい説明、三浦九段の弁護士と連盟の顧問弁護士の協議の進展、「第三者調査委員会」が提出した正規の報告書の閲覧、委員会の弁護士たちへの報酬額の開示、常務会に対しての監事(淡路仁茂九段など2人)の監督責任、連盟に生じる金銭的損失の補填などについて、棋士たちから質問や指摘が多く出ました。しかし常務会などからは明確な返答はなく、時間切れとなってしまいました。

その後、理事会の互選で佐藤九段が連盟の会長に就任したことが発表されました。

佐藤会長は理事選挙での政策趣意書で、「三浦九段の問題で事態の収束、三浦九段の名誉回復、将棋界の信頼回復に向けて取り組みたい」と記しました。記者会見の場でも同様に語りました。また、三浦九段の師匠の西村一義九段の仲立ちで、三浦九段と私的に会ったようです。ただし、三浦九段の問題は何ひとつ解決していません。佐藤会長が強い指導力を発揮して取り組むことを願っています。なお、私たちが請求した臨時総会は2月27日に開かれることが決まりました。

ところで2月7日にネット上で、三浦九段が一連の問題の内幕を語った「あいつだけは許さない」という小見出しがある記事(iRONNA編集部)が掲載され、その中には小見出しの対象者とおぼしき観戦記者の実名が出ていました。じつは私は西村九段からの話を通じて、その観戦記者が一連の問題の黒幕であるということを昨年から把握していました。今後は真相を究明するために、もっと迫っていくつもりです。

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2016年7月26日 (火)

将棋をとても愛好したタレントの大橋巨泉さんが82歳で死去

将棋を愛好したタレントの大橋巨泉さんが82<br />
 歳で死去

テレビの黄金期に『11PM』『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ』などの人気番組で司会者を務め、ジャズや競馬の世界でも評論家として活躍してマルチな才能を存分に発揮していたタレントの大橋巨泉さんが、7月12日に82歳で死去しました。その巨泉さんは将棋をとても愛好していました。

巨泉さんは早稲田大学に在学した頃は麻雀よりも将棋のほうが好きだったそうです。1971年に週刊誌の企画で作家の山口瞳さんと対談して親しくなると、東京・国立の山口邸で開かれた翌年の新年会に出席しました。その山口さんは棋士との駒落ちの対局の戦いぶりや交遊談を綴った『血涙十番勝負』の随筆を文芸誌に連載していて、将棋と棋士をこよなく愛していました。

新年会には芹沢博文八段、米長邦雄八段、大内延介七段らの人気棋士が来ていました。巨泉さんは山口さんに「1局どうですか」と誘われ、奨励会の真部一男三段と二枚落ちの手合いで指しました。すると巨泉さんは子どもの頃から知っている矢倉を用いて何と勝ったのです。山口さんは「20年も将棋をろくに指していない巨泉さんが、将来はA級八段になる逸材の彼に勝ったのはすごいことです」と興奮し、巨泉さんに将棋を本格的に習うことを勧めました。巨泉さんはそれ以来、米長八段に個人指導を受けるなど、将棋に熱中するようになりました。棋力も伸びていきました。※棋士の肩書は当時。以下も同じ。

私が巨泉さんと初めて会ったのは、1973年に山口邸での将棋会に訪れたときでした。以下のような会話をしました。山口「巨泉さん、若手棋士の田丸四段が来ています。いちど指してみてください」田丸「初めまして。キャウジン(米長の当時の愛称。狂人の意)の弟弟子です」巨泉「ヨネちゃんには飛車落ちで習っているので、その手合いでお願いしようかな」山口「田丸さんは昨日の対局で、大豪の塚田正夫九段に勝ったそうです」巨泉「ほう、ただの長髪ではないな」山口「ライオン丸というあだ名があるらしいですよ」

巨泉さんは伝説的な深夜の人気番組『11PM』の司会者を1966年から務めました。その中で自身の趣味であるゴルフ・競馬・麻雀のコーナーを設けて人気を博しました。時には若手棋士同士の「目かくし将棋」など、将棋のコーナーもいろいろと企画しました。中でもユニークだったのは、棋士が公式戦で指した悪手を「次の一手」として出題したことで、いかにもテレビ人間らしい発想は視聴者に大いに受けたそうです。その後、巨泉さんが司会者を務めた番組には多くの棋士が出演しました。

巨泉さんは1990年の56歳のとき、「体力のあるうちに余生を楽しみたい」との考えから「セミリタイア」宣言をして、大半の番組を降板しました。そして夏はカナダ、冬はオーストラリア、春は日本など、季節の良い時期に合わせて世界中を巡る生活を過ごしました。それにともなって将棋を指す機会は少なくなりました。好敵手である作家の山口さんは健康上の理由で将棋を指さなくなっていました。ただ巨泉さんはNHKの将棋対局の番組だけはとても楽しみにしていました。事務所のスタッフが日本で撮った将棋番組のビデオを海外の滞在地に送らせて、欠かさず見ていました。

巨泉さんは米長九段とは家族ぐるみの交際を続けていました。1993年の名人戦で中原誠名人に対して6回目の挑戦をした米長からは、名人戦に臨む心構えについて相談を受けました。そのとき巨泉さんは米長に、「中原のことはよく知っているとか、横歩を取れないような男に負けたらご先祖様に申しわけないなど、今まではリップサービスのつもりでつい余計なことを言ってしまった。今回は何も言うな…」と一言だけアドバイスしました。そして米長は中原を4連勝で破り、悲願の名人位を獲得しました。後に巨泉さんは米長からのお礼として、五段の免状を贈呈されたそうです。

私は以前にある雑誌の企画で、将棋を愛好する著名人を訪れる「出前対局」の連載をしていました。1997年には千葉県の巨泉さんの自宅を訪れて平手の手合いで指しました。写真は対局光景で、立派なカヤ盤を所有していました。1局目は私の中飛車の戦型で、巨泉さんはいいところなく敗れました。2局目は相矢倉の戦型で、巨泉さんは序盤で作戦勝ちすると、中盤で有利を拡大し、終盤で見事な寄せで私に勝ちました。NHKの対局をいつも見て矢倉を勉強している成果が出ました。ゴルフでシングルの腕前の巨泉さんは、名プレーヤーのリー・トレビノに勝ったこともあるそうです。

自由奔放に多彩な生き方をしたタレントの大橋巨泉さん。天国では作家の山口瞳さんとぜひ将棋を指してほしいですね。

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2015年11月18日 (水)

荒川区・三ノ輪の将棋クラブ、稲葉聡アマが加古川青流戦で初優勝、『週刊将棋』が休刊

「荒川一中~ジョイフル三ノ輪~都電荒川線。なんとも懐かしい地です。私はかつて都電・三ノ輪橋の近くに住んでいて、三ノ輪商店街でよく買物をしました。写真の鳥居(9月15日のブログ参照)も覚えています。そこから小路を入ると将棋クラブもありました」というコメント(9月21日)は《と金読者》さん。

私は51年前の昭和39年(1964年)2月の中学1年のとき、東京の荒川区・三ノ輪の将棋クラブに初めて行きました。荒川一中から下校のときに窓から覗いてクラブの様子はわかっていましたが、タバコの煙がもうもうと立ち込める10畳ほどの薄暗い部屋で大人たち(子どもは私だけ)と将棋を指すのは勇気がいりました。しかし将棋を指したい一心で、週末は50円玉(通常の席料は100円)を握りしめて通ったものです。

そのクラブでは賭け将棋がよく行われていて、盤の脇にお金が置いてありました。時には「真剣師」と思われる人が来てクラブの師範の人と指すと、周囲は緊張感がみなぎりました。私はそんな人にも指してもらいましたが、子どもなのでもちろん賭け将棋ではなくて指導将棋でした。昭和39年(東京オリンピックが開催されました)2月にクラブに初めて行ったときは8級ぐらいの棋力でしたが、夏の頃には1級ぐらいに上達し、棋士になりたいと思い始めたものです。当時の思い出は、また改めて書きます。

「加古川青流戦・決勝3番勝負で稲葉聡さん(朝日アマ名人)が増田康宏四段を2勝1敗で破り、アマとして初優勝しました。全棋士参加のプロ公式戦ではありませんが、戦績から見てプロ編入試験での合格を上回る快挙だと思います。将棋連盟は稲葉さんのプロ入りを認めてフリークラス編入が相当だと思います」という内容のコメント(10月26日)は《将棋九段》さん。《千葉霞》さんと《古代子孫》さんからも、同じ趣旨のコメントが届きました。

稲葉アマ(30歳)は加古川青流戦で石川優太三段、今泉健司四段、宮本広志四段、渡辺大夢四段、甲斐日向三段を連破して決勝に進出しました。そして10月24日・25日に行われた増田四段(17歳)との決勝3番勝負で、第1局は敗れましたが第2局と第3局に連勝して初優勝しました。

稲葉アマは稲葉陽七段の3歳年長の兄で、中学生の頃に奨励会に在籍しました。退会した後は、アマ竜王戦や朝日アマ名人戦で優勝して活躍しています。決勝の対局が行われた兵庫県加古川市は少年時代を過ごした地元でした。同じ加古川出身で奨励会時代の師匠だった井上慶太九段には「優勝してこそ値打ちがある」と激励されました。そして師匠の森下卓九段が「羽生善治名人を負かすのは増田だ」と公言するほど逸材の増田四段を見事に破り、稲葉アマは元師匠の井上九段の期待に応えました。

《将棋九段》さんらのコメントが届いた10月26日。私は将棋連盟の役員会と棋士たちの会合である「月例報告会」で、加古川青流戦で初優勝した稲葉アマの処遇について質問しました。つまりプロ編入を認めるかどうかです。それについて担当理事は「特例の措置は考えていません」という見解でした。なお稲葉アマはプロ公式戦で9勝3敗の成績を挙げていて、あと1勝でプロ編入試験(昨年の秋にアマ時代の今泉四段が合格して棋士になりました)を受験できる権利が生じます。当の稲葉アマは『週刊将棋』のインタビューに答えて、「条件を満たしても、今のところ受験はしません」と心境を語りました。

「『週刊将棋』が休刊のニュース。以前は将棋雑誌もいっぱい出ていて、少ないお小遣いでどれを買おうかと思っていた時代でした。それも地方にいると情報が遅くて…。今では懐かしい思い出です」という内容のコメント(10月26日)は《将棋太郎》さん。

31年前の昭和59年に創刊された『週刊将棋』は来年の3月で休刊となります。月刊の将棋雑誌が主流だった時代には、週刊の新聞で新しい情報を発信する役割を果たして好評でした。しかしネット時代の到来によって、目玉記事としたタイトル戦の棋譜や情報がリアルタイムで全国に流され、結果的に部数が低迷していったようです。ただ大半の将棋ファンがパソコンやスマートフォンで情報を得ているわけではありません。活字媒体が減ることで将棋ファンも減るのではないかと、私は少し不安に思っています。

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2015年10月14日 (水)

50年前にドラマ『王将物語』で関根十三世名人の役を演じた俳優の丹波哲郎さん

50年前にドラマ『王将物語』で関根十三世名人の役を演じた俳優の丹波哲郎さん

私が以前に連載していた『週刊将棋』のインタビュー記事から、将棋を愛好した俳優の故・丹波哲郎さんのことを紹介します。

私は15年前の2000年に映画関係の知人の紹介で、東京・西荻窪に住んでいた丹波さんの自宅を訪れて取材しました。

丹波さんは将棋が大好きでした。写真・上は愛用の盤駒。かなり使い込んだと思われる盤がそれを物語っています。

撮影現場で合間によく指した俳優は、勝新太郎さん、安藤昇さん、小松方正さんなど。勝さんは自分が勝つまでやめないので、撮影時間になると丹波さんがわざと負けたこともあったそうです。

50年前の1965年(昭和40年)に『王将物語』というテレビドラマが3ヶ月にわたって放送されました。伝説の棋士である主役の阪田三吉を長門裕之さん、妻の小春を藤純子さん(現・富司純子)、三吉のライバルの関根金次郎十三世名人を丹波さんが演じました。

奨励会に入ったばかりの私は、そのドラマを夢中になって見ました。長門さん(当時31歳)の三吉と藤さん(同19歳)の小春のフレッシュな熱演ぶりは今でも記憶に残っています。丹波さん(同42歳)のクールな演技と棋士らしい対局姿も格好よかったです。手つきも決まっていて、関西の重鎮だった故・熊谷達人九段に技術面や手つきの指導を受けたそうです。

丹波さんは1977年にある夕刊紙の企画で、中原誠十六世名人と2枚落ちの手合で記念対局をしました。そのときは名人に対してみっともない将棋を指しては失礼だと思い、事前に銀多伝定跡を勉強しました。対局当日は羽織袴の姿に威儀を正して臨みました。そして厳しい攻めを繰り出して、見事に勝利を収めました。

丹波さんは心霊学の研究家として有名でした。『大霊界』という映画を制作したこともありました。霊界での将棋について聞いたところ、次のように語りました。

「霊界というのは人間界とまったく変わらないんだ。だから将棋もあると思う。霊界には時間の観念がないので、将棋を好きな人はひねもす指している。ただ霊魂(性格)が同じじゃないと一緒に行動しないから、波動の違う大山さん(康晴十五世名人)と升田さん(幸三実力制第四代名人)が盤を挟むことはないだろうね」

私は取材が終わると、平手の手合いで丹波さんと指しました。定跡はまったく知らないという話でしたが、相矢倉の本格的な将棋になりました。そして私が丹波さんが優勢になるように指し進めると、写真・上の金打ちで見事に詰めて勝ちました。よほどうれしかったのか、ある高名な歌舞伎役者にもらったという舞扇を私に贈ってくれました。

50年前にドラマ『王将物語』で関根十三世名人の役を演じた俳優の丹波哲郎さん

大きな白熊の敷物があった丹波さんの自宅の応接間。「霊界御殿」としてテレビ番組でよく紹介されたものです。

丹波さんは2006年に84歳で亡くなりました。霊界では勝新太郎さん、長門裕之さんらと将棋を指していることでしょう。

 

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2015年9月28日 (月)

15年前にテレビドラマ『月下の棋士』で元女流棋士を演じた女優の川島なお美さんが54 歳で死去

15年前にドラマ『月下の棋士』で元女流棋士を演じた女優の川島なお美さんが54<br />
 歳で死去

私は1995年から2000年にかけて『週刊将棋』で、将棋を愛好したり将棋界に関連する各界の著名人に話を伺うインタビュー記事「コーヒーブレイク」を、水町悠の筆名で長期連載していました(計119回)。

9月24日に胆管ガンによって54歳の若さで死去した女優の川島なお美さんには、2000年7月に登場してもらいました。写真は、その紙面。

青年漫画誌に連載されて人気を博した『月下の棋士』(作・能條純一)が、00年1月から3月までテレビ朝日系列でドラマ化されました。

主な配役と出演者は、主人公の青年棋士・氷室将介(森田剛)、伝説の棋士で氷室の祖父の御神三吉(高松英郎)、永世名人の大原巌(中尾彬)、大原のライバルで氷室の才能を見抜いた豪快な棋士の刈田幸三(寺田農)、天才棋士で名人の滝川幸次(田辺誠一)、滝川の師匠の村木武雄(仲谷昇)、派手好きな棋士の幸田真澄(細川茂樹)、病気によって対局中に死んだ村森聖(デビット伊東)、天才女流棋士の大和岬(雛形あきこ)、元女流棋士で氷室の後見人となる将棋クラブ経営者の石丸千代子(川島なお美)など。役柄と役名で想像できるように、実在した棋士がモデルになっています。なお千代子は原作にはないオリジナルの役柄です。

第1話で、棋士をめざして上京した氷室が千代子が経営する将棋クラブで初めて会うと、和服姿の千代子は威儀を正して深い事情を語り出します。

「お待ちしていました。亡くなった主人は御神三吉のただ1人の弟子です。亡くなる前に《いつか御神三吉の〈歩〉を継ぐ者がここを訪ねてくる。そのときはよろしく頼む》という遺言を残しました。やっと…。名人になってください」

私は川島さんが指定した都内ホテルの喫茶室で1時間ほど話を伺いました。川島さんが話した内容を少し紹介します。

「着物姿で通せる役は久しぶりだったので、とてもうれしかったですね。私は将棋をまったく知りません。そこで役作りのために盤と駒を買い、将棋の入門書を読んでルールを覚えました。普段は読まない新聞の将棋欄にも目を通すようになりました。寝る前には『月下の棋士』の単行本を読むのが日課でした。ただ将棋を指す場面では、いくら練習しても棋士らしい手つきはできませんでした。でもあるとき、番組の監修をされた河口さん(故・俊彦八段)に《名人が指す場面じゃないので、軽やかな感じの手つきでいいんじゃない》とアドバイスされて、いっぺんに気が楽になりました。そして本番で私の最初の対局場面が一発OKとなったら、スタッフの人たちに《どうしてそんなに手つきが上手になったの?》と驚かれました。また、私と滝川名人、大原永世名人との対局場面を作ってくれたのは、とても名誉なことでした」

川島さんは大学生時代に『アイアイゲーム』という人気クイズ番組の司会を務め、レギュラー出演者だった故・芹沢博文九段の思い出も語りました。

「棋士のことをあまり知らない私は、なんで芹沢さんだけ名前の下に段が付いているのか不思議でしたね。スタッフの中には将棋好きの人もいて、《先生》と呼んで敬意を払っていました。芹沢さんには《なお美、なお美》とよく呼ばれて可愛がってもらいました。お酒が好きで、いつもお酒の匂いがぷんぷんしていましたよ(笑)」

私がそれまで取材した芸能人の中には無口な人もいて、話を聞き出すのに苦労したこともありました。しかし川島さんは積極的に話をしてくれて、1時間がすぐにたちました。理知的な美人という印象でした。そして最後に「今までにドラマでいろいろな役を演じるたびに、新しい世界が開けました。『月下の棋士』で大和撫子のように凛とした石丸千代子の役もそのひとつです」と語りました。

私は昨年の7月、将棋を愛好した作家の故・渡辺淳一さん(享年80歳)のお別れの会に出席しました(2014年8月7日のブログ参照)。帝国ホテルの会場では、渡辺さんの小説が原作のドラマ『失楽園』に主演した川島さんの姿を見かけました。その年の1月にガンの手術を受けたと聞いていましたが、いつものように華やかな様子で元気そうでした。それだけに、このたびの訃報に驚くばかりです。

次回も、私が以前に取材した著名人をテーマにします。

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2015年8月19日 (水)

10月に第3回将棋文化検定、渡辺大夢四段との対局、将棋連盟ホームページ上の記録

日本将棋連盟が主催する第3回「将棋文化検定」試験が10月4日(日)、東京・大阪・名古屋・札幌・広島・福岡の会場で開催されます。日本の伝統娯楽である将棋の文化的な一面を多くの人たちに知ってもらいたい、というのが趣旨です。私は第1回から検定委員を務めていて、問題作成などに携わっています。

試験の方式は第2回と同じです。Aコース(1級・2級)、Bコース(3級・4級)、Cコース(5級・6級)、Dコース(7級・8級・9級)と難易度によって分かれ、自由に選べます。合格者には認定級の合格証書が贈られます。

問題は各コースともに60題。将棋の歴史、公式戦の記録、棋士のエピソードなど幅広い内容です。すべて三択問題で、Aコースは四択問題と記述式問題も出ます。詰将棋や次の一手の問題は出ないので、棋力は問いません。

当日は各会場ともに午後2時30分から始まり、試験時間は60分です。棋士も一緒に受検し、試験後に棋士との交流イベントも行われます。なお東京の会場は池袋の立教大学で、前回(調布)よりも交通の便がいいです。

近年は、将棋の対局をネット中継などで楽しむ「見る将棋ファン」が増えています。将棋文化検定で将棋の知識力を上げると、さらに楽しめると思います。

受検の手続きなどについては、日本将棋連盟のホームページをご覧になるか、電話で連盟に問い合わせてください(東京・03-3408-6165 大阪・06-6451-7272)。申し込み期限は9月13日(日)です。多くの人たちが受検されることを願っています。

私は8月17日、王位戦で渡辺大夢四段と対局しました。対局場は東京・千代田区永田町「都市センターホテル」の和室(8月9日のブログ参照)。千駄ヶ谷の将棋会館が耐震工事中という事情によりますが、44年間の棋士生活において東西の会館以外で公式戦の対局を指したのは初めてのことでした(NHK杯戦などのテレビ棋戦は除く)。

その対局室は将棋会館の特別対局室より少し狭いですが、落ち着いた雰囲気があって盤面に集中できました。当日は稲葉聡・朝日アマ名人が藤井猛九段に挑んだ朝日杯将棋オープン戦の対局が隣で行われました。私が昼食(前回のブログ写真のビーフカレーを食べました)休憩で席を立ったときは、熱戦を繰り広げていていい勝負に思えました。結果は藤井九段が勝ちましたが、稲葉アマの実戦的な粘り強い指し方が印象的でした。

田丸―渡辺戦は、矢倉模様から私が中央の位を取る力戦型となりました。中盤では少し苦しい形勢でしたが、反撃して終盤の一手違いの寄せ合いに持ち込みました。しかしわずかに及ばす、私が敗れました。渡辺四段は7月にフリークラスからC級2組に昇格(来年度の順位戦に参加できます)したばかりで、晴れ晴れとした様子でした。

「将棋連盟ホームページ上の記録ページで、テレビ対局の結果を反映して勝利数と勝率に表示されるのは、テレビ放送の何日後とか決まっているのでしょうか。また、年間勝率などの記録部門の1位の棋士には特別なボーナスは出ますか」という内容のコメント(8月14日)は《スズキ》さん。

以前はテレビ棋戦(NHK杯戦、銀河戦)の対局の放送前でも、連盟ホームページ上の記録ページの勝利数と勝率に、収録済みの対局結果を反映させていました。しかし勝負への興味を損ねるという関係者の要望があり、何年か前に放送後(たぶん次の週の月曜日)に結果を反映することになりました。なお、通算1000勝とか通算250勝で九段に昇段などの節目のケースでは、その勝利数の中に未放送のテレビ対局があっても特例で公開します。

将棋連盟は、将棋大賞の記録部門の1位の棋士に「特別なボーナス」を出しません。そうした実績を挙げるまでに多額の対局料と賞金を得たので、その必要はないということでしょう。ただ若干のお祝い金を出すようです。私は記録部門で未表彰なので金額は知りません。

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2015年7月 5日 (日)

棋士の命がけの対局についての田丸の見解、森田正光さんの榧盤と森本レオさんの将棋

「将棋は頭脳労働なので、棋士が対局で死ぬことはありません。しかし対局中に駒を握ったまま血を吐いて死ぬ、といったことが面白いのです。ファンは棋士が命をかけて戦うところが見たいです。棋士が安定した生活を送って天寿を全うするのは結構なことですが、それでは伝説は生まれません。棋士の中には物語になるほどの劇的な生涯を送った人は誰もいません」というコメント(5月27日)は《田舎初段》さん。

《田舎初段》さんは命がけで戦ったり生きた例として、漫画『あしたのジョー』に登場するボクサーの力石徹、真剣師の小池重明さん(元アマ名人)などの例を挙げました。力石は主人公のジョーに激闘の末に勝ちましたが、リング上で息を引き取るという劇的な死をとげました。その後、出版関係者や読者によって力石の死を惜しむ葬儀が営まれました。小池さんは酒・女・博打に溺れた生活を送った影響で体調が悪化し、最後は病院で自死しました。その後、作家の団鬼六さんが著した小池さんの評伝が大きな話題になり、テレビ番組でも特集されました。

力石と小池さんの生涯は、多くの人たちに感動を呼びました。ただ前者は約15キロも減量するという命の危険に及ぶ設定でした。後者はかなり破滅的な人生を送りました。漫画と現実の違いはあっても、なるべくしてなった結末だと思います。

「吐血の対局」といえば、戦前の昭和17年に行われた名人戦(木村義雄名人―神田辰之助八段)を思い起こします。胸の病を患っていた挑戦者の神田八段は、対局の延期を勧める関係者の声を押し切り、木村名人との7番勝負に臨みました。その命がけの対局は、好局を逃したことが響いて4連敗で敗退しました。《オヤジ》さんは「神田八段は何度も血を吐きながら指し続けた」というコメント(5月27日)を寄せました。実際には対局中に吐血したわけではないようです。名人戦で疲労困憊した後に吐血して倒れ、翌年に亡くなりました。なお現代の対局規定では、伝染病を患った棋士が対局することは不可能です。

そのほかに、ガンが再発して医師から安静を忠告されても自分の意思で精力的に活動した大山康晴十五世名人(1992年に69歳で死去)、将棋一筋の生活を送って健康にも人一倍に留意しながら奇病で亡くなった山田道美九段(75年に36歳で死去)、幼年時代から病弱で20歳の誕生日を迎えたときにとても喜んだ村山聖九段(98年に29歳で死去)らの棋士がいましたが、運悪く病気になったにすぎません。命がけの対局に勝っても、病魔には勝てなかったのです。

ひとつの技芸や文化に優れていても、ほかのことは何も知らない人を「○○バカ」といいます。しかし現代では、どの世界にもそんな人はほとんどいません。物語になるほどの劇的な生涯は、破滅的な人生ではなく、作品や哲学が尺度になる時代だと思います。また、棋士の生活が安定すれば安心して将棋の研究に打ち込め、長生きすれば棋士人生を全うできます。

以上、棋士の命がけの対局に関するコメントについて、田丸の見解を述べました。

「お天気キャスターの森田正光さん(6月2日のブログ参照)が以前に買った日向(宮崎県)榧(カヤ)の盤の話は残念でしたね。中国・雲南省の榧でしたか」というコメント(6月5日)は《千葉霞》さん。

森田さんは気象協会に勤めていた約30年前、ボーナスが出た日に将棋盤店に行くと、美しくて香り高い榧盤が目に入りました。価格は60万円でした。大山十五世名人の「将棋を強くなりたかったら、盤と駒は高いものを買いなさい」という言葉を思い出しましたが、懐にあるボーナスは35万円でした。しかし店主からその将棋盤と10万円の駒をセットにして30万円にまけると言われ、思わず買ってしまいました。そして喜んで帰宅したら、奥さんにひどく怒られたそうです。その榧盤を『なんでも鑑定団』の番組に出品すると、専門家の鑑定は何と10万円でした。日向産ではなくて中国産だったのです。でも森田さんは気に入っているので、ぜひ使い込んでほしいですね。

「俳優の森本レオさん(6月2日のブログ参照)はドラマの十津川警部(高橋英樹)のシリーズで、刑事役を長く演じています。撮影の合間には誰彼と将棋に誘っているのでしょうか」というコメント(6月6日)は《田舎棋士》さん。

森本さんは以前、撮影の合間に将棋好きの俳優たちと楽屋でよく指しました。相手は長門裕之さん、花沢徳衛さん、小松方正さん、大滝秀治さん、小坂一也さん、荒木一郎さん、石原良純さんなど。その将棋仲間は半数以上の人が亡くなり、森本さんも何年か前に病気になりました。今は楽屋で将棋を指すことはあまりないそうです。

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2015年5月 3日 (日)

河口八段の木村十四世名人の評伝、A級順位戦の最終戦、山田九段の生涯成績などのコメント

「故・河口俊彦八段の『評伝 木村義雄』は未完の対局になりますか…。田丸九段は現役引退後の木村十四世名人を目撃した最後の世代でしょうか」という内容のコメント(2月1日)は《ちとく》さん。

河口八段は『将棋世界』で木村義雄十四世名人の評伝を連載していましたが、「高野山の決戦」(昭和23年に名人戦の挑戦権を争った升田幸三八段と大山康晴七段の3番勝負)を題材にした今年の3月号が絶筆となってしまいました。将棋でいえば中盤の佳境の局面で、以後の面白い話を読めないのはとても残念です。「老師」(河口八段の愛称)の文章を愛読した方も同じ思いでしょう。なお発売中の『将棋世界』6月号では、私が連載している「盤上盤外 一手有情」で河口八段の棋士人生をたどってみました。よかったら読んでください。

私は木村十四世名人を何回か見かけましたが、じかに話をしたことはありません。若手棋士にとって雲の上の存在でした。39年前の1976年(昭和51年)2月、将棋雑誌のグラビア撮影で神奈川県茅ヶ崎市の自宅に伺ったことがあります。木村名人(当時70歳)と鶴子夫人が和服姿で縁側に座った写真は、じつにほのぼのとした光景でした。木村名人は江戸っ子らしい小気味よい語り口でした。私は記事にするためにメモを取り続けましたが、何か一言ぐらい木村名人と話しておけばよかったなあと、今になって後悔しています。

「3月のA級順位戦の最終戦は、今年は東京の将棋会館で行われました。何年かに1回は関西将棋会館というのもいいですね」というコメント(3月6日)は《ともっち》さん。

現在は10人のA級棋士のうち、関西所属の棋士は久保利明九段の1人だけです。谷川浩司九段、山崎隆之八段、豊島将之七段、稲葉陽七段、糸谷哲郎竜王などの棋士がA級に昇級して関西の棋士が増えれば、A級順位戦の最終戦を関西将棋会館で行う話が持ち上がるかもしれません。

関西の棋士が名人を含めてA級に5人も在籍した例が過去に3回ありました。1983年度の谷川名人、桐山清澄八段、内藤国雄九段、森安秀光八段、淡路仁茂八段、86年の谷川棋王、桐山棋聖、有吉道夫九段、南芳一八段、小林健二八段、87年度の谷川王位、桐山九段、南棋聖、有吉九段、内藤九段。同じ藤内一門の谷川名人に森安八段が挑戦した84年の名人戦は、過去50年で唯一の関西同士の対戦でした。※棋士の肩書は当時。

「今年のA級順位戦のプレーオフ2回戦で、久保九段(7位)が渡辺明二冠(3位)に勝ちました。来期のA級の順位は、どちらが上位になるのでしょうか」というコメント(3月17日)は《ヨッシー》さん。

今期のA級の順位に、前期のプレーオフの勝敗は反映されません。前期のA級順位戦で6勝3敗の3人(挑戦者の行方尚史八段は除く)は、順位の上位順に2位が渡辺棋王、3位が久保九段、4位が広瀬章人八段となります。なお名人戦で挑戦者になって敗退した場合、次期の順位は前期の順位(10位でも)にかかわらず1位です。

「田丸九段が書かれた『熱血の棋士 山田道美伝』の著書には、山田九段の生涯成績が載っていません。将棋連盟ホームページの物故棋士一覧でも同様です。古い時代なので連盟に記録が残っていないのかと思います。大山十五世名人は棋士としての全対局を自分で記録していたので、連盟に記録が残ってない分を含めて生涯成績がわかる、というのは有名ですね。山田九段の生涯成績を教えてください」というコメント(3月24日)は《オヤジ》さん。

昭和20年5月に将棋大成会(日本将棋連盟の前身)の本部は空襲によって焼失し、戦前の公式対局の資料はほとんど消滅しました。戦後も混乱した状況が続いて資料は不明確です。棋譜として資料が現存しているのは昭和29年以降だそうです。山田道美九段が公式対局に初参加したのは昭和27年なので、正確な生涯成績はわかりません。私は山田九段の評伝の著者として、いちど調べてみたいと思っています。

大山十五世名人と升田実力制第四代名人は、本人の記録や関係者の調査で戦前からの公式対局の資料が残っています(大山は昭和15年~、升田は昭和9年~)。ただそうした例は一部の棋士のみです。

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2014年12月19日 (金)

永世称号、シニア棋戦、俳優の高倉健さん、小池重明さんに関するコメントについて

「永世称号は規定の条件が必要ですが、名誉称号は将棋界に貢献した棋士に贈られるとファンとしてうれしいです。加藤一二三名誉十段、内藤国雄名誉棋聖、有吉道夫名誉棋聖などはと思う次第です」という内容のコメント(9月25日)は《田舎棋士》さん。

この3人の棋士はいずれもタイトル経験者で、九段に昇段してから年数がかなりたっています(加藤九段は42年、内藤九段は41年、有吉九段は36年)。新米九段の私としては、そんな実績がある3人の棋士と同じ段位というのは、正直なところ面映ゆい気持ちです。その意味で名誉称号の肩書を付ける考えに賛成です。加藤九段は十段戦(竜王戦の前身棋戦)で計7期もタイトル戦に登場しました(十段を1期獲得)。内藤九段は棋聖を2期、有吉九段は1期、それぞれ獲得しました。将棋連盟が何かの節目のとき(今年は連盟発足90周年という記念の年でした)、名誉称号の制度を作るといいのですが…。

「ゴルフのシニアトーナメントのように、引退した棋士の対局を見たいと思うファンは大勢いると思います。中原―大内、神吉―桐谷の対局は絶対に受けると思います」というコメント(10月21日)は《こうめい》さん。

ベテラン棋士の私にとって、シニア棋戦ができたらうれしいですね。中原誠十六世名人―大内延介九段の対局は、約40年前の名人戦の死闘を思い出します。神吉宏充七段―桐谷広人七段は新旧のタレント棋士の対局です。そのほかに連盟会長経験者同士の丸田祐三九段―二上達也九段、詰将棋作家同士の勝浦修九段―伊藤果七段の対局など、面白い組み合わせがありそうです。棋戦でなくても、単発の企画でもいいです。私は音楽・映画・小説では、現代よりも昔の作品のほうが好きです。将棋の対局者も戦法も、同じように昔のほうがいいと思う人は少なくないかもしれませんね。

「俳優の高倉健さんは将棋界と交流があったのでしょうか。もし将棋を指したら対局姿が似合うと思います。丹波哲郎さんがそうでした」というコメント(11月19日)は《S.H》さん。「田丸九段は34年前に映画『宮本武蔵』の5部作を新宿東映で夜の8時から徹夜で見たそうですが、私も春休みの土曜日に同館していたことになります。スクリーンに中村錦之助さん(宮本武蔵)と高倉健さん(佐々木小次郎)の名前が映ると、場内に拍手が巻き起こった雰囲気を覚えていて何とも懐かしいです」という内容のコメント(11月24日)は《と金読者》さん。

11月に亡くなった俳優の高倉健さんが、棋士と交流があったり将棋を指したという話は今まで聞いたことがありません。映画の撮影現場では、役者やスタッフが待ち時間に将棋をよく指したそうです。もしかしたら、高倉健さんは将棋を指さなくても脇で眺めて、たまに軽口をたたくことがあったかもしれません(これは私の想像です)。50年前の将棋のテレビドラマで、丹波哲郎さんの対局姿(役は関根金次郎十三世名人)を見ました。高倉健さんも将棋を指したら、対局姿はさぞ格好よかったでしょうね。

私が新宿の伊勢丹の近くにある映画館で『宮本武蔵』の5部作を見たのは、1980年3月29日(土)だったことを当時の手帳で確認しました。その場に《と金読者》さんもいたのですね。私が最も感動したのは、武蔵が吉岡一門の73人の門弟たちとの果たし合いの前に武蔵を慕うお通(入江若葉)と再会したとき、「心の妻です」と言い残して独りで死地に臨んだ場面でした。

「『NHK将棋講座』の師弟(田丸九段・櫛田陽一六段)の話はいいですね。12月1日のブログで書かれている小池重明さんのプロ入りの道は、大山康晴十五世名人以下の棋士の反対で駄目だったようですが…」という内容のコメント(12月2日)は《千葉霞》さん。

アマ棋界のカリスマ的存在だった小池重明さん(元アマ名人)が、懇意にしていた松田茂役九段を通じてプロ入りを将棋連盟に願い出たことがあります。1983年1月の棋士会では、その問題が話し合われました。「タイトル保持者を次々と破るアマがいたら、連盟のほうからプロ入りをお願いするべきだ」という容認論、「特例を認めたら奨励会制度の根幹が崩れる」という否定論など、いろいろな意見が出ました。ただ全体に否定的な空気でした。小池さんが以前にプロ棋士に挑発的な態度をとったり、賭け将棋を指したことも、印象を悪くしました。結局、その問題は賛同を得られませんでした。松田九段の棋士たちへの根回しも十分ではなかったです。したがって、時の連盟会長の大山十五世名人が個人的に反対したことで、その問題が否定されたわけではありません。

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2014年12月 1日 (月)

櫛田六段が『NHK将棋講座』の自伝で綴った棋士人生と師匠の田丸への思い

発売中の『NHK将棋講座』12月号の「棋士道 弟子と師匠の物語」で、櫛田陽一六段が自身の棋士人生と師匠の私こと田丸昇九段への思いを自伝として綴っています。その自伝の内容を元にして、櫛田六段の足跡を次のように時系列で列記してみました。

《中学2年のときに将棋漫画『5五の龍』(作・つのだじろう)を読んで将棋を覚えた。千駄ヶ谷の将棋会館に通って上達した。奨励会に入りたかったが、家庭の経済的事情であきらめた。17歳のときに支部名人戦・都名人戦で優勝、アマ名人戦で4位と活躍した。田丸が主宰したアマ強豪との研究会に参加した。それが縁で18歳のときに田丸の門下で奨励会に1級で入会した。奨励会では羽生善治、佐藤康光、森内俊之とよく対戦した。22歳のときに森内三段に勝って四段に昇段した。1989年のNHK杯戦・1回戦の高橋道雄八段との対局で朝寝坊して遅刻し、対局後に解説者を務めた田丸と一緒に関係者に謝罪した(翌年に四段としてNHK杯戦で初優勝)。2012年に負けたら引退となる竜王戦の田丸との「師弟対局」で、全力を出して戦って勝った。その次の対局に敗れて、47歳で引退が決まった。後日に田丸一門が櫛田の引退慰労会を開いた》

私が櫛田と初めて会ったのは32年前の1982年でした。当時17歳の櫛田はアマ棋戦で大活躍していて、アマ棋界の若きヒーローでした。多くの将棋少年たちがプロをめざした中で、櫛田は断固としてアマにこだわり、プロ棋士に敵愾心を燃やしていました。その背景には、アマ棋界のカリスマ的存在だった小池重明さん(80年と81年のアマ名人戦で連続優勝)の影響がありました。櫛田は小池さんの破天荒な人生に憧れていたのです。

その小池さんは酒やギャンブルに明け暮れて荒れた生活を送り、83年に経済的に困窮した末に金銭トラブルを起こしました。私はそんな話を聞いて、定職に就いていない櫛田の将来が気になりました。小池さんの二の舞を心配したのです。そこで奨励会入会試験の受験を強く勧めました。櫛田は頑なに拒否しましたが、やがて私の説得に応じました。じつは、私は櫛田が奨励会受験を決心した一番の理由を『NHK将棋講座』の自伝を読んで初めて知りました。

83年6月に21歳の谷川浩司・新名人が誕生しました。その谷川名人が同年の夏、プロ棋士やアマ強豪がよく出入りしていた新宿の将棋酒場「リスボン」にだれかと一緒に来たそうです。酒場には櫛田もいて、周囲の人たちに勧められて谷川名人と将棋を指すことになりました。結果はもちろん櫛田が負けました。しかし櫛田は胸の中に熱いものが込み上げてきて、「もう一度、あの谷川名人と戦いたい。それにはプロになる必要がある」と思うように至ったのです。

それから5年後の88年。櫛田四段は全日本プロトーナメントの決勝に勝ち進み、谷川王位と3番勝負を戦いました。結果は櫛田の2連敗でしたが、奨励会に入ったときの願いを叶えました。櫛田は93年のNHK杯戦・2回戦で谷川王将に勝ち、3回戦で私との「師弟対局」が初めて実現しました(結果は櫛田の勝ち)。

櫛田は自伝で私について、奨励会時代に将棋を指して教わった、経済的に助けられた、食事やお酒をご馳走になった、と書いています。当時の私は棋士として上昇指向だったので、櫛田とは切磋琢磨するために将棋をよく指しました。櫛田の生活面については、私の友人の実業家の方が何かと援助してくれました。

櫛田の自伝には書かれていませんが、順調な滑り出しだった櫛田の棋士人生は、その後に私生活で思わぬ落とし穴があって暗転しました。師匠の私も、とばっちりを受けました。しかし、それも今となっては昔の話です。自伝の「田丸先生の弟子になって本当に良かったと思う」という結びで、過去のいろいろな苦労を忘れた思いになりました。

櫛田は引退棋士となった現在、子どもたちへの指導に力を注いでいて、「負けてあげて自信をつけさせるのが今の自分の仕事」と語っています。

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2014年10月21日 (火)

将棋界の引退制度に関するコメント、囲碁界との比較、引退後の収入

10月5日のブログで、2016年3月で引退が決まる私の思いを率直に書いたところ、それに関して次のようなコメントが寄せられました。

「将棋連盟の定年制は見直してみてはどうでしょうか。ある程度の収入を伴う形で、選手からの転向を図ることを期待したいです」というコメント(10月6日)は《囲碁人》さん。「棋士の終身雇用でいいのではないでしょうか」というコメント(10月7日)は《田舎棋士》さん。「引退制度がある将棋界と、終生現役も可能な囲碁界は、どちらも一長一短で、どちらがいいとはいえないと思います」という内容のコメント(10月8日)は《通行人》さん。「引退棋士が将棋を広めるために得る報酬が予算化されなくてはいけません。また、棋士をやめると年金は出るのでしょうか」という内容のコメント(10月9日)は《東京人》さん。

私を含めて多くの棋士は、棋士が成績の悪化によって順位戦でC級2組から落ちて所定の年齢で引退となるのは、勝負の世界だから仕方ないと思っています。ところが寄せられたいずれのコメントが、将棋連盟の引退制度に疑問を抱くものだったのは意外でした。将棋界が終生現役の制度で、自分の意思でやめないかぎり現役棋士を続けられたら、正直なところとてもありがたいです。しかし中原誠十六世名人、米長邦雄永世棋聖のように任意で引退した棋士はいますが、現実は制度によって引退した棋士が大半です。

引退制度のない囲碁界には、現役棋士が400人以上います(日本棋院・関西棋院を合わせて)。引退制度のない将棋界には、現役棋士が160人ほどいます。ただ両者の組織は仕組みに違いがあり、単純な比較はできません。

囲碁棋士は初段から、将棋棋士は四段からプロと認定されます。棋士総会では、囲碁界は代議員制(選出された何人かが投票権を持つ)で、将棋界はすべての正会員(現役棋士・引退棋士・女流棋士)が投票権を持ちます。

そして最も根本的な違いは待遇面です。将棋の現役棋士は「参稼報償金」という手当が毎月支給されます。それは順位戦のクラス・各棋戦の実績・棋士年数によって査定されます。羽生善治名人、森内俊之竜王などの上位棋士と、下位のフリークラス棋士では、当然ながら大きな差額があります。ちなみにフリークラスに在籍している私こと田丸昇九段の参稼報償金は、B級1組にいた20年前と比べると、およそ4分の1に減っています。

参稼報償金は「基本給」にあたり、順位戦以外の棋戦の賞金・対局料は各棋士の出来高として「歩合給」にあたります。さらに連盟が公益社団法人に認可された2011年以前は、夏と冬に「特別手当」(いわゆる氷代と餅代)が支給されました。現在は「特定の個人に利益をもたらしてはいけない」との原則によって廃止されました。

囲碁棋士にも基本手当があります。ただ人数が多いので、その金額は将棋棋士の水準よりもかなり少ないようです。連盟は現役棋士に対して、待遇面で一定の保障をする代わりに、引退制度を設けています。囲碁棋士の待遇面は全体的に希薄ですが、引退制度はありません。棋士の待遇と寿命が「太いが有期」か「細いが無期」の違いでもあります。

ゴルフの世界では、プロと認定された選手は1000人もいるそうです(男子の場合)。しかしトーナメントで活躍して多額の賞金を得る選手は、せいぜい50人ぐらいです。残りの選手たちは低額の賞金に甘んじるか、レッスンプロで生きていくしかありません。

囲碁の世界もそれに近い状況のようです。将棋の世界も、棋士の人数がさらに増えたり、棋戦の契約金などが減収すると、そんな状況になる可能性はあると思います。

連盟は年間の普及予算に1億円ほど計上しています。引退棋士は現役時代の収入には及びませんが、普及の仕事を依頼されて一定の報酬を得ています。前記のコメントのように、「報酬が予算化され、引退棋士へある程度の収入が伴う形」になっています。

棋士が引退した場合、「退職金」は出ません。「棋士年金」もありません。ただ公的年金はかつてありました。連盟は50年以上も前から、旧・社会保険庁からの要請で厚生年金に加入していたのです。前記の参稼報償金(以前の名称は基本手当)が、会社員と同じ給料として認められました。私もそれによって、60歳から厚生年金を受給しています。

連盟が公益社団法人に認可された2011年からは、保険料の半額負担は「特定の個人に利益をもたらしてはいけない」との原則によって、厚生年金への加入は廃止されました。

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2014年9月23日 (火)

直木賞を『破門』で受賞した作家の黒川博行さんは熱心な将棋愛好家

直木賞を『破門』で受賞した作家の黒川博行さんは熱心な将棋愛好家

今年の8月、作家の黒川博行さんが『破門』で直木賞を受賞しました。黒川さんの小説はハードボイルドが多く、関西弁が小気味よく飛び交うのが特徴です。『破門』はヤクザと堅気の建設コンサルタントがコンビを組むシリーズの第5作で、詐欺師を追ってマカオのカジノや大阪を飛び回ります。

黒川さんは熱心な将棋愛好家で、三段ぐらいの棋力があります。私は17年前にある文芸誌の企画で、黒川さん(当時48歳)と平手の手合いで将棋を指しました。場所は東京の将棋会館の道場です。写真は、対局光景。

黒川さんは振り飛車党で、向かい飛車を得意にしています。私との1局目の将棋は、飛車を有効に使えず力を発揮できませんでした。2局目は飛車を巧みに活用して優勢となり、終盤では勝ち筋でしたが、寄せを誤って惜しくも敗れました。

大阪に在住する黒川さんは以前、関西の棋士たちがよく集まったキタの天神橋の酒場の常連でした。そこでは浦野真彦八段、東和男七段、森信雄七段、有森浩三七段、本間博六段らに、何局も指してもらいました。デパートの将棋イベントで高橋和女流三段と平手で対局したときは、本間六段が軍師として相振り飛車を仕込んでくれ、教わったどおりに指したら見事に勝てたそうです。

黒川さんが関西の棋士と知り合ったきっかけは、20年ほど前に総合雑誌の企画で村山聖九段の評伝を書いたことでした。その取材に師匠の森七段も同席して、あまり話さない弟子に代わって、質問にいろいろと答えたそうです。それ以来、黒川さんは森七段と愛媛県生まれの同郷のよしみもあって親しくなり、ほかの棋士たちとも交友が広がりました。その後、森七段が結婚式を挙げると、黒川さん夫妻が仲人を務めました。

黒川さんは上京したとき、将棋を指せる酒場に顔を出します。私が以前に行きつけにした銀座の酒場では、「黒川さんが来たときのために、将棋盤と駒を用意したい」というママの頼みで、私が見繕いました。盤は飲食などで汚れやすいので安物ですが、駒の材質は上等なツゲにしました。銀座の別の酒場が新規開店したとき、花などのお祝いの品が届けられた中で、なぜか将棋盤と駒がありました。送り主は黒川さんと親しい女流作家で、黒川さんが来たときのためでした。このように黒川さんの将棋好きは、銀座の酒場や作家仲間に知れわたっていました。

黒川さんは京都市立芸術大学彫刻科を卒業後、スーパー社員、高校の美術教師を勤めました。34歳の夏休みのとき、いつも開かれる彫刻の個展がなかったので、半ば暇つぶしで小説を初めて書いたところ、第1回サントリーミステリー大賞で『二度のお別れ』が佳作に選ばれました。その後、教師と作家の二重生活を送っていましたが、38歳のときに専業作家となりました。両立は体力的にきつい、作家は定年がない、という考えでした。ただ作家に転進してから数年間は、収入が3分の1に落ちて苦しかったそうです。

黒川さんの『破門』が直木賞の候補作に選ばれたのは6回目でした。以前は東京の行きつけの酒場で担当編集者らと待機しましたが、発表の時間が近づくにつれて雰囲気が重くなるのが、とても辛かったそうです。今回は好きな麻雀を打ちながら待っていたら、受賞の朗報が届きました。

黒川さんは元警察官や新聞記者から聞いた話を参考にして、新手の犯罪手口を題材にすることがあります。ある小説ではそのトリックが「グリコ・森永事件」に似ているということで、警察から事情聴取を受けたそうです。3年前には、ある週刊誌に「真犯人」と書き立てられました。その後、黒川さんは出版元と著者らに損害賠償を請求した裁判で勝訴し、誤報だということを認めさせました。

なお『将棋世界』11月号(10月3日発売)では、黒川さんと森七段の対談が掲載されます。

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2014年7月10日 (木)

女流棋士パーティーのリレートークで田丸が40 年前の経緯を語る

女流棋士パーティーのリレートークで田丸が40<br />
 年前の経緯を語る

6月29日に盛大に開催された「女流棋士発足40周年記念パーティー」(東京・渋谷のセルリアンタワー東急ホテル)では、「40年の歴史を語るリレートーク」というコーナーがありました。青野照市九段、深浦康市九段、私こと田丸昇九段、清水市代女流六段など7人の棋士と、カメラマンと観戦記者の方がそれぞれの思いを壇上で語りました。

写真は、右から田丸、聞き手の安食総子女流初段。※撮影は『将棋世界』。

私はリレートークの2番目に登場し、女流棋士発足の経緯を次のように語りました。

「本日の列席者の中で、40年前の1974年(昭和39年)の秋に女流棋士が誕生したことを最も早く知ったのは私だと思います。私は当時、将棋連盟で公式戦の日程を決める手合係を務めていました。10月に理事の二上達也九段から女流棋士と女流棋戦の発足を初めて知らされ、大いに驚いたものです。事の発端は、ふとした縁がきっかけとなり、連盟と報知新聞社が女流将棋について話し合ったことです。そして水面下での交渉の末に、6人の女流棋士誕生と報知の女流棋戦創設がわずか2ヶ月で決まったのです。スポーツ紙の報知は、プロ野球のシーズンオフの期間は文化面を明るい話題で盛り上げたいと考えていて、その編集方針と華やかな女流将棋が合致しました。連盟の副会長だった大山康晴十五世名人は、スポーツの世界のように将棋界も男と女にジャンルを分けるべきだと、女流棋士制度の設立をかねてより提唱していました。大山先生のような影響力のある棋士が女流将棋に無理解だったら、女流棋界の発展はずっと遅れたことでしょう。40年前にいろいろな
方たちの尽力によって、女流棋士と女流棋戦が誕生しましたが、陰の功労者は大山先生だと思います」

ちなみに現在の報知新聞はスポーツ紙ですが、大正から昭和初期の時代は一般紙でした。プロ棋戦を主催して将棋欄がありました。木村義雄十四世名人は青年時代、報知に嘱託として入社して観戦記を連載しました。報知と将棋界はもともと縁が深かったのです。

「もうひとつの女流団体と、フリーの中井さんは、女流棋士パーティーに招待されたのでしょうか。林葉さんもお元気なら、ぜひ招待される方だと思います」という内容のコメント(7月6日)は《古代子孫》さん。「女流棋界は、蛸島さん、林葉さん、中井さん、清水さん、里見さんと流れが続いてきました。どなたが欠けても、今の女流棋界はなかったのではないでしょうか。とにかく紆余曲折はありがちです。そこから融和がまた生まれるといいと思います。これからも女流棋界を応援していきましょう」という内容のコメント(7月8日)は《囲碁人》さん。

女流棋士発足40周年記念パーティーには、女流棋士の草分けの蛸島彰子女流五段が所属する日本女子プロ将棋協会(LPSA)の女流棋士たちは参加しませんでした。フリーの立場の中井広恵女流六段が贈ったお祝いの花束が会場に飾られましたが、当人は参加しませんでした。体調が良くないという元女流棋士の林葉直子さんも参加しませんでした。

前記の女流棋士らは、パーティー主催者の将棋連盟・女流棋士会から招待されなかったのか、遠慮して参加しなかったのか、そのあたりのことはわかりません。

将棋連盟とLPSAの関係は、LPSA側の「女流棋士認定」と「不戦敗」の問題が響いて、この3年ほどは深い溝が生じていました。しかし今年の6月、連盟と新体制となったLPSAとで、女流棋戦を円滑に運営するための「合意書」が締結されました。厳冬からようやく雪解けになった感じです。今後は、少しずつ融和していくことでしょう。

だいぶ先の話ですが、10年後の2024年に、将棋連盟は創立100周年を迎えます。同時に女流棋士発足50周年となります。そんな大きな節目の年に開かれる記念祝典は、すべての棋士と関係者が所属や過去にかかわらず、一堂に会してお祝いすることが望ましいと、私は今から思っています。

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2014年7月 4日 (金)

盛大に開催された女流棋士発足4 0周年記念パーティー

盛大に開催された女流棋士発足4<br />
 0周年記念パーティー

盛大に開催された女流棋士発足4<br />
 0周年記念パーティー

盛大に開催された女流棋士発足4<br />
 0周年記念パーティー

盛大に開催された女流棋士発足4<br />
 0周年記念パーティー

日本将棋連盟・女流棋士会が主催した「女流棋士発足40周年記念パーティー」が、6月29日に東京・渋谷のセルリアンタワー東急ホテルで盛大に開催されました。

写真・上は、縁起物の「左馬」の駒をかたどった氷柱。左側のピンク色の飾りは、女流棋士会ファンクラブ「駒桜」のロゴです。

写真・上から2番目は、壇上に並んだ女流棋士たちを代表して挨拶する女流棋士会会長の矢内理絵子女流五段。

前列の右から、斎田晴子女流五段、清水市代女流六段、長沢千和子女流四段、森安多恵子女流四段、関根紀代子女流六段、甲斐智美女流王位・倉敷藤花、香川愛生女流王将、谷川治恵女流五段、宇治正子女流三段、山田久美女流三段、高群佐知子女流三段。

第1期生の関根六段から最新の高校生棋士まで、将棋連盟に所属する51人の女流棋士のうち45人が出席しました(欠席者は休場中の里見香奈女流王座・女流名人など6人)。それにしても、45人の女流棋士が壇上に3列で並んだ光景は壮観でした。

矢内会長の挨拶の後、連盟会長の谷川浩司九段の代理で、専務理事の青野照市九段が挨拶しました。そして参議院議員で将棋文化振興議員連盟会長の山東昭子さん、羽生善治名人、森内俊之竜王らが祝辞を述べました。

青野九段は「40年前の1974年は、私が四段に昇段して棋士になった年なので、個人的にも感慨深いものがあります」と語りました。

山東さんは「私が参議院選挙で初当選したのも40年前でした。当時は女性の国会議員は衆議院と参議院を合わせてわずか14人でしたが、現在は78人います。将棋は芹沢さん(故・博文九段)に教えてもらいました」と語りました。

羽生名人は「2年前は《名人400年》の記念の年でした。女流棋界は、その10分の1の歳月で大きく発展したと思います」と語りました。

森内竜王は「女流棋士は、昔は男性棋士と実力的に距離感がありましたが、今は若手棋士と交流して研鑽を積み、飛躍的に強くなりました」と語りました。

写真・上から3番目は、将棋の魅力を広く世の中に伝えてもらうために、連盟が俳優・渡辺徹さん、タレント・つるの剛士さんに委嘱した「将棋親善大使」の授与式。右から、青野九段、森内竜王、渡辺さん、つるのさん、羽生名人、渡辺明二冠。

記念パーティーには、棋士・関係者・ファンなど、約600人が参加してとても盛況でした。北は北海道、南は沖縄と、遠隔地からの参加者もいました。また「見る将棋ファン」という女性の姿も目立っていました。

写真・下は、羽生名人との記念写真に収まった母親と娘さんの3人連れ。将棋を始めてまもない「ヨチヨチ歩き」とのことですが、テレビで見た棋士たちとじかに触れ合ったことで、将棋の魅力がさらに増したそうです。

そのほかに、藤井猛九段・つるのさんのペアと、甲斐女流二冠・香川女流王将のペアが対戦した席上対局、スライドで上映した「写真で見る女流棋界40年」、棋士・観戦記者・カメラマンが語った「40年の歴史を語るリレートーク」などの催しが行われました。

私はそのリレートークで、女流棋界が40年前に発足した経緯を語りました。それについては、次回のブログで紹介します。

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2014年6月13日 (金)

田丸が議長を務めた6月6日の将棋連盟通常総会の模様

田丸が議長を務めた6月6日の将棋連盟通常総会の模様

田丸が議長を務めた6月6日の将棋連盟通常総会の模様

公益社団法人・日本将棋連盟の今年の通常総会が6日6日、東京の将棋会館に隣接する「けんぽプラザ」3階の集会室で、午後1時から行われました。

写真・上は、会場の光景。228人の会員(現役棋士・引退棋士・女流棋士)のうち、約8割の181人(委任状は26人)が出席しました。

冒頭で連盟会長の谷川浩司九段が挨拶した後、私こと田丸昇九段を議長、浦野真彦八段を副議長に指名して承認されました。昨年も同じ組み合わせでした。

写真・下は、前列右から、谷川会長、田丸議長。後列右から、非常勤理事の深浦康市九段、藤井猛九段、杉本昌隆七段。※写真はいずれも『週刊将棋』撮影。

総会の議事は新会員(石井健太郎、三枚堂達也、香川愛生、星野良生、宮本広志)の紹介から始まり、全員が前に出て自己紹介しました。氏名・棋士番号・師匠のほかに、何か一言を語るのが通例です。飯島栄治七段は14年前、四段昇段後に連敗していたので、「早く1勝したいです」と正直に語って大爆笑となりました。昨年は石田直裕四段が「投手と野手を兼ねているプロ野球の大谷翔平選手のように、私も対局と普及の二刀流で頑張ります」と語って喝采を浴びました。今年の新四段らは、何も語りませんでした。

なお、昨年の秋にタイトルを初めて獲得した香川女流王将は、規定によって連盟の会員になりました。四段に昇段した女流棋士も同様です。

連盟は東京将棋記者会(主に棋戦担当者が加盟)の要請によって、2年前と昨年の総会では開会から閉会まで傍聴取材を認めました。今年は事前に記者会に通知して、各部担当理事の挨拶と報告が終わったとき(1時半頃)に退室してもらうことになりました。棋士の待遇に関する内輪の問題を話し合うためです。

今年は、定款の変更などで投票が行われました。連盟にとって、定款は憲法のようにとても重要なものです。条文を改定するには、会員の3分の2以上の賛成票(今年は152票)が必要です。その案件は理事改選の制度で、すでに大方の棋士に了解されていました。ただ総会の出席者数が例年よりやや少なく、規定の票数に達するか心配する理事もいました。しかし164票を得て、定款の変更は成立しました。

将棋ファンに注目されている来年の電王戦については、あるベテラン棋士が「棋士の人選に問題がある。20代と30代を中心に勝率の高い棋士を選び、最強の布陣で臨んでほしい。負けた棋士には対局料を払わなくていい」と、かなり辛口の注文をつけました。電王戦の主催者は、来年も同じ5番勝負の方式を希望しているそうです。詳細については、連盟との協議で決まることになります。

昨年の総会は、2年ごとの理事改選が行われました。ただ事前の予備選挙で選出された理事たちを、拍手で承認する手続きだけですみました。さらに重要な議案があまりなかったので、議事は速やかに進んで閉会は2時30分でした。

今年の総会は、前記の投票があり、ある議案で理事の説明が長かったり、質疑応答に時間がかかったりして、夕方まで延びました。そして予定の議案がすべて終わり、最後に「その他の議案」になりました。ここで会員は自由に発言できます。過去の例では、想定外の質問が出たり、質問と応答がかみあわなかったりして、もめたことがありました。2年前には、会長だった故・米長邦雄永世棋聖に批判的な棋士が辛辣な意見を述べ、気色ばんだ米長が向きになって反論して紛糾しました。

議長の私は「その他の議案」に先立ち、「公益法人の総会の場なので、それにふさわしい将棋界の発展につながるような建設的な発言をお願いします」と伝えました。過去には、総会にふさわしくない発言が出ることがありました。しかし今年は、理事会に批判的な棋士からの発言もなく、会場は静まりかえっていました。これには拍子抜けしました。私はすぐに閉会を宣言しました。時刻は5時10分でした。

現在の連盟の運営は割りと安定していますが、将来的な不安を持っている棋士は多いようです。内輪でもめている状況ではないと、大方の棋士は思っているのでしょう。

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2014年6月 4日 (水)

第4回電王戦、コメント内容、陣屋のカレー、対局立会人などのコメントについて

「第4回電王戦は開催されますって宣言していいんかいなぁ。あんたにそんな権限あんの?」というコメント(4月19日)は《Ken》さん。

第3回電王戦第5局の直後の記者会見で、将棋連盟会長の谷川浩司九段は「ファンのみな様の注目もありますが、今後についてはすべて未定です」と、プロ棋士が将棋ソフトとの5番勝負に2年連続で負け越した厳しい結果を受けて、このように語りました。

電王戦主催者のドワンゴの川上量生会長は「今後もコンピューターと人間の戦いを続けていきたい」と語りました。また、『週刊文春』の連載エッセイで「伝統文化とネット文化は相性がいいのです」と書きました。

こうした話を総合的に見れば、来年に第4回電王戦は開催されると思います(もちろん私にはそれを決定する権限はありません)。実際に谷川会長もその意向だと聞いています。ただ勝負の方式(5番勝負、棋士の人選、持ち時間など)については、あれこれと検討しているようです。

「投稿される方は、田丸九段に『あんた』とか言うのはやめましょう。最低限のマナーは守りましょう」というコメント(4月21日)は《見る将棋ファン》。

これは前記の《Ken》さんのコメントへの意見です。コメントの中には、たまに「ため口」のようなものがあります。それを失礼と思うか、くだけたと思うかは、人によって受け取り方は違うでしょう。私は「あんた」については、あまり気にしていません。

「5月19日のブログに、横文字と漢字混じりの変なコメント、商品の売り込みでしょうか。ウィルス一杯の危ない気がします」というコメント(6月2日)は《囲碁人》さん。《千葉霞》さんからも6月4日に同じ指摘がありました。

このブログを5年前に開設した当初は、違法サイトに誘導する「いたずらメール」が頻繁に送られました。現在は防止機能が働いてほとんどありません。ただ普通の文章に装っていたり外国語だと、通り抜けてしまうことがあります。私は、公序良俗に反する、他人を中傷する、将棋とは無関係、商品の売り込み、などの内容のコメントについては、管理者としてブログから削除することにしています。《囲碁人》さんらが指摘したコメントは、英語を解読できず様子を見ていました。しかし怪しいサイトに誘導する意図がありそうなので、なるべく早く削除します。皆さんも注意してください。

「陣屋のカレーはタイトル戦専用メニューで、一般客は口にすることができないと聞きました。連盟で陣屋のレトルトカレーを作ってほしいですね」というコメント(5月20日)は《SASA》さん。

タイトル戦の対局がよく行われる神奈川県秦野市「陣屋旅館」では、2日目の昼食はカレーライスが定番です。多くの対局関係者にぱっと出せるからだそうです。ビーフとチキンの2種類があり、食い意地の張っている私はどちらも食べます。とても美味しいと評判のカレーは、連盟ではなくて陣屋さんにぜひ販売してほしいですね。

「棋士が連盟の施設を私的に使うのは禁止ということを、初めて知りました。確かにあちこちで練習将棋や研究会が行われたら収拾がつかなくなります」というコメント(5月25日)は《popoo》さん。

以前は、棋士が将棋会館の空き室を研究会などに自由に使えました。しかし連盟の事業が拡張するにともない、もともと手狭なこともあって、業務に支障が生じるようになりました。昨年の8月からは、会館での研究会、VS(1対1の練習将棋)は禁止されました。ただし実戦ではなくて、盤を使った検討は今までどおりできます。順位戦や注目の一戦がある日の夜7時以降は、控室の桂の間に盤が何面も並べられ、多くの棋士が熱心に研究しています。そこでの情報とコメントは、「モバイル中継」の題材となっています。

「対局立会人の話は、めったに聞くことができないので興味深いです。最後の対局終了が午後11時を過ぎると1万円の深夜手当をもらえるなら、田丸九段が対局立会人を務めた5月27日は11時20分なので、深夜手当をもらったのですね」というコメント(5月31日)は《popoo》さん。

1万円の深夜手当は、私はタクシー代と夜食代で半分ほど使ってしまいますが、ないよりはましです。4月に務めたときは最終対局の終了時刻が11時ジャストで、内心でラッキーと思いました。一方で10時59分に終わって、がっかりした棋士もいます。11時が近くになると、ちょっとそわそわしますね(苦笑)。

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2014年5月19日 (月)

タイトル戦の回数、トップ棋士のスピーチ、ニコニコ生放送のコメントについて

「升田―大山、大山―中原、中原―米長、谷川―羽生、羽生―佐藤康、森内―羽生のタイトル戦が、それぞれ何回あったか教えてください」というコメント(4月5日)は《さるさびる》さん。

前記の組合せのタイトル戦で、回数が多い順に紹介します。中原―米長・22回、谷川―羽生・22回、羽生―佐藤康・21回、升田―大山・20回、大山―中原・20回、森内―羽生・15回です。

中原―米長の対戦の内訳は、名人戦・6回、十段戦・6回、王位戦・4回、王将戦・3回、棋王戦・2回、棋聖戦・1回。米長は1993年、名人戦で中原に対して6回目の挑戦で破り、悲願の名人位に50歳で就きました。なお十段戦は竜王戦の前身棋戦です。

谷川―羽生の対戦の内訳は、王位戦・5回、王将戦・4回、棋聖戦・4回、竜王戦・3回、王座戦・3回、棋王戦・2回、名人戦・1回で、すべてのタイトル戦にわたっています。

羽生の「七冠制覇」がかかった1995年の王将戦は、3勝3敗の後の第7局が千日手になる歴史に残る死闘で、谷川が指し直し局に勝って羽生の七冠を阻止しました。そして翌年の96年、ほかのタイトルをすべて防衛して王将戦で再挑戦した羽生が、谷川を破って七冠制覇の大偉業を達成したのです。

升田―大山の時代はタイトル戦が三冠~五冠でした。それだけに20回という対戦数は、両者がいかに傑出していたかがわかります。

森内―羽生の対戦は、今年の6月から始まる棋聖戦を含めると16回ですが、いずれ22回を超えて新記録を作ることでしょう。

「羽生善治三冠のスピーチは『えー』『まあ』『その』などの不要な言葉が多すぎます。佐藤康光九段も渡辺明二冠も『まあ』が口癖になっています。トップ棋士は不快感のないスピーチを練習する必要があると思います。才能のある方々ですので、自覚と訓練で容易に習得できる技術と理解しています」というコメント(4月13日)は《シリウス》さん。同じような指摘のコメント(4月16日)が《東京人》さんからもありました。

私はタイトル戦の前夜祭や就位式の場で、羽生三冠のスピーチを何度も聞きました。簡潔なうえにつぼを心得ていて、さすがにトップ棋士だと感心しています。近年は講演や対談の機会が多いのも、話の中身が深くてわかりやすいからだと思います。だから羽生三冠の前記の口癖は、私はあまり気になりません。英語では「so、well、now」といった「つなぎ言葉」があるそうで、その一種と思っていいのではないでしょうか。もちろん不要な言葉を省けば、話はもっと格調が高くなりますが、いずれ本人が自覚することでしょう。

「『ニコニコ生放送』で田丸九段の将棋のエピソード談はいいですね。対局の解説をしながらの話は、退屈しないので楽しかった」というコメント(5月13日)は《古代子孫》さん。「2日制タイトル戦の1日目は、指し手が動きませんから解説がなかなか難しいと思います。田丸九段はいろいろ下調べにご苦労があると思いますが、次回も期待しております」というコメント(同日)は《オヤジ》さん。「『ニコニコ生放送』の解説で田丸九段が資料を手持ちだったのが気になりました」というコメント(5月16日)は《千葉霞》さん。

私は先日の名人戦(森内俊之名人―羽生善治三冠)第3局の1日目に『ニコニコ生放送』で解説者を務めました。対局者が長考して指し手が止まったときには、森内―羽生の名人戦の記録やエピソードなどを紹介しました。解説の合間に盤外の話をするのは、食事の後のデザートのようなもので気楽に聞けると思います。今年の名人戦のキャッチフレーズは「伝説を超えろ!」なので、大山―升田の名人戦でのエピソードも折り込みました。

資料の収集は2日ほどかかりましたが、将棋の歴史やエピソードを調べるのは好きなので、まったく苦になりません。そんなことをするのは棋士の中では自分だけだと思うと、張り合いがあります。資料を手に持って話すことが少しありました。できれば避けたかったのですが、資料が多かったので覚えきれず、内容を正確に伝えるためにそのようにしました。

今後も将棋界の「語り部」として、様々な形で歴史やエピソードを伝えていきたいと思っています。

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2014年3月 3日 (月)

ニコニコ生放送、田丸の著書、26年前のNHK杯戦、女流問題のコメントについて

「ニコニコ生放送で田丸九段が解説していたなんて知りませんでした。見たかった。誰かも言ってましたが、引退するまでにNHK杯戦で田丸九段を見たいな」というコメント(1月22日)は《ぱちょり》さん。

私は昨年、名人戦(森内俊之名人―羽生善治三冠)第3局と竜王戦(渡辺明竜王―森内俊之名人)第3局で、ニコニコ生放送の解説者を務めました。いずれも指し手があまり進まない1日目だったので、主に名人戦と竜王戦の歴史と雑学、両対局者のエピソードなど、盤外の話を紹介しました。視聴者には好評だったようです。今年の名人戦(森内名人―羽生三冠)でも、ニコニコ生放送で解説者を務める予定です。

私がNHK杯戦で最後にテレビで対局したのは1999年でした(1回戦で鈴木大介六段に敗戦)。それ以来、予選でずっと敗退しています。今年も金井恒太五段に敗れました。本戦に進出するには、予選で若手棋士たちを相手に3連勝しないといけません。2年後に引退するまで、たぶん無理だと思います。

「田丸九段の『振り飛車破りユニーク戦法』と『将棋界の事件簿』はサイン本で購入することは可能でしょうか」というコメント(2月4日)は《将丸》さん。

私の著書の『振り飛車破りユニーク戦法』(創元社)と『将棋界の事件簿』(マイナビ)は、いずれも2005年に刊行されました。現在では、前者は書店にあまり出回っていません。後者は絶版となりました。私の手元にも在庫はありません。したがってサイン本は残念ながら難しい状況です。

「1988年の7月か8月に放送されたNHK杯戦の田丸昇七段と宮田利男六段の将棋を見たくて、『将棋の棋譜でーたべーす』で調べてみましたが載っていませんでした。テレビで見たのは中学生の頃で、その将棋は今でも鮮明に覚えています。田丸七段は守らないで攻めまくった将棋で、解説者の棋士が《これはさすがに受けるでしょう》と言った局面ですら受けず、苦笑いしていた記憶があります。そのくらい突っ張った内容でしたが、田丸七段が勝ちました。その将棋について教えてください」という内容のコメント(2月22日)は《たけと》さん。

26年前のNHK杯戦・田丸七段―宮田六段の対局ですね(7月17日に放送)。当時の『NHK将棋講座』で調べてみました。相矢倉の戦型から攻め合いになり、形勢不明の局面が続きました。そして終盤で、私が詰めろ逃れの詰めろの▲5四角の攻防手を放って勝ち筋となりました。だから、私が一方的に攻めて勝ったという内容ではありません。なお解説者は真部一男八段でした。

「田丸九段は女流騒動のことをどうお考えでしょうか。女流問題は田丸九段が間に入って連盟での統一を図られてはどうでしょうか。お願いします」というコメント(2月28日)は《古代子孫》さん。

女流棋士の団体が将棋連盟とLPSA(日本女子プロ将棋協会)に分かれたのは7年前の2007年でした。それに至った経緯については、私はよく知りません。両団体が普及活動を競い合って将棋界の発展につながれば理想的ですが、現実には反目し合う状況になりました。以前にこのブログで書きましたが、「○○◆◆☆☆会社」という社名があるように、現代は大手の会社同士が合併して資本力や国際競争力を高める時代です。経済規模が大きくない将棋界の中で、特殊な存在である女流棋界が2団体に分かれているのは、時代に逆行していると思います。私は連盟とLPSAの関係が悪化したとき、フリーの立場で仲立ちをしてみようと思ったことがあります。しかし簡単に解決する問題ではありません。理屈ではない感情的なしこりが残っているからです。

LPSAは先日、執行部が一新しました。今後は、連盟との関係は良好になることでしょう。そして、いつの日か「元の鞘に収まる」ことが望ましいと、私は個人的に思っています。ただし、何事にも時節の到来というものがあります。それを待ちましょう。

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2013年12月16日 (月)

将棋文化検定の東京会場のトークショーでの受検者の感想と今後の課題

将棋文化検定の東京会場のトークショーでの受検者の感想と今後の課題

第2回「将棋文化検定」は10月13日に東京・大阪・名古屋・天童・広島の各会場で実施され、試験後に受検した棋士たちのトークショーが行われました。

写真は、東京の会場(調布市の明治大学附属高校・中学)の光景。左から、将棋文化検定の実行委員で試験官を務めた私こと田丸昇九段、Bコース(3級・4級)を受検した中村修九段、同じく富岡英作八段、Cコース(5級・6級)を受検した熊倉紫野女流初段。

受検した棋士たちは「難しかったです。合格できるかどうか自信ありません」と感想を語りました。とくに数字が解答の問題は、考えにくかったと思います。※中村、富岡は3級、熊倉は6級に合格しました。

その一例がBコース第27問の《大山康晴十五世名人がNHK杯戦で最年長記録で優勝した年齢》という内容の問題。ヒントは①59歳②61歳③63歳。富岡八段が「どの年齢で優勝してもすごい」と言ったように、2歳違いのヒントでは難しかったようです。

正解は②61歳。大山は1984年に決勝で加藤一二三前名人に勝ち、8回目の優勝をしました。ちなみに今期のNHK杯戦の出場者の中で、60代は森雞二九段、50代は谷川浩司九段、高橋道雄九段、堀口弘治七段と、50歳以上は4人しかいません。大山の偉大さが改めてわかります。

中村九段はDコース(7級・8級・9級)第57問の《中村修九段、屋敷伸之九段、丸山忠久九段が優勝したアマの将棋大会》という内容の問題を見て笑っていました。ヒントは①小学生名人戦②中学生名人戦③中学生選抜選手権。

正解は②中学生名人戦。中村は1976年の第1回、丸山は第9回、屋敷は第10回の優勝者です。1991年の第16回以降では、プロ棋士になった優勝者はいません。つまり棋士をめざして奨励会に入る年齢が若年化しているからです。過去38回の小学生名人戦の優勝者で棋士になったのは、羽生善治三冠、渡辺明二冠、鈴木大介八段、野月浩貴七段、村山慈明六段、高崎一生六段、佐々木勇気四段など11人います。

私はトークショーの会場で、受検者たちにも感想を聞いてみました。「難しかったけど勉強になった」「意外なことを知って面白かった」など、問題の内容はおおむね好評でした。一方で「マニアックな問題があった」という批判もありました。

マニアックという言葉はよく使われますが、実際にはどんな問題を指すのでしょうか…。問題の中には、将棋文化の知識のほかに、遊びの要素がある雑学が少しありました。

その一例がAコース第28問の《漫画好きの矢内理絵子女流四段が全巻を揃えているコミック》という内容の問題。ヒントは①金田一少年の事件簿②ワンピース③ガラスの仮面。

正解は①金田一少年の事件簿。棋士の個人的な趣味が将棋文化と関係があるのか、という批判はもっともです。しかしNHK杯戦の番組の司会者を長く務めている人気女流棋士の私的な一面は、将棋ファンに興味深いことではないでしょうか。私が矢内女流からじかに聞いた話で、その意外性が面白いと思って出題しました。

第2回将棋文化検定の受検者は約600人でした。第1回の約900人に比べて、残念ながら3分の2に減りました。その原因ははっきりわかりません。

受検者のアンケートには、「会場を増やしてほしい」「会場(東京)までの交通の便が悪い」「問題の内容に疑問がある」「特典を充実させてほしい」「詳しい内容の公式テキストを作ってほしい」「公的な資格にしてほしい」などの意見や批判が寄せられました。これらは今後の課題といえます。

私が実行委員として痛感するのは、将棋文化検定の存在がよく知られていないことです。その意味で、もっと宣伝する必要があります。近年は「見る将棋ファン」が増えています。そういった人たちを取り込めれば、発展する可能性は十分にあると思います。

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2013年12月10日 (火)

第2回将棋文化検定を受検した女優の岩崎ひろみさんとドラマ『ふたりっ子』

第2回将棋文化検定を受検した女優の岩崎ひろみさんとドラマ『ふたりっ子』

第2回将棋文化検定を受検した女優の岩崎ひろみさんとドラマ『ふたりっ子』

第2回将棋文化検定を受検した女優の岩崎ひろみさんとドラマ『ふたりっ子』

第2回「将棋文化検定」は10月13日に東京・大阪・名古屋・天童・広島の会場で行われました。昨年の第1回は、2級・4級・6級・8級の4クラスに分かれました。今年はAコース(1級・2級)、Bコース(3級・4級)、Cコース(5級・6級)、Dコース(7級・8級・9級)に分かれ、得点によって取得する級位が変わります。Aコースを例に説明すると、相当な高得点を挙げると1級、基準点以上だと2級、基準点以下だと不合格になります。

写真・上は、東京の会場となった調布市の明治大学附属高校・中学。敷地はかなり広く、メインの試験会場(写真・中)のほかに、別のクラスの教室、試験後にトークショーが行われるホールなど、とてもゆったりしていました。

写真・下の右は、NHKの将棋番組『将棋フォーカス』に出演している女優の岩崎ひろみさん。この将棋文化検定を初めて受検しました。左は、将棋文化検定の実行委員で東京の会場で試験官を務めた、私こと田丸昇九段。

Dコースを受検する岩崎さんは、将棋連盟が発行した将棋文化検定の公認テキストで勉強しました。とくにタイトル戦の名称、持ち時間、番勝負の数をしっかり頭に入れたそうです。

じつは前回の2級・第45問では、「NHKの朝の連続テレビ小説で放送された将棋界が舞台のドラマ『ふたりっ子』で、棋士をめざす主人公を演じた女優の名前は(※)です」という記述式の問題が出ました。私がそれを岩崎さんに言うと、「その問題ならもちろんわかります」と笑っていました。正解は、ご当人の(※岩崎ひろみ)です。

『ふたりっ子』は1996年秋から97年春までの半年間、NHKで放送されました。双子のヒロイン(麗子・菊池麻衣子、香子・岩崎ひろみ)の妹の香子が、女性初のプロ棋士をめざすという設定です。舞台は大阪の下町の天下茶屋と新世界。関西弁が飛びかう庶民的な物語が展開されます。

脇役の出演者も個性的でした。後に人気俳優となった内野聖陽は、棋士を演じて香子と結婚します。伝説の真剣師だった大田学がモデルという佐伯銀蔵は中村嘉葎雄、大山康晴十五世名人と思わしき棋士は落語家の桂枝雀が演じました。原発反対問題で話題になった山本太郎(現・参議院議員)は麗子の恋人役です。そのほかに、歌手の河島英五、元プロ野球選手の掛布雅之、古田敦也がゲスト出演しました。羽生善治(当時・名人)、谷川浩司(当時・竜王)、内藤国雄九段、神吉宏充七段もゲスト出演しました。※敬称略。

私は毎回、『ふたりっ子』を見ました。香子の手つきは回を重ねるうちに上手になり、棋士をめざす奨励会員になりきっていました。ドラマで印象的な場面は、香子が心の師と仰ぐ銀蔵から「香車を捨てよ」と謎めいた忠告を受けることでした。

『ふたりっ子』は大人気を呼び、平均視聴率は約30%に達しました。95年の阪神大震災で受けた大きな傷がまだ癒えなかった当時、プロ棋士という難関に挑む香子の姿を見て元気づけられた視聴者(とくに関西の人たち)が多かったのでしょう。また、通天閣の歌姫・オーロラ輝子が歌った挿入歌『夫婦みち』は、演歌不振の時代に60万枚以上も売れる大ヒット曲となり、オーロラ輝子を演じた河合美智子は97年のNHK紅白に出演しました。

12月8日に放送された『将棋フォーカス』では、第2回将棋文化検定が題材に取り上げられました。そして番組内で、岩崎さんがDコース(110点満点)で98点を得て8級に認定されたことが発表されました。7級には惜しくもあと2点(1問)が足りませんでしたが、素晴らしい成績でした。岩崎さんは「資格は運転免許だけなのでうれしいです」と語りました。

第2回将棋文化検定とトークショーの模様は、また次回にお伝えします。

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2013年8月20日 (火)

7月の参議院選挙での将棋文化振興議員連盟の立候補者たちの当落

2年前の8月に「将棋文化振興議員連盟」が設立され、自民党・民主党・公明党・共産党・みんなの党など、衆参両院の与野党の国会議員たちが参加しました。

最初の会合では、約100人が入会しました(代理出席や欠席者を含む)。元首相同士である安倍晋三(自民党)と鳩山由紀夫(民主党)が隣同士で歓談し、超党派の将棋会らしい和気あいあいとした雰囲気だったそうです。そして会長には「黄門さま」の愛称がある渡部恒三(民主党)が選ばれました。※敬称略。以下も同じ。

当時の将棋連盟会長だった米長邦雄永世棋聖は、国会議員の将棋会を通じて永田町や霞が関と関係を深くすることで、いずれは将棋関連の予算を獲得したり、義務教育に将棋を必修化させたい意図があったと思います。

その後、昨年の12月の衆議院選挙の結果、政権は民主党から自民党に戻り、安倍内閣が成立しました。将棋文化振興議員連盟の会長は政界を引退した渡部に替わって、今年から山東昭子(自民党)に引き継がれました。

今年の7月21日に行われた参議院議員では、自民党の圧勝と民主党の惨敗によって、与党が安定多数を得て衆参の「ねじれ」が解消されました。

将棋関係者の私としては、将棋文化振興議員連盟に所属する参議院議員や元衆議院議員の立候補者の当落が気になるところでした。

自民党では、山東が比例区で約20万票を獲得して7期目の当選を悠々と果たしました。鴻池祥肇(兵庫選挙区)と衛藤晟一(比例区)も当選しました。

民主党では当選者はなく、谷博之(栃木選挙区)、一川保夫(石川選挙区)、鹿野道彦(比例区)、吉田公一(比例区)が落選しました。

そのほかの政党では、北朝鮮の拉致問題で知られる中山恭子(日本維新の会・比例区)は当選しましたが、佐藤公治(生活の党・広島選挙区)、三宅雪子(生活の党・比例区)、谷岡郁子(みどりの風・比例区)、坂口岳洋(無所属・山梨選挙区)、米長晴信(みんなの党・山梨選挙区)は落選しました。

米長は、米長永世棋聖の甥に当たり、6年前に民主党から出馬して参院・山梨選挙区で当選しました。その後、民主党の内紛もあって離党したのですが、定数1人の山梨選挙区では自民党の候補者が圧勝しました。米長は将棋文化振興議員連盟の事務局長を務め、与野党の議員の調整役を果たしてきました。それだけに残念な結果でした。

7月26日に東京・目白「椿山荘」で行われた森内俊之名人の就位式では、文部科学大臣の下村博文が祝辞を述べ、山東が森内に花束を贈りました。河村建夫(自民党)と市田忠義(共産党)も出席しました。いずれも将棋文化振興議員連盟のメンバーで、党派を超えて日本の伝統文化である将棋の発展に力を尽くしてほしいものです。

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2013年7月16日 (火)

亡くなった将棋ジャーナリストの山田史生さん、永井英明さんの足跡

亡くなった将棋ジャーナリストの山田史生さん、永井英明さんの足跡

亡くなった将棋ジャーナリストの山田史生さん、永井英明さんの足跡

今年の7月9日、将棋ジャーナリストの山田史生さんが76歳で死去しました。
昨年の9月24日、『近代将棋』元社長の永井英明さんが86歳で死去しました。
今回は、亡くなった2人の将棋ジャーナリストの方の足跡をお伝えします。

写真・上は、「囲碁・将棋チャンネル」の情報番組『週刊!将棋ステーション』に、田丸(右)が2年前にゲスト出演したとき。左が司会者の山田さん、中は聞き手の女性。

写真・下は、36年前のNHK杯戦の決勝戦で聞き手を務めた永井さん(左)。右は解説者の大山康晴十五世名人。※『近代将棋』より転載。

山田さんは読売新聞社の将棋担当記者を務め、「十段戦」と「竜王戦」の発展に尽力してきました。とくに最大の仕事は、十段戦を発展的に解消して26年前に竜王戦を創設したことでした。将棋界の最高棋戦として、高額の契約金や優勝賞金、四段でも竜王を獲得できる方式、アマの公式戦初参加、海外対局などの新機軸は人気を呼びました。そして時々の強者や勢いのある棋士が竜王戦で活躍しました。5年前の渡辺明竜王―羽生善治名人の7番勝負は、渡辺が3連敗から4連勝して逆転防衛を果たし、将棋界 を大いに盛り上げたものです。

竜王戦が発足した当初は、棋士も将棋ファンも「名人戦」が一番と見る傾向があり、山田さんは将棋界の序列問題で将棋連盟によく談判しました。本来は穏やかな性格の方でしたが、竜王戦の序列第1位は絶対に譲らない信念を持っていました。山田さんの著書『将棋名勝負の全秘話全実話』(講談社)には、そんな経緯が詳しく書かれています。

竜王戦の名称については、ほかに最高棋戦、棋神戦、巨星戦、棋宝戦、達人戦など、様々な候補が上がったそうです。結局、「竜は古来、中国では皇帝のシンボルで貴いものを表す。将棋で竜王は最強の駒」という観点から、竜王戦に決まりました。

山田さんは17年前に読売新聞社を退職した後は、竜王戦の観戦記者、囲碁・将棋チャンネルの司会者や助言者を務め、将棋ジャーナリストとして活躍してきました。長年にわたって務めた前記の情報番組は、昨年に健康上の理由で降りました。私が今年の4月に将棋会館で会ったとき、「田丸さんのブログは、将棋界の出来事や裏話を詳しく書いているので、とても参考になります」と話されました。元気そうな様子だったので、それから3ヵ月後に亡くなったとは残念でなりません。

永井さんは戦後まもない63年前に、24歳の若さで『近代将棋』を創刊しました。将棋を楽しみながら強くなれるという編集方針を立て、実戦譜や定跡の解説、読み物、詰将棋など、多彩な記事を誌面に盛り込みました。理論派の棋士・金子金五郎九段が哲学的な視点で棋譜を解説した「金子教室」は、根強い愛読者がいました。

1960〜70年代の頃は、『近代将棋』は固定読者がいて販売部数が安定し、将棋連盟発行の『将棋世界』と並んで2大将棋雑誌でした。それだけに、連盟や棋士に対して何かと気遣いをしたようです。大山康晴と個人的に親しくする一方で、升田幸三に直営道場の顧問を依頼したりして、2人の実力者とは微妙なバランス関係を保ちました。それは、中原誠・米長邦雄、谷川浩司・羽生善治の時代になっても同様でした。

じつは、私は20代前半の若手棋士の頃に出版の世界に興味を持ち、『近代将棋』で編集の仕事を手伝ったことがあります。永井さんに新しい企画を提案すると(ドキュメンタリー記事、劇画、特集グラビアなど)、基本的に何でも受け入れてくれました。私が後年に連盟の出版担当理事や『将棋世界』編集長を務めたり、著書を刊行した際は、そんな編集経験がとても役に立ったと思っています。

永井さんはNHK杯戦の司会者を10年以上にわたって務め、わかりやすくてソフトな語り口は視聴者に好評でした。知らない人には、NHKのアナウンサーと思われたそうです。

情報が早い『週刊将棋』が発行されたり、ネット時代が到来すると、『近代将棋』の販売部数は次第に落ち込み、10年以上前には娯楽系の出版社に経営を譲渡しました。

永井さんの盤寿(81歳)を祝う会が6年前に盛大に開催されたとき、多くの将棋関係者から祝福を受けました。結果的に、それが花道となりました。『近代将棋』は親会社の事情で5年前に休刊が決まりましたが、最後まで編集者の仕事を全うした人生でした。

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2013年7月 6日 (土)

田丸が議長を務めた今年6月の将棋連盟総会の模様

田丸が議長を務めた今年6月の将棋連盟総会の模様

田丸が議長を務めた今年6月の将棋連盟総会の模様

私のパソコンに不具合が生じたために、このブログの更新を休止していましたが、新しいパソコンを立ち上げましたので1ヶ月ぶりに再開します。

公益社団法人・日本将棋連盟の今年の通常総会が6月7日、東京の将棋会館に隣接する「けんぽプラザ」で開かれました。東京将棋記者会の要請によって、昨年から総会の模様を開会から閉会まで報道陣にすべて公開しています。

写真・上は、会場の光景。224人の会員(現役棋士・引退棋士・女流棋士)のうち、約7割の棋士が出席しました。

冒頭で連盟会長の谷川浩司九段が挨拶した後、私こと田丸昇九段を議長、浦野真彦八段を副議長に指名して承認されました。

写真・下は、前列の右から、専務理事の田中寅彦九段、谷川会長、田丸議長、浦野副議長など。後列は、ほかの理事と監事。※写真はいずれも「週刊将棋」撮影。

総会で議長の指名は会長の専権事項です。年輩棋士と中堅棋士、関東棋士と関西棋士、という組み合わせで決めるようです。

私は1990年代後期に副議長を4回務めました(議長はいずれも桐山清澄九段)。初めて議長を務めた2006年の臨時総会は、名人戦の主催者をめぐって毎日新聞社か朝日新聞社かで揺れ動いた時期で、とても緊迫感がみなぎっていたものです。

総会の議事は新会員紹介(5人の新四段)から始まり、全員が前に出て自己紹介しました。中でもユニークだったのは石田直裕四段で、「私は北海道出身なので、プロ野球は日本ハムファイターズのファンです。とくに投手と野手の二刀流で注目されている新人の大谷翔平選手を応援しています。私も、対局と普及の二刀流で頑張りたいと思っています」と力強く語ると、先輩棋士から喝采を浴びました。最近の若手棋士は言動がしっかりしていて、とても頼もしいと私は思いました。

その後、各理事の報告、事業書と決算書の承認、監事の報告、5月の予備選挙で選出された12人の新理事(5人の非常勤理事を含む)と2人の監事の承認と、議事は円滑に進行していきました。

対局規定が一部改定されました。対局に遅刻した場合の新しい罰則、持将棋模様の局面での「宣言法」の導入、対局での電子機器の取り扱い、などの案件が承認され、今年10月から暫定的に実施することになりました。

遅刻の件を説明しますと、持ち時間が6時間の順位戦の場合、最大で1時間59分も遅刻しても、残り3分で対局できます。しかし待たされた対局者の精神的ダメージが大きく、前から問題になっていました。ほかの競技と比べて甘いという指摘もありました。新しい罰則は、持ち時間にかかわらず最長1時間で不戦敗となります。なお交通機関の事故や天災による遅刻は、別の規定があります。

昨年は最後の議題の一般質問で、会長の米長邦雄永世棋聖に対して批判的な棋士から厳しい発言が相次ぎ、それに激昂した米長が反論して、やや騒然となりました。

今年はある棋士から不穏当な内容の発言が出たとき、議長の私は「それは個人的な問題のようなので、後で担当理事と話し合ってください」と言って、その場を収めました。

今年の総会は、午後1時の開会から1時間半ほどで閉会となりました。議長の私は、議事を円滑に進行させて職責を果たしました。なお例年の閉会は4時頃で、昔は紛糾して深夜に至ったこともありました。

その後、新理事の互選によって谷川会長が再任され、新体制の陣容が発表されました。

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2013年5月13日 (月)

名人戦(森内名人―羽生三冠) 第3局で田丸が「ニコニコ生放送」の解説者に

名人戦(森内名人―羽生三冠)<br />
 第3局で田丸が「ニコニコ生放送」で解説

名人戦(森内名人―羽生三冠)<br />
 第3局で田丸が「ニコニコ生放送」で解説

第71期名人戦(森内俊之名人―羽生善治三冠)第3局・1日目の5月9日。私は「ニコニコ生放送」の将棋番組に出演し、解説者を初めて務めました。

写真・上は、大盤解説の光景。右は解説者の田丸、左は聞き手の本田小百合女流三段。

写真・下は、番組を放送したスタジオ。3台のテレビ画面には、対局中の盤面・放送中の画面・対局室が映し出されています。その手前側に、私たちがいます。

このスタジオは東京の将棋会館の5階にあります。以前は「銀河戦」の対局室や放送施設でしたが、2年前に新設された地下のスタジオに移ってからは、ニコニコ生放送の放送施設に変わりました。

ニコニコ生放送は2年前から大半のタイトル戦を中継しています。2日制の場合、1日目は対局開始の9時から夕方の封じ手まで、2日目は対局開始から終局まで、続けて生放送します。最近、NHKの衛星放送が午前中の名人戦番組をやめたのは、放送枠が2チャンネルに減った関係もありますが、ニコニコ生放送の影響もあったと思います。

ニコニコ生放送の将棋番組は、有料会員(月額・約500円)がパソコンや携帯電話などを通して視聴できます。非会員でも見られますが、視聴者が増えてくるとカットされます。

ニコニコ生放送の最大の特色は、解説者たちと視聴者が双方向の関係にあることです。解説者たちの話に反応した視聴者のコメントが放送画面にリアルタイムで流れていきます。私たちもそれを見て、話を進めていくのです。

視聴者に「形勢判断」「次の一手」のアンケートを募ったり(1分後に割合が画面に表示されます)、視聴者のメールによる質問に答えることもあります。そのほかに「解説者たちの昼食」の予想、「解説者たちの3時のおやつ」の紹介、「前回の解説者からの質問」への返事など、通常の将棋番組にはないコーナーがあります。ある意味では、一般の視聴者と共有しやすい話を取り上げているともいえます。

ちなみに、私と本田女流の昼食は「ビーフステーキ」、番組から出たおやつは「つぶ餡のもなか」、前回(第2局・2日目)の解説者の高橋道雄九段からのテニス上達法の質問には「私のテニスは将棋と同じように変則的で、実戦で鍛えています」と答えました。

ニコニコ生放送の視聴者は、コアの将棋ファンのほかに、将棋をあまり知らない一般の人たちが数多くいるそうです。だから正直に言うと、「緩くて何でもあり」という感じの番組になっています。私もラジオの深夜放送のディスクジョッキーになったような気分で、話を少し脱線させながら楽しくおしゃべりしました。

視聴者から「お互いにA級昇級がかかった21年前の順位戦(田丸八段―島朗七段)の対局の終盤」についての質問がくると、番組担当者の判断でその棋譜をすべて並べることになり、名人戦の番組なのに田丸が自戦解説をしました。その質問をした人は、「初手から並べていただけたのは望外の嬉しさでした。田丸九段の自戦解説は、本当に楽しく興味深かったです」(tacotacoさん)というコメントをこのブログに寄せました。

名人戦の1日目では、序盤で長考が相次ぐと、将棋の解説だけでは間が持てないことがあります。そこで私は事前に番組担当者に提案し、「名人戦の記録」「森内・羽生のエピソード」「名人戦の雑学」というテーマで、解説の合間に盤外の話もしました。それらを4択形式の問題にして、番組で視聴者から回答を募りました。その中から「名人戦の雑学」の問題を2問出します。4つのヒントから考えてください。※正解と解説は末尾。

【問題①】1949年の第8期名人戦(塚田正夫名人―木村義雄前名人)第5局が行われたかなり珍しい対局場。
A・上野公園。B・後楽園球場。C・明治神宮。D・皇居内。

【問題②】 1993年の第51期名人戦(中原誠名人―米長邦雄九段)で、7回目の挑戦で新名人に就いた米長が対局前に語った自身の心境を例えたもの。
A・月。B・菜の花。C・亀。D・阪神タイガース。

番組で出した問題はいずれも正解率が高く、視聴者の知識の豊かさに驚いたものです。私が解答を言う前に、コメントで説明する人もいました。盤外の話は好評だったようです。このブログにも、「ネタが豊富で楽しめました。何より準備がすばらしい! 視聴者アンケートの96%が《よかった》は、すごいことです」(K島さん)というコメントが寄せられました。

名人戦第3局は、羽生が森内に勝って1勝2敗としました。過去70期の名人戦では、2連敗した棋士が逆転勝ちしたのは6例だけです。はたして今期はどうなるでしょうか…。

【問題の正解と解説】
①は、D・皇居内。皇宮警察の武道場の「済寧館」が対局場になりました。昭和天皇や宮内庁の人たちが将棋を愛好したので実現しました。
②は、B・菜の花。「菜の花は董が立ってから花が咲く」という意味です。米長はその言葉どおりに、49歳11ヶ月の最年長記録で新名人に就きました。

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2013年5月 6日 (月)

4月15日の昇段者免状授与式で九段昇段の田丸が挨拶

4月15日の昇段者免状授与式で九段昇段の田丸が挨拶

4月15日の昇段者免状授与式で九段昇段の田丸が挨拶
4月15日の昇段者免状授与式で九段昇段の田丸が挨拶

私は今年の5月5日、63回目の誕生日を迎えました。太陽が昇り始めた朝の5時に生まれ、ちょうど鯉幟(こいのぼり)の季節だったので、祖母が「昇」と命名しました。

私が生まれたとき、逆子の状態でかなり難産となり、助産婦の人は「この子は運が強い」と言ったそうです。その後、少年時代は気管支喘息や小児リューマチの病気で苦しんだこともありましたが、成人してからは健康な体になりました。63歳まで病気で入院したことは一度もなく、元気で暮らしています。また、常備薬、体の消毒、健康をチェックするリトマス水溶液と称して、毎日のように適量の「お酒」を「服用」しています。

4月15日に東京の将棋会館で、第40回将棋大賞表彰式と併せて、昇段者免状授与式が行われ、4月1日付で九段に昇段した私も出席しました。

写真・上は、私の九段免状。手すき和紙の大高檀紙に、将棋愛好家で作家の故・滝井孝作さんの格調高い文章が毛筆で書かれています。

免状の文章は、初段から九段までそれぞれ別になっていて、プロ棋士もアマ愛好者も同じものです。ただアマの免状は「〇〇△△殿」と敬称がつきますが、プロは「棋士 田丸昇」と敬称がつきません。また、アマは将棋連盟会長、名人、竜王の棋士の署名が入りますが、プロは連盟会長の署名だけです。九段免状の読み方と文意は、後日にお伝えします。

写真・下は、連盟会長の谷川浩司九段から九段免状を授与された田丸(中)。

当日は、東京に所属する8人の棋士、3人の女流棋士、9人の指導棋士に免状が授与されました。

写真・中は、私が昇段者を代表して挨拶しているところで、それを次のように紹介させてもらいます。
※写真・中と下は『週刊将棋』が撮影。

「私は22年前に八段に昇段しました。それ以後は公式戦で不成績がずっと続き、現役中の九段昇段は難しい状況になっていました。私が引退した後に九段を贈呈してもらうか、亡くなったら九段を追贈してもらおうと思っていました。それがフリークラス規定によって、思いがけず九段に昇段でき、とてもうれしいです。今日まで棋士を長く続けてこれたおかげだと思っています。その意味で、若手棋士時代に競い合った同年代の滝誠一郎八段と関西の坪内利幸八段、奨励会時代に対戦した田川信之さん(指導棋士七段)と古澤耕二さん(指導棋士六段)とは、ともに昇段した喜びを分かち合いたいです」

「盤上における勝負や技術の向上については、本日の将棋大賞で表彰された優秀な棋士の方々にお任せします。私のようなベテラン棋士は、盤外での何らかの活動を通して将棋界の発展に尽くしたいと思っています」

「この将棋会館が建設されてから37年たちました。当時の連盟副会長だった大山康晴先生(十五世名人)は、献身的に募金活動を展開し、そのおかげで会館が無借金で建ちました。このたび九段に昇段した剱持松二先生も、募金活動で大いに貢献されました。中でも、剱持先生が長年にわたって将棋部の師範を務めていた三菱電機からは、先生の尽力によって多額の寄付金が連盟に寄せられました。会館の4階には、特別対局室に次ぐ格の対局室として《高雄》の間があります。その名前の由来は、東京の《高尾山》でも台湾の《高雄》でもありません。会館が建設された当時、三菱電機は《高雄》という商標名のテレビを販売していました。私の推測ですが、連盟は三菱電機への感謝の印として、《高雄》という名前の対局室を設けたのだと思います。この将棋会館の話が示すように、今日の将棋界があるのは、多くの先輩棋士たちの尽力の賜物です。とくに若い棋士たちは、それを忘れないでください」

将棋大賞表彰式・昇段者免状授与式の後に行われた懇親会では、多くの人たちから「とても良い挨拶でした」と誉められました。私としては、先輩の剱持九段を差し置いて挨拶したので、将棋会館建設時の功績をぜひとも伝えたかったのです。また、《高雄》の対局室の名前の由来を初めて知った人が多かったです。

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2013年3月23日 (土)

升田幸三が王将戦で対局放棄した61年前の「陣屋事件」の経緯と真相

1952年(昭和27年)2月17日。第1期王将戦(木村義雄王将・名人―升田幸三八段)第6局の前日の夜に、対局場の神奈川県秦野市鶴巻温泉「陣屋」旅館で前代未聞の事態が起きました。升田が旅館に独りで着いたとき、玄関のベルを何回も押しても旅館側が出迎えない非礼に腹を立て、隣の旅館に引きこもったのです。そして升田は王将戦の関係者に対して、対局を拒否することを伝えました。

将棋連盟と棋戦を主催する毎日新聞社の関係者は驚愕し、翌日の対局開始直前まで升田を懸命に説得し続けました。しかし升田の気持ちは変わらず、ついに対局放棄して不戦敗となったのです。この61年前の出来事が世にいう「陣屋事件」でした。

その後、連盟の理事会は升田の行為を不当とし、1年間の公式戦出場停止の処分を下しました。しかし、ほかの棋士たちから「処分が重すぎる。升田を救え」という声が巻き起こりました。また、将棋を愛好した著名人たちが新聞や雑誌でその問題について喧々諤々と意見を述べ合い、賛否両論に分かれる社会的な関心事になったのです。

結局、問題の解決は一方の当事者で連盟会長でもある木村に一任されました。木村は升田に対して遺憾の意を表し、処分を白紙に戻す穏便な裁定案を下しました。以上が陣屋事件の経緯で、結果的に一件落着となりましたが、真相は別のところにあったようです。

草創期の王将戦は「3番手直り指し込み」という厳しい制度が導入されました。一方が3連勝または4勝1敗で3番勝ち越すと勝負が決着し、手合いが「香平交じり」に変わるのです。第1期王将戦は升田が第5局に勝ち、4勝1敗で王将を奪取しました。その結果、第6局は八段の升田が名人でもある木村に対して、「香落ち」で指すという歴史的な対局となりました。昔の王将戦は7番勝負ではなく、結果にかかわらず7番将棋でした。

升田は少年時代に「名人に香を引いて勝つ」という意味の言葉を物差しに書き残し、棋士をめざして郷里の広島から大阪に向かいました。そんな少年時代の夢を宿敵だった木村名人との対局で果たせるというのに、升田はなぜか気持ちが晴れ晴れとしませんでした。

升田は朝日新聞社の嘱託という身分も兼ねました。升田の宿命のライバルだった大山康晴(十五世名人)は毎日新聞社の嘱託でした。そうした新聞社と棋士の関係は、有力棋士たちが新聞社ごとにボスとして将棋欄を仕切っていた大正時代の棋界の名残ともいえます。升田と大山のライバル関係は、新聞社との関係にも微妙な影響をもたらしました。

1949年に名人戦の契約金をめぐって、連盟と毎日(戦前の名人戦創設時の主催者)の交渉が折り合わなかったとき、好条件を連盟に提示した朝日が名人戦の主催者になりました。その際に暗躍したのが升田といわれています。

それから1年後、連盟との棋戦契約を中断していた毎日が「3番手直り指し込み」制度を付帯した王将戦の創設を連盟に申し入れました。名人が香落ちに指し込まれかねない厳しい制度だけに、棋士の間には反対意見が多く、とくに升田は名人の権威にもとるとして強硬に反対しました。しかし連盟会長で名人でもある木村は、連盟の逼迫した財政を立て直すには毎日との関係を修復するのが大事だと決断し、王将戦の創設を受諾したのです。

そして1952年の第1期王将戦で、指し込み制度に最も反対した升田がその当事者となりました。朝日の嘱託でもある升田は、毎日が主催する王将戦で歴史的な対局を行うことに複雑な思いがあり、病気を理由に棄権も考えたそうです。

じつは、升田は毎日に対して以前から何かと不満を持っていました。その一例が1948年の大山との名人戦挑戦者決定戦3番勝負の対局場で、寒さに弱い升田は温暖地を希望していたのに、寒冷地の和歌山県・高野山と決まりました。「高野山の決戦」といわれた3番勝負は1週間にわたって行われ、第3局で升田がトン死を喫して挑戦権を逃しました。

陣屋での対局では、升田の同行者がいませんでした。そうした処遇や積み重なった不満がベルの一件をきっかけにして一気に噴き出し、対局放棄する事態に至ったのでしょう。なお当時の玄関のベルは故障していたそうです。升田もよく知っている旅館なので、そのまま玄関から入ればよかったはずですが、潜在意識としてやはり対局したくなかったのだと思います。後日談によると、升田は関係者との話し合いで対局を1日延長することを申し入れましたが受け入れられず、結果的に対局放棄となったとのことです。

升田実力制第四代名人は1991年(平成3年)に亡くなりました。その少し前に「陣屋に行ってみたい」と夫人に言ったそうです。升田にとって、陣屋は特別に思い入れのある場所だったのです。

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2013年3月14日 (木)

今年1月に起きた女流棋士の対局放棄による不戦敗問題の背景

「石橋幸緒女流四段の対局放棄(1月30日のマイナビ女子オープン準決勝・里見香奈女流四冠戦で対局場に現れず不戦敗)によって、日本将棋連盟とLPSA(日本女子プロ将棋協会)の関係が再び注目を集めていますが、LPSA設立までの経緯はお互いの説明に食い違いがあって、将棋ファンとしてはわかりにくいところです」という内容のコメント(3月2日)は《香落ち》さん。

LPSA代表理事の石橋女流四段が里見女流四冠との対局で、前日に対局放棄を発表して不戦敗した問題は、連盟とLPSAとの関係が悪くなるだけでなく、棋戦主催者も巻き込んで複雑な事態となっています。その後、当事者と関係者とで何度か話し合いがされましたが、まだ決着していません。連盟は2月22日に記者会見を開き、これまでの経過を説明するとともに、LPSAと所属する女流棋士たちへの処遇を発表しました(具体的な事項は連盟のホームページに載っています)。

私を含めた大方の将棋関係者は、連盟が執った措置は穏便な内容であるとの見解を持っています。とくに今回の不戦敗問題の背景となっている女流棋士認定(LPSAは昨年、所属するアマの渡部愛さんを女流棋士と認定して女流棋戦への参加を要望した)については、連盟が提示した「一定の条件」をLPSAが満たせば、特例を適用するとしています。8年前に特例のプロ編入試験で棋士となった瀬川晶司五段の例とは状況が違いますが、渡部さんに女流棋戦参加への道を開いたことは、連盟が柔軟に対応して歩み寄ったといえます。ただ「一定の条件」はまだ実施されておらず、今後の成り行きは流動的です。

棋士にとって、公式戦の対局は最大の公務です。その対局を不戦敗した例は、病気や負傷のほかに、台風や地震の天災で交通機関がストップ、対局日を間違える、遅刻して時間切れなどがあり、それらの中にはやむをえない事由もあります。

石橋女流四段のように、対局前日に記者会見を開いて対局放棄を発表したのは前代未聞のことでした。しかしどんな事情があるにせよ、将棋を生業にする棋士が故意に不戦敗するのは絶対にあってはならないことで、棋戦主催者や将棋ファンの理解も得られません。

5年ほど前に17人の女流棋士(当時は全女流棋士の約3割)が連盟を離脱し、LPSAという新団体を設立しました。それに至った経緯については、将棋ファンの《香落ち》さんだけでなく、私たち棋士もよくわからないところがあります。「女流棋士たちは待遇改善を連盟に求めたが、受け入れられず独立した」「連盟は離脱を懸命に引き止めた」「連盟から追い出された」「連盟は女流棋士たちの動きを分断させた」など、様々な風評が流れたものです。いずれにしても、当時の連盟会長・米長邦雄永世棋聖の意向や判断が少なからず影響したようです。

LPSAの設立は、大企業の女子社員たちが退職してベンチャー企業を立ち上げたようなものです。支持者からは「勇気ある行動」と讃えられたそうです。連盟とは違った独自の形態で活動し、ひいては女流棋界が活性化したり将棋ファンが増えていくのが理想的な展開です。実際にLPSAの活動の中には、評価したいものがあります。ただ連盟と協力し合って、女流棋士全体で活動すればもっと盛り上がると思います。

「○○△△銀行」という社名が示すように、同業他社同士が合併して資本の増強を図り、厳しい経済状況に対応していくのが現代社会です。そんな時代において、経済規模が極めて小さい将棋界の中で、少数派の女流棋士が分裂している事態に疑問を抱いている将棋ファンは多いのではないでしょうか。私個人としては、いつの日か「雨降って地固まる」になればいいなと思っています。

61年前の1952年(昭和27年)、第1期王将戦(木村義雄王将―升田幸三八段)でも升田が対局放棄する事態が起きました。世にいう「陣屋事件」です。次回は、その経過と真相をテーマとします。

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2013年3月 2日 (土)

32年前の『将棋マガジン』での順位戦昇級者座談会のコメントについて

32年前の『将棋マガジン』での順位戦昇級者座談会のコメントについて
32年前の『将棋マガジン』での順位戦昇級者座談会のコメントについて

「『将棋マガジン』昭和56年6月号では〈次代を担う若手棋士集合〉と題して、田中寅彦九段、小林健二九段、田丸昇八段らの座談会が載っていて、すでに著作の多い田丸八段は、ほかの棋士から〈収入がかなりあるのでは〉と突っ込まれていましたね」という内容のコメント(11月2日)は《k.k》さん。

これは32年も前の話です。私は1981年(昭和56年)の春に、順位戦でB級1組に昇級しました。そして同年の順位戦で昇級した棋士(A級昇級者は除く)を集めた座談会が『将棋マガジン』(将棋連盟が78年に創刊した『将棋世界』の兄弟誌。96年に休刊)で行われました。

写真・上は、東京の将棋会館での座談会の光景。左から、鈴木輝彦五段(26歳)、田中五段(23歳)、田丸七段(30歳)、伊藤果五段(30歳)、小林六段(24歳)。そのほかに谷川浩司七段(19歳)と福崎文吾六段(21歳)が順位戦で昇級しました。※段位と年齢はいずれも当時。

写真・下は、32年前の私です。頭の毛は白髪が少し混じっていましたが、ご覧のようにまだ真っ黒でした。

昇級者座談会では、昇級の前後、自分の家族、棋士をめざした頃、収入、趣味、棋士の良さと辛さ、棋士以外の職業、などをテーマに話が進みました。

田中は関西で行われた昇級候補者の対局結果がわからず、翌日に連盟に行ったら「おめでとう」と言われて昇級を知らされたそうです。現代のように順位戦のネット中継がなかった時代は、そういうことはよくありました。私は深夜の12時すぎに対局が終わると、新宿の居酒屋で飲みながら昇級の喜びに浸り、明け方に帰宅しました。

伊藤は少年時代から独りで詰将棋を楽しんでいて、2人で対面する指し将棋は好きではなかったそうです。ある日、父親に連れられて京都から大阪に初めて行った場所が連盟の旧関西本部で、同年代の少年と将棋を指したら奨励会の6級と認定され、そのまま将棋界に居着いたのです。貧しい母子家庭に育った私は、子ども心に早く社会に出たいと思っていました。その延長線上として、14歳のときに奨励会に入って棋士をめざしました。

私は六段時代の1979年に『縁台将棋必勝法』という著作を初めて刊行しました。ただ81年当時はその1冊だけでした。将棋雑誌やスポーツ新聞などで執筆の仕事をこまめにしていたので、ほかの棋士に収入が多いと思われたようです。座談会で語った「連盟からの収入を多くしたいのですが、なかなかそうもいかなくて…」というのが本音でした。

将棋棋士以外の職業に就いているとしたら、というテーマについては、各棋士の答えは様々でした。

「水泳に打ち込んでいた頃は水泳選手になりたいと思いましたが、今の将棋棋士がやはり最適ですね。それ以外は考えられません」(田中)。「高松の実家の商売を継いでお好み焼き屋をやっていて、〈いらっしゃいませ〉なんて言っていたでしょう」(小林)。「子どもの頃に憲法の条文を覚えるのが好きだったので、弁護士をめざしたと思います」(鈴木)。「売れない小説家かな」(伊藤)。「雑誌の編集者です。出版の世界が好きなので」(田丸)。

関西の谷川は座談会のテーマについて、棋士以外の職業は「大学の1年生でしょう。ひょっとすると浪人中かも」、棋士の良さと辛さは「実力100%の世界なので結果に納得できること。明暗がはっきり分かれてしまうこと」とアンケートで答えました。

その谷川は今年3月1日のA級順位戦の最終局で、2勝7敗の不成績ながら順位差でぎりぎり残留しました。あの座談会の翌年の1982年以来、名人・A級の地位を31年間にわたって保持していることに感服するばかりです。

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2013年2月19日 (火)

将棋界の一門、正会員の女流棋士、師匠の佐瀬道場のコメントについて

今回は、昨年の8月から12月に寄せられたコメントについて紹介します。

「将棋界の一門の話をしていただけるとうれしいです」というコメント(8月5日)は《通行人》さん。

将棋界は相撲界や歌舞伎界などと同様に、「一門」という形態になっています。師匠―弟子の縦の関係、兄弟子―弟弟子の横の関係で構成され、枝分かれした棋士たちの系統を一体化したものが一門です。そうした一門の創始者は大正時代まで遡ります。最大の一門は関根金次郎十三世名人で、初代の関根から現代まで七代にわたり、棋士の総数は150人以上に達しています。木村義雄十四世名人、中原誠十六世名人、森内俊之名人、羽生善治三冠などの大棋士が生まれました。

ほかの一門には、木見金治郎九段(大山康晴十五世名人、升田幸三実力制第四代名人など50人以上)、川井房郷七段(米長邦雄永世棋聖、丸山忠久九段など約40人)、阪田三吉名人王将(内藤国雄九段、谷川浩司九段など約30人)などがあります。※カッコ内は一門の主な棋士。

以前の将棋界には徒弟制度がまだ残っていました。師匠は内弟子生活を送らせて、弟子を公私にわたって指導しました。また兄弟弟子同士で切磋琢磨して鍛え合いました。師弟の縦の関係、兄弟弟子の横の関係が濃厚でした。現代でも絆が深い師弟や兄弟弟子はいますが、一門の人間関係は次第に希薄になっているようです。師匠は弟子が奨励会に入会するときの「保証人」という名目的な関係も少なくありません。弟子の研究相手や私的な付き合いが必ずしも一門同士とは限りません。

以前の連盟理事選挙では、一門の棋士たちを組織票として出馬するケースが多かったですが、近年は若い世代の棋士が増えたこともあって、一門の集票力や影響力は少なくなっていると思います。

「女流棋士がタイトルを取ると、将棋連盟の総会に出る権利ができますよね。苦労して四段に昇段した棋士と女流棋士が同列に扱われるなんて、私には信じられません」というコメント(9月12日)は《ポーラ》さん。

将棋連盟は2年前に、内閣府から公益社団法人と認可されました。その際に実施された制度改革のひとつが、四段以上の女流棋士が連盟の正会員になることでした(現在では里見香奈女流三冠、清水市代女流六段など計10人)。公益性の高い団体として、男女間の差別があってはならないからです。その女流棋士たちは連盟の総会に出席し、谷川治恵女流五段は非常勤理事として連盟の運営に関わっています。

《ポーラ》さんは、私たち男性棋士と女流棋士が同列になったと思っていますが、女流棋士が男性棋士と同様に棋戦に参加して同じ待遇を受けるわけではありません。連盟の正会員として、普及活動などを一緒に推進していくのが主な趣旨です。

「米長永世棋聖、西村一義九段、田丸昇八段の兄弟弟子の3ショット写真(12月21日のブログを参照)を拝見し、東十条の佐瀬勇次名誉九段の道場で将棋を教えていただいたことを思い出しました。当時、田丸八段は17歳で、奨励会の1、2級だったと記憶しています。私が田丸八段に香落ちで指導を受けているときに、米長、西村のお二方は常連さんと指導対局を指していました」というコメント(12月21日)は《シリウス》さん。

私は1966年(昭和41年)から3年間、師匠の佐瀬名誉九段の自宅に住み込んで修業していました。17歳だったのは2年目で、奨励会の1級でした。師匠は週末に自宅で道場を開き、兄弟子の米長、西村はたまに来て指導対局をしました。私と香落ちで指したという《シリウス》さんのことは、残念ながら覚えていません。

師匠は当時、東京の京浜東北線・東十条駅の近くに住んでいて、私は兄弟子たちが内弟子生活をかつて送った2階の4畳半の部屋で寝起きしていました。以前の内弟子は家事の手伝いや子守で忙しかったそうですが、私の頃は朝の庭掃除と拭き掃除だけが日課でした。それ以外は将棋会館に出かけたり部屋で研究して、自由に過ごせました。師匠は私の部屋に来て将棋をよく教えてくれ、時には布団を持ち込んで一緒に寝たこともあります。3人の娘を持つ師匠は弟子に対して、ほしかった息子と過ごすような思いがあったのでしょう。

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2012年12月31日 (月)

米長邦雄永世棋聖の葬儀に将棋関係者や各界の人たちなど約2000人が参列

米長邦雄永世棋聖の葬儀に将棋関係者や各界の人たちなど約2000<br />
 人が参列

米長邦雄永世棋聖の葬儀に将棋関係者や各界の人たちなど約2000<br />
 人が参列

米長邦雄永世棋聖(前・将棋連盟会長)が12月18日に69歳で死去し、23日・24日に東京都目黒区碑文谷の円融寺で葬儀が営まれました。

写真・上は、白菊であしらわれた祭壇。米長が青色を好きだったので、遺影の周囲には青のデルフィニウムの花が囲みました。

祭壇の遺影は、米長が7回目の挑戦をした1993年(平成5年)の名人戦第4局での終局後の光景のようです。米長はその対局で中原誠名人に4連勝し、49歳11ヶ月という最年長記録で念願の名人位を獲得しました。写真はまさに日本一の笑顔となりました。

写真・下は、告別式での光景。右端は、参列者を迎える連盟の専務理事(現・会長)で葬儀委員長を務めた谷川浩司九段。その隣は、米長の弟弟子の丸山忠久九段。

葬儀には、羽生善治三冠、森内俊之名人、渡辺明竜王、佐藤康光王将をはじめ棋士や将棋関係者、生前の幅広い交際を象徴するように政治・経済・メディア・芸能など各界の人たち、将棋ファンが訪れ、参列者は両日で約2000人を数えました。

数年前に米長と食事をしたことがあるという自民党の小泉進次郎・衆院議員は報道陣の取材に対して、「気さくな方で、いつも頑張れと言ってくれました」と語って故人を偲びました。父親の小泉純一郎・元首相と米長は、ある週刊紙で対談した縁がありました。

告別式では佐藤王将が弔辞を読みました。参列者の焼香が終わると、葬儀委員長の谷川九段は「私が10代の頃、米長先生の著書『米長の将棋』(約30年前に平凡社から出版された全6巻の米長実戦集)はバイブルでした。先生は将棋を国技にすることを念頭に、大胆かつ斬新な発想で将棋界を牽引されました。理事として、先生の遺志を引き継いでいきたいと思います」と挨拶しました。

最後に遺族代表として、米長の長男・知得(ちとく)さんが「父は生前に皆さまに愛され、幸せな人生だったと思います。ひたすら感謝を申し上げます」と挨拶しました。なお知得さんは先日の総選挙で、日本維新の会から立候補(北海道ブロック・単独比例)しましたが、名簿順位が下位のために落選しました。

米長は夏の頃に体調を崩し、自宅でずっと療養していました。しかし11月下旬には久しぶりに将棋会館に来て、理事や職員に今後の将棋界のあり方について熱く語ったそうです。一時は激減した体重も元に戻り、小康状態になったように思われました。

ただ米長は連盟関係者に「連盟の総会が開かれる来年の6月までは生きていたい」と語るなど、自身の死期が迫っているのを覚悟していたようです。家族には相続や葬儀の手配も伝えたそうです。ちなみに、葬儀が営まれた円融寺の住職とは飲み友達という間柄でした。

米長は12月11日に容体が悪化して緊急入院し、18日に帰らぬ人となりました。大晦日のNHK紅白歌合戦に初出場する美輪明宏が歌う『ヨイトマケの唄』を聴くのを楽しみにしていたそうですが、それも叶いませんでした。

今年は「名人400年」の記念として様々な催しが行われましたが、年の瀬になって大棋士の訃報が届きました。来年は穏やかに過ごしたいものです。

では皆さん、良いお年をお迎えください。

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2012年12月21日 (金)

69歳で死去した米長邦雄永世棋聖のご冥福をお祈りします

69歳で死去した米長邦雄永世棋聖のご冥福をお祈りします

米長邦雄永世棋聖が12月18日に前立腺ガンによって69歳で死去しました。同じ佐瀬(勇次名誉九段)一門の弟弟子である私としては、あまりにも早い死に言葉がありません。今はただ故人のご冥福をお祈りするばかりです。

写真は、2002年の秋に将棋会館で行われた表彰式での光景。右から、「勤続40年」の表彰を受けた米長永世棋聖、私こと田丸昇八段、西村一義九段。

佐瀬一門の棋士の中では1番弟子の米長、2番弟子の西村、3番弟子の田丸が並んだ記念写真です。撮影した人(『将棋世界』編集部員)が「歴史的3ショット!?」という文言を入れましたが、米長、西村、田丸の3人の兄弟弟子が収まった写真はこれ以外にありません。まさに最初で最後の歴史的ショットとなりました。

米長は当時59歳でした。現役棋士として活躍しながら、東京都教育委員を務めるなど、盤上盤外で幅広く活動していました。2003年の春には将棋連盟の理事に就任しました。そして同年12月12日の対局(王将戦・郷田真隆九段)を最後に引退を表明しました。米長は『将棋世界』に発表した手記の結びで、「私は新たにやりたいことがあるのです。勝敗の世界から完全に切り離れて、将棋の普及に務めることです」と綴りました。

米長は2005年に連盟の会長に就任すると、61年ぶりに実施した「プロ棋士編入試験」(瀬川晶司新四段の誕生)、名人戦主催を巡って紛糾した問題で「毎日新聞社と朝日新聞社の共催」案による事態収拾、連盟の「公益法人」化、子どもたちへの「普及」、米長自身が臨んだ最強将棋ソフト「ボンクラーズ」との対局、今年の10月に実施された「将棋文化検定」の発案など、引退時の公約どおりに将棋界の発展、将棋の普及、話題作りに取り組んできました。

米長はいつも精力的に活動していました。病気とはおよそ無縁に思えたものでした。ところが4年前に「前立腺ガン」を患ったことを公表したのです。米長は「手術は成功しました。おかげさまで《あちら》の営みにも支障ありません」と、一流のジョークで経過が良好であることを報告しました。

連盟会長の任期が4期・7年目を迎えた昨年には、「ナベツネさん(渡辺恒雄・読売新聞グループ本社会長)の年齢まで会長として頑張るんだ」と公言したほどでした。渡辺会長は当時85歳で、あと17年は務めるという意味でした。それは誇張ではないと思えるほど、見た目にはとても元気でした。しかし米長は今年の夏頃から体調を崩し、自宅での療養生活を余儀なくされました。

私は今年の7月8日、米長が『週刊現代』で連載していた「名勝負今昔物語」の取材を受けるために米長の自宅を訪れました。米長の弟弟子になって48年たちましたが、2人きりで向かい合って話した記憶はあまりありません。当初は少し緊張しましたが、昔話をするうちに、いろいろな記憶がよみがえって話が弾みました。※8月6日のブログを参照してください。

取材が終わって米長に玄関で見送られたとき、「そうだ。田丸くんに話があるんだけど、またの機会にしよう…」と、ぼそっと言われました。それが何の話だったのか、今となってはわかりません。

あれから約5ヶ月後、米長は天国に旅立ちました。11月下旬の自身のブログには「人生は必ず終わるもの。どのような形で投了するのか、あるいは投了させられるのか…」と書いたそうです。

米長の思い出については、とても書き切れません。また折に触れて、このブログで回想したいと思っています。

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2012年9月22日 (土)

TBSテレビの夕方ニュースの天気予報で紹介された「将棋文化検定」

TBSテレビの夕方ニュースの天気予報で紹介された「将棋文化検定」

TBSテレビの夕方ニュースの天気予報で紹介された「将棋文化検定」
TBSテレビの夕方ニュースの天気予報で紹介された「将棋文化検定」

【追記・10月5日】
私は現在、年内に刊行する書籍の執筆に取り組んでいます。
その進捗状況が予定より遅れてしまい、
そのためにブログの更新が滞っています。
10月下旬には更新する予定なので、しばらくお待ちください。
書籍の内容は、ある棋士の評伝です。
詳しくは、改めてブログでお伝えします。

私の友人でお天気キャスターの森田正光さんは熱心な将棋愛好家です。レギュラー出演している夕方のニュース番組「Nスタ」(TBSテレビ系列)の天気予報のコーナーでは、9月18日に「将棋文化検定」のことを紹介してくれました。

写真・上は、その放送画面。「将棋文化検定」の実施日と申し込み期限が表示されました。左が森田さん、右が久保田智子アナウンサー。

写真・中は、森田さんが創業140年の歴史がある東京・墨田区の「前沢碁盤店」を訪れ、四代目店主の前沢道雄さんに、将棋盤と天気の関係を聞いているところです。

写真・下は、前沢さんが銅のヘラを使って将棋盤の升目の目盛りに漆(ウルシ)を塗っている作業です。前沢さんの話によると、将棋盤を作る工程の中で最も難しいそうです。それは天気とも関係がありました。

番組では、将棋盤の升目の目盛りに漆を塗る作業で最も適している当日と翌日の天気は、次の3通りの組み合わせの中でどれかという問題が出ました。

①晴れ→晴れ②晴れ→雨③雨→晴れ(前者が当日、後者が翌日)。正解は②です。漆の特徴として、乾くには一定の湿度が必要で、そのために翌日に雨が降ると良いそうです。将棋盤作りが天気と関係しているとは初めて知りました。

じつは森田さんが将棋盤の話を天気予報のテーマにしたのは、私が「将棋文化検定」の実行委員をしているので宣伝面で協力したいと考え、将棋盤の話と関連させて番組で紹介してくれたというわけです。本当にありがとうございました。

森田さんは10月21日の「将棋文化検定」を受検(東京の会場)するそうです。

私が前回のブログで出した模擬試験の問題の解説をします。

①将棋を愛好した豊臣秀吉が京都の伏見城で行ったという将棋の催しは何ですか。
A・人間将棋 B・御城将棋 C・武将の将棋会
正解はAの「人間将棋」。伏見城の広大な庭園で、それぞれの駒を染め抜いた着物を着飾った40人の美女を駒に見立て、太閤・豊臣秀吉と関白・豊臣秀次が将棋を指したと伝えられています。この人間将棋は、現代では山形県天童市の春の恒例行事として開催されています。

②徳川家康が設けた名人の発祥となった家元制度を何といいますか。
A・家元所 B・名人所 C・将棋所
正解はCの「将棋所」。江戸時代の棋士の組織で、一世名人に初代大橋宗桂が就きました。宗桂は織田信長にも仕え、桂の使い方が巧みだったので、信長から桂の一字を与えられ、宗慶から宗桂に改名したと伝えられています。ただ確たる史料は残っていません。

③伝説の棋士・阪田三吉が主人公の映画「王将」で主演した俳優はだれですか。
A・三船敏郎 B・勝新太郎 C・石原裕次郎
正解はBの「勝新太郎」。映画「王将」は39年前に東宝で上映され、勝新太郎が主人公の阪田三吉を演じました。女房の小春は、中村玉緒でした。つまり実際の夫婦が映画でも夫婦を演じたわけです。勝は将棋が大好きで、撮影の合間にも指していたそうです。なお阪田の相手役の関根金次郎は、仲代達矢でした。

④最年少記録の20歳で名人戦の挑戦者になった棋士をはだれですか。
A・中原誠 B・加藤一二三 C・谷川浩司
正解はBの「加藤一二三」。加藤は52年前の名人戦で大山康晴名人に挑戦しました。中原は24歳、谷川は21歳で名人戦の挑戦者になり、それぞれ当時の最年少記録で新名人に就きました。

⑤少年時代の羽生善治が憧れた女性芸能人はだれですか。
A・菊池桃子 B・小泉今日子 C・工藤静香
正解はAの「菊池桃子」。19歳で新竜王になった羽生は、22年前に「将棋世界」誌の企画で2歳年上の菊池桃子と対談しました。高校受験の頃にラジオで菊池の歌をよく聴いていたそうです。

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2012年9月12日 (水)

10月21日に実施される「将棋文化検定」の受検者を募集しています

将棋連盟は「名人400年」を記念して、「将棋文化検定」の試験を10月21日(日)に初めて実施します。日本の伝統娯楽である将棋の文化的な一面を、より多くの人たちに知ってもらいたいのが趣旨です。将棋が何年後かに義務教育の正式課目に採用されるのを見越して、歴史がある文化的な世界だということを広く伝える意図もあります。

私は将棋文化検定の実行委員会のメンバーの1人です。以前に「将棋世界」編集長を務めた経験から委員に委嘱されました。沼春雄七段も同様です。ほかの委員は広瀬章人七段、高田尚平六段、横山泰明五段。実行委員会は5月に発足し、検定試験の概要や普及方法について話し合ってきました。問題の作成も担当し、各委員で問題を持ち寄りました。将棋界の情報や知識に詳しい外部の人にも協力してもらいました。

将棋文化検定は9級から1級まで9ランクあり、今回は9級・6級・4級・2級の試験を行います。各級の問題はともに50題で、三択形式で解答を選びます。2級は記述式の問題が10題あります。今年は「名人400年」という記念の年なので、名人や名人戦、将棋の歴史に関する問題が多く出ます。そのほかは将棋界の情報、記録、雑学、対局マナーなどの問題です。9級では5割の正解率で合格します。級が上がるにつれて、合格への正解率は高くなっていきます。

将棋文化検定では、将棋に関する知識や雑学の問題が出ますので、棋力はあまり関係ありません。初級者、女性、児童の方たちの受検をとくに歓迎します。

将棋文化検定は10月21日(日)の14時30分から、東京・名古屋・高崎・大阪の5会場で実施されます。検定時間は各級ともに60分。検定料は、9級・1000円、6級・1500円、4級・3000円、2級・4000円。検定試験の終了後は15時45分から、各会場で多くの棋士が登場してトークショー、指導対局、お楽しみ抽選会が行われます。受検者はいずれも参加無料です。詳しい応募要項は、将棋連盟のホームページで確認してください。今月発売の「将棋世界」10月号、今週発売の「週刊将棋」9月12日号にも載っています。※受検の申し込み期限は9月末日。

文化的な検定試験はほかにも多くあります。中には優秀な成績を取って上級の資格を得ると、学校の内申書や会社の入社試験で評価されることもあります。来年以降の将棋文化検定では、受検者がさらに魅力を感じるような付加価値をどう付けるかが課題といえます。

では模擬試験として、私が次の5問題を出します。ABCの中から解答を選んでください(正解は末尾)。なお、この問題は将棋文化検定の試験には出ません。

①将棋を愛好した豊臣秀吉が京都の伏見城で行ったという将棋の催しは何ですか。
 A・人間将棋 B・御城将棋 C・武将の将棋会

②徳川家康が設けた名人の発祥となった家元制度を何といいますか。
 A・家元所 B・名人所 C・将棋所 

③伝説の棋士・阪田三吉が主人公の映画「王将」で主演した俳優はだれですか。
 A・三船敏郎 B・勝新太郎 C・石原裕次郎

④最年少記録の20歳で名人戦の挑戦者になった棋士はだれですか。
 A・中原誠 B・加藤一二三 C・谷川浩司

⑤少年時代の羽生善治が憧れた女性芸能人はだれですか。
 A・菊池桃子 B・小泉今日子 C・工藤静香

※正解は、①A②C③B④B⑤A。問題の解説は次回にします。

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2012年8月30日 (木)

東京の将棋会館の地下は昨年から「銀河戦」などの番組の収録スタジオ

東京の将棋会館の地下は昨年から「銀河戦」などの番組の収録スタジオ

東京の将棋会館の地下は昨年から「銀河戦」などの番組の収録スタジオ

東京の将棋会館の地下は昨年から「銀河戦」などの番組の収録スタジオ

東京・千駄ヶ谷の将棋会館は、1階が売店、2階が将棋道場、3階が将棋連盟の事務局、4階が公式戦の対局室、5階が対局室や宿泊室などに当てられています。

地下は昨年から、ケーブルテレビやCSチャンネルで放送している「囲碁・将棋チャンネル」の将棋専用のスタジオに改造されました。ここで公式戦の「銀河戦」をはじめに、名勝負の解説、講座、情報番組など、将棋番組を収録しています。

以前は会館の5階の部屋を改造して、銀河戦などの番組を収録していました。現在もその設備は残っていて、タイトル戦などを解説する「ニコニコ動画」の生中継に使っています。また、携帯電話やスマートフォンに公式戦の棋譜を配信する「モバイル将棋」の中継本部も5階にあります。

写真・上は、7月下旬に放送された「お好み将棋道場」の番組の対局光景。佐藤秀司七段(右)に精神科医の曽根維石さん(左)が飛車落ちの手合いで挑みました。

写真・中は、大盤解説をする部屋。私こと田丸昇八段(右)が佐藤―曽根戦の解説を担当しました。聞き手は本田小百合女流二段(左)。写真の手前側に、盤面を撮った画面と、放送中の画面が映し出され、それを見ながら話を進めていきます。

この飛車落ち戦は終盤で7筋に「駒柱」が出現し、私と本田女流は顔を見合わせて驚いたものです。駒柱とは、実戦で同じ縦の筋に双方の駒が一直線に並ぶめったに現れない局面の形です。私の場合、40年以上にわたる公式戦で1回あったかどうかの頻度です。なおこの飛車落ち戦は、熱戦の末に下手の曽根さんが勝ちました。

写真・下は、番組の進行に携わる副調整室。ここで対局・大盤解説・盤面の画面を状況によって切り替えます。

地下のスタジオには収録中の番組をモニターテレビで生で見られる控室がありますが、手狭なので一般の人には公開していません。

36年前に将棋会館が新しく建設されたとき、レストラン「歩」が地下で開業されました。新宿のある和食料理店のスタッフが厨房に入り、手頃な値段で美味しい料理を出しました。「王将弁当」「飛車角弁当」というメニューもありました。4階で行われている対局は食堂のテレビに映り、観戦しながらお酒と食事を楽しむ人もいました。また棋士がよく顔を出したので、それを楽しみにする人もいました。

ただ千駄ヶ谷の将棋会館がある場所は文教地区で、原則として飲食店は営業できません。関係者用の食堂として認可されました。そんなこともあり、営業的に難しかったようです。約15年前にレストランは閉店となりました。

その後、会館の地下は「将棋世界」「将棋年鑑」や書籍を発行する連盟出版部の事務室に改造されました。2001年(平成13年)から将棋世界の編集長を2年ほど務めた私は、毎週のように通ったものです。

連盟は5年前に出版部のすべての業務を、「週刊将棋」の編集に携わる毎日コミュニケーションズ(現・マイナビ)に委託しました。その関係で地下はしばらく空室になっていましたが、昨年に銀河戦などの番組の収録スタジオに変わりました。

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2012年8月21日 (火)

高輪の将棋連盟仮本部、櫛田陽一六段、連盟総会の傍聴、将棋道場についてのコメント

今回は、5月と6月に送られたコメントを紹介します。

「現在の将棋会館が建設中、高輪の旧・日本棋院(囲碁棋士の団体)の建物を借りて臨時の将棋連盟本部にしていたそうですが、かなり古色蒼然とした佇まいだったようですね」という内容のコメント(5月2日)は《オヤジ》さん。

東京・千駄ヶ谷の将棋会館が建設されたのは36年前の1976年(昭和51年)の春でした。その前の1年間は、高輪の旧・日本棋院の建物(第一京浜国道沿いで近くに泉岳寺)を借りて連盟の仮本部としました。割りと広い建物で、1階を事務室、2階を対局室に当てました。ただ古めかしいうえに近くに墓地があり、夜は少し気味が悪かったです。そういえば「開かずの間」もありました。その建物の使用の件で仲立ちをしてくれたのは、詰将棋界の後援者で自身も詰将棋作家でもあった、囲碁界にも顔が利いた故・七條兼三さんでした。

「私は櫛田陽一六段の四間飛車に憧れて(今も)振り飛車党になりました。角交換型振り飛車も良いですが、職人の匂いがする櫛田将棋は学生時代から大好きです」というコメント(5月15日)は《関東のホークスファン》さん。

櫛田六段への熱い応援に、師匠としてうれしく思います。その櫛田将棋は公式戦でもう見られませんが、8月3日のブログで書いたように、櫛田は「自分の四間飛車をだれかに伝えたい」との思いを強く持っています。弟弟子の井出隼平三段が受け継いで四段に昇段すれば(井出は現在、三段リーグの昇段争いで9番手)、とてもうれしいのですが…。

「田丸八段が櫛田さんにプロ入りを勧めたのですね。あの雑誌の81番勝負の企画が半ばで終わった疑問が解けました」というコメント(5月26日)は《帯月》さん。

1983年(昭和58年)の夏。アマ棋界の情報と将棋を満載した『将棋ジャーナル』誌で、アマ棋戦で大活躍していた当時18歳の櫛田が、関則可、高野明富、宮沢巧、加部康晴、中村千尋、野山知敬、金子タカシ、谷川俊昭、野藤鳳優、横山公望(以上の人たちの敬称を略します)など、81人のトップアマと対戦する「くしだ君の全国武者修業」という連載企画が始まりました。ところが櫛田は、私の強い説得に応じて同年秋の奨励会入会試験を受けて合格したので、企画は40番の時点で中止となりました。戦績は櫛田の35勝5敗でした。櫛田は40番目の将棋の自戦記で「自分の将棋がプロの頂点に立つ人間にどこまで通じるか試してみたい」と書いたものです。

「6月の将棋連盟の総会を傍聴したのは、連盟と利害関係を持つ特定のマスコミだったのですね。残念です」という内容のコメント(6月18日)は《Masa》さん。

今年の連盟総会では、議事の模様をマスコミにすべて公開しました。それは初めてのことで、昨年までは冒頭の5分間だけでした。主な傍聴者は、棋戦担当者が加盟する東京将棋記者会のメンバーでした。それは連盟との利害関係にかかわらず、普通のことだと思います。例えば、首相の記者会見では首相の番記者が取材し、芸能記者はいません。芸能人の記者会見では芸能記者が取材し、政治記者はいません。ただ連盟が良くも悪くも社会的に注目される団体でしたら、将棋記者以外に社会部などの記者が総会に来たかもしれません。

「将棋道場は底辺拡大になくてはならない存在です。私が在住する岐阜の道場は入場料が500円で、経費を引いたら儲けは出ないと思います。本当に頭が下がる思いです。私もネット将棋をやめて将棋道場に行こうと思います」というコメント(6月29日)は《こうめい》さん。

将棋道場が存続できるように、ぜひそのようにお願いします。

「私は30年以上前に東京の中央線沿線に住んでいて、中野や阿佐ヶ谷の将棋道場に行きましたが、高円寺の将棋道場の記憶はありません。どこにあったのですか。後年には高円寺駅の近くの喫茶店で、森本レオさんと将棋を指したことがあります」という内容のコメント(6月26日)は《なべよ》さん。

高円寺駅のホームから見える南口のビルに、将棋道場の看板がかかっていたのを私は覚えています。15年以上前のことで、すでに閉店しています。高円寺に長年にわたって住んでいる俳優の森本レオさんは熱狂的な将棋愛好家で、駅の近くの喫茶店でよく指していました。今は行きつけの酒場で指しているようです。

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2012年8月 6日 (月)

米長邦雄永世棋聖が『週刊現代』で連載中の「名勝負今昔物語」に田丸が登場

米長邦雄永世棋聖が『週刊現代』で連載中の「名勝負今昔物語」に田丸が登場

米長邦雄永世棋聖は『週刊現代』で「名勝負今昔物語」というエッセイを連載しています。その欄には毎回、いろいろな棋士が登場し、米長一流のユーモアあふれる筆致で公私にわたるエピソードや印象に残る1局を紹介しています。

今週発売の『週刊現代』(8月18日・25日合併号)には、前回の櫛田陽一六段に続いて、私こと田丸昇八段が登場しています。師弟が連続で登場するのは初めてだそうです。

写真は、「名勝負今昔物語」の記事の冒頭部分。今週号で94回目を数えました。

「名勝負今昔物語」に登場する棋士は、ベテラン・中堅・若手・故人と様々です。その中には米長とは交流がなさそうな若手棋士の私生活を書いた記事があり、よく知っているものだと驚いたことがあります。じつは米長は執筆にあたり、登場する棋士と会ってじかに取材しているそうです。私も7月上旬に米長から取材の依頼を受け、東京・鷺宮の米長の自宅に出向きました。

私にとって米長は佐瀬勇次名誉九段一門の兄弟子で、入門から45年以上の間に数え切れないほど会っています。しかし2人だけで向かい合って話したことは、たぶん初めてかもしれません。当初は少しばかり緊張しました。そのうちに昔の思い出話をしていくと、いろいろな記憶がよみがえり、私の口調も滑らかになりました。

今回の「名勝負今昔物語」には、15歳から師匠宅で過ごした3年間の内弟子生活、その後の自活の日々、奨励会の仲間たちと発行した同人誌「棋友」、三段リーグの厳しい戦い、「東西決戦」での敗北とそれから2年後の勝利、棋士デビュー対局で後援者から贈られた和服を着用など、主に奨励会時代のエピソードが載っています。

写真にある「英語は美人の口移し?」という見出しは、私の趣味や私生活を表現したものです。その意味を説明すると長くなるので、興味のある方は週刊誌を読んでください。

最も印象に残る1局は、1992年(平成4年)3月に行われたB級1組順位戦・島朗七段戦を挙げました。最終戦の対局で勝者がA級に昇級できる直接対決の大一番でした。形勢が数転した末の最終盤で、私が詰めろをかけた1手が詰めろではなく、それを詰めろと読み違えた島の悪手によって、私が逆転勝ちしました。

A級昇級を果たした20年前のあの対局の勝利は、運が良かったというしかありません。その後の私の棋士人生は、島戦で勝負運を使い切ってしまったのか、成績不振がずっと続いて今日に至っています。ただ別に悔いはありません。

米長永世棋聖は7年前に将棋連盟会長に就任し、将棋界の発展に尽力しています。しかし名人戦契約問題、女流棋士独立問題などでは、いろいろと批判を受けることが多く、ネット上ではかなり辛辣な言葉が飛び交ったようです。

6年前の名人戦問題では、『週刊現代』が米長のことを公私にわたって批判する記事を何度も掲載しました。その後、米長が発行元の講談社に対して名誉毀損で訴えるという事態になりかけたのですが、講談社から「米長さんは名うての名文家と聞いています。『週刊現代』にエッセイを書いていただけませんか」という和解の申し出を受け、米長の連載が2年前から始まったそうです。

まあ裁判で争うよりも、棋士たちの盤上の戦いを誌上で活写するほうが、当事者にとっても将棋ファンにとっても、はるかにプラスといえるでしょう。

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2012年6月23日 (土)

昨年の11月に東京・吉祥寺から移転して新規開店した「将棋サロン荻窪」

昨年11月に東京・吉祥寺から移転して新規開店した「荻窪将棋サロン」

昨年11月に東京・吉祥寺から移転して新規開店した「荻窪将棋サロン」

写真・上は、東京の中央線・荻窪駅の北口から徒歩1分のビルの2階にある「将棋サロン荻窪」の光景。経営者の新井敏男さんは、昨年の夏まで同じ沿線の吉祥寺駅前で「将棋サロン吉祥寺」を10年以上も開いていました。そして昨年の11月に荻窪に移転して新規開店しました。ゆったりとした30坪の広さと明るい照明で居心地が良く、将棋サロン吉祥寺の常連と女性を含む新しいファンが楽しそうに指しています。※電話は03-3220-5247

将棋サロン荻窪の師範は、将棋サロン吉祥寺で長年にわたって教えてきた谷川治恵女流五段。丁寧な指導ぶりはとても好評です。豊川孝弘七段もたまに指導しています。私も当サロンとは関係が深く、奨励会員の井出隼平三段(21歳)と近藤祐大4級(14歳)とは、新井さんの仲立ちで師弟の縁を結びました。

新井さんは子どもへの将棋普及に熱心で、春休みや夏休みに将棋大会を開くのが恒例でした。また、棋士をめざす奨励会員や女流棋士をめざす研修会員にも理解があります。彼らは毎日のように将棋サロン荻窪に集まり、仲間との実戦で腕を磨いています。私の弟子の井出は小学生時代から通い続け、今でも勉強の場にしています。そんな日々を送ってきたせいなのか、荻窪に移転するまでの休業期間に三段リーグで6連敗もしました。

写真・下の右は、私の友人であるお天気キャスターの森田正光さん。今年の春、将棋愛好家の森田さんを将棋サロン荻窪に誘いました。アマ三段の棋力がある森田さんは、普段はパソコンの将棋ソフトを相手に指しているそうです。久しぶりに人間と指した「生将棋」では、真剣な表情で盤に向かっていました。

昔の将棋雑誌を見ると、将棋クラブの広告が数多く載っていました。中でも東京・新宿の歌舞伎町にあった「新宿新宿センター」は、毎日500人もの将棋ファンが来てとても盛況でした。そんな光景を見て、自分で将棋クラブを開いた人もいました。

しかしその後、日本一といわれた新宿将棋センターでも入場者が次第に減っていき、数年前には経費節減のために西口に移転しました。そして将棋クラブ「経営の神様」と謳われた金田秀信さんが経営権を将棋連盟に譲渡し、現在は連盟の直営道場になっています。ほかの将棋クラブでも、経営難で閉店したり、赤字がずっと続く状況のようです。

将棋クラブの経営が苦しくなったのは、もちろん入場者が減ったからです。その原因は、将棋ファンの減少と高齢化、ネット将棋の普及、若い世代の将棋離れ、趣味の多様化、売り上げと見合わない高額家賃、景気の低迷などが考えられます。

私は東京の中央線沿線に長年にわたって在住しています。昔は新宿から下り方面に、新宿・大久保・東中野・中野・高円寺・阿佐ヶ谷・西荻窪・吉祥寺・国分寺・立川・八王子などと、「各駅停車」みたいに将棋クラブがありました。

しかし昨年はじめには、中央線沿線の将棋クラブは新宿・吉祥寺・八王子の3店に減っていました。さらに夏には将棋サロン吉祥寺が経営難によって閉店しました。経営者の新井さんは当初、まったく辞めるつもりだったそうです。ただ改めて再考したり、再開を要望する声もあって、荻窪で新規開店することにしたのです。

現代ではネット上で将棋を指す人が増えています。しかし人間同士が頭を突き合わせて指すことも楽しいものです。ぜひ近くの将棋クラブに行って指し、将棋クラブが存続できるように協力をお願いします。

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2012年6月17日 (日)

今年の将棋連盟総会は議事の模様を東京将棋記者会にすべて公開

今年の将棋連盟総会は議事の模様を東京将棋記者会にすべて公開

今年の将棋連盟総会は議事の模様を東京将棋記者会にすべて公開

公益社団法人・日本将棋連盟の今年の通常総会が6月8日に開かれました。会場は東京の将棋会館に隣接する「けんぽプラザ」3階の集会室。

写真・下は、壇上に並んだ理事会の面々。中央には、連盟会長の米長邦雄永世棋聖、専務理事の谷川浩司九段がいます。後列には、昨年の総会で選任された外部理事の杉田亮毅さん(日本経済新聞社前会長)、小林千寿さん(日本棋院常務理事)、渥美雅之さん(棋道師範)などがいます。

写真・上は、開会前の光景。中例の左側には、扇子を広げる羽生善治二冠がいます。その右側には、1人おいて森内俊之名人がいます。両者は総会の翌週に名人戦第6局で対戦し、森内が勝って名人位を防衛しました。羽生・森内の前列には、佐藤康光王将(中央)と渡辺明竜王(右)がいます。それにしても4人のタイトル保持者が座った位置は、それぞれ微妙な距離感を保っています。前列の左側は女流棋士の指定席で、清水市代女流六段(左)と甲斐智実女流四段が談笑しています。

総会は午後1時に開会しました。まず米長会長が挨拶し、次に会長から議長の指名(宮田利男七段、浦野真彦七段)、新四段の紹介(高見泰地四段、藤森哲也四段、斎藤慎太郎四段、八代弥四段)と続きました。

例年はその時点で、報道陣が退室します。しかし今年の総会では、東京将棋記者会(竜王戦、名人戦などの棋戦の担当記者が加盟)のかねてからの要望と、連盟が公益法人として運営の透明性を図るために、議事の模様を開会から閉会まですべて公開することにしたのです。

ただ正直なところ、連盟総会での話し合いの雰囲気は決して高尚とはいえません。時には個人的な欲望を丸出しにしたり、不平不満で怒号を飛ばす棋士もいます。そんな場を見られるのは恥ずかしい気がします。逆に言えば報道陣に公開することで、少しは穏やかになるかもしれないと、私はひそかに期待しました。

理事選任の議題では、新たに深浦康市九段、藤井猛九段、杉本昌隆七段の3人が非常勤理事に選ばれました。主な仕事は、タイトル戦の節目の対局(一方の棋士が勝つとタイトルを防衛または奪取)への出張です。従来は常勤理事が務めていましたが、仕事が重なったり対局場が遠方だと、かなり大変だったそうです。タイトル戦の対局には必ず立会人の棋士がいますが、棋戦主催者側は理事の同席も求めていました。そこで前記の3人の棋士が交代で理事として同席し、併せて解説もすることになったのです。

総会の議事は順調に進みました。しかし自由に質問できる最後の議題の「その他」では、一部の棋士が米長会長を辛辣に批判して、紛糾した事態になりました。ただそれらの意見は、将棋界の大本に関わる建設的な内容ではありませんでした。大方の棋士はそれがわかっているので、同調する動きは皆無でした。

やがて議長が事態を収拾するために発言を打ち切り、午後4時ごろに閉会となりました。総会後の記者会見で米長会長は「例年に比べて穏やかに治まった」と語りました。

私は、連盟の総会を傍聴した報道陣がどのように受け止めたのか、翌日の新聞が気になりました。しかし「大荒れの総会」というような記事は見かけませんでした。メディアは紙面に取り上げる内容ではないと判断したのでしょう。

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2012年3月 2日 (金)

将棋を愛好した政治家たちのエピソードと写真

将棋を愛好した政治家たちのエピソードと写真
将棋を愛好した政治家たちのエピソードと写真
将棋を愛好した政治家たちのエピソードと写真

前回のブログで、将棋を愛好した元首相の「田中角栄」のエピソードを紹介しました。同じく元首相の「菅直人」も将棋愛好家です。詳しい話は2009年11月23日、2010年6月28日のブログを見てください。今回は、将棋を愛好したほかの政治家たちのエピソードと写真を紹介します。

下の写真は、1994年(平成6年)12月に将棋連盟の関係者が首相官邸を訪れ、将棋愛好家の「村山富市」首相に六段免状を贈呈したときの光景です。当時は自民党・社民党・新党さきがけの三党連立政権時代で、社民党代表の村山が首相に就いていました。右から連盟理事の私こと田丸八段、連盟会長の二上達也九段、村山首相、蛸島彰子女流五段。

じつは同年11月に社民党主催の女性アマ大会が将棋会館(東京・千駄ヶ谷)で行われたとき、村山が大会実行委員長として出席しました。時の首相が将棋会館を訪れたのは初めてのことで、当日は厳重に警備されました。村山は大会審判長の蛸島と平手の手合いで記念対局を指し、矢倉囲いに組んで力強く攻めました(結果は途中で指し掛け)。

中の写真は、橋本内閣で経済企画庁長官に就いた「田中秀征」(09年11月23日のブログを参照)の大臣室。前例が田中、後列右から田丸、蛸島、タレントの萩本欽一。同じ長野県生まれというよしみで田中と親しかった私は、「欽ちゃんと将棋を指したいので、そのように設定してくれませんか」と頼まれました。そして96年3月に田中と欽ちゃんの記念対局が実現し、私と蛸島が同席しました。欽ちゃんは熱心な将棋愛好家で三段の棋力があります。

田中は型破りな攻めの棋風です。その将棋も猛烈に攻め込むと、欽ちゃんは「田中さんの将棋は、武器を持った防衛庁みたいですよ」と冗談を飛ばしました。そして熱戦の末に田中が勝ちました。欽ちゃんは「大臣というから、もっと落ち着いた将棋を指すと思ったのに…」とぼやいていました。

上の写真は、日本共産党初代委員長の「宮本顕治」。数ある政党機関紙の中で、プロ公式戦を唯一主催しているのが同党の赤旗です。1969年(昭和44年)に若手棋士が参加する新人王戦が誕生しました。宮本は将棋愛好家で、将棋への理解が深かったから実現したのです。たまに将棋会館に寄って対局を観戦したり、将棋雑誌や夕刊紙の企画でプロ棋士と記念対局をしました。

写真は、私が同党主催の将棋コーナーも設けられた野外イベントに出席したとき、本部に寄ると宮本がいたので撮影したものです。宮本は気さくな人で、将棋コーナーに顔を出して棋士と談笑したりファンの将棋を熱心に見ていました。

次回は、田丸が「週刊将棋」で連載している元奨励会員の記事。

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2012年2月18日 (土)

将棋を熱烈に愛好した元首相の田中角栄は中飛車が得意戦法

将棋を熱烈に愛好した元首相の田中角栄は中飛車が得意戦法

歴代首相の中で、将棋を熱烈に愛好したのは「田中角栄」でした。田中は同じ新潟県生まれというよしみで原田泰夫九段と親交があり、会うたびに将棋を指しました。原田九段の話によると、平手の手合いで10局ほど指したそうです。田中の将棋は早指しで攻めっ気が強く、中飛車が得意戦法でした。

1972年(昭和47年)7月。自民党総裁選挙の最終投票で、田中が福田赳夫を破りました。そして翌日に田中新首相が誕生しました。

その総裁選挙に先立ち、将棋に関連したエピソードがありました。72年6月に24歳の新名人となった中原誠(十六世名人)が、何かの縁があって田中サイドに署名入りの扇子を贈ったのです。その扇子の表には「5五角」のー手が書かれていました。つまり「ゴーゴー角」という意味を込めて、田中に応援メッセージを送ったわけです。

田中首相誕生から半月後。将棋連盟会長の丸田祐三九段、中原名人、原田九段らは首相官邸を訪れ、田中に六段免状を贈呈しました。

写真は、ある将棋雑誌に載ったその光景。田中(右から2人目)はとても上機嫌で、「将棋はいいもんですな。私もこれから修業しなくっちゃ…」と中原(左から2人目)らに語りかけました。田中は「中原名人にぜひ教えていただきたい」と事前に指導対局を希望し、特別に1時間も空けましたが、野党の代表との会談が急に入って流れたそうです。

田中は持ち前の実行力を発揮し、72年9月に日中国交正常化を実現しました。その象徴としてパンダが中国から上野動物園に来ると、日本中の人気者となりました。田中の支持率は70%と上昇し、国民に絶大な人気がありました。貧しい庶民の育ちから国家の代表に上り詰めたので、「今太閤」とも呼ばれました。

しかし、田中は74年には自身の金脈問題が発覚して首相退陣に追い込まれました。76年にはロッキード事件で逮捕される事態にもなりました。

田中はその後、自民党を離党して政界の表舞台からいったん退きましたが、多数の田中派議員を擁し、「闇将軍」として政界に隠然たる影響力を及ぼしていました。

そんな時期に、中原名人、芹沢博文九段、田中寅彦九段らの高柳一門の棋士たちが東京・目白の田中邸を訪れ、やや暇を持て余していた田中に将棋を指してあげました。才気煥発な芹沢は田中に大いに気に入られ、政界進出を持ちかけられたこともありました。

1993年(平成5年)12月。田中は75歳で死去しました。連盟は名誉八段の免状を追贈しました。

その翌年3月。田中の長女で衆議院議員の田中真紀子が、免状のお礼を述べに将棋会館を訪れました。連盟の理事たちと田中の将棋の思い出話に花を咲かせ、当時理事だった私も同席しました。新潟の銘酒を土産に持参した田中真紀子が、折りからの米不足の状況だったので、「コシヒカリのほうがよかったですね」と笑顔で語ったのが印象的でした。

田中首相以降、連盟は時の首相に六段免状を贈呈するのが恒例となりました。三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘と続きました。しかしその後は、首相の在任期間が短かったり、リクルート事件などで政界が揺れ動いたりして、首相への免状贈呈はしばらく途絶えました。

次回は、将棋好きのほかの政治家。

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2012年2月12日 (日)

与野党の国会議員が将棋文化振興議員連盟の設立で「大連立」

国会では、社会保障と税の一体改革、消費税増税、沖縄の米軍基地、原発などの重要案件をめぐって、政府と野党の間できしみが生じています(与党の中でも)。かつて取り沙汰された民主党と自民党の大連立の問題などは、今やすっかり消えてしまった感じです。しかし将棋という趣味の分野では、与野党の国会議員による「大連立」が成立したのです。

昨年の8月、国会内の議員会館で「将棋文化振興議員連盟」を設立する総会が開かれました。民主党、自民党、公明党、共産党、国民新党、たちあがれ日本、みんなの党など、衆参両院より約50人の国会議員が出席し、超党派による将棋会となったのです。

まず発起人代表の山東昭子(自民・参院)から「日本の伝統文化である将棋の普及と発展を図りながら、党派を超えて将棋で親睦を深めたい」という趣旨説明があり、会長に渡部恒三(民主・衆院)、会長代行に山東が選ばれました。※敬称略。以下も同じ。

席上では、元首相同士の安倍晋三(自民・衆院)と鳩山由紀夫(民主・衆院)が隣同士で歓談したり、国会内の趣味の会に共産党議員として市田忠義(参院)が初参加するなど、その日ばかりは政争から離れて和気あいあいとした雰囲気だったそうです。

当日は、代理出席者や欠席者を含めて約100人の入会者がありました。前記議員以外の主な顔ぶれを紹介します。

民主党は、前原誠司(衆院)、鹿野道彦(衆院)、原口一博(衆院)、古川元久(衆院)、田中直紀(参院)、松原仁(衆院)、樽床伸二(衆院)、三宅雪子(衆院)など。自民党は、菅義偉(衆院)、高村正彦(衆院)、河村建夫(衆院)、村上誠一郎(衆院)、衛藤晟一(参院)、石井浩郎(参院)、小渕優子(衆院)、稲田朋美(衆院)など。公明党は、井上義久(衆院)、池坊保子(衆院)など。共産党は、穀田恵二(衆院)。国民新党は、亀井静香など。たちあがれ日本は、平沼赳夫(衆院)、園田博之(衆院)など。みんなの党は、柿沢未途(衆院)など。

山東は約30年前に芹沢博文九段に将棋の指導を受け、民放テレビの早指し棋戦の番組で詰将棋コーナーを担当したことがありました。鳩山の棋風はやはり「宇宙流」なのでしょうか…。原口、古川は将棋連盟会長の米長邦雄永世棋聖と交流があります。田中の義父は熱心な将棋愛好家だった元首相の田中角栄です。石井は元プロ野球選手で、民放テレビの番組の企画で野球解説者の江川卓と将棋を指したことがありました。

なお将棋会の事務局長を務める米長晴信(民主・参院)は、米長永世棋聖の甥にあたります。写真を見ると、「ドジョウ首相」の野田佳彦によく似た顔です。

連盟会長の米長としては、国会議員の将棋会を通じて永田町や霞が関とパイプを太くし、いずれは将棋関連の予算を増やしたり、小中学校の授業に将棋を必修化させたい、という目的があると思います。

それには国会がまず正常化して、山積する重要案件が早く成立することが望ましいです。しかし衆院の解散・総選挙を視野に入れた与野党の攻防がまだ続きそうで、しばらくは流動的な状況です。

次回は、歴代首相と将棋界との関係。

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2012年2月 2日 (木)

元奨励会員の写真家・石川梵が東日本大震災の写真集を出版

元奨励会員の写真家・石川梵が東日本大震災の写真集を出版

写真は、最近出版された『フリスビー犬、被災地をゆく』(飛鳥新社)という写真集の表紙です。著者は、写真家でノンフィクション作家でもある石川梵さん(写真の人)。※定価は1470円。

東日本大震災が起きた昨年の3月11日。都内にいた石川さんは、テレビの報道で未曾有の出来事が日本列島を襲っていると痛感しました。そして写真家としてやるべきことは、とにかく現場に行くことだと思い立ったのです。翌日には調布飛行場へ直行してセスナ機をチャーターし、空から被災地の惨状を撮影しました。町そのものが消滅したり、海岸線の見分けがつかないところもあったそうです。

石川さんは深夜に東京の自宅に帰ると、すぐにバイクにまたがって独りで東北に向かいました。そして福島に入って撮影していると、福島第一原発が爆発する事態が起きて避難を余儀なくされました。いったん帰京し、ワゴン車に燃料、食料、水などを積み込んで再び東北に行き、取材活動を続けながら救援物資を送り届けました。

石川さんは4月上旬、愛犬のボーダーコリー「十兵衛」(写真の犬・オス4歳)を連れて東北に行きました。被災者の衣食が足りるにつれ、精神的なケアの必要性を感じたからです。じつは十兵衛は「フリスビー」(プラスチック製の円盤遊具)というドッグスポーツの技を得意にしていました。十兵衛が避難所でフリスビーの技を披露すると、子どもたちは「あっ、空を飛ぶ犬だ」と言って大いに喜びました。大人や救援の自衛隊員にも大人気でした。単なる遊び相手ではなく、癒しの対象にもなったようです。

石川さんの写真集には、被災地の惨状のほかに、復興に向けて取り組む被災者たちの元気な姿、十兵衛と子どもたちの交歓、被災地を慰問したプロ野球・楽天の選手たち、などの写真が載っています。大震災の厳しい現実を思い起こさせながら、なぜか心が和む内容となっています。ぜひ一読をお薦めします。

また、『幸福の黄色いハンカチ』という名作がある映画監督の山田洋次さんは、石川さんが被災地を撮影した別の写真集に載っている、大漁旗と無数の黄色いハンカチが風にはためいている陸前高田市の写真を見て大感激し、石川さんと一緒にその場所を訪れてもう1組の黄色いハンカチを揚げたそうです。※その写真集は『The Days After-東日本大震災の記憶』(飛鳥新社)。

じつは石川さんは10代半ばの約35年前、棋士をめざして奨励会に入会した経歴がありました。1年ほどで3級に昇級し、順調なペースでした。しかし成績が悪くなったとき、四段までどのぐらい年数がかかるのか、自分は棋士に向いているのか、ほかの世界も見てみたい、などと思うようになったそうです。そして「自分は基本的に理数系の人間ではない」と気がつくと、奨励会入会から2年後に退会を決心しました。

奨励会をやめたとき、師匠の関根茂九段や一門の先輩たちから餞別をもらい、そのお金で買ったのが一眼レフカメラでした。映像の世界に興味があったからで、それが新しい人生の門出の品となりました。

石川さんはその後、写真学校を経て、空撮(空中から地上を撮影)の仕事、アフガニスタンの反政府ゲリラと同行して撮った命がけの戦場写真、インドネシアの漁師のクジラ捕りなど、様々なドキュメンタリー写真を撮り続けています。

次回は、与野党の国会議員が将棋同好会で「大連立」。

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2012年1月15日 (日)

田丸の新刊書『実録 名人戦秘話』へのコメントについて

昨年12月に発売された私の新刊書『実録 名人戦秘話』について、多くのコメントをいただきました。ありがとうございました。

「山田史生さんの『最強羽生善治と12人の挑戦者』と一緒に読むと、将棋界の今がわかるのかもしれません」というコメント(12月19日)は《深田有一》さん。

山田さん(将棋ジャーナリスト)の著書は、羽生(二冠)と一流棋士たちが激闘した勝負の話で、それは現代棋界の「盤上」における歴史そのものです。私の著書は、70年以上の伝統がある名人戦をめぐって将棋連盟と大新聞社が過去に繰り広げた契約問題を主題にしたもので、近代から現代にかけての将棋界の「盤外」における歴史といえるでしょう。確かに両書を読むことによって、将棋界の盤上盤外の歴史が理解できるかもしれません。

将棋界の歴史、文化、時評、棋士の横顔などをテーマにした著作が、以前はよく刊行されました。私が今でも参考資料として役立てているのは、『将棋百年』(山本武雄)、『将棋文化史』(山本亨介)、『棋士その世界』(中平邦彦)、『愉快痛快棋士365日』(能智映)、『将棋の博物誌』(越智信義)などです。これらの著作を読むと、将棋界の歴史と文化、棋士の人間味がよくわかります。

山本武雄さん(故人)は九段の棋士で、「陣太鼓」の筆名で読売新聞の観戦記を長年にわたって担当しました。山本亨介さん(故人)は元観戦記者で、将棋史の研究に打ち込みました。中平さんは神戸新聞の元論説委員で、現在も王位戦の観戦記を担当しています。能智さん(故人)は王位戦の元担当記者で、棋士とお酒をこよなく愛した名物記者でした。越智さんは将棋文献収集家で、今年で92歳を迎える高齢ながらも、生き字引のように将棋史に精通しています。

近年は、一流棋士の実戦集、流行戦法の詳しい解説書、詰将棋、入門書などの技術書は数多く刊行されています。しかし、前記のような読み物の著作の刊行は少ないのが現状です。その背景には、書き手が少ない、内容的に不都合が生じかねない、需要が見込めない、といった著者や出版社側の事情もあるのかもしれません。

「田丸八段しか書けない話に期待が持てます」というコメント(12月19日)は《将棋太郎》さん。「記述に当たっての田丸八段の平衡感覚が、単なる秘話でなく将棋史の貴重な記録になっていると思います」というコメント(1月6日)は《つねきち》さん。

自分の体験に基づいた名人戦の歴史、というのが本書の特徴です。その一方で、連盟・新聞社・棋士のそれぞれの立場も慮りました。自身の思いと客観性のバランスを念頭に入れながら書いたものです。

「どこかでサイン会はありませんか。記念に本にサインいただきたいです」というコメント(12月21日)は《ジロ》さん。

サイン会の予定は今のところありません。私がたまに顔を出すことがある東京・杉並の「将棋サロン荻窪」(☎03‐3220‐5247)には、私のサイン入り著書が置いてあります。もし品切れでも、連絡があればすぐに届けます。また2月以降には、連盟の販売部が田丸のサイン入り著書をネット販売する予定になっています。

次回も、田丸の新刊書へのコメントについて。

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2012年1月 6日 (金)

田丸が対局で用いる自筆の扇子の文言は「昇竜飛天」

田丸が対局で用いる自筆の扇子の文言は「昇竜飛天」

謹賀新年。今年もこのブログのご愛読をお願いします。

今年の干支は「タツ」(辰・竜)。その竜とは、中国では古来から神聖視されている巨大な想像上の動物です。天に昇って雲を起こしたり雨を呼んだり、蛇の形をした稲妻を放つと云われています。また、中国の皇帝の象徴とされています。日本でも天皇の顔の尊敬語として「竜顔」という言葉があります。

手元の漢和辞典で竜の字を調べてみると、立派または勢いがあるという意味になる言葉が数多くありました。

「竜神」(水の神)、「昇竜」(天に昇って行く竜)、「竜虎」(優れた人物)、「竜鳳」(優れた人相)、「竜門」(人望が高い人)、「竜女」(賢い女)、「竜文」(有望な子ども)、「竜馬」(優れた馬)、「竜光」(名刀の光)、「竜飛」(英雄が機会を得て立ち上がる)、「登竜門」(立身出世につながる関門)など。

写真は、田丸が20年前から対局で用いている自筆の扇子。「昇竜飛天」(しょうりゅう・ひてん)の文言は私の造語で、昇り竜が天を飛んでいるという意味です。勢いが良い様を表していて、そんな将棋を指したいという思いが込められています。また4字の中に、私の名前と2つの駒が入っています。

タツ年の年男・年女の棋士たちは、次のとおりです(年齢は今年の誕生日時点)。

72歳は、加藤一二三九段、関根紀代子女流六段。60歳は、宮田利男七段、森信雄七段。48歳は、塚田泰明九段、井上慶太九段、中田宏樹八段、富岡英作八段、浦野真彦七段、櫛田陽一六段、長沢千和子女流四段。36歳は、小林裕士七段、田村康介六段、高橋和女流三段。24歳は、佐藤天彦六段、糸谷哲郎五段、稲葉陽五段、中村太地五段、牧野光則四段、上田初美女王、井道千尋女流初段、などです。

なお名前に竜の字がつく棋士は意外に少なく、菅井竜也五段だけでした。

将棋を愛好したり関連するタツ年の著名人には、作家でタレントの志茂田景樹さん(72歳)、演歌歌手の鳥羽一郎さん(60歳)、元プロ野球選手で参議院議員の石井浩郎さん(48歳)、NHKの将棋ドラマ「ふたりっ子」で主演した女優の岩崎ひろみさん(36歳)などがいます。

昨年は10月以降、私の個人的な事情でブログの更新が滞ってしまいました。今年は従来のように、定期的な更新に努めます。よろしくお願いします。

次回は、田丸の新刊書「実録 名人戦秘話」へのコメントについて。

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2011年12月10日 (土)

100回記念の「職団戦」では女流棋士チームが参加したり30人の棋士が指導対局

100回記念の「職団戦」では女流棋士が参加したり30<br />
 人の棋士が指導対局

100回記念の「職団戦」では女流棋士が参加したり30<br />
 人の棋士が指導対局

11月20日に東京・千駄ヶ谷の東京体育館で、職域団体対抗将棋大会(略して「職団戦」)が開催され、423チームが参加しました。職場や団体の将棋同好会などが5人1組のチームとして競う団体戦です。最強クラスのS(8チームのみで、選手全員が全国的な強豪)から、A〜Fまでの7クラスに分かれて行われました。

この職団戦は1959年(昭和34年)から始まりました。第1回は69チームが参加し、会場は浅草のお寺の伝法院でした。その後、参加チームは次第に増えていき、第38回の80年には最多記録の628チームを数えました。それとともに、会場も伝法院〜将棋会館〜東京体育館〜日本武道館と広くなりました。とくに、スポーツの国際大会や人気歌手のコンサートが開かれる日本武道館で将棋を指せることが人気を呼びました。関東周辺だけでなく、東北や西日本などの遠隔地からの参加チームもありました。

しかし2000年(平成12年)ごろから参加チームが減っていき、近年は300チーム台になっています。最大の理由は経済的問題だと思います。以前は会社が福利厚生費として参加費を負担していたのが、経済不況を反映して個人負担に切り替わったケースが多いようです。そこで主催者の将棋連盟は、参加費を減額したり、指導対局コーナーを設けたりして、参加チームの減少の防止に努めています。

職団戦は今回で100回記念を迎えました(当初は春に開催予定でしたが、大震災の影響で秋に延期されました)。その目玉企画として、大会に2組の女流棋士チームが参加したのです。女流棋士チームは以前にも参加しましたが、大会ではなく交流対局でした。

A級には甲斐智実女流王位、矢内理絵子女流四段、斎田晴子女流四段などのチーム、B級には山田久美女流三段、竹部さゆり女流三段、早水千紗女流二段などのチームが参加しました。2組の女流棋士チームは奮戦し、A級・B級(各64チーム)ともに準決勝まで勝ち進みました。女流棋士チームの周囲は黒山の人だかりで、人気の高さを示していました。

写真(上)は、B級参加の女流棋士チーム。左から、山口恵梨子女流初段、山田三段、竹部三段、早水二段、井道千尋女流初段。写真(下)は、職団戦の大会光景。

そのほかに、大会で敗れたチームの選手たちを対象にした指導対局コーナーが会場に設けられました。今回は、森内俊之名人、佐藤康光九段、加藤一二三九段、高橋道雄九段、屋敷伸之九段、藤井猛九段、木村一基八段、広瀬章人七段など、タイトル保持者・A級棋士・ベテラン棋士・若手棋士ら30人の棋士が指導対局を務めました。

私もその1人で、3面指しの指導対局を3回(計9局)しました。指導対局を受けた人はアマ四段クラスが多く、角落ちの手合いが半数でした。中には平手の手合いを希望した人もいました。私は基本的に、強い人には厳しく指して勝ち、弱い人には教えながら指して負けるようにしました。

なお、来春の職団戦では「名人位創設400年」を記念し、指導棋士を増やして指導対局を計400局にする企画が持ち上がっているようです(今回は計270局)。

職団戦の会場では、プロ棋士、女流棋士、奨励会員、強豪アマ、一般のアマ、見物に来た人、取材者など、将棋界のあらゆる人たちが一堂に会した感じでした。私も久しぶりに再会した人がいて楽しかったです。

次回は、田丸の新刊書「実録 名人戦秘話」の紹介。

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2011年11月23日 (水)

第1回「将棋の日」イベントでタイトル戦の十段戦(中原―大山)が土俵上で対局

第1回「将棋の日」イベントでタイトル戦の十段戦が土俵上で対局

1975年(昭和50年)11月17日に行われた第1回「将棋の日」イベントの会場は、当時は大相撲の本場所が開かれた東京・台東区の「蔵前国技館」でした。

そのイベントでの超目玉企画が、中原誠十段に大山康晴棋聖が挑戦していたタイトル戦の十段戦(竜王戦の前身棋戦)第2局が土俵上で対局されたことでした。

写真は、その対局光景。左から、記録係、立会人の金易二郎名誉九段、萩原淳九段、中原、大山。

当日は、東京・広尾「羽沢ガーデン」で行われた十段戦第2局の1日目でした。午後3時すぎに対局を中断し、盤・駒・脇息・座布団などを対局場から国技館に運びました。土俵上という以外は、通常の対局とまったく変わらない設定でした。

午後5時に対局が再開されました。大山の四間飛車に中原の5筋位取りという戦型の序盤で、大山が封じ手をした5時40分まで3手が進みました。その間、場内は水を打ったような静寂さに包まれました。そして大山の封じ手が終わると、約8000人の観衆から万雷の拍手が巻き起こりました。

当時は、タイトル戦のテレビ中継はまだ行われていませんでした。タイトル戦の公開対局も初めてのことでした。短時間とはいえ、タイトル戦の生の対局を見た将棋ファンは大いに感動したようです。

第1回将棋の日イベントを企画し、裏方で総指揮を執ったのが芹沢博文九段でした。会場は大相撲の殿堂にしたいと思いついたのも芹沢で、個人的に親しかった共同通信の田辺忠幸さん(棋王戦の担当記者。後に観戦記者)を通じて、相撲協会に掛け合いました。田辺さんは運動部に所属したこともあり、相撲界に顔が利きました。そして、将棋を愛好した親方たちの理解もあって、国技館を使用することができたのです。

《棋界と角界。棋士と力士。四角い盤面と丸い土俵。1対1の勝負。順位戦と番付。名人と横綱。指し手と差し手。寄せと寄り切り。待ったなし》

日本の伝統的文化である将棋と相撲は、もともと関連性が多くあります。これらの例のように、勝負の形式、名称、用語などがよく似ています。

相撲の親方の中で、最も将棋が好きだったのは故・二子山親方(元大関・貴ノ花。元横綱・貴乃花親方の父親)でした。現役時代は暇さえあれば付き人と将棋を指し、稽古場に将棋の本を持参するほどでした。約40年前には中原と記念対局をしたこともありました。得意の棒銀で攻めると、中原に「筋がいいです」と誉められました。ただ猛烈な早指しだったので、中盤で2手続けて指してしまったそうです。

半月ほど前に亡くなった鳴戸親方(元横綱・隆の里)は、弟子たちの勝負勘を鍛えるために将棋を奨励し、稽古が終わると日替わりで弟子たちと指しました。相撲の取り口が将棋の指し手に現れるので、指導しやすかったそうです。私が8年前に将棋雑誌の取材で鳴戸部屋を訪れたとき、親方が17歳の三段目・萩原(現関脇・稀勢の里)を指差して、「将来きっとものになる」と目を細めていたのが印象的でした。

次回は、田丸・櫛田の師弟が11月17日に勤続表彰。

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2011年11月 9日 (水)

36年前の11月17日の第1回「将棋の日」イベントは大相撲の会場で開催

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 月17日の第1回「将棋の日」イベントは大相撲の会場で開催

将棋連盟は今から36年前に、11月17日を「将棋の日」と定めました。

江戸時代中期から毎年11月17日には、将棋の家元の棋士が江戸城内の御黒書院において、将軍の御前で将棋を披露するのが恒例となっていました。その「お城将棋」の式日にちなんで、将棋の記念日としたのです。

1975年(昭和50年)11月17日。第1回「将棋の日」イベントが東京・台東区の「蔵前国技館」で開催されました。当時は大相撲の本場所が開かれていたその会場で、将棋イベントが行われたのはもちろん初めてのことでした。

当日は青く澄みきった秋晴れでした。国技館の周囲は早くから長蛇の列ができ、開会時刻の午後3時には1万人を収容する館内は多くの将棋ファンで埋まりました。

写真は、会場の光景。矢倉と土俵が見えて大相撲の本場所と何ら変わりません。しかし、よく見ると土俵上の様子がちょっと違います。じつは将棋を指しているのです。

第1回将棋の日イベントでは、第1部が記念式典でした。木村義雄十四世名人の挨拶、中原誠王位の就位式、現役の名人経験者、九段の棋士の紹介(中原名人、大山康晴棋聖、塚田正夫九段、大野源一九段、二上達也九段、加藤一二三九段、内藤国雄九段。※欠席者は除く)などの式次第が土俵上で行われました。

第2部は記念対局。プロ・アマ混成のリレー対局が行われました。プロは二上九段、加藤九段、大内延介九段、有吉道夫八段。アマは75年のアマ名人戦、学生名人戦、高校選手権戦の優勝者、職団戦A級チームの主将。

そして超目玉企画が、中原十段に大山棋聖が挑戦しているタイトル戦の十段戦の対局でした。当日は第2局の1日目で、午後3時すぎに対局を中断すると、東京・広尾「羽沢ガーデン」から国技館に対局場を移したのです。それが写真の光景です。その詳しい話と土俵上での対局写真は、次回のブログで紹介します。

観衆は約8000人でした。入場無料とはいえ、平日の午後にそれだけ多くの人たちが集まったのはとても素晴らしいことでした。私は写真を撮っていて、将棋ファンの食い入るような視線が印象的でした。なお、4メートル四方の大盤が写真・右側に設置されました。

じつは、将棋の日の制定を最初に言い出したのは芹沢博文九段でした。芹沢は当時、連盟の広報担当のような仕事をしていて、将棋を世間に広めるにはどうしたらよいかと、いつも考えていました。将棋の日イベントでも、企画立案・外部との折衝・裏方の采配など、様々な面で尽力しました。NHKにもテレビ放送の件で交渉し、イベントの約1週間後には教育テレビで放送されました。芹沢という名プロデューサーがいたからこそ実現したイベントでした。

私は8月から10月にかけて、12月中旬に刊行する読み物主体の将棋の書籍の執筆に取り組んできました。その関係でブログの更新が遅れてしまいました。もう少しで通常のペースに戻りますので、ご理解のほどをお願いします。書籍の内容については、近いうちに紹介します。

次回も、第1回将棋の日イベント。

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2011年10月26日 (水)

女優の吉永小百合さん、日色ともゑさんが大山十五世名人と36年前に記念対局

女優の吉永小百合さん、日色ともゑさんが大山十五世名人と記念対局

今から36年前の1975年(昭和50年)。女優の吉永小百合さんが大山康晴(十五世名人)と6枚落ちの記念対局を指しました。私がその対局光景を撮影した機会があったと10月13日のブログで書いたところ、《オジサン》から「吉永小百合さんと一緒に日色ともゑさんも写ってましたよね」というコメント(10月13日)がありました。

写真は、左端が大山、中央が吉永さん、右が日色さん。記念対局が行われた東京・四谷「ホテルニューオータニ」の和室に、関係者が集まったところでした。

吉永さんは73年に結婚した岡田太郎さん(当時・テレビディレクター)から将棋を習うと、持ち前の凝り性を発揮してたちまち熱中しました。定跡書を買い込んで勉強し、映画のロケ先に盤駒を持参したこともありました。とくに楽しみにしていたのがNHKのテレビ将棋でした。「見る者をあれだけ夢中にさせる面白さは、スポーツにも負けません」と語り、放送中はテレビの前に釘づけになって観戦しました。

ちなみに吉永さんの好きな将棋の駒は「香車」でした。いちど前進したら後に戻れない一本気で不器用なところが、自分の性格や生き方に似ているからだそうです。

やがて吉永さんの将棋への愛好ぶりがメディアに伝わり、毎日新聞の企画で大山との記念対局が行われることになりました。対局前に「将棋を始めたのはいつごろですか」(大山)「半年ぐらい前です。近所の小学生と指しています。主人は、私が弱すぎるので相手にしてくれません」(吉永)という会話があり、和やかな雰囲気でした。

私は少年時代、吉永さんが主演した日活の青春映画(『キューポラのある街』『いつでも夢を』『光る海』『青春のお通り』など)を多く見て、美しさと清純さに魅了されたものです。その本人を目の前にして、大いに感激しました。吉永さんは当時30歳。しっとりとした色香が漂い、麗しい表情を見せました。所作も大女優らしく堂々としていました。

吉永さんは定跡どおりに指し、飛車で9筋から攻め破りました。その後、攻めあぐんでしまって「王将って、すばしっこいですね。すぐ逃げられちゃう…」とぼやくと、大山は「盤の外には逃げませんから」と冗談で応じました。

そして100手を超える熱戦の末に、吉永さんが見事に勝ちました。「あら、勝っちゃた。本当かしら…」と信じられない様子でした。大山は「将棋を覚えて半年にしてはお強い。筋もいいです。初段の免状をさしあげます」と激賞しました。

当日は、女優の日色さんも大山と記念対局を指しました。じつは、観戦記を担当した日色恵さんというベテランの将棋記者は父親でした。そんな関係から自然に将棋を覚えたようです。

日色さんは劇団の研究生だった20歳のとき、「成人式を迎える各界のホープ」というテレビ番組に出演すると、奨励会員の大内延介三段(現・九段)と対面しました。ともに女優と棋士の卵という同じ立場から意気投合し、「これを機会に励まし合っていきましょう」と誓い合ったそうです。

それから数年後の1967年(昭和42年)。日色さんはNHKの朝ドラマ『旅路』のヒロインに抜擢されました。その番組は平均視聴率が45%と大変な人気を博し、日色さんは国民的な女優になりました。その年の夏、ある週刊誌が「清純派女優の秘めたる愛」という見出しで、日色さんと当時六段の大内との熱愛を報じました。しかし、著名人の何でもない話に尾ひれを付けた、よくある作り話でした。

次回も、田丸が撮影した秘蔵写真(内容は未定)。

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2011年10月20日 (木)

昭和棋界の双璧だった大山と升田の珍しいツーショット写真

昭和棋界の双璧だった大山と升田の珍しいツーショット写真

私は青年時代、写真に凝って撮りまくっていました。主な被写体は対局光景や棋士などの将棋関連で、写真はその中の1枚。ピントは外れ、光は中央で分離して、でき映えは良くありません。しかし、とても珍しいツーショット写真として気に入っています。

左は大山康晴(十五世名人)、右は升田幸三(実力制第四代名人)。両者は昭和棋界の双璧として将棋史に大きな足跡を残しました。ともに関西の木見金治郎九段の兄弟弟子で、修業時代は内弟子生活を送って同じ釜の飯を食べた間柄でした。暴れん坊の兄弟子の升田は、生真面目な5歳年下の大山をよく可愛いがったそうです。

升田と大山は長じると、タイトル戦に登場して頭角を現しました。両者はタイトル戦で何度も激突し、宿命のライバルといわれました。やがて盤上だけでなく、盤外でも火花を散らすことがありました。升田は朝日新聞社、大山は毎日新聞社と、異なる新聞社の嘱託になったことで、互いの取り巻きの思惑が両者の関係に微妙な影響を及ぼしたのです。名人戦契約で将棋連盟と主催新聞社とで問題が起きると、対立する関係にもなりました。

とにかく升田と大山は、実績(升田は信長型、大山は家康型)、棋風(升田は攻め、大山は受け)、性格(升田は豪放、大山は実直)、私生活(升田は奔放、大山は地味)など、あらゆる面で対照的でした。いつしか不仲説も噂されました。実際に前記の問題などで何かと張り合いました。しかし将棋界の一大事という事態になると、ともに歩み寄って協調したものです。

写真は、日本棋院(囲碁団体)が主催した囲碁の団体対抗戦の対局光景でした。1974年(昭和49年)6月に、棋院の大ホールで行われました。将棋連盟はA・Bの2チームが参加しました。Aチームのメンバーは、大将が升田、副将が大山、ほかに丸田祐三(九段)、佐藤庄平(八段)、河口俊彦(七段)。Bチームは、米長邦雄(永世棋聖)、芹沢博文(九段)、真部一男(九段)など。いずれも囲碁の棋力はアマ四、五段の強豪でした。

私は当時、24歳の若手棋士五段。大山と升田は雲の上の存在で、話をする機会もありませんでした。ただ撮影時は、ファインダー越しに見たのと、将棋ではなく囲碁だったので、緊張感はあまり覚えませんでした。それにしても、5面の碁盤が横に並んだ場所で、大山と升田が隣り合わせて囲碁を打っている光景は、何か不思議な感じがしました。

写真は、囲碁の対局が終わった升田が、まだ対局中の大山の囲碁を楽しそうに見ているところです。大山も笑みを浮かべているように見えます。両者の共通の趣味が囲碁でした。升田が大山を慈しむように見ている光景は、内弟子時代の兄弟弟子に戻った雰囲気でした。

74年の当時、連盟の内部では将棋会館建設問題で大きく揺れていました。時の理事会の運営に危機感を抱いた大山と升田は手を結び、ほかの有力棋士の賛同も得て、総会で理事会に総辞職を迫る事態になりました。大山と升田が協調したことは、冷戦時代のアメリカとソ連が平和条約を締結したようなものです。

しかし大山と升田の「蜜月」は長く続きませんでした。2年後の76年に連盟と朝日の名人戦契約交渉が決裂し、名人戦が古巣の毎日に戻ったからです。当時の連盟首脳が大山でした。升田(朝日の嘱託)は大山(毎日の嘱託)の策謀だと非難し、両者の関係は再び悪化しました。

大山と升田の囲碁対局の光景は、短い雪解け期の貴重なツーショット写真となりました。

次回は、女優の吉永小百合さん、日色ともえさんの将棋の記念対局。

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2011年10月 8日 (土)

親子棋士、20年前の指導対局、子どもの名前のコメントへの返事

私のブログは今年10月で3年目に入りました。いつも読んでいただき、ありがとうございます。今後も将棋界の裏話、棋士の意外な一面、私の思い出話などを伝えていきます。これまで原則として週2回の更新を続けてきました。しかし8月と9月は更新回数が少なくなっています。じつは今年12月に私の書籍が刊行される予定で、それに向けて夏から執筆に取り組んでいます。その関係でブログの執筆が遅れがちです。ひとつ、ご理解のほどをお願いします。

その書籍は、6年前に刊行された『将棋界の事件簿』の続編に当たる内容です。約35年前の将棋連盟と大新聞社が名人戦契約で決裂した問題から、5年前の大新聞社同士の名人戦共催の問題まで、一連の名人戦問題の経過と真相を書いています。また、今年で棋士生活40年目を迎えた私の思い出の対局やエピソードも振り返ります。発売日が近くなったら、また改めて紹介させてもらいます。

「親子棋士の件(9月5日のブログ参照)ですが、加藤博二九段の父親(竹次郎さん?)も棋士だったみたいですね」というコメント(9月7日)は《田舎天狗》さん。

加藤九段の父親は加藤竹二郎五段です。大正から昭和初期の時代にかけて活躍しました。ただプロ棋界が確立されてなかった昔の時代は、プロとアマの境界が曖昧でしたので、現在の連盟の棋士系統図には載っていません。加藤九段の回想によると、かなりお酒が好きだったそうです。戦後まもないころに55歳で亡くなりました。

「私は中学生だった20年ほど前、学習塾で開かれた将棋大会に興味本位で参加すると、全敗して悔しい思いをしました。そこで少しでも追いつきたい一心で、将棋会館でプロ棋士に教わることにしました。その際、私の指導対局を担当したのが田丸八段でした。定跡をろくに知らない私に、親身に的確に教えてくれました。対局の途中では、指導を申し込んだ経緯まで聞いてくれました。帰りぎわに『柳くんが塾で将棋を勝てるようになるときを楽しみに待っているよ』と笑顔で語りかけ、名刺をくださいました(いまだに保存しています)。私は田丸八段に朗報を伝えられませんでしたが、その後は将棋がますます楽しくなり、現在も愛好しています」という内容のコメント(9月14日)は《柳》さん。

そうでしたか…。私は記憶力がいいのですが、柳さんのことはまったく覚えていません。でも指導対局の光景は何となく想像できます。将棋をまったく知らない少年に、何とかしてあげたいと思って親切にしたのでしょう。将棋に負けたとき、腐ってやめてしまう人と、悔しさをバネに頑張る人に分かれます。柳さんは後者だったわけで、私はなおさら励ましたいと思ったのでしょう。これからも将棋で楽しんでください。

「奥村明さん(29年前の朝日アマ名人戦で準優勝)の息子さんの名前(9月30日のブログ参照)には笑いました。『龍馬』ですか! すごい名前を付けたもんですね」というコメント(10月6日)は《オンラインブログ検定》さん。

将棋の好きな人が自分の子どもに、将棋の駒にちなんだ名前を付けることはよくあります。代表的な名前が「歩」(あゆみ)「香子」「桂子」「竜也」などです。棋士の中では、松尾歩七段、豊島将之六段、菅井竜也五段、及川拓馬四段、里見香奈女流三冠、松尾香織女流初段の名前に、将棋に関係した字が付いています。昔の棋士では、金子金五郎九段、藤内金吾八段(内藤国雄九段の師匠)に「金」の字が付いていますが、将棋の駒との関係は不明です。奨励会には「竜馬」「悠馬」「龍生」の名前が付いている会員がいます。

将棋にちなんだ名字では矢倉規広六段がいますが、得意戦法は振り飛車で矢倉はほとんど指さないそうです。私は最近、「桂馬」という名字の方に会いました。どんな由来があるのか、いちど聞いてみたいと思っています。

次回は、写真に凝っていた田丸の青年時代。

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2011年9月30日 (金)

今年のアマ名人戦はかつて奨励会に在籍した今泉健司さんが初優勝

今年の全日本アマ名人戦は9月中旬に都内で行われました。64人の出場選手は、主要アマ棋戦優勝者、大学将棋部出身者、元奨励会員、学生など、様々な顔ぶれでした。特徴的なのは初出場者が22人と多かったことです。10代・20代の若い世代は計28人を数えました。昨年の大会も初出場者が31人で、10代・20代は計30人でした。そうした世代交代の背景には、若い世代の人たちが熱心に取り組む「ネット将棋」の効果もあると思います。

そんな状況において、アマ名人戦の出場回数が20回以上の選手は、22回の柳浦正明さん(島根)と21回の早咲誠和さん(大分)。柳浦さんは最年長の64歳で、奨励会で修業している同郷の里見香奈(女流三冠)の実戦相手も務めていました。早咲さんはアマ名人戦とアマ竜王戦で、それぞれ3回も優勝しています。

私は郷土の長野県で発行されている信濃毎日新聞の将棋欄で、アマ名人戦の長野代表を決める県名人戦の対局を30年以上も前から解説しています。以前の代表選手は、東日本大会でベスト4、全国大会でベスト16が最高成績でした。しかし昨年は、長野代表の井上徹也さん(当時24歳)が元支部名人の古屋晧介さん、早咲さんらを連破して決勝に進出し、赤畠卓さんに勝って見事に初優勝したのです。正直なところ、井上さんが大学将棋で活躍していたとはいえ、アマ名人戦を初出場で制覇したのには驚きました。

今年の全国大会では、前名人の井上さんはシード選手となりました。今年の県名人戦で優勝した奥村龍馬さんは長野代表となりました。奥村さんは、29年前の朝日アマ名人戦で準優勝した奥村明さんの子息です。9年前に出場したアマ名人戦では、アマ竜王戦とアマ名人戦で優勝した清水上徹さんを破って注目されました。このように、長野代表の選手が2人も全国大会に出場したのは初めてでした。

ところで各地区の代表選手の人数は、基本的に人口比率で決められます。首都の東京は3人で、北海道、福島、千葉、埼玉、神奈川、愛知、京都、大阪、兵庫、広島など、大都市がある地区は2人です。しかし仙台市がある宮城、九州一の福岡が1人と、やや不均衡なところがあります。じつはアマ名人戦の場合、地元新聞社や地区大会主催者の分担金によって代表選手の人数が決まった経緯があったようです。なおアマ竜王戦の代表選手は、大都市がある7地区以外は1人です。

長野代表の井上さんと奥村さんは予選リーグを通過し、決勝トーナメントに進出しました。そして井上さんは早咲さん、奥村さんは元アマ王将の武田俊平さん(千葉)らに勝ちました。しかし奥村さんは準々決勝で赤旗名人の加來博洋さん(東京)、井上さんは準決勝で元アマ竜王の今泉健司さん(広島)にそれぞれ敗れました。

伝統があって水準が高いアマ名人戦で過去に連覇を果たしたのは、南川義一さん、小池重明さん、鈴木純一さん、山田敦幹さんの4人だけです。また、過去10年間の優勝者の翌年の実績を調べてみると、連覇した山田さんとベスト4の清水上さん以外の8人は、予選敗退か決勝トーナメントの1・2回戦で敗れました。その意味では、井上さんのベスト4は立派な成績だと思います。奥村さんも自己最高のベスト8に進出しました。

アマ名人戦の決勝は今泉さんと加來さんが対戦し、今泉さんが勝って初優勝しました。

主要アマ棋戦の優勝者は、奨励会の三段リーグ編入試験を受けることができます。じつは今泉さんと加來さんは奨励会の三段リーグに在籍した経歴があり、退会後にその権利を行使して受験したことがあります。加來さんは不合格でしたが、今泉さんは合格して三段リーグに再び在籍しました。しかし規定の計4期において最高成績が11勝7敗で、四段に昇段できずに奨励会を退会しました。

アマ名人戦で優勝した今泉さんは、三段リーグ編入試験を受験しないと表明しました。今後はアマ名人戦の連覇と、「大三冠」(アマ竜王戦・アマ名人戦・朝日アマ名人戦)の獲得をめざすそうで、残る一冠は朝日アマ名人戦です。それが実現すれば素晴らしい実績です。

次回は、コメントへの返事。

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2011年9月25日 (日)

作家・貴志祐介さんの小説『ダークゾーン』が将棋ペンクラブ大賞で特別賞を受賞

作家・貴志祐介さんの小説『ダークゾーン』が将棋ペンクラブ大賞で特別賞を受賞

9月中旬に「将棋ペンクラブ大賞」の贈呈式が開かれました。中でも注目されたのが、小説『ダークゾーン』で特別賞を受賞した作家の貴志祐介さんでした。

写真は左から、観戦記部門・大賞の後藤元気さん、貴志さん、文芸部門・大賞の塩田武士さん、技術部門・大賞の金子タカシさん。

後藤さんは2009年度のNHK杯戦準決勝・渡辺明竜王―糸谷哲郎五段戦の観戦記で受賞しました。以前に奨励会で修行した経歴があります。

塩田さんは神戸新聞社に勤務する王位戦の担当記者。将棋のタイトル戦の現場を初めて見た経験などを元にした小説『盤上のアルファ』で受賞しました。奨励会の三段リーグ編入試験を受ける元奨励会員が主人公です。昨年の小説現代長編新人賞でも受賞し、それを契機に作家デビューしました。

金子さんは寄せの手筋をわかりやすく解説した『寄せの手筋200』で受賞しました。東大将棋部時代からアマ棋界で活躍し、アマ竜王戦優勝、朝日アマ名人戦準優勝などの実績があります。理数系の研究者らしい整理能力を生かした著書はとても好評です。

貴志さんはホラー、ミステリー、SFの分野の小説を書き、『黒い家』『硝子のハンマー』『悪の教典』などの作品は、文芸関係の賞を受賞したり映画化されました。今年2月には、人間が異形化して将棋の駒のようになって敵と戦い、生死をかけた「対局」で壮絶な闘争を繰り広げる、SFファンタジー小説『ダークゾーン』を発表しました。

その貴志さんは熱心な将棋愛好家です。「いまだに初心者の域を脱しないヘボ将棋」と謙遜しますが、二、三段の棋力があります。私は10年ほど前に貴志さんと会う機会があり、2枚落ちの手合いで指しました。定跡形から離れた展開となって下手は難局でしたが、中盤で歩の手筋を連発して上手陣に攻め込み、終盤でしっかりした寄せで私に勝ちました。将棋を愛好する作家の中では、有数の実力者だと思います。

貴志さんはある生命保険会社に就職しました。しかし少年時代から抱いていた作家になる夢を捨て切れず、30歳のときに退職しました。それ以降の数年間は発表するあてのない小説を書き続ける日々で、ずっと無収入の状態でした。そして貯金が尽きかけたころに、やっと作家デビューを果たしたのです。貴志さんは「最後の1歩で攻めがつながったようなものです」と、将棋にたとえて当時を振り返りました。

1997年(平成9年)には、生命保険業界を題材にして保険金殺人が起きる『黒い家』を発表し、日本ホラー小説大賞を受賞しました。その年には和歌山で保険金詐欺がからむ「毒入りカレー」事件が起きました。小説の内容との関連性がマスコミにも注目され、文庫本を合わせて60万部以上のベストセラーになりました。貴志さんは以前に勤めていた業界のことを悪く書くような話なので、当初はためらいがあったそうです。しかし受賞式に元の会社の上司や同僚がお祝いに来てくれ、胸を撫で下ろしたとのことです。

98年にA級棋士のまま29歳の若さで亡くなった村山聖九段は、短い生涯の間に何千冊もの本を読んだ大の読書家でした。厳しい批評眼を持っていて、読了した本を誉めることはあまりなかったそうです。その村山が絶賛したのが『黒い家』でした。子どものころから病気がちで、自分の寿命が決して長くないことを自覚していた村山が本気で怖がったというのですから、小説の内容の恐ろしさは半端ではありません。

私が貴志さんに村山の話を伝えると、「村山さんのことは以前から注目していました。私の本を読んでくれたとは、とてもうれしいですね」と語りました。じつは村山が愛読していた海外の数人のSF作家と、貴志さんがかつて愛読した作家とは、ほぼ同じであることがわかりました。貴志さんと村山は、目に見えないところでつながっていたのです。

次回は、今年のアマ名人戦。

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2011年9月 5日 (月)

親子棋士、NHK将棋講座、データベースなどのコメントへの返事

「囲碁界では親子棋士の例が非常に多いのですが、将棋界では親子で棋士になった方はいるのでしょうか」というコメント(8月9日)は《将棋太郎》さん。

将棋界で親子棋士は、木村義雄十四世名人・木村義徳九段、神田辰之助九段・神田鎮雄七段、板谷四郎九段・板谷進九段、西川慶二七段・西川和宏四段と、4組あるだけです。囲碁界に比べて少ないのは、棋士になるハードルが高いことも一因でしょう(囲碁は初段から、将棋は四段からプロ)。なお木村九段は父親があまりにも偉大だったので門下に入らず、同じ早稲田大学の出身というよしみで加藤治郎名誉九段の弟子になりました。

「田丸八段が講師を務めたNHK将棋講座は覚えています。確か前任は原田泰夫九段だったと記憶しています」というコメント(8月13日)は《カクザン》さん。

私がNHK将棋講座を担当したのは1983年(昭和58年)でした。あの当時の講師は4月から翌年3月まで1年間の期間でした。私は「将棋は攻め・この手で勝とう」というテーマで、実戦的でユニークな戦法を解説しました。聞き手のアシスタントは藤森奈津子女流四段(当時初段)が務めました。原田九段が将棋講座を担当した時期は、もっと前の76年でした。それ以降は、真部一男九段、森けい二九段、西村一義九段、石田和雄九段、大内延介九段、青野照市九段、内藤国雄九段が務め、その後が田丸でした。

「対局をネット観戦していると、控室の記者たちがデータベースで検索し、過去の同一局面は○○戦第◆局などの前例があって△勝▲敗の勝率、といった記録を基にしてよく書いています。私たちのような一般の将棋ファンは、そのデータベースにアクセスできないのでしょうか。また、どのように管理されているのでしょうか」というコメント(8月15日)は《しおんの王☆》さん。

新聞の観戦記やネット中継の解説を見ると、データベースで検索した過去の実戦例や勝敗を伝える文章をよく見かけます。現代の流行型であることを示したり、指し方の有効性を確かめるうえで、なかなか興味深いものがあります。プロ野球中継でも、「A打者は外角高めの直球への打率が高い」「B投手は5回以降は変化球が多い」など、記録を基にした解説は現実味があります。しかし将棋でも野球でも、記録ばかりを主体にした解説は面白くありません。近年は同一の流行型が何局も指される傾向があり、そのうえに観戦記も同じような形式の文章では興醒めとなります。

将棋連盟は、約35年前からの公式戦の全棋譜をデータベース化しています。年月日順、棋士別、棋戦別、特定の対戦、特定の戦型と局面など、目的に応じて記録をすぐに取り出すことができます。研究したり調べるうえでとても便利です。このデータベースにアクセスするには、連盟に申請して会員になる必要があり、入会金と年会費がかかります。ただし棋士、観戦記者、棋戦関係者など、連盟関係者しか認められません。あくまでも主旨は、研究と情報取得です。一般公開するには、棋譜著作権の関係で難しいのです。

「とても気になっていることがあります。フリークラス棋士や年間10局程度の対局しかされない棋士は、普段はどのように過ごされているのでしょうか。伊藤果七段は詰将棋の作成、所司和晴七段は中国将棋の大会に参加など、対局以外の活動に力を入れている棋士もいます」というコメント(7月19日)は《AKI》さん。

フリークラス所属で対局は年間10局程度という棋士の1人は、まさに私のことです。つまり、あまり勝てなくて対局が少ない棋士は、対局以外の日にどんな生活を送っているかという質問ですね。それは、棋士によってもちろん違います。私にも自分の生活スタイルがあります。改めてブログのテーマにしましょう。

次回は、棋士の日常生活について。

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2011年8月 2日 (火)

ゴルフの石川遼、カンニングした棋書、トイレ関連の話のコメントへの返事

「ゴルフの石川遼がミズノ・オープンで岡山に来たので、初めて生で見ました。18番ホールしか見れませんでしたが、入場料3000円を払って大変に満足しました。石川遼のゴルフグッズが飛ぶように売れ、私も記念にマグカップを買いました。石川遼の経済効果を実感した1日でした。将棋界も『女石川遼=里見香奈』が大きく育つことを祈っています」というコメント(6月26日)は《オンラインブログ検定》さん。

将棋界にも石川遼のような若くて強いスーパースター(男も女も)が出現すれば、大いに活気づくことでしょう。ところで、その石川遼は将棋を知っているのです。2年前のある大会では、自身のゴルフの調子を「王手とはいかないまでも、歩がと金になって迫っている感じ」と、将棋に例えて語ったものでした。

また、石川遼が東日本大震災で被災した福島県の人たちを見舞ったときは、子どもたちにゴルフゲーム、絵本などのほかに将棋の盤駒もプレゼントしました。そして実際に子どもたちと将棋を指し、「我慢すれば勝てるから…」と話したそうです。

「トイレの本は、おそらく『現代将棋の急所』ですね。山田道美九段の遺書みたいな力作です」というコメント(7月9日)、「原田―佐伯戦の様子は、『勝負師の門』という本に書いてあったのを覚えています。そうですか、記録係が奨励会時代の田丸八段だったんですね」というコメント(7月12日)は、どちらも《田舎天狗》さん。

42年前にある若手棋士がA級棋士と対戦したとき、トイレに棋書を持ち込んで「カンニング」して勝ったことがありました(7月8日のブログを参照)。その棋書が山田九段が書いた『現代将棋の急所』でした。山田は「将棋博士」と呼ばれたほどの無類の研究家でした。その棋書を書いた際も、資料集めに2年、執筆に1年かけたそうです。山田はできるだけわかりやすく解説しましたが、流行戦法の紹介では「プロでも滋養になる栄養分がいっぱい詰まっている」(はしがき)という専門的な内容でした。それをつまみ食いして勝ったのが、前記の若手棋士でした。

『現代将棋の急所』は42年前に文藝春秋社から刊行されました。その翌年、山田は36歳の若さで現役A級棋士のまま奇病で早世したのです。まさに遺書みたいな棋書でした。なお21年前に、将棋連盟が復刻版を刊行しました。

原田泰夫(九段)は昇級がかかった43年前のB級2組順位戦の対局で、秒読みが続いた佐伯昌優(九段)が尿意を我慢し切れずにトイレに行くと、席に戻るまで指しませんでした。相手に「塩を送った」のですが、結果的に敗れました(7月12日のブログを参照)。その対局の模様が、35年前に刊行された『勝負師の門』に載りました。著者は天狗太郎さん。観戦記者で将棋史の研究に造詣が深かった山本享介さん(故人)の筆名でした。

それにしても、《田舎天狗》さんは昔の話をよく覚えていますね。

「トイレに行くのは生理現象であって、勝負とはまったく別次元のものと思います。囲碁の対局で認められる秒読み中の1~2分のトイレ休憩は、当然のことと思います」という内容のコメント(7月14日)は《hori21》さん。

私は7月12日のブログで、前記の秒読み中のトイレ休憩について、「勝負のルールとしては手ぬるいと思います」と書きました。それに対する反論が前記のコメントです。一方で、『S.H』さんのコメント(7月12日)の「体調管理も勝負のうち」、『へっぽこ振り穴党』さんのコメント(7月29日)の「時間攻めで相手に間違えさせることも勝負術」という見方もあります。

秒読み中のトイレ休憩で問題になるのは、それを「悪用」されかねないことです。勝ち筋を1分で読み切れなくても、数分あれば読み切れる場合、頻繁にトイレに行って時間を稼ぐことができます。尿意の有無は他人にはわかりません。

次回は、森内俊之名人の就位式。

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2011年6月30日 (木)

13年前の将棋連盟総会の決議についてのコメントと昔の総会の模様

「総会では招集通知に記載された以外の議題を審議してはいけないと、普通はなっています。議題を見て総会に出席を決めたり、議題への準備をしたりします。議題になっていないことを審議すると、不意打ちになるからです。13年前の将棋連盟総会では、女流棋士にとっては重大な制度変更(奨励会と女流棋士の重籍の禁止)が正しいプロセスを経ずに決められたようで、法律家としては大変残念に思います」という内容のコメント(6月9日)は《tsctless》さん。

連盟の総会では、会長挨拶、各部報告と質疑応答、監事報告、決算書・予算書の承認、事前に通知された議案の審議、という順で議事が進行します。中でも重要議案は、委員会の答申、理事会で調整、棋士への説明などの長いプロセスを経て、総会に上程されます。なお最後の「その他」議案で、出席した棋士は自由に意見を述べられます。それが「動議」となって決議されるのはきわめて稀ですが、13年前の総会でありました。

1998年(平成10年)の連盟総会で、私は副議長を務めました(正議長は桐山清澄九段)。その年の総会は、新将棋会館建設、理事選挙制度、ネット関連事業などの重要議案の審議で活発な論戦が繰り広げられ、午後1時の開会から数時間以上たった夜になっても延々と続きました。そして最後の「その他」議案で、ある棋士が「奨励会と女流棋士の重籍を禁止すべきだ。不都合なことがいろいろとある」と意見を述べました。

議長は、その意見がさらに検討を要する問題と判断すれば、理事会に預けて後日の審議とするのが通常の措置です。しかし女流棋士の重籍問題については、ベテラン・中堅・若手など約15人の棋士から賛否両論の意見が出ました(6月9日のブログの後段を参照)。事前通知しなかった議案でしたが、棋士たちは以前から問題意識を抱いていたようです。予想外の反響に、私たち議長は扱いに困りました。継続審議にする雰囲気ではなく、時刻は夜の10時を過ぎていました。

その総会では、最後に重要な2議案の決議を取ることになっていました。そこで議長は、女流棋士の重籍問題も合わせて決議することにしたのです。投票の結果、76票対62票の少ない票差で、奨励会と女流棋士の重籍が禁止されました。総会の閉会は、この20年間で最も遅い夜の11時半でした。

《tactless》さんは13年前の総会の決議について、「正しいプロセスを経ずに決められたようで」と述べました。しかし「その他」議案の審議は、通常の手続きで行ったものでした。ただ私が今になって振り返ると、総会の決議で決める問題ではなかったと思っています。その意味で、今年5月に連盟が奨励会と女流棋士の重籍を認めた決定については、理事会の裁量の範囲だったと理解しています。

私が若手棋士だった約40年前の連盟総会は、現代の整然とした形式とは大違いでした。まず議長がいませんでした。会長や理事が進行役を兼ねたので、紛糾すると理事会対ほかの棋士たちの「団交」みたいな険しい雰囲気になりました。公式の議事録を取らなかったので、後日に「言った」「言わない」でもめることもありました。演説のように長く話したり、議論の最中に無関係の話をしたり、同じ意見を繰り返す棋士もいて、収拾がつかない「千日手」模様の事態にもなりました。また先輩棋士や上位棋士が威張っていたので、「下級者は黙れ! 文句があるなら将棋盤を持ってこい」という強硬な発言が時にあり、それに対して「将棋が強ければ、何をやってもいいのか」と反発したやりとりもありました。

このように昔の総会は、しばしば紛糾しました。理事会はいよいよ行き詰まると休憩を入れ、合間に当日に支払う予定の「○○協力金」を棋士たちに配りました。するとその後は、審議が円滑に進んだものでした。閉会後は、懐が豊かになった棋士の一部は夜の街に繰り出しました…。公益社団法人になった現代は、総会でそうした支払いはなく、あっても銀行振込です。

次回も、コメントへの返事。

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2011年6月27日 (月)

将棋連盟の運営、連盟会長の資格、総会の議題などのコメントへの返事

「新聞社の財政状況の悪化が死活問題となる将棋連盟は、経費の削減と新たな財源の発掘が不可欠かと思います。しかし棋士の人数が増えすぎても、経費削減のために成績不振の棋士の首を切ることは容易でないと思います。最近はニコニコ動画への配信や大和証券杯の棋戦など、将棋とインターネットの相性が良いです。連盟はその方面の新たなスポンサー探しに力を入れているのですか」という内容のコメント(5月30日)は《たまー》さん。

連盟の主要財源は、棋戦主催者の新聞社・テレビ局・企業・自治体から得る契約金です。中でも大手新聞社の契約金は、連盟の運営の根幹をなしています。それだけに、新聞社の財政が悪化すると影響を受けかねません。ただネット時代への移行、長期的な景気の落ち込みなどによって、新聞業界が将来に大きく変動するかもしれません。連盟はそうした事態に備えて、今から根本的な方策を考える必要があると思います。

今年4月の時点で、現役棋士の人数は163人でした(6人の引退内定者を含む)。10年前は147人、20年前は132人でした。毎年4人の新四段が生まれても、棋士の引退や死亡によって、現役棋士の人数はそれほど増えていません。とはいっても、売り上げが伸びない会社で従業員が増え続ければ、運営はいずれ厳しくなります。連盟もそれと同じです。今後は、棋士への処遇が重要問題になるでしょう。

正直なところ、「成績不振の棋士の首を切る」という言葉には、私自身がそんな立場なのでどきっとしました。まあ、実際に首を切られることはないでしょうが、経費節減策として待遇が下がる可能性はあります。たとえば、予選対局料が減ったり、女流オープン棋戦のように一般予選ではプロでも対局料が出ない、などの方式になるかもしれません。

インターネット関係の企業に、新たなスポンサーを求めることは確かに有力です。ただし既存の新聞社との関係のように、高額の契約金を継続的に得られるかどうかは不明です。連盟は近年、ネット関連の普及事業に取り組んでいます。成果が表れるまで年月がかかりますが、将来への投資として大事だと思います。

「田丸八段のブログや寄稿文を読むと、中立に冷静に物事を判断されています。個人的には、連盟の会長になってほしいですね。会長になるには、タイトル経験者じゃないと難しいのでしょうか」という内容のコメント(6月7日)は《よっしー》さん。

私に連盟の会長になってほしい、という《よっしー》さんの推挙には驚きました。また、その根拠という私への評価に感謝いたします。今年の連盟総会では、公益社団法人として初めての理事選挙(2年ごと)が行われ、棋士・女流棋士・連盟職員・外部の識者など、13人が理事に選ばれました。そして理事たちの互選によって、米長邦雄(永世棋聖)が会長に就任しました。つまり連盟の会長になるには、まず理事に選ばれることが条件なのです。

歴代の連盟会長には、塚田正夫(実力制第二代名人)、大山康晴(十五世名人)、中原誠(十六世名人)、二上達也(九段)、米長など、タイトル経験者が就任しました。それ以外では、加藤治郎(名誉九段)、原田泰夫(九段)、丸田祐三(九段)などが会長になりました。会長になる資格に、タイトル経験の実績は必要ありません。会長として必須のことは、展望をもって運営する、全体をまとめる、誠実な人柄だと思います。

「総会では招集通知に記載された以外の議題を審議してはいけないと、普通はなっています。13年前の連盟総会では、女流棋士にとっては重大な制度変更(奨励会と女流棋士の重籍の禁止)が正しいプロセスを経ずに決められたようで、法律家としては残念に思います」という内容のコメント(6月9日)は《tactless》さん。

6月9日のブログ「奨励会と女流棋士の重籍に関する経緯と問題点」のある内容について、法律家としての見解ですね。その件の詳しい話は、次回のブログで改めて伝えます。

次回も、コメントへの返事。

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2011年6月17日 (金)

子どもの将棋ファンが増えている要因のひとつは教育熱心な母親の理解

将棋連盟はこの数年間、将棋の普及活動を全国的に展開し、とくに子どもへの普及に重点をおきました。その成果が次第に表れています。JT将棋日本シリーズの対局会場で開催される子ども大会の参加者は、10年前に比べて10倍に増えました。文部科学大臣杯、小学館・集英社杯、倉敷王将戦などの小学生大会も盛況です。将棋会館で行われる子ども教室は、応募者が定員を上回るほどの人気です。また、近年は女子が増えています。

私は、埼玉県さいたま市の公共団体が主催する子ども教室(毎年6月~7月の毎週土曜日)の監修を3年前から務めています。指導者(私のほかに野田沢彩乃女流1級、中村桃子女流1級、地元の普及指導員など)が充実しているうえに会費が安いので、いつも好評です。例年の参加者は約50人でしたが、今年は約100人と倍増しました。大震災や原発事故の影響でほかの教室の参加者はすべて減ったのに、将棋だけは増えたそうです。将棋は電気を使わないエコなゲームと、保護者に認識された理由もあったようです。

その将棋教室で見かける付き添いの保護者の約8割は母親です。話を聞いてみると、将棋は情操教育の面でとても良いと考えていました。将棋会館の道場で見かける保護者も、父親よりも母親のほうが目立ちます。将棋を指しているわが子を熱心に見ている母親の様子は、将棋が教育的に良いと認識しているように感じました。

子どもの将棋ファンが増えている要因のひとつは、教育熱心な母親の将棋への理解にあると思います。「モーニング」誌に連載中の将棋漫画『ひらけ駒!』にも、将棋に夢中になっている主人公の小学生《宝》をじっと見守る母親の姿と思いが描かれています。

5月31日に放送されたNHKの報道番組『クローズアップ現代』では、中国で関心が高まる日本の将棋、女流プロ棋戦に初参加した中国の少女、日本の子ども将棋ファンの増加、パソコンによる将棋レッスンなど、将棋界の新しい話題について紹介しました。

そのパソコンによる将棋レッスンの事業を始めたゲームソフトメーカーの女性担当者は、連盟の道場を初めて訪れたとき、子どもたちの生き生きとした姿を見て将棋の魅力を見直したそうです。将棋が始まると無言で集中する姿、形勢が苦しくてもゲームのようにリセットしない頑張り、将棋を通して自然に身につく礼儀、73歳の老人が5歳の子どもに負けて苦笑いするほほえましい光景、などです。なお近年のゲームソフト業界はヒット作が出ても何年かするとあきられ、今や街のゲームセンターは若い世代ではなく中高年の世代の溜まり場になっているそうです。

NHKの番組に出演した青野照市九段は、「将棋は答えのないゲームです。未知の局面や想定外の局面で、どう指すか考えることがポイントなんです。私はそれを《HOW力》(はう・りょく)と命名しました」と語りました。

将棋を指すことで、集中力が高まり、行儀が良くなり、ひいては勉強にも役立つ。そんな好循環によって、子どもの将棋ファンが増えていけば喜ばしいです。ただし、子どもたち全員が将棋をずっと愛好するとはかぎりません。

男子は受験、進学、就職、ほかの遊び、結婚、家庭の大黒柱、出世…。女子はファッション、ほかの趣味、仕事、恋愛、結婚、育児…。男女とも人生の様々なステップを歩んでいくうちに、大方の人はいつしか将棋から離れていくのが現実です。《S.H》さんのコメント(6月14日)にも同じような見方がありました。

しかし子ども時代に将棋を覚えておけば、ある時期に再開する(一例が親として子どもに将棋を教える)こともありえます。種をまいて地道に育てる、という普及を続けることがやはり大事です。

次回は、最終局までもつれ込んだ名人戦(羽生名人―森内九段)。

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2011年6月13日 (月)

NHK『クローズアップ現代』の番組が中国の張天天さんの将棋などを紹介

中国から参加した張張天さん

NHKの報道番組『クローズアップ現代』が5月31日の放送で、女流プロ棋戦に初めて参加した中国の少女の奮戦ぶり、日本の将棋への関心が高まる中国の様子、日本で増えている子どもの将棋ファン、パソコンによる将棋レッスンなど、将棋界の新しい話題について伝えました。司会者の国谷裕子アナウンサーは冒頭で、「大震災や原発事故の影響によって、多くの人たちが苦境に陥っている今の状況で、将棋は電気を使わないエコなゲームとして見直されています。苦しい形勢のときにどう立て直していくか、という点でも共通のものがあります」という内容の話をしました。

第1期「リコー杯女流王座戦」の1次予選が5月21日に都内で行われ、海外出場枠として中国の張天天(チャン・ティエンティエン)さんという12歳の少女が女流プロ棋戦に初めて参加しました。張さんの対戦相手は古河彩子女流二段。上の写真は、テレビで放送された対局光景(右が張、左が古河)。中央は中国・上海出身の奨励会員のツァン・シン6級(15歳)で、当日は通訳を務めました。

張さんは攻め将棋の棋風で、得意戦法は右四間飛車。相居飛車となった古河戦でも、右四間飛車・腰掛け銀という攻め味の強い戦法を用いました。ただ本格的な攻撃の前に桂頭を攻められ、無理攻めを誘われて駒損を重ねました。張さんは懸命に攻めてよく奮戦しましたが、古河に95手で完敗しました。張さんは「とても勉強になりました。攻めにいっても、前を前を読まれて押さえ込まれました。とくに角の使い方が印象に残りました。これからも将棋を続けていきます」と、局後に感想を語りました。

上海の許建東さんという方は約15年前から、日本の将棋を数多くの子どもたちに熱心に指導してきました。今では上海のほかに北京でも、授業の科目に将棋を取り入れた学校があります。そうした中から、昨年の奨励会入会試験で初めて合格したツァンくん、小学生大会で何度も優勝した張さんのような将棋の強い子どもたちが生まれています。

上海で日本の将棋が流行し始めた約15年前の中国は、現代のような経済発展はまだ途上段階でした。将棋を覚えることは、GNP(国内総生産)でアジア一の日本への憧れもあったと思います。しかし今は、将棋は学力を伸ばすことに役立つ知的ゲームと見られているようです。北京の学校で将棋を教える女性教師の方は、「生徒たちは将棋を始めてから、とくに数学の勉強ができるようになりました。将棋で考えることによって、勉強でも考えることが好きになったからです」と語りました。また、対局を始める際の「お願いします」、自分で負けを潔く認める「負けました」、勝者がそれに応じる「ありがとう」など、将棋で礼節を重んじることにも感心しているそうです。

スポーツの世界では、中国の選手たちの躍進ぶりがどの分野でも目覚ましいです。囲碁界は以前は日本が指導者的な立場でしたが、今は中国が(韓国も)日本を圧倒する強さを誇っています。では将棋界はどうなるのでしょうか…。何しろ人口が10億人以上の国なので、中国の「羽生善治」と呼ばれるような天才少年がいずれ出現するかもしれません。

NHKの番組は、日本で増えている子どもの将棋ファンのことも伝えました。一例が「JT将棋日本シリーズ」の対局会場で開催している子ども大会です。この10年間で参加者は10倍に増えました。昨年11月の大会(会場は東京体育館)には過去最多の2437人が参加しました。付き添いの保護者や関係者を含めると約6000人に達し、その光景はじつに壮観だったそうです。ほかにも文部科学大臣杯、小学館・集英社杯、倉敷王将戦などの小学生大会があり、いずれも盛況となっています。

次回も、NHKの番組で伝えられた将棋の魅力。

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2011年6月 9日 (木)

奨励会と女流棋士の重籍に関する過去の経緯と問題点

将棋連盟は5月下旬、「女流棋士が奨励会試験を受験して入会することは自由」「女性奨励会員が女流棋戦に出場することは自由」という内容の見解を発表しました。

連盟は、奨励会員と女流棋士を兼ねる「重籍」をこれまで禁止してきました。しかし里見香奈(女流三冠、奨励会1級)に重籍を特例で認めたことで、全面的に解禁する流れに至ったようです。女流棋士、女性奨励会員、女性アマなど、すべての女性に門戸を開いた「リコー杯女流王座戦」が創設されたことも影響したかもしれません。

奨励会と女流棋士の重籍の第1号は、女流棋界でかつて華々しく活躍して第一人者だった林葉直子さん(元女流棋士・五段)でした。林葉は1979年(昭和54年)の秋、小学6年・11歳で奨励会に6級で入会しました。師匠の米長邦雄(永世棋聖)は、林葉を大きく育てる方針から、女流棋界とは一線を画させました。林葉も20歳までに四段に昇段して、初の「女性棋士」となる決意で修業していました。

当時の女流棋界は発足から数年たち、順調に軌道に乗っているようでしたが、実力面や人気面でやや陰りが生じていました。棋戦も女流名人戦と女流王将戦だけでした。そんな状況で女流棋戦の主催紙は、林葉の才能と美貌に注目し、女流棋戦への参加を連盟に要望したのです。米長・林葉の師弟は、奨励会一筋の方針でした。しかし女流棋戦の存続が危ぶまれた事情もあって、連盟からの要請を受け入れることにしました。林葉は80年の末、女流2級として女流棋戦に参加しました。

林葉はその後、奨励会は成績不振で退会しました。女流棋戦は83年に二冠を獲得するなど、大いに活躍しました。林葉の強さと可憐なセーラー服姿は、マスコミにも注目されました。なお、林葉のライバルだった中井広恵(女流六段)は、女流棋士になった後に奨励会に入会しました。後年には、矢内理絵子(女流四段)、千葉涼子(女流四段)、竹部さゆり(女流三段)も、奨励会と女流棋士を掛け持ちしました。

女性奨励会員が女流棋戦に参加したことによって、女流棋界の実力は全体的にレベルアップし、人気も高まって棋戦が増えました。その一方で、「厳しい修業をする男性奨励会員を尻目に、女性奨励会員が華やかに脚光を浴びたり高額賞金を手にする」「6級の女性奨励会員が特別参加したプロ棋戦の対局で、その女性より上位者の男性奨励会員が記録係を務める」といった重籍による弊害や矛盾が生じるようになりました。そうした状況に疑問を抱いた棋士は、「結局は本人のために良くない」「男性奨励会員に悪影響を及ぼす」「奨励会の日程が女流棋戦の都合で左右される」などと批判しました。

1998年(平成10年)の連盟総会では、ある棋士が「奨励会と女流棋士の重籍は禁止すべきだ。不都合なことがいろいろとある」という主旨の動議を出しました。総会で副議長を務めた私は、当初の議案になかったので扱いに困りました。そこでほかの棋士に意見を求めると、「現状でいい」「女流棋士をあまり責めてはいけない」「重籍はおかしい」「今後は重籍は認めない」など、賛否両論が出ました。結局、ほかの議案と一緒に決議をとった結果、76票対62票の少ない票差で、今後は重籍を認めないことに決まりました。

それから13年後の今年、連盟理事会の決定によって重籍が認められました。

女流棋界で活躍している里見は、「自分の棋力をさらに磨く」ために奨励会に入会しました。ほかの3人の女性奨励会員(加藤桃子2級、伊藤沙恵2級、西山朋佳4級)は、どんな思いで女流棋戦に参加するのでしょうか…。奨励会以外の対局でも、一所懸命に指せば勉強になります。ただ「栄誉も営利も得られる」女流棋戦に比重をかけすぎると、奨励会のほうが疎かになる懸念があります。

奨励会と女流棋士に重籍する4人の女性の今後の戦いぶりと両立の仕方を、じっと見守りたいと思います。

次回は、NHKのテレビ番組が特集した子どもの将棋熱。

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2011年6月 6日 (月)

里見香奈女流三冠の奨励会編入試験に関するコメントとその後の経過

里見香奈女流三冠は5月に奨励会の1級編入試験を特例で受けました。そして3人の女性奨励会員(加藤桃子2級、伊藤沙恵2級、西山朋佳4級)との試験対局で2勝1敗の成績を収め、奨励会に1級で入会しました。今後は女流棋士としての活動を続けながら、関西奨励会に所属して初の「女性棋士」をめざします。

里見の奨励会編入試験について、4月29日のブログで賛否両論のコメントを紹介しました。その後も、関連するコメントが寄せられました。

「ルールの問題ですからね。男性奨励会員もかつては8連勝か12勝4敗でプロになれたわけで」というコメント(5月4日)は《popoo》さん。「奨励会試験が特例だから許せない、実力をつけてから男子と同等の立場で、などというのは、あまりにも小さい考えではないですか。古い慣習にこだわっていたら、将棋は衰退の一途をたどると思います。時代が里見香奈という存在を善しとしたのだと思います」という内容のコメント(同日)は《将棋太郎》さん。「奨励会での対局は5戦(試験対局を含む)して3勝2敗。勝率6割ですね。今後は7割5分程度の勝率を維持すれば、順当に昇進することでしょう。私は里見三冠を静かに暖かく応援していきたいと思っています」という内容のコメント(5月24日)は《シゲ》さん。

いずれのコメントも、里見が自身の意思で選んだ道に理解を示し、今後の戦いぶりを見守りたい、という思いが感じられます。たぶん大方の人も同じような思いではないでしょうか。今回の奨励会編入試験の方法に疑問を抱いた方がいますが、私は大した問題ではないと思います。奨励会に入会したことは、棋士への道の「スタート地点」に立ったにすぎません。実力と勝負運があれば、はるか先の「ゴール地点」である四段に昇段して棋士になれます。それが叶わなければ奨励会を退会する、ということなのです。自己推薦や一芸で大学に入り、後は普通に過ごして卒業するのとはまったく違います。

「女性奨励会員が女流棋戦への参加を希望した場合、奨励会で初段以上であることを条件に認めたらどうかと思います」というコメント(4月28日)は《オヤジ》さん。「里見さんに限らず、女流棋士と奨励会の掛け持ちを完全解禁したほうがよいと思います」というコメント(4月27日)は《スナック小島》さん。※以前にも紹介。

これらのコメントから1ヶ月後の5月27日。将棋連盟理事会(会長・米長邦雄永世棋聖)は、「女流棋士が奨励会試験を受験して入会することは自由」「女性奨励会員が女流棋戦に出場することは自由」という内容の見解を連盟ホームページに発表しました。

連盟は里見の奨励会入会が決まった後、3人の女性奨励会員が「リコー杯女流王座戦」のほかに「マイナビ女子オープン」への参加も認めました。そしてさらに、「奨励会と女流棋士の重籍」の完全解禁に踏み切ったのです。連盟はその補足説明として、「2年前の連盟総会で奨励会と女流棋士の重籍に関する件で担当理事より説明があり、理事会に一任することで承認された」という内容の議事録をホームページに記載しました。

私が保存してある2年前の総会での覚え書きを見ると、確かに理事会は「奨励会と女流棋士の重籍に関して、理事会に裁量を預けてほしい」と提案しました。その件について、ある棋士は「1998年(平成10年)に総会の決議で重籍の禁止を決めたことを、理事会の裁量とするのはおかしい」と反対意見を述べました。ただ同調する意見はあまりなく、結果的に理事会に任せることになりました。

2年前の総会では、理事選挙と公益法人問題が需要案件でした。私は正直なところ、理事会の前記の提案に唐突な印象を抱いたものです。もしかしたら里見の奨励会受験問題は、当時から水面下で検討されていたのかもしれません。

次回も、奨励会と女流棋士の重責問題。

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2011年6月 1日 (水)

日本将棋連盟が公益社団法人となった経過とコメントへの返事

日本将棋連盟は「社団法人」(所管・文部科学省)でしたが、内閣府が推し進めている公益法人制度改革によって、公益法人・一般法人どちらかへの移行の選択を迫られていました。

内閣府に公益法人と認定されるには、主な事業を公益目的にする、運営が公正で透明性がある、特定の人(連盟は棋士)に特別な利益を与えない、男女の差別をしない、などの要件があります。認定されると社会的な信用が高まり、税制面で優遇されます。ただし、国から委託された第三者機関に事業内容を厳しくチェックされます。運営面で重大な不正を犯して公益法人を取り消された場合、公益目的の財産は国に没収されます。

一般法人は登記だけで簡単に設立できます。自由な事業活動が可能ですが、税制面の優遇は限定されます。

連盟は「公益社団法人」への移行をめざしました。外部の識者に理事として運営に参加してもらう、棋士に支給した「給料」と「賞与」などを廃止する、一定の条件で女流棋士を正会員にするなど、認定を得るための制度に変えたのです。

連盟は昨年11月の臨時総会で、公益社団法人に移行する議案を提出しました。その席上に、公益法人問題に詳しい大内隆美さん(あるシンクタンクの政策スタッフ)という女性が参考人として出席しました。総会の場に女性が入ったのは、連盟職員以外に初めてでした。

大内さんは、連盟が公益法人になると社会的に承認され、税制面で優遇されると説明しました。連盟の主要財源である棋戦契約金は、引き続いて非課税の扱いとなります。会社や個人からの寄付も集めやすくなります。大内さんは「たとえば会長の米長さん(邦雄永世棋聖)が自宅を売って得たお金を連盟に寄付した場合、公的な控除を受けられます」と具体例をあげました。

連盟は臨時総会でその議案を正式に決定しました。後日に認定申請書を内閣府に提出し、今年の3月に公益社団法人と認定されました。

「公益社団法人への移行にともなった新報酬体系では、棋士の給料の固定額は減ったのですか。その分で賞金・対局料が上がると、勝ち続ける棋士が潤うような仕組みとなるのでしょうか」という内容のコメント(5月17日)は《よっしー》さん。

連盟が棋士に毎月支給した給料は、順位戦の在籍クラスを基準にした対局料と、ほかの棋戦の契約金から充当した手当の合算でした。前者は対局の報酬なので認められましたが、後者は身分への支給なので認められませんでした。新体系では、後者が各棋戦の参稼報償金と普及活動の報酬に替わりました。多くの棋士がやや減収となりましたが、勝者が恵まれる勝負の世界にふさわしい制度に変わったと思います。なお来週発売の『週刊将棋』の「丸の眼」という欄で、田丸がこの問題を詳しく記述します。

「連盟が公益社団法人への移行に向けて、女流棋士を正会員にさせるとのことです(現時点でタイトル経験者、四段以上など10人)。その中に中井広恵(女流六段)、蛸島彰子(女流五段)の名前が見当たりません。どんな理由があるのでしょうか」という内容のコメント(3月9日)は《神山修》さん。

数年前に女流棋士の独立問題が起きました。その結果、連盟に残った棋士、連盟を離れて新設された「日本女子プロ将棋協会」(LPSA)に所属した棋士と、女流棋界は2団体に分かれました。今回の公益法人問題で生じた女流棋士の処遇は、あくまでも連盟内のことでした。別の団体にいる中井六段、蛸島五段が対象外だったのは妥当だと思います。じつは、私が聞いたその件に関連しそうな話では、連盟の理事がLPSAの女流棋士に対して連盟への復帰を内々に打診したところ、だれも承諾しなかったそうです。

次回(来週)は、女流棋士と奨励会の重籍問題。

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2011年5月28日 (土)

公益社団法人になった日本将棋連盟が初めての総会を5月26日に開催

日本将棋連盟の総会

今年の4月1日付けで「公益社団法人」になった日本将棋連盟が、初めての通常総会を5月26日に開催しました。正会員・218人のうち、出席者は203人(32通の委任状を含む)。会場は東京の将棋会館に隣接する「けんぽプラザ」3階の集会室。

連盟会長の米長邦雄永世棋聖は冒頭で、「私たち棋士にとって重要なことは、将棋を高める(技術の研鑽)こと、将棋を広める(普及)ことです。とくにエコが叫ばれている今の日本では、電気を使わない将棋はまさにふさわしい娯楽です」などと挨拶しました。

次いで会長による議長指名の後、恒例の「新会員紹介」に移りました。今年は、前年度に四段に昇段した棋士(佐々木勇気四段、門倉啓太四段など4人)のほかに、公益社団法人への移行にともなって10人の女流棋士が連盟の正会員(タイトル経験者と四段以上が有資格者)となりました。その女流棋士たちは、里見香奈女流三冠、甲斐智美女流王位、上田初美女王、清水市代六段、関根紀代子五段、谷川治恵五段、長沢千和子四段、斎田晴子四段、矢内理絵子四段、千葉涼子四段。

最前列の近くにずらりと並んだ新四段と女流棋士(里見と千葉は欠席)は、先輩棋士たちを目前にして晴れがましい表情でした。例年は各棋士が簡単に自己紹介しますが、今年は人数が多いので行われませんでした。

新会員紹介が終わって報道陣が退室すると、本格的な議事に入りました。会長と理事たちが各部報告を述べ、それらについて質疑応答をしました。私たち棋士にとって最大の関心事は、棋戦を主催する新聞社の経営状況が景気の悪化によって苦しいことでした。それは連盟との契約金にも影響を及ぼします。今年や来年という話ではありませんが、将来的には連盟の財政に響く事態が懸念されています。

今年は2年に1度の理事改選がありました。例年は総会当日の選挙で理事を決めましたが、新法人となって制度が変わりました。4月に行われた「予備選挙」で6人の理事(棋士)を選び、「信任選挙」で連盟事務局が推薦した7人の理事(外部の人、棋士、連盟職員)を満場一致で選びました。そして5月の総会で、全員の理事選出が改めて承認されました。

予備選挙による新理事は、米長永世棋聖、谷川浩司九段、田中寅彦九段、中川大輔八段、東和男七段、北島忠雄六段。谷川は新任で、ほかは再任。

信任選挙による新理事は、杉田亮毅さん(日本経済新聞社会長)、川淵三郎さん(日本サッカー協会名誉会長)、小林千寿さん(日本棋院常務理事)、渥美雅之さん(棋道師範)、長島俊之さん(連盟経理部長)、島朗九段、谷川女流五段。新聞社首脳、スポーツや囲碁の団体幹部、将棋ファン代表、連盟職員、男女の棋士など、様々な分野の人たちでした。

そして13人の理事の互選によって、米長永世棋聖が連盟会長に就任しました。谷川九段は専務理事になりました。予備選挙のほかの理事4人と職員の長島も「常勤理事」になりました。それ以外の6人は「非常勤理事」として、理事会を補佐していきます。

上の写真は、前列の左から谷川、米長、川淵、小林、谷川女流。

川淵さんが挨拶で「将棋は大好きで、いつもテレビで対局を見ています。ただ名人戦が4局で終わってはつまらない。せめて2勝しなくては…」と羽生善治名人に向かって話すと、場内は大爆笑になりました。

谷川女流が挨拶で「正会員として総会に出席させていただき、全女流棋士を代表して感謝いたします。迫力ある応酬(ある問題でもめた件)にはとても驚きました。どうか仲良くしてほしいです…」と話すと、やはり場内は大爆笑になりました。

連盟が公益社団法人として初めて開催した総会は、こうした明るい雰囲気で無事に終了しました。

次回は、公益社団法人の問題について。

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2011年5月24日 (火)

新宿の酒場で遭遇、新聞社の嘱託の棋士、順位戦で師弟戦のコメントへの返事

「田丸八段と初めて会ったのは30年くらい前の3月、新宿・歌舞伎町の酒場でした。何やら紙を広げて、うまそうにグラスをあけていました。テレビの将棋番組でお顔を存じていたので、思い切って声をかけました。その日はB級1組順位戦の残留をかけた対局に勝って、1人で祝杯をあげていること、紙は順位戦の星取表であることなど、一見の将棋ファンの私に気さくに話してくれました。それ以来、共通の趣味のテニスが縁となって、いまだにお付き合いが続いています。田丸八段と会わなかったら、こんなに将棋ファンにはなっていなかったでしょう。田丸八段が5月5日のブログで語った自然体の余生については、しっかりと看取らせていただきます。戒名は『唱球院獅攻昇龍居士』と考えてみました」という内容のコメント(5月7日)は《K島》さん。

私は対局が終わると、いつもお酒を飲みます。今し方の勝負でついた匂いを、お酒で洗い落とすのです。飲む場所は新宿などの盛り場か自宅近くの居酒屋。終局時間が早くて親しい人がいれば一緒に飲みに行くこともありますが、たいがい1人で飲みます。そして勝てば「祝い酒」、負ければ「やけ酒」となります。勝ったときは棋譜用紙(雑誌の順位戦星取表も)を見ながら戦いを振り返ると、勝利の余韻にひたれて美酒を味わえます。負けたときは悪手や敗因の手が思い起こされて、お酒がおいしくありません。そんなときは無理しても食べることにします。人間は腹を満たすと現実を忘れます。そうすれば負けを引きずることもなく、明日には元気を取り戻せます。長い勝負の生活で得た知恵なんです。

新宿の酒場で遭遇して親しくなった《K島》さんが考えた『唱球院獅攻昇龍居士』という私の戒名は、唱はカラオケ、球はテニス、獅はニックネームの「ライオン丸」、攻は将棋の棋風、昇龍は私の扇子の言葉「昇竜飛天」などから付けたそうで、なかなか似合っています。ただ近年はカラオケにあまり行きません。普段はブログなどの文章を書くことが多いので、唱は「書」に替えたいですね。

「ある棋士が○○新聞の嘱託という話を何度か聞きましたが、どういった関係なんでしょうか。現在でもいるんでしょうか」というコメント(3月27日)は《popoo》さん。

明治・大正の時代の将棋界は、現代の将棋連盟のような統一団体がありませんでした。それぞれの一門のボスに当たる棋士が新聞社の将棋欄を取り仕切り、弟子同士の対局を行わせたり、独自の昇段制度を決めたり、観戦記の解説を担当したそうです。大正から昭和の時代になると、統一団体が発足して一門同士の交流が盛んになりました。それでも各新聞社には、有力棋士が「嘱託」として残りました。

戦後になると、毎日新聞社は大山康晴(十五世名人)、朝日新聞社は升田幸三(実力制第四代名人)、読売新聞社は塚田正夫(実力制第二代名人)など、新世代の有力棋士を嘱託に迎え入れました。棋士が新聞社の嘱託になっても、社内で働くわけではなく、観戦記の解説もしません。いわば戦前の慣例の名残でした。新聞社としては、有力棋士を抱き込むことによって、連盟との棋戦契約を円滑に運びたい、との思惑があったのかもしれません。なお、戦後まもないころに名人戦の契約が毎日から朝日に移ったときは、升田が暗躍したという噂でした。現在は、新聞社の嘱託を務める棋士はいないと思います。

「B級2組以下の順位戦で、師弟の対戦が不可となった規定はいつごろからですか」というコメント(4月23日)は《kumaa》さん。

私は1977年(昭和52年)度のC級1組順位戦で、師匠の佐瀬勇次(名誉九段)と対戦しました。同年度のB級2組順位戦でも、原田泰夫(九段)―桜井昇(九段)戦の師弟戦がありました。それ以降は師弟戦が見当たらないので、B級2組以下の順位戦で師弟戦が廃止されたのは78年度からのようです。

次回は、5月26日の将棋連盟総会の模様。

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2011年5月13日 (金)

作家・団鬼六さんと田丸が12年前に週刊誌の企画で平手戦の対局

団鬼六さんと田丸が平手戦の対局

作家・団鬼六さんは1990年(平成2年)、『将棋ジャーナル』という将棋雑誌の経営を事情があって引き継ぎました。自ら斬新な企画を立て、活気に満ちた誌面に変えました。ただ売り上げはあまり伸びず、経営は次第に苦しくなっていきました。そして92年に休刊に追い込まれ、大きな借財を抱えた団さんは横浜の豪邸を手放しました。お金に困っていた当時、「今は牛丼店で牛皿を肴にお酒を飲むのが楽しみ」と随筆に書いたものです。

89年に断筆宣言した団さんは、借金返済の事情もあって95年に作家として復活しました。そして、伝説的な真剣師で団さんとも深い交流があった故・小池重明さん(元アマ名人)の壮絶な人生を綴った『真剣師 小池重明』が、社会的にも注目されて大いに売れました。その後、団さんに作品の依頼が相次ぎました。

私は以前に『週刊宝石』という週刊誌で、将棋界の裏話を題材にした随筆を連載していました。その週刊誌で小説を書いていた団さんが、「田丸さんはあれこれ書いているが、将棋の腕前はどれほどのものや」と、私に対して平手戦の対局の挑戦状を突きつけたのです。12年前のことでした。私は35年前に団さんと知り合いましたが、将棋を指したことはありませんでした。いい機会と思って了承し、週刊誌の企画として対局することになりました。上の写真は、対決ムードにあおった誌面です。

アマ四段の棋力を持つ強豪の団さんは、「もし田丸さんが僕に負けたら、プロ棋士の看板を返上してもらわねば…」と、対局前に挑発的な言葉を発しました。もちろんプロの私が平手で負けるはずがありません。団さんはその前年に脳梗塞を患い、将棋の実戦から遠ざかっていると聞きました。そこで、まず練習将棋を指しました。案の定、団さんの将棋はひどい内容でした。しかし何局か指すと、ようやく本来の調子が出てきました。

本番の対局の戦型は団さんの急戦向かい飛車で、序盤で早くも飛車交換して激戦になりました。私が一方的に勝っては週刊誌の企画として面白くありません。接戦になるように手加減して指しましたが、その調節の仕方に狂いが生じ、終盤では負け筋になってしまいました。受けなしに追い込まれた私が王手をかけて迫ると、団さんは王手の応手を誤ってトン死を喫し、私が何とか逆転勝ちしました。

団さんが私に平手戦の対局の挑戦状を突きつけたのは、執筆に追われて以前のように将棋を指す時間がなかったからで、久しぶりに緊張感のある将棋を指して満足そうでした。私たちは対局後、関係者と一緒にお酒を飲んで楽しいひとときを過ごしました。

団さんは9年前に新宿の大型キャバレーを借り切ってパーティーを開きました。文芸、映画、将棋などの分野の知人らが出席してにぎやかでした。団さんは『真剣師 小池重明』の映画化を望んでいて、予定している監督と俳優が紹介されました(主演は小池役の遠藤憲一さん)。ただ資金面の事情があったのか、今日まで実現していません。

団さんは近年、病気が重くなって入退院を繰り返していました。しかし新作の執筆に意欲を燃やしていました。4月10日には屋形船を借り切って浅草まで隅田川を上り、家族や親しい人たちと花見を楽しんだそうです。結果的にそれが最後のお別れとなり、5月6日に79歳で亡くなりました。団さんのご冥福をお祈りいたします。

天国には、指導将棋を受けて個人的にも親しかった大山康晴(十五世名人)、升田幸三(実力制第四代名人)、好敵手だった俳優の石立鉄男さん、あの小池重明さんらがいます。団さんは心おきなく将棋を楽しめることでしょう。それから、夫人公認の47歳年下の愛人でなぜか9年前に自殺した「さくら」さんにも会えるはずです…。

団鬼六さんの葬儀は東京・芝公園「増上寺」で行われます(通夜は5月15日午後6時から、告別式は16日午前11時から)。

次回は、田丸が立会人を務めたマイナビ女子オープン第3局。

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2011年5月 8日 (日)

将棋をこよなく愛した作家・団鬼六さんが79 歳で死去

作家・団鬼六さんが79<br />
 歳で死去

作家・団鬼六さんが5月6日、胸部食道ガンによって79歳で死去しました。

団さんは将棋をこよなく愛した方で、棋士・女流棋士・奨励会員・強豪アマ・将棋好きの芸能人など、将棋を通して多くの人たちと交流しました。私も個人的な思い出が少しあります。自宅の将棋盤の前で微笑している写真は、約20年前に将棋雑誌に載りました。

団さんは1931年(昭和6年)、滋賀県彦根市の生まれ。関西学院大学法学部を卒業後、57年に文藝春秋オール読物新人杯で『親子丼』が入選し、執筆活動に入りました。井原西鶴に傾倒した影響で、当初は文芸作品を手がけました。60年代以降は倒錯した性を描いた特異な官能小説を精力的に書き、『花と蛇』『夕顔夫人』などが人気作となって、それまで未開拓だった「SM小説」の世界の第一人者となりました。執筆活動のかたわら、酒場マスター、英語教員、テレビドラマ脚本家、成人映画の制作プロダクション経営など、様々な職業を経験したり副業に関わったこともありました。

なお団鬼六(だん・おにろく)の筆名は、「団」は東宝女優・団令子のファン、「鬼」は鬼の気分で書く、「六」は昭和6年生まれ、という由来だそうです。

団さんは中学生のころに将棋を覚え、社会人時代は都内の将棋クラブに通って腕を磨きました。やがて若手棋士の指導を受けて三、四段の棋力となり、週刊誌が企画した「著名人将棋大会」ではいつも優勝候補でした。

私が団さんと知り合ったのは、五段時代の1976年(昭和51年)でした。東京・目黒の将棋クラブで定期的に指導していた当時、近所に住んでいた団さんはたまに顔を見せました。ある日、帰りがけにお酒を飲みに誘われ、初めて親しく言葉を交わしました。関西弁で気さくに談笑する団さんは、SM小説という特異な分野の作家には見えませんでした。20代の若い私を棋士ということで立ててくれる、良き将棋ファンでした。ただ作家との交遊談で「川上宗薫からある女の調教を頼まれてしまってね…」と語ったときは、私生活も小説どおりなのかと、私はびっくりしたものです。

団さんは1990年(平成2年)、『将棋ジャーナル』誌の経営を事情があって引き継ぐことになりました。この雑誌は日本アマチュア将棋連盟の機関誌で、アマ棋界のカリスマ的存在だった関則可さん(元アマ名人)が70年代後半に創刊しました。アマ棋界の情報を満載し、プロ棋界に対抗する編集方針と記事に特徴がありました。

団さんはユニークな企画を立てたり、自身の人脈で芸能人・作家・力士なども登場させ、将棋ジャーナル誌を華やかで活気に満ちた誌面に変えました。80年代前半に寸借詐欺によって将棋界から離れていた伝説的な真剣師として知られた故・小池重明さん(元アマ名人)は、団さんに誘われて対局企画で復帰し、往年の強さを発揮する将棋を指しました。

編集部があった横浜の団さんの自宅には、プロ・アマの区別なく様々な人たちが訪れ、夜には自宅か横浜の行きつけの酒場でいつも一緒に飲みました。そんな光景が毎号のように載ったので、「あの雑誌は『宴会ジャーナル』かい」と皮肉を言う人もいました。

団さんはとくに奨励会員たちに目をかけました。彼らが自宅に来ると、上手が勝った場合のみ指導料を払う「片懸賞」の将棋を指しました。彼らにハングリー精神を持たせる親心でした。手合いは松(飛車落ち)・竹(角落ち)・梅(香落ち)の3コースで、いつも金欠だった彼らは懸賞金が高い「松」を希望したそうです。

90年代前半に連盟の出版担当理事を務めていた私は、湯水のように経費を使う団さんのやり方について、経営がさぞ大変だろうと心配していました。それは現実のものとなり、将棋ジャーナル誌は92年12月号を最後に休刊に追い込まれました。団さんは大きな借財を背負ってしまい、横浜の豪邸も手放すことになったのです。

次回も、団鬼六さんの思い出について。

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2011年4月19日 (火)

順位戦のシステム、米長の著書、ファクシミリの利用などのコメントへの返事

「順位戦で頭ハネ(同成績の場合は順位上位者を優先)の原則は素晴らしいことです。これがあるから、消化試合が発生しにくくなっています。順位戦のシステムでは、ほかにどんなルールがあるのでしょうか」という内容のコメント(2月21日)は《三河》さん。

順位戦での対戦相手・順番・先後などは、公正な抽選によって決められます。その方法は、以前は「札」を用いた手作業でした。現代はコンピューターで処理されます。ただ種々の条件をインプットするので、立ち会った関係者が札を引いて決めて微調整します。

その種々の条件の中で、とくに重視されるのが師弟、兄弟弟子、肉親同士の関係の対戦です。総当たり制のA級・B級1組では、初戦と最終3戦には当たりません。抽選で対戦相手が決まるB級2組以下では、対戦そのものがありません。前記のような深い関係の棋士同士が対戦したからといって、別に情実めいたことが生じるわけではありません。しかし昇降級に関わる終盤で対戦した場合、当事者も第三者も何となく味が悪いものです。

ほかには次のようなルールがあります。初戦と2戦目、最終戦とその直前の対局は、先手・後手を1回ずつとする。前期最終戦と今期初戦は、同一カードにしない。同一リーグに3期連続で参加した場合、過去2期に対戦がない場合は3期目に当たり、過去2期に連続で対戦した場合は3期目に当たらない(B級2組とC級1組)。前期に対戦した場合は今期に当たらない(C級2組)。いずれも、抽選による偶然の不公平をなくすためです。

昔は師弟、兄弟弟子、肉親同士の関係でも、順位戦で対戦したり、順位戦の最終戦で当たることがありました。

私は五段・C級1組時代の1978年(昭和53年)、師匠の佐瀬勇次(名誉九段)と順位戦で対戦しました。師匠も私も指しにくい気分でしたが、対局に没頭するうちにそれはお互いに忘れ、終局が深夜の12時すぎとなる大熱戦を繰り広げました(結果は田丸勝ち)。

1970年(昭和45年)のB級1組順位戦の最終戦では、高柳一門の兄弟弟子の芹沢博文(九段)と中原誠(十六世名人)が対戦しました。その一戦は勝者がA級に昇級する可能性がありました(4月11日のブログを参照)。しかし一方が昇降級に関係ない立場だったとしたら、当事者も第三者も味が悪かったと思います。

「米長邦雄(永世棋聖)の『人間における勝負の研究』を読み、勝負の世界の厳しさを痛感しました」というコメント(4月9日)は《てんなん》さん。

「相手にとって重要な対局こそ全力で戦え」という「米長哲学」について、私は3回連続でブログのテーマとしました。その記事は、主に前記の米長の著書から引用したものです。米長の独自の勝負哲学や面白いエピソードがふんだんに盛り込まれた名著で、1982年(昭和57年)に祥伝社から刊行されてかなり売れたそうです。

「将棋連盟がファクシミリを利用するようになったのはいつごろですか」というコメント(4月11日)は《オヤジ》さん。

ファクシミリは1880年代にドイツで発明され、日本には戦前の1920年代に入ってきたそうです。一般社会で実用化されたのは1980年代半ばで、連盟もそのころから利用していると思います。遠隔地にいても、瞬時に棋譜用紙を送受信できるのはとても便利です。ただ41年前の芹沢―中原戦のように、大阪の対局結果の確認手段が電話しかなく、東京の中原がA級昇級をすぐ実感できなかったエピソードは時代的な情緒を感じますね(4月11日のブログを参照)。

次回は、奨励会入会から初の「棋士」をめざす里見香奈女流三冠。

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2011年4月 8日 (金)

羽生善治名人がある団体への講演で語った「米長哲学」の勝負観

相撲界の「八百長」問題が発覚した2月上旬。羽生善治(名人)がある団体への講演で、自身の人生観や勝負観について語りました。その講演を聴いたAさんのブログによれば、羽生は旬の話題である相撲界の八百長問題から話を始めました。そして「自分にとって重要ではないけれど、相手にとって重要な対局こそ全力で戦え」という言葉で知られる、米長邦雄(永世棋聖)が現役時代に提唱していた「米長哲学」を引用したのです。

そのAさんは以前は相撲ファンでした。お金がからむ八百長はだめだけれど、角番の大関や幕下に落ちそうな十両が結果的に助かるいわゆる「人情相撲」には、ドラマの『遠山の金さん』『水戸黄門』の結末みたいな予定調和の世界として肯定的だったそうです。しかし羽生が語ったことは、人情相撲も否定するものでした。

羽生は、「米長さんは20代のとき、B級1組順位戦の最終戦で、自分に勝てばA級に昇級するベテラン棋士と対戦しました。自分は消化試合の対局でしたが、粘りに粘って勝ちました。米長さんのその後の棋士人生にとって、それが非常に重要な対局になったそうです。どんな対局であれ、いちど手を抜くと癖になってしまいます。情にほだされず、勝負師としての有り様を示すことが、相手への尊敬であり、将棋を見てくれる人への尊敬だと思います」という内容のことを語ったそうです。

なお、Aさんのブログのコメント欄には、ある外国人教授が書いた「自分の人生のルールを100%守ることよりも、98%守ることのほうがはるかに難しい。一部の例外を許すことで、次の例外が生まれてしまう」という記事が紹介されています。羽生の言葉も、外国人教授の言葉も、根本の精神はまったく同じだと思います。

41年前の1970年(昭和45年)3月。B級1組順位戦の最終戦で、大野源一(九段。当時八段・58歳)と米長(当時七段・26歳)が対戦しました。大野は「振り飛車名人」と謳われた名棋士で、A級に通算16期も在籍しました。9勝3敗の大野は米長に勝てば、5年ぶりにA級に昇級できます。7勝5敗の米長は、昇級の目はすでにありません。

米長は大野との対局において、全力で戦いました。将棋は大野優勢の局面がずっと続きましたが、米長は懸命に粘り、最後に大野が勝ち筋を逃して、米長が逆転勝ちしました。

米長にとって、この大野との対局の経験が「米長哲学」の原点になったのです。その後、米長はリーグ戦やA級順位戦の最終戦で、対戦相手の挑戦権を阻止したり、陥落させたことが何度もありました。米長が実践してきた自身の勝負哲学は、やがて後輩棋士たちにも良い影響を与えるようになりました。順位戦の最終戦で、昇降級に関わる棋士とそうでない棋士が対戦した場合、勝負に情実が生じるようなことはほとんどありません。

ただ米長は大野との対局に際して、必ずしも勝負に徹する心境だったわけではありません。米長の著書によれば、「できれば人柄のよい大野大先輩にうまく指されて、負かされればいいなぁ」ということを、ちらっと思ったそうです…。

次回は、「米長哲学」の原点となった41年前のB級1組順位戦の最終戦と、それにまつわる盤上ドラマの模様。

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2011年4月 4日 (月)

日本将棋連盟は本年の4月1日付で「公益社団法人」となりました

社団法人・日本将棋連盟は、内閣府から「公益社団法人」と認定され、本年の4月1日付で公益社団法人への移行登記をして、新たなスタートを切りました。連盟会長の米長邦雄(永世棋聖)は、「日本将棋連盟は将棋にお仕えする団体であることを関係者一同が確認し、対局と普及活動に努めることを全員で誓います」とのコメントを発表しました。

内閣府の主導によって、2008年から「公益法人制度改革」が実施されています。すべての財団法人・社団法人(全国で計24000法人)は、2013年11月までに「新公益法人」か「一般法人」への移行を選択して、内閣府に申請する必要があります。

将棋連盟は昨年の11月、公益社団法人に移行するための認定申請書を内閣府に提出しました。認定を受ければ、公益性が高い団体として税制面で優遇されます。連盟に寄付をした団体・個人も税制面で優遇されます。ただし公益社団法人と認定されるには、いくつかの厳しい条件があります。主たる事業を公益目的にする、運営面が公平で透明性がある、特定の人(連盟の場合は棋士)が特別な利益を受けない、などです。そのほかに、相撲界で問題になっている「八百長」などの不正行為も決してあってはならないことです。

連盟は内閣府に申請するにあたり、様々な改革案を決定しました。各界の識者など外部の人を理事にする、タイトル経験者・四段以上の女流棋士を正会員にする(現時点で9人)、棋士の待遇を抜本的に改めてその差額を基金にして普及活動に充てる、などです。かなり思い切った改革案でした。とくに私たち棋士にとっては、待遇面で減収や負担増がともないました。これに至る経過や詳しい話は、ブログのテーマとして改めてお伝えします。

連盟は東日本大震災で被災した人たちを支援するために、3000万円の義援金を日本赤十字社を通じて寄付することにしました。そのほかに、棋士たちの義援金も寄付されます。さらに連盟は4月3日から9日までの1週間を「東日本大震災チャリティー週間」とし、タイトル保持者らの棋士が率先して各地でチャリティーイベント、街頭募金などの活動を行います。お近くの方や時間があって行ける方は、ぜひご協力のほどをお願いします。

4月3日には、大阪の関西将棋会館でチャリティーイベントが行われ、久保利明二冠、谷川浩司九段、里見香奈女流三冠らが参加しました。

4月5日には、東京・渋谷駅南改札西口で街頭募金(8時~9時)が行われ、羽生善治名人、広瀬章人王位、森内俊之九段らが参加します。千駄ヶ谷駅の周辺でも街頭募金(11時50分~12時50分)が行われ、渡辺明竜王、佐藤康光九段らが参加します。また同日には、東京の将棋会館でチャリティーイベント(10時~17時)が行われます。

4月7日・8日(木・金)には、第69期名人戦(羽生名人―森内九段)第1局の現地大盤解説会が東京・目白「椿山荘」で行われ、入場料(1日券・2000円、2日券・3000円)は義援金として寄付されます。

4月9日(土)には、東京・新宿駅東口交番前広場で街頭募金(12時~16時)が行われ、女流棋士会長の関根紀代子女流五段、矢内理絵子女流四段、斎田晴子女流四段らが参加します。

次回は、羽生名人がある講演でテーマにした「米長哲学」。

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2011年3月25日 (金)

名人戦の契約をめぐる大新聞社の葛藤と升田、大山の影響

名人戦は毎日新聞社と朝日新聞社の共催で行われています。新聞に掲載される名人戦7番勝負やA級順位戦の対局では、観戦記者・解説者・担当記者が両紙で違い、それぞれに紙面を工夫しています。最も伝統があって将棋ファンに人気が高い名人戦・順位戦を、毎日と朝日の大新聞社が協力して盛り上げているわけです。しかし、この形態に至った経緯はかなり複雑でした。5年前に将棋連盟と毎日、朝日の3者間で名人戦の契約をめぐって紛糾したとき、連盟が事態を収拾する手立てとして名人戦共催を提案し、それが初めて実現したのです。また、以前にも名人戦の契約をめぐって、毎日と朝日には葛藤がありました。

名人戦は戦前の1935年(昭和10年)に創設され、毎日(当時・東京日日新聞社)が主催しました。戦後の46年(昭和21年)からは、実力主義の「順位戦」制度が始まりました(戦前は段位主体の制度)。新時代にふさわしい順位戦制度によって、新世代の塚田正夫(実力制第二代名人)、升田幸三(実力制第四代名人)、大山康晴(十五世名人)らが台頭し、第一人者だった名人の木村義雄(十四世名人)と名勝負を繰り広げました。

こうして将棋界は復興しましたが、戦後の混乱期の連盟は運営が苦しい状況でした。そこで連盟は49年(昭和24年)、名人戦主催紙の毎日に対して契約金の大幅増額を要求しました。ただ当時は新聞社も運営が苦しく、毎日との交渉は進展しませんでした。そして交渉はついに不成立となりました。その後、朝日が連盟の希望額を受け入れ、朝日が名人戦を主催することになりました。じつは、朝日の「嘱託」だった升田が裏で働きかけたようです。昔は大棋士が新聞社の嘱託になることがありました。升田は朝日、大山は毎日の嘱託で、微妙な影響を及ぼしていました。

その後、連盟と毎日の関係は1年ほど没交渉でした。やがて両者が歩み寄って「王将戦」が創設され、毎日は「3番手直り指し込み」制度を要望しました。これは一方が3連勝か4勝1敗で3番勝ち越すと、タイトル獲得と同時に次の対局が香落ちの手合いに変わる、かなり過激な制度でした。しかし毎日との関係を修復したい連盟は受け入れました。当時・名人の木村は王将戦創設の推進役を務めました。指し込みの危険については、第一人者の自負で考えもしなかったのでしょう。しかし、それがすぐ現実のものとなったのです。

52年(昭和27年)の第1期王将戦で、保持者の木村は挑戦者の升田に1勝4敗で敗れて王将を失いました。さらに第6局で、木村は香を落とされて対局する事態に追い込まれました。一方の升田は、名人に対して香落ちで指すことは少年時代からの夢でした。しかし朝日の嘱託の立場として、毎日の棋戦で前代未聞の歴史的な対局をすることに複雑な心境でした。そんな思いを引きずって出向いた第6局の対局場の旅館で、ちょっとしたことが引き金になって対局拒否に至った「陣屋事件」が起きたのです。

1970年代になると、名人戦の契約金をめぐって連盟と朝日の交渉がよくもつれました。そして1976年(昭和51年)には、連盟の要求額と朝日の回答額が折り合わず、名人戦の契約は不成立となりました。その後、名人戦は朝日から毎日に移りましたが、時の連盟首脳が大山でした。このように名人戦の主催紙が移ったとき、升田、大山がキーマンとなったようです。

次回は、コメントへの返事。

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2011年3月 1日 (火)

作家・山口瞳邸での「優雅な将棋会」と芥川賞・直木賞受賞者の将棋愛好家

山口瞳邸での優雅な将棋会

歴代の芥川賞・直木賞の受賞者の中には、将棋を愛好したり、観戦記を書いたり、棋士と交友したり、将棋を題材にした作品があったりと、将棋や棋士と何らかの関わりがあった作家が意外と多くいました。その人たちを受賞順に列記します。

芥川賞では、尾崎一雄、火野葦平、井上靖、五味康祐、松本清張、遠藤周作、北杜夫、三浦哲郎、三木卓、青野聰、奥泉光、保坂和志、松浦寿輝、伊藤たかみ、朝吹真理子など。

直木賞では、井伏鱒二、柴田錬三郎、有馬頼義、池波正太郎、伊藤桂一、山口瞳、三好徹、渡辺淳一、豊田穣、井上ひさし、色川武大、志茂田景樹、林真理子、森田誠吾、逢坂剛、常盤新平、泡坂妻夫、伊集院静、大沢在昌、佐藤雅美、中村彰彦、宮部みゆき、なかにし礼、船戸与一、藤田宜永、佐々木譲など。

これらの作家の中で、私が実際に将棋を指したことがあるのは、奥泉光、山口瞳、渡辺淳一、逢坂剛、中村彰彦らで、いずれも有段の実力がありました。とくに思い出深いのが、将棋と棋士をこよなく愛した故・山口瞳さんでした。

山口瞳さんは1970年代前半、ある文芸誌が企画した『血涙十番勝負』で一流棋士、新鋭棋士ら20人と駒落ち将棋(手合いは飛車落ち・角落ち)を指し続け、プロ棋士相手に奮戦した様が読者の共感を呼びました。瞳さんはその自戦記で、将棋の素晴らしさと棋士の魅力を軽妙洒脱な名文で綴り、「将棋は男の芸事」だと提唱しました。そんな瞳さんの影響もあってか、当時は新しい将棋ファンが増えたものでした。

瞳さんは東京・国立の自宅で将棋会をよく開き、人気棋士を招いたり、ある棋士から定期的に指導を受けていました。たまに若手棋士や奨励会員にも声をかけました。将棋を指すのも話をするのも、若者たちとのほうが楽しかったようでした。

上の写真は、1974年(昭和49年)4月の将棋会の光景。右から山口瞳さん、私こと田丸昇八段(当時五段・23歳)、沼春雄六段(同三段・25歳)、青野照市九段(同四段・21歳)。相手は瞳さんの将棋仲間たちでした。その日は文芸誌の取材があるというので、私は和服に身を包み、撮影時にちょっとポーズをとりました。写真のように、瞳さんはカヤ盤・ツゲ駒、クワ駒台と最高級の材質の盤駒を揃え、脇息・チリ箱まで用意しました。プロ棋戦の対局とほとんど変わらない設定でした。

瞳さんの将棋仲間は、大橋巨泉(タレント)、安部徹郎(脚本家)、赤木駿介(競馬評論家)、近在の将棋ファンらで、瞳さん自ら「山口組」(もちろんあの団体ではありません)と称しました。そのほかに将棋は指しませんが、伊丹十三(映画監督)、滝田ゆう(漫画家)らの姿をたまに見かけました。

将棋が終わって夕食の時間になると、私たちは治子夫人の心尽くしの手料理に舌鼓を打ちました。そしてお酒がほどよく回ってくると、将棋界のよもやま話、文壇や芸能界の噂話など、話題はどんどん広がっていきました。このように山口邸での将棋会は、談論風発のサロンの趣があり、まさに「江分利満氏の優雅な将棋会」でもありました。

次回は、明日・3月2日の今期A期順位戦最終戦の模様。

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2011年2月25日 (金)

菊池寛、井伏鱒二が主宰した昭和時代の「文壇将棋」と将棋を愛好した作家たち

大正時代に「文藝春秋」社を創業した作家の菊池寛は、熱心な将棋愛好家でした。孤独な日々を送っていた大学時代に寂しさを紛らわしてくれたのが将棋で、それ以来、将棋にすっかり引かれました。作家として自立して文壇の大御所になってからも、将棋熱はますます高まっていきました。社長室には立派な盤がでんと置かれ、将棋好きの来客があると、どんなに多忙でもまず1局と指しました。菊池は社員にも将棋を奨励し、勤務時間内での将棋を許可したそうです。菊池の影響を受けて、周囲の作家や編集者はこぞって将棋を指し、将棋を知らない編集者は菊池から原稿をもらえないこともありました。そんな菊池が好んだ言葉は「人生は一番勝負なり、指し直し能わず」でした。

昭和時代初期のある週刊誌には「文壇将棋天狗番付」というコラムがあり、10人ほどの作家たちが似顔絵で登場しました。菊池寛と幸田露伴が将棋を指し、久米正雄、山本有三、佐佐木茂索、広津和郎らが盤側で観戦する絵柄でした。前列の対局者、中列・後列の観戦者と、各人の座る位置で作家たちの棋力を格付けしたようです。当時の文壇では菊池と露伴がとくに強く、露伴は時の名人の関根金次郎(十三世名人)から四段の免状を贈呈されました。

菊池寛を中心とした将棋会とは別に、主に東京の中央線沿線に住んでいた作家たちが集まったのが「阿佐ヶ谷将棋会」でした。主宰者は井伏鱒二で、尾崎一雄、滝井孝作、三好達治、中野好夫、亀井勝一郎、火野葦平、太宰治、宇野千代らが参加しました。井伏の棋力は5、6級程度でしたが、指し始めると徹夜で20局も指すほど将棋が大好きでした。なお、太宰の将棋は攻め一本槍だったそうです。

昭和30年代のころには、文藝春秋社の主催で「文壇王将戦」が定期的に開かれました。前記の井伏鱒二、尾崎一雄、滝井孝作らのほかに、永井龍男、有馬頼義、梅崎春生、豊田三郎、五味康祐、柴田錬三郎らが参加しました。

このように昭和初期から中期にかけて、多くの作家たちが将棋を愛好して「文壇将棋」が形成されました。また、作家が名人戦などの観戦記を担当することがよくあり、大岡昇平、坂口安吾、藤沢桓夫、小島政二郎、井伏鱒二、永井龍男、五味康祐らが書きました。

中でも坂口安吾の観戦記がとても面白いです。安吾は終局まで盤側にずっと座り込んで対局者の一挙一動を克明に取材したので、戦いの臨場感がよく表れていました。五味康祐は「自分の剣豪小説みたいに、盤上に血の雨を降らせる」という意気込みで臨みましたが、担当した名人戦の将棋が一方的な内容だったので、思うように書けなかったようです。

ミステリー小説と将棋は、犯人探し・犯行の手口などの謎解きをする過程が、玉を詰め上げることに似ていて共通点があります。そのためかミステリー作家にも将棋愛好家が多く、江戸川乱歩、横溝正史、松本清張らの大御所も将棋を指しました。

菊池寛は1935年(昭和10年)に「新進作家を世に送り出したい」という趣旨で芥川賞と直木賞を創設しました。それ以来、今年の第144回まで綿々と続いています。両賞の受賞者の中には将棋愛好家が数多くいます。次回は、その作家たちを紹介します。

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2011年2月18日 (金)

相撲界の八百長問題と将棋界の「順位戦」最終戦での微妙な対局心理

相撲界で起きた「八百長」問題について、マスコミはその手口も伝えています。一般的な例は、AとBの力士の2者で金銭のやりとりをする(疑惑の力士のメールでは20万円、30万円が相場とか)、星の貸し借りをする(AがBに勝ったら、次の対戦でBに負ける)などです。A・B・Cの3者による「回し」もあるそうです。AがBに負け、BがCに負け、CがAに負けるなど、3者で取り決めをして成績を調整することです。

大関同士の「互助会」も以前から取り沙汰されました。勝てば勝ち越しが決まる、または負ければ負け越して関脇に陥落する大関Aと、すでに勝ち越している大関Bが対戦した場合。過去の例ではたいがいAが勝ちました。大関同士に交渉がなくても、暗黙の了解を思わせる結果(大半の大関が9勝6敗か8勝7敗)に落ち着くことはよくありました。

千秋楽で7勝7敗のCと、すでに勝ち越している(負け越している)Dが対戦した場合。ある学者が過去数年間の勝負で調べたところ、Cの勝率は約8割で、次の対戦ではCの勝率は約4割だったとのことです。

瀬戸際に立たされている力士に対して、相手の力士が「勝つのは心情的に忍びない」と一方的に思い、手を抜いて負けることは実際にあったようです。「人情相撲」(片八百長ともいいます)と呼ばれ、それを題材にした落語や歌舞伎がありました。

このように八百長には、当事者同士の交渉、暗黙の了解、相手の一方的な思いなど、様々なケースがあったようです。そうした行為は、1回でも負けたら敗退するトーナメント形式の競技(テニス、卓球、柔道、高校野球などのスポーツ)ではありえません。○勝○敗と総合成績で評価されるリーグ戦形式だからこそ生じたともいえます。

将棋界においては、リーグ戦の「順位戦」の成績が棋士の選手生命やランクに影響を及ぼしています。最終戦の星勘定では、1勝と1敗の違いによって大きく変わることがあります。

順位戦の最終戦で、勝てば昇級が決まる棋士Aと、昇級・降級に関係しない棋士Bの対戦。負ければ降級(降級点)が決まる棋士Cと、昇級・降級に関係しない棋士Dの対戦。こうした昇降級に関わる対戦において、AとB、CとDの間に何らかの交渉があり、BとDがわざと負けたら八百長となります。

私の知るかぎりでは、それはなかったと思っています。ただし、前記の「人情相撲」のような例はあったかもしれません。AとB、CとDが親しい関係だったり、BとDが一方的に同情を感じたら、結果的にBとDは力が入らずに負けてしまうことはあるでしょう。棋士は勝負師といえども、そこは人間です。順位戦の最終戦では、一方の対局者が微妙な心理状態になることがあります。

私が四段時代にC級2組順位戦で棋士Eと対戦したとき、まだ難しいと思っていた中盤の局面で、相手が急に投了して驚いたことがあります。昇級候補の私は貴重な白星を得ました。私とEは別に親しい関係ではなく、私はEが体調不良になったのかと思いました。じつは後日に知ったことですが、Eは同じ昇級候補のFと仲がとても悪く、「Fが昇級するくらいなら、田丸に勝たせちゃえ」と一方的に思ったようです。

次回は、順位戦の最終戦での「米長哲学」について。

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2011年1月11日 (火)

現役棋士生活40年、イギリス棋界の事情、漫画誌登場のコメントへの返事

私が今年の春に現役棋士生活40年目を迎えることについて、《穂高》さんからは「何事も、現役で40年続けるというのは大変なことですね。心・技・体が揃わなくては叶わないことだと思います」(1月7日)、《吉澤はじめ》さんからは「40年!!の棋士生活の中に、様々な思い出がいっぱい詰まっていらっしゃるのでしょう。これからも、お体を大切にしながら、頑張ってくださいませ!」(1月9日)というコメントをいただきました。ありがとうございました。とても励みになり、新たな一歩を踏み出せそうです。

「イギリス在住の将棋好きです。小学生の頃から、田丸八段の銀で力強く攻める振り飛車破りが大好きでした。ところで私は先日、イギリス将棋連盟会長のDAVID氏に誘われて将棋会に出席してきました。DAVID氏の自宅にイギリス人、スウェーデン人、ドイツ人など10人ほどが集まり、トーナメントを楽しみました。以前はある大企業の方がスポンサーになってくれました。しかし今はそれがなくなり、DAVID氏の負担が大きいと感じています。来年は何とか会場や賞品などで、スポンサー探しをしたいと思っています。日本将棋連盟には、このような普及活動でのサポート制度はないのでしょうか?」という内容のコメント(12月22日)は、田口さんこと《テオ》さん。

私は昨年、連盟の普及事業で全国各地の連盟支部、将棋同好会を訪れました。どの会場も参加者が多くて熱気がありましたが、団体の代表者や幹事の方々のご苦労や支えがあるからだと思いました。中には自宅を道場に開放したり、経済的にかなり負担している人もいました。ただ個人の負担にはもちろん限界があります。《テオ》さんたちが直面している経済的事情は、イギリス棋界のみならず日本でも共通の問題なのです。

連盟は近年、普及事業に力を入れています。その一環として、無料で棋士を各地に派遣したり、普及に貢献した団体・個人に助成金を支給しています。外国での将棋会にかかる経費はそれほど高額とは思えないので、連盟の「普及部」に事情を伝えて協力金を要請すれば、たぶん実現すると思います。いちど連盟に、手紙かメールで相談してみてください。

私は28年前の1983年、国際交流基金(外務省の外郭団体)の事業でイギリス・ロンドンを初めて訪れ、現地の人たちに将棋の指導をしました。当時は、ジョージ・ホッジスさんという方が代表者でした。連盟は盤駒、書籍などを送って応援していましたが、ホッジスさんの経済的負担は少なからずあったようです。いつの時代も変わらぬ問題です。

「週刊漫画誌『モーニング』で連載が始まった『ひらけ駒!』に、何と田丸八段が出ていました! 特徴がある顔というか、漫画にしやすい顔というか(失礼しました!)、見てすぐにわかりました。どういう経緯で登場するようになったのですか?」というコメント(1月8日)は《マチュピチュ》さん。

その漫画『ひらけ駒!』は先週号から連載が始まり、私は友人から連絡を受けて初めて知りました。それにしても、連載開始の第1回に私のような地味な棋士が登場するとは、とても不思議に思いました。じつは、それには背景がありました。詳しくは、次回のブログでお伝えします。

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2010年12月17日 (金)

渦中の「海老蔵」の父親「団十郎」が25年前に中原、谷川と記念対局

団十郎が25<br />
 年前に記念対局

歌舞伎俳優の「市川海老蔵」さんが酒場で殴打されて負傷した事件が、テレビや週刊誌で連日のように報道されています。加害者の男性が出頭したので、今後の捜査によって事件はいずれ解決するでしょう。しかし現時点では、単独犯か複数犯か、事件の発端は海老蔵さんの暴言や暴行か、加害者の関係者が逆に被害届を出すのか、示談に持ち込まれるのかなど、判明していないことが多くて事態は流動的です。

いずれにしても、海老蔵さんの立場やイメージは良くありません。公演の記者会見をキャンセルした当夜に酒場に行って事件に遭い、結果的に大事な舞台に穴を空けてしまったので、無期限の謹慎処分を受けたのは当然のことだと思います。父親の「市川団十郎」さんは「親として教育に問題があったのか…」と沈痛な面持ちで語りました。しかし海老蔵さんは一家も構えた33歳の成人です。あくまでも自己責任が問われるべきでしょう。

さて、渦中の海老蔵さんの父親・団十郎さんは、かつて将棋を愛好していました。25年前の1985年には「将棋マガジン」誌の企画で、谷川浩司名人、中原誠王将(いずれも当時)と「飛香落ち」の手合いで記念対局をしました。上の写真は、対局光景を撮った誌面。梨園の貴公子らしい典雅な雰囲気が漂っています。団十郎さんは当時38歳。同年4年には、市川海老蔵から十二代目市川団十郎を襲名しました。

団十郎さんは9歳で将棋を覚え、やがて父親(十一代目団十郎)に勝てるようになりました。その後はアマ五段の歌舞伎関係者に習い、歩の使い方の重要性を教わりました。負けず嫌いなので定跡書や詰将棋の本を読んで勉強し、出番を待つ楽屋ではいつも誰かと将棋を指しました。夢中になって指していて、煎餅のつもりで駒の「歩」をかじったこともあったそうです。そんな熱意によって団十郎さんの棋力は有段に伸びました。77年には夕刊紙の企画で中原名人(当時)と2枚落ちで記念対局し、見事に勝利を収めました。

85年の飛香落ちの記念対局では、団十郎さんは1局目に谷川名人と指しました。対局場は将棋会館の特別対局室。両者はともに和服で、まるでタイトル戦のような趣でした。団十郎さんは定跡どおりに指して開戦し、と金と成香を作りました。しかし飛車を活用できず攻めあぐみました。終盤に角を切って上手玉に迫りましたが及ばず、谷川光速流の寄せに敗れました。後日に行われた2局目の中原王将戦は、谷川戦での指し方を修正してうまく攻めました。しかし終盤で勝ち筋を逃して惜敗しました。襲名披露の直前でしたので、実戦や研究の時間がほとんどなかったようですが、内容的にはよく健闘しました。

ところで、私は連日の報道によって歌舞伎界のことを初めて知りました。歌舞伎俳優は約300人いて、16の一門(屋号)に分かれています。尾上菊五郎の「音羽屋」、中村吉右衛門の「播磨屋」、松本幸四郎の「高麗屋」、市川猿之助の「澤瀉屋」、中村勘三郎の「中村屋」などがあり、中でも市川団十郎の「成田屋」は伝統と重みが最もある大名跡だそうです。初代が成田山新勝寺を信仰していたのが成田屋の由来で、成田屋だけが演じられる「にらみ」の芸は、成田山の「不動明王」の化身を表しているとのことです。ある俳優がテレビ番組で、「海老蔵より芝居がうまい役者はいるが、団十郎になれるのは海老蔵だけだ」と語って叱咤激励していましたが、海老蔵さんはそれを肝に命じてほしいものです。

次回は、渡辺竜王が羽生名人を破って7連覇した今期竜王戦。

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2010年12月 7日 (火)

羽生報道、ブログ写真、指導対局のコメントへの返事

「羽生名人の報道は、この大事な時期に無神経なと、不快な思いをしましたが、田丸八段の文章でほっとしました」というコメント(11月16日)は《イトウ》さん。「羽生名人は裕福だし、お子さんのために横浜のスケート場の近くにマンションを手配するくらいは普通にあるだろう」という内容のコメント(11月16日)は《オヤジ》さん。

11月上旬にある女性週刊誌が羽生夫妻の別居問題を報じ、後追いの記事がほかにも出ました。おしどり夫妻で知られていたので、私はとても驚きました。そういえば今年7月の羽生名人就位式では、いつも同席する羽生夫人と娘さんの姿を見かけませんでした。しかし、どの家庭にも様々な事情があるものです。スケート選手をめざしている娘さんのためにマンションを手配したことは、外国語を修得したい子どもを海外に留学させるのと、それほど違いはないと思います。《オヤジ》さんが言うように、普通にある話です。

私は11月12日の将棋連盟・臨時総会で羽生と隣同士になったとき、娘さんのスケートに関する話をたまたま耳にしました。その話を11月16日のブログに書いたところ、《イトウ》さんたちから安堵したというコメントが寄せられました。竜王戦の最中だっただけに、とても心配していたんですね。その竜王戦(渡辺明竜王―羽生善治名人)は、第5局を終えて渡辺の3勝2敗。今回も最終局までもつれ込むと思います。

「11月30日のブログの写真で、中央の人はどなたでしょう? たぶん奨励会時代のお仲間かと思いますが…」という内容のコメント(12月1日)は《K島》さん。

その写真の中央の人は、井口健次郎1級。芹沢博文九段の弟子で、1966年当時は19歳でした。後輩に対して威張る先輩が多かった中で、とても優しい人でした。会社に勤めながら奨励会に所属していて、1級で長く低迷した末に、翌年に奨励会を退会しました。

《K島》さんは、私のテニス友達です。ショットの威力は強くありませんが、ドロップショット(ボールを短く打って落とす)とロブ(ボールを空中に高く上げる)の技術が絶妙で、草テニスの大会でも活躍しています。1年前に大手出版社を50代半ばで早期退職したそうです。今の社会状況では、同じような立場の人は多いことでしょう。私は来年、棋士生活が40年目になります。公式戦の成績はまったく不振ですが、ひとつの仕事を60代までずっと続けてこれたのは幸せだったと思っています。

「田丸八段に将棋を教わった『頭金クラブ』の遠藤です。最近は将棋を指す機会がめっきり減りましたが、大事に保存している指導対局(2枚落ち・飛香落ち・飛車落ち)の棋譜を時々は並べて楽しんでいます」というコメント(11月20日)は《ギタリスト》さん。

遠藤さんはクラシックギターの奏者・指導者です。『頭金クラブ』の由来は「頭金を指されるまで負けに気がつかない程度のレベル」だそうですが、決してそんなことはありません。メンバーたちは月1回の指導対局で真剣に指し、それとともに棋力が上がっていきました。中でも遠藤さんは最も打ち込んでいました。勝てば次の手合いに昇格できるとき、羽織袴の姿で臨んだこともありました。今でも約35年も前の指導対局の棋譜を並べるそうですが、20代の若手棋士だった私は手を抜かずに厳しく指したものでした。

次回は、現役で亡くなった棋士の「絶局」について。

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2010年12月 3日 (金)

田丸の著書、真部九段の絶局のコメントへの返事

「私は田丸八段の『詰め方カタログ』が好きで勉強させていただきました。最近の棋書の精度は素晴らしいですが、マニアックでプロの参考書と思うこともしばしば。遊び心がある棋書が増えることを望みます。このコラムを所々に盛り込んだら、楽しい本が創れると思います」というコメント(10月30日)は《関東のホークスファン》さん。

私の著書『詰め方カタログ』は、実戦に役立つような様々な詰め方を場面別に解説しました。おかげで好評でしたが、発行して20年たった今は書店に出回っていません。確かに最近は、専門的な内容の棋書が多いです。将棋界の情報や棋士のエピソードを盛り込んだ楽しく読める棋書があってもいいですね。私は来年、そんな本の出版を計画しています。

「浪人中の息子は、将棋は趣味として田丸八段の本を愛読しています」というコメント(11月13日)は《希》さん。

《希》さんは医療関係の方ですね。私が風邪を引いたとき、いつも丁寧に治療していただいて感謝しています。息子さんは志望大学をめざして受験勉強の日々だそうですが、時には合間に気晴らしで将棋を楽しんでください。

「『縁台将棋必勝法』が生まれ変わって刊行されたという『ハイテク将棋必勝法』を、ネット通販で発注しました。将棋を覚えたばかりで、指すことが楽しかったあの頃の熱みたいなものが再び蘇りそうです」というコメント(11月19日)は《てんなん》さん。

私が31年前に初めて出した『縁台将棋必勝法』は、出版社が直後に倒産しました。しかし別の出版社から改題されて出て、今も読んでもらえるのは大変うれしいです。

「真部一男九段は忘れられない棋士です。あまりにも早い逝去(55歳)に今でも哀しい思いです。豊島将之五段との絶局の後、お見舞いに訪れた小林宏七段に、『あの局面は私の勝ちだ。誰か続きを指してくれないかな』と語ったそうですね。そのまったく同じ局面を、大内延介九段が順位戦で再現し、しかも真部九段の指したかった4八角の自陣角まで指しました」という内容のコメント(11月24日)は《ジロウ》さん。

「ジロウさん、4八角は△4二角ですね。真部九段は没後、升田幸三賞特別賞(※)を受賞しましたが、真部九段らしい絶局でしたね」というコメント(11月26日)は《柳》さん。※実際は2008年・将棋大賞での東京将棋記者会賞。

真部九段は07年10月30日の順位戦・豊島戦(戦型は真部の中飛車)で、体調不良のために序盤の局面で投了しました。じつは、その局面で△4二角と自陣に打つ好手がありました。後日、弟子の小林七段に「あそこで△4二角と打てば俺のほうが指せると思う。でも角を打つと相手は長考するだろ。そうすると投了できなくなってしまう」と、指さなかった理由を語ったそうです。

真部の通夜となった11月27日。順位戦・大内九段―村山慈明五段戦で、大内は真部が打ちたかった△4二角を同一局面で指したのです。ただ大内は別に予備知識があったわけではなく、自分の考えで指したとのことです。そんな偶然があるとはとても不思議で、真部の霊が乗り移ったのでしょうか…。局後に事情を聞かされた大内は、「驚いたね。真部くんの後を指し継いだ形になったんだ。残念だな。勝ってやらなきゃいけなかった…」と語りました。

次回も、コメントへの返事。

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2010年11月30日 (火)

55歳で急逝した真部一男九段の奨励会時代の思い出

真部一男九段の思い出

私は3年前に55歳で急逝した真部一男九段と、奨励会入会がほぼ同期でした。その真部を初めて見かけたのは、東京オリンピックが開催された46年前の1964年(昭和39年)の夏でした。場所は東京・千駄ヶ谷の旧将棋会館の道場で、2階建ての木造だったころです。当時の真部は12歳の中学1年生。切れ長の目をした利発そうな少年という印象でした。棋力は三段で、近いうちに奨励会入会試験を受けたいと周囲の人に話していました。私は14歳の中学2年生で、棋力は3級。棋士をめざす思いは同じでしたが、棋力が低かったので年下の真部に羨望を抱いたものです。

私は64年11月、佐瀬勇司(故・名誉九段)の弟子にさせてもらいました。そして12月に将棋会館で会ったとき、師匠は奨励会に6級で入会したばかりの真部を引き合わせてくれ、私と真部は道場で指しました。結果は何と私の3勝1敗でした。 

翌年の65年1月、私は奨励会入会試験を受けました。棋力は二段程度に伸びていました。自分では少し無理かなと思いましたが、師匠に強く勧められて受験したのです。その試験将棋で対戦したのが真部でした。1ヶ月前に指して勝ち越したので、勝てる自信はありましたが、結果は一方的な敗戦でした。やはり本番と練習ではまったく違いました。

私は試験将棋で2連敗しました。しかし師匠が奨励会幹事の棋士に裏で話をつけてくれ、奨励会に6級で入会できました。受験者が少なかった当時、入会試験で成績が悪くても、幹事の独断や師匠の口利きによって入会を認めた例はたまにあったようです。

私はいわば「裏口入会」したわけです。ただ当然ながら力不足で、入会早々に7連敗して負けが込みました。真部は順調に勝利を重ね、65年12月には2級に昇級しました。このように真部と私は奨励会入会が同期でも、実力や評価で雲泥の差がありました。高校野球に例えて比較すると、真部は甲子園で活躍するスター選手、私はやっとベンチ入りできた控え選手でした。対戦成績も最初の1年間は2勝10敗と「鴨」にされました。

上の写真は、66年のころ。左端が真部(1級・14歳)、右端が田丸(3級・16歳)。同世代の私と真部は、普段は仲の良い友達でした。真部は少年漫画を読むのが大好きで、「マガジン」という愛称で先輩たちに可愛がられていました。

真部は奨励会時代から才気あふれる将棋を指しました。ただ筋の良さにとらわれたり、勝負に淡泊な面がありました。また思春期になると、異性への興味が増したり、ボーリング・ビリヤードの遊びに興じたりして、将棋がお留守になった時期があったようです。そのために、真部と私は「ウサギと亀」の関係だったのに、私が次第に追い付きました。そして三段と四段の昇段は、私のほうが先になりました。

私は若手棋士のころ、真部とよく一緒に飲んだりして親しく付き合いました。亡くなる20年ほど前からは、個人的に会ったり話すことはありませんでした。最後に言葉をかわしたのは、3年前に順位戦の対局で同室になったとき。私が立てる扇子の音が気になった真部の「田丸くん、ねぇ…」に対して、私の「あぁ、ごめん…」でした。

次回は、コメントへの返事。

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2010年11月24日 (水)

「棋界のプリンス」と呼ばれた真部一男九段が3年前に55歳で急逝

真部一男九段が3年前に急逝

3年前の2007年11月24日。真部一男九段が55歳で急逝しました。

私が真部の姿を最後に見たのは07年10月30日で、C級2組順位戦の対局で同室となりました。朝の挨拶をしようと真部に目を向けると、憔悴しきった表情に驚いて声が出ませんでした。それでも真部の対局中の様子はいつもとあまり変わらず、新人棋士の豊島将之(五段)に対して得意の「ゴキゲン中飛車」を用いました。私は12時少し前、昼食をとるために外出しました。そして対局室に戻ると、真部―豊島戦はまだ序盤だったのに、盤駒はすでに片付けられていました。記録係に聞くと、昼休み前に真部が突然投了したとのこと。やはり真部の体調はかなり悪かったようでした。

真部はその日、病院に行って緊急入院しました。後日に見舞いをした弟子の小林宏(七段)の話によると、真部は病状の話をひとしきりした後、豊島戦の投了局面のことを切り出したそうです。その局面で自陣に角を打つ秘手があり、自分が有利になるとわかっていたが、その手を指すと相手が長考して投了できなくなるので、角を打たなかったというのです。また将棋連盟の関係者には、休場した場合の竜王戦のクラスの扱いについて尋ねました。真部は竜王戦で14年間にわたって上位の2組に在籍していました。

つまり真部はしばらく休場して療養した後、現役に復帰したい気持ちが強くあったのです。しかし真部を襲った病魔は悪性のガンでした。入院して1ヶ月もたたないうちに、転移性肝腫瘍という病名によって帰らぬ人となりました。

私は真部より2歳年上で、奨励会入会がほぼ同期でした。奨励会員、若手棋士のころは親しく付き合い、一緒によくお酒を飲みました。私が知る青年時代の真部はとても壮健でした。高校時代は体操部に所属したほど筋肉隆々で、先輩棋士が居並ぶ宴席で逆立ちして座敷を1周したエピソードは有名でした。一時期は少林寺拳法を習いました。真部は腕力を鍛えた理由として、「もし崖から落ちそうになったとき、片手で地に掴まって体を支え、片一方の手で女の手を離さずにいられるようにね」と、冗談ぽく言ったものでした。

このように青年時代の真部はとても壮健でした。しかし30代後半のころ、首が回らなくなる原因不明の症状に見舞われました。それ以来、日々の生活が何かと不自由で歩行が困難になり、体調も芳しくなかったようでした。

上の写真は、私が撮った23歳のときの真部(当時四段)。俳優のように端正な顔立ちでした。しかも時の名人の中原誠(十六世名人)に対して公式戦で3連勝するなど、盤上で大活躍したので棋界内外から注目され、「棋界のプリンス」と呼ばれました。

真部はテレビの人気時代劇『銭形平次』に特別出演して大川橋蔵と共演したり、主婦向けのテレビ番組で初心者を対象とした将棋講座のコーナーを担当したり、時の首相(福田赳夫)が真部後援会の名誉会長になるなど、盤外でも華々しい存在でした。将棋の強い若手棋士が世間からこれほど人気を呼んだ例は、真部だけだと思います。

次回(来週)は、若き日の真部九段の思い出。

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2010年11月19日 (金)

今は駒作り、田丸の著書、新宿将棋センターなどのコメントへの返事

コメントへの返事

「昔、将棋を教えていただいた、頭金クラブの中沢です。私は定年になりまして、今は駒作りで生計を立てています。これまでに約120組の盛り上げ駒を作り、ヤフーオークションに出品しています。将棋を指すほうはからっきしだめですが、頑張って将棋に携わっています」という内容のコメント(7月16日)は、《田丸さんご無沙汰しています。中沢です。》さんこと横浜の中沢定夫さん。

私は20代の若手棋士だった約35年前、横浜の「頭金クラブ」という将棋同好会を指導していました。メンバーはギタリスト、スナックのマスター、証券マンなどで、会社員の中沢さんもその1人でした。会の名称は、頭金で詰まされるまで頑張ろう、という意味でした。みなさんは将棋が大好きで、指導対局が終わってメンバーのスナックに行っても、当日の将棋の反省や自慢を熱く語りました。半年に1回は伊東の別荘で合宿しました。将棋以外の話でも盛り上がり、私はそんな和やかな雰囲気が楽しかったです。

写真は、当時の中沢さんが作った珍しい黒地の駒。生地は黒檀で、書体は「隷書」。かなり堅い材質なので、ひとつの駒を彫るたびに工具のノミを取り替えた労作でした。中沢さんは昔は趣味だった駒作りを今は仕事にしていて、まさに「技は身を助ける」ですね。なお、この駒の写真は35年前に『近代将棋』誌の表紙を飾りました。

「私が中学時代、田丸八段の著書『縁台将棋必勝法』があまりに面白い内容なので、友達に読ませたいと思って貸したら、そのまま返ってこなくなりました。密かに復刊を期待しています」という内容のコメント(10月30日)は《てんなん》さん。

私が31年前に初めて出した著書が『縁台将棋必勝法』でしたが、出版元が直後に倒産して初版で終わりました。じつは約20年前に同じ内容のものが『ハイテク将棋必勝法』と改題され、棋苑図書から刊行されました。《てんなん》さんが私の本をご所望でしたら、出版元に問い合わせてみてください。もし絶版か在庫がない場合、将棋連盟気付で田丸宛てに封書を送ってくれれば相応に対処します。私の手元には初版本が少し残っています。

「昔は週末に新宿将棋センターで夜の12時まで指し、将棋仲間と近くの将棋酒場(リスボン)で朝まで指して始発電車で帰ったものでした。伝説の真剣師で知られた小池重明(元アマ名人)、米長(邦雄永世棋聖)一門の先崎学(八段)、林葉直子(元女流棋士)など、懐かしい名前が浮かびます」という内容のコメント(11月4日)は《オンラインブログ検定》さん。

私は約20年前まで新宿将棋センターで定期的に指導対局をしていました。そこで小池さんを何回か見かけました。常連客と「真剣」をよく指していて、四、五段クラスに飛車落ちと、上手の小池さんにかなりきつい手合いでした。脇には後援者みたいな人がいました。小池さんが勝てば半々で分け、負ければその人が代わりに払う取り決めだったようです。でも小池さんは、たいがい勝ちました。

約30年前に師匠の米長宅で内弟子をしていた10代はじめの先崎と林葉は、学校の帰りに新宿将棋センターに寄って強豪アマと指して勉強しました。先崎は2歳年上の林葉より将棋は強くても、姉弟子には付き従う感じで服従していました。

次回(11月24日)は、3年前のその日に病死した真部一男九段のこと。

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2010年11月12日 (金)

師匠の田丸、弟子の櫛田、井出、近藤が集まった「田丸一門会」

田丸一門会

11月7日に「田丸一門会」を東京・吉祥寺の中華料理店で久しぶりに開きました。写真は、師匠の私こと田丸昇八段(60歳・右から2人目)、1番弟子の櫛田陽一六段(45歳・同3人目)、2番弟子の井出隼平三段(19歳・同1人目)、9月に奨励会に入った3番弟子の近藤祐大6級(13歳・同4人目)です。そのほかに「吉祥寺将棋サロン」の席主の新井さん、吉祥寺将棋サロンで指導している女流棋士の谷川治恵四段、井出、近藤の親たちも出席しました。

1番弟子の櫛田は、私が27年前に奨励会への受験を強引に勧めました。櫛田は当時18歳で、将棋雑誌の企画で全国の名高い強豪アマたちと対戦して腕を磨き、プロ棋士に対しては敵愾心を燃やしました。アマ棋界の風雲児のような存在でした。その櫛田と縁あって知り合った私は、学校に行かず定職に就かない櫛田の将来を心配したのです。やがて櫛田は私の説得に応じて弟子になり、奨励会は3年4ヶ月で卒業しました。

その後の櫛田の棋士人生は、NHK杯戦に四段で優勝、生活が乱れて成績が低迷、フリークラスに転出と、様々なことがありました。今は将棋に打ち込んだ生活を送っていて、弟弟子の井出、近藤を熱心に指導して面倒を見ています。今期竜王戦(6組・昇級決定戦)では3局目の師弟対局が実現しそうでしたが、その前に私が負けてしまいました。

2番弟子の井出は、小学生時代から吉祥寺将棋サロンに通い、今も毎日のように顔を出しています。現代の奨励会員の勉強法は、研究会で実戦、1対1で指す「VS」、パソコンで棋譜検索など、若手棋士と変わりません。しかし井出は、そうした勉強法をほとんどしません。何でも、研究会などで日時を約束するのが嫌だというのです。そのかわり、吉祥寺将棋サロンで後輩の奨励会員、強豪アマと指しています。井出の父親のような存在の新井さんは、「将棋クラブで育った棋士も現れてほしい」と期待しています。

井出は奨励会の6級〜二段時代、普段の成績はそれほど良くないのに、昇級昇段のチャンスがくると、ほとんど逃しませんでした。その勝負強さは大したものです。しかし難関の三段リーグで、それだけでは昇段できません。もっと勉強する必要があるでしょう。

3番弟子の近藤は、同じ小金井市に住む谷川女流四段の紹介で弟子になりました。私は初対面のとき、技術的な指導はできないと伝えました。現代棋界は、師匠が弟子に教え込むのではなく、仲間の奨励会員と指して切磋琢磨する時代です。その意味では、奨励会員が何人も集まって指している吉祥寺将棋サロンは絶好の勉強場で、近藤も通っています。

近藤は奨励会に入って2ヶ月たち、まずまずの成績です。ただ一門会では、前日の例会で3連敗したので元気がありませんでした。私が「負けが込んだとき、どう立ち直るかが大事」と言うと、井出の父親は「うちなんか9連敗もした」と妙な慰め方をしました。

今や数多くの棋士、奨励会員を擁して隆盛している、所司(和晴七段)一門、森(信雄七段)一門と比べると、田丸一門はささやかな存在です。私は数年後には現役を退きます。それまでに一門から棋士が生まれてほしいと、願っています。

次回は、今期竜王戦の勝負と竜王戦の成り立ち。

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2010年11月 5日 (金)

新宿の将棋クラブで手合い係を務めた41年前の思い出

1969年(昭和44年)1月。18歳・三段の私は師匠(佐瀬勇次名誉九段)宅での3年間の内弟子生活を終えると、「新宿将棋クラブ」で手合い係を務めることになりました。

新宿将棋クラブは歌舞伎町・コマ劇場の辺りにあった老舗の道場で、私の兄弟子の藤代三郎(指導棋士七段)が席主を長いこと務め、昔は多くの客で賑わっていました。しかし藤代が辞めたり、近くに「新宿将棋センター」が開かれたこともあって、69年当時は客が減って寂れていました。経営者は5階建てビルのオーナーで、その3階が将棋クラブでした。中年の人が常勤で手合い係を務めていましたが、体調があまり良くないという事情から、私とほかの奨励会員ら3人が手伝うことになったのです。

そのビルの屋上に3畳ほどのプレハブ小屋があり、そこが私たち奨励会員の住居となりました。記録係、たまの指導将棋でしか収入がなかった奨励会員にとって、家賃なしで住めたのでとても助かりました。こうして新宿・歌舞伎町の一角で、3人の若者たちの共同生活が始まりました。私は炊事を担当し、1台の電熱器で卵焼き、野菜炒め、味噌汁などを作りました。貧しい日々でしたが、自由に暮らせる生活は意外と快適でした。

新宿将棋クラブに常勤した人の勤務時間は12時から19時で、私たち奨励会員は開店の準備、午前中の手合い係、夜の手合い係、閉店後の掃除、お金の管理などの仕事を交代で務めました。手合い係の仕事そのものは、それほど大変ではありませんでした。将棋クラブには多種多様の人たちが出入りし、将棋ファンが楽しむ生の姿を見られたことは、今になって思えば得難い経験だったと思います。ただ場所柄で目つきの鋭い「その筋」の客もいて、賭け将棋をよく指していました。私たちに凄むような態度は見せませんでしたが、閉店時間がきても指し続けて帰らず困ったものでした。

私は新宿の生活に慣れてくると、歌舞伎町の歓楽街を散歩したり、たまに居酒屋に入ってビールを飲みました。コマ劇場の近くに「歌舞伎湯」という大衆浴場があり、夏は浴衣姿で洗面具を持って出かけました。当時の私は五分刈りの坊主頭でした。風体から家出している少年と思われたようで、巡回中の警官に職務質問をよく受けました。そのたびに「将棋の棋士をめざして修業中の者です」と正直に言いました。

新宿の歌舞伎町は昔から「不夜城」として賑わっていました。しかしネオンが一斉に消えて静まり返ったことが1日だけありました。69年10月21日で、その日は「国際反戦デー」でした。当時は学生運動が盛んで、前年の同日には過激派が新宿駅構内に侵入して大混乱となり、後に騒乱罪が適用されたほどでした。そこで当日は警察の要請によって、歌舞伎町の大半の店が休業か早仕舞いしました。新宿将棋クラブも夕方で閉めました。そして当夜、ヘルメット姿の過激派のデモ隊とジュラルミンの盾を持った機動隊が靖国通りでもみ合う光景を、私は群衆の中で別世界のことのように眺めていました…。

新宿将棋クラブは経営が赤字だったようで、69年12月に閉鎖となりました。10代の私にとって、いろいろな経験をした1年間でした。あの41年前のことは今でもたまに思い出します。その後、早稲田大学の近くの3畳間のアパートに移りました。

次回は、将棋愛好家の作家・渡辺淳一さんの喜寿の祝賀会。

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2010年10月29日 (金)

田丸の著作『縁台将棋必勝法』、加藤―神吉戦などのコメントへの返事

神吉―加藤戦などのコメント

「田丸八段の著作『縁台将棋必勝法』でお世話になった世代の者です」というコメント(10月19日)は『てんなん』さん。

31年前の1979年(昭和54年)、当時六段の私は『縁台将棋必勝法』という著作を初めて出版しました。写真がその表紙で、落語家・柳家小三治を模したイラストのデザインでした。題名のように専門的な棋書ではなく、アマの方が楽しく読みながら上達できるように工夫しました。見開き単位で解説した47項目の「勝つための実戦テクニック」、「棋力判定・次の一手問題」、直撃穴熊破り・振り飛車封じの筋違い角などユニークな4戦法を解説した「この戦法で勝とう」の3章で構成しました。これは私が心血を注いだ著作で、読みやすいうえに実戦に役立つ内容だと自負したものです。『てんなん』さんにも愛読していただき、ありがとうございました。

この著作の版元は実用書専門の中堅出版社で、初版は1万部も出してくれました。 ところが発行して2ヶ月後に倒産してしまいました。業績はそれほど悪くなかったそうなので、計画倒産ではないかとの噂もありました。私は倒産によって印税は25%しか受け取れず、代償に得た300冊の現物を将棋ファンや知人に買ってもらいました。こうして処女作の出版は苦い思い出となりましたが、自力で単行本を書き上げた経験は後に生きました。

「NHK杯戦で加藤一二三九段―神吉宏充七段戦のような面白い対戦を見たいです」という内容の『ジロウ』さんのコメント(8月28日)について、「以前にNHK杯戦で対戦したと思います。確か初手に神吉七段が▲6八飛と指し、振り飛車穴熊の将棋で快勝しました」という内容のコメント(9月29日)は『spinoza05』さん。

『NHK講座』のテキストを調べてみると、94年(平成6年)のNHK杯戦・2回戦で加藤(前期優勝者)と神吉(当時五段)が対戦しました。神吉は初手に▲6八飛と四間飛車に振ると、加藤の棒銀に対して飛車を巧みにさばき、終盤で堅い穴熊囲いを生かして一手勝ちを収めました。観戦記によれば神吉の身なりは、110キロの巨体に鮮やかな水色のスーツ、マリリン・モンローが描かれたネクタイと、じつに派手だったそうです。

神吉は将棋も外見もショーマンシップに溢れています。94年のNHK杯戦では盤上で大活躍しました。先崎学六段、加藤九段、伊藤能四段を連破し、準決勝で先崎、伊藤の師匠の米長邦雄前名人に惜敗しました。※棋士の名称、段位は当時。

「田丸八段は同じ地元出身(長野県)なので昔から応援しています。ブログには、執念が欠けて負けが込んでいると書かれていましたが、フリークラス脱出と九段昇段をめざして頑張ってください」という内容のコメント(10月21日)は『捲くり』さん。

私への昔からの応援、ありがとうございます。近年は勝負への執念に欠け、中盤でポッキリ折れて一方的に負けることがよくありますが、また一花を咲かせるように頑張りたいと思います。なお、私はフリークラスに自身の意思で「転出」したので、順位戦には復帰できません。九段昇段には八段昇段後に250勝が必要で、現時点ではだいぶ足りません。

次回は、新宿将棋センターで20年ぶりの指導将棋。

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2010年10月26日 (火)

コンピューター将棋ソフトの問題へのコメントについて

コンピューター将棋ソフトの歴史、14年前の棋士たちの見方、清水市代女流王将と将棋ソフト『あから2010』の対局、などをブログのテーマにしたところ、多くのコメントが寄せられ、この問題への関心の高さに驚きました。私はコンピューター将棋についてあまり詳しくないので、それぞれのコメントはとても参考になりました。

約30年前、NECが畳20枚分に相当する超大型コンピューターに1000局のプロ棋譜、古今の定跡、駒の損得、玉の危険度などを入力し、将棋を覚えさせました。その将棋ソフトの発表会が東京・渋谷の西武百貨店で開かれ、私は解説者として出席しました。将棋ソフトの棋力はブログ(10月19日)に書いたとおりで、序盤こそプロ並みですが、中盤以降は猛然と攻めて駒をやたらに捨て、めちゃくちゃな将棋になりました。

技術担当者の話では、攻め将棋にセットしないと自陣の金銀ばかり動かすそうです。私は入力方法の難しさを認識しました。また、その担当者の棋力を4、5級と聞いたので、それも関係してるのかと思い、ブログで「技術者の棋力が低かったり」と書きました。ただその見方は一般的なもので、プロから見た基準ではありません。

「強いプログラムを開発するのに開発者の棋力はあまり関係ない。プログラミング能力そのものが重要」というコメント(10月20日)は『名無し』さん。私もそれに同感で、トップ棋士が開発しても最強の将棋ソフトができるとは思いません。その一方で、「将棋を知らないプログラマーには、開発は無理だと思いますが?」という『永世寄生』さんのコメント(同)、「昔のコンピューターは全幅探索する能力がなく、ソフトがどれが有望な手なのか選ばせる論理はプログラマーが決定しました。そのため昔は、強いソフトはプログラマー自身もアマ有段者クラスの腕前を持っていたことが珍しくないです」という内容の『へっぽこ振り穴党』さんのコメント(同)もありました。

近年の将棋ソフト開発者の中には、アマ四段クラスがいたり、級位者もいるそうです。だから棋力とプログラミング能力の対比は、どちらがどうとは言えないようです。その意味で、「今のソフトの強さの背景と言えるのは、プログラマーの棋力に依存した時代から脱却したことです」という『へっぽこ振り穴党』さんのコメント(同)は参考になりました。

「コンピューターがプロ棋士を負かす日は?」というアンケートが14年前に実施され、棋士たちの回答をブログ(10月19日)で紹介したところ、次のような内容のコメントが寄せられました。

「まだ男性プロトップには及ばないと思いますが、羽生名人予想の2015年あたりという気がします」は『てんなん』さん(10月19日)。当時の羽生は七冠で、やはり説得力があります。「羽生さんや森内さん《回答は2010年》はチェスのソフトも強いのでそう思ったのでしょうか」は『ネブラスカ』さん(10月20日)。「青野九段の回答《プロの仲間入りはできても、トップは負かせない》が最も近いと思います」は『UT』さん(10月21日)。「田丸八段はなぜ無回答だったのでしょうか」は『深田有一』さん(10月22日)。私は当時、コンピューター将棋にあまり興味がなかったのです。

コンピューター将棋ソフトに関するほかのコメントは、また改めて紹介します。次回は、ほかのテーマのコメントについて。

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2010年10月19日 (火)

コンピューター将棋の歴史と14年前の棋士たちの見方

コンピューター将棋の歴史は約40年です。当初は、日立やNECに勤める将棋好きの技術者が趣味も兼ねて開発しました。プロ棋戦の棋譜を何局も入力し、駒の損得・手筋・玉の危険度などを元にプログラミングしました。しかし技術者の棋力が低かったり、入力手段が幼稚だったことで、かなりお粗末な代物でした。序盤こそプロ並みの駒組を作りましたが、中盤以降は意味不明の手が続いたり駒を捨てたり、何かの危険を察知して囲いの中の玉が急に出てきたりと、めちゃくちゃな将棋になりました。

1990年代前半に発売されたゲーム機の将棋ソフトは、ある程度は改良されました。それでも1手ごとの考慮時間が長かったり、負けを認識すると無駄な王手を連発するなど、玩具の域を超えていませんでした。ただ購入する側は、いつでも好きなときに指せる、人間相手に負けた悔しさをぶつけられる、などの理由でそれなりに楽しめました。

90年代後半になると、優秀なプログラマーたちが開発してコンピューター将棋の実力は急速に進歩しました。早指しでも悪手をあまり指さず、詰みがある局面では長手順でも一気に詰まします。毎年開催される「コンピュータ将棋選手権」では、「森田将棋」「金沢将棋」「柿木将棋」などの開発者の名前を冠したソフトが活躍し、各ソフトが競い合ったことで実力向上にさらに拍車がかかりました。

1996年版『将棋年鑑』の「棋士名鑑」欄のアンケートに、「コンピューターがプロ棋士を負かす日は?」という設問がありました。主な棋士の回答を否定派と肯定派(条件付きも含めて)に分け、14年前の棋士たちのコンピューター将棋への見方を紹介します。

否定派は、米長邦雄「永遠になし」、加藤一二三「こないでしょう」、大内延介「当分こない」、深浦康市「こない」、淡路仁茂「私が生きている間はない」、中村修「トップは負けないと思う」、村山聖「こない」、阿部隆「こない日を祈っている」、畠山鎮「こない」、佐藤秀司「そういうことになったらプロは要らなくなるので、こないように祈るしかない」、真田圭一「100年は負けない」、勝又清和「否定」、中井広恵「こない」、石橋幸緒「こない」、矢内理絵子「こないと思う」など。

条件付きを含めた肯定派は、羽生善治「2015年」、森内俊之「2010年」、久保利明「来世紀」、中原誠「だいぶ先とは思いますがくるはずです」、内藤国雄「10年以内にくるような気がする」、谷川浩司「私が引退してからの話でしょう」、青野照市「プロの仲間入りはできても、トップは負かせない」、郷田真隆「いつかはくる。ただし人間を超えることはできないと思う」、東和男「七冠王がプログラミングする日」、神吉宏充「5年ぐらい先か。最初に私が負けてやる」、伊藤能「僕くらいのレベルなら近いのではないか」、斎田晴子「10年後」、千葉涼子「50年後」など。

意外にも肯定派の棋士が多かったようです。IBMのスーパーコンピューター『ディープブルー』がチェスのチャンピオンに勝ち越したのは97年で、その年のアンケートだったら肯定派はもっと増えたかもしれません。私はこの設問に無回答で、佐藤康光と清水市代も同様でした。

森内の回答だった2010年の今年、清水女流王将とコンピューター将棋ソフト『あから』が対戦したイベントが10月11日にありました。その話は、次回にて。

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2010年10月12日 (火)

12歳で将棋を覚えたきっかけは村田英雄が歌った大ヒット曲『王将』

前回のブログで書いたように、少年時代の私はとても内気で、外で友達と遊ぶよりも、家の中で何かの独り遊びをするのが好きでした。

私は小学校の高学年のころ、東京・荒川区に住んでいました。映画や小説で4本の「お化け煙突」として題材になった火力発電所が、近くの荒川の北岸にありました。夕方になると大人たちは軒先に縁台を出し、外で将棋をよく指しました。友達たちも下校すると、路地裏で指しました。下町ではそんな「縁台将棋」の光景は日常的なものでした。

私はいわゆる「本将棋」をまったく知りませんでした。たまに誰かと「回り将棋」「お金将棋」「はさみ将棋」で遊ぶぐらいでした。だから大人や友達が将棋を指していても、ぼんやりと眺めていました。ひとつ気になったのは、赤い色の駒があることでした。みんながよく使った「番太郎」と呼ばれた安物の駒は、裏側のと金・成香などが赤かったのです。

私が12歳の小学6年だった1962年(昭和37年)の夏休み。「♪吹けば飛ぶよな将棋の駒に…」という歌詞で始まる歌謡曲が、ラジオからよく流れていました。村田英雄が歌った『王将』で、戦後初のミリオンセラー(100万枚)となった大ヒット曲でした。

当時は橋幸夫、坂本九、中尾ミエ、弘田三枝子などが歌った青春ボップスが流行していて、私もよく口ずさんでいました。演歌調の歌謡曲は大人向けでした。ところが『王将』を聴くと、演歌なのに耳の中にすっと入ってきて、子ども心にも心地よかったのです。なぜ引かれたのか、その理由はわかりません。やがて、自分でも歌うようになりました。

私は『王将』の曲がきっかけとなり、将棋を覚えることにしました。近所の知り合いの人に手ほどきを受けました。最初に教わったのは、飛車先の歩を突いてから右銀を進める「棒銀」でした。5筋に飛車を振る「中飛車」も習いました。もちろん当初はまったく歯が立ちませんでしたが、そのうちにたまに勝てるようになりました。

凝り性の性格なので、将棋に興味を持ち始めるとすぐに熱中しました。定跡や詰将棋の本をぼろぼろになるまで読んで勉強し、新聞の将棋欄も欠かさず読みました。ただ「矢倉」とか「垂れ歩」などの専門用語の意味がよくわからず、大山(康晴十五世名人)、升田(実力制第四代名人)の偉大さも知りませんでした。当初は、将棋の棋士が存在すること自体を理解してなかったのです。

中学に進むと、肩にかける布製の通学バックに、マジックで駒形の「王将」を大きく書きました。教室では暇さえあれば消しゴムを駒の代わりにして、テレビで見た棋士の手つきを真似てみましたが、いつも隣の机の下に飛んでいきました。

それほど将棋が好きだったのに、棋士をめざすとは夢にも思っていませんでした。棋力も10級程度でした。棋士をめざすきっかけは、ちょっとしたことでした。その話は、また改めてブログのテーマにします。

次回は、開幕した竜王戦(渡辺明竜王―羽生善治名人)第1局。

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2010年10月 8日 (金)

独り遊びが好きだった田丸の少年時代

田丸の少年時代

今回と次回は、田丸の少年時代の思い出を振り返ってみます。

私は60年前の1950年5月5日、長野県北佐久群北御牧村(現・東御市)で生まれました。浅間山が北方にそびえ立ち、旧信越本線の小諸〜上田間の南方にある布引観音の近くの高原の集落です。太陽が昇り始めた朝の5時に生まれ、こどもの日で鯉のぼりがはためいていたことから、祖母(シモ)が「昇」と名前を付けました。母親(昭子)は初産のうえに、私が逆子の状態になっていたので、かなり難産だったそうです。

生地の長野は母方の実家で、生まれてまもなくして父親(勇)の実家がある横浜に移りました。幼年時代のことで今でも記憶している光景は、伊勢佐木町で見たアメリカ兵のラッパズボン、親に連れらて見た白黒の映画のワンシーンでした。今、思い出してみると、それは東宝映画でバンジュン(伴淳三郎)が出ていたような気がします。

写真は、私が3歳のころで、まるで浮浪児みたいな格好でした。私の家は当時、事情があって母子家庭となり、貧しい暮らしでした。ただ当時の日本は、3年前に勃発した朝鮮戦争によって経済復興したとはいえ、社会全体がまだ豊かではない時代だったのです。

私は幼年時代、母親が仕事で出かけると、近所の知り合いの人の家に2歳下の妹(一美)と一緒に預けられました。妹は活発な性格で、外で飛び回って遊んでいました。私は家の中でする独り遊びが好きでした。マッチ棒やオハジキをいくつかもらうと、それらを畳の上でいろいろな形に並べて、飽きもせずに一日中そうしていたそうです。

小学校は家の事情によって、横浜、川崎、東京・中野、荒川と3回も転校しました。もともと孤独で人見知りする性格のうえに、転校生の境遇だったので、友達はあまりできませんでした。小学生時代はもっぱら読書をしました。昼休みは図書室でシャーロック・ホームズなどの推理小節を読み、家では小学生向けの日本史の図鑑を読むのが好きでした。それから、やはり家の中で独り遊びをしていました。

川崎に住んでいたころ、東海道線と京浜急行が並走する光景を家の窓から見ていて、赤い車体の京浜急行の魅力に引かれました。それが忘れられず、荒川時代に時刻表を勝手に作り始めたのです。川崎時代、京浜急行は特急・急行・鈍行の電車があり、品川発の行き先は久里浜・浦賀・逗子と分かれました。途中駅の平和島・蒲田・川崎・横浜などで、待機する鈍行を特急らが追い越します。その次々と繰り広げられる追い越しパターンがなぜか面白かったのです。さらに時間帯や行き先ごとの電車の本数、各駅ごとの発車時間の間隔を念頭において、ノートに発着時間の表を書き込みました。やがて、何日間も熱中していると目眩が生じてしまい、途中でやめました。

小学生時代を振り返ってみると、私はかなり変わっていました。時刻表作りなどの独り遊びは、学校や友達との付き合いが嫌で現実逃避していたのかもしれません。ただ、何かに夢中になっていたかったのでしょう。そんな少年が将棋に出会ったのは、小学6年の夏休みでした。1962年のことで、ラジオから流れてきたある歌謡曲を聴いたのがきっかけでした。

次回は、田丸が将棋を覚えたきっかけ。

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2010年9月24日 (金)

今年のアマ名人戦で長野代表・井上徹也さんが初優勝

私の郷土の長野県で発行されている「信濃毎日新聞」は、プロ棋戦の棋王戦を共催するとともに、長野県アマ名人戦・信濃王将戦などのアマ棋戦を主催して紙面に熱戦譜を掲載しています。私は両アマ棋戦の解説を、30年以上も前から観戦記の形で担当しています。中でも県アマ名人戦(県大会出場者は16人)は、優勝者が毎年秋に行われる全日本アマ名人戦に出場できるので、いつも激闘が繰り広げられます。

過去60年間の長野県アマ名人戦では、奥村明さんが最多の8回も優勝しています。奥村さんは1982年の朝日アマ名人戦で準優勝した実力者です。そのほかに、1960年代に4年連続で優勝した高野学さん、1970年代に4年連続で優勝した神田直良さん、普及指導員でもある坂口謹一さん、長沢千和子女流四段の夫君の長沢忠宏さん、奥村さんの子息で立命館大学将棋部で活躍した奥村龍馬さん、元奨励会員の村松公夫さん、宮下和也さん、佐藤歩さん、などが優勝しました。これらの顔触れのように、県アマ名人戦の優勝者は粒が揃っています。しかし全国大会では、今までの最高成績がベスト8でした。

今年の県アマ名人戦は、初参加した井上徹也さんが優勝しました。井上さんは福岡県生まれの24歳。大阪市立大学を卒業し、今春に北佐久郡御代田町の役場職員になった新社会人です。私は井上さんの名前を初めて聞きました。新聞記事によると、2年前のアマ王将戦で準決勝に進出しました。詰将棋作家としても活動し、詰将棋専門誌「詰将棋パラダイス」で作品の入選回数は20回以上。今年5月には、何と501手詰めという長手数の大作を完成させました。また、3月に行われた「詰将棋解答選手権」では2位に入りました。ちなみに優勝者は船江恒平(新四段)、3位は広瀬章人(新王位)で、7位までは井上さん以外はプロ棋士ばかりでした。

詰将棋で詰めの解読力をつけると、終盤の読み合いで役に立ちます。ただ詰将棋の創作(とりわけ長手数や趣向風の作品)はいわば芸術的表現でもあり、勝利をめざして戦う実戦の将棋とはまったく別の世界です。将棋も強い詰将棋作家といえば、かつては北原義治さん、桑原辰雄さん、若島正さんなどの名前が浮かびますが、主要アマ棋戦で優勝した例はごく稀でした。ところが今年のアマ名人戦で、井上さんが快挙を成し遂げたのです。

9月上旬に行われた第64回全日本アマ名人戦で、井上さんは予選リーグで2連勝して決勝トーナメントに進出し、古屋晧介さん(昨年の支部名人戦で連続優勝)、早咲誠和さん(アマ名人戦で通算3回優勝)などの優勝候補を連破して、決勝に進出しました。決勝の相手は赤畠卓さん(岡山代表・47歳)。赤畠さんはアマ名人戦での代表回数が10回も数え、ベスト4に進出した実績もありました。

決勝の井上―赤畠戦は、井上の振り飛車穴熊対赤畠の居飛車穴熊という戦型になり、終盤で激しい寄せ合いが展開されました。そして井上さんが見事な詰め手順で勝利を収め、アマ名人戦で初優勝を果たしました。詰将棋作家という異色の横顔がある井上さんの今後の活躍に、大いに期待したいと思います。この決勝の対局は、今週の9月26日(土)にNHK教育テレビで午後3時から放送される予定です。ぜひご覧になってください。

次回は、コメントへの返事。

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2010年9月21日 (火)

奨励会員、研修会、広瀬新王位などのコメントへの返事

「奨励会員というのは、具体的にどういう立場なのでしょうか。アマチュアの大会にはもう出られないのでしょうか」とは『五平餅』さんのコメント(8月27日)。「奨励会と同時に、研修会についても説明してください。棋士志望の方の親御さんには必要な情報のように思います」という内容のコメント(8月29日)は『田舎天狗』さん。

「奨励会員」とは、棋士をめざして修業している若者たちのことです。東京・大阪に所属が分かれ、月2回の例会日に対局をして、規定の成績を収めれば段級が昇進していきます。現在、6級から三段まで約140人の奨励会員がいます。この中から四段に昇段して棋士になれるのは、年間でわずか4人ときわめて狭き門です。奨励会員はアマとは違う立場なので、アマの大会には出られません。また奨励会を退会した場合、一定の期間(1~2年)が経たないと、公式アマ棋戦に出場できません。

「研修会」とは、奨励会の予備校みたいな機関です。東京・大阪・名古屋の所属に分かれ、約100人の少年たちが月2回の例会日に対局をします。棋士志望の少年が研修会で腕を磨いて、奨励会入会試験に臨むというケースが多いようです。今年の奨励会試験で合格した私の弟子(近藤祐大・12歳)もその1人。研修会でAランクに昇級すると奨励会に自動的に入会でき、久保利明王将、丸山忠久九段、藤井猛九段、三浦弘行八段、鈴木大介八段などは、このルートで奨励会に入りました。また、研修会には少女が何人かいて、規定の成績を収めれば、女流棋士になることも可能です。研修会員は立場的にフリーなので、アマの大会には出られます。入会基準も奨励会に比べて緩やかです。

「今期王位戦の広瀬先生(章人王位)は神がかっていました。たぶん急逝した新井田基信さんが力を貸してくれたかもしれません。自分自身も広瀬先生には大変お世話になりまして、第2局(7月27~28日・札幌)の前夜祭では一緒に写真を写させていただきました」という内容のコメント(9月11日)は『深田有一』さん。

ある新聞記事によると、広瀬新王位は5歳で将棋を覚え、札幌に住んでいた8歳から4年間は、地元の将棋クラブに通って力を付けました。当時の指導者の方は、「おとなしくてひょうひょうとした雰囲気は今も変わりません。ただ、負けるとよく泣いていました」と語りました。『深田有一』さんは札幌の地縁によって広瀬王位と親しいのでしょうか…。

コメントにあった新井田基信さんとは、北海道出身の強豪アマです。早稲田大学時代に学生名人戦で優勝、18年前のアマ竜王戦で準優勝、アマ名人戦で代表7回など、アマ棋界で大活躍しました。近年は札幌に帰り、北海道将棋連盟の事務局長として普及に尽力していました。その新井田さんが今年2月、48歳の若さで急逝したのです。広瀬王位とは、早大の先輩、札幌の地縁などの関係で親しかったのでしょう。『深田有一』さんのコメントのように、天国から広瀬の奮戦を後押ししていたかもしれません。

じつは、私も新井田さんとは少し接点がありました。約30年前に都内の将棋クラブで師範を務めたころ、受付を手伝ってくれたのが学生時代の新井田さんでした。その仕事ぶりはとてもきびきびしていて、好感を持ったものです。

次回は、今年のアマ名人戦について。

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2010年9月17日 (金)

東大法学部に在学中に棋士となった片上大輔六段

高校将棋の全国大会で活躍する学校は、麻布、開成、灘、筑波大付属高、各地の県立高校など、進学校が多いです。大学将棋においても、東京、一橋、慶応、早稲田、京都、北海道、東北、名古屋、九州など、一流といわれる大学の将棋部が強いです。それを実証するような出来事が10年前にありました。

2000年の春。奨励会の片上大輔三段(当時18歳)が何と東京大学・文科Ⅰ類に合格したのです。片上は広島県の生まれで、12歳のときに奨励会に入って棋士をめざしながら、地元の進学校の修道中・高に通いました。そして高校2年に校内の実力テストで文系のトップになったことから、東大進学を決めたそうです。

片上はその後、将棋の研究だけでなく受験勉強にも励み、2000年の正月から2ヶ月間は毎日10時間も猛勉強しました。そんな頑張りが実って、ついに東大合格を果たしたのです。受験の追い込み時期に行われた三段リーグ(99年秋~00年春)では10勝8敗の成績を挙げ、将棋と受験を見事に両立させました。

東大・文科Ⅰ類の学生といえば、いずれは法学部に在籍し、官僚をめざしたり一流企業に就職してエリートコースの人生が嘱望されます。それだけに、片上がどちらの道を歩んでいくのか注目されました。その片上は「棋士をめざす」と宣言し、大学に通いながら将棋修業を続けました。東大入学後の三段リーグでは、8勝10敗、11勝7敗、9勝9敗、9勝9敗、12勝6敗(次点)、10勝8敗、11勝7敗という成績で、後半の3期には昇段争いに加わりました。

そして2004年の春。片上は16勝2敗という抜群の成績を挙げ、四段昇段を決めました。三段リーグ在籍は10期、奨励会は10年6ヶ月での卒業でした。初の東大生棋士が誕生したので、記者会見が行われました。片上は質問に答えて、次のように語りました。

「過去に2回チャンスを逃したときは、勝負の世界に向いていないのかと、悩んだこともありました。学業との両立は大変ですが、大学生活が将棋にマイナスになるとは思っていません。ずっとプロ棋士の道しか考えてなかったので、官僚をめざそうと思ったことはありません。これからは、将棋で注目されるように頑張りたいです」

以前に「東大出の○○」(歌手・プロ野球選手・ボクサーなど)ということで注目された人がいました。それは、ひとつの「売り」になると同時に、何かにつけて「決まり文句」となり、当人にとって必ずしも良いとは限りません。片上が会見の最後に語った「将棋で注目されるように」の一言が、自身の心境をよく物語っています。

片上はエリートの象徴である東大法学部の学歴を封印して、将棋の道を邁進していきました。今年で棋士7年目の六段。竜王戦では6組、4組、3組で計3回も優勝し、上位の2組に在籍しています。今期C級1組順位戦では3勝1敗の成績で、有力な昇級候補です。「東大出の片上」という表現はもう使われないほど、棋士としての実績を確実に挙げています。

次回は、コメントへの返事。

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2010年9月14日 (火)

実力本位のプロ棋界での棋士たちの学歴と早大出身者

プロ棋界は完全に実力本位ですから、学歴が何かと重視される一般社会と違って、学歴が棋士の昇進を左右することはもちろんありません。だいたい棋士の卵たちは、小・中学生のころから奨励会に所属して棋士をめざしているので、学習塾や予備校に通って受験勉強している余裕はなく、せいぜい高校に進学するのが一般的です。

羽生善治(名人)、渡辺明(竜王)、久保利明(王将)、中原誠(十六世名人)、谷川浩司(九段)、森内俊之(九段)、佐藤康光(九段)などのタイトル経験者は、いずれも高卒です。中でも羽生、渡辺、谷川は中学生で棋士になったので、中学・高校に在学中には対局料がサラリーマンみたいに銀行口座に振り込まれていました。

昔の棋士だと中卒も珍しくありません。私もその1人です。中学卒業後、師匠の佐瀬勇次(故・名誉九段)の自宅に住み込み、3年間の内弟子生活を送りました。師匠が「高校に行かないで将棋一筋に勉強すれば、君はきっとものになる」と、内弟子を強く勧めてくれたからです。ただ中学3年のとき、兄弟子の米長邦雄(永世棋聖)には「いろいろな経験を積んだほうがいい」と、高校進学を勧められました。私は師匠と兄弟子の意見の板挟みになりましたが、自分の意思で師匠に従いました。結果的にその3年間では、勉強が生きて3級から三段に昇進できました。

「3人の兄たちは頭が悪いから東大に入った」という名文句をかつて語ったのは米長でした。全国から将棋の神童が集まる奨励会で勝ち抜いて棋士になるには、かなり優秀な頭脳が必要であり、それは東大生の比ではない、と米長は言いたかったのだと思います。その米長は中央大学に入りました。当時は奨励会の三段リーグで必死に戦っていて、大学はどこでもよかったのでしょう。

じつは大学出身者の棋士は意外といます。その多くがなぜか早稲田大学でした。草分けは加藤治郎(故・名誉九段)で、早大卒業後の昭和初期に棋士になりました。当時は「学士棋士」として珍しがられたそうです。加藤は38歳で引退しました。以後は将棋連盟の会長として運営に従事、書籍や観戦記の文筆活動、弟子の育成(故・原田泰夫九段、木村義徳九段、故・真部一男九段)など、現役期間よりも引退後の活動が長い棋士でした。

ほかの早大出身者の棋士は、加藤一二三(九段)、木村義徳、木村嘉孝(七段)、北村文男(故・七段)と続きました。加藤は入学時にA級八段でした。木村義徳は木村義雄(十四世名人)の息子で、大学院在学中に元アマ名人という実績によって、付け出し三段で奨励会に入って棋士になりました。

その後、丸山忠久(九段)、北浜健介(七段)、広瀬章人(王位)、中村太地(四段)、早水千紗(女流二段)などが早大に入りました。特異な技能を有する高校生に適用される「一芸入試」の制度で入学したケースが多かったようです。

10年前には、東大に入学した三段の奨励会員が現れました。片上大輔(六段)です。その話は次回にて。

次回は、東大出身棋士の誕生。

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2010年8月27日 (金)

NHK杯戦DVD化、将棋連盟財政、棋士志望などのコメントへの返事

「NHK杯戦の対局のDVD化はできないのでしょうか。全局は無理にしても準決勝・決勝だけでも実現すれば、多くの将棋ファンが喜ぶと思います。時代を彩った棋士たちの将棋を残すことは意義があります」という内容のコメント(8月23日)は『手塚』さん。

通販カタログを見ると、有名な音楽・映画・落語などのCDやDVDが数多く載っています。その中にNHK杯戦の将棋名局集があってもいいですね。私も『手塚』さんの考えに同感です。生前の大山康晴、升田幸三、現役時代の中原誠、米長邦雄、五段時代に名人経験者を4連破した羽生善治、若手時代の谷川浩司、森内俊之、佐藤康光など、著名棋士のテレビ対局を通してその時代を振り返るというのは、とても興味深い企画だと思います。ただ現実問題として、そのDVD化が商売として成り立つかどうかです…。

「2009年度の将棋連盟の収支が9000万円超の赤字となったとのことですが、将来も大丈夫なのでしょうか」とは『深田有一』さんのコメント(8月18日)。

『深田有一』さんはある棋士と交流しているそうで、連盟の財政状況はその棋士から得た情報なのでしょう。確かに今年5月の連盟総会では、理事会は2009年度の本部会計が約1億円の赤字(正味財産の減少)になったと発表しました。私たち棋士にとって憂慮すべき問題ですが、将棋ファンの方にもご心配をかけたようです。現代は社会全体が経済不況によって萎縮していて、連盟がその影響を受けたのはしかたないと思います。ここで問題なのは、赤字の中身です。経営者が収入増に努力しないうえに、不適切な支出が多くて赤字となったら、放漫経営と批判されて当然でしょう。では、連盟の場合はどうだったか…。

連盟は2009年度、棋聖戦の契約金の減額、免状料の減収、書籍の在庫処分(出版事業を毎日コミュニケーションズに委託した事情)などの事由で赤字となりました。そのほかに、ネット関連事業や普及事業に初期投資しました。つまり社会の経済事情、事業の合理化、新事業への投資などによって赤字となったのです。将棋に例えると、積極的に攻めていって結果的に駒損したような一面があります。私は良質の赤字だったと思います。

また、文化庁が日本の伝統文化(将棋・囲碁・茶道・香道など6分野)を支援した事業では、連盟は「親子将棋教室」などの普及事業を全国的に展開し、6分野の中で最も活発でした。これが実績となって、今後も予算計上が期待できそうです。

小学4年生の息子さんが棋士志望という『野菜村から』さんは、「家は地方ですので、交通費など悩みが多いです。私としては農業を継いでほしいですが、本人の夢をかなえてやりたい気持ちのほうが強いです」とのコメント(8月24日)。

前回のコメント返事では、棋士になる道筋を簡単に説明しました。まず棋士養成機関「奨励会」を受験して入会することですが、地方在住だと月2回の対局日の交通費・宿泊費がかかります。東京(大阪)に出て本格的に修業すれば、生活費で経済的負担がさらに生じます。また、将棋と進学との兼ね合いも大事な問題となるでしょう。今週前半に行われた奨励会入会試験で、私の弟子(近藤祐大・12歳)が6級で合格しました。東京在住なので、今後は毎日のように奨励会員と指して腕を磨くことでしょう。地域差はどうしてもあります。

次回は、大激闘だった王位戦(深浦王位―広瀬六段)第5局。

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2010年8月24日 (火)

将棋人口、将棋資料、棋士志望などのコメントへの返事

「インターネットが発達して、タイトル戦の観戦にはとても良い環境になりました。ところで将棋人口は増えているのでしょうか?」とは『ムーミンパパ』さんのコメント(7月31日)。

政府系のある法人が約20年前に発表した将棋人口は1300万人で、近年は800万人に減っています。この人数の実態は、将棋を趣味にしている、テレビの将棋番組をたまに見る、ルール程度は知っているなど、将棋との関わりは多種多様です。したがって、将棋クラブに行って指したり、棋書を買って研究するコアの将棋ファンの割合は決して多くなく、さらに年々減少傾向にあるのは事実です。ただ趣味の多様化や経済不況の影響によって、お隣の囲碁界や出版・音楽・映像などの文化系分野も業績が次第に落ちていて、将棋界だけの問題ではないと思います。一方で明るい話もあります。子どもの将棋ファン、ネットで将棋を楽しむファンが増えているのです。将棋連盟は子どもへの普及、ネット関連の事業に力を入れており、それが将来に実を結ぶことを期待したいものです。

「田丸八段はいつもきちんと調べて書いていますが、いろいろな資料をどうやって手に入れたのでしょうか?」という内容のコメント(8月10日)は『五平餅』さん。

私が棋士になったのは38年前。それ以来、『将棋世界』『近代将棋』『将棋マガジン』『NHK講座』『将棋ジャーナル』など、今は廃刊となった雑誌も含めて、発行年月順に自宅の書庫に並べてすべて所蔵しています。だから資料を「手に入れた」というよりも「残して整理してある」のです。昔の資料を調べる場合は、故・山本武雄九段が著した『将棋百年』という本がとても役に立っています。どの世界でも、歴史を伝えることは大事です。私も、将棋界の歩みを検証した著作をいずれ書きたいと思っています。

「私の小学4年生の息子は将棋が好きで、近くの将棋会所に通って棋力は初段ぐらい。本人は羽生さんのようになると張り切っていますが、棋士になれるでしょうか? 具体的なことを教えてください」という内容のコメント(8月16日)は『野菜村から』さん。

私は小学6年生で将棋を覚えました。それに比べれば、小学4年生で初段とは大したものです。今後も上達することを期待しています。ただ棋士をめざすには、かなり強くならないと難しいです。具体的にいうと、2~3年以内に四、五段クラスの棋力をつけることです。その時点で本人の棋士志望の気持ちが強く、ご両親も賛成ならば、棋士養成機関である「奨励会」への入会試験を受けてみてください。

奨励会入会試験は毎年8月に行われ、全国から有望な小中学生が数多く受験します。じつは今年、四段の棋力があって小学生の全国大会で準優勝したKくんが私の弟子として受験しています。それだけの実績があっても、簡単に合格できないほどレベルが高いのが現状です。奨励会に入会できても、さらに厳しい勝負が続きます。

奨励会は6級から三段まで9ランクに分かれ(アマの段級とは違います)、規定の成績を収めると一歩ずつ段級が上がります。そして最後の難関の三段リーグ(半年ごと。今期上半期は32人)で2位以内に入れば、四段に昇段して晴れて棋士として認められます。卵が孵化するその確率は2割程度です。奨励会の話は、いずれまた取り上げます。

次回も、コメントへの返事。

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2010年8月13日 (金)

棋士生命にも影響する順位戦・C級2組の降級制度の変遷

第1期順位戦は1946年(昭和21年)に始まりました。第7期以降はA級からC級2組までの現行の5クラス制が定着しました。A級は10人、B級1組以下のクラスは各13人と定員制を設け、各クラスとも毎期、昇級2人・降級2人で入れ替わりました。棋士の実力をクラスで定める厳しい制度でした。しかし当初は、最下級のC級2組は降級が免除されました。将棋連盟の理事会は、C級2組降級=引退で仲間の棋士の首を切ることになる規定を作りにくかったのでしょう。

やがて棋士が増加すると、連盟の財政的事情もあって、第10期順位戦以降はC級2組にも降級枠を設けました。その結果、第10期のC級2組は17人のうち4人が降級しました。40代・50代の3人の棋士は引退し、30代の棋士は「予備クラス」に編入されました。これは現行の三段リーグに相当し、年間2人が四段に昇段しました。

以後のC級2組では、第11期に4人、第12期に3人、第13期に3人が降級しました。その多くが50歳前後のベテラン棋士で、引退に追い込まれました。しかし第13期では棋士1年目の北村文男(七段)が6勝8敗で降級する不運に見舞われ、1年で予備クラスに逆戻りとなりました。このように以前のC級2組順位戦は、棋士生命にも大きく影響する深刻な勝負でした。

第17期順位戦以降は、1年で降級しない「降級点」制度がB級2組以下に設けられました。仮に13人のクラスの場合、降級点(定数は4人に1人)は成績下位3人が該当します。この降級点を通算2回取ると、下位クラスに降級します。さらにC級2組は降級点を通算3回で降級と、降級基準はかなり緩和されました。

1974年(昭和49年)2月。第28期C級2組順位戦の対局で、当時四段の私は星田啓三(八段)に勝ってC級1組昇級を決め、逆に星田は降級点3回で降級(引退)となりました。そのときの複雑な思いは、昨年11月30日のブログで書きました。

ところが74年5月の連盟総会で、加藤治郎(名誉九段)会長が「昨年秋の臨時総会でC2から落とさない議題を出して了承してもらうつもりだったが、うっかり忘れてしまった。時期は遅れたが、この場で了承してもらいたい」と発言し、思いもよらぬ緊急動議を出したのです。しかし、すでに終わった順位戦の勝負の結果を覆すことで、事情はどうであれ本来はありえない話です。実際に反対意見が多かったです。その加藤会長の動議は、結果的に理事会預かりとなりました。

そして後日、C級2組から降級した星田と橋本三治(八段)は、条件付きで現役を続けられることが決定しました。これが現行の「フリークラス」制度の前身に当たる「C3」制度でした。

私はベテラン棋士を救済するぐらいなら、若くて強い奨励会員に門戸を広げるために、四段昇段制度(当時は東西決戦による年間2人)を改めるべきだと思いました。ほかの多くの棋士も同じ考えでした。総会では、奨励会の三段と二段以下を合体した制度(四段昇段者は不定数)も緊急動議されて決定しました。36年前に急に決まったC3と奨励会制度は、ある意味で棋士にも奨励会員にも緩める「バーター」だったような気がします。

次回は、渦中の政治家も出席した「囲碁・将棋チャンネル」パーティー。

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2010年8月10日 (火)

終戦の翌年から始まった実力主義の順位戦制度

戦前の昭和初期の将棋界は、段位に絶対的な重みがありました。しかし年月がたつにつれ、最高位の八段同士で技量の差がかなりあったり、四、五段の棋士が八段に連勝したりして、段位主体の制度の欠陥が次第に露呈してきました。

終戦から3ヶ月後の1945年(昭和20年)11月。空襲による焼け跡と復員服姿ばかり目についたという当時。東京・目黒の将棋連盟(当時は将棋大成会)仮本部で臨時総会が開かれました。その席上で、木村義雄名人(十四世名人)が重大問題を提案しました。従来の段位を主体とした制度を撤廃し、実力主義の新制度を導入しようという爆弾動議でした。総会では活発に論議された末に、木村の提案は基本的に了承されました。やがて新制度に向けて委員会が設けられ、検討を重ねた結果、現行の順位戦制度が発足しました。

翌年の46年5月から始まった第1期順位戦は、新順位決定戦でした。まずA級(八段)、B級(七段、六段)、C級(五段、四段)と段位でクラスに振り分け、勝敗とポイント制でABCの新ランキングを決定しました。その結果、A級は塚田正夫八段(実力制第二代名人)が優勝して木村名人への挑戦権を獲得しました。B級は1位が升田幸三七段(実力制第四代名人)、2位が大山康晴六段(十五世名人)。C級は1位が丸田祐三四段(九段)で、次期には一気に七段へ昇段しました。

それにしても、このような大改革が半年ほどの短期間でよく実現したものです。戦後になって民主主義の世の中に様変わりしましたが、棋士たちの認識も大きく変わったのです。順位戦制度を推進した木村名人は自著で、「将棋界が実力主義の真剣勝負によって、各競技界の先駆となり得たことに誇りを感じている」と綴りました。なお当初は段位も廃止し、ボクシングのように「○級○位」という呼称にしました。しかし段位の肩書がないと、対外的に不都合という声があり、段位は1年後に復活しました。

名人戦は戦前に創設されて以来、毎日新聞社が主催してきました。戦後は新聞社も経営が厳しく、名人戦の契約金は連盟の要求額を満たせませんでした。そんなとき、ある将棋愛好家が社長を務める「日本ハップ社」という薬品会社が協賛してくれました。これによって棋戦の経済的基盤が確立し、新制度がスタートできたのです。

順位戦制度の主旨は、各棋士をABCのクラスに分ける実力主義です。実力ある若手棋士が昇級して台頭しやすい半面、上位棋士やベテラン棋士が低迷して降級することもあります。ところが初期の順位戦では、その主旨に反してA級以外は降級しませんでした。戦後の混乱期はひどいインフレで社会全体が貧しく、連盟は棋士の生活を案じて引退に追い込むような措置をとりにくかったのでしょう。

それとは別の事情もありました。連盟は名人戦の契約金を新聞社に増額要求する根拠として、現役棋士の人数を減らしたくなかったのです。その一環として、アマ名人戦の成績優秀者が順位戦に1期だけ特別参加できる制度も設けました。第3期から第5期にかけて、6人のアマが順位戦に参加しました。成績次第では棋士への道も開かれたようです。アマたちの成績は、加納和夫が7勝5敗、高橋誠司が4勝3敗で、ほかの4人は負け越しでした。

次回は、その後の順位戦と降級制度の変遷。

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2010年8月 6日 (金)

引退に該当しても所定の成績で棋戦に参加できる制度が発効

前期順位戦で有吉道夫九段(当時74歳)はC級2組から降級、年齢規定によって引退となりました。しかしNHK杯戦では予選で3連勝して本戦に出場したので、さらに勝ち続けて優勝したらどうなるのか、という問題が生じました。実際に有吉は1981年に優勝しています。また優勝したら、次期のNHK杯戦にむろん出場できるはずです。しかし1回戦で敗れ、残っていたほかの棋戦も敗れたので、5月24日付で引退が決まりました。

NHKテレビは昨年から、引退の瀬戸際にいる有吉の対局と将棋人生について、ニュース番組などで何回か取り上げてきました。7月には『クローズアップ現代』の番組でも特集しました。そんな影響もあってか、順位戦だけの成績で棋士生命が左右されることを疑問視する声が上がりました。とくに竜王戦を主催する読売新聞社は、竜王戦で実績を挙げれば現役を続けられる制度を要望しました。

将棋連盟は、引退に該当しても所定の実績で棋戦に参加できる制度が7月9日付で発効したことを発表しました。竜王戦は4組以上に在籍、5組在籍者は2期だけ参加。王位戦、王将戦はリーグ残留者。王座戦、棋王戦、棋聖戦、朝日杯、NHK杯はベスト4。銀河戦は優勝か準優勝。以上の実績を挙げれば、棋戦ごとに参加できます。そして対局がすべて終わった時点で引退となります。

この制度の対象者は、順位戦でC級2組から降級した60歳以上の棋士、順位戦で同じく降級して60歳になったフリークラス棋士、順位戦で同じく降級して10年たったフリークラス棋士など。いずれも従来は、その時点で引退となりました。自身の意思でフリークラスに転出した棋士(現在、田丸を含めて18人)には適用されません。

現実的に最も可能性があるのは竜王戦での実績です。4組以上の在籍者は、数年以上は持つでしょう。5組在籍者は、2期以内に4組に昇級すればさらに延長し、1期目に6組に降級すれば2期目はありません。来年以降は、竜王戦だけ毎年対局する棋士が出てくるかもしれません。

将棋界では長年にわたって、順位戦での成績が棋士生命、ランク、対局料、昇段などの基準になってきました。7月に制定された引退規定は、ほかの棋戦の実績を重視するとともに、順位戦偏重を改めたもので、私は大いに評価しています。

それにしても、1人のベテラン棋士の引退問題が社会的にも注目され、その余波によって順位戦を主とした引退規定が改定されたのは、画期的な出来事だったと思います。

順位戦は発足から60年以上たち、現代では様々な問題点を抱えています。しかし勝負の世界らしい「信賞必罰」の厳しい制度として、多くの将棋ファンから注目を集めてきたことは事実です。とくに引退に関係する降級制度は、お隣の囲碁界にはないものです。

次回は、順位戦の歴史と降級制度の変遷。

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2010年8月 3日 (火)

羽生善治名人就位式で世界的指揮者の小林研一郎が音楽でお祝い

羽生名人就位式で音楽でお祝い

先週の7月30日、3期連続・通算7期目の名人位を獲得した羽生善治名人の就位式が東京・目白『椿山荘』で開かれました。名人戦が3年前から朝日新聞社と毎日新聞社の共催になって以来、名人戦第1局の対局場と前夜祭、就位式はこの会場で行われています。

羽生は挑戦者の三浦弘行八段を4連勝で降しました。主催者の新聞社代表は「羽生さんは相撲界の白鵬のように無敵です」と挨拶しました。しかしどの将棋も優劣不明の形勢が続いた大熱戦で、将棋連盟会長の米長邦雄永世棋聖は「内容的には羽生の1勝3敗」という見方をしました。

名人戦が第4局で終わったことで、第5局以降に予定されていた大阪(大阪美術倶楽部)、奈良(春日大社)などでの対局がなくなりました。どちらも公募で選ばれた初めての対局場で、万全の受け入れ態勢を整えていただけに残念だったでしょう。名人戦協賛社の関係者は「来年はできるだけ第7局までお願いしたい」と苦笑を交えて挨拶しましたが、勝負の結果なのでこれだけはどうにもなりません。

ちなみに番勝負が早く終わった場合、行われなかった対局場へのキャンセル料の支払いは一切ありません。ただ翌期以降にまた候補になった場合、優先的に第4局までに割り当てるなどの配慮をするそうです。

来賓の祝辞は原口一博総務大臣。4月の前夜祭にも出席したほどの熱心な将棋愛好家で、連盟から五段免状を贈呈されました。「伝統文化である将棋をしっかり守っていきます」と挨拶すると、万雷の拍手が起こりました。

羽生は謝辞で「対局者として多くの人たちの熱意に支えられてきたんだと、ひしひしと感じています。来年に向けて一歩一歩頑張ります」と述べました。

乾杯の音頭を取ったのは、クラシック音楽界で世界的に活躍している指揮者の小林研一郎。将棋愛好家の小林は5年前に羽生と対談して親しくなりました。その羽生は今年、70歳の古希を迎えた小林の記念コンサートに出席して打ち上げで挨拶したそうです。

普通は祝辞を一言述べてから乾杯に移ります。しかし小林はコンサートで壇上に立ったように威儀を正すと、ややざわついている会場に向かって「すいません、3分ほど静かにしていただけませんか」と呼びかけました。そして前記の羽生との交友談を紹介し、羽生が小林のCDを聴いて感動したというベートーベン『第九番』のある旋律部分を、設置されたピアノで演奏しました。さらに「指揮者が人前で歌うのは緊張しますが、羽生名人にお祝いの歌を捧げます」と語り、ピアノを弾きながら朗々と歌いました。最後の歌詞は「今日の喜びを胸に秘めて」でした。

将棋の就位式の乾杯の音頭で、こんな音楽によるお祝いはかなり型破りでしたが、私はとても胸を打たれました。

次回は、フリークラス棋士の引退規定の改定。

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2010年7月26日 (月)

参議院選挙で当選した元プロ野球選手の石井浩郎は将棋愛好家

先日の参議院選挙・秋田選挙区(定数1)において、自民党から出馬した元プロ野球選手の石井浩郎が民主党候補らを破って当選しました。この選挙では多くのスポーツ関係者が立候補しましたが、当選を果たしたのは石井と柔道家の谷亮子(比例区)の2人だけでした。

じつは、石井は熱心な将棋愛好家です。NHKやCS放送の将棋番組で棋士と記念対局したり、将棋雑誌の企画で女流棋士と対談したことがあります。棋力は初段ぐらい。島朗九段と親交があり、たまに指導を受けています。

雪国の秋田で生まれ育った石井は少年時代、冬は外に出られないのでもっぱら将棋で遊びました。プロ野球選手になってからは、近鉄時代は大石大二郎、ロッテ時代は黒木知宏、横浜時代は中根仁らと指しました。かつてエース投手だった「ジョニー」こと黒木が負傷で2軍にいたころ、石井は精神的な支えとなって黒木を励まし、将棋の弟子でもある黒木と指して闘争心をお互いに高めたそうです。

日曜日の朝に放送される情報番組『ザ・サンデー』(日本テレビ系)で、石井の活躍を伝える「拝啓、石井浩郎です。」という人気コーナーが以前にありました。9年前に石井の将棋好きが伝えられると、レギュラー出演者で野球解説者の江川卓が「将棋で勝負してみたい」と語りました。じつは江川も将棋好きでした。選手時代は監督の長嶋茂雄とも指し、引退後は球界最強というヤクルトの古田敦也と指しました(結果は古田が勝ち)。

江川の一言によって、石井と江川の盤上対決が『ザ・サンデー』の番組で実現しました。対局場は東京・千駄ヶ谷の将棋会館。私は取材でその場に同席しました。江川が「将棋歴は35年。自称二段として胸を貸します」と語れば、石井は「島さんに教わっているので、負けるわけにはいかない」と応じ、両者は自信満々の様子でした。

振り駒で石井が先手番に決まると、江川は「昔からくじ運が悪い。ドラフトもなあ…」とぼやきました。戦型は相居飛車で、中盤までは互角の戦いでした。しかし江川が投げ込んだ「速球」が銀損する「暴投」となって失点しました。ただ石井も好機で「三振」し、形勢は次第にもつれました。そして終盤で石井の「快打」が決め手となり、石井が勝ちました。対局終了後、石井が「次回はホームランを打つ」と語れば、江川は「次回は肩を直して完封する」と雪辱を期しました。

石井はプロ野球選手を引退後、西武の2軍監督、飲食店を経営する実業家を経て、政治の世界に転身しました。秋田をはじめとした疲弊する地方経済を再生させたい、との思いから決心したそうです。

石井は、歩の大事さを意味する「一歩千金」という将棋の格言が好きです。野球でも名将といわれる監督は、歩のような選手をうまく使うそうです。新天地の政界でも、歩にあたる庶民の生活を守る姿勢を貫いてほしいものです。

次回は、王位戦で活躍する「振り穴・王子」こと広瀬章人六段。

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2010年7月23日 (金)

サッカー、竜王戦、年金などのコメントへの返事

「自分もサッカーを観ていて将棋に似ていると思ったのと同時に、プロ棋士が采配をしたら面白そうだなと思いました」とは『加山』さんのコメント(7月6日)。サッカーはゲーム性や戦術面で将棋とは共通点が多いと、このブログ(7月5日)で書きました。もし棋士がサッカーの監督として棋風どおりの采配をしたら、どんな試合になるのでしょうか…。

受け将棋の大山康晴(十五世名人)は、DF(ディフェンダー)や守備的なMD(ミッドフィルダー)で守りを固めるでしょう。独創的将棋の升田幸三(実力制第四代名人)は、常識を覆す戦術を使うでしょう。好きな駒が銀という羽生善治(名人)は、攻防によく働く銀に相当するMDを重視するでしょう。竜王戦6連覇の渡辺明(竜王)は、大試合ほど力を発揮させるでしょう。光速流の寄せの谷川浩司(九段)は、ドリブルやロングシュートでゴールを狙うFW(フォワード)が活躍するでしょう。さばきのアーティストの久保利明(王将)は、パス・ドリブル・センタリングなどのテクニックが華麗でしょう。

「先日の竜王戦(伊藤能五段戦)はどんな内容だったのでしょうか。昇級にも手が届きそうですが」とは『ケイ』さんのコメント(7月9日)。

私は今期竜王戦・6組ランキング戦で、金井恒太五段、土佐浩司七段に連勝し、中村太地四段(6組で優勝)に敗れました。そして昇級決定戦で、飯野健二七段、伊藤能五段に連勝しました。次に熊坂学四段、植山悦行七段―永瀬拓矢四段戦の勝者、櫛田陽一六段に3連勝すれば5組に昇級できます。しかし弟子の櫛田には公式戦で2連敗していて、正直なところ5組昇級は大変そうです。伊藤戦では、矢倉模様から角筋を敵陣に通す新手法を用いました。攻めに重きを置いた私らしい指し方で、金井戦、中村戦でも類似の手法を用いました。今後の対局でも「何匹目かのドジョウ」を狙って指すかもしれません。

「棋士の方にも年金は出るのでしょうか?」とは『五平餅』さんのコメント(7月1日)。

じつは、将棋の棋士は将棋連盟を事業所とする「厚生年金」に加入しています。厚生年金に加入するには、実働が週に4日以上、一定の月額以上の給与所得者などが条件です。しかし棋士は、対局は多くても週に2日で、給与所得者ではなくて自由業の事業所得者です。これには約50年前に役所から要請される形で連盟が加入した経緯があり、月ごとに支払われる順位戦の対局料が「月給」として認定されています。ただ「公益法人制度改革」の問題によって、棋士は厚生年金からいずれ脱退することになると思います。

私は今年で60歳を迎え、厚生年金の2階にあたる「報酬比例部分」については受給資格を得ています。近いうちに社会保険事務所で手続きをするつもりです。

「昔、将棋を教えていただいた、頭金クラブの中沢です」とは『田丸さんご無沙汰しています。中沢です』さんこと、中沢定夫さんのコメント(7月16日)。私は約35年前、横浜の中沢さんたちの将棋愛好会で定期的に指導していました。中沢さんは当時から駒作りが趣味でした。その将棋会や駒作りの話は、後日にあらためてします。

次回は、参議院選挙で当選した愛棋家で元プロ野球選手の石井浩郎さん。

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2010年7月16日 (金)

似て非なる将棋連盟と相撲協会の比較について

似て非なる将棋連盟と相撲協会

将棋と相撲は日本の伝統的文化で、勝負の形式や名称、用語が似ています。棋界と角界、棋士と力士、四角い盤面と丸い土俵、順位戦と番付、指し手と差し手、待ったなし、寄せと寄り切り、などです。

戦前の棋界と角界は、無敵の木村義雄(十四世名人)と69連勝した横綱・双葉山が不敗勝負師の双璧でした。木村は絶頂期、取り巻きと一緒によく相撲観戦したそうです。将棋と相撲は1対1の男の勝負なので、昔から相撲好きの棋士が多く、将棋好きの力士もいました。昭和中期には強さと人気の象徴として「巨人・大鵬(元横綱)・卵焼き」という言葉が生まれましたが、その中に大山(康晴十五世名人)もぜひ入れてほしかったです。

将棋と相撲の総本山は、日本将棋連盟と日本相撲協会。その設立時期は、連盟が1924年(大正13年)、協会が1925年とほぼ同じです。連盟は社団法人、協会は財団法人と、どちらも公益法人になっています。運営形態が「純血主義」なのも同じで、連盟は棋士が運営し、協会は力士出身の親方が運営しています。

何かと共通点が多い将棋界と相撲界ですが、制度や実状をつぶさに見ると相違点がいろいろとあります。連盟は現役棋士でも理事になって運営に携われますが、協会は現役を退いた親方たちが運営しています。将棋では師弟や兄弟弟子の関係でも対戦しますが、相撲では同門同士の取組はありません。将棋の順位戦では6勝4敗の勝ち越しを毎年続けても昇級できませんが、相撲の本場所では8勝7敗の勝ち越しを続ければ番付の地位は確実に上がっていきます。

このように将棋連盟と相撲協会は、似て非なる団体のように思われます。決定的に違うのは財政面です。建設費150億円という両国国技館を無借金で完成させた協会は、年間収入や剰余金で連盟をはるかに上回っています。

私は少年時代から相撲が好きで、約50年前は三代・朝潮(元横綱)のファンでした。当時は、内掛けの琴が浜、四つ身の出羽錦、上手投げの潮錦、足取りの若葉山、食い下がりの「潜航艇」岩風、つり出しの明武谷など、各力士が得意技を持っていて個性的でした。初代・若乃花(元横綱)は、腕力ではなく下半身の力で投げつける「呼び戻し」という不思議な必殺技でよく勝ちました。

近年の力士には、体格が大きいだけで魅力をあまり感じていません。引き技、落とし技で決まることが多いのも興醒めです。かつての舞の海、寺尾のように、小兵でも個性的な鋭い技を繰り出す力士に活躍してほしいですね。

写真は、4年前の初場所の光景で、後ろ姿は琴欧州(大関)。じつは、私の友人が東京場所の維持会員で、「砂かぶり」といわれる席をたまに譲ってくれます。西土俵側の2列目で、西方の力士が塩を取りにくるときにテレビに少し映ります。目の前で繰り広げられる相撲は、とても迫力があります。

次回は、福島・裏磐梯への旅行。

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2010年7月 9日 (金)

参議院選挙に出馬が取り沙汰された芹沢博文と米長邦雄

今週の11日(日)に参議院選挙が行われます。与党が安定多数を維持するか、与野党の勢力が伯仲または逆転するか…。その結果によって政治が大きく変わってきます。

今回の参議院選挙でも「タレント候補」と呼ばれる各界の著名人が数多く立候補し、その大半がスポーツ・芸能関係です。将棋界から政界に打って出た例は今までありませんが、出馬が取り沙汰された棋士はいました。

元首相の田中角栄は大の将棋好きでした。田中が1972年の自民党総裁選で福田赳夫と争ったとき、新名人になった中原誠(十六世名人)が関係者を通じて、田中に自筆の扇子を贈りました。将棋盤の中央で八方をにらむ「5五角」が書かれたその扇子は、「ゴーゴー角(栄)」の意味を込めた応援メッセージでした。そして田中新首相が誕生すると、将棋連盟の理事と中原は首相官邸を訪れ、田中に六段の免状を贈呈しました。それが機縁となり、田中と中原の交流が始まりました。

田中は76年にロッキード事件で逮捕され、その後は政界の表舞台からいったん退きました。しかし多数の田中派議員を擁し、「闇将軍」として影響力を及ぼしていました。そんな時期、東京・目白の田中邸に中原、芹沢博文(九段)、田中寅彦(九段)らの高柳一門の棋士たちが訪れ、角さんに将棋を教えました。角さんの得意戦法は、政治手法と同じように「中央突破」の中飛車でした。

田中は、才気煥発な芹沢をとても気に入っていました。目白御殿で池の錦鯉を一緒に見ていたとき、田中が「錦鯉は土地が変わると色がさめる」と言うと、芹沢が「恋(鯉)もいつかさめる」と当意即妙に応じ、田中の相好を崩したこともありました。また、「将棋を実力初段にしてくれたら、たいていのことは聞く」と真顔で言ったそうです。

80年代はじめ、田中が芹沢に参議院選挙・全国区への出馬を持ちかけました。芹沢はテレビのクイズ番組に出演して知名度があり、さらに田中の後ろ盾があれば当選は十分に可能でした。芹沢も本気だったようです。しかし82年に選挙制度が全国区制から名簿式比例代表制に変わると、出馬の話は立ち消えになりました。

95年の参議院選挙では、自民党の比例代表の目玉候補として米長邦雄(永世棋聖)の名前が浮上しました。米長は青少年への教育問題に以前から関心が深く、国会議員になって文教委員会に所属すると、連盟の所轄官庁の文部省ともパイプが太くなります。A級棋士の米長が国政に進出した場合、公式戦休場か引退かの道を迫られますが、米長は真剣に考えていたようです。当時の比例制度は拘束式で、名簿順位が上位ほど当選が有力となります。一説では、自民党の幹部は米長に「人差し指」を立てたそうです。その仕草が1位か11位かは不明ですが、後者でも十分に当選圏内でした。

米長は記者会見で「カミ(神)の声に委ねる」と語り、出馬の意志について保留しました。そして次の会見では、「カミさん(女房)と相談した結果、出馬を辞退します」と表明しました。カミとは「山の神」だったのです。しかし、それは表向きの理由で、ほかに何か事情があったのでしょう。

やはり棋士は、金バッジを付けて永田町を闊歩しているよりも、和服姿で対局しているほうが様になっています。

次回は、不祥事が続発している相撲界について。

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2010年7月 1日 (木)

山田道美九段の将棋人生などのコメントへの返事

1970年に奇病によって36歳で急逝した山田道美九段の将棋人生について、多くの方から次のような内容のコメントが寄せられました。

『修造』さんは「山田九段の日記を読んだことがあります」(6月21日)。『田舎天狗』さんは「日記を読むと山田九段の将棋に対する思い、昭和20年代の新人棋士の厳しい生活などが描かれ、何度も読み返しても飽きません」(4月30日)。『UT』さんは「現代将棋の系譜を遡ると、必ずぶつかる山田九段についての話を興味深く読みました」(6月21日)。『ケイ』さんは「山田九段といえば、対四間飛車の急戦・山田定跡なしに語ることはできないですね。当時の研究のレベルの高さを測るひとつの物差しだと思っています」(6月26日)。『一ノ谷博士』さんは「山田九段が亡くなったころは子どもだったので、突然お名前を聞かなくなって不審に思っていました」(6月28日)。

山田は自戦記、講座、随筆など、数多くの文章を将棋雑誌に書きました。それらをまとめた『山田道美将棋著作集』全8巻が、約30年前に大修館書店から刊行されました。その第7巻が日記で、『修造』さんも『田舎天狗』さんもそれを読んだのでしょう。昔は社会全体が貧しく、将棋界も同様でした。山田も生活のために、百科事典を売り歩くアルバイトをした時期がありました。

振り飛車が流行し始めた約50年前。山田は有力な振り飛車対策として、棒銀に着目して研究していました。▲3七銀~▲2六銀と進めて▲3五歩と仕掛ける手法で、現代でも加藤一二三九段がよく用いています。その加藤は当時、右銀を2筋に進める棒銀を「そっぽにいく感じ」とやや疑問に思っていたそうです。やがて山田は棒銀に代わる急戦策として、▲5七銀左型から▲3五歩△同歩▲4六銀と進めて仕掛ける手法を編み出しました。それが『ケイ』さんのいう山田定跡で、私も奨励会時代はよく指したものです。

山田の最後の対局は、70年6月6日の大山康晴名人との一戦でした。翌日、山田は研究会である棋士と指しました。その棋士は山田の没後、山田戦の棋譜をどうしても思い出せず、「あの棋譜は山田さんが天国に持って行ったんだ」と思っているそうです。

「青野照市九段があるブログで、≪大山十五世名人はあれだけ実績があるのに昔話はあまりせず、常に将来のことを語っていた≫と言ってました」という内容のコメント(6月8日)は『初心者です』さん。

大山が自身の人生観、勝負観を綴った著書『勝負のこころ』には、数々の名言が載っています。その中の「過去の照り返しに生きるな」「貯金で生活するな」「常に未知の世界へ挑戦せよ」などの言葉は、前記の大山の姿勢をよく言い表しています。また、過去を振り返らなかったのは、一瞬でも立ち止まれない性分もあったようです。一般の人なら、独りで喫茶店に入ったり、居酒屋で飲んだり、映画や音楽を鑑賞することがあるでしょう。しかし大山は、そういうことを何かの目的以外にしない人で、のんびり過ごすのは基本的に嫌いでした。それだけに、ガンが再発して医者から「散歩と昼寝を日課にしなさい」と言われても従わず、結果的に寿命を縮めてしまいました。

次回は、ワールドカップとサッカー・将棋の共通点。

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2010年6月28日 (月)

菅直人さんの将棋は攻めが強くて棋力は二段以上

菅直人さんの棋力は二段以上

新首相になった菅直人さんは、新聞記事で趣味は囲碁と紹介されましたが、将棋もかなり好きです。橋本内閣で厚生大臣を務めた1996年に将棋連盟から二段免状を贈呈されたときは、同じ閣僚で将棋の好敵手でもある田中秀征さん(現・政治評論家)と大臣室で将棋を指しました。私はその場に同席して2人の将棋を観戦しました。手筋を応酬し合う力のこもった熱戦でした。詳しい話は、昨年11月23日のブログを見てください。

翌年の97年12月。私は「週刊将棋」の取材で民主党本部を訪れ、同党代表の菅さんから将棋の話を伺う機会がありました。菅さんは小学生時代に将棋を覚え、近所の友達や大人たちと指しました。将棋に最も熱中したのは「新党さきがけ」に所属していた90年代半ばで、仲間の田中さん、簗瀬進さん(参議院議員)とは、暇さえあれば指していたそうです。政務が多忙になってからは、パソコンの将棋ソフトが相手とのことでした。

菅さんは官僚主導の政治状況に対して、当時から厳しく批判していました。それを将棋に例えて、「霞ヶ関の官僚は、将棋の駒でいえば重い形のベタ金みたいなもの。それが数多くいるので1、2枚取ってもすっきりしません。自分たちを守るためではなく、国民のためにエネルギーを使わせるように、喧嘩せざるをえないと思っています」と語りました。最近は消費税増税問題で官僚に取り込まれているとの批判が出ていますが、数多くのベタ金との関係が注目されるところです。

それから、当時は別の党の代表だった小沢一郎さん(衆議院議員)とは、囲碁の棋友だと語りました。今後は、政界での両者の水面下の布石にも目が離せません。

私は取材後、菅さんと平手の手合いで将棋を指しました。写真は、その対局光景(左が菅さん)。

菅さんは居飛車党で、玉を矢倉に囲いました。攻防のバランスがとれた本格的な将棋で、攻めがなかなか強かったです。早指しで長く考えても1分ぐらいでしたが、指し手はとても正確でした。

私は指導対局として、菅さんが実力を発揮できるように指し進めましたが、それとは関係なく菅さんの指しっぷりは見事でした。棋力は二段以上あると思います。そして菅さんは私に勝利し、「ちょっと早いお年玉をもらいました」と喜んでいました。

菅さんと田丸の将棋は、今週発売の「週刊将棋」(6月30日号)に掲載されています。

次回は、コメントへの返事。

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2010年6月25日 (金)

現代棋界に受け継がれている山田道美九段の精神と研究法

山田道美九段の精神と研究法

山田道美九段は仲間内と群れるのを好みませんでした。ただ関根茂九段、宮坂幸雄九段、富沢幹雄八段とは親しい間柄でした。1960年代前半のころ、その4人で実戦主体の研究会を始めました。共同研究なら各自の考えが違っていて広がりがあるからです。これが現代棋界で行われている「研究会」の草分けでした。私は奨励会の二段時代、山田の研究会に1回だけ特別参加させてもらいましたが、公式戦のように真剣な空気でした。

山田は無敵だった大山康晴(十五世名人)とタイトル戦で激闘するうちに、中終盤の力不足を痛感しました。それを克服するために難解な詰将棋に取り組み、青年時代の中原誠(十六世名人)や森けい二(九段)と「VS」(1対1の練習将棋)で指して鍛えました。山田が勝てば相手に1勝あたり5局分の棋譜筆写を課し、負ければ相手に1000円を払う条件でした。複写機がなかった当時、棋譜の入手は筆写しかなく、山田は将棋会館に通っては手書きで棋譜を集めていました。

さらに、山田は15人ほどの奨励会員を集めて「山田教室」を開きました。会場は山田が会館の近くに研究室用に借りていたアパートの一室。開始時刻の朝8時に遅刻すると罰金があり、そのかわり山田は早く起きて朝食を用意してくれました。まるで合宿のような雰囲気でした。山田は奨励会員と指しても手を抜かず、私は1局も勝てませんでした。

棋士同士の研究会、A級棋士と若手棋士とのVSや奨励会員との研究会。現代では珍しくない研究法ですが、当時はかなり異例のことでした。将棋の研究に打ち込んできた山田にとって、格とか体面といった問題は眼中になかったのでしょう。やがて山田の考えに影響を受け、中原や米長邦雄(永世棋聖)も別の研究会を開きました。

山田は奨励会員に対して暖かい目線で接し、伸び悩んでいる者には親身になって励ましました。私も低迷していたころ、山田の激励で立ち直れました。また、「将棋に勝つには健康管理が大事」と考え、奨励会員と一緒にハイキング、テニスをして体を鍛えました。

山田はタバコを吸わず、お酒は付き合い程度。対局で疲れるとサウナや指圧で体を癒しました。将棋を中心にした生活を送るために、普段から摂生を心がけていました。そんな山田が急に病魔に襲われたのです。

1970年6月上旬。私が会館で山田を見かけて会釈すると、山田は笑みを浮かべながら手を挙げました。それが、私が最後に見た山田の姿でした。じつは、そのころから山田の体調は良くなく、腰が痛かったそうです。そこで指圧を受けたところ、結果的に逆療法となって腰から出血しました。入院してもすぐに適切な治療を施されず、「血小板減少性紫斑病」という病名が判明したときには、すでに手遅れとなってしまいました。70年6月18日、山田は現役A級棋士として36歳の生涯を閉じました。

山田の絶局は6月6日の大山戦でした。両者は盤上で何局も激闘しましたが、対局を重ねていくうちにお互いの生き方を理解するようになりました。最後の対局の休憩時間には、将棋連盟の運営や普及活動について論じ合ったそうです。

山田が生きていたら、その後の棋界はまったく別の様相になったでしょう。ただ山田の将棋への真摯な精神や研究法は、現代棋界に受け継がれています。

次回は、新首相となった菅直人さんの将棋の腕前。

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2010年6月22日 (火)

無敵の大山康晴とタイトル戦で激闘した山田道美

大山康晴と激闘した山田道美

山田道美九段は序盤作戦の研究に打ち込んで「将棋博士」と呼ばれましたが、ほかの棋士には「形にとらわれたひ弱な将棋」と低い評価でした。しかし地道な努力を積み重ねて実力をつけ、1965年の名人戦で大山康晴名人に挑戦しました。写真は、右が山田、左が大山。

当時の大山はタイトル(五冠)をほぼ独占して無敵でした。全国を転戦したタイトル戦の対局では、対局前夜・1日目の夜・2日目の終局後と、好きな麻雀を関係者と打つのが恒例でした。そうして対局場の空気を自分のペースで仕切ったのも、ひとつの盤外戦術だったのです。大山の麻雀好きの話は、昨年11月9日のブログを見てください。

山田はそんな大山の仕切りに対して猛反発しました。地方の対局での移動は単独行動し、対局中の食事は自室でとりました。大勝負をしている相手の棋士と車中や食事の場で一緒にいられるか、というのが山田の率直な気持ちでした。大山とは対局室以外はできるだけ離れ、それによって敵愾心と戦意を高めたのです。

山田は本来は温厚な性格でした。しかし大山との対局では、闘志をむき出しにして戦いました。対局中に「よーっし」と言って自分に気合を入れたり、「自源流、自源流」(薩摩の剣法)とつぶやいたりしました。大山と雑談する関係者には、退室を要求しました。

山田は名人戦で1勝4敗と敗退し、大山の腰の重さと駆け引きのうまさを痛感しました。しかし「中終盤の力さえつければ、大山打倒も夢ではない。近い将来、きっと大山城を落城させるつもり。今の私は、倒幕の志士の心意気だ」と大山打倒を宣言しました。なお、倒幕の志士を「野武士か素浪人」と後に訂正しました。倒幕を叫びながら京都の祇園で遊んでいた志士たちの行状は、自分とは違うというのです。山田はお酒をほとんど飲まず、私生活はとても品行方正でした。

山田が大山に再挑戦した66年の王将戦では、山田が3勝1敗とリードしました。その第3局の終盤戦でハプニングが起きました。読みに没頭した山田の上体が前傾して盤上に影を落とすことが続くと、大山が思わず「暗くしなさんな!」と声を荒げたのです。

大山は山田との対局で、棋界の第一人者として当初は冷静に対応していました。しかし山田の炎のような闘志にあおられ、前記のように感情をあらわにする場面もありました。山田が休憩時間に盤の前で考えていると、「休憩中は盤に蓋をしてほしい」と関係者に言ったりしました。また王将戦第3局では、精密機械といわれた読みに狂いが生じて、勝ち将棋をトン死で逆転負けしました。

66年の王将戦は、大山が4勝3敗で逆転防衛しました。山田が念願の大山打倒を果たしたのは、3勝1敗で破った67年の棋聖戦でした。

山田は「大山さんには棋聖戦の前、もう峠だと言われましたが、とんでもないと思いました。峠どころか、私はこれから登るところです。今は『たどりきて山麓』という心境です」と、初タイトル獲得の感想を語りました。

次回は、現代に生きている山田将棋の精神。

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2010年6月18日 (金)

40年前に奇病によって36歳で急死した山田道美九段

奇病によって急死した山田九段

40年前の1970年6月18日。A級棋士の山田道美八段(追贈九段)が36歳の若さで急死しました。死因は「血小板減少性紫斑病」という奇病でした。

1960年代から70年代にかけての将棋界は、大山康晴(十五世名人)がタイトル(五冠)をほぼ独占して無敵を誇っていました。大山は宿命のライバル・升田幸三(実力制第四代名人)、新世代の二上達也(九段)や加藤一二三(九段)らの挑戦をことごとく退けました。その大山に対して、敢然と立ち向かったのが山田でした。山田は65年に名人戦、66年に王将戦で大山に挑戦し、いずれも敗退しましたが、壮烈な気迫と力あふれる戦いで大山を苦しめました。

山田は学究派の棋士で、その生き方は青年時代の中原誠(十六世名人)や米長邦雄(永世棋聖)にも影響を与えました。今日のプロ棋界で用いられている「研究会」「VS」などの勉強法は、山田が最初に取り入れたものでした。私も奨励会時代、山田には大いに感化されました。今回から3回にわたって、山田の将棋人生と将棋界に残した足跡を伝えます。

山田は1933年に愛知県で生まれ、同県に住んでいた金子金五郎九段の弟子となりました。金子は戦前に創設された実力名人戦に第1期から参加した大棋士で、序盤戦術に精通したので「序盤の金子」と謳われました。

山田は16歳のときに上京し、奨励会に初段で入会しました。その山田を後見人として世話をしたのが京須行男八段(森内俊之九段の祖父)で、入会当初は成績が悪かった山田に「1日1局主義」を勧めました。1局1局を必死に頑張れという意味でした。昔の奨励会は持ち時間がとくになく、山田は朝から夕方まで盤にかじりついていました。やがて、この主義が功を奏して成績が向上し、山田は17歳で四段に昇段しました。

山田は師匠の影響を受け、若手棋士時代から序盤作戦の研究に打ち込みました。しかし昔の将棋界は「将棋は中終盤の力が大事」という風潮が強く、山田は仲間内で「形にとらわれたひ弱な将棋」と低い評価でした。実際に山田は中終盤の戦いで非力な面があり、考え過ぎてポカを指すこともありました。

山田はひたすら独自の研究に取り組み、将棋雑誌に研究内容や新手法などを発表しました。それはかなり専門的なものでした。本来は「軍の機密」ともいえる情報を公開したことに、得策ではないと忠告した棋士もいましたが、山田は意に介しませんでした。

山田は当時の棋士としては珍しく多趣味でした。ドイツ文学やクラシック音楽を愛好し、将棋雑誌に私的な内容の随筆を書いたりしました。その文章には、自身の教養を強調したり、ほかの棋士の無教養を批判するような表現が時にありました。そのために仲間の棋士に反感を持たれ、初参加したB級1組順位戦では5勝7敗の成績ながら、ほかの棋士たちに成績を調整されて降級しました(昔は互助会的な人間関係がありました)。

「将棋博士」といわれた山田が盤上で脚光を浴びたのは65年の名人戦でした。

次回は、大山と山田のタイトル戦での激闘。

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2010年6月10日 (木)

元女流棋士の林葉直子が起こした16年前の失踪騒動

林葉直子が起こした失踪騒動

16年前の1994年6月10日。元女流棋士の林葉直子(当時・倉敷藤花のタイトル保持者)は前日の9日に続いて、10日の公式戦も対局場に現れず不戦敗しました。この問題がメディアを巻き込む大きな騒動に発展したのです。

じつは対局の10日ほど前、林葉は将棋連盟のK理事に「休養願い」と題する封書を手渡しました。同じ理事の私はK理事に相談されて開封すると、「私は心身ともに疲労を感じて極限状態です。つきましては、すべての活動を停止し、しばらく休養したいと思います。私の棋士の処遇については、すべて理事会の決定に従います」という主旨でした。理事会ですぐに協議したところ、特例として受理することになりました。ただし、すでに決定している対局の措置について、林葉と早急に話し合う必要があり、私はその問題の担当を任されました。しかし林葉とは連絡がまったく取れませんでした。

10日には東京将棋記者会の会合があり、林葉の連続不戦敗について報告することになりました。私はB級1組順位戦で対局中でしたが、30分ほど中座して記者会に出席しました。こんな体験は、棋士人生でもちろん初めてでした。

翌日の一般紙は林葉の不戦敗と休養願いを一斉に報じ、スポーツ紙には「林葉失踪?」という見出しが大きく載りました。その後、ある医者との熱愛、インドの予言者・サイババへの傾倒、父親との確執、茶番劇の説など、様々な情報が飛び交いました。私は連盟の広報担当理事として、テレビ・新聞・週刊誌などの取材に応じましたが、私自身が事情を何も知らなかったので応対にほとほと困りました。林葉の休養願いには「定期的に理事会に連絡します」と書いてありましたが、実際はほとんど音信不通でした。

やがて、林葉がイギリスに渡航したことが判明し、7月中旬に極秘帰国しました。そして将棋会館で記者会見が開かれ、200人もの報道陣が集まりました。写真は、翌日の新聞記事で、林葉の横にいる青いスーツ姿が田丸です。林葉は会見で「こんな大騒ぎになるとは思わなかった」「ストレスがたまっていた」「将棋を世界に広めたかった」などと釈明しました。しかしメディアには不評で、「甘えるな」という厳しい論調となりました。

94年6月に23歳の羽生善治新名人が誕生しました。ただ当時のメディアの関心はもっぱら林葉に向けられ、報道合戦はかなり過熱していました。小説も書く美貌の女流棋士が対局を不戦敗してまで海外に失踪した話は、とてもミステリアスで絶好のネタだったのでしょう。その林葉は連盟から3ヵ月出場停止の処分を受け、94年秋に公式戦に復帰しました。じつは、そこまでが「林葉劇場」前編で、後編は次のように展開しました。

95年に連盟に退会届を提出して受理される。ヌード写真集を出版。98年に週刊誌の報道で年上男性との不倫が発覚。美容整形で話題に。東京・六本木にカレー料理店を出す。経済的に破綻して自己破産。

最近、林葉の将棋界復帰の話が流れています。女子テニスの伊達選手のようにプロに戻るのは無理ですが、オープン棋戦には出場できます。林葉の対局姿と往年の強さを見たいと思っているファンは今でも多いでしょう。

次回は、東西棋士のテニス対抗戦。

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2010年6月 7日 (月)

36年前の女流棋士制度発足の推進者は大山康晴十五世名人

私は今年1月から4月まで計4回、「女流棋士研修会」の冒頭30分間で女流棋界の歴史について講義しました。主な参加者は若手の女流棋士で、未知の話を興味深そうに聞いていました。私は熱弁を振るっていると、ふと女子大の講師になったような気分でした。また、将棋の歴史を改めて調べてみて、自身もとても勉強になりました。

女流棋界の歴史について、江戸時代から約15年前の現代まで時系列で講義しました。それらを要約したものを列記します。

江戸時代後期の文献に大橋浪女、池田菊女らの女性が将棋を指した記録。約100年間の女性不在の時期を経て、1960年代に女流棋士の草分けの蛸島彰子(女流五段)が奨励会で修業。女流アマ棋戦、女性教室の開催で女性ファンが増える。1974年に女流棋士制度が発足して蛸島、関根紀代子(女流五段)ら6人が女流棋士に認定。81年の新人王戦で時の女流タイトル保持者がプロ公式戦に初参加。80年代前半に林葉直子(元女流棋士)、中井広恵(女流六段)らの若い世代が台頭。林葉、中井らの活躍によって女流棋界が社会的に注目され、女流棋戦も増加。93年に中井がプロ公式戦で男性棋士に初勝利。96年に清水市代(女流二冠)が女流四冠を独占。

以上の女流棋界の歴史において、大きな節目になったのは36年前の女流棋士制度の発足でした。事の発端は、女流アマだった関根に指導を受けていた人の口利きによって、報知新聞社と将棋連盟の間で女流棋戦設立の交渉が始まったことです。そして「将棋もスポーツのようにジャンルを男と女に分けるべきだ」という連盟首脳の大山康晴十五世名人の考えと、「華やかで明るい紙面にしたい」という報知の編集方針が合致し、女流プロ名人位戦が設立されたのです。

盤上盤外で実力者の大山が「将棋が強くなければ、女性というだけでプロに認めない」というような保守的な考えだったら、女流棋士制度は36年前に実現しなかったでしょう。その意味で女流棋士制度を推進した大山は、女流棋界の基礎を築いた陰の功労者だと思います。女流棋士研修会での歴史講義の結びでも、私はそれを強調しました。

東京の将棋会館は、大山の献身的な募金活動によって34年前に建設されました。大山は会館の設計にあたって、女子トイレの増設を主張しました。当時の棋界はプロもアマも女性は少なかったのですが、いずれ多くの女性が会館を訪れる時代がくるはずだと期待したからです。その大山の先見性は、今日の女流棋界隆盛や女性ファン増加で証明されました。

私は、元女流棋士の林葉直子の活躍や人気も棋界活性化の大きな力になったと思っています。その一例が女流王位戦で、林葉の地元・福岡の西日本新聞社(王位戦の加盟社)の後押しなどで設立されました。そんな林葉に関わる思わぬ騒動が16年前に起きました。

次回は、16年前に勃発した女流棋士の失踪騒動。

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2010年6月 3日 (木)

「女流棋士研修会」で女流棋界の歴史講義

女流棋士研修会で歴史講義

女流棋士の実力向上を図る趣旨で、「女流棋士研修会」が将棋会館で月2回行われています。女流棋士の参加者は8人前後で若手が多く、清水市代女流二冠もたまに参加します。女流棋士は若手棋士、奨励会員らと2局指します。公式戦のように真剣な様子で戦い、男性側は勝つと将棋連盟からの謝礼が増えます。

女流研修会の幹事はA級棋士の高橋道雄九段。その高橋から私に、研修会参加の依頼がありました。ほかのベテラン棋士にも声をかけていて、女流棋士に「おふくろの味」ならぬ「おやじ将棋の味」を体験させたい意図があるようです。

私は将棋を指すことは辞退しました。その代わりに、女流棋士に女流棋界の歴史を講義したいと提案しました。女流棋士には自分たちの世界の歴史をもっと知ってほしいと、以前から思っていたのです。私は若いころから将棋の歴史を調べていて、女流棋界が発足した約35年前の経緯もよく知っていました。高橋幹事は私の提案を受け入れました。私は今年1月から4月まで、研修会の冒頭30分間で計4回の歴史講義をしました。

写真は、4月の参加者たち。左から渡辺弥生2級、熊倉紫野初段、中村真梨花二段、鈴木環那初段、山口恵梨子初段。渡辺は遅咲きの東大出身棋士。山口は18歳で私が会ったのは小学生以来。

第1回の講義では、江戸時代まで遡りました。将棋の文献に女性が初めて登場したのは江戸後期の文化年間(19世紀初頭)。大橋浪女二段が福島順喜七段と飛車落ちの手合いで指した棋譜が残っています。私が大盤でその将棋を並べると、女流棋士たちは200年前の浪女の戦いぶりを興味深く見つめ、好手を指すと喝采を送りました。勝負は、浪女が一手勝ちを収めました。当時の将棋番付には、ほかに池田菊女、水野こう女などの名前が載っていましたが、人数は少なく棋力もあまり高くなかったです。

その後、明治〜大正〜昭和と時代が移ると、将棋を指す女性はほとんどいませんでした。賭け将棋がよく指されたことも、女性から敬遠された一因になりました。将棋の歴史に女性が再び登場したのは、昭和中期になってからです。その話は、次回にします。

囲碁界の女流棋士の歴史は、将棋界よりもはるかに長くて水準も高かったです。豊臣秀吉が天下を統一した16世紀末の文献には、囲碁を打つ女性の記述がありました。江戸から明治の時代にかけては、多くの女流棋士が活躍しました。喜多文子八段は伊藤博文、渋沢栄一らの政財界トップに指導しました。また、昭和の名棋士として知られる坂田栄寿二十三世本因坊の師匠は増淵辰子八段でした。これを将棋界に当てはめると、同世代の大山康晴十五世名人の師匠が女流棋士というようなものです。

囲碁の女流棋士は将棋の女流棋士よりも水準がはるかに高いと、両者の実力がよく比較されます。ただ前記の例のように、歴史がまったく違うのですからしかたないことです。

次回は、女流棋士誕生の経緯とその後の発展。

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2010年5月26日 (水)

今年の将棋連盟総会の重要案件は「公益法人改革」

将棋連盟の通常総会が本日・26日に開催されます。国政でいえば国会の本会議で、重要案件の議決や理事選挙(2年ごと。今年は非改選)が行われます。出席資格者は206人の正会員(現役・退役の棋士。女流棋士は含まれない)。出席率は約8割と高く、東西の棋士が一堂に会する光景はなかなか壮観です。以前の会場は東京・将棋会館の大広間でしたが、棋士の人数が増えて手狭になったので、隣のビルの会議室を借りています。

開会は午後1時。冒頭で会長の米長邦雄永世棋聖が挨拶し、議長指名・新四段紹介・各部報告・質疑応答・重要案件の討議という手順で進行します。以前は非公開でしたが、今は開会から新四段紹介まで報道陣に公開しています。

企業の株主総会の中には、「シャンシャン総会」というような短時間で閉会する社もあります。しかし連盟の総会は時間をかけて議論します。約35年前の総会では、多くの重要案件があったうえに議論が白熱し、閉会が翌朝4時という「暁の総会」となりました。

当時は議長がいませんでした。みんなが勝手に話したり議論が脱線して「千日手」模様となり、収拾がつかない事態に陥って長引いたのです。また、実力社会なので上位棋士の威光が強く、「下位者は黙れ! 文句があるなら将棋で来い」と威張った棋士もいました。

今はかなり様変わりしています。指名された2人の棋士が議長として、議事を円滑に進行させ、挙手をした者にしか発言を認めません。粛々と進行して私語はほとんどなく、野次が乱れ飛ぶ国会よりもはるかに規則正しく紳士的です。以前と違って、上位棋士が睨みを利かすような空気はなく、下位棋士でも自由に意見を述べられます。

今年の総会では「公益法人改革」の制度が重要案件です。連盟は文部科学省の外郭団体・文化庁が所管する公益性が高い社団法人です。しかし政府が3年前に決定した前記の制度によって、すべての公益法人が数年以内に改めて申請することになりました。その内容で「公益法人」と「一般法人」に選別されます。公益法人の名の元に、不適切な事業をしたり私利を得る法人を整理する意図もあるのでしょう。

連盟は棋戦主催や普及事業などで将棋の普及を推進し、これまでに一定の成果を収めてきました。財務面は健全で借入金はなく、自主独立で運営してきたので、政府からの補助金を受けていません(天下りもありません)。

そうした体質の連盟が公益法人として申請して何ら問題がないと、私たち棋士は思っています。しかし公益法人に認可されるには、高いハードルがあります。とくに、特定の人(棋士)が利益を得ることはできません。もちろん対局料や賞金は認められますが、棋士が得ているそのほかの待遇や既得権が問題になりそうです。今年の総会では、それをどう調整するかで議論されます。各棋士の利害に関わることなので、簡単には決着しないと思います。

次回は、大盤解説会で行った九州・熊本での観光。

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2010年5月24日 (月)

田中寅彦九段が強豪アマに提訴された「居飛車穴熊・元祖」裁判

居飛車が振り飛車に対して、玉を穴熊囲いで堅く守る戦法が「居飛車穴熊」。この戦法が流行し始めたのは33年前の1977年で、火付け役は前年に棋士デビューした田中寅彦九段でした。田中が居飛車穴熊で勝ちまくると、ほかの棋士も用いるようになり、やがてアマ間にも広まりました。当初の居飛車穴熊の威力は強烈で、「イビアナ」という怪獣のような異名がついたほどです。そのあおりを食って、振り飛車党が激減しました。

その後、振り飛車側の対策が進んで一時の猛威は失せました。しかし居飛車穴熊が有力な戦法であることに変わりありません。今では多くの棋士が用いて、現代将棋の定番になっています。竜王戦、名人戦などのタイトル戦でも指されます。

居飛車穴熊が公式戦で初めて指されたのは約60年前のA級順位戦で、原田泰夫九段が手詰まり状態から成り行きで穴熊に囲いました。1968年の名人戦(大山康晴名人―升田幸三九段)第2局では、升田が居飛車穴熊を用いて周囲を驚かせました。また74年のころには、田中と同期の若手棋士や奨励会員が指していました。

したがって居飛車穴熊は、田中のオリジナル戦法ではありません。しかし奇策と思われた居飛車穴熊を本格的戦法に定着させたのは田中の功績で、同時に田中の強さを証明しています。先駆者の成績が良くなかったら、新戦法は流行しなかったはずです。やがて田中は「私が居飛車穴熊の元祖」と、テレビ解説や自戦記などで謳うようになりました。私を含めて多くの棋士は、前記の理由からそれを別におかしくないと思っていました。

その田中に対して「我こそが居飛車穴熊の元祖」と主張したのが、全国的アマ棋戦で優勝歴があった強豪アマの大木和博さんでした。大木さんは以前から居飛車穴熊を得意にしていたようで、1970年代の将棋雑誌には指した将棋が載っていました。

大木さんは1996年に「元祖の呼称を何度も公言されて精神的苦痛を受けた」として、田中に元祖や創始者などの呼称の使用差し止めと300万円の損害賠償を求めて提訴しました。将棋の戦法の元祖を巡る、きわめて珍しい裁判でした。法廷では両者の戦績や様々な資料が証拠として提出されました。ただ、あまりにも専門的な問題だけに、裁判官は判断に苦慮したようです。結審まで3年かかったのは、問題の難しさを物語っています。

1999年に東京地裁で判決が下され、裁判官は「戦法の発展と向上、将棋界への貢献などを総合すると、ともにこの戦法の使い手として広く知られている両者は、尊敬の念をもって元祖や創始者と呼ばれるにふさわしい。田中さんが元祖と名乗っても、大木さんへの違法な権利侵害とはいえない」と述べ、原告の大木さんの請求を棄却しました。

裁判官は両者の立場を配慮し、引き分けの決着とした穏便な判決でした。その後、原告は高裁に控訴しましたが、ほぼ同じ内容の判決となりました。

古い歴史がある将棋で、いつ誰がその戦法を考え出したと特定すること自体が無理な話だと思います。

次回は、今週26日の将棋連盟総会について。

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2010年5月20日 (木)

加藤一二三九段と近隣住民との「猫」裁判は加藤敗訴

先週の14日、ある裁判の判決が新聞・テレビで大きく報じられて話題になりました。その当事者が何と加藤一二三九段でした。

新聞記事によると、東京・三鷹の集合住宅に住んでいる加藤九段が、17年前に自宅の玄関前や庭で野良猫に餌を与え始め、やがて周辺に現れた猫は多いころで18匹まで増えました。その結果、同じ敷地内の住民たちは猫の糞尿の始末や悪臭に悩まされたり、車に引っかき傷をつけられました。

住民たちは「迷惑を及ぼす恐れのある動物を飼育しないこと」と定めた管理組合の条項に違反するとして、猫への餌やりを中止するように何度も求めましたが、加藤は断固として拒み続けました。そしてついに2年前、全10戸の集合住宅のうち9戸の住民たちが加藤に対して、猫への餌やりの中止と慰謝料請求で東京地裁に提訴したのです。

加藤は裁判で、「猫は迷惑を及ぼす恐れのある動物ではない。動物愛護の精神で猫に餌を与えていて、猫の数を減らすために不妊去勢手術をした」と主張しました。

東京地裁の判決は、「被告は猫に餌やりだけでなく、段ボールを用意して住みかを与えて飼育している。その猫が原告住民に様々な被害を及ぼしていて、住民らの人格権を侵害している」として、加藤に餌やりの中止と約200万円の慰謝料支払いを命じました。

原告の住民たちの主張が全面的に認められた判決でした。一方の敗訴した加藤は、「猫は私の友達みたいなもの。静かで危害も加えません。命あるものを大切にする私の信念は変わらず、今後も餌やりは敷地外で続けます」と語り、判決を不服として控訴する方針だそうです。

動物愛護の精神と居住者の権利を巡った裁判でした。同じようなケースの訴訟はほかにもあるそうです。その背景には安易に捨て猫をする飼い主の無責任さがあり、捨て猫を世話する「地域猫」活動にも影響を及ぼしかねない判決となりました。

私は猫年(寅年)のよしみで猫が大好きで、公園や路上で猫を見つけると、「ニャオー」と声をかけて挨拶します。たいがい無視されますが、その冷淡さが猫らしいところです。

あるテレビ情報番組で、将棋愛好家でもある漫画家・さかもと未明さんが「加藤先生はその猫をどこかで飼えばいいのよ。そして将棋も指せる『猫カフェ』の店を出したら、私は絶対に行くわ」と語っていました。なかなか名案ですが、実現性は薄いでしょう。

それにしても民事裁判とはいえ、名人にもなった棋士が被告席に座る事態は前代未聞でした。じつは10年ほど前にも、居飛車穴熊の「元祖」とうたった田中寅彦九段に対して、あるアマ強豪の人が提訴した一件がありました。

次回は、その裁判の顛末について。

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2010年5月17日 (月)

中原―大内の名人戦、村山九段との対局などのコメントへの返事

「当時は今以上に名人の価値があったわけですから、大内八段にかかった重圧は相当なものだったのでしょうね」とは『冬木』さんのコメント(4月27日)。

1975年の名人戦(中原誠名人―大内延介八段)第7局は将棋史に残る大激闘でした。私は記録係として盤側からつぶさに見ていましたが、勝利と名人を意識した大内の揺れ動く対局心理がひしひしと伝わってきました。1日目で早くも優勢となった大内が、当夜は寝つけなくて思わず窓を開けると、中原の部屋にも明かりが灯っていました。後日談によると、中原は一睡もできなかったそうです。両者の名人への強い思い入れを象徴するエピソードで、名人は特別な存在と認識されていた時代でした。

「大内八段はあんまり時間がなくて、▲4五歩と突く前に▲7一角と指してしまったんですね。その手を見た中原名人は悠然とトイレに行った…なんて逸話を思い出します」という内容のコメント(4月29日)は『天童市民』さん。

大内が名人を取り損ねたその運命の局面で、残り時間は3分ありました。大内は2分考えて▲7一角と打ちましたが、実際は▲4五歩と突いてから▲7一角と打つ読み筋なのに、なぜか手順前後してしまったのです。1分将棋の秒読みに追われ、ふと読み筋に空白が生じたのでしょう。一方の中原は残り時間が約1時間ありました。観戦記によれば、相手に失着が出たときにゆっくりと手洗いに立つのは奨励会時代からの中原の癖だそうです。

「田丸八段が指した対振り飛車の急戦の棋譜(銀河戦・櫛田陽一六段戦)を見ると、普通の船囲いではなく、二枚金の囲いでした。船囲いと比べて、二枚金の囲いの利点と弱点を教えてください」という内容のコメント(5月1日)は『ケイさん』。

対振り飛車の居飛車側の玉の囲いは、普通は≪6八銀・6九金・5八金≫の船囲いです。私が指した≪7九銀・6八金・5八金≫の囲いは、金無双(きんむそう)と呼ばれます。主に相振り飛車の戦型で用いられます。船囲いとの比較で利点は、がちっと堅いこと、玉の左側を攻められたときに▲8八銀と上げて守れることです。弱点は駒組に進展性がないことですが、最初から急戦をめざす方針なら問題ありません。

「村山聖九段の追悼番組で、1993年の銀河戦で田丸八段が村山七段と対局されたのを見ました」とは『morris』さんのコメント(5月5日)。銀河戦の村山戦は不定形の相居飛車で、私がのびのびと指したら自然に勝ってしまったという内容でした。それで村山のAブロック・8連勝を阻止しました。

私が村山と最後に対局したのは、1998年2月のB級1組順位戦でした。その年の最初の対局だったので、久しぶりに羽織袴を着用して臨みました。勝てばA級昇級が決まる村山に対して、「相手の大事な一番こそ全力で戦え」という米長哲学を実践する心境でもありました。将棋は私の得意型の急戦矢倉から乱戦となり、村山が終盤で一気に寄せて勝ちました。その村山が29歳の若さで病死したのは、半年後の98年8月でした。

次回は、加藤一二三九段と近隣住民との「猫騒動」。

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2010年4月30日 (金)

田丸自戦記の表題、ポンポン桂、宮坂九段、などのコメントへの返事

「浪人生の息子にもブログの記事のお話を聞かせてあげて親子の会話につながっています」とは『将棋好きの息子の母』さんのコメント(4月12日)。受験勉強で好きな将棋ができない息子さんの気分転換にこのブログの話をしているようで、お母さんの気持ちがよく伝わってきます。将棋が親子の絆になっているとは、とてもうれしい話です。

「田丸八段は振り飛車党ですが、公式戦で振り飛車を指したことはありますか」とは『サスケ』さんのコメント(4月14日)。私は公式戦での振り飛車は2~3局あります。いずれも若手棋士のころで、その後は性に合わないのでやめました。近年は5筋の位を取る昔風の変則的な指し方をよく用いていて、その流れで中飛車に振ることはあります。

「ポンポン桂という名前は、杉本昌隆七段の振り飛車破りの著書で見たものです。宮坂幸雄九段もよく指していたようです。その宮坂九段は、現在大流行している〈相掛かり・引き飛車棒銀〉の先駆者でもあります。宮坂九段とはどんな棋士なのでしょうか」という内容のコメント(4月14日)は『ケイ』さん。

〈ポンポン桂〉という攻め方が杉本七段の著書で解説され、宮坂九段がよく指していたとは、まったく知りませんでした。振り飛車党の杉本が振り飛車破りの指し方を解説するのは意外でしたが、自身が実戦で指されて困った経験があったのでしょう。ポンポン桂は江戸時代からある古い定跡です。宮坂は古典将棋に造詣が深かった故・富沢幹雄八段と研究仲間で、その関係からポンポン桂の威力を認識したのでしょう。

宮坂九段が〈相掛かり・引き飛車棒銀〉の先駆者ということも初めて聞きました。20年前の私と宮坂の2局の将棋では、宮坂は2局とも相掛かりの下段飛車から▲5七銀~▲4六銀と進めて攻めてきました。宮坂は地味な棋士でしたが、攻守にバランスがとれた実力者でした。その棋士人生については、いずれ紹介します。

「私が中学生のころ、将棋世界誌で読んだ田丸八段の自戦記の題が〈おっかない顔をして〉だったと思います。ユニークな題なので今でも鮮明に覚えています。じつは上京してから武市三郎六段と仲良くしていただき、一緒に居酒屋に行ったときに田丸八段がお見えになったのを記憶しています」という内容のコメント(4月18日)は『田舎天狗』さん。

その私の自戦記は将棋世界・1973年3月号に載りました。新四段として初参加したC級2組順位戦の田辺一郎四段戦でした。〈おっかない顔をして〉の表題は、私が尊敬する故・山田道美九段が順位戦の厳しさを表現した〈あたかも子供が自分の顔に泥をぬり、鏡をみて自分をこわがるように…〉という一節を参考にしたものです。私も顔に泥を塗っておっかない顔をして将棋を指し、厳しい順位戦を戦い抜こうという心境でした。武市六段と一緒に行ったという居酒屋は東京・中央線沿線にあり、私は今でも通っています。

それにしても、コメントを寄せる方々は昔のことをよく覚えていますね。そして、今でも将棋を愛好されていることが素晴らしいです。ほかの方々のコメントへの返事は、また改めてします。

次回は、5月5日の田丸の60回目の誕生日。

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2010年4月15日 (木)

講師を務めた27年前のNHK将棋講座

「私が将棋を覚え、母親にNHK講座の本を買ってもらったときの講師が田丸七段でした。そのときの内容は【スジチガイ角】。テレビを観ながら訳もわからず並べていたのを思い出します。当時小学生の私も、今じゃアラフォーです。一応、アマ四段くらいにはなりまして、その原点は田丸七段だと思っており、棋士・田丸昇には思い入れが人一倍深いわけなのです」という内容のコメント(3月16日)は『ホネツギマン』さん。

私は1983年4月から84年3月までの1年間、NHK将棋講座の講師を務めました。27年前のことです。その当時の視聴者の方から、講座の思い出や私への思い入れのコメントを寄せていただきました。私はとても驚くとともに、うれしく思っています。じつは、あの将棋講座はかなり印象的だったようで、今でもたまに将棋ファンの方から「見ていました」と言われることがあります。

私は当時33歳で、B級1組七段。前期順位戦ではA級昇級争いに加わり、盤上でも奮闘していました。白髪は少しありましたが、黒髪のほうが目立っていました。体重は今より10キロは少なくスリムな体型(!)でした。アシスタントは当時22歳の中瀬奈津子女流初段(現・藤森四段)で、可愛い容姿のアイドル棋士として人気がありました。

将棋講座のメインタイトルは「将棋は攻め・この手で勝とう」。初級者でも指せるような、わかりやすくて効果のある戦法をやさしく解説しました。そんな戦法のタイトルが「スピード石田流」「棒銀でアタック」「急戦向かい飛車」「奇襲・筋違い角」「おもしろ中飛車」「直撃・穴熊くずし」。この順番で、2ヶ月単位で解説しました。

「スピード石田流」は、三間飛車から角交換して▲5五角と飛銀両取りに打つ攻め。「棒銀でアタック」は、相居飛車から一直線の棒銀の攻め。「急戦向かい飛車」は、飛車交換を挑む攻め。「奇襲・筋違い角」は、筋違い角と棒銀のコンビによる攻め。「おもしろ中飛車」は、近年流行している「ゴキゲン中飛車」の指し方に似た攻め。「直撃・穴熊くずし」は、振り飛車・穴熊に対して「地下鉄飛車」の陣形からの攻め。

初級者向きといっても、本論や変化を解説していくと、どうしても難しく複雑になります。いかにやさしく解説するかで、それなりに工夫しました。その一例として、視聴者の質問に答える形にしました。ただ放送後の質問では、講座テキスト執筆に間に合わないので、実際には筆者の私が質問を作りました。この講座は評判が良く、とくに小・中学生からのお便りが多かったです。『ホネツギマン』さんもその1人だったのでしょうか…。

NHKの将棋番組(対局・講座)の視聴率は微々たるものです。しかし根強い視聴者が多く、将棋を知らない人でも意外と見ています。私が27年前のNHK将棋講座に1年間も出演したときは、新幹線の車中、デパート、酒場、路上など、様々な場所で「将棋の田丸さんですね」と声をかけられました。後向きで声をかけたタクシー運転手の方は、私の顔ではなく声でわかったそうです。

次回は、田丸がNHK杯戦で対局した大山戦などの思い出。

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2010年4月 5日 (月)

わが弟子・櫛田陽一六段と「真剣師」小池重明のこと

1980年代前半、アマ名人戦で2年連続優勝した小池重明がアマ棋界のヒーローでした。小池はプロ棋士キラーとしても知られ、ある将棋雑誌で企画されたA級棋士との平手戦に勝つと、棋界内外で大いに注目されました。「真剣師」(賭け将棋を生業にする人)の顔も持ち、名だたるアマ強豪との真剣デスマッチは語り草になっています。

その小池に心酔した1人の少年がいました。17歳のときに支部名人戦で全国優勝した、わが弟子・櫛田陽一六段でした。小池の将棋人生に憧れていた櫛田は、将棋少年の多くがプロをめざす中で、断固としてアマにこだわりました。

やがて櫛田は将棋雑誌の企画で、全国のアマ強豪たちと対戦して激しい勝負を繰り広げ、あまりの強さから「グッシー」という異名がつけられました。また、プロに対しては強い対抗心を持ち、時には挑発的な言葉を放ちました。さながら風雲児のような存在でした。

28年前の1982年、私は自宅で内田昭吉、下村竜正、金子タカシ、白井康彦、南尚文らのアマ強豪・大学将棋部員と一緒に研究会を開きました。当時、プロ・アマ混合の研究会はかなり珍しく、アマ棋界の重鎮だった関則可(元アマ名人)もいちど様子を見にきました。将棋の研究に打ち込んでA級昇級をめざしていた私は、強くなりたい一心でアマとも指したのです。その研究会に途中から参加したのが櫛田でした。

翌年の83年、小池が寸借詐欺をした事件が新聞で報じられました。小池は酒・ギャンブルに明け暮れてかなり荒れた生活を送り、金に困った末に金銭トラブルに至ったのです。私は、定職に就いてなかった櫛田のことがふと気になりました。小池の二の舞を心配したのです。そこで奨励会受験を勧めました。

櫛田は当初、頑なに拒否しました。しかし私の強い説得に応じて、奨励会受験をついに決意しました。受験年齢としてぎりぎりの18歳のときでした。私と櫛田は、それが縁で師弟関係になりました。

櫛田は奨励会に1級で入会し、3年半後の87年に四段に昇段しました。そして88年に全日本プロトーナメント準優勝、90年にNHK杯戦優勝など、師匠をしのぐ素晴らしい実績を挙げました。ところがその後、それまで将棋一筋で生きてきた反動なのか、遊びに興じて生活が乱れてしまい、将棋の成績が低迷しました。95年にはフリークラスに転出しました。

近年の櫛田は、将棋に打ち込んで頑張っています。フリークラス棋士として現役期限があと2年と迫っていますが、私は「タイトルを取れば状況は変わる」と激励しています。

今年の「親子将棋教室」で、九州(大分・佐賀)へ櫛田と同行しました。じつは入門から30年近くなるのに、師弟での初めての旅行でした。旅先の居酒屋では、お酒を飲みながら来し方行く末をしみじみと語り合いました。とにかく今の櫛田には、対局で活躍することを願うばかりです。※文中敬称略。

次回は、名人戦(羽生―三浦)第1局の前夜祭。

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2010年3月15日 (月)

「引退棋士とフリークラス」などのコメントについて説明します

「有吉九段と大内九段の現在の立場はフリークラスでしょうか」とは、『popoo』さんのコメント。フリークラスとは、順位戦に参加しない棋士の立場です。そのフリークラス棋士の処遇は、「転出」と「降級」とで違います。やや複雑な制度ですが、簡略に説明します。

前者は、順位戦に在籍している棋士が、ある時期にフリークラスに「転出」することです。引退した中原誠十六世名人、米長邦雄永世棋聖らがそうでした。名人経験者のような大棋士が順位戦でA級から降級した場合、以前は引退という問題が生じましたが、この制度によって順位戦に不参加でも現役を続けられます。ただし、順位戦に復帰することはできません。現在、フリークラスに転出した棋士は勝浦修九段、石田和雄九段など17人。田丸も昨年の春に転出しました。

フリークラス転出時の順位戦のクラス、年齢によって、フリークラスに在籍できる年数が決まり、定年は原則として65歳です。前記棋士の場合、63歳の勝浦は2年後、62歳の石田は3年後、59歳の田丸は6年後に引退となります(年齢は現時点)。なお転出時に65歳以上でも、一定の条件で在籍できます。

後者は、順位戦でC級2組から「降級」してフリークラスに在籍する棋士のことです。10年以内に規定の成績(勝率6割など)を収めれば順位戦に復帰できますが、10年を過ぎると引退となります。また降級した場合の定年は60歳で、10年以内でもその年齢に達すると引退となります。有吉九段と大内九段は60歳を過ぎているので、年齢規定によってフリークラスに在籍できず、引退が決定したわけです。

降級と転出を会社員の定年に例えると、「正社員」を続ければ定年は60歳で、それ以前に「嘱託」になれば定年は65歳まで延びる、との比較がわかりやすいでしょう。

有吉九段が残っている対局を連勝し、棋王戦でタイトルを獲得したり、NHK杯戦で優勝したら、次期はどうなるのか…。タイトル経験者(棋聖)で29年前のNHK杯戦優勝者、という実績があるので可能性はあります。私見ではその場合、棋王戦は保持者として挑戦を受け、NHK杯戦は特別出場できると思います。ただ順位戦への復帰は無理でしょう。

「死に体」なのに「超常現象」によって生き返ったら、まるで「ゾンビ」みたいです。しかし、そんなことが本当に実現したら大ニュースです。有吉の今後の対局に注目しましょう。

「NHK杯戦の大内―田丸戦で、大内の棒銀から意表の角出に、田丸が長考に沈んだ1局が印象に残っています」とは、『spinoza05』さんのコメント。あまり思い出したくありませんが、1994年9月に放送されました。中盤で大内九段に△4四角と出られて△2六香と飛車取りに打たれ、不利となって一方的に敗れました。

それにしても、16年前の好カードでなくて内容も良くない将棋をよく覚えていましたね。私は当時、あの女流棋士の失踪問題でメディアによく登場していました。女流棋士と同席した記者会見ではライトブルーのスーツを着用し、同じ服で対局に臨みました。その服が印象的だったのでしょうか…。

次回は、今回予定テーマの直木賞受賞式。

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2010年3月11日 (木)

最後の「引退対局」が注目される有吉道夫九段と大内延介九段

将棋界は、役所・会社・学校などと同様に3月が年度末です。新年度の4月には新四段の棋士がデビューし、一方で引退する棋士もいます。現在のところ、C級2組順位戦で降級した有吉道夫九段と大内延介九段の引退が決定しています。

有吉九段は勤続55年、タイトル獲得1期(棋聖)、A級在籍21期、通算1086勝。大内九段は勤続47年、タイトル獲得1期(棋王)、A級在籍6期、通算886勝。ちなみに1000勝達成は通算8人だけで、有吉の1000敗は加藤一二三九段の1047敗に次いで2位。※記録はいずれも3月10日時点。

これらの数字が示すように、有吉と大内は輝かしい棋歴を残しています。私がとくに印象深いのは、両者が名人戦の挑戦者になって3勝2敗と勝ち越し、名人獲得まであと1勝と迫ったことでした。

1969年の大山康晴名人―有吉八段戦は、名人戦初の「師弟対決」と「フルセットの第7局」が実現して盛り上がりました。有吉は大山を角番に追い詰めたとき、「何かとまどいを感じました」と後に語りましたが、師匠を心から尊敬していたのでその心境はよくわかります。結果は、大山の逆転防衛となりました。

1975年の中原誠名人―大内八段戦は、「中原自然流」と「大内怒涛流」の対決としてメディアにも注目されました。中原が大内の得意戦法の穴熊を破って角番をしのいで迎えた第7局は、将棋史に残る死闘でした。当時五段の私はその対局の記録係を務めました。大内は中盤で早くも優勢となりますが、名人位のプレッシャーによって形勢は次第にもつれ、終盤で勝ち筋を逃すと「あっ、しまった!」と口走りました。私はその光景を今でも鮮明に覚えています。結果は持将棋となり、第8局は中原が勝って防衛しました。

会社員が退職した場合、自分が担当した仕事が中途でも、また出社して片付けることはないでしょう。しかし棋士の場合、それがあるのです。年度末で引退というのは、新年度に始まる棋戦に出場できないことで、旧年度の棋戦は対局できます。

有吉は竜王戦、棋王戦、NHK杯戦の対局が残っています。NHK杯戦の予選で浦野真彦七段、安用寺孝功六段、阪口悟五段を3連破、本戦出場を果たしたのは見事でした。これらの対局をすべて負けた時点で、正式に引退となります。もし勝ち続けたら、NHK杯戦で優勝(有吉は1981年に優勝)し、棋王戦でタイトルを獲得します。引退が決定している棋士がそんな大活躍をした前例はもちろんありませんが、可能性は残っています。

大内は竜王戦の対局が残っています。負ければ引退となり、勝ち続けたら4組に昇級して有終の美を飾ります。

「解雇通告」とか「戦力外通告」という言葉は、当事者として心が傷つきます。それに比べると、最後の対局で燃え尽きて引退というのは、いかにも勝負の世界らしく本人も納得できます。有吉と大内の最後の「引退対局」がいつになるのか注目しましょう。

次回は、2月の直木賞受賞式の模様。

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2010年3月 8日 (月)

名人戦の挑戦者になった三浦弘行八段の独自の研究法と意外な一面

A級順位戦で三浦弘行八段が優勝し、名人戦の挑戦者に初めてなりました。4月から始まる名人戦7番勝負で羽生善治名人と戦います。

三浦八段はやや地味な棋士ですが、A級に9年連続で在籍している実力者です。羽生が前人未到の七冠を制覇して無敵だった1996年には、棋聖戦で羽生に挑戦して破りました。その結果、羽生の七冠の期間は5カ月半で終わりました。

現代棋士の主な研究法は、数人が集まって行う実戦主体の研究会、1対1で指して鍛え合う「VS」、将棋会館での対局の検討などです。さらにパソコンの棋譜検索で、新情報や類似局を調べます。研究仲間を作る、会館に通う、パソコン検索が必須のアイテムなのです。

しかし、三浦はそんな時流に背を向けています。対局で東京に出かける以外の日々は、地元の群馬・高崎の自宅にこもって1日10時間も盤に向かい、独自の研究法で腕を磨いています。ある棋士に「独善にならないの?」と聞かれると、「1人で研究するほうが性に合っています。仮に1人で3年間研究して、3年ぶりに対局すれば初めは負けるでしょうが、強くはなっていると思います」と答えたそうです。

三浦は奨励会時代、伊藤看寿の詰将棋集『将棋図巧』を1年間で全題解きました。この詰将棋集には難解な作品が100題も載っていて、全題正解はかなり深い読みと根気がなくてはとてもできません。私も10代のころに挑みましたが、長編の1題目で挫折しました。

まさに「孤高の棋士」といえる三浦には、独自の剣法を編み出した宮本武蔵になぞらえ、「ムサシ」という異名が付いています。ちなみに愛読書は歴史小説で、好きな戦国武将は大谷吉継とのこと。大谷は関ヶ原の合戦では、豊臣の恩顧に報じて西軍の石田三成に就き、負け戦の中で討ち死しました。三浦は大谷のそんな義理堅さに引かれるそうです。

三浦は先日のA級順位戦最終戦で、相手の棋士が初手を考えていると、さっと席を外しました。普通は対局開始から短くとも30分は座っているものです。しかしあまり気にしていないようで、対局中の仕草はマイペースという感じです。また、いろいろな種類の飲み物を持ち込んで脇に並べます。

昨年のブログ「加藤一二三九段の意外なエピソード」(11月5日)で、暑がりの加藤と寒がりの若手棋士が1手指すごとに席を立ち、対局室のエアコン設定温度を上げたり下げたりした、という滑稽な話を紹介しました。その若手棋士が四段時代の三浦でした。三浦はより良い環境で対局に打ち込みたかったのでしょう。三浦らしいエピソードでした。

このように将棋一筋の人生を送ってきた三浦でしたが、30代半ばになって心境の変化が少しあったようです。何でも最近は「婚活」に励んでいるとか…。

次回は、有吉九段と大内九段の引退について。

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2010年3月 1日 (月)

「瀬川問題」などのコメントにお答えします

このブログを始めて5カ月たちました。多くの方たちに読んでもらい、とてもうれしく思っています。『穂高』さんと『堺市民』さんは、更新を「毎日」「月木だけといわずもっと」にしてほしいとのコメント。日々の生活を綴った内容ならできるかもしれません。ただ私は評論を軸にしたいので、当面は週2回の更新を続けていきます。

『ジロウ』さんは、私が以前に将棋雑誌に書いた座右の銘について、『<量を突き抜け 質に至れ>が印象的です』とのコメント。私は青年時代、ドイツの哲学者・ヘーゲルの弁証法理論に傾倒しました。水が100度の沸騰点に達して気体に変化するように、量を積み重ねて極限に至れば大きな変化が起きる、というのが前記の言葉の意味です。私は奨励会の三段時代、その言葉を自分に言い聞かせて四段をめざしていたのです。

『わいるどる』さんは「田丸流左玉は相振り飛車の戦法でしょうか」とのコメント。確かにその通りです。振り飛車に対して、飛車を8筋に振ります。そして先手だけの指し手を説明すると、6筋の位を取って6六角と上げ、6七銀・5七銀・5八金・3八金・7七桂と駒組し、7八玉と左側に囲います。さらに飛車で歩交換して8九飛と下段に引けば理想形となります。飛車角で相手陣をにらんで圧力をかけるのです。

『ソフトバンクファン』さんは、3年前に亡くなった真部一男九段について、「田丸はどのような感想をお持ちですか」とのコメント。私は真部九段とは、奨励会入会と四段昇段がほぼ同期で、若いころは親しい仲でした。いろいろな思い出があるので、いずれブログのテーマにしたいと思います。

『morris』さんは「昨年の大分での王将戦第4局の前夜祭で、立会人の私やほかの棋士と話をして、それがきっかけでその後も前夜祭に行くようになりました」とのコメント。タイトル戦の前夜祭の会費は決して安くありません。そんな場に何回も参加していただき、ありがとうございます。じつは、大分でのことはよく覚えていません。また同席する機会のときは、ぜひ声をかけてください。

『popoo』さんは「瀬川さんの編入試験」についてのコメント。瀬川晶司(四段)は、年齢制限で奨励会を三段で退会し、後年にアマ名人戦優勝などの実績で特別参加したプロ公式戦で、25勝8敗と好成績を挙げて話題になりました。そして「棋士にしてほしいと、将棋連盟に働きかけるつもり」と爆弾発言すると、実際に連盟に嘆願書を提出しました。

それに対して棋士たちは、「奨励会制度が崩壊する」「付け出し三段なら認める」などの意見が多く、とくに保守的なベテラン棋士や厳しい制度を経てきた若手棋士は拒否反応を示しました。しかし「実力のあるアマに対して、連盟は門戸を開放すべきだ」という外部の声、瀬川を後押しする棋士たちの動きがあって、連盟理事会は門前払いは良くないと判断しました。瀬川の編入問題は、2005年の棋士総会の決議事項となり、129票対52票で可決されました。私も賛成票を投じました。棋士たちの考えも次第に変わっていったのです。

次回は、3月2日のA級順位戦の結果。

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2010年2月11日 (木)

元タイトル保持者でA級棋士の郷田真隆九段が遅刻で不戦敗

1月21日の竜王戦・森内俊之九段―郷田真隆九段戦は、郷田が寝坊で遅刻して不戦敗となりました。対局規定では遅刻時間の3倍が持ち時間から引かれ、持ち時間5時間の竜王戦は定刻の10時から1時間39分1秒を過ぎると時間切れです。実際には11時25分に、郷田から将棋連盟の事務局に「もう間に合いません」との連絡があったそうです。

新聞記事によると、郷田はライバル対決を意識しすぎて前夜に眠れず、明け方の4時にやっと寝ついたら深い眠りに入ってしまい、2つの目覚まし時計をかけておいても起きられなかったとのことてす。勝負の前夜に深酒や夜遊びをしたどこかの元力士とはまったく違うので、当日の状況には少しばかり酌量の余地があります。

しかし棋士にとって、対局は最大の公務です。どんな事情があるにせよ、遅刻による不戦敗は絶対にあってはならないことです。それでもたまに生じますが、郷田のように元タイトル保持者でA級棋士の例は記憶にありません。

連盟理事会はこの事態を重く見て、郷田に対して「対局料の不払い・手当の返納・ファンへの奉仕活動(1日)」などの処分を通告しました。3件のうち前2件は当然のことですが、ファンへの奉仕活動を付したのは「大岡裁き」だったと思います。将棋ファンが喜ぶとともに、郷田の過ちが解消されるなら、お互いに良かったとプラス思考になれます。

仲間内の話では、郷田はほかの待ち合わせでも遅れることがよくあったそうです。これを契機に、時間の観念をしっかり持ってほしいですね。それに「大事な人」とのデートに遅れたら、大変なことになるかもしれません。寝坊しても起こしてくれる「伴侶」を早く得ることが、再発防止の決め手でしょう…。そうなんです。同期の羽生善治、佐藤康光、森内、丸山忠久、藤井猛らは結婚しましたが、郷田はいまだに独身です。

相手の棋士が遅刻したとき、一方の棋士は「いったい何をしてるんでしょうか」とは『popoo』さんのコメント。遅刻した棋士が「ごめんなさい…はするんでしょうか」とは『友桃』さんのコメント。

相手の棋士が遅刻したとき、一方の棋士はたいがい気息を整えて盤の前で待ちます。ほかの対局を観戦したり、席を一時的に外すこともできます。ただ相手の棋士が来たとき、所在不明だと「遅刻」になりかねません。

どんなケースでも、遅刻した棋士が一方の棋士に謝罪するのは当然の礼儀です。問題なのは、遅刻した棋士が残り時間ぎりぎりで来た場合です。一方の棋士は「不戦勝」と思った矢先なので、心理的にかなり影響を受けます。私も若手棋士時代、相手の棋士が1時間半も遅刻し、何となく落ち着かない気持ちで指していると不利に陥りました。囲碁公式戦では最大1時間の遅刻で不戦敗となります。将棋公式戦もそれに倣うべきだと思います。

今週は10日~11日、静岡・掛川での王将戦(羽生善治王将―久保利明棋王)第3局の立会人を務めています。その勝負の模様は、次回のブログでお伝えします。

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2010年2月 8日 (月)

宿命のライバルといわれた大山と升田の珍しいツーショット写真

大山と升田のツーショット写真
この写真は、私が35年ほど前に撮りました。ある囲碁大会の団体戦に、棋士で構成する将棋連盟チームが参加したときのものです。左が大山康晴(十五世名人)、右が升田幸三(実力制第四代名人)。対局を終えた升田が、対局中の大山の戦況を横から見守っています。写り具合は良くありませんが、じつはとても珍しいツーショット写真なのです。

大山と升田は「昭和棋界の竜虎」として激闘と名勝負を繰り広げ、宿命のライバルといわれました。その両者は、盤外でも何かと対立しました。しかし元来は木見一門の兄弟弟子(升田が兄弟子)で、内弟子生活で同じ釜の飯を食べた間柄でした。木村義雄(十四世名人)が棋界に君臨していた戦前戦後の時代、打倒木村に向けて切磋琢磨したものです。

大山と升田は囲碁大会で、そんな修業時代にタイムスリップした気分になったのでしょう。写真の表情はどちらも笑みが浮かび、ほのぼのとした光景です。ちなみに5人1組のこの大会では、大山、升田、丸田祐三(九段)、河口俊彦(七段)らの連盟A1チームが優勝し、加藤治郎(名誉九段)、米長邦雄(永世棋聖)、芹沢博文(九段)、真部一男(九段)らの連盟A2チームが3位入賞しました。将棋の棋士は囲碁も強いのです。

仲の良い兄弟弟子だった大山と升田が、盤上だけでなく盤外でも対立した原因は、生き方や性格の違いのほかに、両者を取り巻く環境がありました。昔は一流棋士が新聞社の嘱託となり、大山は毎日新聞社、升田は朝日新聞社に所属しました。その毎日と朝日の間には、名人戦の契約をめぐって過去に葛藤がありました。嘱託の立場の大山と升田も、そんな渦の中に巻き込まれて溝がますます深まったのです。

大山と升田の緊張関係が、急に雪解け状態になった時期がありました。1974年のことで、両者は時の連盟理事会の政策に危機感を抱いて手を結んだのです。そして有力棋士たちの賛同も得て、棋士総会の場で理事会に総辞職を迫りました。両巨頭の大山と升田に膝詰め談判されては、もはや受けはありません。理事会は総辞職しました。大山は新政権で理事に就任、升田は閣外協力すると表明しました。

大山と升田が仕組んだあの政変劇は、棋士たちにとって大きな驚きでした。冷戦時代にアメリカとソ連が平和条約を結んだようなものです。両者が長年の確執を超えて協調したのは、運命共同体という意識のほかに、同門の兄弟弟子という絆がやはりあったと思います。

しかし、両者の密月は長く続きませんでした。名人戦の契約をめぐって連盟と朝日(以前は単独契約)の交渉がもつれ、1976年に名人戦の契約は朝日から毎日に移りました。升田は大山の策謀だと非難し、両者の関係はまた悪化しました…。

升田は1991年に73歳で死去、大山は92年に69歳で死去しました。大山は天国の升田に呼ばれたのだろう、といわれたものです。その両者は天国で、好きな囲碁を打っていると思います。

次回は、郷田真隆九段の遅刻による不戦敗について。

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2010年2月 4日 (木)

大山康晴十五世名人の生前の思い出

私は奨励会時代、大山康晴十五世名人の対局の記録係を何局も務めました。無敵の強さで君臨していた当時、その対局姿は泰然としていて、まさに「巌」のようでした。大山は小ぶりの扇子を使いました。開閉して音を立てることはなく、扇子の紐をゆらゆら揺らしながら読みに没頭しました。たまに何かの歌を口ずさむこともありました。

対局中に観戦者が入ってくると、考慮中でもふと顔を上げ、だれなのか確認しました。面識のない人だと気になるのか、席を外して「あの人はだれ?」と関係者に聞いたりしました。将棋界のドンとして、一通りのことは把握しておきたいと思ったのでしょう。私はそんな雲の上の存在の大山と、話をする機会はもちろんありませんでした。

私は20代半ばの若手棋士のころ、将棋連盟で「手合係」を務めました。公式対局の日程を決める重要な職務です。当時の順位戦は同日対局ではなく、各棋士の希望に添って対局日を決めました。だから対局者同士の調整が大変で、棋士が手合係を務めたのもそんな事情によります。現在は連盟の職員が担当しています。

各棋戦で勝ってタイトル戦にも登場した大山は、とくに対局日程が過密でした。さらに講演、将棋会館建設の募金活動などで、全国を飛び歩いて超多忙でした。私は大山の対局日程を決めるために、連絡を頻繁に取り合いました。大山が私の実家に電話をかけてくることもあり、大山の肉声を初めて聞いた母親は「大山さんの声って、意外にやさしいのね」などと言いました。

大山の対局日程をまず設定し、それに合わせて対戦相手を決めました。中には勝手だと文句を言う棋士もいましたが、「とにかくお願いします」と低姿勢になって対処しました。私は青年時代、少し神経質で内気でした。しかし、この手合係の仕事を通して対人関係に慣れ、性格も丸くなったようです。

1975年11月。私は大山に年内の予定対局を提示し、対局日程の追加を談判しました。すると大山は「5日連続で指す」と言いました。実際は対戦相手の関係で3日連続でしたが、中原誠名人、桜井昇六段、内藤国雄九段を連破したのです。以後も12日間で7局(2日制タイトル戦を含む)も指し、5勝2敗の成績でした。負けた相手は2局とも中原でした。大山は72年、中原に名人位を奪取されました。しかし、いぜんとして抜きんでた実力を持っていました。

私が大山と初めて対局したのは1979年。いくら攻め込んでも軽くかわされて切っ先が届かず、まるで軟体動物と指しているような感じでした。初勝利は3局目の対戦の80年。大山が本気モードで指していないとわかっていても、やはりうれしかったものです。それが自信につながり、81年に順位戦8期目でB級1組に昇級できました。

私は大山との対戦成績が4勝8敗。この成績以外に、2局の不戦勝をした珍しい記録があります。大山がガンで休場した1985年、大山が死去した92年です。92年はA級順位戦の対局で、その舞台で大山とぜひ対局したかったです。

次回は、宿命のライバルといわれた大山と升田の関係。

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2010年1月28日 (木)

一流棋士の証はホテル・旅館で対局すること

どの世界にも一流、二流…という区分けがあります。将棋棋士の場合、タイトル獲得、タイトル挑戦、竜王戦・名人戦で上位保持、などの実績が一流棋士の条件でしょうか。私見では、ホテル・旅館で対局することが一流棋士の証だと思います。つまり、タイトル戦に登場することです。タイトル戦の対局は全国各地のホテル・旅館で行われます。羽生善治名人などは一年中、全国を転戦しています。

161人の現役棋士の中で、タイトル戦に登場してホテル・旅館で対局したことがある棋士は約2割の35人。引退棋士も同じ割合で8人。これらの計43人が本当の意味で一流棋士だと思います。私は40年近い棋士人生で、東西の将棋会館以外で対局したことがありません。ただ前記の数字のように、私みたいな棋士が大半なのです。

各棋士には、げんのいい棋戦があります。私の場合、「棋王戦」でいつも好成績を収めていました。とくに1989年から90年にかけての第15期で大活躍しました。本戦トーナメントで森下卓五段、中原誠棋聖、小林健二八段、米長邦雄九段、羽生善治竜王など、タイトル経験者や生きのいい若手を連破して、挑戦者決定戦に進出したのです。

89年の春、私は将棋連盟の理事に初めて選ばれました。理事就任当初は仕事に忙殺され、公式戦の成績が落ちました。しかし秋になると理事生活に慣れ、次第に復調しました。とくに棋王戦で勝ち続けました。

89年の秋、19歳の羽生が竜王戦で初めてタイトル戦の挑戦者になりました。出版担当理事の私は、羽生新竜王誕生を見越して「羽生特集」の企画を立て、竜王戦と同時進行で臨時増刊号の編集を進めました。そして89年の末、羽生が竜王を獲得したのです。

私と編集スタッフは急ピッチで作業し、90年1月中旬には最終校正に至りました。その増刊号では羽生の四段以来の全棋譜を掲載しました。私も印刷所に出向いて2日間、約260局の棋譜を時間のかぎり並べて校正しました。やがて、自分自身が羽生になりきったような気分でした。

校正翌日の1月19日。私は棋王戦で新竜王の羽生と対局しました。前日まで見続けた誌面の羽生と、実際の羽生がごっちゃになり、やや不思議な思いで対局に臨みました。私が得意としていた急戦策で攻め込むと、見事に決まって有利となりました。しかし羽生は「羽生マジック」の異名があるように、簡単には勝たせてくれません。ところがこの対局では、竜王を獲得したばかりだったのか、いつもと違って淡白な指し方でした。そして、あまり抵抗せずにあっさり投了したのです。

私は次の挑戦者決定戦に勝てば、初めてタイトル戦に登場することができ、南芳一棋王と五番勝負を戦えます。ただ正直なところ、そんな自分がまったく想像できませんでした。1月29日、その対局が行われました。相手は大山康晴十五世名人。

次回は、大山康晴十五世名人との棋王戦挑戦者決定戦。

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2010年1月11日 (月)

最近のコメントについて説明します

『わいるどる』さんは「棋士の人数が増えた現在では、昔と昇級の難易度が違うのでしょうね」とのコメント。私が四段に昇段して棋士になった1972年、現役棋士の人数はわずか77人でした。現在、現役棋士は2倍以上の161人に増えています。そのうちフリークラス棋士を除く順位戦参加棋士(名人も含む)は123人。とくにC級2組は若手棋士であふれ、72年の17人と比べて44人と3倍近いです。競争率が高いので、有望な若手棋士でも順調に昇級できない時代になっています。

『穂高』さんは「田丸さんの人柄にぴったりな、落ち着いて暖かな雰囲気が伝わってきます」とのコメント。今後も自分の持ち味を出したブログにしたいと思っています。

『ヒゴマツ』さんは「最近気になることは対局中の食事です。対局者はやはり頭にいい食事などを考えるのでしょうか」とのコメント。これは核心をつく質問です。じつは対局中の食事は、勝負にも影響する大事な問題なのです。いずれ、このブログのテーマにするつもりです。なお私は、今週発売の「週刊将棋」(1月13日号)の「丸の眼」というコラムで、対局中の食事について書きました。一流棋士ほど食欲が旺盛で、中には大食漢で有名な棋士もいて、そのメニューに驚きます。よかったら読んでください。

『booby』さんは「私は田丸先生の本と棋譜をメインに勉強しています。大変わかりやすい文章で、狙い筋を理解しやすい良書だと感じます」とのコメント。私の著書を読んで参考になったそうで、著者としてとてもうれしく思います。ありがとうございました。私はこれまで多くの棋書を出版し、いずれも内容には自信を持っています。ただ残念ながら、再版は今のところ未定です。

『ガスパル』さんは「将棋界が身近に感じられるようになりました」とのコメント。私はこのブログで、プロ野球に例えれば、現役選手がグラウンドの様子やベンチの裏話を、わかりやすく現場レポートする形にしたいと思っています。その意味で、このコメントは自分の思いが通ったようです。

『オンラインブログ検定』さんは「初めてプロの先生と対局したのが、新宿将棋センターで二枚落ちで田丸八段で大変印象に残っています。昭和47年頃です」とのコメント。かつて新宿将棋センターは何百人もの入場者がいて、日本で最も賑わっていました。私はそこで月に1回、指導対局を務め、多い日は10局以上も指しました。その時期は1975年から89年までの15年間で、昭和47年(1972年)ではありません。歌舞伎町にあった新宿将棋センターは、今は西口のほうに移転して規模も縮小しています。ネット将棋の影響によって、対面で指す人が減っている現実があります。

今回は、最近のコメントの内容について説明しました。今後も、みなさんのコメントをお待ちしています。

次回は、左記の「お好み将棋道場」での模様と結果。

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2010年1月 5日 (火)

1月5日は東西の将棋会館で恒例の「指し初め式」

謹賀新年。本年も、このブログのご愛読をお願いします。新年に初めて行うことを「○○初め」「初○○」といいます。将棋の場合は「指し初め」です。

毎年1月5日、東西の将棋会館で恒例の「指し初め式」が行われます。東京ではそれに先立ち、11時から会館の向かい側の鳩森神社の将棋堂で「祈願祭」が行われ、神主が祝詞をあげて将棋界の発展を祈願します。境内に建造された将棋堂には駒形の碑が安置されていて、「家内安全」「祈 上達」などと書かれた絵馬が外側にかけられています。

余談ですが、1996年に棋士・羽生善治と女優・畠田理恵がこの鳩森神社で挙式しました。また、かつての人気ドラマ『ロングバケーション』で山口智子がキムタクに贈ったという守り札も、ここで発行されています。

祈願祭が終わると会館に移動し、1組の盤駒が中央に鎮座している対局室で、11時30分から指し初め式が始まります。出席者の顔触れは棋士、棋戦担当記者、観戦記者、棋士の知人など、主に将棋連盟の関係者。鳩森神社の神主、子ども将棋教室の会員が参加することもあります。

まず連盟会長(米長邦雄永世棋聖)が年賀の挨拶を述べます。そして出席者全員が1人1手ずつ、リレー形式で指し継いでいきます。指す順番、組合せ、上座下座など、とくに決まりはありません。盤の近くにいる人から順繰りに盤の前に座ります。したがって、タイトル保持者とその棋戦の担当記者、ベテラン棋士と小学生、女流棋士と神主など、普段は絶対にない対局光景が時に現れます。また、プロがアマに上座を譲ったりします。

出席者は、それぞれの思いを自分の1手に託します。アマの中には、責任感を感じて考え込んだり、緊張のあまりポカを指す人もいます。そんなときはベテラン棋士が「気楽に指しましょう」「その手は待ったですね」と声をかけ、一同の笑いを誘って和やかな雰囲気にします。

大阪の指し初め式では数面の盤が置かれ、出席者は「鶯の谷渡り」のように対局席を移しては何手も指します。いずれにしても出席者は多くて数十人なので、全員が指しても局面は中盤までしか進みません。切りの良いところでお開きにします。指し初め式では勝負をつけない決まりになっているのです。その後、別室に設けられた宴席で祝杯をあげます。

このように将棋界の指し初め式は、厳かな儀式というよりも、仲間内の懇親会という雰囲気です。いつも厳しい勝負に明け暮れているので、正月ぐらいは勝負を忘れて楽しく過ごそう、という長年の慣習によるものです。

なお1980年代のころ、東京の会館の最寄り駅である総武線・千駄ヶ谷駅の広場に大盤を水平に設置し、だれでも自由に参加できる指し初め式イベントが行われました。

次回は、最近のコメントへの返事。

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2009年12月24日 (木)

社会情勢の変動で棋戦主催者の新聞社との契約にも影響

私たち棋士が所属する日本将棋連盟は、竜王戦・名人戦などの棋戦を主催する新聞社との契約金を主な財源として運営しています。連盟は新聞社に「将棋は日本の伝統文化」という位置づけで支援してもらい、将棋文化の発展に寄与してきたと思います。ちなみに囲碁団体の日本棋院も、同じような運営形態です。

連盟と新聞社のそうした関係は、長年にわたって継続されてきました。しかし近年、社会情勢の変動によって少し揺らいでいます。発行部数の頭打ち、広告収入の減少などで、新聞社の経営が厳しくなったからです。連盟との棋戦契約にも影響が及んでいます。

今のところ、棋戦を休止する新聞社はありません。しかし契約金が減額されたり、棋戦の方式が縮小される事態が起きました。棋戦Aは契約金が約3割も減額され、賞金・対局料が据え置きになった分、予選対局料はかなり減りました。棋戦Bはタイトル戦以外の対局の新聞掲載が取り止めとなりました。

囲碁界では予選対局料がない棋戦もあるそうです。つまりゴルフトーナメントのように、予選落ちした棋士は賞金ゼロというわけです。将棋界は棋士の人数が囲碁界の約3分の1なので、そんな事態にはならないと思いますが、勝者の取り分の比率が多くなる傾向は強まるでしょう。

ところで、みなさんは新聞を読んでいますか? テレビの情報番組では新聞記事を紹介するコーナーが定番のように、新聞には多種多様な情報が掲載されていると思います。私は2紙を購読しています。およそ1時間かけて目を通し、タイトル・見出しを見て興味のある記事を熟読します。とくにコラムが楽しみです。気に入ったテーマは切り抜いて保存すると、原稿の資料として役立つことがあります。

ネット時代が到来しましたが、新聞はやはり情報の宝庫だと思います。それに毎日・朝夕と自宅まで配達してくれて約4000円の月額購読料は、国際的に決して低くない日本の人件費相場において安価ではないでしょうか。

じつは、新聞紙には読む以外の効用があります。ハイキングなどで野外に行ったとき、雨が降っても新聞紙を頭に乗せれば傘代わりになり、急に冷えても新聞紙を体に当てると防寒になります。生ゴミが入った水切り袋をゴミ袋に入れるとき、新聞紙で厚く包むと悪臭がしません。大掃除で窓ガラスを磨くとき、その前に濡らした新聞紙で拭くとインクが洗剤代わりになって汚れがよく落ちます。ほかにも、新聞紙が何かのときに役立つことがあるかもしれません。

次回は、私が行きつけの店の魚料理。

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2009年12月14日 (月)

竜王戦の前身棋戦は九段戦、十段戦

読売新聞社は1948年に「全日本選手権戦」という棋戦を発足し、1950年にそれが引き継がれて「九段戦」がタイトル戦として誕生しました。現行の「竜王戦」の前身棋戦でした。

戦後復興期の1940年代後半はインフレがひどく、東京の小売物価指数を例にすると、47年の100に対して、48年は293、49年は477と2年間で5倍近く上がったそうです。そんな時代だったので新聞社の経営も苦しく、当時は名人戦(朝日新聞社)、九段戦(読売新聞社)、王将戦(毎日新聞社)の3棋戦だけでした。

現在、九段の棋士は現役・退役を合わせて40人以上います。しかし1970年代初めまでは、九段は大山康晴(十五世名人)、塚田正夫(実力制第二代名人)、升田幸三(実力制第四代名人)の3人だけでした。その九段に昇段するには、「九段戦で優勝」のほかに「名人2期・順位戦のA級で抜群の成績」という難しい規定がありました。

この九段昇段規定には「九段は名人の彼方に存在する」という逆転現象が生じています。つまり以前の九段は、単に八段の上の段位ではなかったのです。会社の役職で例えてみると、名人を社長とすると、九段は社長を2期務めた会長になるわけです。

この制度に疑問を抱いていた棋士はかねてから多く、1973年に新しい九段昇段制度が定められました。それに不満を持った升田が「納得できないから九段を返上する」と表明して大騒ぎになりましたが、後に撤回して治まりました。

1962年に九段戦が発展的に解消され、「十段戦」が誕生しました。第1期十段戦は大山と升田で争われ、大山が新十段になりました。大山は十段戦で6期連続優勝、1968年に加藤一二三八段に奪取されましたが、翌年にすぐ取り返しました。なお十段は段位ではなく、タイトルの名称です。十段を獲得した加藤は、大山との防衛戦で敗れると元の八段に戻りました。

1974年に囲碁界で大激震が起きました。日本棋院(囲碁棋士の団体)が囲碁名人戦を主催する読売新聞社に対して契約の打ち切りを突如通告し、朝日新聞社と名人戦の契約を新たに結んだのです。契約金が長年にわたって据え置かれた事情が背景にあり、朝日との契約金は3倍に増額されました。この名人戦問題は訴訟に発展しましたが、やがて読売は「棋聖戦」という大型の囲碁棋戦を創設しました。

囲碁界の契約金問題は、将棋界にも波及しました。将棋連盟は名人戦を主催する朝日に対して、契約金の大幅増額を要求しました。そして1976年に朝日との交渉が不成立となって契約は終了し、後に毎日新聞社が名人戦を主催しました。連盟は読売に対しても囲碁棋聖戦と同等の契約金を要求し、それが竜王戦の創設につながっていきます…。

次回は、竜王戦が創設された経緯。田丸は今週の16日(水)、竜王戦で若手棋士の金井恒太四段と対戦します。結果は次の更新でお知らせします。

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2009年12月10日 (木)

竜王戦を4連勝で防衛した渡辺明竜王の1局単価は1000万円

今年の竜王戦7番勝負(渡辺明竜王―森内俊之九段)は、渡辺が4連勝して竜王6連覇を達成しました。1局1局はいずれも熱戦でしたが、渡辺は勝負の運が乗り移っているような見事な勝ちっぷりでした。

渡辺は羽生善治名人との昨年の竜王戦で、3連敗から4連勝して奇跡的な防衛を果たしました。それを合わせると、竜王戦で8連勝したことになります。しかも相手は十八世(森内)に十九世(羽生)と、永世名人の資格者です。なお7番勝負のタイトル戦では、1997年の谷川浩司竜王以来の記録(96年に羽生に4勝1敗、97年に真田圭一六段に4勝)。

渡辺は竜王防衛によって、賞金(3900万円)と対局料(750万円)を合わせて4650万円を獲得しました。これは1局単価で約1000万円、2日制の対局なので1日あたり約600万円。会社員の平均年収を1日で稼いだことになります。

ちなみに渡辺は2年前、コンピュータ最強将棋ソフト『ボナンザ』と平手の手合いで指して大きな話題になりました。その対局料は「負けると竜王の名誉に影響する」との理由から、前記の1局単価ほどの金額だったそうです。

竜王戦7番勝負が最短の4局で終わり、少し複雑な立場が主催者(読売新聞社)側です。昨年は羽生が勝つと「永世七冠」になるうえに、第7局までもつれ込んだので、棋界内外で大いに盛り上がりました。対局場には取材陣が殺到し、ネット中継へのアクセスも膨大に増えました。しかし今年は竜王決着の第4局でも、記者室は閑散としていたそうです。

第5局以降の対局場のホテル・旅館も、受け入れ態勢を万全に整えていましたが、7番勝負が終わってはそれも水の泡です。なお最初からの取り決めで、キャンセル料は発生しません。その代わり主催者側は、次期以降に早めの対局に振り当てるなどの配慮をするそうです。

将棋愛好家の作家・本岡類の推理小説『奥羽路 七冠王の殺人』は、タイトル戦の対局場で殺人事件が起きて七冠王の棋士に嫌疑がかかるという筋立てです。それには第5局の対局場の関係者が、何としても対局を実現させたいために仕組んだ背景がありました。もちろんフィクションですが、対局場側が対局を強く待ち望む気持ちは同じです。

第7局の対局は確率的に少なくても、実現したら大いに盛り上がります。1995年の王将戦第7局は3月に厳寒の青森県・十和田湖畔で行われましたが、羽生の七冠達成の話題で注目を呼びました。各地から対局場に300人の将棋ファンが訪れ、取材陣は50社200人に上りました。

次回は、竜王戦の成り立ちについて。

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2009年10月15日 (木)

師匠の長年の悲願は高弟・米長邦雄の名人獲得。7回目の挑戦で名人になった米長の心境は「菜の花は薹が立ってから花が咲く」

私の師匠の佐瀬勇次名誉九段には、弟子が11人、孫弟子が11人いる。今や、将棋界きっての大きな一門だが、人数だけでなく顔ぶれもすごい。

弟子は棋士になった順に、米長邦雄永世棋聖、西村一義九段、私こと田丸昇八段、沼春雄六段、植山悦行七段、室岡克彦七段、高橋道雄九段、安西勝一六段、丸山忠久九段、中座真七段、木村一基八段。孫弟子は、藤井猛九段、三浦弘行八段、先崎学八段、中川大輔七段、櫛田陽一六段など。

これらの弟子の中から、2人の名人が誕生した。1993年に米長が名人を獲得し、2000年に丸山が名人を獲得した。さらに、1983年に高橋が王位、1996年に三浦が棋聖、1998年に藤井が竜王と、タイトルを獲得した。最近では、木村が王位戦で3連勝4連敗して惜しくも初タイトルを逃した。また今期のA級順位戦(10人)は、丸山、木村、藤井、三浦、高橋など、佐瀬一門で半数を占めている。

将棋連盟を運営する理事会(8人)でも、米長(会長)、西村(専務)、中川(理事)と佐瀬一門の棋士が要職に就いている。

現在の将棋界は、公式戦でも運営面でも佐瀬一門が大きな存在となっている。ただ公私は別で、一族で栄華をむさぼった「平氏の貴族」とは違う。それに昔の徒弟制度の時代と違って、一門の絆はそれほど濃厚ではなく、一門の棋士があまりにも多いので希薄に感じることもある。

それにしても、師匠はなぜあれほど弟子育成に熱心だったのか。師匠には3人の娘がいるが、本当は息子がほしかったらしい。その願望を弟子たちに見立てたのではないか。なお、弟子の中から沼が次女と結婚し、佐瀬家の跡目を継いでいる。

師匠の長年の悲願は、高弟・米長の名人獲得だった。しかし米長は宿命のライバル・中原誠(十六世名人)に対して、名人戦で5回も敗れた。7回目の挑戦の1993年、米長は中原を破って名人をついに獲得した。49歳の米長はその心境を「菜の花は薹が立ってから花が咲く」と例えた。盛大に開かれた米長新名人就位式では、師匠は喜びのあまり「これで、いつ死んでもいい」と語った。その翌年、佐瀬は75歳で死去した。

次回の話は、田丸が将棋を覚えたきっかけ。

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2009年10月12日 (月)

師匠の佐瀬勇次名誉九段の弟子は米長邦雄永世棋聖など11人

私の師匠は佐瀬勇次名誉九段。現役時代は目立った活躍がなかったので、知らない人が多いと思う。師匠は青年時代に7年間も軍隊生活を余議なくされ、棋士として大きく後れを取った。だからその分、普及活動と弟子育成に力を入れたという。

佐瀬一門の高弟は米長邦雄永世棋聖(現・将棋連盟会長)。師匠は甲府の将棋会に行ったとき、12歳の米長少年の才能の豊かさに目を見張り、上京して棋士をめざすように親を説得した。米長家は戦前は資産家だったが、農地改革で土地を手放したり満鉄の株券が紙くずになったりして、戦後は没落していた。米長少年を上京させるにも、生活費の仕送りに事欠く状況だった。しかし後援者が現れ、中学生から佐瀬の家で内弟子を送ることになった。1956年(昭和31年)のことだ。

米長少年は師匠の期待どおり、将棋は順調に伸びていった。しかし、いたずら好きなので母親代わりの師匠夫人をよく困らせた。中学校では「スカートめくり」の常習で、そのたびに夫人は担任から呼び出された。

米長少年は師匠に対しても反発した。師匠が将棋の勉強法についてあれこれ言い付けると、「自分なりのやり方がある」と言ってまったく聞かない。さらに「師匠と同じ勉強法じゃ、しょせん七段(当時の師匠の段位)止まり」と言うと、師匠の堪忍袋の緒が切れて鉄拳が飛んだという…。いやはや、すごい話だ。

それでも師匠は、そんな米長を暖かく見守った。米長も心底では師匠を尊敬していた。米長の才能を見込んだあの升田幸三(実力制第四代名人)が「米長をわしの弟子に譲ってくれ」と本気で頼んだときには、師匠は頑として拒んだ。また、師匠が夜に米長少年の部屋に来て、一緒に女体の話に花を咲かせたという「おちゃめ」な関係もあった。

師匠は、盛況を誇った相撲の「花籠部屋」をもじって、自分の一門は「屑籠部屋」だと苦笑した。しかし次第に有望な弟子が集まるようになり、私も米長に憧れて佐瀬一門に入った。現在、佐瀬の直弟子は11人、孫弟子は11人。将棋界きっての大所帯である。

次回も、佐瀬一門の話です。

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