将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

対局

2017年1月26日 (木)

三浦九段の問題で東西の棋士が数多く出席した1月23日の月例報告会の模様

【追記・1月31日】 
 私が1月26日に公開したこのブログの内容は大きな反響を呼びました。26日のアクセス数は3万にも達し(通常の20倍)、その後も高い数字が続いています。この問題の情報が今までいかに少なかった(隠された)表れでもありました。また、ネット上の「2ch名人」にも取り上げられ、どちらも数多くのコメントが寄せられました。それらの中には、関連する棋士たちへの辛辣な批判が見受けられましたが、多くは将棋界の行く末を心配するものでした。私はそうした将棋ファンの思いに応えるために、今後も情報発信に努めていきます。
 三浦弘行九段の師匠の西村一義九段が30日に発売された「週刊ポスト」で、将棋連盟の常務会を痛烈に批判しました。そのほかにもいろいろな動きがあります。私も2月6日に行われる連盟の臨時総会の成り行きを見て、何らかの形で新たに行動するつもりです。
 私は2月1日~2日に栃木県大田原市で行われる王将戦(郷田真隆王将―久保利明九段)第3局で正立会人を務めます(副立会人は飯野健二七段)。この対局では、立会人として通常の仕事のほかに、両対局者の電子機器を預かることになりました。
 なお、1月31日の午後から2月3日の午後までにこのブログに送られたコメントは、3日の夕方以降に掲載されることをご承知おきください。

【1月26日に公開したブログ】
将棋連盟の常務会と棋士、女流棋士が話し合う「月例報告会」が1月23日に東西の将棋会館で行われ、三浦弘行九段が疑われた「将棋ソフト不正使用」問題について、東西の会場を映像と音声でつないだ「テレビ電話」システムを使って論議しました。この問題が発覚してから9日後に行われた昨年10月21日の「説明会」には、東西で約140人の棋士、女流棋士が出席しました。1月の会合も同じぐらいの人数でした。

連盟から委嘱された第三者調査委員会(3人の法律家で構成)は昨年12月26日、三浦九段の疑惑は「白」であると発表しました。その結果を受けて1月18日に辞任を表明した連盟会長の谷川浩司九段と常務理事の島朗九段は、月例報告会の冒頭で「任期途中で辞任することをお詫びします」と挨拶し、ほかの理事(専務理事、常務理事、非常勤理事など計7人)とともに頭を下げて棋士たちに謝罪しました。そして、この問題の担当理事の島九段が一連の経過を説明した後、常務会と棋士たちとの質疑応答が繰り広げられました。

最初にA棋士は、「第三者調査委員会の報告書には《ドラフト版》と《公開版》の2種類があり、正式な《公開版》は改竄された疑いがある」と糺しました。一例を挙げると、「疑惑も指摘された」(意見も呈された)、「疑いが確信に近づいた」(疑いを強めた)、「不合理な弁解に終始した」(旨を説明した)など、三浦九段の疑いを強めるような文言があったといいます。※後者の( )内は《ドラフト版》。

《ドラフト版》とは、第三者調査委員会が連盟の常務会に事前に提示した「草案」のようなものだそうです。ところが連盟の職員が誤って公式サイトに載せてしまったのです。何とも間抜けた話です。A棋士の質問に対して、担当理事は「《ドラフト版》は正式なものではなく、連盟が《公開版》に手を加えたことはありません」と答え、改竄したことを否定しました。では、第三者調査委員会が意図的に変えたのでしょうか…?

ところで第三者調査委員会の報告書の中で、「三浦九段は出場停止期間が過ぎればすべての公式戦に再び出場でき、棋士としての地位を奪うほど重いものではない」という内容の記述は、私は棋士として絶対に許せません。三浦九段が受けた辛い処分は、勤め人の停職処分の比ではないからです。委員会の法律家たちは「第三者」ではなく、しょせん「部外者」だったんだと痛感しました。

次にB棋士は、「三浦九段は休場しないと常務会に伝えたのに、休場させるとは不当だ」と強く抗議しました。常務会が昨年10月11日に三浦九段を呼んで開いた「聞き取り」と称する会合は、三浦九段の弁護人や公正な第三者がいない「取り調べ」のような空気だったと思います。そして三浦九段は結果的に休場届を出すことに追い込まれましたが、休場届の期限とされた12日午後3時の2時間ほど前に弁護士を通じて休場しないことを常務会に伝えていたのです。常務会はB棋士の質問に対して、「緊急性から連盟の処分はやむをえない」という第三者調査委員会が出した結論を繰り返すばかりでした。

そんな押し問答の状況で、三浦九段の師匠という立場から連盟の会合にずっと欠席していた西村一義九段が初めて口を開きました。

「三浦九段が休場届を出したとしたら、本人も常務会にも大きな責任が生じます。棋士には対局する権利と責任があり、常務会はその権利を守るべきです。なぜ常務会は基本的な判断を間違えたのか。将棋でいえば、1手詰めが解けないようなものだ。有力棋士に言われてグラグラするようではなげかわしい。総辞職に値する重大な過ちだ」(西村)

三浦九段の問題は、将棋界の枠を超えて社会的な関心事になっていて、ネット上ではいろいろな記事が載っています。その中で、経済評論家で将棋を愛好する山崎元さんの記事に、私は大いに賛同します。

「《確たる証拠》か《本人の同意》がない限り、日本将棋連盟は《不正は存在しない》という立場を取るしかなかったのだ。週刊誌に疑惑を指摘する記事が出たとすれば、三浦九段と一緒に名誉毀損で出版社を訴えるという構えでよかった。対局の公正が疑われ、棋士の人権が侵された時に当事者として立ち上がらない《連盟》などというものに、存在する意味はない」(山崎)

西村九段と山崎さんの考えは、じつに正鵠を射たものでした。

私は昨年10月にこの問題が発覚したとき、常務会がどのように対処しても、連盟に「勝ち」はなく「負け」になると思いました。それならば谷川会長は三浦九段の立場をまず守り、告発した渡辺明竜王と竜王戦の主催者の読売新聞社に対して、「会長辞任」を覚悟に必死に折衝すれば、きっと道は開かれたはずです。これは結果論で言っているのではなく、そのときに思いついたものです。

私は常務会に対して、「三浦九段の問題はまだ何も解決していない。検証委員会を設立して真相を究明すべきだ」と主張しました。しかし事態を早く治めたい常務会は難色を示しました。まあ、責任をさらに追及されたくないのでしよう。

月例報告会では約20人の棋士が発言しました。大半が常務会を批判する内容でした。しかし発言はしないけど、常務会を支持する、現状維持を望む、穏やかに収めてほしい、事態を見守る、などという棋士たちも多くいます。

なお、ネット上では「常務会が棋士に対して《箝口令》を敷いた」という書き込みがありました。しかし、それは強制ではなく(罰則はありません)、自粛のお願いというレベルです。じつは米長邦雄永世棋聖が連盟会長を務めていた頃、米長に批判的な棋士が会合の内容を翌日にネット上でばらし、混乱が生じたことがありました。

常務会が棋士に対して、情報発信で注意を呼びかけたのは、そうした事情があったからです。私も三浦九段の問題で情報が錯綜していた昨年10月の頃は、このブログに書くことを控えていました。その一方で、常務会は『週刊文春』に情報を流したのです。示しがつかないと批判されました。

私は、社会的な関心事になっている一連の問題について、今後は公益社団法人の一員として、個人の名誉や団体の機密事項などに配慮しながら、情報をできるだけ公開していきたいと思っています。

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2017年1月 4日 (水)

謹賀新年。2017年の将棋界は激動の年になりそうです

【追記・1月10日 日本将棋連盟のホームページの「将棋コラム」の欄に、私こと田丸昇九段のインタビュー記事が載っています。前編のテーマは「兄弟子の米長邦雄永世棋聖との思い出の一局」、後篇は「若手棋士時代のエピソード」。】

私こと田丸昇九段は昨年の10月25日に引退して以降、指導や執筆などの仕事が立て込んで忙しく過ごしてきました。現在も、3月に刊行予定の技術書の執筆で正月返上の日々です。そんなわけでブログの記事の更新が2ヵ月ぶりになってしまいました。

10月12日に発覚した三浦弘行九段の「将棋ソフト不正使用」の問題については、将棋連盟から委嘱された「第三者調査委員会」(元検事総長など3人の法律家で構成)が12月26日に調査報告を発表して一区切りつきました。

その骨子は「対局中に不正行為に及んでいたと認める証拠はない」というもので、三浦九段の無実が証明されました。また、三浦九段の公式戦出場停止処分(昨年の12月末日まで)を決めた将棋連盟(会長・谷川浩司九段)の常務会については、「当時は疑惑が強く存在していて、三浦九段が竜王戦7番勝負に出場した場合、大きな混乱が生じたことは必至だった。常務会の判断はやむをえなかった」として、理解を示しました。

第三者調査委員会が2ヵ月に及ぶ調査の結果、三浦九段の対局中の言動などについて「白」と判断したことは、連盟の会合で三浦九段を擁護する立場で訴えてきた私としては評価したいと思います。しかし常務会の判断を「やむをえなかった」とした見解には疑問を持っています。

とにかく第三者調査委員会の報告で、一連の問題が決着したわけではありません。今後は、三浦九段の公式戦復帰への道筋と甚大な不利益の補償、常務会や関係者の責任など、連盟の内部で検証すべきことは多々あります。

三浦九段の師匠で私の兄弟子の西村一義九段とは、たまに連絡を取り合ってきました。三浦九段の消息について、「かなり落ち込んでいる」と聞いたときはかなり心配しました。しかし12月27日に開いた記者会見に出席して公の場に久しぶりに登場した三浦九段を見て、思った以上に元気そうだったのでほっとしました。また今年の1月3日には、地元の群馬県高崎市で行われた「YAMADA子ども将棋大会」に出席し、ファンの人たちに挨拶して笑顔を浮かべました。

2017年の将棋界は、5月に理事選挙が行われることもあって、棋士たちの間でいろいな動きがあると思います。三浦九段の問題もからめて激動の年になりそうです。

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2016年10月26日 (水)

田丸が45年間にわたる現役棋士を引退、その後の電子機器不正使用問題

私こと田丸昇九段は10月25日に竜王戦・6組昇級者決定戦の対局で門倉啓太四段に敗れました。その結果、フリークラス規定によって引退が正式に決定しました。

45年間にわたる現役棋士生活を振り返ると、いろいろなことが思い出されますが、心残りはまったくありません。1965年(昭和40年)の14歳のときにアマ二段の棋力しかないのに師匠の故・佐瀬勇次名誉九段の口利きで奨励会に「裏口入会」した私としては、72年に21歳で四段に昇段して棋士となり、92年に41歳でA級に昇級できたことだけで、十分な実績を挙げたと満足しています。棋士人生の前半は勝負運に割りと恵まれ、順位戦で上位クラスに長く在籍できました。後半は坂道を転げるようにクラスが落ちていきましたが、負けが込んだ時期が前半でなくて良かったです。

門倉四段との対局で、私(後手番)は中飛車に対して以前に公式戦で指した△1三角と端に出る作戦を用いました。序盤は少し作戦負けでしたが、中盤で玉側の金銀4枚の厚みを生かして反撃し、終盤で一手違いの寄せ合いに持ち込みました。しかし駒損したうえに、飛車の働き、と金の活躍で相手が勝り、最後はどうしても負け筋でした。「華々しく散りたい」と対局前から思っていたとおりの局面になって投了しました。

私が竜王戦で門倉四段に勝った場合、11月上旬に5組昇級をかけて竹内雄悟四段との対局が決まっていました。現役最後となるその対局では、私が後援者から贈られた和服を着て臨んだ棋士デビュー対局(1972年3月21日・新人王戦・河口俊彦四段戦)と同じように、その和服を着て臨むつもりでした。それが実現しなかったのはちょっと残念です。

今後は、自分の持ち味を生かした棋士人生を送りたいと思っています。

メディアの報道でご承知のように、三浦弘行九段が対局中に電子機器を不正使用して将棋ソフトを検索したなどの疑惑によって、将棋連盟の常務会は三浦九段に対して、竜王戦の挑戦権の剥奪と今年12月末日までの公式戦出場停止の処分を課しました。

しかし常務会が重大な問題をわずか1日で決定、三浦九段と常務会の見解で違う事実関係、三浦九段が疑惑を否定、三浦九段の口頭による休場届の正当性、告発した棋士たちが挙げた三浦九段の指し手と将棋ソフトとの一致率の合理性など、いろいろな問題点が浮上しています。

10月21日に東西の将棋会館で行われたこの問題に関する説明会(棋士、女流棋士を合わせて約140人が出席)で、常務会は一連の経過と深刻な事情を棋士たちに伝えました。私は詳しいことを書きませんが、このブログに寄せられたコメントの内容でわかるように、すでに周知のことになっています。説明会では、三浦九段を批判する声と同情的な声に分かれましたが、私の実感では後者のほうが多かったと思います。

今後は、さらなる真相の究明が望まれます。ただ訴訟に発展する可能性もあり、どのような結果になっても、将棋界と棋士の信用失墜はまぬがれません。三浦九段、常務会、棋士たち、棋戦主催者などを巻き込んだ将棋に例えると、誰も「勝ち目がない」という厳しい状況なのです。

最年少四段昇段記録(14歳2ヵ月)で藤井聡太新四段の誕生、『聖の青春』『3月のライオン』の映画化など、将棋界は今年から来年にかけて明るい話題で持ち切りになるはずでしたが、ぶち壊しになってしまいました。

米長邦雄永世棋聖が69歳で亡くなったのは4年前の2012年12月。連盟会長時代に数々の難題に凄腕を振るった米長がもし存命だったら、将棋界の存続に関わる今回の問題に際して、どのように対処しただろうかと、私はふと思ってしまいました。

多くのメディアは、三浦九段に不正行為があったという前提の論調で報じています。私は知り合いの編集者から取材を受け、10月25日に発売された『週刊!スパ』(11月1日号)の誌上で、三浦九段を擁護する立場で一連の問題について語りました。

この問題はまだ尾を引きそうです。何らかの形で収束することを願ってやみません。

【追記】10月下旬に発売された『別冊宝島』(2518号)では、「将棋名勝負伝説」という表題で将棋界と棋士のことを豊富な写真と記事で紹介しています。トップ棋士インタビュー、将棋と人工知能、村山聖九段の肖像、元奨励会三段・天野貴元の最後の棋譜、などが主なテーマです。私は「棋士たちの引退」「棋士の反則列伝」のテーマで書きました。※定価は1200円(税別)。

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2016年10月14日 (金)

三浦九段のスマホ不正使用疑惑の余波で、田丸の竜王戦の対局が読売に掲載

新聞やテレビの報道でご承知のように、将棋界に大激震が起きました。

将棋ソフトの棋力の飛躍的な進化によって、現代では多くのプロ棋士がソフトを使用して将棋の研究に取り組んでいます。最善手や形勢判断、詰みの有無など、棋士でも参考にしているのが実情です。

棋士が対局中にスマートフォンなどの電子機器を使用し、ソフトで前記のことを検索するのはもちろん禁止されています。ところが不正行為が疑われるようなことがあった、という指摘が一部の棋士から出ていたそうです。

将棋連盟の常務会(旧理事会)はその防止策として、「対局中は電子機器をロッカーに預ける」「対局中は外出できない」などの規定を決定し、12月14日から施行すると10月上旬に発表しました。その矢先に浮上したのが三浦弘行九段のスマホ不正使用疑惑でした。

常務会は、三浦九段が今年の夏以降に「対局中にやたらと席を立つことがあり、時には10数分も離席していた」という対戦相手の数人の棋士からの指摘を受けて、10月11日にスマホ不正使用疑惑について本人から聞き取り調査をしました。

三浦九段は「席を立ったのは別室で休んでいただけ」と不正を否定しました。しかし「疑念を持たれたままでは対局をできない。休場したい」と話したそうです。

常務会はその翌日、三浦九段を12月31日まで公式戦の出場停止処分にすると決定しました。10月15日から始まる竜王戦7番勝負(渡辺明竜王―三浦九段)では、挑戦者を三浦九段から丸山忠久九段に変更しました。

私はメディアが伝えることしか知らないので、その件について論評することは今は控えます。ただ三浦九段の名誉と棋士生命に関わる重大なことを、常務会がわずか1日で決定したことについては疑問に感じています。結果的に将棋界と棋士のイメージが悪くなりました。今後は真相の究明が大事だと思います。

竜王戦を主催する読売新聞社は、挑戦者決定戦3番勝負(丸山九段―三浦九段)の観戦記の掲載を見合わせました。そして私こと田丸昇九段と近藤誠也四段の竜王戦の対局を、10月14日から掲載(8譜)することにしたのです。竜王戦7番勝負が開幕する時期に、6組昇級者決定戦の対局が掲載されるのはもちろん異例のことです。

スマホ不正使用疑惑の問題の余波が、私にも及ぶとは驚きでした。

読売新聞の記者が書いたその観戦記の第1譜には、「負けたら即引退、という棋士人生がかかった一番だ」「本局も、玉の囲いは最小限にとどめて攻める姿勢だ」という一節が載っています。

読売新聞の観戦記に私の将棋が掲載されるのは26年ぶりです(3組ランキング戦・準決勝の対局)。引退間際の良い記念になりました。

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2016年9月28日 (水)

竜王戦の対局に勝って現役期間がもう少し延びました

私こと田丸昇九段は9月27日に竜王戦・昇級者決定戦で近藤誠也四段と対戦しました。

近藤四段は20歳の若手精鋭です。C級2組順位戦で4連勝していて、王将戦でリーグ入りしました(1989年の屋敷伸之四段以来、新四段として27年ぶり)。今期の勝率は8割を超えています。

一方の私は今年の4月で引退が内定していて、本局に敗れると引退が正式に決まります。誰が見ても、私が勝てる見込みはありません。それは自分自身がよくわかっています。ただ同じ負けるにしても、悔いのない将棋を指そうと心がけました。

私は矢倉模様から急戦調の指し方を採りました。1980年代に兄弟子の米長邦雄永世棋聖が用いて武器にした手法です。現代では「絶滅危惧種」の戦法で、用いる棋士はほとんどいません。私は20年ほど前から、自分なりの工夫を取り入れてよく指しています。引退がかかる本局はその戦法を用いました。

とにかく勝負は二の次です。華々しく散ろうと思って強気に攻め合いました。それが功を奏して中盤では互角に戦えました。そして終盤で鋭く踏み込んで一手勝ちを収めました。久しぶりに「突っ張り流」の技が冴えました。

本局に勝って現役期間がもう少し延びました。それにしても引退の内定から半年たったのに、いまだに現役棋士でいるのは不思議な感じです。将棋連盟のホームページに載っている公式戦記録の勝率部門では、トップの10割(2勝)です。

次の竜王戦の対局は、牧野光則五段―門倉啓太四段の勝者で、さらに勝つと竹内雄悟四段と5組昇級をかけて対局します。

いずれにしても、10月中には残る対局をすべて終えて引退となります。願わくば勝率10割で有終の美を飾れば、これ以上の喜びはありません。弟子の井出隼平四段の活躍(C級2組順位戦で3連勝、加古川青流戦で決勝進出)にあやかって、師匠も最後の踏ん張りを発揮したいと思っています。

9月から10月にかけて、執筆の仕事が立て込んでいます。そんなわけで、本格的なブログ記事の更新はもう少しお待ちください。

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2016年9月 4日 (日)

14歳2ヵ月の最年少記録で藤井聡太・新四段誕生

14歳2ヶ月の最年少記録で藤井聡太・新四段誕生

9月3日に東京の将棋会館で行われた奨励会の第59回三段リーグの最終日で、藤井聡太(ふじい・そうた)三段が13勝5敗の成績を挙げて1位に入り、14歳2ヵ月の最年少記録で四段に昇段しました。ビッグな新星の誕生にメディアも注目し、その日のうちにテレビやネットで速報され、翌日には朝刊の1面に記事が載りました。

写真は、記者会見で王将の置き駒を持ちながら笑顔を浮かべる藤井新四段。今後の目標について、「実力をもっとつけてタイトルを狙える位置にいきたいです。憧れの棋士は谷川先生(浩司九段)で、自分もそういった鋭い寄せができればと思います」などと、はにかんだ様子で語りました。

藤井は愛知県瀬戸市の生まれで、5歳のときに祖母から将棋を習いました。地元の将棋教室に通った後、小学1年で東海研修会に入会して腕を上げました。そして2012年9月の10歳のときに杉本昌隆七段の門下で関西奨励会に6級で入会しました。その後は14年6月に初段、15年10月に13歳2ヵ月の最年少記録で三段に昇段と、異例の速さで昇進していました。研修会時代から指導してきた師匠の杉本七段は、「子どもの頃から優れた大局観を持っていました。負けた後に泣きながら将棋盤にしがみついて離れないこともあり、とても負けず嫌いでした」と藤井の少年時代を振り返りました。

藤井は昨年3月、詰将棋を解く速さと正確さを競う「詰将棋解答選手権」に出場し、棋士や詰将棋マニアなど約80人の中で、難解な10問の詰将棋をすべて正解して優勝しました。今年の大会でも優勝して連覇しました。読みの深さと速さはすでにプロ棋士の力を有していて、詰将棋で鍛えた終盤の強さが持ち味でした。

しかし、どんなに強くても難関の三段リーグで勝ち抜くのは大変です。藤井は今年4月に始まった三段リーグ(出場者は29人)の前半で7勝2敗の成績を挙げました。その後も白星を重ねて昇段争いに加わり、12勝4敗で9月の最終日を迎えました。残りの2局で連勝すれば昇段できる自力の立場でした。その1局目で坂井信哉三段に敗れましたが、ほかの昇段候補たちも敗れたことで、いぜんとして自力でした。そして2局目で西山朋佳三段に勝ち、四段昇段を果たしました。

藤井は今年の10月1日付で14歳2ヵ月の最年少記録で四段に昇段します。従来の記録は加藤一二三九段の14歳7ヵ月でした。中学生棋士の誕生は、加藤九段、谷川九段(四段昇段時の年齢は14歳8ヵ月)、羽生善治三冠(同15歳2ヵ月)、渡辺明竜王(同15歳11ヵ月)に次いで藤井が5人目です。また、三段リーグを1期で抜けたのは藤井が6人目です(全員が初出場の第1回三段リーグでの2人の昇段者を除く)。

三段リーグで2位に入った大橋貴洸三段(所司和晴七段門下・23歳)も四段に昇段しました。三段リーグの在籍は12期目でした。3位の次点は黒田尭之三段(畠山鎮七段・19歳)。私は兄弟子の故・米長邦雄永世棋聖門下の杉本和陽三段(現在は伊藤能七段の預かり弟子・25歳)を個人的に注目していました。以前に次点の成績を取ったので、2回目の次点を獲得すれば、規定によって四段昇段とフリークラス編入の権利が生じます。しかし大橋三段、黒田三段らと同成績の12勝6敗ながら、順位下位によって5位となりました。

藤井四段の公式戦デビュー対局は12月に始まる次期の竜王戦になる見込みで、アマ竜王戦で実績を挙げた強豪アマと当たる可能性があります。

加藤九段は「現役最年長(76歳)の私が、21世紀生まれで最年少の藤井四段と対局できると考えるとわくわくいたします」と語りました。新旧の最年少四段昇段記録を持つ両者の対局をぜひ見たいものです。ただ愛知県在住の藤井は関西の所属になるので、順位戦での対局の可能性が最も高いです。そのためには今期のC級2組順位戦でぎりぎりの立場に追い込まれている加藤九段の奮戦に期待したいところです。

藤井は名古屋大学教育学部付属中学校の2年生。今後は将棋と学業の両立が課題になりそうですが、中学卒業後は高校に進学してほしいと思います。将棋界以外の世界で生きることは、決して無駄にはならないからです。同じ中学生棋士だった谷川九段、羽生三冠、渡辺竜王は、高校に通いながら盤上でも活躍していました。

 

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2016年8月 5日 (金)

引退が内定している田丸が竜王戦の対局で勝って現役棋士にとどまる

今年の春で引退が内定している私こと田丸昇九段は、ただひとつ勝ち残っている棋戦の竜王戦・6組昇級者決定戦において、7月29日に行われた3回戦の対局で上野裕和五段に勝ちました。その結果、現役棋士にもう少しとどまることができました。次の4回戦の対戦相手は新人の近藤誠也四段で、8月下旬に行われる予定です。

私は現役最後になりかねない上野五段との対局で、相居飛車系の5筋位取りの作戦を採りました。公式戦で何局も用いてきた「田丸オリジナル」の手法です。ほかの棋士が誰も指さないのは、内容的にまったく評価していないか、私が敗れてばかりだからでしょう。

私との対局で5筋位取りに2連敗していた上野五段(対戦成績は田丸の2勝1敗)は、銀を前線に進める積極的な指し方を採りました。事前に研究してきたようです。私が攻め合いに応じると、一転してお互いの攻め手を封じ合う展開となり、序盤の駒組手順に戻りました。その後、戦いが始まると一気に終盤の寄せ合いに突入しました。私は負け筋かと思っていましたが、上野五段に重大な見落としがあり、私が一手勝ちを収めました。

それにしても現役棋士としてすでに「死に体」なのに、まだ「存在」しているのは不思議な心境です。竜王戦で勝ち続けると(最多で3局)、最後の対局は10月頃になりそうです。田丸と今春に棋士になった井出隼平四段の師弟は同じ現役棋士だった、という期間を少しでも延ばしたいと思っています。

棋士の引退には、制度上の引退、本人の意思による任意引退、病気や死亡による引退のケースがあります。その中で制度上の引退は、順位戦でC級2組から降級したり、年齢制限に該当する例です。将棋界は4月を起点とする「年度」が基準になっていて、3月末日の時点で前記の事由に該当すると引退となります。5月生まれの私は昨年の3月末日の時点で64歳だったので、引退の内定が今年に延びました(フリークラス棋士は原則として65歳で引退)。

引退した棋士の最後の対局日を調べてみました。以前は大半の棋士が年度末の3月を区切りにして引退しました。その時点で勝ち残っている棋戦があった場合、引退棋士の対局は「不戦敗」としないで無勝負とし、将棋連盟は対局したとみなしてその相当額を支払ったようです。一方の対戦相手には「不戦勝」の記録が残ります。

1990年代後半の頃からは、引退が内定しても勝ち残っている棋戦の対局をすべて終えてから正式に引退する、現行の制度が定着しました。したがって正式な引退日は、棋士によって違います。

さらに数年前には、順位戦以外の棋戦の実績を反映した引退規定が新たに設けられました。竜王戦で5組以上に在籍しているなど、一定の実績を挙げている棋戦だけに出場できる規定です。それは順位戦でC級2組から降級した棋士が対象です。引退に該当していても、竜王戦だけは延々と出場している、という棋士がいずれ現れるかもしれません。なおその規定は、私のように自分の意思でフリークラスに転出した棋士には適用されません。

じつは今年の5月、佐瀬一門(田丸の師匠の一門)の棋士、私の家族、知り合いの将棋ファンなど、50人ほどが集まって私の「引退慰労会」を開いてくれました。結果的に棋士としての「生前葬」になった慰労会の模様は、引退が正式に決まったら、このブログでお伝えします。

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2016年7月 1日 (金)

囲碁界で井山七冠の誕生、さらに進化した将棋ソフト、羽生三冠が叡王戦に初出場

今年の4月20日、囲碁棋士の井山裕太名人(当時26歳)が十段戦で伊田篤史十段を破って十段を獲得しました。その結果、囲碁界で初めて七冠(名人、棋聖、本因坊、王座、天元、碁聖、十段)を制覇する偉業を達成しました。

井山七冠は2013年に六冠を獲得した後、四冠に後退して足踏みしました。しかし昨年から今年にかけて、公式戦で24連勝、タイトル戦で通算18連勝して絶好調になりました。苦戦に陥っても逆転を果たす神がかった強さが際立っていたそうです。そして3年越しで七冠を制覇しました。

将棋界では20年前の1996年2月、羽生善治六冠(当時25歳)が王将を獲得して七冠制覇を達成しました。その前人未踏の偉業は、テレビのニュースや街の電光掲示板の速報で全国にたちまち流されました。翌朝の新聞は全紙が1面で報道し、スポーツ紙の見出しには羽生の2文字が大きく載りました。羽生はNHKと民放各局の情報番組に出演して喜びを語りました。将棋の棋士がメディアにあれほど注目されたのは羽生が初めてでした。

井山七冠の誕生の話題も新聞やテレビで大きく報道されました。ただ20年前の羽生七冠と比べると、注目度は少し低かったような気がしました。井山七冠が「まだまだ未熟さを感じることが多いので、少しでもレベルアップしたい」と語ったことが、それを物語っています。日本の囲碁界は、世界戦の実績で中国や韓国に大きく後れを取っているからです。つまり井山七冠は「日本一」に上り詰めましたが、「世界一」に至っていません。それが羽生七冠と決定的に違うことです。その一方で、国際的な普及が進んでいる囲碁界と比べて、将棋界はまだ途上ということを痛感します。

なお羽生七冠は時の橋本龍太郎首相から「内閣総理大臣顕彰」を受賞し、井山七冠も安倍晋三首相から同じく「内閣総理大臣顕彰」を受賞しました。

昨年に創設された第1期叡王戦で優勝した山崎隆之八段は、第3回電王トーナメントで優勝したコンピュータ将棋ソフト『PONANZA』(ポナンザ)と、今年の第1期電王戦2番勝負で対戦しました。棋士と将棋ソフトの頂上決戦は、タイトル戦並みの2日制(持ち時間は各8時間)という設定で4月と5月に行われました。

第1局は、先手番のポナンザが序盤で強襲策を採ると、山崎は強気に応じて攻め合いになりました。そして激しく攻め続けたポナンザが寄せ切って勝ちました。第2局は、後手番のポナンザが積極的に仕掛けると、山崎は右玉の形にして攻めをかわしました。そして巧みに攻め続けたポナンザが最後は鮮やかな即詰み手順で勝ちました。

山崎八段は定跡形や流行形にとらわれない力戦派の雄です。自分のペースに持ち込めば十分に戦えると思いました。しかし第1局と第2局はともにポナンザの圧勝に終わりました。山崎八段は将棋ソフトの底知れない強さを意識しすぎた印象がありました。一方の将棋ソフトは感情のぶれがないのが強みといわれますが、今ではそれを超えた本物の強さがあると思います。

グーグル・デイープマインド社が開発した人工知能(AI)『アルファ碁』は今年の3月、世界最強クラスの囲碁棋士のイ・セドル九段(韓国)との5番勝負に勝ち越して世界的な衝撃を及ぼしました。そのAIは、棋士の棋譜を入力して得た膨大な情報を的確に処理して最善手を考え出すだけでなく、自分同士で繰り返し対局(1局の所要時間は1秒で、合計1千万局以上)して知識を深めたり良い手を学ぶ「強化学習」という方法で実力を伸ばしたそうです。

将棋ソフトもさらに進化しています。棋士が考えつかない手法を指し、棋士が公式戦で試してみるという逆転現象も起きています。それにしても電王戦でのポナンザの将棋は個性的で攻めっ気が強かったです。近年の棋士たちは、研究会の延長のような同じ戦型ばかり指している傾向があります。それに比べると、とてもエキサイティングで魅力的でした。棋士同士よりも将棋ソフト同士の将棋のほうが強くて面白いと思われて、棋士の存在価値が問われる時代がいつの日にか来るのではないかと心配しています。

第1期叡王戦で欠場した羽生三冠は「いくつかの要素があって出ようと思った」という理由で第2期叡王戦で初出場しました。そして段位別(九段)の予選で勝って決勝トーナメント(16人)に進出しました。「将棋のプログラムにはそれぞれ個性があり、戦うことになったら理解を深める必要がある」と語った羽生がさらに勝ち進み、来年の第2期電王戦2番勝負で将棋ソフトの王者と熱戦を繰り広げることを期待したいです。

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2016年6月22日 (水)

「貴族」の愛称がある佐藤天彦・新名人の盤上盤外

「貴族」の愛称がある佐藤天彦・新名人の盤上盤外

写真は、4月5日・6日に東京・目白「ホテル椿山荘」で行われた名人戦(羽生善治名人―佐藤天彦八段)第1局の前夜祭での光景です。

羽生名人(45歳)は「近年はタイトル戦で若い世代の人と対局することは珍しくありませんが、ついに名人戦でもそうなったかと感じています。棋士として30年間続けてきた中で、いま出せるものを出していきたいと思います」と挨拶しました。

「貴族」の愛称がある佐藤天彦・新名人の盤上盤外

挑戦者の佐藤八段(28歳)は「第一線でずっと活躍してきた羽生名人と戦う名人戦の7番勝負では、自分らしく一手一手を大切に指したいと思います」と挨拶しました。

第1局1日目の5日に『ニコニコ生放送』の番組で解説者を務めた私は、前夜祭の会場で話の種を仕入れました。佐藤八段の家族(母親・兄・姉)にも話を伺いました。とてもユニークな名前の「天彦(あまひこ)」は、天という言葉が好きな母親が付けたそうです。佐藤は4歳のときに母親に将棋を習いました。8歳のときに同じ福岡出身のよしみで中田功七段に将棋を教わり、それが縁となって後に師弟関係を結びました。少年時代の佐藤を「とてもいい子でした」と語った家族の人たちの明るい表情を見ると、佐藤が真っすぐに育って大成した環境がわかるような気がしました。

佐藤は2004年の三段リーグで、2回目の次点を獲得してフリークラス編入の権利を得ました。しかし両親や師匠と話し合った末に、その権利を放棄したのです(同じ例は皆無です)。前夜祭の会場にいた中田七段の話によると、佐藤は「どっちでもいい」と語ったそうです。その理由として、フリークラス編入からC級2組昇級までの期限が10年、奨励会で年齢制限を迎えるのも10年後というわけです。また、当時は将棋に対する意識の甘さを感じていたといいます。まだ16歳と若く、正規のルートで棋士になりたいという高い志があったにせよ、かなり重い決断だったと思います。

佐藤が四段に昇段して棋士になったのは、それから2年後の2006年でした。昇段の一局では、楽をしては勝てない、背筋が凍るような思いをしないと勝てない、という心境で臨んで勝利をつかみました。

佐藤はクラシック音楽、ヨーロッパの美術や服飾など、西洋文化に深い関心を持っています。そんな優雅な趣味から「貴族」という愛称を友人の棋士に付けられました。

クラシック音楽はベートーベンとモーツァルトの曲がとくに好きです。家でのんびり聴いていると、無上の喜びを感じるそうです。コンサートにもよく通っていて、いつも黒を基調とした服装で行くので音楽家に見られることがあります。終演後のアーティストのサイン会で並んだとき、将棋の好きな人に声をかけられてサインをしたこともありました。

ファッションに興味を持ったのは高校生の頃で、友人たちと比べて自分のあか抜けない服装を何とかしたいと思ったのがきっかけでした。好きなブランドは、ベルギーの女性デザイナーの名前を当てた『アン ドゥムルメステール』。黒と白を基調とした個性的な服装です。気に入って月に何十万円も買ったことがあったそうです。

佐藤八段は名人戦の最中でも、対局の合間にそのブランドの予約会に2回も出かけました。また、モーツァルトのバイオリン・ソナタ、弦楽四重奏などの室内楽を繰り返し聴きました。いずれも良い気分転換となり、対局に向けて英気を養いました。

そして佐藤八段は名人戦で羽生名人を4勝1敗で破り、佐藤新名人が誕生しました。タイトル戦の対局で羽生に4連勝したのは、谷川浩司九段、森内俊之九段、渡辺明竜王に次いで、佐藤が4人目です。羽生との対戦成績は7勝6敗の勝ち越しとなりました。

佐藤名人はある週刊誌のインタビューで、「歴代の名人の方々は、すごい個性を持っていました。そうした先輩たちの良いところを取り入れ、最終的には自分なりの名人になっていければと考えています。結婚に関しては、今のところ考えられません。一人暮らしが長くてライフスタイルが確立しているので、生活のリズムが変わってしまうと…」と、今後の盤上盤外について語りました。「名人」と「貴族」を両立するのは、なかなか大変なようです。

「貴族」の愛称がある佐藤天彦・新名人の盤上盤外

私は2008年6月に棋聖戦で佐藤天彦四段と対局しました。矢倉模様から角筋を敵陣に利かす得意の急戦策を用いました。実戦は写真(先手が田丸)の▲4五同桂以下、△4四銀▲4六歩△8六歩▲同歩△3三桂と進みました。以後は佐藤の反撃に応手を誤り、不利となって私が敗れました。佐藤(当時20歳)は闘志を胸に秘めた冷静な若者という印象でした。

 

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2016年6月 4日 (土)

名人戦で挑戦者の佐藤天彦八段が羽生善治名人を4勝1敗で破り、佐藤新名人誕生

名人戦で挑戦者の佐藤天彦八段が羽生善治名人を4勝1敗で破り、佐藤新名人誕生

5月30日・31日に行われた名人戦(羽生善治名人―佐藤天彦八段)第5局で、28歳の挑戦者の佐藤八段が勝って羽生名人を4勝1敗で破り、佐藤が歴代13人目の名人位に就きました。

新名人の誕生は、2002年の森内俊之名人(当時31歳)以来です。20代名人の誕生は、2000年の丸山忠久名人(当時29歳)以来です。A級順位戦の1期目で名人戦の挑戦者になって名人を獲得したのは、1994年の羽生名人(当時23歳)以来です。

私は4月5日・6日に東京・目白「ホテル椿山荘」で行われた名人戦第1局の1日目に、「ニコニコ生放送」の番組で解説者を務めました。その時点で羽生名人と佐藤八段の対戦成績は羽生の5勝3敗でした。ただ2015年の王座戦で挑戦者の佐藤八段が羽生王座に2勝1敗と勝ち越してタイトル初獲得まであと1勝と迫り(結果は羽生王座が3勝2敗で逆転防衛)、同年は互角の戦績でした。私は「第2局までに佐藤が1勝すれば、名人戦は十分に戦える」と予想しました。

写真・上は、4月4日の前夜祭で両対局者に花束が贈られた光景。右から、清水市代女流六段、羽生名人、佐藤八段、カロリーナ・ステチェンスカ女流3級。

名人戦で挑戦者の佐藤天彦八段が羽生善治名人を4勝1敗で破り、佐藤新名人誕生

名人戦の第1局は羽生が勝ちました。第2局は激闘の末に写真・中の終盤の局面(先手が佐藤。▲2四飛まで)に進みました。両者は持ち時間を使い切り、ともに1分将棋になっていました。羽生は▲5五桂打以下の詰めろを防いで△3四銀と引きましたが、佐藤は▲4四金で詰めろをかけました。そして佐藤が即詰みに討ち取り、名人戦で初勝利を挙げました。

じつは写真の局面(2手後の▲4四金でも)では、△8九銀▲同玉△6七角成▲同金△7八金▲同玉△8六桂(▲同歩は△6九馬以下詰み)▲8九玉△7八銀▲8八玉△7九銀不成▲8九玉△7八桂成▲同玉△6八馬▲同金(▲8九玉は△6七馬以下詰み)△同と▲8九玉△8八金までの即詰み手順があったのです。

羽生は局後に即詰みを指摘されると、「あっ、△6八馬か…」と声を上げました。さすがの羽生も見落した不詰め感のある読みにくい詰み手順でした。一方の佐藤も気がつかなかったようです。ただ自玉の受けがなければ、とりあえず△8九銀から△6七角成と王手したいところですが、詰みがないと思っていて王手を続けることは一流棋士ほどためらうものです。

佐藤にとって第2局の勝利はとても大きかったと思います。続く第3局と第4局も勝って3勝1敗とリードし、名人獲得まであと1勝と迫りました。74期にわたる名人戦の歴史で、名人が1勝3敗から3連勝して逆転防衛した例は、1992年の名人戦(中原誠名人―高橋道雄九段)しかありません。しかし将棋界の第一人者の羽生がそのまま土俵を割るとは思えませんでした。2011年の名人戦(羽生名人―森内九段)では、羽生は3連敗から3連勝して巻き返しました(結果は森内が4勝3敗で名人獲得)。

名人戦で挑戦者の佐藤天彦八段が羽生善治名人を4勝1敗で破り、佐藤新名人誕生

写真・下は、第5局の終盤の局面(先手が羽生。△3六歩まで)。羽生は中盤で角を取られて苦しい形勢になりましたが、懸命に挽回を図りました。羽生のことだから何か勝負手を用意しているはずだ、という空気が周囲に漂っていたようです。実際に難しい変化がありましたが、羽生はその順を見送りました。そして写真の局面で、攻防ともに見込みがないと判断して投了したのです。▲3三桂の王手は△同金▲同歩成のときに、桂を渡したので△4八銀以下の即詰みが生じます。しかし△3三同金に▲8五角の王手を打つと、後手の応手によってはまだ難しい変化になったようです。

第2局で即詰みを逃す、第5局で早まったと思える投了、名人戦のシリーズを通じてやや変調な指し方など、羽生にいったい何があったのでしょうか。不調説も流れています。

羽生は名人を失冠した後の6月3日に行われた棋聖戦(羽生棋聖―永瀬拓矢六段)第1局でも、千日手指し直しの末にタイトル戦に初登場した永瀬六段に完敗しました。

羽生は棋聖戦のほかに、7月からは木村一基八段との王位戦、9月からは王座戦と、タイトル戦の防衛戦が続きます。

囲碁界は井山裕太七冠の誕生が大きな話題になっています。将棋界はタイトルを分け合う戦国時代になるのかとうか、夏から秋にかけての羽生の勝負が注目されます。

佐藤天彦新名人のことは、次回のテーマにします。

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2016年5月23日 (月)

田丸が竜王戦で対局した関西の奨励会員が退会、免状授与式での井出隼平新四段

田丸が竜王戦で対局した関西の奨励会員が退会、免状授与式での井出隼平新四段

ブログの記事を2ヵ月ぶりに更新します。将棋界ではその間にいろいろなことがありました。順に追ってテーマにしていきます。

私は3月24日に竜王戦の6組ランキング戦3回戦で、関西奨励会の石川泰三段と関西将棋会館で対局しました。私が初めて見た21歳の大学生でもある石川三段は、理数系というよりも体育会系のようながっちりした体型が印象的でした。なお本局の記録係を務めたのは里見香奈・奨励会三段で、私は初めてのことでした。

石川三段の中飛車に対して、私(先手)は角筋を開けずに9筋に角が出る手法を採りました。昨年の竜王戦で近藤正和六段との対局で用いた経験がありました(結果は田丸が勝ち)。

上の図は石川三段が△6四歩と突いた中盤の局面で、お互いの角が利いて動きにくい状況です。相手は次の△6三金で高美濃に組むと十分な形になります。そこで私は▲9五歩△同歩▲9三歩△同香と9筋に細工をしてから、▲2四歩△同歩▲5五歩△同角▲6五桂△同桂と銀を取りました。指せると思って踏み込んだ攻め手順でした。

田丸が竜王戦で対局した関西の奨励会員が退会、免状授与式での井出隼平新四段

下の図の△6五同桂の局面で、▲5六銀と角取りに出る読み筋でした。しかし△7七角成▲同金△5六飛で銀を取られる返し技で、不利になるのを見落としたのです。そこで▲6六歩と突いて受けに回りました。△5七歩成は▲同角△同桂成▲同金直と応じれば、金銀4枚の守りが厚くて悪くないと思っていました。しかし石川三段が△1一角と引いたのが落ち着いた好手で、私は有効な手がないのに愕然としました。そして負けを覚悟して29分の長考で▲6五歩で桂を取ると、△6六桂の王手金取りをかけられ、数手後に私は投了しました。

本局は中盤まで難しい形勢が続きました。正直なところ、急転直下で敗局となる展開は予想外でした。しかし指せると思って踏み込んだ攻め手順で不利になったので、仕方ないと思っています。石川三段の将棋は、師匠の淡路仁茂九段に似て強靭でした。

感想戦が終わった後、私は石川三段と記録係を務めた里見三段に「2人とも次の三段リーグで頑張ってね」と声をかけました。すると石川三段は「明日に奨励会の退会届を出します」と、思いも寄らないことを語ったのです。

後日に聞いた話によると、石川三段は2年前から将来の進路について師匠や親族と話し合ってきたそうです。そして2年間の限定で三段リーグを戦い、四段昇段を果たせなかったので奨励会退会を決めたのでした。以前にも18歳の三段が、医学の道に進むために奨励会を退会した例がありました。石川三段は国際的な仕事に就く志望があるそうで、私は新たな世界で活躍することを期待しています。

なお石川三段は奨励会の枠で公式戦に出場したので、勝ち残っていた竜王戦と新人王戦の対局は不戦敗となりました。

私は今年の4月で引退が内定していて、残る対局は竜王戦の6組昇級者決定戦だけとなりました。6月に上野裕和五段と対局する予定です。自分らしい内容の将棋を指して、有終の美を飾りたいと思っています。

田丸が竜王戦で対局した関西の奨励会員が退会、免状授与式での井出隼平新四段

私の弟子の井出隼平四段は、前期の三段リーグ最終日に奇跡的な確率で四段に昇段しました。4月15日に行われた免状授与式では、将棋連盟会長の谷川浩司九段(左)から四段の免状を受け取りました。

田丸が竜王戦で対局した関西の奨励会員が退会、免状授与式での井出隼平新四段

師匠の私とのツーショットです。息子の入社式に同席したような気持ちでした。その井出四段は5月25日に棋士デビュー戦として、加古川青流戦で香川愛生女流三段と対局します。

田丸が竜王戦で対局した関西の奨励会員が退会、免状授与式での井出隼平新四段

免状授与式で初段の免状を受け取る竹俣紅女流初段。美少女棋士としてタレント活動をして人気を呼んでいますが、今年の4月から公式戦を休場しています。竹俣さんが通う東京・渋谷の中高一貫校は数多くの東大合格者を出している進学校です。昨年は対局などのために授業の出席日数が足りなくなり、高校卒業のために学業に専念するそうです。

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2016年3月18日 (金)

田丸の現役引退までの残る対局、弟子の井出隼平三段の四段昇段

私こと田丸昇九段は、3月16日に王将戦の対局で三枚堂達也四段に敗れ、現役を引退するまでの残る対局は竜王戦だけになりました。その竜王戦・6組ランキング戦の3回戦の対局は来週の3月24日に行われます。相手は関西奨励会の石川泰三段。本来は東京で対局するところですが、私の希望で関西将棋会館での対局となりました。

私が順位戦に在籍していた2008年度までは、毎年2~3局は関西の棋士との順位戦などの対局で大阪に出向きました。09年にフリークラスに転出してからは、ほかの棋戦で関西で対局する機会がありませんでした。今年の3月で引退が内定している私は、その前に関西で対局したいとかねてから思っていたのです。

私が旧関西本部(大阪・阿倍野区)で初めて対局したのは三段時代の46年前でした。奨励会の「東西決戦」(勝者が四段に昇段)で坪内利幸三段(現八段)と対戦して敗れた苦い思い出があります。それ以来、関西本部(現在は大阪・福島区)で多くの対局を重ねてきました。そんな過去の対局を振り返りながら、現役最後の棋戦に臨みたいと思っています。対局の後は、桜が開花して華やいだ雰囲気の京都や奈良を観光して「三都物語」を楽しむつもりです。

田丸の弟子の井出隼平三段(24歳)が3月5日の三段リーグ最終日で、確率が1%に満たない厳しい状況で奇跡の四段昇段を果たしました。そのことを前回のブログで書くと、「私が指導対局をしていただいた井出三段の奇跡的な四段昇段が決まり、自分のことのようにうれしかったです」「諦めずにきちんと指したことへのご褒美でしょう」「四段はゴールではなくスタートです。これからが大切ですね」「兄弟子の櫛田陽一六段もうれしかったと思います」など、多くの方から祝福コメントが寄せられました。別のあるサイトにも、「いい話だった。おめでとう田丸九段」「師匠の田丸九段の引退に花を持たせたね」「田丸九段の笑顔が無上の喜びを表現していて胸が熱くなった」などのコメントが寄せられました。

井出は四段に昇段した日、取材に応えて「年齢制限も近いので、諦めの気持ちもありました」と語りました。それは率直な感想だと思います。三段リーグ最終戦に勝った時点で3位の「次点」が確定し、その30分後に四段昇段が決定しました。しかし次点で終わった場合、25歳の年齢制限が迫っている状況で、再度の次点(四段に昇段してフリークラス編入の権利が生じます)を獲得するのは容易ではありません。井出が計13期の三段リーグで昇段争いに加わったことは、今回を含めてわずかだったからです。

東京・荻窪「将棋サロン荻窪」の経営者の新井敏男さんは、勉強のために毎日のように通っている井出の父親みたいな存在です。もし棋士になれなかったら、将棋サロンの手合係にさせると冗談で言っていましたが、後継者を失ったのはうれしい誤算になりました。新井さんは井出に「しょぽい棋士になってほしい」と以前から言っていました。ほかの若手棋士に比べて地味であまり活躍しないけど、たまに大物棋士を破って注目されることがある、という意味だと私は解釈しています。

井出は今後について、「穴熊に組ませて勝てる四間飛車党をめざします。鈴木大介八段が指すような四間飛車が目標です」と語りました。それは言い換えれば、少年時代から指導を受けていた兄弟子の櫛田六段の将棋を引き継ぐことでもあります。現代では少数派になっている「ノーマル四間飛車」を標榜する井出の将棋にどうか注目してください。

私の引退と入れ替わるように、井出が棋士になりました。公式戦で師弟が対局する可能性はありませんが、師弟がともに現役棋士だった時期が一時的でもあるのはうれしいです。なお私が引退する正式な時期は、今後の竜王戦の対局の勝敗によって決まります。早ければ5月頃でしょう。ランキング戦で勝ち続ければもっと先になります。9年前にランキング戦で5回戦に進出したときは、昇級決定戦の対局は10月でした。とにかく現役棋士生活を少しでも長く送れるように、最後の頑張りを発揮したいと思っています。

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2016年3月 6日 (日)

田丸の弟子の井出隼平三段が最終日の時点で確率が1%弱の厳しい状況で奇跡の四段昇段

田丸の弟子の井出隼平三段が最終日の時点で確率が1%弱の状況で奇跡の四段昇段

第58回三段リーグ(2015年10月〜16年3月)の17回戦と18回戦の対局が最終日の3月5日に東京の将棋会館で一斉に行われ、私こと田丸昇九段の弟子の井出隼平三段(24歳)が昇段への確率が1%弱という厳しい状況で奇跡的な四段昇段を果たしました。

写真は、井出がいつも研究場所にしている東京・荻窪「将棋サロン荻窪」で、当日の夜に師弟で昇段の喜びを分かち合っているところです。

このブログには多くの方から祝福コメントが寄せられました。厚く御礼を申し上げます。

今年の3月で引退が内定している私としては、現役中に井出が四段に昇段することをずっと願っていました。しかし3年前の第52回三段リーグで昇段のチャンスを逃して以降は成績が低迷していました。

井出は今回の三段リーグでも前半で4勝5敗と負け越しましたが、後半で追い込みました。最終日を迎えた時点で、14勝2敗の都成竜馬三段はすでに四段昇段が決定していて、11勝5敗の渡辺和史三段、佐々木大地三段、大橋貴洸三段、石川優太三段、10勝6敗の石川泰三段、黒田尭之三段、井出三段らが残る1つの昇級枠を争いました。井出は7番手でしたが、順位の関係で昇段の可能性がわずかにありました。ある人の計算によると、その確率は0.78%でした。17回戦で井出が池永天志三段に勝つと、上位の4人が敗れたので4番手に上がりました。確率は6.25%になりました。そして18回戦で井出が藤田彰一三段に勝つと、上位の3人が次々と敗れました。その結果、順位8位で12勝6敗の井出は、順位下位で同成績の佐々木三段、大橋三段、石川優三段を押さえて2位に入り、奇跡的な四段昇段を果たしたのです。

井出は18回戦で勝った後、残る1局の黒田―佐々木戦の結果を待ちました。30分ほどの時間でしたが、1時間以上に感じるほど長く、手から出る汗が止まらなかったといいます。じつは私は、上位者同士の対戦があるので井出の上がり目はないと思っていて、当日の午後に将棋連盟ホームページの三段リーグ速報を見て昇段の可能性があるのを初めて知りました。そして夕方に関係者から、井出の四段昇段が伝えられました。

私は13年前の2003年、たまに指導対局を務めていた東京・吉祥寺「将棋サロン吉祥寺」の席主の新井敏男さんから、奨励会入会志望の井出(当時12歳)を紹介されて師弟関係を結びました。井出は同年に奨励会に6級で入ると、順調に昇進を重ねて18歳で三段に昇段しました。

井出は研究会に参加して勉強するのは、時間に縛られるから嫌だと言って、毎日のように将棋サロン吉祥寺に通って主に強豪アマと指して腕を磨きました。私は将棋の勉強法については本人に任せていたので、何も言いませんでした。井出の父親のような存在の新井さんも「1人くらい将棋クラブで育ったプロ棋士がいてもいいでしょう」と理解を示して応援しました。将棋サロン吉祥寺が現在の荻窪に移ったときは約3ヵ月の休止期間があり、井出はその時期に調子を崩して連敗しました。将棋サロンで勉強することは生活の一部になっていたのです。

井出は兄弟子の櫛田陽一六段に仕込まれたこともあって、角筋を止める従来の四間飛車を武器にしていました。7期目の三段リーグでは11勝5敗で最終日を迎え、連勝すれば四段昇段の可能性がありました。新井さんは当日、将棋会館に行って吉報を待ちましたが、井出は17回戦で敗れて望みは絶たれました。

井出は以後の三段リーグで成績が低迷しました。私は弟子に対して放任主義でしたが、さすがに心配して2年前に話し合いの場を持ちました。技術的なことは教えられませんが、精神面や勝負への心構えについて自分の経験を話しました。そして苦境を脱するひとつの方法として、「何かを変えてみるといい」とアドバイスしました。

井出はその後、嫌々でしていた公式戦の記録係を積極的に務めるようになりました。四間飛車オンリーでしたが、居飛車も勉強して将棋の幅を広げました。また、行方尚史八段には居飛車、窪田義行六段には振り飛車を教わりました。やがて三段リーグの成績は良くなり、前回は11勝7敗と久しぶりに勝ち越しました。

井出は今回の三段リーグで前半に4勝5敗と負け越しましたが、少しでも勝って順位を上げようという無欲の気持ちが幸いし、後半の8勝1敗の成績で結果的に昇段できました。

3月5日の夜。将棋サロン荻窪を研究場所にしている棋士、女流棋士、奨励会員らが集まり、井出の四段昇段をお祝いしました。その中には四段昇段を逃した人もいました。井出も後輩の奨励会員の四段昇段を祝ったことがあります。人生をかけた厳しい戦いだからこそ、最後は競争相手というよりも「戦友」のような思いになるのです。新井さんは井出に「就職おめでとう」と、四段昇段者に必ず言う決まり文句で祝福しました。

それにしても今年の春に引退する私と入れ替わるように、弟子の井出が棋士になったことは、まるで夢を見ているようです。心おきなく引退できそうです。

最後に、井出に対していろいろな面で応援してくれた多くの方たちに、このブログで感謝を申し上げます。ありがとうございました。

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2016年3月 1日 (火)

A級順位戦の最終戦で佐藤天彦八段が名人戦に初挑戦、残留争いは波乱の結末

「将棋界のいちばん長い日」といわれるA級順位戦の最終戦が2月27日に東京の将棋会館で一斉に行われました。昨年は挑戦者争いが大混戦になり、最終戦の勝敗によっては8人によるプレーオフの可能性もありました。そして4人(行方尚史八段、渡辺明二冠、久保利明九段、広瀬章人八段)によるプレーオフの結果、行方八段が名人戦の挑戦者に初めてなりました。※棋士の肩書は当時。以下も同じ。

今年は最終戦で7勝1敗の佐藤天彦八段と6勝2敗の行方八段が対戦しました。佐藤が勝てば名人戦の挑戦者に初めてなり、行方が勝てばプレーオフで佐藤と再戦します。行方は大山康晴十五世名人の弟子で、佐藤は大山の弟子の中田功七段の弟子。天上にいる大山先生は、弟子と孫弟子の挑戦者争いをじっと見守っていたことでしょう。

行方―佐藤戦は横歩取りの流行形から激闘が繰り広げられました。終盤では佐藤が勝ち筋のようでしたが、意外に難しくて一時は形勢が逆転したかに思えました。しかし佐藤は冷静に対処し、難局を切り抜けて勝ちました。

佐藤八段(28歳)はA級1期目で名人戦の挑戦者になりました。同じ例では1996年(平成8年)の森内俊之八段以来です。また20代の挑戦者は、2000年の丸山忠久八段以来です。この15年ほどの名人戦では、主に「羽生世代」といわれる棋士たちが対戦してきました。それだけに佐藤の登場は新鮮な感じがします。

ただ名人戦の歴史を振り返ると、加藤一二三九段は20歳、中原誠十六世名人は24歳、谷川浩司九段は21歳、羽生善治名人は23歳で、それぞれ名人戦の挑戦者になりました。この4人の棋士は順位戦を駆け抜けてA級に昇級しました。しかし近年は若手棋士同士の競争が激化していることから、A級に昇級するまでの年数がかかって年齢が上がっている傾向があります。

私は佐藤八段のことで印象的な思い出があります。2004年に三段リーグで2回目の次点の成績を挙げ、規定によってフリークラス編入の権利があったのにそれを放棄したからです。佐藤は当時16歳と若く、正規のルートで四段に昇段したかったのでしょう。しかし競争が激しい三段リーグで勝ち抜くのは容易なことではありません。実際に以後は10勝8敗、12勝6敗、12勝6敗とわずかに及ばず、同世代の広瀬三段、高﨑一生三段、糸谷哲郎三段、中村太地三段らに先を越されました。そして2年後の06年、14勝4敗(2位)で四段に昇段しました。佐藤が棋士になって以降の活躍ぶりの原点は、12年前にフリークラス編入をあえて放棄した志の高さにあると思います。

佐藤八段は棋王戦で渡辺明棋王に挑戦していて、3月1日時点で1勝1敗。最終の第5局は3月31日に行われます。その翌週の4月5・6日に、佐藤八段が羽生名人に挑戦する名人戦第1局が行われます。今年の春は佐藤が将棋界の目になっています。

A級順位戦の最終戦では、一流棋士の証であるA級の地位を守る残留争いも大きく注目されます。今年は危険な順に郷田真隆王将(2勝6敗)、広瀬八段(2勝6敗)、久保九段(2勝6敗)、森内九段(3勝5敗)の4人の争いとなりました。久保―森内戦の直接対決がある関係で、郷田以外の3人は勝てば自力で残留できました。

その当事者たちの対局では、まず23時45分に郷田が屋敷伸之九段に勝って残留に望みをつなぎました。しかし24時33分に広瀬が深浦康市九段に勝ち、郷田は順位下位によって降級しました。そして24時56分に森内が勝ち、久保が降級しました。その将棋は終盤の土壇場で、久保が▲8六銀と打てば詰めろ逃れの詰めろになって勝ち筋でしたが、▲9六銀と打ったので即詰みが生じました。1筋の違いが明暗を分けました。

今期のA級順位戦の残留争いは、前期のA級順位戦でプレーオフ決勝に進出した久保九段と、2007年と09年の名人戦で挑戦した郷田王将が降級し、名人在位が通算8期で十八世名人の永世称号がある森内九段が降級の危機に陥るという波乱の結末となりました。

来期のA級順位戦には、2010年の名人戦で挑戦した三浦弘行九段と、若手精鋭の稲葉陽八段が加わります。また激しい戦いになることでしょう。

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2016年2月 8日 (月)

田丸が現役最後の竜王戦の吉本悠太・アマ竜王との対局で強烈な攻めを放って勝利

田丸が現役最後の竜王戦の吉本悠太・アマ竜王との対局で強烈な攻めを放って勝利

私こと田丸昇九段は2月5日に竜王戦・6組ランキング戦の2回戦で吉本悠太アマ(21歳)と対局しました。昨年のアマ竜王戦で最年少記録で優勝した吉本アマは、特別出場した竜王戦の1回戦で若手棋士の石井健太郎四段に勝ちました。

振り飛車を得意とする吉本アマ(上側の後手)は四間飛車に振り、8手目に△8八角成として角交換振り飛車の戦型を採りました。アマ竜王戦ではほぼ全局を四間飛車穴熊で戦い抜いたそうです。私はそれを予想して作戦を考えていたので、少し意表を突かれました。

私は序盤の17手目の局面で、▲5六角と中段に打って相手の3四の歩を取りました。あまり考えずにその場の思い付きで指したものです。実戦経験はなく研究したこともありません。たぶん同一の実戦例はないでしょう。予想した戦型にならなかったので、定形から離れて自由に指してみようと思ったのです。

私が打った▲5六角は、▲3四角~▲1六角~▲3八角と移動しました。3筋にいる筋違い角の利きと、後に▲8九飛と左側に転換した一段飛車を連係させて、相手の美濃囲いの玉をじかに攻める構想でした。実戦では吉本アマにうまく対応されてその狙いは外されました。やがて歩得の有利も消えて苦しくなりました。しかし作戦勝ちになったと意識した吉本アマに思わぬ油断と見落としがあったのです。

写真の図面・上は中盤の局面(△8四同歩)。私の8筋の飛車と2筋の角を有効に活用する絶好の攻め筋が生じました。

実戦は▲7五銀△同歩▲8四飛△8三歩▲6四飛△6三銀打▲同角成△同銀▲同飛成△同飛▲7四金と進みました。

私は▲7五銀と捨てる強烈な攻めの一手を放ち、△同歩▲8四飛と出て王手金取りをかけました。さらに飛車角を切り、▲7四金と飛車取りに打って迫りました。そして実戦は△7六歩▲6三金△7七歩成▲同金△8五桂打と進み、激しい寄せ合いの展開となりました。

田丸が現役最後の竜王戦の吉本悠太・アマ竜王との対局で強烈な攻めを放って勝利

写真の図面・下は終盤の局面(△8五桂打)で、私は自玉の詰みを防ぎながら相手玉に詰めろをかける攻防の妙手を指しました。

実戦は▲7六飛△7七桂成▲同飛△7六歩▲同飛△6九角▲同玉△8七角▲7八銀△7六角成▲7四桂△9三玉▲8二角△8四玉▲7三角成△8五玉▲7七桂△同馬▲同銀と進み、まもなく田丸が勝ちました。

私が中段に打った▲7六飛が攻防の妙手で、勝ち筋となりました。実際には曲線的な順で粘られる難しい変化がありましたが、▲7五銀の一手を見落とした吉本アマは形勢を悲観したようで、本譜は直線的な順で負け筋となりました。本局は攻め将棋の私の持ち味がよく出た内容で、すべての駒が有効に働きました。

吉本アマは以前に桜井昇九段の門下で奨励会に在籍し、1級で退会しました。奨励会で修業しただけに対局中は礼儀正しい態度でした。正座を崩さず、席を立つときは「失礼します」と声を出しました。局後の検討が終わると「現役最後の竜王戦で頑張ってください」と私を激励してくれました。現在は中央大学の4年生。アマ竜王戦での優勝によって奨励会三段の編入試験を受けることは可能ですが、そのつもりはないそうです。

竜王戦の3回戦の対戦相手は、三段リーグの順位1位によって竜王戦に特別出場して浦野真彦八段と島本亮五段を連破した奨励会の石井泰三段(21歳)です。

今年3月で引退が内定している65歳の私が、44歳の年齢差がある強豪アマと奨励会三段と対局するというのは複雑な心境です。まあ自然体で指しながら、引退間際の馬鹿力が出たらまた勝てるかもしれません。今後は現役棋士として対局できるのは竜王戦、王将戦、NHK杯戦の3棋戦です。なるべく長持ちできるように頑張りたいと思っています。

 

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2015年8月 9日 (日)

将棋会館の耐震工事の期間中は公式戦は都内ホテルで対局

将棋会館の耐震工事の期間は公式戦は都内ホテルで対局

東京・千駄ヶ谷の将棋会館は8月から9月にかけて耐震工事が行われています。その期間中は全館が閉鎖されます。公式戦の対局は千代田区永田町「都市センターホテル」で行われることになりました。

8月4日の対局開始前の光景です。奥の対局者は田中寅彦九段(左)と小林宏七段、手前は遠山雄亮五段(左)と横山泰明六段。

対局室は約15畳の広さがあります。同じ別の和室も対局室になります。したがって対局は1日に4局しかできません。

対局者は普段と違う環境なので、少し戸惑いがあるようです。ただ部屋がきれいで窓からの景色も良く、気分はいいと思います。1局だけだったら、タイトル戦の対局室で指しているみたいな感じになります。

将棋会館の耐震工事の期間は公式戦は都内ホテルで対局

対局室の近くにある洋室で、記者室に当てられています。前日の3日は竜王戦の準決勝(羽生善治名人―永瀬拓矢六段、渡辺明棋王―稲葉陽七段)の対局が行われ、関係者と棋士が多く来たようです。同じ別の洋室はネット中継室になっています。

将棋会館の耐震工事の期間は公式戦は都内ホテルで対局

対局室の入口の近くに置かれた盤駒

将棋会館の耐震工事の期間は公式戦は都内ホテルで対局

対局室の窓から見える景色。周囲はビルだらけです。

将棋会館の耐震工事の期間は公式戦は都内ホテルで対局

都市センターホテルの外観。通り沿いは緑が多く、割りと静かです。最寄り駅はJR中央線は四ツ谷、地下鉄は永田町か赤坂見附。

将棋会館の耐震工事の期間は公式戦は都内ホテルで対局

私がホテル1階のレストランで食事したビーフカレー。本格的な料理で美味しかったです。セットメニューで注文すると、パスタ・野菜サラダ・フルーツ・コーヒーが付いてお得です(約1500円)。

私は8月17日にこのホテルで、王位戦で渡辺大夢四段と対戦します。新しい対局環境を今から楽しみにしています。

 

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2015年7月31日 (金)

通算9期目の名人を獲得した羽生名人の就位式

通算9期目の名人を獲得した羽生名人の就位式

今年の名人戦で挑戦者の行方尚史八段を4勝1敗で退けて、2期連続・通算9期目の名人を獲得した羽生善治名人の就位式が7月24日、東京・目白「ホテル椿山荘東京」で開催されました。会場には関係者と将棋ファンなど、約500人が祝福に訪れました。

羽生の名人獲得数は、大山康晴十五世名人の18期、中原誠十六世名人の15期に次いで歴代3位です。さらに先日の王位戦第2局で挑戦者の広瀬章人八段に勝ち、羽生の通算勝利数は大山十五世名人の1443勝に次いで、加藤一二三九段と並ぶ歴代2位の1320勝に達しました(記録は7月末日時点)。

羽生の強さは、まさに向かうところ敵なし、という感じです。ただ実際の将棋の内容は、いつもすれすれで勝っています。今年の名人戦も第3局から第5局は押され気味で、結果が1勝4敗と逆になってもおかしくありませんでした。

羽生が過去5年のタイトル戦で対戦した棋士の中で、同年代は森内俊之九段と藤井猛九段の2人だけです。後は渡辺明棋王、深浦康市九段、久保利明九段、三浦弘行九段、木村一基八段、行方八段、広瀬八段、豊島将之七段、中村太地六段と後輩ばかりです。9月から始まる王座戦の挑戦者も27歳の佐藤天彦八段です。

羽生は今では後輩の棋士たちに追われる立場になっています。将棋連盟会長の谷川浩司九段は就位式の挨拶で「羽生さんを追い詰める元気のある若手棋士が出てきてほしい」と語り、若手棋士の奮起を促しました。

羽生名人は謝辞で「最近は以前に流行した戦法がよく指されます。それは温故知新(昔のことを研究して新しい考えや知識を得るという意味)や不易流行(時代を超えて不変である不易の句も流行の句も、ともに俳諧の本質から生じるという松尾芭蕉の俳論)というものです。名人戦の舞台で指せるのは、棋士にとって名誉であり喜びです。名人戦に参加している間は、その価値や意義を少しでも高めたいと思います」と挨拶しました。

通算9期目の名人を獲得した羽生名人の就位式

アイドルグループ・乃木坂46の伊藤かりんさんが羽生名人に花束を贈呈しました。かりんさんは「3月のA級順位戦の最終日に羽生さんと初めて会ったとき、とても優しくしてくれました。最近は将棋がますます好きになりました。将棋界の発展のために微力ながら努めていきたいです」と挨拶しました。かりんさんは4月からNHKの将棋番組『将棋フォーカス』で司会を務めています。関係者の話では棋力はだいふ上達したそうです。

通算9期目の名人を獲得した羽生名人の就位式

作家の朝吹真理子さんは「以前に羽生さんと詩人の吉増剛造さんの対談記事を読んで、羽生さんのファンになりました。名人戦の第4局で対局をじかに観戦しましたが、深海にいるような恐ろしい雰囲気でした。思考が肉体を突き破り、人が人でなくなるような感じでした」と祝辞を述べました。

朝吹さんは4年前に小説『きことわ』で芥川賞を受賞したとき、テレビのインタビューで「趣味は将棋とチェス。将棋は小学生時代から興味を持っていました。名人戦や竜王戦のテレビ中継は、いつもかじりつくように見ています」と語りました。それ以来、対局を観戦して随想を書く機会があります。

通算9期目の名人を獲得した羽生名人の就位式

羽生名人に贈られた名人の推戴状。

通算9期目の名人を獲得した羽生名人の就位式

羽生名人の希望によるコーヒー茶碗の記念品。

 

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2015年7月23日 (木)

叡王戦で散った田丸将棋、終了したプロ棋戦の天王戦と若獅子戦

私こと田丸昇九段は7月17日、叡王戦の九段戦予選で井上慶太九段と対戦しました。その対局は「ニコニコ生放送」で生中継されました。矢倉模様の戦型から、私(先手)は6筋の歩を伸ばして角筋を通す独自の作戦で臨みました。以前にも公式戦で用いた経験があります。ただ中盤で誤算があり、すぐに苦しくなりました。その後は、終盤で一手違いの寄せ合いになる形をめざして指しました。そして投了局面はその通りになりましたが、内容的には私の完敗でした。自分らしい将棋で散った叡王戦の対局については、改めて後日にブログで語りたいと思います。

「叡王戦の段位別の予選方式は、確か以前に天王戦で用いられました。これを機に終了棋戦の思い出を書いてくれますか」という内容のコメント(7月5日)は《S.H》さん。
「若獅子戦という棋戦が以前にありました。若手棋士の登竜門といった感じだったのでしょうか」という内容のコメント(同日)は《スズキ》さん。

1960年代から80年代にかけて開催された「日本将棋連盟杯争奪戦」(地方新聞社が共催)が生まれ変わり、1985年(昭和60年)に「天王戦」が始まりました。その棋戦の予選は叡王戦と同じように、九段から四段まで段位別に分かれた方式でした。タイトル保持者も四段も優勝までの距離が同じなのは初めてのことでした。

第1回天王戦は、九段戦で加藤一二三九段と大内延介九段、八段戦で勝浦修八段と田中寅彦八段、七段戦で吉田利勝七段と福崎文吾七段、六段戦で滝誠一郎六段と脇謙二六段、五段戦で木村嘉孝五段と塚田泰明五段、四段戦で森下卓四段と井上四段など、計12人が勝ち進んで本戦に進出しました。中でも九段戦は、中原誠名人、米長邦雄十段、桐山清澄棋王、谷川浩司前名人らのタイトル保持者が敗れる波乱の展開となりました。そして本戦の決勝で、加藤九段が塚田五段に勝って優勝しました。

第3回天王戦の決勝は森下五段―羽生善治四段、第4回の決勝も森下五段―羽生五段と同じカードになり、いずれも羽生が勝って優勝しました。

天王戦は第8回で終了しました。1993年からは棋王戦(別の地方新聞社が共催)に合流しました。※段位と名称はいずれも当時。以下も同じ。

「若獅子戦」は将棋雑誌『近代将棋』(7年前に廃刊)の主催で1977年に始まりました。四段以上の棋士の中から年齢が若い順に13人を選抜し、トーナメントで優勝を争いました。

第1回若獅子戦は決勝で小林健二四段が宮田利男四段に勝って優勝しました。その後、第2回で谷川四段、第3回で福崎五段、第5回で南芳一五段、第10回で羽生四段、第12回で羽生五段など、後年にタイトルを獲得した若手棋士たちが優勝しました。

《谷川は少し変わってきたように思う。つい先日まで、いかにも中学生風の少年だった。今日は茶色の上下に身を包み、背広姿が板についてきた。盤前におとなしく座る対局態度は、どこにあの強さがひそんでいるのかと思わせる》
16歳・四段時代の谷川の若獅子戦の対局で、『近代将棋』に載った観戦記の一部を抜粋しました。当時から沈着冷静な佇まいがあったようです。

《羽生の目が輝いてきた。この男、とにかく終盤になると生き生きしてくる。考えながらも相手に時々鋭い視線をとばす。これがまた、少年とは思えぬ迫力》
16歳・四段当時の羽生の若獅子戦の対局で、『近代将棋』に載った観戦記の一部を抜粋しました。後に「羽生にらみ」と呼ばれた鋭い視線を、新四段の頃から放っていたようです。

若獅子戦は若手棋士の登竜門の棋戦でした。その観戦記には、後年に大活躍した一流棋士たちの若い頃の姿が生き生きと描かれていました。

終了したプロ棋戦は、ほかにもいろいろとあります。改めてブログのテーマにします。

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2015年6月26日 (金)

新しいプロ公式戦の「叡王戦」は優勝者が最強将棋ソフトと2番勝負で決戦

「電王戦」の主催者のドワンゴが6月18日、新しいプロ公式戦を新設することをを発表しました。その棋戦の名称は公募が実施されました。そして3422件の応募総数の中から9件が最終候補に残り、ニコニコ生放送のユーザー投票によって「叡王戦」に決まりました。命名者(男性・30代)の方は「知恵や叡智を争う将棋の頂点にふさわしい名称」と考えたそうです。

「叡」という単語で連想するのは、天台宗の総本山の延暦寺がある京都の比叡山です。ただあまりなじみがないので漢和辞典で調べてみました。①賢い②深く事理に通じる③天子(天皇の特称)の行為や状態に添える語、という意味です。①は叡哲、②は叡敏、③は叡慮などの熟語があります。最先端のIT企業が主催する新棋戦の名称で、このような深みのある単語が用いられたのは何とも対照的で面白いです。

最終候補に残ったほかの名称は、覇王戦・賢王戦、仁王戦、棋帝戦、棋神戦などです。いずれも同じ名称の応募者がいましたが、叡王戦は1人だけでした。なお28年前に竜王戦が新設されたときも、棋神戦は名称の候補になりましたが、「神」の単語は宗教にからむという理由で外されたようです。

それにしてもプロ公式戦の名称は「王」という単語が多いですね。タイトル戦は竜王戦、棋王戦、王将戦、王位戦、王座戦があり、ほかに新人王戦、女王(マイナビ女子オープンのタイトル名)、天王戦(現在は棋王戦に合流)があります。

叡王戦の棋戦方式は将棋連盟のホームページなどですでに発表されましたが、改めてお伝えします。まず段位別の予選トーナメントを行って16人の本戦出場者を選び、本戦で決勝に進出した2人が3番勝負を戦います。その勝者で叡王戦の優勝者が、第3回「将棋電王トーナメント」で優勝した最強将棋ソフトと2番勝負を戦います。それが第1期「電王戦」です。5人の棋士と5種の将棋ソフトが団体戦で戦った今年の「電王戦」と同じ名称ですが、プロ公式戦の優勝者と最強将棋ソフトが決戦するところに大きな違いがあります。その2番勝負(先後1局ずつ)の持ち時間は各8時間で、来年の春に2日制で行われます。

段位別の予選トーナメントの本戦枠は、九段4人・八段2人・七段2人・六段2人・五段2人・四段1人の計13人が基本です。さらに九段のタイトル保持者(羽生善治名人、渡辺明棋王、郷田真隆王将)と八段のタイトル保持者(糸谷哲郎竜王)の存在を加味して、本戦枠は九段2人・八段1人が追加されました。

通常の棋戦は全棋士参加が原則ですが、叡王戦では各棋士が任意で参加を申し込む「エントリー制」が初めて導入されました。それは個人競技のスポーツでは一般的なことです。将棋界でも女流棋戦で実施されています。叡王戦で注目されたのは前記のタイトル保持者などの意向でしたが、羽生名人、渡辺棋王らの5人の棋士が参加しませんでした。

羽生名人、渡辺棋王の不参加については、当人たちが何も表明していないので理由は不明です。いずれ何かの機会に語ると思います。

来年の春に引退を迎える私は、現役最後の年に新棋戦に参加できました。しかも通常の棋戦の私の予選対局料はフリークラスなので一番下のランクですが、叡王戦の予選対局料は九段として一番上のランクとなります。私の対戦相手は井上慶太九段です。

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2015年5月25日 (月)

棋士の現役期間、棋士の退職金、熊坂五段の引退などのコメント

「田丸九段の引退の件(5月15日のブログ参照)は胸に響きました。人それぞれの事情は、普通の会社員と変わらないことも知りました」というコメント(5月15日)は《すずき》さん。「自ら潔く辞めるのがプロであれば、最後の最後まで精一杯踏ん張るのもプロだと思います」というコメント(同上)は《Yoshiya》さん。「将棋は今や健全なスポーツの一翼で、最高峰にプロがいるのもほかのスポーツと同様です。競技人生が長いのも5指に入ります」というコメント(5月17日)は《千葉霞》さん。

来年の3月にフリークラス規定によって引退する私に対して、温かい励ましや共感のコメントを寄せていただき、ありがとうございました。

今年の3月に任意で引退した内藤国雄九段の現役期間は57年でした。最年長の現役棋士である加藤一二三九段の現役期間は、現時点で最多記録の61年で今後も更新されそうです。私の現役期間は今年で44年です。それぞれの立場と思いは違いますが、私はひとつの仕事をこれほど長く勤めてこれて十分に満足しています。

一般社会では、就職してから定年までの勤務年数はだいたい40年です。しかし勤め先や自身の事情によって、途中で転職したり無職になることは決して珍しくありません。プロ棋士の世界は確かに厳しいですが、現役期間の長短にかかわらず、転職した棋士はほとんどいません。引退しても個人の才覚と努力で、指導、解説、執筆などの仕事をすることができます。とにかく好きで入った将棋界で生きていくのは、何よりの安心といえます。

ところで競技人生が長いという職種は、将棋棋士のほかに何があるのでしょうか。原則的に引退制度がない囲碁棋士、シニアトーナメントがあるゴルフ選手、公営ギャンブルの競馬や競艇などの選手、オリンピック種目の射撃や馬術の選手、などが思いつきます。ほかにあったら教えてください。

「棋士には退職金はないのでしょうか。また、退職金に充てる積立金をされていますか」というコメント(5月20日)は《東京散歩人》さん。

私たち棋士は日本将棋連盟に所属していますが、一般的な意味の勤め人ではありません。わかりやすく例えれば、芸能事務所に所属するタレントです。出演(対局)する仕事の質量に相当するギャラ(賞金・対局料)をタレント(棋士)に振り分ける形です。したがって原則として棋士の退職金はありません。

ただ以前には、連盟が棋士の実績(主に順位戦のクラスで査定)に応じて少しずつ積み立てし、引退やフリークラス転出時に「慰労金」として支払う制度がありました。私は6年前にフリークラスに転出したとき、その慰労金をもらいました。一般的な退職金の10分の1ほどの金額(田丸の場合。個人差があります)でしたが、自分が積み立てたわけではなかったので、とてもありがたかったです。4年前に連盟が公益社団法人に認可されると、慰労金の制度は廃止されました。その後、現在は別の形で復活したようです。

「今年の5月に熊坂学五段が37歳で引退しました。あまりにも若くして引退に追い込まれるのは、かわいそうな気がします。せめて55歳ぐらいまで残れる仕組みを、棋士のみなさんで考えてくれませんか」という内容のコメント(5月15日)は《すずき》さん。

熊坂五段は2002年に四段に昇段しました。その後、C級2組順位戦で3期連続で降級点を取ってフリークラスに降級し、10年以内に規定の成績を収めてC級2組に昇級することができず、今年の3月で引退が内定しました。勝負運に恵まれなかったようで、最短の13年で引退となりました。C級2組は厳しい三段リーグを勝ち抜いた若手棋士があふれて競争が激化していて、近年は新四段でも降級点を取るケースがあります。

三段リーグの年齢制限規定は原則として25歳ですが、24歳で三段に昇段しても最少6期は三段リーグに在籍できます。その規定に倣って、四段昇段後に一定の年数(例えば25年)を保障する案が考えられます。ただ制度化される見込みはありません。

「熊坂五段が竜王戦の6組昇級者決定戦で5連勝して5組に昇級した場合、C級2組に復帰できたのでしょうか」というコメント(5月22日)は《駒田少佐》さん。

引退が内定しても竜王戦で5組に在籍していれば、2年間に限って竜王戦に参加できます(フリークラス転出者は除く)。ただ熊坂五段は今年の3月の時点で6組在籍だったので、それは適用されません。

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2015年4月21日 (火)

棋士の名誉称号についての賛否両論のコメントと棋士の認識

4月1日のブログで棋士の名誉称号をテーマにしたところ、賛否両論のコメントが数多く寄せられて関心の高さに驚きました。コメントの内容をいくつか紹介します。

「タイトル名や段位が付かない名誉称号を作ったらどうでしょう」《高田直江さん》。「引退時に現段位以上の名誉称号を贈位されてはと思います」《千葉霞さん》。「勝負師らしく1000勝を区切りで十段とすればよいと思います。加藤一二三九段、羽生善治名人、谷川浩司九段が現役では該当します。佐藤康光九段も今年3月末日時点で、あと41勝で1000勝に到達します。内藤国雄九段も1000勝が基準なら受けたと思います。ほかに退役では有吉道夫九段が該当します」《saku-sakuさん》。

現行の昇段規定は、タイトル獲得、タイトル挑戦、竜王戦・順位戦での昇級と実績、全棋士参加棋戦で優勝、昇段後の勝利数などによって昇段が決まります。また、フリークラス棋士と引退棋士の昇段規定が別に定められています。私は2年前の4月、前者の規定で九段に昇段しました。

これらの規定のように、大半の棋士が昇段する可能性があります。しかしタイトルを獲得したり1000勝して素晴らしい実績を挙げた九段の棋士には、原則として新たな肩書は付きません。私は、前記の棋士たちに何らかの名誉称号を贈るべきだと思います。具体的には《saku-sakuさん》の十段昇段の考えに同感です。囲碁棋戦の「十段戦」との兼ね合いについては、主催新聞社や日本棋院と協議すれば理解を得られると思います。

「将棋連盟が与える段位や称号はインフレの一途をたどっています。棋士はそれほどまでに、名誉称号をほしがるものなのでしょうか」《田舎初段さん》。※失礼しました。アドレス名を訂正します。

約40年前までは、順位戦で昇級する以外に昇段の道はありませんでした。そうした状況について「順位戦に偏重だ」という批判の声が出て、すべての棋戦の実績が昇段の対象になる現行の規定に変わりました。そうした経緯もあり、規定の概念は決して悪くありません。段位や称号がインフレかどうかは、人によって見方が違うと思います。

名誉称号を得た棋士は小菅剣之介名誉名人、土居市太郎名誉名人、塚田正夫名誉十段、渡辺東一名誉九段、金易二郎名誉九段、加藤治郎名誉九段、高柳敏夫名誉九段、佐瀬勇次名誉九段。終生名人制の時代で実力が一番でも名人になれなかった、将棋界の運営、将棋の普及、弟子の育成に貢献したなど、いずれの棋士も名誉称号を得るだけの事由と実績を残しました。そうした棋士は過去に8人しかいません。ほかの世界(名誉会長、名誉市長、名誉会員など)と比べても、将棋界に「名誉棋士」は多くなく、棋士が名誉称号をほしがっているわけではありません。

「実力とは違う要因が強い名誉称号は、棋士のプライドが受け付けないのではという気がします」《通行人さん》。

辞書によると、「名誉市民」は市が特定の人の功績を表彰するために贈る呼称、「名誉教授」は大学に長年勤務して学術上で顕著な功績があった人に退職後に贈る称号、とあります。いずれも良い評価を受けたという意味で、名誉の言葉を冠します。ただ形式だけで実質的な内容がともなわない立場を「名誉職」ともいいます。将棋界で名誉という言葉は、後者の意味に受け取られがちです。

高柳名誉九段は名伯楽として中原誠十六世名人、芹沢博文九段などの名棋士を育てましたが、九段昇段をずっと辞退していました。実力で勝ち取った八段への思い入れが強かったのでしょう。しかし弟子たちが九段なのに、師匠が八段では良くないという周囲の説得に応じて、「名誉九段ならば」と承諾しました。ただ世間では、九段よりも名誉九段のほうが格上という評価だと思います。その辺りの認識に違いがあるようです。

「田丸九段が提案した名誉称号の問題について、将棋連盟が必要なしとした」という内容のコメントがありました。

私は今年1月の「月例報告会」で連盟の理事会に対して、名誉称号などの問題を提案しました。内藤九段の3月の引退に合わせる意味合いもありました。2月の会合で理事会は「現時点でその制度化は難しい状況です」と答えましたが、私の提案を拒否したわけではありません。大事な問題は時間をかけて決めるべきです。正式に制度化して、該当した棋士が胸を張って受ける形が望ましいです。内藤九段が名誉称号を辞退したのは、個別の特定のケースになるのは本意ではないと思ったからでしょう。

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2015年4月14日 (火)

名人戦(羽生名人―行方八段) 第1局の前夜祭と勝負、田丸がニコニコ生放送で解説

名人戦(羽生名人―行方八段)<br />
 第1局の前夜祭と勝負、田丸がニコニコ生放送で解説

名人戦(羽生善治名人―行方尚史八段)第1局は4月8日・9日に東京・目白「ホテル椿山荘」で行われ、7日の前夜祭には約400人の関係者と将棋ファンが参加しました。
両対局者に花束を贈ったのは遥菜さん(中学1年)と璃子さん(小学5年)。

挑戦者の行方八段は「これまでの名人戦の前夜祭では、後方でお酒を飲んでいたのが定跡でした。名人戦では全力を出し切って勝ち、来年のこの場でまた会えるようにしたい」と挨拶しました。

羽生名人は「この舞台に立てるのは誇りであり名誉です。今夜は内藤先生(国雄九段)が乾杯の音頭を取りました。加藤先生(一二三九段)と同じように、将棋を長く指す秘訣は猫をこよなく愛するのが共通点なんですね」と挨拶しました。

名人戦(羽生名人―行方八段)<br />
 第1局の前夜祭と勝負、田丸がニコニコ生放送で解説

特別ゲストは、今年の3月で引退した関西の内藤九段。羽生名人が56年間の現役棋士生活をねぎらって花束を贈りました。

名人戦(羽生名人―行方八段)<br />
 第1局の前夜祭と勝負、田丸がニコニコ生放送で解説

昨年の夏に『破門』で直木賞を受賞した作家の黒川博行さん。将棋を愛好する黒川さんのエピソードについては、昨年9月23日のブログを見てください。

名人戦(羽生名人―行方八段)<br />
 第1局の前夜祭と勝負、田丸がニコニコ生放送で解説

私は名人戦第1局・1日目の8日、ニコニコ生放送で解説を務めました。聞き手は貞升南女流初段。
将棋の解説の合間に、名人戦の記録、昼食の注文、両対局者のエピソードなどを話しました。1日目は指し手があまり進まないので、盤外の話をするのが私のいつもの形です。それらをいくつか紹介します。

◆行方は41歳3ヵ月で名人戦に初挑戦。45年前の灘蓮照九段の43歳に次ぐ年長記録◆過去50年の名人戦で初挑戦した棋士は18人。第1局の成績は9勝9敗で、勝者のうち4人が名人を獲得(中原誠十六世名人、谷川浩司九段、羽生名人、丸山忠久九段)◆過去7期の名人戦第1局の振り駒で「歩」は3回、「と金」は4回。羽生は7回のうち、先手番になったのは1回だけ。今期も後手番になった◆羽生の過去7期の名人戦第1局の昼食で最も多いのはピザ。今年は1日目はサンドイッチ、2日目はピザ◆行方は2年前に羽生に挑戦した王位戦の計5局・10回の昼食で最も多いのはカレーライス。今年の名人戦第1局の昼食は両日ともにビーフカレー◆故人を含めて指したい棋士は、両者ともに升田幸三実力制第四代名人◆タイムマシーンで行きたい時代は、羽生は未来、行方は昭和初期◆行方はロックが好きで、若い頃はミュージシャンになりたいと思った

名人戦(羽生名人―行方八段)<br />
 第1局の前夜祭と勝負、田丸がニコニコ生放送で解説

名人戦第1局は、矢倉模様から類似の実戦例が少ない戦いとなりました。写真の局面の3手前にニコニコ生放送で次の一手を予想したとき、私は3通りの候補手の中に▲7六金と玉頭に上げる手を入れました。ひとつぐらい「変わった手」という軽い考えでした。実戦は行方八段が117分の長考で▲6八飛と2筋から転じると、羽生名人はその局面で封じ手をしました。そして2日目に△4三金左▲7六金と写真の局面に進み、私が予想した展開となったのには驚きました。

その後の戦いで行方八段に誤算があったようで、羽生名人は中盤で銀得する成果を上げました。行方の将棋は終盤が強いので、不利でもきわどい寄せ合いに持ち込むだろうと見ていたら、中盤であっさり投了してしまいました。60手で終局は名人戦史上で最短手数でした。7番勝負なので、行方が第2局に向けて気持ちを早く切り替えたいという考えはわかります。しかし一手違いの終盤の激闘を期待していた人は拍子抜けしたと思います。

そういえば「電王戦ファイナル」第5局(阿久津主税八段―将棋ソフト『AWAKE』)でも、開始から49分後の21手目の序盤の局面で、ソフトの開発者が投了を告げる結果となりました。その話は、いずれブログのテーマにします。

 

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2015年4月 1日 (水)

田丸が将棋連盟の会合で名誉称号などを提案、升田実力制第四代名人の称号

【追記・4月6日】
4月8日・9日に行われる名人戦(羽生善治名人―行方尚史八段)第1局で、田丸が8日の「ニコニコ生放送」で解説を務めます。放送時間は9時~封じ手(18時半頃)まで。

私が昨年12月19日のブログで名誉称号をテーマにしたところ、「名誉昇段や名誉称号は大変いいことのように思います」(12月24日・古代子孫さん)、「九段昇段後に現役・引退を問わず存命中に30周年を迎えた棋士を名誉十段にする、などの規定を提案します。田丸九段から将棋連盟に提言していただきたく思います」(1月5日・S.Hさん)などのコメントが寄せられました。

「関西には若松正和七段(谷川浩司九段の師匠)、田中魁秀九段(佐藤康光九段、福崎文吾九段の師匠)、淡路仁茂九段(久保利明九段の師匠)、森信雄七段(糸谷哲郎竜王の師匠)など、タイトルを獲得した棋士を育てた《名伯楽》がいます。こういう師匠を表彰しなくてはいけません」(1月23日・散歩人さん)、「中井広恵女流六段が1月22日の対局に勝ち、女流棋士初の公式戦通算600勝を達成しました。この記録は男性棋士に比較すると1000勝の価値がありそうですね。中井さんは今はフリーの立場ですが、連盟は表彰されるといいですね」(1月24日・田舎棋士さん)という内容の両コメントは、大棋士を育てた師匠、大記録を達成した女流棋士を表彰する提案です。

私も以前から、以上のコメントの内容に賛同する考えでした。そこで1月下旬の「月例報告会」(連盟の役員会が活動状況を棋士に知らせたり、棋士が質問や意見をすることができる会合。東西の会館で定期的に行われます)では、次のように述べました。

「九段の棋士の中には、タイトル獲得の実績がある、昇段してから30年以上たった方がいます。そうした棋士には、名誉十段や名誉称号の称号を付ける制度を作ったらどうでしょうか。今年3月で引退することを表明した内藤国雄九段が、その時点で名誉称号を取得すればちょうどいい機会です。また、タイトルを獲得した棋士の師匠には、何らかの形で表彰してほしいと思います。谷川さん(連盟会長)は自分から言いにくいでしょうが、後進を育成する良い励みとなります。中井女流六段が600勝を達成しましたが、一定の実績を挙げた女流棋士には、立場に関係なく表彰してほしいと思います」

私は、以上の3点(①九段の棋士の名誉称号②タイトル獲得者の棋士の師匠の表彰③実績を挙げた女流棋士の表彰)を提案しました。中でも内藤九段の引退が迫っているので、①は早急に検討してほしいと言いました。

役員会のある理事はそれについて、「有意義な提案、ありがとうございます。すぐできることと、できないことがありますが、検討させてもらいます」と答えました。

そして2月の月例報告会では、その理事は「田丸九段が提案した名誉称号の制度化は、現時点では難しい状況です」と述べました。当の内藤九段が名誉称号を辞退したようです。私が提案した前記の3点は、今後は継続案件として再検討されることを願っています。

1980年代の半ばの頃、将棋界には現名人、前名人(以前は名人を失った棋士は1年間、その称号を名乗りました)、大山康晴十五世名人、升田幸三元名人と、4人の「名人」が存在していました。そのうち升田元名人は自称でした。

そうした名人が林立する状況に、批判的な声が棋界内外にありました。当時の連盟理事会(大山会長)は苦慮した末に、88年に「実力制第四代名人」の称号を升田に贈ることを決めました。同年4月に将棋会館で贈位式が行われましたが、升田は欠席しました。升田の弟子の桐谷広人七段が代理で贈位状を受け取りました。

S.Hさんは内藤九段の著書を引用して、「升田先生はしぶしぶ受け取ったとか…」というコメントを寄せました。私は詳しい事情は知りませんが、連盟と升田がともに妥協した肩書だったようです。升田は新しい称号について、ノーコメントを貫きました。

またS.Hさんは、その制度を継承して、米長邦雄永世棋聖には「実力制第八代名人」の追贈、加藤一二三九段が引退したら「実力制第六代名人」の贈位を提案しました。原則論としては当然の考えですが、実現する可能性は少ないと思います。

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2015年3月24日 (火)

NHK杯戦の橋本八段、四段時代の糸谷竜王など、公式対局での棋士の反則

NHK杯戦の橋本八段、四段時代の糸谷竜王など、公式対局での棋士の反則

3月8日(日)の午前11時45分頃。私がNHK・Eテレにチャンネルを回すと、NHK杯戦準決勝の行方尚史八段(先)―橋本崇載八段)の対局の感想戦が行われていました。だいたい局後の表情は、勝者のほうが険しく、敗者のほうが穏やかになるものです。しかし両対局者には和やかな雰囲気があり、その時点で勝敗はわかりませんでした。翌日の9日、新聞に橋本八段が「二歩」の反則を犯して敗れたという記事が載りました。数日後には週刊誌にも記事が載りました。

写真・上は、橋本八段が△6三歩と反則の二歩(6七にも後手の歩がいます)を打った局面。

新聞と週刊誌の記事によると、次のような状況でした。橋本八段は中盤の92手目で持ち時間を使い切り、1手30秒の秒読みに追い込まれました。序盤から中盤のミスが響いてすでに苦しい形勢となり、挽回の一手が見当たらない局面で、とっさの判断で指したのが△6三歩でした。その瞬間、相手の行方八段が「あっ」と声を上げ、少しして気がついた橋本は頭を抱えました。そして「すみません、失礼しました」と謝りました。

NHK杯戦の準決勝に初めて進出した橋本八段は、初優勝をめざしてその対局に和服姿で臨みましたが、とんだ結果となりました。しかし「今後の目標は、もちろんNHK杯戦で優勝することです。絶対に借りを返します」と語り、リベンジを誓いました。

NHK杯戦の橋本八段、四段時代の糸谷竜王など、公式対局での棋士の反則

2007年4月17日に行われた竜王戦・糸谷哲郎四段(先)―戸辺誠四段の対局の中盤の局面。戸辺四段が△7八角成と飛車を取って王手をかけました。糸谷四段は▲同玉△3八飛▲8七玉と逃げる手順を読んでいるうちに、盤面と頭の中の読みがごっちゃになってしまい、▲7八同玉と馬を取って駒台に角を載せると、そのまま▲8七玉と上げたのです。その瞬間、相手の戸辺と記録係の船江恒平三段(現・五段)は、いったい何が起きたのかすぐにわからず、キョトンと顔を見合わせたそうです。結果は、糸谷が二手指しの反則負けとなりました。

糸谷竜王は、四段時代から「怪物」の異名がついて大物の雰囲気がありました。反則もこのようにじつに豪快でした。大学に通学して哲学を専攻し、頭の回転がすごく速かったのですが、そそっかしい一面がありました。奨励会時代には、取った駒を相手の駒台に置くという珍しい反則負けを犯しました。

NHK杯戦の橋本八段、四段時代の糸谷竜王など、公式対局での棋士の反則

1978年7月6日に行われたC級1組順位戦・高田丈資六段(先)―青野照市五段の対局の中盤の局面。青野五段が角取りに打った△7六歩は反則の二歩(7一に後手の歩がいます)でした。当時五段の私も同じ部屋で対局していて、そのときの光景はおぼろげな記憶がありますが、少し異様な雰囲気が漂っていました。というのは、青野の△7六歩は「着手」したのかどうか微妙だったようです。駒を盤に置きかけて反則と気がつき、元の局面に戻すことは時としてあります。セーフかアウトかの分かれ目は、「指が駒から離れた」かどうかといいます。青野が記録係に「時計を押した?」(ストップウオッチを押せば着手となります)と尋ねると、記録係は困惑した様子でした。やがて相手の高田六段が「指したように見えたけど…」とぽつりと言うと、青野は自分の反則負けを認めました。

これと同じような例は、アマの大会でも起きうることです。「反則だ」「まだ指していない」と、もめることもあります。ただ勝負では、潔さがやはり大事だと思います。

青野五段はC級1組順位戦の初戦に反則で敗れましたが、その後は気持ちを切り替えて奮起しました。9連勝してB級2組に昇級しました。9戦目に昇級候補の棋士に勝つと、その時点で私の昇級も同時に決まりました(田丸の最終成績は7勝3敗)。

今年の3月22日に行われた「電王戦ファイナル」第2局(永瀬拓矢六段―将棋ソフト『Selene』)では、終盤で永瀬六段の△2七同角不成の王手に対して、ソフトが放置して反則負けになる結果となりました。ソフトの設定に問題があったようですが、成でも不成でも王手に変わりはないので、なぜそうなったのか不思議です。なおソフトがその王手に正しく対応しても、永瀬の勝ち筋でした。

秒読みに追われたり切れ負け将棋の場合、成でも不成でも同じなら不成と指すことはあります。1秒ほど早く指せるからです。

 

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2015年3月15日 (日)

悪天候によって対局が半日遅れで開始した王将戦(渡辺王将―郷田九段)第5局

【追記・3月23日】
本日の午後からコメントを「承認制」にする手続きを取りました。
今後は不適切なコメントは載せないようにします。
いろいろとご心配をおかけしました。
なお、私が外出したり、旅行で何日か家を空けたとき、
コメントがすぐに載らないことがありますが、
その点はご理解してください。

【追記・3月22日】
私はこのブログで、主に将棋界の情報や裏話を発信してきました。それについての感想や質問のコメントは大いに歓迎します。ただし、ブログの内容とは関係ないコメント、礼儀や節度を欠いたコメント、このブログの趣旨にそぐわないコメントなどについては、ブログ管理者として削除などの措置を取ることがあるのをご承知おきください。田丸

3月12・13日に新潟県佐渡市で行われた王将戦(渡辺明王将―郷田真隆九段)第5局では、両対局者と関係者は11日に新潟から海路で佐渡島に渡る予定でした。しかし悪天候によって汽船が欠航する事態となり、11日は新潟に宿泊しました。そして関係者が協議した結果、12日の午前中に佐渡に到着すれば持ち時間・各8時間を7時間に短縮して午後1時30分に対局開始(2日制)、12日の午後に到着すれば持ち時間を各5時間に短縮して13日の午前9時に対局開始(1日制)、と変更することに決まりました。

12日は天候が回復し、王将戦の一行は午前中に佐渡の対局場に無事に到着しました。対局は半日遅れで午後1時30分に始まりました。

渡辺王将は羽生善治名人の挑戦を受けた棋王戦で、3月8日に第3局を新潟県柏崎市で対局しました。結果は渡辺が勝ち、渡辺が3連勝で防衛しました。当初はそのまま新潟に滞在してから佐渡に渡るつもりでした。しかし名人戦の挑戦権を争うプレーオフ2回戦(渡辺王将―久保利明九段)の対局が10日に東京で行われるので、渡辺はいったん帰京しました。その勝負は久保が勝ちました。渡辺は3時間ほどの睡眠をとり、11日に佐渡に向かうという強行軍となりました。

しかし渡辺王将は角換わり腰掛け銀の最新型の戦いを制して郷田九段に勝ち、3勝2敗と勝ち越して2度目の防衛に王手をかけました。

2006年の王将戦(羽生王将―佐藤康光棋聖)第7局と、07年の王将戦(羽生王将―佐藤棋聖)第7局の対局場も佐渡でしたが、どちらも無事に対局が行われました。今年は地元の汽船関係者が「近年にない」と言うほどの悪天候に見舞われました。

1994年2月下旬に青森県三沢市で行われた王将戦(谷川浩司王将―中原誠前名人)第5局でも、悪天候によって対局開始が遅れました。谷川は大阪から飛行機に乗って三沢の対局場に到着しました。中原は東京から飛行機に乗りましたが、悪天候によって三沢空港に着陸できず、羽田空港に引き返したのです。中原は翌日に三沢に到着しました。そして関係者が協議した結果、1日制の持ち時間・各5時間に変更することに決まりました。王将戦史上で初めてのことでした。

谷川―中原の王将戦第5局は、中原が勝って2勝3敗としました。そして第6局で谷川が勝ち、谷川が4勝2敗で防衛しました。

1978年4月下旬に四国の高知市で行われた名人戦(中原名人―森雞二八段)第4局でもハプニングが起きました。中原が対局前日に東京から乗った飛行機が、高知空港が濃霧のために着陸できませんでした。そこで中原と関係者は名人戦の主催者の毎日新聞社が保有する小型機(6人乗り)に乗り換えて大阪空港から高松空港に向かい、高松から土讃線を経由して前日の夜に高知の対局場に何とか到着しました。中原は小型機の搭乗は初体験でしたが、外見は「自然流」に構えていたそうです。

一方の森は「鉄の塊が空を飛ぶのはおかしい」という考えから飛行機に乗りませんでした。対局前日の早朝に東京から新幹線に乗って岡山に向かい、宇高連絡船と土讃線を経由して高知に到着しました。

中原―森の名人戦第4局は、中原が勝って2勝2敗としました。そして中原は第5局から連勝し、中原が4勝2敗で防衛しました。

約40年間にごく稀ですが、タイトル戦で対局場への移動でこのようなハプニングが起きました。

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2015年3月 6日 (金)

3月1日のA級順位戦の最終戦で名人戦の挑戦者争いは4者プレーオフに

3月1日に行われた「将棋界のいちばん長い日」といわれるA級順位戦の最終戦は、6勝2敗の行方尚史八段と久保利明九段が敗れ、5勝3敗の渡辺明二冠と広瀬章人八段が勝ちました。その結果、行方(2位)、渡辺(3位)、久保(7位)、広瀬(9位)の4人が6勝3敗で並びました。

A級順位戦では、順位下位の棋士から勝ち上がる「パラマス方式」で名人戦の挑戦者を決めます。そのプレーオフ1回戦(久保九段―広瀬八段)は3月5日に行われ、久保が勝ちました。2回戦(渡辺二冠―久保九段)は10日に行われ、16日の3回戦(行方八段―渡辺・久保の勝者)に勝った棋士が羽生善治名人に挑戦します。いずれの棋士も名人戦の舞台は初登場となります。

今年のA級順位戦の最終戦は、「囲碁将棋チャンネル」が朝10時の開始から最後の対局の終了まで昨年に続いて生中継しました。初めて日曜日(昨年までは平日)に行われたので、自宅でずっと観戦した方は多かったでしょう。私も執筆の仕事をしながら、ちらちら見ていました。解説者の棋士の話の合間に、対局者が注文した食事、控室や大盤解説会の光景を紹介して、面白い構成になっていました。ただ注目の対局で大きな動きがあったとき、解説をすぐに切り替えると、もっと良かったと思います。

私が最も注目したのは、森内俊之九段と行方八段の対局です。森内は敗れると降級の可能性があり(前年の名人が降級した前例はありません)、行方は勝つと結果的に名人戦の挑戦者になれました。そんな対照的な勝負は、森内が積極的かつ落ち着いた指し方でリードし、寄せ合いを制して勝ちました。森内は昨年、名人と竜王のタイトルを奪われてどん底の状態でした。今年は、A級降級の窮地を脱したことを契機に立ち直ると思います。

順位戦の最終戦では、昇級・降級に関わる棋士たちに微妙な思いが生じます。例えば、Aが●でBが○だとAが降級する(またはBが昇級する)「4分の1」の確率はよくあります。そんな場合、AはBの勝負がもちろん気になります。しかしAはB(BがAも)の対局を見ない、控室のネット中継を見ない、のが暗黙の決まり事になっています。Bの対局が先に終わっても、原則として周囲の人たちはAに結果を伝えません。以前にA級最終戦で残留が決まった棋士の感想戦では、心配して来た家族の人が伝えたことはありました。

25年前のB級1組順位戦の最終戦は、田丸(大阪で対局)が●で棋士K(東京で対局)が○だと田丸が降級する状況でした。私は深夜の12時頃に負けました。その後に残念会のつもりで関係者と飲みにいくと、「助かって良かったね」と言われて安堵しました。Kの対局は夕方までに終わっていました。私は「もっと早く教えてよ」と苦笑しましたが、良い結果だからこそ伝えられたのです。悪い結果だと周囲は押し黙ったままです。当事者の棋士はそんな空気でだいたい察するものです。

A級順位戦の最終戦で、4者プレーオフになった例は2回ありました。1979年(昭和54年)は、順位上位から森雞二八段、米長邦雄八段、大山康晴十五世名人、二上達也九段が6勝3敗で並びました。そして二上―大山○、大山―米長○、○米長―森という結果になり、米長が名人戦の挑戦者になりました。

1992年(平成4年)は、順位上位から谷川浩司竜王、南芳一九段、高橋道雄九段、大山康晴十五世名人が6勝3敗で並びました。そして大山―高橋○、○高橋―南、○高橋―谷川という結果になり、高橋が名人戦の挑戦者になりました。

大山は91年12月に肝臓ガンの手術を受けました。それから2ヵ月後に対局に復帰すると、A級順位戦で3勝3敗から高橋九段、米長九段、谷川竜王に3連勝して、4者プレーオフに進出しました。まさに不死鳥のように蘇ったのです。しかし、さすがの超人も病気には勝てませんでした。92年7月に現役のA級棋士のまま69歳で死去しました。

過去2回の4者プレーオフでは、最上位の棋士が名人戦の挑戦者になれませんでした。今年はどうなるでしょうか…。

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2015年3月 1日 (日)

田丸が終盤で簡単な勝ち筋を逃した17歳の増田四段との竜王戦の対局

田丸が終盤で簡単な勝ち筋を逃した17歳の増田四段との竜王戦の対局

私こと田丸昇九段が2月26日に竜王戦・6組ランキング戦で増田康宏四段と対局しました。

増田四段は昨年の秋、5期目の三段リーグで13勝5敗の成績を挙げて1位となり、16歳で四段に昇段しました。森下卓九段の門下で、小学生時代は羽生善治名人などが育った東京・八王子将棋クラブに通いました。

増田四段は棋士最年少の17歳。見た目は一流大学をめざす受験生という感じです。四段昇段後は、島朗九段、橋本崇載八段に勝つ活躍ぶりです。

それにしても、5月には「前期高齢者」になる64歳の高年(田丸)と、17歳の若者が仕事で競い合うというのは、一般社会では稀なことです。ただ盤の前に座ると、年齢差や盤外の諸々のことはあまり考えないものです。

私はいつものように、流行型や定型を外した手将棋に誘導しました。中盤では駒組が圧迫された形となり、苦しい形勢でした。しかし一瞬の隙をついて攻め込み、相手の玉に厳しく迫りました。持ち駒に「あと一歩」があれば、攻めが続く、受けが利く、寄せ切れる状況でしたが、その一歩がなくて負け筋になりました。ところが増田四段がわずか1分で指した寄せの手が疑問で、私に逆転のチャンスが生じました。

それが写真の局面(断片図)です。私が▲3二馬と迫ると、増田四段は△5五角と打って▲2二馬の詰みを防ぎました。この局面で私の持ち駒はありません(相手は桂と歩)。数手前から負け筋と思っていた私は、形作りに▲2四歩△同歩▲1五歩と指すと、増田四段は駒(金銀)を渡さないうまい手順で詰めろをかけ、まもなく私が投了しました。

ところが終局後、増田四段に写真の局面で▲3一成銀と寄せて▲2一馬の詰みを狙われたら「負けでした」と言われてびっくりしました。△1四歩と逃げ道を開けても、▲1五歩△1九角成▲1四歩で相手玉は受けなしになります。

私は40年以上にわたる公式対局で、詰みを逃したりトン死を食って逆転負けしたことは何回もあります。しかし、あれほど簡単な詰めろを逃した記憶はありません。相手の玉から遠ざかる▲3一成銀は少し盲点ですが、プロなら(アマでも)すぐにわかる手です。持ち時間も充分にありました。それなのに、まったく見えませんでした。

増田四段の写真の局面までの数手は早指しで、「もう勝った」という感じでした。それに合わせて、私も負け筋と観念してしまいました。たぶん増田四段も▲3一成銀の詰めろをうっかりしたのでしょう。早めに気がついていたら、私もわかったと思います。両対局者の間で、テレパシーのようなものが行き交うことは時にあるのです。

竜王戦の対局で勝利寸前の局面になって敗れたのはとても残念ですが、あれほど簡単な勝ち筋をなぜ気がつかなかったのか不思議でなりません。

【2月は仕事や用事が立て込んでブログの更新が滞りました。3月からは更新の回数を増やし、様々な情報をお伝えするつもりです】

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2015年2月15日 (日)

華やかな雰囲気で開催された加藤桃子・女流王座の就位式

華やかな雰囲気で開催された加藤桃子・女流王座の就位式

華やかな雰囲気で開催された加藤桃子・女流王座の就位式

華やかな雰囲気で開催された加藤桃子・女流王座の就位式

昨年の秋に行われた第4期リコー杯女流王座戦は、保持者の里見香奈・女流王座が病気休場によってタイトルを返上したことで、決勝トーナメントの決勝に進出した加藤桃子・女流女王と西山朋佳・奨励会二段とで優勝が争われました。両者はともに19歳で、奨励会に在籍しています(加藤は初段)。加藤と西山の5番勝負は、加藤が3連勝して女流王座に2年ぶりに復位し、女流王座の獲得が通算3期となりました。

加藤女流王座の就位式が2月13日、東京・丸の内「パレスホテル東京」で開催されました。会場は約400人の来場者で盛況でした。

主催者を代表してリコーの執行役員の方は、「私たちは全英リコー女子オープンゴルフを主催していますが、表彰式にこれほど多くの人は来ません。これからも日本の伝統文化である将棋の発展に尽くしたいと思います」と挨拶しました。

女流王座戦は、女流棋士・女性の奨励会員・女性のアマと、すべての女性たちに参加が開かれています。その頂点に立った加藤女流王座の就位式には、多くの女性たちが訪れて華やかな雰囲気がみなぎっていました。

写真・上は、謝辞を述べる加藤女流王座。桃子の名前のように、美しい花で飾られた赤い着物がひときわ目立っていました。

写真・中は、加藤に花束を贈呈した囲碁棋士の謝衣旻(シェイ・イミン)女流名人・女流棋聖(左)。将棋棋士の囲碁同好会に謝が顔を出したのがきっかけで、加藤と親しくなったそうです。

写真・下は、人気棋士の山崎隆之八段(中)を囲んで記念写真に収まった着飾った女性ファンたち。高橋和女流三段が主宰する将棋教室「将棋乙女」で習っているそうです。

ちなみに写真・上の掛け軸に「リコー杯女流王座戦」と揮毫したのは、人気女流書家の紫舟(NHK大河ドラマ『龍馬伝』などの題字を書きました)さんです。

就位式には多くの女流棋士が出席しました。そして事前に申し合わせたようで、会場のあちこちに分かれて関係者や将棋ファンらと談笑して交流しました。それは、とてもいいことでした。今までは女流棋士たちだけで固まってしまいがちでした。

こうして多くの女性たちで賑わった加藤女流王座の就位式は、女流棋士会長の矢内理絵子女流五段が閉会の挨拶をしてお開きとなりました。

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2015年2月 1日 (日)

将棋界の語り部・河口俊彦八段が78歳で死去

将棋界の語り部・河口俊彦七段が7<br />
 8歳で死去

河口俊彦七段が1月30日、腹部大動脈瘤によって78歳で死去しました。※同日付で八段が追贈されました。

写真は、43年前の1972年(昭和47年)3月21日、私こと田丸昇四段と河口四段(右)との対局光景です。私は同年2月に奨励会の「東西決戦」に勝って四段に昇段し、この新人王戦の対局が棋士デビュー戦となりました。

当時の『奥山紅樹』さんの観戦記の一部を抜粋で紹介します。

《この朝、田丸は別人のように見えた。稽古先から共同で贈られたという仙台平の袴をさわさわとさばいて、将棋会館の銀杏の間にスックと立った。ういういしい女剣士のようなあで姿だった。河口は、颯爽とデビューした頃の自分を思い出した。豊かな棋才、構想とさばきに才気がある、と言われてもう5年になる。プロの厳しさと競争の激しさを知ったこの5年の毎日は、河口に不敵なプロ根性を植えつけて過ぎていった。河口は「それに比べて、目の前の若者のういういしさは、まあどうだろう…」と思った》

私はひたすら盤面に集中しました。河口さんはそんな若者を相手にやりにくさを感じていたようで、中盤で疑問手を指すと、終盤に入る前にあっさり投了しました。その瞬間、私は何が起きたのかすぐに理解できず、少し間をおいてから一礼を返したものです。

河口さんは後日、私の将棋について「才能はそれほど感じないけど、意外に勝つかもしれないね」と語ったそうです。その真意は不明ですが、私は河口さんの言葉どおり、以後は順位戦で昇級・昇段を着実に重ねました。

河口さんは現役棋士の頃、目立った実績はありませんでした。しかし勝負の分析、棋士の生き方・才能・性格を見極める眼力に長けていました。それを文筆活動で存分に発揮しました。中でも『将棋マガジン』『将棋世界』で通算20年以上にわたって連載した『対局日誌』は、河口さんのライフワークとなりました。

河口さんは『対局日誌』で、対局室の光景、棋士の心情、将棋会館の控室での遠慮のない批評や会話などを題材にして、勝負の厳しさ、将棋の面白さ、棋士の素顔を活写しました。密室で行われるプロ棋士の対局を、読者が現場で見ているような臨場感で生き生きと伝えたのです。将棋界の歴史や一流棋士の思い出も織り交ぜました。まさに将棋界の語り部のような存在でした。

その後、河口さんの『対局日誌』を引き継ぐ形式の読み物が将棋雑誌でよく掲載されました。私も2年前から『将棋世界』で『盤上盤外 一手有情』を連載しています。参考のために河口さんの以前の連載をたまに見ますが、決して古くなくて面白いです。それは河口さんが取材に力を入れたからですが、昔の棋士のエピソードや話がユニークだったともいえます。私は前記の連載の取材で将棋会館の控室で待機しますが、今の棋士からは面白い話はあまり聞けないのが実情です。

河口さんは文学青年でした。やがて文筆に長じていた才能を買われ、奨励会時代に将棋雑誌で編集と執筆に携わりました。大の読書家だった芹沢博文九段の影響を受けました。ちなみに河口さんの2人の娘さんの名前は、芹沢九段の名前の「博」と「文」が1字ずつ付いているそうです。

河口さんは13年前に引退してからも、観戦記、書籍、評論の分野で精力的に文筆活動を行っていました。将棋会館でたまに見かけると、対局中継を見れるタブレットをいつも持参していて、控室では若手棋士と一緒に楽しそうに研究しました。将棋が心から好きだったようです。

河口さんは長身痩躯の体型で、長生きするものだと思っていました。お酒もまったく飲みません。つい最近まで元気な様子に見えました。それだけに、このたびの訃報に驚くばかりです。2年前から『将棋世界』で連載していた『評伝 木村義雄(十四世名人)』は完結しないうちに、3月号の第20回が絶筆となりました。「生涯文筆」の人生でした。

今後は、天上から将棋界の動きを見守ってくれるでしょう。

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2015年1月21日 (水)

1月19日に開催された糸谷哲郎・新竜王の就位式

1月19日に開催された糸谷哲郎・新竜王の就位式

昨年12月に誕生した糸谷哲郎・新竜王の就位式が1月19日に東京・日比谷の帝国ホテルで開催されました。

1月19日に開催された糸谷哲郎・新竜王の就位式

式典で将棋連盟会長の谷川浩司九段は「新しいスターが誕生するのが竜王戦です。初タイトルが竜王という棋士は、島さん(朗九段)、羽生さん(善治名人)、佐藤さん(康光九段)、藤井さん(猛九段)、渡辺さん(明王将)、糸谷さんと6人います。ほかに竜王を獲得した棋士は森内さん(俊之九段)と私です。糸谷さんは竜王戦がタイトル初挑戦でしたが、堂々とした対局態度でした」と挨拶しました。

糸谷竜王は「第1局はハワイで行われました。私は初めての海外旅行なので古い英会話の本を持って行きましたが、現地の人たちがみんな日本語を話すので、ここは日本かと思ったほど快適に過ごしました。竜王戦の7番勝負では、第4局で苦しい将棋を最後まであきらめずに粘って指して逆転勝ちしたのが大きかったです。もし負けていたら、その後もずるずると負けたかもしれません。今後は竜王として、実力を高めていきたいです」と謝辞を述べました。

1月19日に開催された糸谷哲郎・新竜王の就位式

竜王戦の各組優勝者。右から糸谷竜王(3組)、羽生名人(1組)、行方尚史八段(2組)、中村太地六段(4組)、高見泰地五段(5組)、藤森哲也四段(6組)。竜王を通算6期獲得している羽生名人の1組優勝は初めてでした。

1月19日に開催された糸谷哲郎・新竜王の就位式

祝福に訪れた一門の棋士たち。右から片上大輔六段、師匠の森信雄七段、6番弟子の糸谷竜王、大石直嗣六段、室谷由紀女流初段。森七段の弟子は、ほかに故・村山聖九段、増田裕司六段、山崎隆之八段、安用寺孝功六段、澤田真吾六段、千田翔太四段、竹内雄悟四段らの逸材がいて、森一門は今や関西棋界の名門になっています。

師匠の森七段は「糸谷くんが早指し棋戦に強い(NHK杯戦で準優勝2回)ということに少し不満がありました。それだけに竜王を獲得したのは、私にとって大きなプレゼントでした。私は師匠というよりも、ファンとして糸谷くんの大舞台での将棋を見るのを楽しみにしています。今後は、さらに飛躍してほしいです」と挨拶しました。

1月19日に開催された糸谷哲郎・新竜王の就位式

華やかな服装の女性たちが数多く出席しました。連盟の「レディース・セミナー」で藤森四段らから将棋を教わっているそうです。

1月19日に開催された糸谷哲郎・新竜王の就位式

もちろん糸谷竜王も女性たちに大人気でした。糸谷竜王は理知的な女性が好みだそうです。

1月19日に開催された糸谷哲郎・新竜王の就位式

父親の康宏さんは、糸谷竜王が5歳のときに将棋のルールを教えました。自身はルールを知っている程度の棋力とのことです。母親の眞紀さんは、糸谷竜王の将棋への「本気度」を昨年あたりから何となく感じていたそうです。

 

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2015年1月 9日 (金)

田丸の今年の最初の公式対局は将棋界の「レジェンド」の存在の加藤九段と対戦

私こと田丸昇九段の今年の最初の公式対局は、1月7日に棋王戦で加藤一二三九段と対戦しました。

私と加藤九段の公式対局はこれまでに10局あり、対戦成績は5勝5敗の五分でした。最後の対局は1997年10月の民放テレビ棋戦の早指し選手権(加藤が勝ち)で、将棋会館での対局は92年1月のB級1組順位戦(田丸が勝ち)以来でした。

加藤九段は棋士になって61年、九段昇段から42年という長年の棋歴があり、まさに将棋界の「レジェンド」(伝説)のような存在です。そうした実績から「名誉十段」などの称号がふさわしいのではないか、とのコメントがこのブログに多く寄せられています。私もそれについて同感です(12月19日のブログ参照)。

加藤九段は最近、テレビのバラエティー番組によく出演していて、「ひふみん」の愛称で人気者になっています。また、対局姿が独特なことで知られています。

私が対局開始5分前の9時55分に対局室(高雄の間)に入ると、加藤九段はすでに着席していて、私の座布団がなぜか盤から50センチほど横にありました。どうやら加藤九段が直前に、盤と自身の座布団を窓側に移したようです。記録係はすぐに私の座布団を盤の前に移しました。加藤九段が盤を所定の位置から移すことはよくあります。時にはそれが問題となって、対局者ともめ事が起きたこともありました。

私は「またか…」と内心で苦笑しながら、見過ごすことにしました。盤と記録係の席が1メートル近くも離れたので、私が記録係に「見えるか」と聞くと、記録係はうなずきながら机を少し動かして近寄りました。盤を横に移すと、窓側に近くなり、同じ部屋の隣の対局から遠ざかりますが、加藤九段の真意のほどはわかりません。

近年はネット中継のために、対局室の天井に小型カメラが設置されています。もし盤の位置がずれると、その撮影に支障が生じかねません。加藤―田丸戦のネット中継はなかったのですが、あった場合はどうなるのだろうかと、ふと思ってしまいました。

序盤は矢倉模様の手順が進み、私は公式対局で実戦経験がある変則的な作戦を用いました。対局開始から30分後、加藤九段は30分ほど席を外しました。戻ってきてもなかなか指しません。加藤九段が序盤で長考することはよくありますが、持ち時間・4時間の対局で75分・43分の連続長考は珍しいです。

私は相手の長考中に一緒に考えていましたが、やがて加藤九段の対局姿をそっと観察してみました。何しろ目の前でこうして見るのは、23年前の対局以来です。加藤九段は紺のスーツに紺の水玉模様(以前は花柄が多かったです)のネクタイという服装でした。昔の対局姿は、石のように不動の形で正座を続けました。今は体型的に正座がきついようで、着手するとき以外は胡坐(あぐら)に組んでいました。また、手帳ほどの冊子をたまに読みました。敬虔なクリスチャンなので、たぶん聖書でしょう。

加藤九段は健啖家で知られていて、対局での食事は天ぷら・ウナギ・寿司を好みました。ただ2年前に体調を崩してからは、軽めの食事が多くなり、最近は食事を注文しないようです。私との対局では、そば茶・コーラなどの飲み物のほかに、カマンベールチーズ・蜜柑のデザートなどをしきりに食べていました。食欲は相変わらず旺盛でした。なお、対局中に食事することは礼儀に外れますが、おやつ類は認められています。

加藤―田丸戦は、私が先攻すると加藤九段も反撃して攻め合いになりました。私は中盤で難しい形勢ながらも指せると思いましたが、加藤九段にしっかり受けられて攻めを余されてしまい、終盤は一手負けとなりました。終局は18時18分(持ち時間が4時間以下の対局は夕食休憩がありません)で、100手で加藤九段が勝ちました。加藤九段は持ち時間を20分ほど残し、記録係に「あと何分?」と聞くお決まりの言葉の連発はありませんでした。

加藤九段は最近、理由は不明ですが感想戦をしないことが多いです。私が投了直後に「少しだけ検討をしてもらえますか」と頼むと、加藤九段は勝って気を良くしたのか、20分ほど感想戦をしました。私は加藤九段と盤外で話をしたことがほとんどありません。感想戦のやりとりであっても、話をできて良かったと思っています。

来年の春に引退する私にとって、加藤九段との公式対局は本局がたぶん最後になるでしょう。勝負は敗れましたが、自分の得意型で存分に戦って内容的に満足しています。

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2014年12月 9日 (火)

26歳の糸谷哲郎・新竜王の誕生と、41歳の今泉健司さんがプロ編入試験に合格

12月3・4日に行われた竜王戦(森内俊之竜王―糸谷哲郎七段)第5局で、26歳の挑戦者の糸谷七段が勝って4勝1敗とし、初タイトルとなる竜王を獲得しました。同時に八段に昇段しました。

森内竜王は第4局に続いて、第5局も勝ち将棋を落としました。そのような逆転が起きた背景には、不利な形勢でも粘り強い受け方で決め手を与えない糸谷七段の独特の勝負術があったと思います。

第5局では角換わり腰掛け銀の戦型から、糸谷七段が穴熊に玉を囲いました。森内竜王が穴熊をじかに攻めると、糸谷は自陣に銀を連打して徹底的に受けました。終盤では4枚の銀で穴熊の玉を守るという珍しい局面も出現しました。糸谷がそうして頑強に守っているうちに、森内が寄せを誤ってついに逆転劇が起きたのです。

糸谷・新竜王は2006年の新四段時代、才気あふれる将棋の指し方や堂々たる言動から「怪物くん」という異名がつきました。一方で大阪大学に入ってハイデッガー哲学を専攻し、卒業後は大学院に在籍して学問を深めています(現在は将棋に専念するために休学中)。対局中にたびたび席を外して廊下を歩き回ることが話題になりますが、それも冷静に局面を考えたり自己の内面を見つめる「哲学者」ならではの独自の行動なのでしょう。

今泉健司さん(朝日アマ名人)が臨んでいる「プロ編入試験」第4局が12月8日に行われました。今泉さんは石井健太郎四段に勝って3勝1敗とし、5局の試験対局に勝ち越した結果、プロ棋士になることが決定しました。41歳の新四段は最年長記録です。

今泉さんは14歳で奨励会に入って棋士をめざし、三段時代に25歳の年齢制限規定で退会しました。その後、アマ棋界に転じて大活躍しました。しかし棋士になる思いを捨てませんでした。2007年には特例の奨励会入会試験に合格し、三段リーグでまた戦いました。しかし規定の4期以内に四段に昇段できず、2回目の退会となりました。そして今年、特別参加したプロ公式戦で「10勝以上で6割5分以上の勝率」という基準を満たして、プロ編入試験の受験資格を得たのです。

今泉さんが自身の人生をかけたプロ編入試験は9月から始まり、幸先よく2連勝しました。しかし試験前にある棋士が「合格の確率は第1局で勝って3割、第2局で連勝して5割」と語ったように、合格に王手をかけてからが大変です。実際に第3局で敗れましたが、プレッシャーがかかった第4局で見事に勝ちました。

12月8日の夜、NHKがニュースで今泉さんの合格を報じ、今泉さんの地元の広島県福山市の介護施設の職員の人たちが万歳する光景を放送しました。じつは今泉さんは4年前から新たな人生として、資格を取ってその介護施設で働いていたのです。

今泉さんはプロ編入試験に際して「すべての人たちに感謝したい」と語りました。それには「今泉さんを応援する会」を立ち上げて公私にわたって支援した人たち、対局に出かける今泉さんを送り出してくれた職場への人たち、などへの感謝の念が込められていたようです。

今泉さんは2015年4月1日付で四段のプロ棋士となり、フリークラスに編入されます。規定では、10年以内にC級2組に昇級できないと引退に追い込まれます。しかし将棋への熱き思いと、今までの人生で経験した不屈の精神(本人はゾンビのようだと冗談で言っています)を発揮し、きっと良い結果を出すことでしょう。

ちなみに、プロ編入試験、奨励会三段リーグで次点2回でフリークラスに編入された棋士がC級2組に昇級した例では、伊奈祐介六段が約3年、瀬川晶司五段が3年半、吉田正和五段が2年4ヵ月、伊藤真吾五段が4年半、それぞれかかっています。昇級をめざしている渡辺大夢四段は2年目に入っています。

今年は年末になって、26歳の若きヒーローの糸谷・新竜王の誕生と、41歳の勤め人の今泉さんがプロ編入試験に合格したことで、社会的にも話題を呼びました。2人の今後のさらなる躍進に注目しましょう。

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2014年11月25日 (火)

竜王戦(森内竜王―糸谷七段) 第4局で田丸がニコニコ生放送の解説者

竜王戦(森内竜王―糸谷七段)<br />
 第4局で田丸がニコニコ生放送の解説者

竜王戦(森内俊之竜王―糸谷哲郎七段)第4局が11月20・21日に行われました。私は20日に「ニコニコ生放送」で解説者を務めました。聞き手は中村桃子女流初段。

竜王戦(森内竜王―糸谷七段)<br />
 第4局で田丸がニコニコ生放送の解説者

ニコニコ生放送でのモニターテレビに映った対局光景(左が森内)。

竜王戦は第1局から第3局まで、いずれも角換わり腰掛け銀の戦型でした。森内竜王は第4局で3手目に▲6六歩と角筋を止めて違う戦型をめざしました。第3局までの内容があまり良くなかったので、流れを変える意図だったようです。その後、糸谷七段が中飛車に振ると、森内竜王は玉を銀冠に囲いました。

私はニコニコ生放送で解説の合間に、「森内・糸谷の対戦成績」(3勝3敗の五分)、「竜王戦がタイトル戦初登場の棋士」(糸谷七段は8人目で、過去に島朗九段、藤井猛九段が竜王を奪取)などの記録のほかに、盤外のエピソードも紹介しました。

「森内・糸谷の『将棋年鑑』アンケート」では、2011年の「自分の将棋を動物に例えると」(森内は狸、糸谷はビーバー)、14年の「影響を受けた棋士」(森内は羽生善治、糸谷は山崎隆之)などの設問と回答を引用しました。

森内竜王の「狸」は、相手の棋士をだますというのではなく、状況に応じて臨機応変に指すという意味のようです。糸谷七段の「ビーバー」は、別名が「海狸」なので前記と同じ意味かもしれません。

森内竜王にとって羽生名人は、小学生時代から約35年も一緒に戦ってきた「競争相手」であり「同志」という関係です。糸谷七段にとって山崎八段は、同じ広島県の出身で森信雄七段門下の兄弟子という関係です。

「糸谷哲郎の怪物伝説」では、2006年の18歳の高校生・新四段時代に将棋雑誌などに載ったインタビュー記事を引用しました。「奨励会時代の変わった反則負け」は、自分が取った駒を何と相手の駒台に乗せたことで、対戦相手は佐藤天彦七段でした。「大学の哲学科をめざす理由」は、人生の究極の真理や指針を見つけたいことでした。翌年に大阪大学に入学し、ハイデッガーの哲学を専攻しました。

糸谷七段は新四段時代、恐るべき新人という印象から「怪物」の異名がつきました。その言葉には「常識にとらわれない大胆なことを平然とする実力者」との意味もあります。

私は糸谷七段の竜王戦での戦いぶりと対局姿を見て、タイトル戦に初登場したとは思えないほどの冷静さと、したたかさがあると感じました。第4局はあまり指しつけない中飛車を用いて苦しい戦いとなりましたが、実戦的な指し方で勝負形に持ち込み、最後は時間に追われた森内竜王が寄せを誤って逆転勝ちを収めました。

この結果、糸谷七段は3勝1敗とリードして、竜王獲得まで残り3局のうちあと1勝と迫りました。第5局は12月3・4日に行われます。

ところで今泉健司さん(朝日アマ名人)が臨んでいる「プロ編入試験」の第3局(対戦相手は三枚堂達也四段)の中継をニコニコ生放送で見た《千葉霞》さんから、「2人の男性棋士の解説がプロ側に応援が偏った場面が多すぎだった気がします」という内容のコメント(11月19日)が寄せられました。

ニコニコ生放送のホームページには、第3局の解説者は長岡裕也五段と記載されています(もう1人の棋士は不明)。私はその中継を見ていないので、プロ側に応援が偏った場面が多すぎたのかどうかはわかりません。ただ一般論で言うと、解説者が無意識に一方の対局者に肩入れするようなことは時としてあります。私も竜王戦第4局では、勝負を最終局まで盛り上げてほしいという思いから、森内竜王の勝ちを内心で願っていました。ネット中継の棋士のコメントでも、タイトル保持者や上位者の棋士に対しては、その信頼から4―6の形勢なら5―5、5―5なら6―4と、微妙に評価が高くなるものです。

なおプロ編入試験の第3局の中継に立ち会ったある関係者の話によると、解説者の棋士がプロ側に肩入れするような雰囲気は感じなかったといいます。今泉さんを応援したい人、そのほかの人とでは、見方が違うことはあると思います。

 

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2014年9月13日 (土)

終盤で「駒柱」が出現した田丸の対局、3連続千日手の対局、王位戦第8局の日程

終盤で「駒柱」が出現した田丸の対局、3連続千日手の対局、王位戦第8局の日程

写真の局面は、私こと田丸昇九段と高田尚平六段の対局(9月4日・王位戦)。

この将棋は、私の攻めが少し息切れ気味でしたが、相手の疑問手で終盤は優勢になりました。しかし、いつものように寄せを誤って形勢がもつれました。そして高田六段が△8四銀と上げた写真の局面で、両者の8筋の駒が縦に一直線に並ぶ「駒柱」が出現したのです。私は思わず「あっ、駒柱だ!」と叫んでしまいました。

私は40年以上に及ぶ公式戦で、駒柱が出現した記憶はあまりありません(たぶん1局ぐらい)。それほど珍しい形なのです。「4筋の駒柱は不吉」という説もあります。

実戦は写真の局面から、▲6四角△同角▲同金△4八飛成▲6三飛△9二玉と進み、私の負け筋となりました。▲8三角の王手は△8二玉で詰みません。▲6七金寄で金取りを受けましたが、△7六銀が詰めろになり、私はまもなく投了しました。

私は駒柱が出現する以前の局面で、正しく寄せれば勝てました。

8月14日のブログで、持将棋(じしょうぎ)と千日手が続いて、指し直し局が翌朝の9時すぎに延びた対局(2004年のB級1組順位戦・行方尚史七段―中川大輔七段)を紹介しました。

9月2日の宮田敦史六段―伊藤真吾五段(竜王戦5組昇級者決定戦)の対局は、千日手が何と3局も続きました。1局目は夕方の17時3分に序盤で千日手になりました。2局目は30分後に再開され、23時30分に中盤で千日手になりました。3局目も30分後に再開され、深夜の3時12分に終盤で千日手になりました。そして4局目は3時42分に再開され(両者は前局で持ち将棋を使い切ったので、各1時間を加算)、朝方の6時51分に113手で宮田六段が勝ちました。

将棋連盟の担当者の話によると、千日手・持将棋の指し直し局が3局も続いたのは、この40年ほどで記憶がないとのことです。

当日に立合人の仕事を務めたのは室岡克彦七段でした。最終の対局が23時を過ぎると、1万円の深夜手当が加算されますが、早朝手当はありません。持ち将棋・5時間の竜王戦の記録料は8千円(級位者は7千円)ですが、指し直し局で加算されません。対局者も立合人も記録係も、本当にお疲れさまでした。

王位戦7番勝負(羽生善治王位―木村一基八段)第6局は木村が勝ち、戦績は羽生の3勝2敗1持将棋となりました。第7局は第6局に続いて、神奈川県・鶴巻温泉「陣屋旅館」で9月下旬に行われます。通常は第7局が最終局ですが、第3局の持将棋を1局分とみなしたので、木村が勝って3勝3敗になると第8局が行われます。

王座戦5番勝負(羽生王座―豊島将之七段)が9月上旬から始まり、森内俊之竜王に糸谷哲郎七段が挑戦する竜王戦7番勝負(9月上旬まで羽生に挑戦の可能性がありました)が10月中旬から始まります。このように羽生の対局日程が過密になっていて、王位戦第8局の日程を決めるのに難渋したそうです。

千日手と持将棋では、手数と時間で消耗度がまったく違います。そんなわけでタイトル戦で持将棋になった場合、規定では次の対局に持ち越されます(千日手は当日に指し直し)。しかし王位戦第3局で持将棋になったとき、羽生王位は前記のような事情もあって、できれば指し直し局で決着したかったそうです。今後の検討課題になるかもしれません。

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2014年9月 7日 (日)

持将棋の規定についてのコメント、持将棋模様の小林九段―今泉アマの対局

8月14日のブログで「持(じ)将棋」をテーマにしたところ、その規定について、次のような内容のコメントが寄せられました。

「プロ(24点法)とアマ(27点法)でルールが統一されていないことはおかしい。そもそも24点という根拠がよくわかりません。1局で勝負をつけるほうがわかりやすいので、プロも27点法を採用すべきです」というコメント(8月17日)は《と久米希望》さん。「27点法では、勝負決着の可能性は高くなる半面、持将棋に至る手順は長くなる傾向が予想されます」というコメント(8月18日)は《好俗手》さん。「正確に持将棋の場面を作るまでもなく、両対局者に持将棋の意思があれば、立会人の裁定で持将棋にできないものでしょうか」というコメント(8月23日)は《千葉霞》さん。「先人の検討されたルール(24点法)は的確ですね」というコメント(8月24日)は《囲碁人》さん。「持将棋が入って3勝3敗で第8局までもつれ込んだ場合、再度の振り駒はするのでしょうか」というコメント(8月28日)は《popoo》さん。

江戸時代に「入玉になると見物碁にたかり」という川柳があり、昔から持将棋は不人気でした。現行の24点法の規定が決まったのは、たぶん昭和初期の時代でしょう。その根拠は私もよく知りません。《囲碁人》さんのコメントのように、先人がいろいろと検討した末の的確な点数だと思います。だからこそ、今日までずっと改定されませんでした。

プロとアマで持将棋の規定が違うのはおかしい、という見方は確かに正論ですが、アマが特別ルールを設けることもあります。草野球の大会の試合を例に挙げると、一定時間がたって同点だと、「無死2・3塁」の設定から点を多く取ったほうのチームが勝ちというケースがよくあります。これは大会進行上の措置によるものです。将棋のアマ大会でも、プロと同じ持将棋の規定にすると、進行上で不都合が生じかねません。

持将棋が成立する条件は細かく決められていますが、両対局者に持将棋の意思があれば、話し合いで持将棋にすることは可能です。今期王位戦(羽生善治王位―木村一基八段)第3局では、双方が入玉した状況で木村の点数が足りるかどうか微妙でしたが、羽生が持将棋を提案すると、木村が了承して成立しました。

王位戦第3局の持将棋は羽生が先手で、第4局は木村が先手でした。第5局は羽生が先手でした。持将棋は1局とみなし、先手・後手は入れ替わりました。そして3勝3敗1持将棋で第8局にもつれ込んだ場合、通常どおり最終局は振り駒で先後を決めます。

ただし千日手になって同日に指し直した場合、指し直し局は先後は入れ替わりますが、次の対局の先後は第1局からの順番で行われます。2010年の王位戦(深浦康市王位―広瀬章人七段)第5局で千日手になると(先手は広瀬)、指し直し局は深浦が先手で、第6局も深浦が先手でした。つまり番勝負では、千日手の有無にかかわらず、最終局までは先後が固定されているのです。この規定は何年か前に決まったもので、以前は千日手のたびに先後が入れ替わりました。

持将棋の24点法と27点法の是非について、私の見解を求めるコメントがありました。正直なところ、40年以上にわたる公式戦で持将棋の経験が1局もないので、考えたことはほとんどありません。大方の棋士もたぶん同じでしょう。過去10年の公式戦で、持将棋は年間平均で約4局。その比率は約0.15%。この数字では、将棋の本分に影響するような改定(27点法にする)は現実的ではないと思います。

9月3日に朝日杯オープン戦の小林健二九段―今泉健司・朝日アマ名人の対局が行われました。相振り飛車の戦型から今泉アマが攻め込むと、小林九段の玉は中段に逃げ出しました。そして双方の玉が敵陣をめざして持将棋模様になりました。しかし180手目あたりの局面では、小林の点数は16点ほどでした。その後、敵陣の駒を取ったり、金銀(小駒は各1点)3枚で相手の馬(大駒は5点)と交換したりして、小林の点数は増えました。最後は小林が相手の1筋の歩を取れるかどうかの攻防となり、今泉アマが逃げ切って249手で勝ちました。小林九段の点数は規定に1点足りない23点で、持将棋に持ち込めませんでした。

27点法の規定なら、小林九段はもっと早く投了したでしょう。しかし24点法だからこそ、通常の戦いでは見かけない点数の取り合いが繰り広げられ、ある意味で見ごたえがありました。私は24点法のほうが、人間同士の勝負らしいと個人的に思いました。

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2014年8月14日 (木)

王位戦(羽生王位―木村八段)第3局はタイトル戦で22年ぶりの持将棋

8月上旬に行われた王位戦(羽生善治王位―木村一基八段)第3局は、角換わり腰掛け銀の戦型から羽生の執拗な攻めを木村が懸命に受ける展開となりました。羽生の攻めはやや切れ筋でしたが、木村が王手馬取りの手を見落として苦しくしました。その後、木村は入玉(敵陣に玉が入ること)して「持将棋」(じしょうぎ)をめざしましたが、規定の点数に達するかどうか微妙な状況でした。しかし羽生も入玉した178手目の局面で、両対局者の合意によって持将棋が成立しました。

両者の玉がお互いに敵陣に入って詰まない状態となり、盤上の駒(玉は除く)と持ち駒の合計点数(大駒5点・小駒1点で換算)がともに24点以上ならば、持将棋が成立して引き分けとなります。一方が24点に達しないと負けです。

タイトル戦で同じ引き分けの「千日手」になった場合は、持ち時間を短縮してその場で指し直しをします。手数と時間がかかる持将棋になった場合は、1局分とみなして指し直しをしない規定があります。羽生―木村の王位戦が3勝3敗になると、最終局は第8局です。

タイトル戦で持将棋の例は少なく、1992年の棋聖戦(谷川浩司棋聖―郷田真隆王位)第2局以来、22年ぶりでした。

以前にあるタイトル戦では、持将棋は半星(0・5勝)という規定がありました。3勝2敗1持将棋で迎えた第7局で、持将棋に持ち込めば計4勝でタイトルを獲得できました(実際例はありません)。

将棋会館で行われる通常の対局では、持将棋・千日手にかかわらず、その場で指し直しをする規定です。今年6月のC級2組順位戦(村田顕弘五段―遠山雄亮五段)の対局は、翌日の午前2時3分に持将棋が成立しました。手数は240手、両者の消費時間は5時間59分(ともに秒読み)でした。その30分後に各1時間の持ち時間で指し直し局が始まり、4時33分に村田五段が67手で勝ちました。

ちなみに持将棋・千日手でまた引き分けになると、その30分後に各30分(持ち時間を使い切った場合)の持ち時間で指し直しをします。

2004年6月のB級1組順位戦(行方尚史七段―中川大輔七段)の対局は、翌日の午前1時35分に241手で持将棋が成立し、指し直し局も4時58分に122手で千日手となりました。再指し直し局の対局写真を見ると、中川七段は上着もワイシャツも脱いでなりふりかまわぬ下着の姿でした。そして9時15分に行方七段が111手で勝ち、約24時間もかかった対局がようやく決着しました。

持将棋になると、心身ともにかなり消耗します。とくに駒を取る、駒を取らせないという独特の戦いは、玉を詰めるための通常の戦いとはまったく異質で、別のゲームをしているようです。昨年の第2回電王戦第4局(塚田泰明九段―プエラアルフア)の対局で持将棋模様になったとき、精密なコンピューターも慣れない状況に混乱したようで、意味不明の手を連発しました。

私は40年以上にわたる公式戦で、持将棋の経験はありません。棋士1年目の1972年のC級2組順位戦のある対局は、寄せそこなって持将棋模様となり、相手の対局者の点数をめぐって駒を取り合いました。結局、私が相手の1点不足によって232手で勝ちましたが、とても疲れた覚えがあります。

別の対局で持将棋模様になったとき、私が相手の2七のと金に当てて▲2八歩と打ち、△2六歩▲2七歩△同歩成▲2八歩…という手順を繰り返して千日手にしました。「どうせ指し直すなら、このほうが楽だね」と、両対局者で苦笑いしたものです。

持将棋が成立する条件は、両者の玉が敵陣の三段目以上に入って詰まない状態となり、盤上の駒と持ち駒の合計点数がともに「24点」以上です。ただアマ大会では、進行上の都合から「27点」制を設けるケースが多いです。27点対27点の同点の場合は、後手を勝ちとします。

プロ棋界でも30年ほど前に、27点対27点の場合のみ持将棋にする、という規定が提案されました。24点制と違って27点制だと、点数が足りないほうは相手の玉を詰めるしかないので勝負がつきやすい、という考えです。しかし将棋の本質にもとる、という有力棋士の声があって実現しませんでした。

持将棋模様でトラブルになりがちなのは、点数が足りないほうがわざと入玉しないで「まだ持将棋の条件に至ってない」と主張し、指し手を引き延ばす例があります。これでは、いつまでたっても決着しません。そこで「宣言法」という新規定が提案されました。一定の条件を満たした時点で、一方の対局者が持将棋または自分の勝ちを宣言すれば、認められることになりました。この規定は何年か前からアマ大会で採用され、プロ棋界でも昨年から正式な規定に決まりました。

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2014年7月29日 (火)

女優の高梨臨さんも祝福に訪れた羽生善治名人の就位式

女優の高梨臨さんも祝福に訪れた羽生善治名人の就位式

4期連続9回目の対戦となった今年の名人戦(森内俊之名人―羽生善治三冠)は、挑戦者の羽生三冠が森内名人を4連勝で破り、4期ぶりに名人位に返り咲きました。羽生の名人獲得は通算8期で、木村義雄十四世名人、森内竜王に並ぶ歴代3位タイです。また、3回目の名人復位は史上初です。

羽生名人の就位式が7月25日に東京・目白「椿山荘」で盛大に開かれ、関係者やファンなど約500人が参加しました。

将棋連盟会長の谷川浩司九段は「羽生さんは大山先生(康晴十五世名人)と記録面で何かと比較されます。40代に入ってからもタイトルを多く獲得した大山先生のように、43歳の羽生さんもタイトル獲得記録を今後も更新してほしいです」と挨拶しました。

羽生名人は「名人戦の舞台で対局をできることは、棋士にとってこれ以上の幸せはありません。ファンの方に喜んでもらえるような将棋を指すために努力していきたいです」と謝辞を述べました。

写真・右は、羽生名人への祝福に訪れて花束を贈った女優の高梨臨さん。現在放送中のNHK連続テレビ小説『花子とアン』に出演して人気を博しています。

高梨さんは将棋を愛好しています。厳しい勝負が終わった後に、勝者と敗者が冷静に戦いを振り返る光景をテレビで見て感動したのが、将棋を始めたきっかけだそうです。昨年と今年の電王戦では、六本木「ニコファーレ」での大盤解説会にゲスト出演しました。進行中の局面や出題された詰将棋を真剣な表情で考えていたのが印象的でした。それにしても高梨さんは美しいですね。将棋を指している姿も見たいものです。ちなみに携帯の待ち受け画面は、大ファンの羽生さんだそうです。

私は将棋の記者に今年の名人戦の感想を聞かれると、次のように答えました。

「7番勝負は羽生さんの4連勝で終わりましたが、戦いを振り返ってみると2勝2敗ぐらいの内容だったと思います。その意味で、羽生さんは勝負運に恵まれました。とくに、変則的な力将棋となったこの椿山荘で行われた第1局に勝ったのが大きかったです」

会場では9月から始まる「プロ編入試験」を受験する今泉健司さん(朝日アマ名人)の姿もありました。挨拶された私は「今後もこういう場に出て慣れるといいですね」と、さりげなくエールを送りました。5人の若手棋士との対局で3勝の合格ラインは決して生易しいものではありませんが、棋士になるために最後のチャンスとして編入試験に臨むという今泉さんは晴れ晴れとした表情でした。

今年の名人就位式への参加を一般公募(有料)したところ、2日で定員の100人に達したそうです。羽生の名人復位を待ち望んだ人がそれだけ多かったのです。会場では羽生名人と一般参加者との撮影会が行われました。1人または数人が壇上に上がり、羽生と握手をしたり話をしました。そして参加者の携帯カメラなどで記念写真に収まりました。これはいい趣向ですね。以前は20人ぐらいの集合写真が後日に参加者に送られました。

5年前の羽生名人就位式では、羽生夫人(元女優の畠田理恵さん)が和服姿に着飾って参加者と交流していました。その後、ほかのタイトル戦を含めて就位式に出ることはなかったようです。今年の羽生名人就位式では、久しぶりに羽生夫人を見かけました。羽生夫人にとっても、4期ぶりの名人獲得は特別な思いがあったのでしょう。ただ普段着のような地味な格好だったので、気づいた人は少なかったかもしれません。

連日の猛暑で夏バテ気味になり、ブログの更新が2週間ぶりとなってしまいました。

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2014年7月15日 (火)

棋聖戦の佐藤和俊六段との対局に勝って1年半ぶりの勝利

棋聖戦の佐藤和俊六段との対局に勝って1年半ぶりの勝利

私は7月3日、棋聖戦の佐藤和俊六段との対局で1年半ぶりに勝利しました。

2012年(平成24年)12月に竜王戦の佐藤義則八段との対局に勝って以来、15連敗もしていたのです。主な対戦相手は、中村太地六段、高崎一生六段(2敗)、千葉幸生六段、永瀬拓矢六段、金井恒太五段、八代弥四段(2敗)、石田直裕四段など、生きのいい若手棋士たちで、大半は完敗の内容でした。昨年12月の竜王戦の武市三郎六段との対局だけはずっと優勢でしたが、終盤で悪手を指して逆転負けを喫しました。

じつは2008年7月から09年2月までも14連敗したのですが、順位戦の対局が含まれていたので約7ヶ月の期間でした。

このたびの1年半という期間は、とても長く感じられました。もしかしたら2年後に引退するまで、1勝もできないのではないかとも思いました。

昨年4月に九段に昇段したとき、八段の新しい名刺を多めに作ったばかりなので、昇段後の対局に勝ったら九段の名刺を作るつもりでした。その予定が延々と先送りされ、仕方なく今年5月に九段の名刺を1年後れで作りました。

7月3日の佐藤六段との対局前日、作戦をあれこれと考えました。佐藤は振り飛車を得意としていて、実戦経験と研究量が豊富です。普通の定跡や流行型を用いては勝ち目はありません。そこで、意表をつくある戦法を思いつきました。

写真は、田丸(先手)が佐藤(後手)の向かい飛車に対して、左銀を中段に進めて▲3五歩と仕掛けた局面。江戸時代からある「鳥刺し」という戦法を真似た指し方です。▲7六歩と角道を開けず▲4八銀も省略して、超急戦を図ったのです。実戦経験がなく研究したこともありません。半ば開き直った気持ちで臨みました。

写真の局面で、△3五同歩なら▲3八飛△2四歩▲3五銀△2五歩▲3四歩△5一角▲7六歩△2六歩▲4四銀△同銀▲同角と攻めるつもりでした。

実戦は写真の局面から、△3二飛▲3八飛△2二角▲3四歩△同銀▲7六歩△4二金▲2四歩△同歩▲3四飛△同飛▲2三銀と、私は飛車角両取りに打って攻めました。

単純で強引な攻めでしたが、佐藤に疑問手が続き、私が優勢になりました。終盤の局面で勝ちを意識すると、久しぶりに駒を持つ指が震えました。やがて勝ちをはやって、寄せで少しもたつきました。しかし佐藤の粘りと反撃を押さえ、ようやく勝てました。

棋聖戦の予選の持ち時間は1時間。当日は午前の1回戦の勝者は、午後に2回戦を行いました。私は1年半ぶりの勝利の余韻を味わう間もなく、午後に佐藤秀司七段と対局しました。結果は、攻めを余されてしまういつものパターンで敗れました。

過去の連敗記録では、1位が野本虎次八段の30連敗(1999年~2002年)、2位は清野静男八段の25連敗(1974年〜75年)。3位は沼春雄七段の23連敗(2003年~06年)。4位は意外にも加藤一二三九段で、1998年(平成10年)11月から99年10月までの1年間に21連敗しました。※コメントの指摘によって、記録を変更しました。

加藤九段は当時、A級に在籍していました。主な対戦相手は、羽生善治四冠(2敗)、谷川浩司九段(2敗)、丸山忠久八段(3敗)、三浦弘行六段、木村一基四段など、一流棋士と若手精鋭でしたが、これほど負け続けたことは驚かれました。なお連敗中に銀河戦で勝ちましたが、現在と違って非公式戦でした。※棋士の肩書はいずれも当時。

加藤には「秒読みの神様」という異名がありました。持ち時間を早めに使い切って秒読みに追い込まれても、瞬時に本手を見つけて難局を乗り切るのが常で、正確無比な早指しは神業といわれたものです。しかし60歳近くになった当時、秒読みでの指し手の精度が落ちて逆転負けを喫することが多くなり、それが響いて連敗したようです。

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2014年6月29日 (日)

プロ並みの実力に進化した将棋ソフトと棋士との今後の関係

6月13日のブログで、あるベテラン棋士が将棋連盟総会の席上で「電王戦は棋士の人選に問題がある。最強の布陣で臨んでほしい。負けた棋士には対局料を払わなくていい」と発言したことを紹介したところ、次のような内容のコメントが寄せられました。

「会場の空気はどのようなものだったのでしょうか」《ベナユン》、「ご年配の棋士の方々は、いまだに人間がコンピューター将棋と互角以上の戦いができると思っている方が多いのでしょうか」《Britty》、「エースが打たれて負けた。エース級を5人揃えれば勝てる。そんな言い訳にしか聞こえません」《Shellby》、「電王戦で『勝って当たり前、負けて恥さらし』みたいなファンばかりならば、出場する棋士は出てきません」《通行人》、「35年ほど前に『将棋世界』のプロ・アマ平手戦でプロが初めて敗れたとき、『プロ落城の日』という衝撃的な見出しが載りました。しかし現在ではプロ棋戦にアマ枠があり、プロが負けてもアマのレベル向上を称える側面が強く感じられます。電王戦に関しても、建設的に意識が変化することを願っています」《好俗手》。

前記のベテラン棋士は若手時代、「負けた棋士には何もあげるな」と過激な物言いをしたことがあります。それを知っている私は、「久しぶりに聞いたセリフだ」と思わず苦笑しました。会場の空気は、変化や反応はとくにありませんでした。そのベテラン棋士に限らず、世代が高い棋士、将棋ソフトと指したことがない棋士は、将棋ソフトがプロ並みの実力に進化したことを認めたくない、という傾向は確かにあります。

今年の第3回電王戦で、エース級の元タイトル保持者の屋敷伸之九段、通算勝率が7割台に達している若手精鋭の菅井竜也五段らが敗れました。その結果を踏まえて、第4回電王戦の棋士の人選はとても重要になっています。ただ「タイトル戦にも主催者という大スポンサーがいますから」《通行人》というコメントのように、電王戦にタイトル保持者の棋士が出場するには棋戦主催者の新聞社との協議が必要で、現実的にその可能性は当分ないと思います。

私が若手棋士の頃は、プロ・アマ平手戦は「プロが勝って当たり前、負けたら屈辱」というような緊迫した空気がみなぎっていました。27年前に『週刊将棋』のプロ・アマ平手戦で、朝日アマ名人の小林庸俊さんが中田功四段、富岡英作五段、島朗六段、私こと田丸昇七段を連破して南芳一八段(段位はいずれも当時)と対戦したときは、観戦記者が「黒船来たる」という表現をしたほど騒然としたものです。

現代では《好俗手》さんのコメントのように、プロ・アマ平手戦はともに切磋琢磨する機会と捉えて、以前のような緊迫感はそれほどありません。プロ棋戦で一定の成績を収めたアマには、プロ編入試験への道も開かれています。棋士と将棋ソフトの勝負は社会的にも注目されていますが、いずれはプロ・アマ平手戦と同じような経過をたどると思います。

先日、ある若手棋士の感想戦を見ていたら、「将棋ソフトの『習甦』(電王戦で菅井五段に勝利)が指した手を参考にして作戦を立てました」と語っていました。また、A級にかつて在籍したある中堅棋士は、雑談で次のように語っていました。

「将棋ソフトの『激指』は強いですよ。私が指して形勢の評価関数が+1000点になれば何とか逃げきれますが、+300点ぐらいじゃ自信ありません。負けると《あなたの敗因は○○手目の◆◆◆で、そこから指し直しますか》と紅ちゃん(竹俣女流2級)の音声が聞こえるんですよ。その『激指』に私の棋譜を調べてもらって教えを乞うています。私をはじめ、『激指』門下の棋士と奨励会員は多いです。『激指』対『GPS将棋』先生のソフト同士の将棋は、まさに神々の戦いですね」

このように棋士と将棋ソフトとの関係は、今後は勝負を競うのではなく、棋士がソフトと共同研究する時代になりつつあります。タイトル戦で活躍する棋士も、いずれは専用の最強の将棋ソフトを持つことになるかもしれません。

例えば、羽生善治名人は同姓のフィギュアスケートの羽生結弦の名前と永世七冠にちなんで『ゆずりん7』、森内俊之竜王は出演して優勝したクイズ番組『アタック25』と十八世名人にちなんで『アタック18』、渡辺明二冠は竜王戦9連覇にちなんで『ドラゴン9』という名称のソフトはどうでしょうか…。

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2014年5月29日 (木)

棋士が将棋会館で務める「対局立合人」という仕事の内容

棋士が将棋会館で務める「対局立合人」という仕事の内容

棋士が将棋会館で務める「対局立合人」という仕事の内容

棋士が将棋会館で務める「対局立合人」という仕事の内容

タイトル戦の対局では、棋士が立合人(原則として2人)を必ず務めます。東西の将棋会館で行われる通常の対局では、以前は立合人が付きませんでしたが、2年前からは棋士が交代で立合人を務めることになりました。私は5月27日にその「対局立合人」という仕事を務めました。

写真・上は、対局室の入口に設置されている部屋割りボード。右下に田丸の札がかかっています。

写真・中は、大広間の対局光景。手前の対局は、森下卓九段(中)―塚田泰明九段。

写真・下は、特別対局室の感想戦の光景(午後11時半頃)。竜王戦のランキング戦4組決勝の中村太地六段(右)―横山泰明六段で、中村が勝って決勝トーナメントに進みました。後列の右から、遠山雄亮五段、八代弥四段、飯島栄治七段、記録係の佐々木大地三段、元女流棋士で観戦記者の藤田麻衣子さん。

対局立合人の私は東京の将棋会館に早めに行き、午前10時の対局開始時刻に対局者が揃っていることをまず確認しました。対局者が遅刻した場合、その棋士から後で理由を聞き、将棋連盟に提出する報告書に記載します(5月27日は遅刻者はなし)。

対局中の仕事の内容は、たまに対局室に入って様子を見る、対局の「モバイル中継」を行っている会館の別室に顔を出してコメントを述べる、などです。それ以外は主に4階の対局者控室で待機しています。原則として昼食をとるほかは外出できません。

対局立合人の最も大事な役目は、対局中に何か問題やトラブルが生じたら、臨機応変に適切に対処することです。とくに夜間は会館に理事や職員がいないので、立合人の判断と措置が重要になってきます。

過去には、千日手、持将棋、禁じ手、秒読み、待ったなどの問題でトラブルになったことが時にありました。3年前に東日本大震災が起きた日には対局が一時中断されました。しかし近年は、対局中のトラブルめいた話はめったにありません。

対局立合人は、暇を持て余すような状況が望ましいのです。だから研究熱心な棋士は、仕事と研究を兼ねて控室で棋譜を何局も並べます。私も5月27日は合間に、連載している『将棋世界』の「盤上盤外 一手有情」の取材をしました。

その中でとても面白い将棋を見ました。加古川青流戦の佐藤慎一四段―小泉祐三段の序盤で、▲7六歩△9二香▲2六歩△1二香…と、後手の小泉三段が何ともユニークな指し方をしたのです。局後の話によると、「研究している作戦です」とのことです。小泉は実戦で右玉に囲いました。△9二香は△9一飛と転じて端攻め、△1二香は△1一角と引く余地を作るなどの狙いがあるそうです。そして激闘の末に、小泉三段が佐藤四段を見事に破ったのです。ほかの公式戦でも、そんなユニークな指し方をする小泉に注目したいです。

対局立合人の仕事は、主に40代以上の現役棋士と引退棋士が依頼されます。「ひふみん」こと加藤一二三九段が務めたこともあります。報酬は対局の持ち時間によって違います。5時間以上(竜王戦、順位戦など)だと、4時間未満(王位戦、王将戦など)より増額されます。最終対局の終了時刻が午後11時を過ぎた場合、1万円の「深夜手当」が加算されます。なお、持ち時間が短くて対局が早く終わったり、局数が少ない日は、対局立合人は付きません。

対局立合人は、すべての対局が終わるのを見届けるまで帰れません。持ち時間・6時間の順位戦の対局日や千日手・持将棋が生じると、帰宅は真夜中になります。

5月27日は計11局の対局があり、最終対局の終了時刻は午後11時20分でした(前記の中村―横山戦)。私はその対局の感想戦を少し見てから、将棋会館に残っている記録係の奨励会員たちが帰宅できるかどうかを確認しました。帰りの電車に間に合ったとしても、未成年者が深夜に外に出ることは好ましくありません。そんな場合は会館に泊まるように指示する決まりになっています。

私は対局立合人の報告書(棋戦名と対局者・遅刻者の名前と理由・最終対局の終了時刻などを記載)を、1階の通用玄関にいる守衛の人に預けました。こうして仕事を無事に務め終えて、深夜の12時頃に会館を出ました。

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2014年5月23日 (金)

羽生三冠が名人戦で森内名人に4連勝して3回目の名人復位を初めて達成

5月20日・21日に行われた名人戦第4局で、羽生善治三冠が森内俊之名人に勝って4連勝し、4年ぶりに名人位に返り咲きました。羽生の名人獲得は通算8期目です(森内とタイ記録)。

過去の例では、中原誠十六世名人(1985年・90年)、谷川浩司九段(88年・97年)、森内(2004年・11年)が2回の名人復位を果たしました。羽生は03年(森内に4連勝)と08年(森内に4勝2敗)に次いで、3回目の名人復位を初めて達成しました。

タイトルは獲得する以上に防衛するのが難しいといわれます。羽生も通算14回出場した名人戦で、防衛戦の成績は4勝3敗(森内に1勝2敗、谷川に1敗、森下卓九段、郷田真隆九段、三浦弘行九段に各1勝)でした。そして名人をそれぞれ失った後年に、一流棋士がひしめくA級順位戦を勝ち抜いて名人戦の挑戦者に5回(いずれも相手は森内)もなったのは、さらにすごいことでした。

今年の名人戦は、羽生が後手番の第1局で、力将棋から細かい攻めをつないで勝ったのが結果的にとても大きかったと思います。羽生は直近3期の名人戦第1局で森内に連敗していました。初戦の勝利で流れをつかみ、勢いを駆って4連勝した感じです。

第1局から第4局までの戦型はいずれも前例が少なく、中終盤で激闘が繰り広げられました。これは私の推測ですが、名人戦の開幕前後に行われた第3回「電王戦」(将棋ソフトがプロ棋士に4勝1敗で勝利)の結果が少なからず影響したと思っています。つまり森内と羽生には、「人間同士の迫力ある戦いこそ将棋の醍醐味」という潜在的意識が生じ、名人戦で呼応するかのようにそんな戦いになったというわけです。

6月から始まる棋聖戦では、名人戦とは立場が変わって、羽生棋聖に森内竜王が挑戦します。10月から始まる竜王戦では、ランキング戦の1組優勝で決勝トーナメント準決勝にシードされた羽生名人が森内竜王に挑戦する最短距離にいます。

今年は名人戦と棋聖戦に続いて、竜王戦でも森内と羽生の勝負が見られそうです。気の早い将棋ファンは、羽生が棋聖戦と竜王戦に勝ち、さらに王位戦と王座戦で防衛し、来年から始まる王将戦と棋王戦で渡辺明二冠にダブル挑戦して勝てば、1996年以来の「七冠制覇」が再現すると期待しているかもしれません。

羽生は数年前に七冠制覇について、「正当な競争原理が働いたら、七冠は難しいと思います」と語ったことがあります。いたって冷静で正直な見解です。しかし勝負というものは、理屈では図りきれない流れや勢いが重要な要素です。今年の名人戦で羽生が4連勝したのも、それが一因になったと思います。

羽生が名人獲得の勢いを維持して今後もタイトル戦で勝ち続ければ、18年前の大偉業が再現します。私はその可能性はあると思っています。

現代の棋士たちは、研究会の実戦、データベースの棋譜検索などで、日進月歩に進化している序盤の研究に取り組んでいます。中には将棋ソフトの指し方を参考にして、公式戦で用いる棋士もいます。

タイトル戦の対局などで多忙な羽生名人も研究会を行っています。メンバーは木村一基八段、松尾歩七段、村山慈明七段。持ち時間20分・秒読み30秒で、1日に3局指します。

また、羽生は長岡裕也五段と個人的に実戦を行い、長岡が仕入れた最新情報を参考にしているそうです。長岡は「羽生さんでも研究しないと勝てないと思っていて、あらゆる戦法を網羅しています。私は同じ八王子将棋クラブの出身の後輩なので、気にかけてくれているようです」と語っていました。

研究会の場所は、自宅・知人の家・将棋クラブ・自治体施設など様々です。東京の将棋会館では、以前は対局者の控室や空いた部屋がよく使われました。現在は、棋士が将棋連盟の施設を私的に使うのは疑問ということから禁止されています。音楽家がスタジオで練習したり、作家が仕事部屋で執筆するように、棋士が研究する場所を自分で見つけるのは当然といえます。ちなみに羽生は、自宅の近くのレンタルスペースで研究会を行っているそうです。

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2014年5月13日 (火)

名人戦(森内名人―羽生三冠) 第3局で田丸が「ニコニコ生放送」に出演

名人戦(森内名人―羽生三冠)<br />
 第3局で田丸が「ニコニコ生放送」に出演

名人戦(森内俊之名人―羽生善治三冠)第3局が5月8日・9日に佐賀県武雄市で行われました。私はその1日目の8日、「ニコニコ生放送」に解説者として出演しました(聞き手は山田久美女流三段)。

第1局と第2局の戦型は、いずれも相掛かりでした。第3局は、矢倉模様から後手番の羽生三冠が積極的に動くと、森内名人が反発して角交換を強要しました。

写真は、森内が▲8二角と打って▲9一角成で香を取ると、羽生が△2二玉と囲ったところです。

この局面は、昨年の竜王戦(渡辺明竜王―森内俊之名人)第3局の進行と同じでした。後手番の渡辺竜王が香損を平然と受けとめて玉を囲った指し方に、多くの棋士が驚きました。駒損をした場合、挽回するために通常は攻めるものだからです。渡辺―森内戦は激闘の末に渡辺が勝ちましたが、森内は何かの考えがあって再び指したようです。

じつは、私は昨年11月の竜王戦第3局でも「ニコニコ生放送」で解説者を務めました。それから半年後の放送でも、偶然にも中盤で同じ局面に進んだのです。

写真の局面で、森内は竜王戦では▲6八玉と上げました。名人戦では▲5八香と自陣に打って中央を守りました。森内はその手まで、消費時間は1時間も使っていません。どうやら事前に研究していたようです。また、実戦例が1局だけありました。

羽生は▲5八香の局面で129分も考えました。そして△8四角と中段に打ちました。桂に連絡しながら敵陣に利かした手ですが、効果的な攻め筋が見当たりません。ちなみに将棋ソフト『激指』も△8四角を有力手に挙げたそうです。

その後、羽生は穴熊に組み替えて玉の守りを固めました。そして森内の疑問手をついて攻め込むと、終盤の寄せ合いを制して勝ちました。すべての駒が働く見事な勝ち方でした。

羽生は第3局で森内に勝って3連勝し、4期ぶりの名人獲得まであと1勝としました。第4局は5月20日・21日に千葉駅成田市の「成田山 新勝寺」で行われます。

私は「ニコニコ生放送」の解説では、1日目は盤上の動きがあまりないことから、森内―羽生の名人戦での記録やエピソードなどを紹介しました。

森内と羽生が名人戦で4期連続で対戦したのは新記録。通算9期目は大山(康晴十五世名人)―升田(幸三実力制第四代名人)の対戦とタイ記録。過去8期の名人戦の勝負は森内の5勝(2奪取・3防衛)。名人戦での通算成績は羽生の26勝23敗。先手番の成績と勝率は34勝15敗(0・694)。戦型別の成績は森内から見て、矢倉(7勝6敗)・角換わり(3勝8敗)・横歩取り(5勝4敗)・相掛かり(3勝4敗)など。※いずれも今期名人戦第3局までの記録。

森内―羽生の名人戦でのエピソードについては、番組では過去8期ごとに8題の3択問題を出しました。その中から2題を紹介します。

【問題①】
1996年の名人戦第1局で、タイトル戦に初登場した森内の封じ手での行い。
A・封じ手時刻の直前に指した
B・封じ手時刻の1時間後に指した
C・立合人に封じ手の書き方を聞いた

【問題②】
2004年の名人戦第2局で、2年前から続いた記録が更新された。
A・先手番が10連勝
B・名人が10連勝
C・挑戦者が10連勝

問題①の正解はA。立合人が封じ手時刻になったことを対局者に伝えたとき、森内は「えっ、指すつもりでした」と異義を唱えて指しました。森内と記録係の時計は少し違っていたのです。立合人は2日目の開始時、「時間は記録係の時計を基準にする」と宣言しました。後日の話では、森内は慣れない封じ手を避けたかったそうです。
問題②の正解はC。02年は丸山忠久名人が森内に4連敗、03年は森内名人が羽生に4連敗しました。04,年は第3局で羽生名人が勝ち、名人の10連敗で止めました。

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2014年5月 6日 (火)

第3回電王戦第5局の光景とコメントについて

第3回電王戦第3局の光景とコメントについて

第3回電王戦第3局の光景とコメントについて

第3回電王戦第3局の光景とコメントについて

私は4月12日に東京の将棋会館で行われた第3回「電王戦」第5局(屋敷伸之段―『Ponanza(ポナンザ)』)で立合人を務めました。

写真・上は、将棋ソフトの指し手を盤上で操作するロボットアーム「電王手くん」。対局前の光景です。

私は初めて目の前で見ましたが、駒を盤面に置く動きはじつに滑らかでした。相手の駒を取って駒台に置いたり、成って駒を裏返しする動きも難なくこなしました。着手するたびに光を放ったり、「ウィーン、プシュ」といった電子音を出しますが、対局者はそれほど気にならなかったと思います。対局開始の際は軽く頭を下げ、とても可愛らしい姿でした。私はつい笑みがこぼれてしまいました。

第3回電王戦のMVPは、第1局で菅井竜也五段を見事に破った『習甦(しゅうそ)』が選ばれました。しかし陰のMVPは、プロ棋士対将棋ソフトの勝負を演出面で盛り上げた電王手くんではなかったかと、私は思っています。自動車部品メーカー『デンソー』の子会社が発明したもので、日本の科学技術の進歩を改めて実感しました。

写真・中は、電王戦第5局の夕食休憩の局面。『Ponanza』が△1六香と角取りに打ったところです。

対局者の屋敷九段をはじめ、多くのプロ棋士は「無筋」の一手と思いました。しかし▲2八角△1八香成以下、この香は2九〜3九〜4九〜5九〜6九〜6八〜7九のルートで動き、最後は勝利に大きく働いたのです。私が最も驚いたのは、将棋ソフトが元タイトル保持者に勝った強さだけでなく、プロ棋士の常識を超える無限の可能性(△1六香はその一例)があることでした。

写真・下は、午後3時の「おやつタイム」の光景。対局者だけでなく、現地中継の出演者にも、おやつのケーキが出ました。右から、司会者の藤田優女流初段、ゲストの竹俣紅女流2級、対局者におやつを出した高校生の「おやつガール」。

大盤解説会が開かれた東京・六本木「ニコファーレ」の来場者、将棋会館の控室の関係者にもクッキーが配られました。この時間だけは勝負からしばし離れ、みんなでおやつを楽しんだのです。通常の対局では見かけない光景です。こうしたまったりした雰囲気が『ニコニコ生放送』ならではの特徴といえます。

電王戦の人気は次第に高まっています。第5局のアクセス数は70万以上に達しました。今では『ニコニコ生放送』の3大コンテンツはアニメ・政治・将棋だそうです。

将棋連盟と電王戦の主催者が交わす契約金は、タイトル戦の水準になっています。私たち将棋関係者にとって、電王戦がもたらす経済効果、社会的な影響、新しい将棋ファンの開拓などは、有形無形にとてもありがたいものです。それだけに今後も長く継続するといいのですが、それにはプロ棋士の奮起が何よりも大事です。

プロ棋士が将棋ソフトに負けたことについて、このブログに多くのコメントが寄せられました。

「勝って得るものはなく、負けて失うものが大きいという戦いは、棋士側にとって圧倒的に不利です」(3月19日・《こうめい》さん)、「負けた菅井五段を責めるのではなく、勝った『習甦』を誉めるべきでしょう」(同日・《LMN』さん)、「やはり人間のほうが失策をするようだ、との森下卓九段の実感もよかった」(4月17日・《将棋九段》さん)などのコメントは、棋士に対する擁護論です。

「プロに甘いファンが多すぎます。機械はプレッシャーを感じないから勝った、プロが本気で研究すれば勝てる、というコメントはやめましょう」(3月20日・《IT男》さん)、「コンピューターが見せる新手・珍手にプロが動揺し、対応できない事実、いったいプロは何を研究、努力してきたのか」(同日・《千葉霞》さん)、「プロ棋士もコンピューターに教わる時代になったか! そう感じるのは私だけなのでしょうか」(4月19日・《オンラインブログ検定》さん)などのコメントは、棋士に対する批判論です。

プロ棋士は盤面に向かえば、どんな状況でも最善を尽くして戦うものです。プレッシャーや対局相手の心理の有無と、敗戦は関係ありません。将棋ソフトの強さを素直に認めるべきです。最近は、将棋ソフトとの対戦で研究する棋士もいて、だんだん状況が変わってきています。プロ棋士と将棋ソフトの関係については、改めてテーマにします。

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2014年4月18日 (金)

第3回電王戦第5局でプロ棋士が将棋ソフトに敗れて1勝4敗でまた負け越し

第3回電王戦第5局でプロ棋士が将棋ソフトに敗れて1勝4敗でまた負け越し

5人のプロ棋士と5つのコンピューター将棋ソフトが団体戦形式で対戦した第3回「電王戦」の第5局(屋敷伸之九段―『Ponanza』)が4月12日に東京の将棋会館で行われました。

写真は、対局光景。右から屋敷九段、記録係の貞升南女流初段、立合人の私こと田丸昇九段、将棋連盟理事の片上大輔六段、将棋ソフトの指し手を盤上で操作するロボットアーム「電王手くん」。※写真は「週刊将棋」提供。

昨年の第2回電王戦は、プロ棋士が将棋ソフトに対して1勝3敗1持将棋と負け越しました。今年の出場棋士は、菅井竜也五段、佐藤紳哉六段、豊島将之七段、森下卓九段、屋敷九段(対局順)。若手精鋭、名人戦挑戦経験者、元タイトル保持者などで、昨年より戦力が増強された感じでした。私はプロ棋士の4勝1敗と予想しました。

電王戦第1局では、通算勝率が7割台の菅井五段が得意とする中飛車を用いました。しかし『習甦』(しゅうそ)の手厚い指し方に攻め切れず、早くも初戦でプロ棋士が敗れました。その後、第3局で豊島七段が勝ちましたが、第2局で佐藤六段、第4局で森下九段が敗れ、昨年に続いてプロ棋士の負け越しが決まりました。

第5局は、前期までA級棋士だった屋敷九段と、昨年の世界コンピューター将棋選手権で準優勝した『Ponanza』(ポナンザ)が対戦しました。屋敷はプロ棋士の「大将格」として、最終戦に勝って意地を見せたいところです。昨年に『GPS将棋』に敗れた大将格の三浦弘行八段(当時)は研究仲間で、仇を討ちたい心境でもあったと思います。

戦型は後手番の『Ponanza』が誘導して横歩取りになりました。プロ棋士間で流行している形ではなく、実戦例があるようでない進展でした。39手目には早くも飛車交換され、攻め合いになりました。屋敷が角を活用して相手の飛車を取った展開は、少し有利になったと思いました。

しかし「ニコニコ生放送」の画面に表示された形勢判断の評価関数(本局では『GPS将棋』が担当)と、『Ponanza』の自己評価関数は、いずれも将棋ソフトの+400点〜800点台が続きました。飛車対金桂香の三枚替えの駒得を高く評価したものです。

私たちプロ棋士が見た『Ponanza』の攻めは重い感じがしました。角取りに△1六香と打った局面では、「えっー…」という声が控室で上がりました。プロ棋士が嫌う「イモ手」だったからです。屋敷は相手の攻めを十分に余せると考えていました。将棋ソフトの自己評価関数も、+120点に下がっていきました。

私は終盤の局面で、ニコニコ生放送に出演しました。『Ponanza』は2枚の角と、1筋に打った香を△6九成香と働かせて迫りましたが、やや息切れ気味に思いました。だから△7九銀と王手したとき、私は思わず「ついに暴発したのか…」と言いました。屋敷も「ありがたい」と思ったようで、▲9七玉と手順に中段に逃げました。しかし△9六歩〜△9五歩〜△9四歩の連打で玉の上部に拠点を作られると、意外と難しい形勢でした。△7九銀は、プロ棋士の誰もが気づかなかった実戦的な勝負手だったのです。

その後、屋敷の悪手によって『Ponanza』が勝勢になると、屋敷は何度も席を外してトイレに行きました。局後の話では、「どうやって形を作るか…」と考えていたそうです。そして最後の手段として、▲5五金と捨てる王手をしました。△4三玉と逃げられてまったく詰みませんが、将棋ソフトは△同玉と取りました。3手詰めのトン死の危険があるので、人間なら詰まないとわかっていても逃げるところです。そして△9四銀と捨てる王手で、即詰みに討ち取りました。屋敷の気持ちを察したようなきれいな勝ち方でした。

第3回電王戦は第5局で『Ponanza』が屋敷九段に勝ち、プロ棋士は将棋ソフトに対して1勝4敗と負け越しました。第2回より下回る結果となりました。

私は立合人として戦いを見て、将棋ソフトがさらに進化して強くなったことを改めて認識しました。正確な形勢判断、攻防のバランスの良さ、常識を超える指し方など、プロ棋士が学ぶことが多いと思いました。一方で人間的な面もあり、「将棋ソフトは感情的なぶれがない」という見方は通用しません。

来年も第4回電王戦が行われます。プロ棋士が巻き返すためには、出場棋士の人選が重要になっています。

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2014年4月10日 (木)

名人戦(森内名人―羽生三冠) 第1局は羽生が激闘を制して先勝

名人戦(森内名人―羽生三冠)<br />
 第1局は羽生が激闘を制して先勝

名人戦(森内名人―羽生三冠)<br />
 第1局は羽生が激闘を制して先勝

名人戦(森内名人―羽生三冠)<br />
 第1局は羽生が激闘を制して先勝

名人戦(森内俊之名人―羽生善治三冠)第1局が4月8日と9日に東京・目白「椿山荘」で行われました。

写真・上は、対局光景。左が森内名人、右が羽生三冠。
写真・中は、7日の前夜祭で将棋ファンの少年に花束を贈られた両対局者。
写真・下は、NHK『将棋フォーカス』の番組で司会を務めているタレント・つるの剛士さん。胸には駒形のバッジがいくつも付いています。前夜祭では乾杯の発声をしました。

名人戦で森内と羽生が対戦するのは、新記録となる4期連続です。通算では9期目で、大山康晴(十五世名人)と升田幸三(実力制第四代名人)の対戦数とタイ記録です。大山―升田の名人戦は1953年から71年までの19年間にわたりました。森内―羽生も96年から2014年までの19年間にわたっています。どちらもほぼ2年に1期の頻度です。

今期名人戦のポスターの文言は「伝説を越えろ!」。昭和棋界で伝説的な名勝負を繰り広げられた大山―升田の名人戦を越えるような戦いが期待されています。

名人戦第1局は、振り駒によって森内の先手番となりました(ちなみに過去8期では4―4の同数)。森内は初手に▲2六歩と突き、相掛かりの戦法に持ち込みました。昨年の名人戦で羽生に2連勝した縁起の良い戦法でもあります。

戦いは早くも30手目に始まり、羽生は飛車を捨てて先攻しました。中盤の局面では森内の自陣に2枚の飛車、羽生の自陣と中段に2枚の角がいるという、前例のない珍しい形となりました。その後、羽生は攻めを細かくつなぎ、2枚の角を切って寄せに入りました。森内は頑強に抵抗しましたが、羽生は着実に優位を広げました。そして174手目の着手では、羽生の指が震える現象が見られました。それは勝利を確信したポーズでもあります。まもなく羽生が激闘を制して勝ちました。

羽生は森内との名人戦第1局で、4期連続で負けていました。それだけに先勝したことは大きかったと思います。

最近はプロ棋士と将棋ソフトが対戦する「電王戦」が人気を集めています。しかし最高峰のプロ棋士同士が知力の限りを尽くして戦う名人戦は、まさに将棋の醍醐味といえます。第2局以降の戦いに注目しましょう。

私は名人戦第3局・1日目の5月8日に、「ニコニコ生放送」で解説者を務めます。昨年と同じく、番組の中で名人戦や森内・羽生に関する雑学クイズを出題します。ご期待ください。

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2014年4月 5日 (土)

伊豆で行われた王将戦(渡辺王将―羽生三冠) 第7局で田丸が立合人

伊豆で行われた王将戦(<br />
 渡辺王将ー羽生三冠)<br />
 第7局で田丸が立合人

伊豆で行われた王将戦(<br />
 渡辺王将ー羽生三冠)<br />
 第7局で田丸が立合人

伊豆で行われた王将戦(<br />
 渡辺王将ー羽生三冠)<br />
 第7局で田丸が立合人

王将戦(渡辺明王将―羽生善治三冠)第7局が3月26日・27日に静岡県河津町「今井荘」で行われ、私こと田丸昇九段が立合人を務めました(副立合人は飯島栄治七段)。

写真・上は、対局光景。右が渡辺王将、左が羽生三冠。
写真・中は、対局番となった今井荘の外観。
写真・下は、伊豆半島の東側に広がる太平洋。部屋から一望できます。

王将戦は、渡辺王将が先に2連勝しましたが、羽生三冠が追いついて最終局に持ち込むました(勝敗は渡辺から見て〇〇●●〇●)。両者が7番勝負のタイトル戦で最終局を戦うのは、渡辺竜王が羽生名人に3連敗から4連勝して奇跡的な防衛を果たした2008年の竜王戦以来です。

7番勝負のタイトル戦の場合、5局目以降の対局場が準備万端整えて待っていても、勝敗によっては行われないことがあります。とくに第7局は確率が低いですが、実現すれば大いに注目されて盛り上ります。対局が行われない場合、対局場へのキャンセル料は支払われないそうです。その代わり、棋戦主催者が次期以降に第4局以前の対局場にして埋め合わせすることがあります。

私は第5局の後に、第7局の立合人を依頼されました。羽生三冠の巻き返しを信じて待っていたら、最後の大一番を見届けることになりました。

立合人の主な仕事は、対局前の盤駒の検分、対局開始の宣言、封じ手用紙の受け渡しと保管、記者への解説、大盤解説会に登場、局後の感想戦の仕切りなどがあります。対局中は写真・上のように、ほとんど席を外して控室にいます。立合人は何かの問題が起きたときに適切に対処するのが需要な役目で、何もなくて暇なほどいいのです。

対局者と関係者の一行は、対局前日の午後に東京駅で待ち合わせました。しかし羽生三冠は現れませんでした。私は次の横浜駅のホームで羽生の姿を見てほっとしました。羽生の自宅は東横線の沿線。渋谷から東京に行くよりも、横浜に行くほうが近いようです。

第7局では改めて振り駒をして、羽生三冠が先手番になりました。渡辺王将は後手番なら予定の作戦という中飛車に振りました。両者はともに穴熊の堅陣に玉を囲い、長期戦の展開が予想されました。しかし羽生が袖飛車で3筋から仕掛けると、渡辺は7筋と8筋の歩を突いて玉頭から攻め合いました。

棋戦担当者が気を遣うことのひとつは対局者の食事です。事前に希望や好みを聞いて食事を出します。1日目の昼食は、渡辺は「天ぷらうどん」、羽生は「わさび丼」でした。後者は、伊豆の名産の生わさびをすりおろし、かつお節と一緒にご飯にまぶすご当地グルメです。なお渡辺はわさびが苦手で、お寿司もさび抜きだそうです。

両対局者は対局前日の夕食は自室でとりましたが、1日目の夕食は関係者と一緒でした。中央に2人の立合人が座り、私の左は渡辺王将、飯島七段の右は羽生三冠と、対局者の席を左右に離すのが通例です。中央線・西荻窪に住んでいる渡辺と私は、よく利用する焼肉店やラーメン店の話で盛り上りました。羽生と飯島はゴルフの話をしていました。将棋の話は原則としてしません。しかし最後になって4月から始まる名人戦の話題に及んだとき、私は「あっ、まずい」と思いました。名人戦の挑戦者になった羽生。挑戦者を逃した渡辺。両者の立場は違います。やがて渡辺は「お先に」と席を立ちました。

渡辺王将が△7五歩と突いた手に、羽生三冠が▲同歩と取らなかったのが疑問手で、中盤では渡辺が有利な形勢となりました。羽生が7手かけて進んだ成銀と、渡辺がたった1手かけた金が交換された局面では、「割りの合わない交換だな」と思いました。

それから10手ほど進んだ局面で、お互いに金を打ち合う千日手模様の展開が予想されました。有利な渡辺王将が千日手にするとは思えませんが、立合人としてそんな事態も想定して、対局規定に目を通しました。千日手になった場合、1時間以内に指し直し、持ち時間は残り時間(2時間未満なら2時間に増やす)と定められていました。

しかし、それは杞憂でした。渡辺王将は激しい寄せ合いを制して勝ち、王将位を初防衛しました。

羽生三冠が7番勝負のタイトル戦で最終局を戦うのは18局目で、本局で10勝8敗の戦績となりました。羽生と互角に渡り合う相手ですから、そんなに勝てるわけがありません。ちなみに私が羽生のタイトル戦で立合人を務めたのは15局目で、本局で羽生の9勝6敗の戦績となりました。

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2014年3月19日 (水)

第3回電王戦第1局( 菅井五段―『習甦』) はプロ棋士が将棋ソフトにまたも黒星

第3回電王戦第1局(<br />
 菅井五段―『習甦』)<br />
 はプロ棋士が将棋ソフトにまたも黒星

第3回電王戦第1局(<br />
 菅井五段―『習甦』)<br />
 はプロ棋士が将棋ソフトにまたも黒星

第3回電王戦第1局(<br />
 菅井五段―『習甦』)<br />
 はプロ棋士が将棋ソフトにまたも黒星

第3回電王戦第1局(<br />
 菅井五段―『習甦』)<br />
 はプロ棋士が将棋ソフトにまたも黒星

5人のプロ棋士と5つのコンピューター将棋ソフトが団体戦形式で対戦する第3回電王戦が今年も始まりました。第1局の菅井竜也五段と『習甦』(しゅうそ)の対局は、3月15日に東京・江東区の「有明コロシアム」で行われました。

写真・上は、対局光景。左の機械は、将棋ソフトの指示に従って盤上の駒を操作する新登場のロボットアーム「電王手くん」。自動車部品メーカーが開発したものです。前回は、人間がソフト側に代理で座って駒を動かしました。

写真・上から2番目は、対局場の全景。普段はテニスや格闘技の試合が行われる競技場に特設の対局室が作られました。観戦者はいません。

写真・上から3番目は、東京・六本木の「ニコファーレ」で行われた大盤解説会。右は解説者の中村太地六段、左は聞き手の本田小百合女流三段。有明コロシアムでの大盤解説と併せて、ニコニコ生放送で二元中継されました。

写真・下は、有明コロシアムの外観。前回は、東京・千駄ヶ谷の将棋会館で全局が行われました。

第3回電王戦では、プロ棋士の対局者の一新、特設の対局場、ロボットアームの駒操作、持ち時間の変更(前回は59秒未満は切り捨てして各4時間、今回は考慮時間をすべて加算して各5時間)など、新機軸が出されました。

菅井は得意とする中飛車に振りました。前回は5局とも相居飛車だったので、電王戦で初めて振り飛車が見られました。『習甦』は手厚い駒組を築いて対抗しました。

私が対局場を訪れたのは午後の中盤の局面。菅井が飛車をどう活用するかが戦いの焦点でした。指し手がしばらく進むと、菅井の飛車は押さえ込まれた形となり、菅井が苦戦という声が出ました。ニコファーレの写真(上から3番目)の左上には、「143」の数字が表示されています(右上は−143)。これは『習甦』の自己形勢判断で、ソフト側が少し有利という状況です。中村六段は「このくらいの数字なら、まだわかりません」と解説しましたが、その数字は次第に増えていきました。ちなみに1000以上になると、プロ棋士でも挽回するのは難しいそうです。

ロボットアームは対局開始の際、ぺこっと「お辞儀」の形をしました。そして対局中は、先端のカメラで盤面を認識し、吸引した駒を音を立てずに滑らかな動きで着手しました。駒を交換したり、駒を裏返して成る動きも、間違いなく行いました。

上から2番目の写真は、夕食休憩(午後5時〜5時半)の時間帯でした。菅井は残り時間が切迫したのと形勢不利を自覚したのか、食事をしないで盤の前で読みふけっていました。

『習甦』は前回の電王戦第1局で阿部光瑠四段と対戦し、飛車を捨てて敵陣を強襲するじつに過激な攻め方をしました(結果は阿部の勝ち)。しかし今回は別人(別機?)のように、しなやかな受け方で菅井の攻めを封じ込めました。

そして『習甦』は反撃に転じると、鋭い寄せで迫って98手で菅井を破りました。菅井は通常とは違う環境と勝利への緊張感からか、消極的な手が目立ちました。いずれにしても内容的には完敗でした。局後に「ふがいない内容でしたが、総合的に見て自分よりちょっと強いと思いました」と語って、将棋ソフトの強さを率直に認めました。

菅井五段は160人以上のプロ棋士の中で、通算勝率が7割台(通算対局数が50局以上。羽生善治三冠など4人)という関西の21歳のホープです。『習甦』と事前に200局ほど練習対局して十分に準備してきました。それだけに菅井の敗戦はとても驚きでした。

前回の電王戦では、プロ棋士は将棋ソフトに1勝3敗1持将棋と負け越しました。私は、今回はプロ棋士の4勝1敗と予想しましたが、黒星発進で暗雲が立ちこめました。

電王戦の第2局以降は3月22日から毎週土曜日、東京「両国国技館」・大阪「あべのハルカス」・神奈川「小田原城」で行われます。私は東京の将棋会館で行われる第5局で立合人を務めます。何とか2勝2敗の五分に持ち込めば、大いに盛り上るのですが…。

【追記】読売新聞で3月11日から4月1日までの毎週火曜日、私は夕刊(全国版か東京版かは不明)の「一手千金」という随筆欄で連載しています。

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2014年2月21日 (金)

華やかな雰囲気で行われた里見香奈女流王座の就位式

華やかな雰囲気で行われた里見香奈女流王座の就位式

華やかな雰囲気で行われた里見香奈女流王座の就位式

華やかな雰囲気で行われた里見香奈女流王座の就位式

昨年の第3期リコー杯女流王座戦で、挑戦者の里見香奈女流三冠が加藤桃子王座を3勝1敗で破り、女流王座のタイトルを初めて獲得しました。その里見女流女流王座の就位式が2月6日、東京・四谷のホテルニューオータニで行われました。

写真・上は、就位状を披露する里見女流王座。赤い着物がひときわ光彩を放っていました。

写真・中は、就位状を贈った将棋連盟会長の谷川浩司九段と並んだ光景。

ちなみに写真・上の掛け軸に「リコー杯女流王座戦」と揮毫したのは、人気女流書道家の紫舟(NHK大河ドラマ『龍馬伝』などの題字を書きました)さんです。

私は女流王座の就位式に初めて出席しました。会場は関係者と将棋ファンでいっぱいで、着飾った女流棋士と女性ファンの姿が目立っていました。

写真・下は、「将棋界の貴公子」のような存在である中村太地六段を囲んで写真に収まる女性ファンたち。

最近は就位式や将棋イベントなどで、女性の姿は珍しくありません。この日は20人ほどの女性ファンが一緒に参加しました。その1人(前日に東京の将棋会館で行われたA級順位戦8回戦の解説会にも行ったそうです)の話によると、高橋和女流三段が主宰する女性将棋教室「Shogiotome」の会員たちとのことです。

こうした20代・30代の「将棋乙女」たちは、主に漫画『3月のライオン』を読んだのをきっかけに将棋に興味を持ったそうです。指したいときに教室に集まり、メールで情報を連絡し合ってイベントに積極的に参加しています。こんなネットワークがあれば、女性ファンが陥りがちな孤独感がなくて楽しそうですね。

山登りが好きな女性を「山ガール」、囲碁が好きな女性を「石ガール」と呼ぶそうです。それと同じように、将棋が好きな女性を「駒ガール」と呼ぶと、「こわがーる」と聞こえてしまいそうです。「将棋乙女」はなかなかいいネーミングだと思います。

里見女流王座への花束贈呈は高橋女流三段でした。里見が小学生時代に2枚落ちで教えたことがあり、「詰将棋を解くのを日課にしなさい」とアドバイスしたエピソードがありました。

閉会の挨拶は、女流棋士会長の矢内理絵子四段がしました。女流棋戦の就位式らしい華やかな雰囲気でした。

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2014年2月 4日 (火)

森内俊之竜王の就位式と竜王戦の対局料システム

森内俊之竜王の就位式と対局料システム

森内俊之竜王の就位式と対局料システム

森内俊之竜王の就位式と対局料システム

昨年の竜王戦で挑戦者の森内俊之名人が渡辺明竜王を4勝1敗で破り、森内は渡辺の竜王戦10連覇を阻むとともに、10年ぶり2期目の竜王位を獲得しました。

写真・上は、1月20日に東京・日比谷の帝国ホテルで行われた森内竜王の就位式。

森内竜王は「開幕前は苦戦を覚悟していたので、第1局に勝てたのが大きかったです。竜王という大きなタイトルを預かることになり、今まで以上に責任をしっかり務めていきたい」と挨拶しました。

森内が竜王と名人を同時に獲得したのは2004年以来です。ほかの棋士では、羽生善治(1994〜95年・2003年)と谷川浩司(1997年)しかいません。

写真・中は、森内竜王が以前から指導している将棋教室の生徒たち。

写真・下の右は、森内竜王の唯一の弟子である竹俣紅女流2級。左は、仲のいい竹部さゆり女流三段。2人とも艷やかな和服姿でした。

竹俣女流2級は15歳の中学生。小学校に上がる前から漢字が好きで(現在は漢字検定で2級の資格)、その延長線上で将棋に興味を持ちました。最新将棋ソフト『激指13』では、キャラクター棋士の1人として初出演しています。その「紅ちゃん」の可愛い魅力と相まって、ソフトはよく売れているそうです。

竜王戦の優勝賞金は4200万円。その賞金と決勝トーナメントでの高額な対局料(3局分)を合わせると、森内は約5000万円を得たことになります。

私が『将棋世界』で連載している「盤上盤外 一手有情」の3月号(2月発売)では、竜王戦の対局料システムについて簡略に説明しました。

竜王戦のランキング戦(1組〜6組)は、上位の組ほど対局料が高くなります。1クラスごとの差額は約25%です。仮に1組の対局料が10万円の場合、2組は7万5千円、3組は5万6千円…という比率が基本です。ただ実際の対局料は「組」と「段」を組み合わせた方式になっていて、同じ組でも段が高いほど多くなります。私は昨年に九段に昇段したので、今期の竜王戦の対局料は前期より2割ほど増えました。

竜王戦はランキング戦・昇級者決定戦・残留決定戦の勝負で昇級者と降級者を決めます。それらの対局料は、仮にランキング戦が10万円の場合、昇級者決定戦は8万円、残留決定戦は3万円という比率で減額されます。

竜王戦には女流棋士と奨励会三段も出場します。それらの対局料は、女流棋士は6組、奨励会三段は女流棋士の75%を基準とします。

ちなみに順位戦の対局料(1年分)も、1クラスごとの差額は約25%です。仮にA級の対局料が1千万円の場合、B級1組は750万円、B級2組は560万円…という比率が基本です。

アマがプロ公式戦に出場した場合、対局料として商品券が支給されます。その額面はおよそ数万円で、持ち時間が基準になっています。持ち時間が各5時間の竜王戦の場合、約5万円と推定されます。アマが勝ち進んで本戦や決勝に進出した場合、棋士と同じ基準で現金が支給されるようです(実例はごく稀です)。

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2013年11月30日 (土)

竜王戦(渡辺竜王―森内名人)第5局で森内が勝って2期目の竜王獲得

第26期竜王戦(渡辺明竜王―森内俊之名人)7番勝負の第5局が11月28日・29日に富山県黒部市「宇奈月温泉 延楽」で行われました。3勝1敗とリードした森内が勝って10期ぶりに竜王を獲得するか、渡辺が踏み止まるかという一戦でした。

今期の竜王戦は第1局から第3局まで、矢倉模様から後手がいずれも積極的に動き、両者は先手・後手で入れ替わりながら同じ戦型を採りました。

第5局は通常の相矢倉でした。先手の森内が指した59手目の局面まで第4局と同じ手順が続き、後手の渡辺がその局面で手を変えて違う展開になりました。

居飛車党同士の将棋では、矢倉・角換わり・横歩取りの同じ戦型で先手・後手を持ち合うことはありますが、タイトル戦の7番勝負でこれほど続くのは珍しいです。

現代のプロ棋士の対局は研究合戦みたいなところがあり、今期の竜王戦もそんな感じでした。相手の注文に逃げていられるか、やられたらやり返せという「半沢直樹」のような思いもあったかもしれません。

第5局は1日目に指し手がどんどん進み、封じ手の局面はもう終盤でした。2日目の29日は全国各地で解説会が開かれるので、あまり早く終わったら困るだろうなと思いました。しかし夕方に生中継されたNHK衛星放送の将棋番組が終わっても、終盤の難しい攻防が繰り広げられました。そして森内は渡辺の攻撃を押さえて反撃に転じると、鋭い寄せで相手の玉を仕留めました。

森内は第5局で渡辺に勝ち、10期ぶり2期目の竜王を獲得しました。渡辺は2004年に森内から竜王を獲得して以来、竜王戦で防衛をずっと重ねてきましたが、10連覇は成りませんでした。

森内は2004年に次いで、竜王と名人を保持しました。同じ例は、羽生善治三冠(1994年)と谷川浩司九段(1997年)がいます。

私は竜王戦第3局・1日目の11月7日に「ニコニコ生放送」で解説者を務めたとき、両対局者のエピソードや竜王戦の雑学をクイズで出しました。

そのひとつが、竜王戦のタイトル戦で最も多く対局場になった山形県天童市「ほほえみの宿 滝の湯」です。第2期以来、合計で14局を数えます。対局室の名称も「竜王の間」です。ミス山形にも選ばれた美人女将の宿としても有名です。その娘さんも美しく、以前にある棋士とのロマンスも噂されました。「滝の湯」は竜王戦第6局の対局場に予定されていましたが、第5局で終了したことで行われませんでした。

7番勝負のタイトル戦では、後半の第5局以降の対局が勝敗によって行われないことがあります。対局場側が準備万端整えて待ち受けていても、こればかりはしかたありません。なお対局が行われない場合、主催者からのキャンセル料の支払いはないそうです。ただ次期以降のタイトル戦で、見返りとして第4局以前の対局場に当てられることがあります。

2011年の名人戦(羽生名人―森内九段)は、森内が3連勝の後に羽生が3連勝しました。森内は第5局以降の対局場で「よく来ていただきました」と感謝され、複雑な気持ちになったそうです。

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2013年11月23日 (土)

竜王戦(渡辺竜王―森内名人) 第4局で森内が勝って竜王獲得に王手

竜王戦(渡辺竜王―森内名人)<br />
 第4局で森内が勝って竜王獲得に王手

竜王戦(渡辺竜王―森内名人)<br />
 第4局で森内が勝って竜王獲得に王手

竜王戦(渡辺竜王―森内名人)<br />
 第4局で森内が勝って竜王獲得に王手

第26期竜王戦(渡辺明竜王―森内俊之名人)7番勝負の第4局が11月21日・22日に香川県宇多津町「サン・アンジェリーナ」で行われました。香川県で竜王戦のタイトル戦が行われたのは初めてでした。宇多津町は県北部の坂出市と丸亀市の間にあり、瀬戸内海に面しています。

写真・上は、瀬戸内海と瀬戸大橋を臨む対局室。右から、渡辺竜王、記録係の都成竜馬三段(今年の新人王戦で、奨励会三段として初優勝)、森内名人。

写真・中は、大盤解説会の光景。じつは第4局の対局場は結婚式場で、解説会は教会で開かれました。新郎新婦が永遠の愛を誓う壇上に大盤、新婦が歩くバージンロードに座布団が置かれ、訪れた多くの将棋ファンが棋士の解説を聞いていました。

竜王戦第4局を実況した「ニコニコ生放送」では、羽生善治三冠が2日目の22日に解説者を務めて盤外でも盛り上がりました。午後に放送スタジオ(東京の将棋会館)と香川県の対局場とで電話がつながったとき、羽生が立合人の小林健二九段と思った相手が、将棋連盟会長の谷川浩司九段と知って驚く場面もありました。

第1局から第3局までは、矢倉模様から後手がいずれも△5五歩▲同歩△同角と積極的に動いて、同一の戦型となりました。

第4局は通常の相矢倉でした。先手の渡辺が攻めて後手の森内が受ける展開となり、渡辺が細かくつなぐ攻めに対して、森内が2筋の玉を9筋まで逃がしてかわしました。そして大熱戦の末に、森内が即詰みに討ち取って勝ちました。

この結果、挑戦者の森内は3勝1敗(〇〇●〇)とリードして、竜王獲得まであと1勝と「王手」しました。竜王戦10連覇をめざす渡辺は崖っぷちに追い込まれました。

渡辺は2008年(平成20年)の第21期竜王戦(渡辺竜王―羽生名人)で、3連敗から4連勝して大逆転防衛を果たしたことがあります。一方の森内は最初に2連勝した計6回のタイトル戦(7番勝負)で、いずれも勝ち切りました。

つまり、竜王戦で負け越しても必ず勝った渡辺の「盾」と、タイトル戦で勝ち越したら必ず勝った森内の「矛」のどちらかが、今期の竜王戦で敗れるのです。注目の竜王戦第5局は、11月28日・29日に富山県黒部市で行われます。

写真・下は、私が竜王戦第3局・1日目の11月7日に「ニコニコ生放送」で解説者を務めたときの光景。聞き手は上田初美女流三段です。

私は解説の合間に、「渡辺―森内の勝負」「渡辺と森内のエピソード」「竜王戦の雑学」などをテーマに、盤外の話をいろいろと盛り込みました。視聴者にはとても好評だったようです。その話の一例を紹介します。

渡辺竜王は近年の竜王就位式で、ある子ども将棋教室の生徒たちから連覇の数と同じ花束を贈られていました。果たして今期は10個の花束を受け取れるでしょうか。ちなみに渡辺は生徒たちから「ドラゴンキング」と呼ばれています。

森内名人は近年の名人就位式で、本人の希望による暖炉型ストーブ、生まれた年のワイン、天体望遠鏡を記念品として贈られました。今期に竜王を獲得したら、何を所望するのでしょうか。

私は執筆の仕事(『週刊将棋』『将棋世界』の連載など)に追われて、ブログの更新が滞っています。12月になれば更新の回数を増やせると思います。それまでお待ちください。

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2013年11月 6日 (水)

竜王戦(渡辺―森内)第3局・1日目の11月7日に「ニコニコ生放送」で解説者を務めます

第26期竜王戦(渡辺明竜王―森内俊之名人)7番勝負は、挑戦者の森内が2連勝する出だしとなりました。

竜王戦10連覇をめざす渡辺に赤ランプが灯っています。ただ過去の竜王戦では、渡辺は最初に2連敗してから逆転防衛したことが2回あります。そんなわけで竜王戦の勝負の行方はまだわかりません。とくに2008年(平成20年)の第21期竜王戦(渡辺竜王―羽生善治名人)7番勝負は、渡辺は羽生に3連敗してから4連勝して将棋史に残る大逆転防衛を果たし、渡辺は「永世竜王」位を取得しました。

この渡辺―羽生の竜王戦は5年前のことですが、今でも強烈な印象が残っています。私も第7局のネット中継を見て名勝負に興奮したものです。ちなみに第7局だけで、ネット中継へのアクセス数が1200万にも達したそうです。

森内は過去のタイトル戦(7番勝負)で、最初に2連勝したことが6回あります。いずれも結果は勝ち切って、タイトルを防衛または奪取しました。今年の第71期名人戦(森内名人―羽生三冠)7番勝負も、森内は○○●○○(4勝1敗)という結果で名人位を防衛しました。

つまり今期の竜王戦は、「渡辺は2連敗でも逆転勝ちした」「森内は2連勝から勝ち切った」という2つの前例のどちらかが覆る結果になるのです。それだけに第3局の勝負が大いに注目されます。

私は竜王戦第3局・1日目の11月7日に「ニコニコ生放送」で解説者を務めます。聞き手は上田初美女流三段です。

私は今年の名人戦第3局でもニコニコ生放送に出演しました。そして解説の合間に、「名人戦の記録」「森内・羽生のエピソード」「名人戦の雑学」というテーマで、盤外の話をいろいろと紹介しました。1日目は盤上の動きが少ないので、視聴者にはとても好評だったようです。

竜王戦第3局でも、「渡辺―森内の勝負」「渡辺・森内のエピソード」「竜王戦の雑学」というテーマで、盤外の話を盛り込むつもりです。

私は10月から11月にかけて用事が立て込んだので、ブログの更新が滞ってしまいました。11月中旬以降は更新の回数を多くできると思います。また、ぜひ紹介したい話がいろいろとあります。楽しみにしてください。

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2013年10月20日 (日)

第3回電王戦の5人の出場棋士は屋敷九段、豊島七段、菅井五段らに決定

来年の3月から4月にかけて行われる第3回「電王戦」の出場棋士が10月7日に発表されました。すでに出場が決まっていた屋敷伸之九段のほかに、森下卓九段、豊島将之七段、佐藤紳哉六段、菅井竜也五段の5人です。

屋敷は元タイトル保持者でA級棋士、森下は元A級棋士、豊島はタイトル戦経験者、佐藤はバラエティー番組に出演した人気者、菅井は関西のホープと、実績・段位・年代・話題性などを総合的に勘案して、多くの候補者の中から人選されたそうです。

第2回電王戦の出場棋士(三浦弘行八段、塚田泰明九段、船江恒平五段、佐藤慎一四段、阿部光瑠四段)の実力は相当なものでしたが、第3回はさらにパワーアップした感じです。

第2回はプロ棋士側が1勝3敗1持将棋と負け越しました。その敗因については、いろいろな見方があります。私はコンピューター将棋の実力がプロの水準にすでに達していることは認めますが、プロ側の「絶対に勝たねばならない」というプレッシャー、「終盤の一手違いの寄せ合いでは負けそう」というコンピューター将棋の底知れない詰めの能力への畏怖が、結果的に大きく影響したと思います。後者をマラソンに例えると、競技場での最後のトラック勝負になった場合、コンピューター将棋の速さには勝てないという心理です。

私は第5局(三浦八段―GPS将棋)で立会人を務めました。三浦が得意とする相矢倉の戦型でしたが、第4局(塚田九段―Puella α)でコンピューター将棋が持将棋模様の指し方に不得手だったという意識があったのか、三浦は中盤から入玉をめざすような指し方を採りました。私は盤側で「なぜ普通に指さないのだろうか」と不思議に思いました。もちろん三浦は勝つための戦略だったのですが、結果は一方的に攻められて完敗しました。

第3回の人選について、将棋連盟の担当理事は「勝利をつかめるという意味で人選し、良いメンバーが揃いました」と語りました。確かに前記の棋士たちなら、勝ち越して当然だと思います。また、第2回の反省を踏まえて臨むはずです。私は4勝1敗と予想します。敗者予想は言わないでおきます。

第2回は全局が相居飛車でした。第3回は、菅井五段の振り飛車が見られそうで、コンピューター将棋の作戦が楽しみです。とにかく第3回では、プロ棋士側は普段どおりの将棋を指してほしいと、私は思っています。

コンピューター将棋は、プロ棋士の棋譜を数多く入力してきたことで今日の実力をつけました。しかし最近は逆転現象が起きています。

その顕著な例が、今年の名人戦(森内俊之名人―羽生善治三冠)第5局です。実戦例がある相矢倉の中盤の局面で、森内が△3七銀と飛車取りに打つ新手を指したのです。羽生は意表を突かれたのか、104分も大長考して▲5八飛と逃げました。その後、森内の指し手は冴えわたり、羽生はついに挽回できませんでした。森内は快勝し、4勝1敗で名人位を防衛しました。

局後の話によると、第5局の20日ほど前に、将棋ソフト「ponanza」がネット将棋で前記と同一局面で△3七銀と打ったそうです。それを見たネット関係者が、第3局の打ち上げの場で森内に話しました。そして森内は第5局で、その△3七銀が有力と考えて実際に指しました。まさにコンピューター将棋の手を参考にして勝ったのです。

9月に行われたA級順位戦の渡辺明竜王―行方尚史八段戦の序盤は、電王戦第5局と同じ局面になりました(実際は先手・後手の違いで、端歩の位置が少し違う)。そして先手の行方は、GPS将棋が初めて用いた▲3五歩△同歩▲2六銀の手法で仕掛けました。以下も同じ手順で進みましたが、10手後の局面で行方は▲4六金と打って違う手を指しました。その手は行方の新工夫かと思われました。しかし単なる記憶違いだったのです。以後は苦しい形勢となり、行方が完敗しました。なおGPS将棋は、後に▲2六金(実際は△8四金)と打ちました。行方はコンピューター将棋の手を参考にしましたが、しまらない結果となりました。

ところで、プロ棋士がコンピューター将棋に勝てない時代がいずれくるかもしれません。私たち棋士にとっては切実な問題です。羽生三冠はそれについて、「そのときはルールをひとつ変えるだけでいい」と語ったそうです。なかなかユニークな発想です。それでプロ棋士が再び優位に立てる可能性はあります。ただ実際にはどう変えるのでしょうか…。また、プロ棋士が変化への順応力でコンピューター将棋より勝るとは言い切れません。何よりも懸念されるのは、将棋の本来の魅力が損なわれて将棋ファンに見放されたら元も子もありません。

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2013年9月27日 (金)

羽生善治三冠がタイトル戦で居眠りしたという『週刊文春』の記事

今週発売の『週刊文春』(10月3日号)に、「羽生善治三冠 タイトル戦の真っ最中に10分間熟睡」という見出しの記事が載りました。

9月18日に行われた王座戦(羽生善治王座―中村太地六段)第2局で、対局開始の9時から30分ほどたったとき、胡坐になった羽生が右手で前傾した頭を支えながら、「すう…すう…」と軽い寝息を立てて「居眠り」を10分ほどしたというのです。

当日は『ニコニコ動画』が王座戦の対局を生放送していました。視聴者たちは羽生の思わぬ姿を見ると、「疲れがたまっているのか」「相手を惑わす神経戦で、これぞ羽生マジック」などのコメントを寄せて、盤外で大いに盛り上がったそうです。

その局面は、矢倉模様の序盤戦で後手の中村が△5三銀右と上げて急戦策を見せたところでした。最近流行している指し方で、先手の羽生は作戦の岐路でした。羽生はその19手目に、23分を使って▲5七銀右と上げて中央を厚くしました。

ところで、羽生はその局面で本当に居眠りしていたのでしょうか…。羽生は後日、『週刊文春』の取材に対して、「作戦の分岐の場面なので、どの方針でいくか考えていたところでした。眠っていたつもりはないのですが、そのように見えた人も多かったようです」と答えました。相手の中村も「寝ていたことには気づきませんでした」と言ったそうです。

棋士は盤が目の前になくても、頭の中で正確に読み筋を立てられます。目をつむっても同様です。むしろ瞑目したほうが、かえって読みに集中できる場合があります。具体的に言えば、相手の立場になって手を読むとき(盤を反転する)、盤が見えないほうが考えやすいです。

羽生は前記の19手目の局面で、瞑目しながら考えていたと思います。ただ過密な対局日程の影響が出て睡魔にふと襲われ、数分ほど「舟を漕いだ」のかもしれません。中村は表向きはそれを否定しましたが、目の前にいたので気づいていたようです。

タイトル戦に出続けている羽生は、対局室に設置してあるカメラの存在をもちろん意識しています。もし眠気を感じたら、席を外して個室で休むこともできます。王座戦での居眠りは偶発的なものだったと思います。

棋士が対局中に居眠りすることは決して珍しくありません。私も経験がありますが、昼食後の午後1~2時頃によく眠くなりました。そんなときは、控室で少し横になることにしました。体力がある若い棋士でも、午後に控室で横になって休んでいる光景をよく見ます。たとえ自分の手番でも、もうろうとした状態で悪手を指すよりはましです。持ち時間の多い対局では、心身のコンディションを整えるのも大事な要素なのです。

夕食後は戦いが佳境に入るために、眠くなることはめったにありません。とくに持ち時間・6時間の順位戦では、夜戦になってからが勝負どころです。そこで最大限に力を発揮できるように、午後は少しぐらいの「昼行燈」でもいいのです。

王座戦第2局は203手に及ぶ大激闘で、「善悪を超えた人間の勝負」だったと評されました。結果は羽生が勝ち、1勝1敗の五分に持ち直しました。最後まで集中力を絶やさなかったのは、対局開始まもないしばしの「休養」が利いたのかもしれません。

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2013年9月 2日 (月)

田丸の勝率、里見香奈女流四冠へのコメントと遅刻の罰則規定について

「700敗ですか! A級経験ありのベテラン棋士で、600勝していない棋士は珍しいのではないでしょうか。思いつくのは木村義徳九段くらいかな。勝率もひょっとしたらワーストでは? 意外性の棋士・田丸九段らしいといえば、その通りですが(笑)」というコメント(8月30日)は《ホネツギマン》さん。

A級経験がある50歳以上の現役棋士で、通算勝利が600勝に満たず通算勝率が負け越しなのは、私こと田丸九段(540勝。0.435)だけです。引退棋士の中には通算勝率で負け越しが何人かいますが、いずれも600勝以上で勝率も私より高いです。最年長記録の44歳でA級に昇級した木村九段は412勝455敗(0.475)。どうやら勝率は私がワーストのようです。なお木村九段は早く引退したので(55歳。棋士年数は30年)、勝利数は400勝台にとどまりました。

《ホネツギマン》さんのコメントのように、私の通算の勝利数・勝率でA級に昇級したり九段に昇段できたのは、まさに「意外」というしかないでしょう。だから42年の棋士人生を振り返ってみて、「運」が良かったとつくづく思っています。ただ勝負に生きる者にとって、運こそがとても重要なのです。その運をつかみ取るには、日頃の努力が大事なことはいうまでもありません。後は時世の流れに乗れるかどうかでしょう…。

「里見香奈さん(女流四冠)が7月に、奨励会で女性として初の二段に昇段しました。彼女の人柄や印象について語っていただけますか」という内容のコメント(7月30日)は《将棋太郎》さん。

里見さんが奨励会に1級として編入されたのは2年前の5月。それ以来、華やかに注目を浴びる女流トップ棋士と、地道な修業を重ねる奨励会員という「二足の草鞋」の日々を送っていますが、何とか両立させているようです。先日も、終局が深夜になる順位戦の記録係を務めました。ただ本人も自覚していると思いますが、二段はあくまでも通過点です。三段リーグに入ってからが本当の勝負といえます。

私は里見さんと個人的に話したことはありません。とにかく将棋一筋に打ち込んでいて、人柄も良いので関西の先輩棋士に可愛がられている印象があります。

里見さんが11年前(当時10歳)に女流アマ名人戦に出場したとき、私は『将棋世界』編集長として話を聞き、「幼稚園の頃に棋力三段の父親から将棋を習った。今では広島、米子の大会に出て力をつけ、父親が10局のうち2局勝てるかどうか。詰将棋は10題解くのが日課。将来は女流棋士志望。好きな棋士は、2年前の出雲市の将棋の日イベントで2枚落ちで教えてくれた高橋和二段」という記事にまとめました。

ところで今年6月の将棋連盟総会では、「持ち時間にかかわらず最長1時間の遅刻で不戦敗」という規定が決まりました。以前は持ち時間・6時間の順位戦の場合、1時間59分の遅刻で持ち時間を3倍引かれても、残り3分で対局できました。しかしほかの競技に比べて甘いという指摘があり、1時間に短縮されました。

じつは昨年11月には、「テレビ対局」(NHK杯戦・銀河戦・女流王将戦)に関する遅刻規定が新たに決まりました。テレビ対局では、収録の準備やリハーサルがあって、通常の対局のように定刻どおり始まりません。それをいいことに、所定の集合時間(対局開始の30分前)に遅刻する例がたまにありました。

新規定では、5分以内の遅刻で5千円以下、10分以内で1万円以下と、5分きざみで罰金が増え、30分を超える遅刻は10万円以下の罰金が生じます。遅刻によって対局が行われない場合、さらに高額の罰金と次期出場停止という処分が課せられます。これは対局者のケースです。解説者・聞き手・記録係などの出演者の遅刻も、前記と同様の罰金が生じます。

私は、プロである以上、決して厳しい罰則とは思いません。演劇の舞台公演で、出演者の1人が日時をうっかりして公演が休止され、高額の賠償金を請求された事例もありました。

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2013年8月27日 (火)

8月9日の対局に負けて通算700敗を喫した田丸

私は8月9日、堀口弘治七段との対局(銀河戦予選)に負けました。その結果、棋士になってから通算700敗を喫しました(540勝。勝率は0.435)。

現役棋士で1103敗という最多敗戦記録を持つ加藤一二三九段(1312勝。勝率は0.543)のように、名人をはじめ多くのタイトルを獲得したり棋戦優勝があり、通算2400局以上の対局でいまだに勝ち越していれば、1000局以上の敗戦は偉大な「勲章」といえます。※記録は今年7月末日時点。以下も同じ。

そういえば野球界では、日米通算4000本のヒットを打った大記録をこのほど達成した大リーグ選手のイチロー(ヤンキース)は、「8000回もの悔しい思いもあります」と感想を謙虚に語りました。

私も「700局もの悔しい思いは、42年間の現役棋士生活の血と汗の記録です」と語りたいところですが、ここ10年間は坂道を転げるように黒星を重ねたにすぎません。

「通算勝率と順位戦のクラスは連動している」という説を以前から唱えたのは青野照市九段。順位戦で上位にいる棋士ほど勝率が高く、勝率が落ちていくとともに順位戦のクラスも下降するというのです。

今年度の順位戦で各棋士の通算勝率を見ると、森内俊之名人と10人のA級棋士のうち8人が6割台(羽生善治三冠は7割台)。B級1組は13人のうち7人が6割台(豊島将之七段は7割台)。ともかくB級2組以上で5割以下の棋士はいません。以前にB級2組以上にいて、現在はC級1組以下(またはフリークラスに所属)の棋士の中には、勝率がぎりぎり5割台もしくは4割台という例があります。青野説を証明するデータでした。

私は棋士25年目の1996年に、通算勝率が5割を切りました。しかし順位戦だけは妙に勝負強かったのです。所属したB級1組(計16期)では唯一の4割台の棋士として、99年に降級するまで踏ん張っていました。

現在、700敗以上の棋士は、加藤九段、内藤国雄九段(966敗)、桐山清澄九段(828敗)、森雞二九段(809敗)、谷川浩司九段(736敗)、田中魁秀九段(731敗)、田丸九段。この順番は、谷川を除いて、四段昇段順でもあります(160人以上の現役棋士の中で、田丸は7番目)。

私としては、こうなったら800敗をめざしたいところです。しかしタイトル戦に登場したり、王位戦・王将戦のリーグ戦に入らないと、年間の負け数には限度があります(フリークラス棋士は順位戦に参加できません)。

私は3年後、たぶん730敗台で引退となるでしょう。勝ち数については、できるだけ増やしたいと思ってはいますが…。

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2013年8月 6日 (火)

北海道・層雲峡での王位戦( 羽生王位―行方八段) 第3局で行方が初勝利

北海道・層雲峡での王位戦(<br />
 羽生王位―行方八段)<br />
 第3局で行方が初勝利

北海道・層雲峡での王位戦(<br />
 羽生王位―行方八段)<br />
 第3局で行方が初勝利

北海道・層雲峡での王位戦(<br />
 羽生王位―行方八段)<br />
 第3局で行方が初勝利

王位戦(羽生善治王位―行方尚史八段)第3局が7月29日・30日、北海道・上川町「層雲峡 朝陽亭」で行われ、私こと田丸昇九段が立合人を務めました(副立合人は中座真七段)。

王位戦の関係者一行は28日に羽田空港から旭川空港に向かい、対局場に入る前に大雪山国立公園を代表する景勝地の層雲峡を観光しました。

写真・上は、断崖絶壁が20キロ以上も続く層雲峡。約3万年前に大雪山が形成される過程で中央火山が大噴火を起こし、堆積物が石狩川をせき止めて150〜200メートルの高さにそびえました。その後、1万年以上の年月をかけて、四角または六角の断面を持つ「柱状節理」が形成され、石狩川の侵食を受けて巨大な層雲峡渓谷ができたのです。

写真・中は、流星の滝を背景に記念撮影に収まる羽生王位(左)と行方八段。第3局を主管した北海道新聞の記者から感想を求められると、羽生は「壮大で立派な滝です。気持ちを新たにして対局に臨めます」、行方は「とても素晴らしい景色で、滝に心を洗われました」と語りました。

私は前夜祭で次のように挨拶しました。
「羽生さんはタイトル戦の対局で全国を転戦していて、対局日程はかなり過密です。しかし日頃から健康管理に努めているので、ずっと活躍し続けています。行方さんは最近、公私ともに充実していて、将棋の内容も良いです。この王位戦は2連敗していますが、ひとつ勝てば勝負の流れは変わります。蒸し暑い東京に比べると、北海道はとても涼しくて過ごしやすいです。対局者は良い環境で力いっぱい戦えると思います」

将棋は先手番の羽生が主導して相矢倉となり、双方の角が四段目で向かい合う「脇システム」という戦型に進みました。羽生は封じ手に2時間24分も考え、2日目は前例がほとんどない激しい戦いに突入しました。中盤では駒得をした羽生が有利に思えました。しかし行方が終盤で意表をつく寄せの一手を放って羽生の玉を追い詰め、羽生の反撃を振り切って初勝利を挙げました。

初めてタイトル戦に登場した行方は、盤側から見てかなり硬い表情でした。第3局を負けたら後がないという悲壮感が漂っていました。それだけに、この1勝は大きかったと思います。感想戦での行方は高揚した様子で、いつもの「なめちゃん」のように歯切れの良い口調でした。

じつは、羽生が初めてタイトル戦に登場した1989年の竜王戦(島朗竜王―羽生六段)第4局も、王位戦第3局と同じ対局場でした。竜王戦はその時点で、島が2勝1持将棋とリードしていました。しかし羽生が第4局に勝って初勝利を挙げると、さらに巻き返して4勝3敗で竜王を奪取したのです。

羽生―行方の王位戦は、24年前の竜王戦と同じような戦況になっています。今後の展開に注目したいと思います。

写真・下は、現在発売中の『将棋世界』9月号の付録「将棋クイズ123」の表紙。棋戦と記録・格言と用語・棋士の裏話・将棋の歴史・将棋と文化・将棋の雑学など、私が6分野にわたって123題のクイズを出しました。将棋の知識力や雑学に詳しくなると、さらに将棋を楽しめます。ぜひ読んでもらえるとうれしいです。

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2013年4月30日 (火)

今後の電王戦のあり方と多数の試聴者が観戦した「ニコニコ生放送」

今後の電王戦のあり方と多数の試聴者が観戦した「ニコニコ生放送」

今後の電王戦のあり方と多数の試聴者が観戦した「ニコニコ生放送」

前回のブログで、第2回電王戦第5局でコンピューター将棋ソフト『GPS将棋』がA級棋士の三浦弘行八段に勝ち、コンピューター将棋がプロ棋士に団体戦で3勝1敗1分と勝ち越したことを書いたところ、数多くのコメントが寄せられました。

それらの内容は、「勇気をもって対戦したプロ棋士の方々に心から敬意を表します」「コンピューター将棋がいかに進化して強くなろうとも、将棋ファンにとってプロ棋士は特別能力者です」「ウサイン・ボルトが100メートル走でオートバイに負けても、人間が弱いとは誰も思わないでしょう」「コンピューターが人間に勝つなんて、誰もがわかっていたこと」「次は羽生さん、森内さん、渡辺さんなどの最強の棋士を出すべきです。将棋連盟はもう逃げ回るのはやめなさい」など、負けてもプロ棋士の強さを評価したものや、連盟や棋士に対して辛口の批判をしたものまで様々でした。

「次の電王戦では、プロ棋士が最大限に力を発揮できるような持ち時間に設定したり、コンピューターの性能の設定に制限を設けるべきです」という内容のコメントは、第2回電王戦の結果を受けたものです。しかし、私はその必要はないと思います。プロ棋士はどんな条件(コンピューターの設定)でも全力を尽くして戦うのが本分で、今回の持ち時間(各4時間)は通常のプロ棋戦とあまり変わらず決して少なくありません。

来年の第3回電王戦では、タイトル保持者などの最強の棋士が出るべきだという声があります。ただ「世紀の対決」という流れで、勝負にこだわることには違和感を覚えます。

そもそもコンピューター将棋の開発は、大学の研究者たちが40年ほど前に人工知能研究の一環として始めたものです。そして長年にわたる研究の成果によって、1秒間に何千万手もの膨大な手数を読む「量」だけでなく、正しい手を選択する「質」の面でも進化してきました。とくに電王戦第3局で『ツツカナ』が船江恒平五段に対して粘った末に逆転勝ちした将棋では、中終盤で攻められる前に柔らかく受けて指したのはじつに冷静で、まるで大山康晴十五世名人がコンピューターに乗り移っているように私は思えました。

とにかくプロ棋士がコンピューター将棋と対局することは、人工知能研究の発展に寄与する大きな意義があるのです。その一方で、コンピューターから学ぶ利点もあると思います。

写真・上は、電王戦第5局の三浦八段(下側の先手番)―『GPS将棋』(上側の後手番)戦で、後手が△7五歩▲同歩と突き捨てて△8四銀と進めた局面。相矢倉の定跡型のうえに、よくある攻めの手法です。しかし調べてみると、プロ棋戦では前例のない局面でした。それでいて無理攻めにはならず、後手の攻めが続きました。

近年のプロ将棋は序盤の研究を重要するあまり、公式戦で類似した戦型が数多く指されています。終盤の手前まで同じ棋譜が続く例もあります。そんな状況について、「また研究会将棋か…」と言って批判的な人もいます。それに比べると、電王戦でコンピューター将棋が用いた作戦は前記のように斬新で積極的でした。

今後の電王戦のあり方は、プロ棋士とコンピューター将棋が実戦で競い合うだけでなく、協調して将棋の無限の可能性を探求する関係が望ましいと思います。すでにチェスの世界では、一流選手がコンピューターと対戦したり共同研究して技術を磨いているそうです。

それにしても、第2回電王戦に対するメディアの関心はかなり高かったです。4月20日に行われた第5局でコンピューター将棋が勝ち越すと、NHKが夜7時のニュースで速報しました。翌日以降には、新聞の記事やテレビの情報番組などで大きく取り上げられました。

写真・下は、電王戦を主催するIT会社「ドワンゴ」が開いた東京・六本木のライブ会場「ニコファーレ」での第5局の大盤解説会。右から、解説者の屋敷伸之九段、司会の矢内理絵子女流四段。立合人を務めた私(右から3人目)も合間に訪れて出演し、対局の見所を語りました。会場には将棋ファンだけでなく、一般の若い人も来て満杯でした。

大盤解説会の模様は、ドワンゴ社の「ニコニコ生放送」で対局開始から終局まで生中継されました。その画面には、将棋の面白さ、棋士への応援、強いコンピューター将棋への驚嘆などを書いた試聴者のコメントがリアルタイムで次々と流れ、通常の将棋番組とは違う熱気がありました。ちなみに計5局の試聴者数は200万人、コメント数は270万に達したそうです(第5局では前者が50万人、後者が70万)。

電王戦を多数の視聴者が観戦したことで、新しい将棋ファンが掘り起こされた感じがします。新聞に載った広告に「その棋士は、犠牲者か、救世主か」という文言がありましたが、将棋連盟やコンピューター将棋の関係者にとっての救世主は、電王戦の主催者かもしれません。

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2013年4月23日 (火)

第2回電王戦はプロ棋士がコンピューター将棋に1勝3敗1分で負け越し

第2回電王戦はプロ棋士がコンピューター将棋に1勝3敗1分で負け越し

第2回電王戦はプロ棋士がコンピューター将棋に1勝3敗1分で負け越し

第2回電王戦が3月下旬から東京の将棋会館で行われ、5人のプロ棋士と5つのコンピューター将棋ソフトが団体戦の形式で対局しました(持ち時間は各4時間)。

第1局は阿部光瑠四段が「習甦」(しゅうそ)に順当に勝ちました。しかし第2局は佐藤慎一四段が「ponanza」(ポナンザ)に敗れ、コンピューター将棋が公式の場でプロ棋士に初めて勝った歴史的な対局となりました。第3局も船江恒平五段が「ツツカナ」に逆転負けを喫しました。第4局は塚田泰明九段が「Puella α」(プエラアルファ)に対して敗勢でしたが、持将棋(双方の玉が敵陣に入って詰まない状態)で引き分けとなりました。この結果、プロ棋士側は1勝2敗1分となり、勝ち越すことができませんでした。

4月20日に行われた第5局は、前期のA級順位戦で名人戦挑戦者となった羽生善治三冠に唯一の黒星をつけた三浦弘行八段と、昨年の世界コンピュータ将棋選手権で優勝した「GPS将棋」が対局しました。まさに「大将戦」といえる好カードでした。

「GPS将棋」は東京大学の研究者たちによって開発されました。三浦八段との対局では、東京・駒場の校舎の施設で679台ものマシーンを連結させるという最強のバージョンで臨みました。なおGPSは「ゲーム・プログラミング・セミナー」の略称で、自動車のナビゲーターなどのGPS(全世界的測位システム)とは違います。

写真・上は、東大の施設に設置されたマシーンの光景。数多くの機器がずらりと並んでじつに壮観ですが、これは全体のシステムの一部です。

写真・下は、電王戦第5局の対局開始光景。右は三浦八段、左は「GPS将棋」開発者で東大で広域科学を専攻する准教授の金子知適(かねこ・ともゆき)さん。私(中央)は本局で立合人を務めました。※2点の写真は、ある方が撮影したものです。

三浦八段の先手番で始まった将棋は、相矢倉の定跡型に進みました。前期のA級順位戦で羽生三冠に勝った得意戦法のひとつです。

金子さんの話によると、「GPS将棋」は変わった序盤作戦が好きで、やや無理攻めをする傾向があるそうです。三浦戦ではとくに作戦は決めなかったそうです。

それにしても、数百台ものマシーンが連結して将棋の手を読むというのは想像がつきません。かえって混乱するのではないかと、私は気になったものです。

金子さんの話によると、679台のマシーンのうち、675台が「読み」を担当して有力手のA・Bなどを分担して考え、3台が「詰み」を担当します。そしてメイン・マシーンの1台が全体を統括する「司令塔」として指し手を決めます。このシステムでは、1秒間に何と2億8000万手を読むそうです。

その手数は、気が遠くなるような天文学的な数字です。しかしプロ棋士には、厳しい修業と勝負で鍛えた強さと経験があります。1日に10時間も研究して「孤高の勝負師」といわれるタイトル経験者の三浦八段が負けるとは、とても思えません。

後手番の「GPS将棋」は40手目に△7五歩と突いて仕掛け、▲同歩に△8四銀と進めました。よくある攻めの手法ですが、序盤作戦に詳しい勝又清和六段の話によると、その局面ではプロ棋戦で前例のない手順でした。一見して無理攻めに思えましたが、実戦では後手の攻めが続く展開になりました。

三浦八段は玉頭から盛り上がる指し方で、相手の攻めを押さえ込みにいきました。しかし「GPS将棋」の的確な攻めを浴びて、次第に窮地に追い込まれました。

そして「GPS将棋」が102手で勝利を収めたのです。敗れた三浦八段は感想戦で「どこが悪かったのか、よくわかりません…」と語りました。それはコンピューター将棋の底知れない強さを実感したものといえます。

金子さんの話によると、戦いが始まる中盤以降は4分55秒で指すように設定したそうです(59秒未満は切り捨てなので、実際の消費時間は4分)。新しい手法を用いた△7五歩から△8四銀の手も各4分でした(プロ棋士なら少なくとも30分は長考するところ)。じつは、難しい局面では7分55秒で指すことも設定したそうですが、32手目から終局した102手目までの指し手の消費時間はすべて3分か4分でした。つまり「GPS将棋」は三浦戦で、形勢が難しいと一度も認識しなかったのです…。

第2回電王戦は第5局でA級棋士の三浦八段も敗れ、プロ棋士が団体戦でコンピューター将棋ソフトに1勝3敗1分と負け越す結果となりました。

次回のブログも、コンピューター将棋をテーマにします。

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2013年4月12日 (金)

3年連続の対戦となった第71期名人戦(森内名人―羽生三冠) の第1局の前夜祭

3年連続の対戦となった第71<br />
 期名人戦(<br />
 森内名人―羽生三冠)<br />
 の第1局の前夜祭

3年連続の対戦となった第71<br />
 期名人戦(<br />
 森内名人―羽生三冠)<br />
 の第1局の前夜祭

第71期名人戦(森内俊之名人―羽生善治三冠)7番勝負第1局が4月9日・10日に、東京・目白の「椿山荘」で行われました。

写真・上は、第1局の前夜祭での壇上の光景。左から、羽生、森内、2人おいて将棋連盟会長の谷川浩司九段。

名人戦主催者の毎日新聞社、朝日新聞社の各社長が挨拶した後、連盟の谷川会長は「名人戦の舞台に登場する棋士は、将棋の神様に愛されたようなものです。私も20代の頃は愛されたものですが…」と苦笑しながら挨拶し、両対局者の健闘を期待しました。

写真・下は、乾杯の発声の前に祝辞を述べた、将棋愛好家で両対局者とも個人的に親しい俳優の渡辺徹さん。その話が面白いので、内容を要約してお伝えします。

「私は20年ほど前から将棋を愛好しています。ヘボはヘボなりに真剣に考えて指しますが、相手のことをそれほど考えるのは、日常生活でめったにありません。森内さんと羽生さんは名人戦で3年連続で対戦し、1局ごとに2日間も相手のことを考えていますが、それって恋愛しているようなものですよ。もしかすると、オフには2人でディズニーランドに行っているんじゃないですか(場内が大爆笑)。先ほど一緒に歩いて登場したときは、まるで新郎新婦のようでした」

「森内さんと羽生さんとは、個人的に親しくさせてもらっています。森内さんとお酒を飲んだとき、私が口にした行き先の店の電話番号をつい忘れてしまうと、森内さんがすらすらと番号を言ったので、棋士の方の記憶力の良さに改めて感心しました。17年前にテレビ番組のペア将棋の企画で、当時《七冠》の羽生さんと《百貫》デブの私が組んだのですが、私がへまをして負けてしまいました。ところで最近、羽生さんと連絡がつきにくいんです。もしかすると、私の名前が渡辺明竜王と同じなので、好きになれないんですかね…(場内が大爆笑)」

森内と羽生の名人戦での対戦は、3年連続・通算8回となりました。これは大山康晴(十五世名人)と升田幸三(実力制第四代名人)の対戦数(9回)に次ぐ記録です。森内と羽生はどちらが勝っても、ともに通算8回目の名人獲得となります。

両対局者は主催紙の事前のインタビューに対して、次のように語りました。

森内「たくさんの手を読むことができた20代の頃と違い、今は感覚を重視しています。9時間という持ち時間を生かし、目先の手に飛びつかず、しっかりと考えて戦いたいです」

羽生「40代になり、今まで積み重ねてきたことをどう生かすかと考えるようになりました。勝負すべき局面、我慢すべき局面で、正しい判断ができるかどうかが課題です」

第1局は振り駒で羽生が先手番となり、羽生は相がかりの戦型を採りました。1日目ではじっくりとした駒組手順が続きました。2日目の中盤では意表をつく手がともに応酬され、対局者の構想や狙いが指し手に反映されました。

最近は、5人の棋士と5つのコンピューターが勝負を争う「電王戦」の話題が社会的にも注目されています。しかし名人戦で最高峰の棋士たちが人知を尽くして戦う様は、やはりそれ以上に見ごたえがあります。

第1局は力のこもった攻防が展開されて大熱戦となりましたが、森内が羽生の攻めを冷静に受け止めながら機を見て反撃して有利となり、終盤では一手勝ちをきっちり読み切って勝ちました。

名人戦7番勝負は開幕したばかりですが、後手番の森内が初戦で勝ったのは大きいと思います。ちなみに過去2年の名人戦での先手番の成績は、2011年は〇●〇〇●〇〇(5勝2敗)、2012年は〇〇〇〇〇●(5勝1敗)と、先手番のほうが高い勝率を収めています。

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2013年4月 5日 (金)

田丸昇は2013年4月1日付で九段に昇段しました

私は4月2日の夜、《HAPPY》さんと《オヤジ》さんから寄せられた「九段昇段、おめでとうございます」という内容のコメントを見て、いったい何だろうと頭が混乱しました。1日遅れの「エープリルフール」かと思いました。

しかし将棋連盟のホームページで発表されたというので、「お知らせ」欄の「2013年4月1日付昇級・昇段者」(4月2日)をクリックすると、私がフリークラス規定によって九段に昇段したことが確かに載っていました。順位戦で昇級、ほかの棋戦で優秀な実績、通算勝利数などの規定で昇段した場合、その棋士の名前が「お知らせ」欄に載るのが通常です。今年の4月1日付の昇段者は私を含めて7人いたせいなのか、個人名は載りませんでした。

そんなわけで、私はこのブログのコメントを見るまで、自分が九段に昇段したことを知りませんでした。連盟から事前の通知もなかったのです。

私は順位戦で昇級を重ね、それぞれ同時に五段・六段・七段と昇段してきました。1991年(平成3年)4月16日には、七段昇段後に通算190勝の成績を挙げ、規定によって八段に昇段しました。そして翌年3月に順位戦でA級に昇級すると、92年4月の免状授与式では晴れてA級棋士として八段免状を受け取ったのです。

八段から九段への昇段は、タイトル獲得(竜王2期、名人1期、ほかのタイトル3期)、八段昇段後に通算250勝などの規定があります。

私は90年代半ば以降、年間勝利数が2ケタの10勝に届かず、通算250勝は遠い目標となっていました。3年後の2016年には引退を控えています。現役期間中の九段昇段は実現しないものと思っていました。

ところが、フリークラス棋士を対象とした別の昇段規定があったのです。連盟の担当者の説明によると、九段昇段の場合は八段昇段から「20年以上」が要件とのこと。ただし、単なる年数の経過では昇段できません。

私は、八段に昇段した1991年からフリークラスに転出した2009年(平成21年)までの18年間に通算157勝しました。その勝利数を160勝と切り上げ、「年間勝利数が平均10勝」という既定の基準によって「16年分」と換算します。そして09年4月から13年3月までの「4年分」を加えると、今年の4月で「20年以上」という九段昇段の要件を満たしたというわけです。

やや複雑な昇段制度ですが、「実績」と「年数」を組み合わせたものです。私は該当者になって初めて知りました。私は八段昇段から22年後に九段に昇段しました。つまりフリークラス転出時点で、八段昇段後の勝利数が私の157勝よりもっと多ければ20年後には九段に昇段し、もっと少なければ22年以上かかるのです。

棋士の段位は九段が最高位です。十段はタイトルの名称で、十段戦(竜王戦の前身棋戦)で活躍したごく少数の棋士が名乗りました。現在、九段の現役棋士は、3人のタイトル保持者を含めて29人います。私以外の九段の棋士は、タイトル獲得、通算250勝などの規定で昇段しました。私は少しばかり決まりが悪い思いですが、今後は九段にふさわしい将棋を指すように心がけ、盤外では自分らしい生き方をしていくつもりです。

なお、八段と九段の待遇面の違いはそれほどありません。竜王戦では段位が対局料に反映されて少し増額しますが、ほかの棋戦の対局料は順位戦のクラスが基準になっています。

私は思いも寄らず九段に昇段したので、今はその実感がありません。これまでは酒場などで将棋界のことを知らない人に段位を聞かれると、九段の下の八段という意味で「九段下」(日本武道館が近くにある東京の地下鉄の駅名)と冗談で答えたりしました。今後はどんな言葉にしようかと思案中です。

最後になりましたが、このブログのコメントで私の九段昇段をお祝いしてくれた方々に厚く御礼を申し上げます。

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2013年2月 6日 (水)

公式戦の記録係が不足する問題へのコメントとその後の状況について

昨年7月のブログ(7月16日・23日・29日)で、公式戦の記録係が不足する現状について書いたところ、多くの方から提言や感想などが寄せられ、私は関心の高さに驚いたものです。まだ紹介していないコメントを元に、その後の状況についてお伝えします。

「記録係不足の主な原因として、記録係の待遇が現代の社会が許容しないものであると思います」というコメント(7月30日)で、労働基準法の観点から記録料の改善を求めたのは《Bitty》さん。

タイトル戦以外で持ち時間が最も長い順位戦(各6時間)の対局の場合、記録料は段位者が10000円、級位者が9000円です。通常のアルバイト日給なら決して安くありませんが、終局が深夜になると労働時間は15時間(休憩時間を含む)に達し、確かに労働基準法に抵触しそうです。そこで夜の12時を過ぎたら割増料金を払うことも一策です。ただ記録係不足の根本的な問題は、記録料の問題ではないと思います。

「深夜にまで及ぶ対局の記録係を未成年の奨励会員が務めるのは過酷だと思います。せめて始発まで仮眠をとる場所を提供してほしいです」というコメント(7月28日)は《ナデパパ》さん。

記録料の問題よりも、未成年の奨励会員が深夜まで記録係を務める問題のほうが重大です。その奨励会員の体に何か異変が生じた場合、将棋連盟は管理責任を問われかねません(そういう事例は過去にありませんが…)。かといって順位戦の一斉対局で、未成年以外の奨励会員をすべて確保するのは現実的に難しいです。なお終局が深夜になった場合、空いた対局室を記録係の仮眠用の部屋に充てています。終電で帰宅できそうな時刻でも、未成年は宿泊させています。深夜に外にいると、警官に補導される可能性があるからです。また終局後の検討が長引いて帰宅が遅くならないように、遅い時刻での感想戦の見学は記録係の任意とし、記録係が先に帰宅した場合は対局者が盤駒の後片付けを行う決まりになっています。

「記録係を数人程度、契約社員のような形で雇ったらいかがでしょうか」というコメント(7月30日)は《ただの将棋好き》さん。

じつは昨年12月から、大学の将棋部員の人たちに記録係を依頼しています。記録係の仕事を説明するDVDや書面を学生に渡し、実際の対局で研修(午前中の2時間に記録係と同席)してから、持ち時間が少ない女流棋戦の対局で記録係を単独で務めています。今のところ、学生たちは記録係をそつなく務めて問題はとくにありません。ただ正座を続けるのは、慣れていないので大変なようです。

「棋士自身が記録係を務めることです」というコメント(7月30日)は《やまの》さん。

記録係がどうしても足りない場合は、若手棋士に依頼することになりました。2月1日のA級順位戦の対局では、長岡裕也五段が8年ぶりに記録係を務めました。

「将棋仕様の持ち時間管理・記録機能を備えた対局時計と、盤面録画システムを組み合わせれば、持ち時間の長い対局で記録係の負担を軽くすることができます」というコメント(7月30日)は《オヤジ》さん。

パソコンやカメラなどの機器を使って棋譜を自動入力させる方法は、ほかの方からも様々な案が寄せられました。ただ初期投資の金額、盤面録画で対局者の頭がかぶってしまう、秒読みの手立てなど、現実的な問題があります。じつは連盟のIT関係の部署では、記録係が通常どおりに棋譜を記入しながら、タブレット型の通信機器に棋譜を入力する方法を研究しているようです。自動的に棋譜と持ち時間を入力できます。それらをサーバーで管理すれば、順位戦の一斉対局で全局をリアルタイムで観戦でき、連盟が行っている棋譜データベースの入力作業も効率化できます。金額も1台あたり30000円程度ですみます。この方法はまだ研究段階ですが、早ければ今年6月頃から試験的に実施する方向とのことです。

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2012年10月29日 (月)

タイトル保持者、A級棋士と同室になった永瀬拓也五段との対局

タイトル保持者、A級棋士と同室になった永瀬拓也五段との対局

タイトル保持者、A級棋士と同室になった永瀬拓也五段との対局

【追記・11月19日】
このブログで1ヵ月ぶりに更新したのに、
また1ヵ月近くも滞ってしまいました。
じつは以前にも伝えましたが、
夏の頃から書籍の執筆にずっと取り組んでいて、
そのためにブログの執筆を休んでいました。
それがようやくめどがつきました。
なるべく早い時期にブログを再開したいと思っています。

その書籍の内容は、
1960年代に無敵の大山康晴名人に敢然と立ち向かった、
山田道美九段の評伝です。
その波乱万丈な棋士人生を覚えている方もいるでしょう。
現代の研究システムの先駆者でもあります。
山田九段の評伝は12月中旬に将棋連盟から刊行される予定です。
また詳しいことは、このブログでお伝えします。
まずは近況をお知らせします。(田丸)

【ブログ】
私のような順位戦に参加しないフリークラス棋士は、予選で1回戦負けが続くと対局が2ヶ月ぐらいないことはよくあります。

10月19日の対局も1ヶ月ぶりでした。将棋会館の大広間の対局室に入ると、いつもと違って関係者が多いのに驚きました。

奥の「高雄」の間では渡辺明竜王―中川大輔八段(棋王戦)、真ん中の「棋峰」の間では深浦康市九段―橋本崇載八段(A級順位戦)、田丸昇八段―永瀬拓也五段(王座戦)、手前の「雲鶴」の間では羽生善治三冠―屋敷伸之九段(A級順位戦)が行われました。

2局のA級順位戦と棋王戦にはいずれも観戦記者がつき、毎日・朝日が共催するA級順位戦は記録係を挟んで2人の観戦記者が並んでいました。その3局は「モバイル中継」もされ、関係者が対局光景を撮影していました。

私の対戦相手の永瀬五段は新人王戦と加古川青流戦の決勝に進出し、本局までに8連勝している若手の俊英です。ただ1次予選の田丸―永瀬戦に観戦記者はつきませんでした。

じつは当日、リコー杯女流王座戦(加藤桃子女流王座―本田小百合女流三段)五番勝負第1局が特別対局室で行われました。当初は10月20日に中国・上海で対局される予定でしたが、日本と中国の関係が尖閣諸島問題でこじれた余波によって中止となり、19日に東京の将棋会館に変更となりました。通常は特別対局室で行われる渡辺竜王やA級棋士の対局も、そんな事情によって大広間に移されたのです。

渡辺竜王、羽生三冠のタイトル保持者、深浦九段、屋敷九段、橋本八段のA級棋士と対局で同室することになった私は、最高峰の棋士たちの対局をたまに観戦しながら、ばりばりの若手の永瀬五段と対局する機会を得たのです。

昔の棋士はまだ序盤の午前中には、よく雑談をしたものです。しかし現代の棋士(とくに一流棋士や若手棋士)はいっさい口をききません。あまり中座もせず、黙々と盤に向かいます。対局室は午前10時の開始から、水を打ったような静寂さに包まれていました。私もそれにつられて張り詰めた気持ちになりました。

写真・上は、田丸―永瀬戦の序盤戦。下側が先手の田丸、上側が後手の永瀬。私が37分の長考で▲6六歩と突いた局面です。

永瀬の角交換型の向かい飛車に対して、私は7筋の位を取って相手の玉頭に圧力をかけ、2筋の攻めを牽制しました。写真の局面では、7筋から反発する△6三金(または△6三銀)を予想していました。

実戦は写真の局面から、△2四歩▲同歩△同銀▲5五角△3三角▲6四角△4四角▲3六歩△2六歩と進みました。

私は▲5五角の反撃があるので、△2四歩は指しにくいと思っていました。実際に▲5五角から▲6四角で歩得し、▲7四歩の攻めが生じました。しかし永瀬に△4四角から△2六歩で飛車を押さえられると、どうにも動きにくい状況となりました。▲7四歩は△6三金▲7三歩成△同銀と応じられて、意外と攻めが続きません。その後、私の攻めは不発となり、永瀬が反撃に転じるとたちまち不利な形勢に陥りました。

本局は持ち時間が5時間。私はタイトル保持者やA級棋士と少しでも長く同室したいと思っていたのですが、夕方の5時すぎに終局となりました。

写真・下は、対局の部屋割りを表示したボード。右から3番目に田丸―永瀬の名札がかかっています。永瀬の名札が少し上がっているのは勝利者の意味です。

ブログの掲載が1ヶ月も中断しました。今後は週1回のペースで更新していきます。

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2012年8月16日 (木)

森内俊之名人の就位式と元プロテニス選手の杉山愛さんとの対談記事

森内俊之名人の就位式と元プロテニス選手の杉山愛さんとの対談記事

森内俊之名人の就位式と元プロテニス選手の杉山愛さんとの対談記事

今年の第70期名人戦(森内俊之名人―羽生善治二冠)7番勝負は、森内が4勝2敗で羽生を下し、2期連続・通算7期目の名人位に就きました。

その森内名人の就位式が7月26日に東京・目白の「椿山荘」で開かれました。席上で将棋連盟会長の米長邦雄永世棋聖は「名人400年の節目を迎えた今期の名人戦は、大熱戦が繰り広げられてとても盛り上がりました」と挨拶しました。

写真・上は、謝辞を述べた森内名人。「名人戦が開幕する前は、両対局者の成績があまりにも違いすぎて、周囲の方々にご心配をかけました。しかし勝負はやってみなくてはわからず、意外性があるものです。名人400年の節目の年に名人位をお預かりすることになりましたので、職責をしっかり果たしたいです」と語りました。

名人戦が開幕する前の森内と羽生の成績の違いを説明しますと、羽生が前期のA級順位戦で9戦全勝して挑戦権を得たのに対して、森内は昨年10月から今年1月まで何と11連敗もしました。しかし、そうしたデータはあまり当てになりません。ある意味では、森内は名人戦の季節に合わせて、連敗の谷間から復調したといえます。

昨年の名人就位式では名人戦の協賛社から森内に、本人の希望による「暖炉型ストーブ」が贈られました。夏の時期に不似合いに思えましたが、春から始まる名人戦に備えて防寒対策をしっかりするという「深い読み」があったようです。今年は同じく本人の希望で、ブルゴーニュ産の赤ワイン、カリフォルニア産の白ワインが贈られました。当分はめでたい「紅白のワイン」を飲んで、くつろぎたい気分なのでしょう。

写真・下は、7月18日の毎日新聞に掲載された、森内名人と元プロテニスプレーヤーの杉山愛さんとの対談記事です。

将棋とテニスには、共通点がいくつかあります。1手・1打ずつ交互に指したり打ったりする。先手・後手のように、サーブ・レシーブがある。序盤・中盤・終盤のように、勝負が3セット(男子プロは5セット)に分かれる、などです。

森内名人と杉山さんの対談は、同じ勝負の世界にいる者として共有する認識が多くあり、話が弾んだようです。杉山さんが「私にとって最も勝ちたいタイトルはウィンブルドン(全英オープン)でした」と選手時代の思い出を語ると、司会者が「それに当たる名人戦では最近、森内さんが優勢ですね」と振り、森内が「テニスでいえば特定のコートでは強いということでしょうか」と苦笑しながら語る一幕もありました。

「テニスは若いころ、少しやりました」(森内)「ジュニア時代にミニ将棋盤を持って海外遠征したという話をしたら、棋士の方と対談をさせていただく機会がありました」(杉山)という会話もありました。

じつはテニス歴30年以上の私は、それらの話にいずれも関わっています。

私は以前に将棋連盟のテニス同好会で、当時18歳の森内と打ち合いました。森内は初心者だったので下手でしたが、ボールを懸命に追いかけた光景が印象に残っています。

14年前の「将棋世界」誌には、羽生四冠(当時)と杉山さんの対談記事が掲載されました。その対談を企画したのが私でした。それ以前に、杉山さんが将棋に関心があると聞いて取材したり、羽生の対局を観戦したい杉山さんを将棋会館に案内したことがあったのです。杉山さんは対局室で、ほどよい緊張感に魅せられたのか30分も観戦していました。

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2012年8月 3日 (金)

「田丸一門会」を開いて引退した弟子の櫛田陽一六段の再出発を激励

「田丸一門会」を開いて引退した弟子の櫛田陽一六段の再出発を激励

「田丸一門会」を開いて引退した弟子の櫛田陽一六段の再出発を激励

7月下旬に「田丸一門会」を久しぶりに開き、6月下旬に47歳で引退が確定した私の弟子の櫛田陽一六段の再出発をみんなで激励しました。

写真・上は、師匠の私こと田丸昇八段(左から2人目)、1番弟子の櫛田六段(同3人目)、2番弟子の井出隼平三段(右端)、3番弟子の近藤祐大4級(左端)。

そのほかに、弟子たちに勉強の場を与えてくれる「将棋サロン荻窪」席主の新井敏男さん、同サロン師範の谷川治恵女流五段、井出、近藤の親たちが出席しました。

私は「櫛田とふとした縁で知り合ったのは30年前。当時17歳の櫛田はアマ棋界で大活躍していて、風雲児のような存在でした。ただ進学も就職もしないので、私は将来を心配しました。そこで奨励会受験を強く勧めたのです。櫛田は当初、頑なに拒否しましたが、やがて私の説得に折れ、奨励会に1級で入会しました。そして3年4ヵ月で四段に昇段しました。櫛田は25年あまりの現役期間に、NHK杯戦優勝、朝日棋戦で準優勝と素晴らしい実績を挙げましたが、私は櫛田が棋士として好きな将棋の道を歩めたことだけで十分に満足しています。今後は、将棋の普及面で精力的に活動してほしいです。だから今回は慰労会ではなく、新たな人生への激励会です」と挨拶しました。

弟子の井出、近藤とその親たちは、櫛田の厳しい指導で実力がついたことを感謝しました。新井さんは「たまに将棋サロンに来て、奨励会員たちに教えてあげてください」と語りました。谷川女流五段は「櫛田さんは人柄がとてもいいです」と称賛しました。

最後に櫛田は「引退となったことに悔いはありません。ただ自分の四間飛車をだれかに伝えたい、という思いはあります」と挨拶しました。中飛車や角交換振り飛車が主流になっている現代で、櫛田の「世紀末四間飛車」は今や数少ない正統派の振り飛車といえます。

今週発売の『週刊現代』(8月11日号)では、米長邦雄永世棋聖が連載している「名勝負今昔物語」で櫛田の将棋人生を紹介しています。米長は「研究熱心な将棋の虫の反面、遊び人でもある」と櫛田を評し、「人生を振り返ってみて、将棋に打ち込んだ10代も楽しく、酒・ギャンブルなどをほどほどに楽しんだ30代前半までも後悔していないということだった」と結びました。

写真・下は、櫛田の現役最後の対局となった竜王戦・佐藤慎一四段戦の中盤の局面。佐藤(下側)の▲4五桂に対して、櫛田(上側)は△5一角と引きましたが、△4二角と引くべきでした。実戦は佐藤に▲6五歩と突かれ、櫛田が苦しくなりました。△同歩は▲6四歩△同金▲5三桂成で後手不利(4二角型なら△5三同角と取れる)。

じつは櫛田は佐藤戦で、自分が以前に研究した手をすっかり忘れていたのです。対局の翌日に自分の研究ノートを見ると、写真・下と同一局面があり、「△4二角は最善、△5一角は不可」 と書いてありました。櫛田はそれを確認すると、引退が確定した現実に対して気持ちの整理がついたとのことです。

『週刊現代』の米長永世棋聖の連載では毎回、いろいろな棋士を紹介しています。そして櫛田の次は、私が登場するそうです。その話は、次回のテーマとします。

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2012年7月29日 (日)

公式戦での記録係不足問題のコメントについて

公式戦の対局の記録係が不足している問題に関して、現状への意見や対策を述べられたコメントが数多く寄せられました。それにしても反響の大きさに驚いています。

「土日・祝日の対局を増やせば、義務教育中の奨励会員が大切な勉強の場である記録係を務められると思います」という内容のコメント(7月16日)は《関東のホークスファン》さん。

将棋連盟が立ち上げた「奨励会制度委員会」でも同じ案が出ました。ただ将棋会館では、土日・祝日に奨励会の例会(月2回)や様々な将棋会が行われていて、対局室の確保が難しい状況です。せいぜい1日に2~3局が限度だと思います。

「記録係がつかない対局で勝者が棋譜を書いて提出する場合、棋譜には指し手ごとの消費時間が記入されません。それは、あまり重要視されないのでしょうか」という内容のコメント(7月18日)は《通行人》さん。

新聞の観戦記には1手ごとの消費時間が掲載され、読者はその長短で対局者の考えや戦いの経過を推し量ります。それは対局を鑑賞するうえでのキーポイントです。ただ持ち時間の少ない対局では、チェスクロック使用が多いです。その場合、記録係は棋譜用紙に1手ごとの消費時間を記入せず、5手ごとに通算時間を記入します。記録係がつかない対局では、それはもちろん不可能です。

「昔は奨励会員とプロ棋士の間にははっきり実力差があり、勉強の場にもなったでしょうが、今となってはアルバイトのようなものでしょうね」というコメント(7月19日)は《ネブラスカ》さん。

昔の奨励会員には、記録係は大切な勉強の場という認識がありました。私も棋譜を書きながら、対局者になったつもりで読み、局後には対局者の感想をメモに残しました。今の記録係を見ていると、正座を崩さずきちんとした態度ですが、勉強というよりも義務として務めている感じがします。中にはアルバイト感覚で、持ち時間が少ない対局を数多くこなす奨励会員もいるようです。まあ、そういう時代なのです。

「奨励会の有段者にもなれば、フリークラス棋士や下位棋士より強いでしょうから、彼らの記録係を務めるより、棋譜並べ・詰将棋・研究会などに時間を費やしたいと考えるのは当然だと思います」というコメント(7月22日)は《堺市民》さん。

じつに辛辣な内容のコメントですね。私自身が思い当たるものがあり、実際にそう思っている奨励会員はいるかもしれません。ただ奨励会では、効率的な研究方法だけで四段になれるわけではありません。何事も修業という謙虚な心構えも大事だと思います。なお奨励会の幹事の話によると、四段昇段候補の三段、年齢制限が迫っている奨励会員には、心情的に記録係を頼みにくいとのことでした。

「順位戦の持ち時間6時間は短縮してほしいです。どう頑張ってもリアルタイムで観戦できません」というコメント(同日)は《堺市民》さん。

確かに順位戦の対局では、大詰めの終盤の局面は深夜になります。ネット中継を見るほうも大変です。ただ順位戦の成績は昇進や棋士生命に大きく影響するので、持ち時間の短縮を訴える棋士は少ないです。前記の委員会では、ある若手棋士が、現行のストップウォッチ(60秒未満は切り捨て)使用ではなく、チェスクロック(切り捨てはなし)使用にすべきと主張しました。これは検討していい案だと思います。

「対局開始を9時にすれば、終電などの問題も軽減するのではないでしょうか」というコメント(7月23日)は《しゃーふ》さん。

これも委員会で出た案です。しかし10時開始は長年の制度のうえに、多くの会社、役所が9時始業としていて、交通機関が最も混雑する時間帯に出かけることになるので、反対する棋士が多いでしょう。休憩時間の短縮(現行は昼食・夕食ともに50分)の案も出ましたが、実効のほどはあまりないと思います。

そのほかに《鉄拐》さん、《psychs》さん、《べっけんばうあー》さん、《popoo》さん、《ネブラスカ》さん、《オヤジ》さんから、パソコンとカメラなどを使って棋譜を自動入力させる案が寄せられました。それらの貴重な提言については、改めてブログのテーマとします。

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2012年7月28日 (土)

7月16日のブログ「公式戦の記録係の要員が不足している状況で提案された今後の対策」の再掲載

7月16日に掲載したブログ「公式戦の記録係の要員が不足している状況で提案された今後の対策」の本文とコメントが、パソコンの不調と私の操作ミスによって消えてしまいました。その本文を再掲載します。コメントについては、《やまの》さんから送られた情報によって、おおむね復元できました。詳しい内容は《やまの》さんのコメントからアクセスして確認してください。

このたびの私の不手際をお詫びするとともに、《やまの》さんをはじめ、みなさまのバックアップとご理解に感謝いたします。ありがとうございました。

【7月16日のブログ本文】
今年6月の将棋連盟・通常総会で、奨励会幹事の真田圭一七段が「公式戦の記録係を確保することがぎりぎりの状況です」と訴え、棋士たちに今後の対策について相談しました。

公式戦の年間対局数は約2500局(女流棋戦も含む)。この数字は棋士の増加にともない年々、少しずつ増えています。すべての対局には記録係がつきます。それらの棋譜はデータベースに整理・保存され、研究資料として役立っています。

公式戦の記録係は主に奨励会員が務め、女流棋士や研修会員も務めます。近年、その記録係の要員が不足しているそうです。奨励会員の人数は東西を合わせて約140人。そのうち10代は約70人で、半数が記録係を免除される義務教育中の中学生です。残りの半数は高校・大学に通学していて、試験や単位獲得のために平日を休めないことがあります。

つまり約140人の奨励会員の中で、実際に記録係を務められるのは約50人と決して多くありません。とくに同日に一斉対局されるB級1組以下の順位戦では、局数が多いうえに持ち時間が長いことから希望者が少ないのが実情です。そんな状況において、ある女性研修会員は月平均で10局も記録係を務めています。しかし研修会員は、奨励会員と違って記録係は義務ではないので、ずっと頼りにするわけにもいきません。

奨励会の真田幹事は、①奨励会員以外の記録係を認める、②持ち時間の少ない対局は記録係をつけない、という今後の対策を提案しました。①は、講習を受けた普及指導員・大学将棋部の学生、指導棋士、有志の若手棋士などに記録係を依頼する案です。②は、棋聖戦、朝日杯オープン戦、NHK杯戦、銀河戦などの予選では、対局者本人が対局時計を押し、勝者が棋譜を書いて提出する案です。

このブログの読者の中で、公式戦の対局を眼前に見て勉強しながら記録料を得られる記録係を務めたい方はいますか? とても魅力的な仕事と思う方もいるでしょう。しかし現実には、朝10時に始まった対局が深夜に及ぶこともあり、ハードで責任感が求められる役目です。なお記録料は持ち時間によって違い、だいたい1局につき6000~8000円です。タイトル戦の記録料は別に定められています。

記録係のいない対局では、何かトラブルが生じた場合が問題になります。先日の銀河戦の予選(持ち時間25分・秒読み30秒)の対局で、秒読みで記録係に「9」と呼ばれた直後に遅れ気味に指したある棋士が、自ら記録係に「時間が過ぎていた?」と確認したところ、記録係がうなづいたので、その棋士は潔く「時間切れ負け」を認めました。その例のように、記録係は時として「審判員」を兼ねることもあります。

約15年前にある棋戦の予選では、記録係がつかない方式が試験的に導入されました。その当時、とくにトラブルはありませんでした。20代の若手棋士だった先崎学八段は、対局時計を使った経験がない対局相手の70代のベテラン棋士に配慮し、自分で相手の時計のボタンを押してあげたそうです(押さないと相手の持ち時間だけが減る)。

日本棋院(囲碁棋士の団体)では、原則として新聞に掲載されない対局は記録係がつかないそうです。連盟も、すべての公式戦の対局に記録係をつけることは現実的に難しくなってきたと思います。義務教育中でなくても、未成年の少年が深夜に及ぶ長時間の対局の記録係を務めるのは、いろいろと問題がありそうです。記録係の体調が悪くなったりしたら、連盟は管理責任を問われかねません。

連盟が立ち上げた「奨励会制度委員会」のメンバーの私は、委員会で前記の②案の導入を求める考えです。

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2012年7月23日 (月)

公式戦の記録係が不足している現状へのコメントについての見解

前回のブログで、公式戦の対局の記録係が不足している現状を伝えました。これは将棋連盟の内部問題です。一般の将棋ファンの方は、あまり関心がないと思っていました。しかし意外にも多くのコメントが寄せられ、正直なところ驚きました。それらのコメントの中には、とても参考になる意見があり、将棋への熱い思いも感じました。

「プロの棋譜は宝物ですから、後世に受け継がれていくよう切に願います」というコメント(7月16日)は《関東のホークスファン》さん。「確実に棋譜を残すのは、将棋文化を守る公益社団法人たる連盟の一つの使命だろうと思います」というコメント(7月17日)は《オヤジさん》。

お二人のコメントは、まさにその通りだと思います。将棋文化を発展させるには、公式戦の棋譜の保全はとても大事です。

「奨励会員以外の記録係として、大学将棋部の学生が一番有望そうですね。在学した大学の将棋部に関わっていた棋士もいるので、そうした棋士の人脈を辿る道がありそうです」というコメントは《オヤジ》さん。

大学将棋部の学生に記録係を依頼するのは有力な案です。ただ《オヤジ》さんが心配したように、長時間の順位戦の記録係は現実的に大変です。あまりにもきつい仕事なので「一回やってこりごり」ということにもなりかねません。

「専門の記録係を雇えばいいと思います。特に元奨励会員の人たちに記録係を依頼すれば、第二の人生として将棋に関われるので、棋界にも彼らにとってもプラスでしょう」という内容のコメント(7月17日)は《太郎》さん。

これも有力な案です。ただ記録係を仕事にするには、その待遇が問題となります。前回のブログで、記録料は1局につき6000~8000円と記しましたが、正しくは5000~10000円(持ち時間によって違い、級位者は各1000円減)です。最高額の10000円は順位戦の記録料ですが、終局が深夜になった場合、宿泊代やタクシー代は支給されません。決して割りのいい仕事ではなく、体力的にも数をこなせません。

先日の「奨励会制度委員会」では、四段昇段1~2年後の若手棋士に記録係を依頼する案が有力でした。以前にも奨励会の例会日と公式戦の対局日が重なった場合、若手棋士が記録係を務めた例がありました。奨励会幹事の話によると、記録係不足になるのは、学生の奨励会員が受験や期末試験に取り組む1~3月、順位戦の一斉対局日とのことです。そのときに何人かの若手棋士が記録係を務めれば、何とか乗り越えられるそうです。

「順位戦の対局日は、同日ではなく、ずらせばいいと思います。有料のネット配信で棋譜をリアルタイム観戦している人も多いですが、1日に何局も重なると見ている方も大変です。仮に1日ずらせば、見ているほうは2日間を楽しめます。記録係の問題も少しは緩和できると思います」というコメント(7月19日)は《やまの》さん。

ネット配信の観戦や記録係不足の事情から、順位戦の対局日程をずらすのはひとつの案です。ただ現実問題として、対局日の振り分けはその基準が定めにくく難しいと思います。なお、私が公式戦の対局日程を決める連盟の「手合係」を務めていた約35年以上前は、順位戦の対局日程は現行のように事前に決まってなく(最終2局を除く)、手合係は両対局者の希望日を調整するのに苦労したものです。

公式戦の記録係不足の問題は、後日に改めてブログのテーマにします。

最後に、読者の方々にお詫びを申し上げます。7月16日のブログ「公式戦の記録係の要員が不足している状況で提案された今後の対策」の本文と、《関東のホークスファン》さん、《オヤジ》さん、《太郎》さん、《やまの》さん、《通行人》さん、《ネブラスカ》さん、《堺市民》さんなどの貴重なコメントが、私のパソコンの不調と不注意によって、このブログを執筆中に消えてしまいました。

本文は近く再掲載する予定ですが、前記のコメントを寄せた方で内容をまだ保存されているようでしたら、再送信していただくようにお願いします。

当方の不手際を改めてお詫びいたします。

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2012年7月10日 (火)

羽生が棋聖戦で防衛してタイトル獲得数が歴代1位の81期

棋聖戦(羽生善治棋聖―中村太地六段)5番勝負第3局が7月5日に行われ、羽生が勝って3連勝しました。羽生は連続5期・通算11期目の棋聖を獲得しました。

その結果、羽生のタイトル獲得数が81期に達し、大山康晴十五世名人の80期を超えて歴代1位となりました。3位からは中原誠十六世名人(64期)、谷川浩司九段(27期)、米長邦雄永世棋聖(19期)、佐藤康光王将(13期)、森内俊之名人(10期)、渡辺明竜王(9期)と続きます。

羽生は1989年(平成元年)の竜王戦で、島朗竜王を破ってタイトルを初めて獲得しました。それ以来、23年間に通算108回もタイトル戦に登場しました。タイトル獲得の勝率は0.750で、大山(0.714)よりも上回っています。

羽生は初タイトル獲得から現在まで、いつもタイトルを保持していたので名称が「段位」だったことはありません。ただ厳密にいうと、無冠の時期が約3ヶ月半ありました。羽生は90年11月27日に竜王戦第5局で、挑戦者の谷川王位に敗れて竜王位を失いました。その後、91年3月18日に棋王戦第4局で、保持者の南芳一棋王に勝って棋王位を奪いました。羽生は前者と後者の対局の間は、「前竜王」という名称でした。当時は竜王位を失った棋士は、その名称が1年間つきました(現在は原則としてありません)。

私はタイトル戦の立会人をたまに務めますが、2日間を盤側や控室で過ごしているだけでもけっこう疲れます。だから盤面に集中し続ける対局者の心身にわたる消耗は比べものになりません。しかも羽生は、そうした濃密な対局を長年にわたって数え切れないほど重ねているのです。精神も肉体も頑丈でなければ、とても勤まらないと思います。

2年前の名人戦(羽生名人―三浦弘行八段)のとき、両者には研究相手の棋士がいると聞きました。羽生の相手は長岡裕也五段、三浦は屋敷伸之九段でした。羽生は対局や様々な所用で忙しいのに、「VS」(1対1で将棋を指すこと)の時間はあるのかと不思議に思ったものです。しかも相手は、失礼ながらあまり実績がないC級2組の棋士です。

先日、長岡五段にその件で話を聞いたところ、羽生は今でも長岡とVSの練習将棋をしているそうです。長岡は「羽生さんでも研究しないと勝てない時代です。私は羽生さんと同じ八王子将棋クラブの出身で、羽生さんは先輩として気にかけてくれるのでしょう」と語りました。羽生は松尾歩七段、村山慈明六段らとも研究会を開いています。ちなみに1局の持ち時間は20分・60秒(秒読み)。

羽生が長年にわたってトップ棋士として走り続けているのは、恵まれた天分だけでなく、そうした不断の努力があったからでした。それは、ほかの一流棋士も同様だと思います。

ある新聞記事によると、渡辺竜王の日常生活は、朝8時から夕方5時まで研究し、夜も3時間ほど棋譜を並べたり詰将棋を解くそうです。そして渡辺は「研究しなくても将棋は指せますが、それでは楽な仕事になってしまいます。会社員の方の勤務時間ぐらい家で研究しないと申し訳ないです」と語りました。

先崎学八段は週刊誌の連載エッセイで、お酒を飲み続けた日々を反省しつつ、「将棋界は楽に生きようと思えば楽しいが、その代わり勝てないようにできている。そして勝負に負けるほど辛いこともない」と綴りました。

羽生の不断の努力。渡辺の日常生活。先崎の反省気味の本音。ほとんど研究しない私には、いずれも耳の痛い話でした。

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2012年7月 2日 (月)

田丸の弟子・櫛田陽一六段が6月29日の竜王戦の対局に敗れて引退が確定

竜王戦6組昇級者決定戦・櫛田陽一六段―佐藤慎一四段戦が6月29日に行われました。

私の弟子・櫛田六段は今年4月にフリークラス棋士規定によって引退となり、本局に敗れると予定の対局がすべて終了して引退が確定します。本局を含めて4連勝すれば5組に昇級できますが、「櫛田六段は順位戦から降級したわけではなく、宣言してフリークラスに行ったので、5組に昇級しても引退になると思います」という《えもん》さんのコメント(6月12日)のように、竜王戦の実績は棋士生命に反映されません。それでも私としては、櫛田が竜王戦で連勝して現役棋士を終えることを願っていました。

私は6月29日に将棋会館に行く用事があり、合間に櫛田の対局をそっと観戦しました。櫛田は得意戦法の四間飛車に振り、相手の居飛車穴熊に対して銀冠に組んで玉を固めました。実戦経験が豊富な戦型で、勝っても負けても悔いのない将棋となりました。そして熱戦の末に、佐藤四段が勝ちました。その結果、櫛田は25年あまりの現役棋士生活に終止符を打つことになりました。

62歳の師匠としては、47歳の弟子が先に引退することに複雑な思いがあります。しかし、制度上の結果であり、勝負の世界の常ともいえます。

2年前に九州への普及事業で初めて櫛田と一緒に旅行したとき、居酒屋で飲みながらしみじみと語り合いました。私が引退後の生活についてそれとなく聞いてみると、櫛田は「これから2年間は将棋に集中したいので、将来のことはあまり考えていません」と答えました。まあ「考えたくない」というのが本心だったかもしれません。

大山康晴十五世名人は20年前に69歳で亡くなる直前まで、A級棋士として活躍してきました。棋士生活が60年近い72歳の加藤一二三九段は、棋力があまり衰えないうえに心身ともに壮健で、この分では80歳以降も現役を続けられるかもしれません。しかし大山や加藤のようなケースは特別です。大方の棋士は50代~60代でたいがい引退します。

男性の平均寿命が80歳近い現代、棋士も引退後の生き方が大事だと思います。40代の櫛田がどんな生活設計を考えているのかわかりませんが、棋士の肩書は残るので普及面などで活動してほしいものです。4年後に引退する私も、今からいろいろと考えています。

「櫛田六段はアマ時代、全国支部対抗戦・個人戦の東西決戦で、うちの支部の原岡純一郎さんと対戦して勝ちました。私は強いアマがいると、初めて名前を覚えました。その後、プロ入りして、NHK杯戦で谷川浩司九段に『世紀末四間飛車』で負かして優勝した将棋は今でも鮮明に覚えています。解説は田丸八段、聞き手は永井英明さんでした。感想戦の田丸八段の興奮さめやらぬ様子もまた感動しました」という内容のコメント(6月23日)は《オンラインブログ検定》さん。

30年前の全国支部名人戦の東西決戦で、東地区優勝者の櫛田アマ(東京・個人支部)と西地区優勝者の原岡さん(岡山・川崎製鉄水島支部)が対戦しました。原岡さんの中飛車に櫛田の左美濃という戦型で、中盤では原岡さんが有利でしたが、櫛田が一瞬の隙をついて攻め込み、櫛田が勝って初優勝しました。その翌年に田丸門下で奨励会に1級で入りました。

櫛田は1993年(平成5年)にNHK杯戦2回戦で谷川王将に勝ちました。次の3回戦で田丸―櫛田の師弟戦の対局が実現したので、解説の私は驚きの様子を見せたのでしょう。なお櫛田が四段時代にNHK杯戦で優勝したのは90年で、決勝の相手は島朗前竜王でした。

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2012年6月11日 (月)

弟子の引退がかかる「運命の対局」となった田丸―櫛田の師弟戦は櫛田が勝利

弟子の引退がかかる「運命の対局」となった田丸ー櫛田の師弟戦は櫛田が勝利

竜王戦6組・昇級者決定戦2回戦で、師匠の私こと田丸昇八段と弟子の櫛田陽一六段との対局が6月5日に行われました。3局目の師弟戦である本局は、弟子の引退がかかる「運命の対局」となりました。

櫛田はフリークラス規定によって、今年4月に引退が内定しました。そして、ただひとつ勝ち残っている竜王戦で敗れると引退が確定します。その竜王戦で、抽選による偶然から私と対局することになったのです。

写真は、対局開始時の光景。振り駒の結果、田丸(右)が先手番となり、▲7六歩△3四歩から▲2六歩と指したところです。※写真提供・『週刊将棋』。

竜王戦の持ち時間は各5時間。思い起こしてみれば、師弟の私たちが何時間も盤を挟んで対座するのは初めてのことでした。過去の対局は1993年のNHK杯戦と2009年の銀河戦で、2局ともテレビ対局だったので1時間あまりで終局となりました(いずれも櫛田が勝ち)。私は最後の師弟戦において、共有する時間と空間を惜しむような気持ちで相対したいと思いました。

櫛田は四間飛車に振りました。現代の振り飛車は中飛車が主流ですが、櫛田はかつて一世を風靡した「世紀末四間飛車」を今でも指し続けています。

私は江戸時代からあった急戦型の古典定跡を用いました。奨励会時代は、その古典定跡を熱心に研究して実戦で試したものです。棋士になってからは指さなくなりましたが、8年前からたまに用いています。

運命の対局となった師弟戦は、ともに流行に背を向けたような戦型となりました。

私は櫛田との対局には、相手の大事なー戦こそ全力で戦えという「米長哲学」を実践し、私情を超えて全力で臨むつもりでした。しかし、結果的に弟子を引退に追い込むという思いも頭を掠め、どこかで迷いが生じたのは事実でした。指し手もそれが反映して一貫性を欠きました。そして中盤で櫛田の好手を見落とし、一気に敗勢となりました。

結果は100手で櫛田が勝利を収めました。私が投了したとき、櫛田は同時に頭を下げ、ほっとした表情を見せました。

私は不完全燃焼で敗れた悔しさと、これで良かったんだ、という思いが交錯しました。

来週発売の『週刊将棋』6月20日号では、私が不定期掲載している「丸の眼」の記事で、師匠の複雑な思い、櫛田との思い出、師弟戦の対局の模様などを書きます。よかったら読んでください。

櫛田は竜王戦で、次に佐藤慎一四段と対戦します。その対局を含めてあと4連勝すると、5組への昇級が決まります。そして既定の対局が終了し、引退が確定します。

通常は既定の対局に敗れて引退が確定するものです。連勝して引退した例はありません。師匠としては、櫛田にはそんな形で現役棋士を終えてほしいと願っています。

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2012年6月 3日 (日)

名人戦(森内名人―羽生二冠) 第5局は森内が勝って7期目の名人位まであと1勝

名人戦(森内名人ー羽生二冠)<br />
 第5局は森内が勝って7期目の名人位まであと1勝

第70期名人戦(森内俊之名人―羽生善治二冠)7番勝負第5局は、5月31日・6月1日に京都で行われました。そして森内が勝って3勝2敗と勝ち越し、2期連続・通算7期目の名人位まであと1勝としました。

今期名人戦は、第4局まで先手番の対局者が勝ちました。森内が先手番で勝った第1局の戦型は相矢倉、第3局は急戦調の矢倉でした。いずれも後手番で敗れた羽生は第5局で、今シリーズ初めての「横歩取り」に誘導しました。なお前期名人戦(羽生名人―森内九段)では、後手番の羽生が第1局・第5局・第7局で横歩取りを用いて第5局に勝ちました。

横歩取りの戦型には、先手・後手ともに様々な戦いのパターンがあります。今期名人戦第5局は、36手まで前期名人戦第5局、45手まで2年前の竜王戦(渡辺明竜王―羽生名人)第5局と、同じ手順が進みました。そして前者は森内、後者は羽生と、いずれも敗れた側が指し手を変えて、新たな局面となりました。

通常の横き取りは激しい戦いになりがちです。名人戦第5局では、羽生が5筋の位を取って押さえ込み、じっくりとした展開になりました。私見では、羽生のほうが指せるように思えました。しかし森内は自陣を整えてから機を見て攻め込むと、飛車を捨てる果断の一手で相手陣に襲いかかりました。羽生は入玉を含みに反撃しましたが、森内に的確に応じられて届きませんでした。終局の直前に羽生の指先が少し震えたそうです。通常は羽生が勝利を意識する特有の仕草です。しかし本局では、森内が115手で勝利を収める結果となりました。

写真は、ネット画面での終了局面。森内の▲3二竜が決め手でした。金を取る△3四歩は、▲2二銀△1二玉▲3一銀不成以下詰み。△2二金と受けても、▲同竜△同玉▲2三銀△1三玉▲1二銀成△同玉(△同香)▲2三金打で詰み。

終局直後の感想によると、森内は「最終盤はうまくいったが、その少し前はあまり自信がなかった」と語りました。勝者の感想はたいがい控えめなものですが、本局では本音だったと思います。一方の羽生は「封じ手のあたりで、よほど悪くしてしまったのかもしれない」と語りました。

私は、羽生の感想に驚きました。その封じ手の局面はまだ序盤で、私が「羽生のほうが指せる」と思った5筋の位を取る以前です。つまり森内の感想と重ね合わせると、両対局者は序盤から中盤にかけて、ともに形勢は良くないと思っていたということになります。ただ終局直後の感想は必ずしも本心ではなく、実際のところはわかりません。

それにしても森内の将棋は、力強いとともに冷静沈着で見事な内容でした。昨年から今年にかけて11連敗して、不調のどん底にいたとは思えません。

今期名人戦は、第5局まで先手番の対局者が勝ちました。その流れが続けば、次の第6局(6月12日・13日)は先手番の羽生が勝つことになります。私は4月16日のブログでも、「最終局までもつれ込む」と予想しました。そして第7局(6月26日・27日)を迎えれば、改めて「振り駒」をして先手・後手を決めます。気の早い話ですが、その結果が大いに注目されます。ちなみに前期名人戦第7局では、「と」が多く出て挑戦者の森内が先手番に決まりました。

今年は「名人400年」という節目を迎えました。その記念すべき年に行われている今期名人戦は、それにふさわしい熱戦とドラマが生まれることでしょう。

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2012年5月21日 (月)

6月に行われる竜王戦・田丸―櫛田の師弟戦は弟子の引退がかかる運命の対局

竜王戦6組・昇級者決定戦の2回戦で、私こと田丸昇八段と櫛田陽一六段の対局が6月5日に行われます。師匠の私と弟子の櫛田が対戦する「師弟戦」です。

勝負がつく世界において、師匠と弟子が個人戦の形で戦うのはきわめて稀なことで、将棋界のほかに囲碁界ぐらいだと思います。相撲界では引退してから師匠(親方)になるので、師弟戦の取組は絶対にありません。

過去の師弟戦で最たるケースは、大山康晴十五世名人と有吉道夫九段の対戦でした。両者はタイトル戦、A級順位戦などで、計68局も対戦しました(大山の40勝28敗)。中でも1969年(昭和44年)の名人戦では、師匠の大山名人に弟子の有吉八段が挑戦する名人戦の歴史で初めての師弟戦が実現しました。  

大山―有吉の名人戦7番勝負の前半では、両者が対局中でも雑談して師弟戦らしい和やかな雰囲気が漂っていたそうです。しかし第5局で有吉が勝って3勝2敗と勝ち越し、名人獲得まであと1勝に迫ると周囲の状況は一変しました。名人戦10連覇の大山が敗退すれば、「巨星堕つ」として社会的に関心を呼びます。第6局では通常は将棋関係者しかいない記者控室に、新聞・出版・放送などの一般の報道陣が詰めかけました。

結局、大山は第6局の角番をしのぐと、第7局も勝って名人位を死守したのです。局後に大山は角番での心境を「どうにでもなれやという気持ちでした」と語りました。逆の立場の有吉は「何か戸惑いを感じました」と語りました。いずれも正直な感想だと思います。

大舞台で数多く対戦した大山―有吉の師弟戦に比べると、田丸―櫛田の師弟戦はいたって地味なものです。しかし6月に行われる竜王戦は、弟子の櫛田の引退がかかる運命の対局となっています。

櫛田はフリークラス棋士規定によって、今年3月で引退が決まりました。ただ勝ち残っている棋戦には出場でき、その唯一の棋戦が竜王戦です。櫛田は私に勝てば3回戦に進み、負ければ引退となります。つまり結果によっては、師匠の私が弟子の櫛田を「介錯」することになりかねないのです。過去2局の田丸―櫛田の師弟戦(いずれも櫛田が勝ち)とは、勝負の重みと深刻さがまるで違います。

「相手の重要な一戦こそ全力で戦え」という言葉は、米長邦雄永世棋聖が現役時代に提唱するとともに自ら実践した《米長哲学》です。その精神は、今では多くの後輩棋士に浸透しています。順位戦の終盤で昇級・降級に関わる相手との対局で、情実が生じるようなことはありません。私も櫛田との対局では、私情を超えて全力で臨むつもりです。

62歳の田丸と47歳の櫛田は同じフリークラス棋士なのに、なぜ年下の櫛田が先に引退となるのか、疑問を持たれた方もいると思います。それはフリークラスに転出した時期が違うからです。原則として、転出から15年とプラスアルファ(個人差があります)、または65歳で引退となります。櫛田は30歳・棋士9年目の1995年(平成7年)にフリークラスに転出し、それから17年たった今年に規定によって引退となりました。田丸は58歳・棋士38年目の2009年(平成21年)にフリークラスに転出し、65歳となる2016年3月に引退となります。

前記の田丸と櫛田の比較でわかるように、順位戦にいかに長く在籍できるかが棋士生命に大きく影響します。ただ近年の状況を見ると、30代・40代でC級2組からフリークラスに転出、降級する棋士が少なくありません。厳しい三段リーグを勝ち抜いて四段に昇段して棋士になっても、その後もサバイバルレースは続くのが現状です。

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2012年4月16日 (月)

「名人400年」を記念した今年の名人戦(森内名人―羽生二冠) 第1局の前夜祭

「名人400年」を記念した今年の名人戦(<br />
 森内名人ー羽生二冠)<br />
 第1局の前夜祭

「名人400年」を記念した今年の名人戦(<br />
 森内名人ー羽生二冠)<br />
 第1局の前夜祭

江戸時代初期の慶長17年(1612年)。将軍・徳川家康が家元の棋士に扶持を与える「将棋所」を設け、初代・大橋宗桂が一世名人に就きました。今年は、その「名人400年」の節目を迎えました。

先週の4月10日・11日。第70期名人戦7番勝負(森内俊之名人―羽生善治二冠)第1局が東京・目白「椿山荘」で行われました。9日の前夜祭では「名人400年」を記念して華やかな趣向が凝らされました。

写真・上は、両対局者(中央の左が森内、右が羽生)が福島の「フラガール」に花束を贈られた光景。じつは名人戦第3局が福島県いわき市のハワイアンのリゾート施設で行われます。そんな縁でフラガールがお祝いに駆けつけ、優雅な踊りを壇上で披露しました。

写真・下は、名人を獲得した棋士たちが勢揃いした光景。左から、丸山忠久九段、谷川浩司九段、米長邦雄永世棋聖、森内名人、中原誠十六世名人、羽生二冠、加藤一二三九段、佐藤康光王将。歴代の名人を代表して中原が挨拶しました。中原は3年前に病気によって引退しましたが、当日ははっきりした口調で述べて元気な様子でした。

主催新聞社の社長の1人は両対局者の将棋について、「森内名人は広く深く根を張る大樹、羽生二冠は融通無碍に吹き抜ける風」という表現で紹介しました。それは、朝日新聞で第1局の観戦記を務める作家で将棋愛好家の海堂尊さんの文章を引用したものです。

将棋連盟会長の米長永世棋聖は「名人戦は伊勢神宮の式年遷宮のように、以前は主催者が何年かごとに変わりました。6年前に毎日新聞と朝日新聞の共催になりましたが、それは私と中原さん(当時理事)とで力を振り絞った大きな仕事でした。ところで、私たち棋士が今日あるのは、江戸時代に将棋界の基礎を作ってくれた徳川家康公のおかげです。そのご恩に報いるために、家康公に《十段の推戴状》を贈りたいと思います」と挨拶しました。

そして壇上で米長会長から代理の徳川宗家19代の徳川家広さんに、十段の推戴状が贈られました。家広さんは「徳川家康が将棋を奨励したのは、勝負で負けることの恐ろしさを知らせることで、戦争のない平和な世の中にしたいと願ったからだと思います」と挨拶しました。

なお名人戦第1局の開始時には、徳川宗家18代の徳川恒孝さんが立ち会い、先後を決める「振り駒」も行いました(結果は森内の先手)。

森内と羽生は、名人戦で過去に6回対戦して3勝3敗の五分。名人在位は、森内が通算6期、羽生が通算7期。まさに実力伯仲の両者が、昨年に続いて名人戦の大舞台で相まみえたのです。ただ名人戦を前にした公式戦の戦績では、羽生が明らかに有利でした。A級順位戦で9戦全勝して挑戦権を得た勢いに乗る羽生に対して、森内は昨年10月から今年1月まで公式戦で何と11連敗もしたのです(4月5日の対局に勝って連敗はストップ)。

名人戦第1局は相矢倉の戦型となり、昨年の名人戦第4局・第6局と同じような展開でした(いずれも先手番の羽生が勝ち)。今年の第1局は森内が先手番、羽生が後手番を持ち、互いに逆の立場でした。将棋の指し手は、昨年の名人戦第4局と同じ手順が中盤まで進み、羽生が82手目に指し手を変えて新たな展開となりました。そして大熱戦の末に、森内が勝ちました。

名人戦7番勝負は始まったばかりです。今年も昨年(森内が羽生に4勝3敗)と同じく、最終局までもつれ込む激闘になることでしょう。

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2012年4月 2日 (月)

順位戦・C級2組の人数や昇級枠などの問題点

前期のC級2組順位戦では3人の全勝者が出たために、順位上位で9勝1敗の菅井竜也五段が昇級できない事態が生じました。それに関連して、C級2組の人数や昇級枠について提言するコメントが多く寄せられました。それらを抜粋して紹介します。

「C級2組は人数と対局数のバランスが取れてないように思います」というコメント(3月21日)は《masa》さん。

前期のC級2組の人数は44人でした(今期は46人の見込み)。ほかのクラスに比べると、昇級の競争率は約15倍と最も高いです。対局数が多ければ実力が反映しやすく、前期のような事態はなくなる、という見方はあります。その半面、混戦になることも予想されます。過去10期の三段リーグ(対局数は各18局)で調べてみると、20人の四段昇段者(次点2回の昇段者を除く)の総合成績は273勝87敗(0.758)で、平均で13勝5敗から14勝4敗の成績でした。人数と対局数はあまり関係ないようです。

「※年連続してC級2組に在籍している棋士は、フリークラスに降級させる。ただし現役棋士として残れる年数は、宣言によるフリークラス棋士(原則として15年プラスアルファ)よりも、条件的に緩和させる。とすれば、C級2組に多くの長期滞留者がいる状態が緩和されます」という内容のコメント(3月25日)は《オヤジ》さん。

順位戦でC級2組に何年いても昇級できない棋士は将来の見込みがない、とみなす厳しい制度ですね。会社員に例えれば、万年平社員を非正規社員に降格させるようものですが、現実には労働協約のうえで簡単に実施できません。将棋連盟でも、「万年C級2組」の棋士にそんな扱いをしたら大騒ぎになるでしょう。何しろタイトル保持者もC級2組の棋士も、総会で投票するときは同じ1票に変わりありません。

「順位戦の対戦相手の抽選が昇級に大きな影響を与えないシステムを希望します」というコメント(3月26日)は《masa》さん。

順位戦の対戦相手や順番は、諸条件を設定したうえで抽選で決まります。とても公平なシステムです。ただ前期のC級2組のような事態を避けるために、最終4局(または2局)を未定にして、同成績者同士が対戦する方式を導入する策はあると思います。

「C級2組で全勝者が4人出た場合はどうなるのでしょうか」というコメント(3月27日)は《むら》さん。

順位戦の規定では、どのクラスでも全勝者は無条件で昇級できます。

「C級1組とC級2組は2年連続8勝以上で昇級、という規定を加えたらいかがでしょうか。または、人数によって昇級枠を増やす方法もあります。B級2組からC級2組は、人数を10で割って四捨五入する数字を昇級枠とします。25人~34人は昇級3人、35人~44人は昇級4人」というコメント(3月26日)は《ことぶき》さん。

順位戦制度が発足して約65年たちましたが、各クラスとも2人の昇級枠(C級2組は約35年前から3人)はずっと不変です。その昇級枠を増やしてクラス間の風通しをよくしたほうがいい、という将棋ファンの声は多いです。ただ当事者の棋士にとっては、昇級枠が増えても素直に喜べない事情があります。

仮にB級1組からC級1組までの昇級枠を3人に増やした場合、同時にA級とB級1組の降級枠は2人から3人に増えます。B級2組以下も連動し、「降級点」制度は現行よりも厳しくなるでしょう。つまり順位戦制度は、昇級という「アメ」と降級という「ムチ」で成り立っていて、それが魅力となっているのです。

そうした状況において、アメを求めるのは一流棋士か伸び盛りの若手棋士だけで、大半の棋士はムチを恐れてクラス維持をめざしているのが現実なのです。ましてや順位戦は、棋士生命にも直結する棋戦でもあります。

順位戦を根幹とした現行制度については、また改めてテーマにします。

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2012年3月26日 (月)

「順位戦」制度の問題点へのコメントについて

前回のブログで、5人もの全勝者が出た今期「順位戦」をテーマにしたところ、制度の問題点を指摘したコメントが多く寄せられました。

とくにC級2組では、菅井竜也五段が上位の順位で9勝1敗の好成績を挙げながら、3人の全勝者が出たために昇級できない結果となりました。

「菅井五段が哀れです。今後は、B級2組~C級1組で全勝者が2人、C級2組で全勝者が3人出た場合に限り、1敗の最上位者も昇級できる制度はいかがでしょうか」という内容のコメント(3月23日)は《S.H》さん。「昇級者を増やす、次点・2回で昇級できる、などの制度変更が必要な時期と思います」という内容のコメント(3月21日)は《masa》さん。

菅井五段が9勝1敗で昇級できなかったことについて、読売新聞の将棋欄で「順位戦の制度に問題がある」と論評されたそうです。もし《S.H》さんの案のような特例規定があれば、菅井は昇級できました。《masa》さんの案なら、次期順位戦では4位以内で昇級できます。

しかし、どんな制度でもいえることですが、「特例」はなるべく作らないほうが望ましいと思います。そもそも約65年の順位戦の歴史において、同じクラスの昇級者全員が全勝というケースは、今期が初めてでした。そんな稀有なケースのために、制度化する必要はないと思います。ただ降級条件を緩和した「降級点」の制度があるので、次点・2回で昇級という「昇級点」はあってもいいと思います。なお三段リーグでは、次点・2回でフリークラス編入の条件つきで四段に昇段できます。

「順位戦のC級2組の人数が多すぎる問題は、何とかしなければいけない時期にきているように思います」というコメント(3月25日)は《オヤジ》さん。「C級2組にしてもほかのクラスにしても、対戦相手の運・不運(抽選結果)が昇級に大きな影響を与えないシステムを希望します」というコメント(3月26日)は《masa》さん。

今期のC級2組の人数は、各クラスで最多の44人。昇級は約15倍の競争率です。確かに大世帯ゆえの厳しさがあります。毎年、4人の新四段が入ってきます(ほかにC級1組からの降級者)。一方で、C級2組からの降級者、フリークラスへの転出者、引退者などが出ていきますが、年間で4人より下回ります。入れ替えで前者が多ければ、人数が増えていくのはもとより明らかです。

しかし実際のところ、C級2組の人数は増えてないのです。20年前の第51期は55人でした。その後、54人、48人、50人、51人、49人、47人、45人、44人、42人、45人、44人、47人、45人、47人、45人、43人、44人、42人、44人(今期)と推移しています。

これらの数字を見てわかるように、C級2組の人数はむしろ減少傾向にあります。その原因は、厳しい勝負の結果、「負け組」の棋士が降級したり、フリークラス転出を余儀なくされる(田丸はその1人)ケースが意外と多かったからです。

C級2組の問題点は、とても複雑で深刻なものがあります。対戦相手の抽選のことも含めて、次回のテーマとします。

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2012年3月18日 (日)

今期順位戦で羽生、広瀬、阿部、中村、船江らの5人の棋士が全勝

2011(平成23)年度の順位戦は、全クラスの対局が終了しました。

A級では、羽生善治二冠が9連勝し、森内俊之名人への挑戦権を獲得しました。A級での全勝記録は、2003年度の森内竜王以来です。

B級2組では、広瀬章人七段が10連勝し、前期に続いて連続昇級しました。2年前に王位のタイトルを獲得した実力をいかんなく発揮しました。

C級2組では、阿部健治郎五段、中村太地五段、船江恒平五段の3人がいずれも10連勝し、昇級しました。このクラスで2人の全勝者が出たことは以前に3回ありましたが、3人の全勝者は初めてのケースでした。そんなハイレベルの昇級争いによって、通常なら十分に昇級が可能な9勝1敗・順位6位の菅井竜也五段は昇級できませんでした。菅井の1敗は船江戦で、結果的にその勝負が明暗を分けました。

近年はA級からC級2組まで、どのクラスも各棋士の実力が伯仲しています。そんな状況において、単年度に5人もの全勝者が出たのには驚きました。

そこで、1972(昭和47)年度から2010年度までの約40年間の順位戦での昇級者の成績を調べてみました。じつはB級2組以下の局数が10局に決まったのが1972年度で、それ以前は12局でした。

1972年度から2010年度までの順位戦で、全勝者はのべ35人いました。年平均で1人を切っています。今期順位戦で全勝者がいかに多かったがおわかりでしょう。

同じクラスで2人の全勝者が出たケースは、1982年度のC級2組(脇謙二四段、塚田泰明四段)、1987年度のC級2組(羽生四段、泉正樹五段)、1991年度のC級1組(村山聖六段、森内五段)、2001年度のC級2組(豊川孝弘五段、松尾歩四段)でした。

全勝者が出ると昇級ラインが上がり、前記の菅井五段のように、9勝1敗で昇級できないケースも生じました。1991年度のC級1組で井上慶太六段、1993年度のC級1組で丸山忠久五段、1994年度のC級2組で深浦康市五段、佐藤秀司五段らが、いずれも9勝1敗で昇級できませんでした。しかし井上は2年後に全勝で昇級し、丸山も翌年に9勝1敗で昇級しました。深浦と佐藤も3年後に昇級しました。不運でも落ち込まないで頑張り続けた成果といえます。菅井にもそれを期待しましょう。

個人別の全勝では、羽生が今期を含めて3回、森内、塚田が2回しました。

ほかの主な棋士では、谷川浩司九段(1980年度のB級2組)、高橋道雄九段(1987年度のB級2組)、佐藤康光王将(1992年度のC級1組)、久保利明九段(1994年度のC級2組)、渡辺明竜王(2006年度のB級2組)などが全勝しました。

私は1980年度のB級2組順位戦で、9勝1敗で昇級しました。昇級がすでに決定していた最終戦で負けたのですが、勝っていれば2人の昇級者(もう1人は谷川六段)がともに全勝という、B級2組以上では初めての記録が生まれたと思います。

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2011年9月19日 (月)

羽生善治二冠が王位を奪還してタイトル獲得数が歴代最多の80期に

王位戦(広瀬章人王位―羽生善治二冠)7番勝負は、羽生が4勝3敗で奪還して王位に4年ぶりに返り咲きました。羽生は広瀬に●●○○●とリードされて苦しい展開でしたが、第6局と第7局に連勝して逆転を果たしました。

第7局の戦型は広瀬の振り飛車穴熊vs羽生の居飛車穴熊。「振り穴王子」こと広瀬が最後に伝家の宝刀をまた抜いたのです(今期王位戦はその戦型で1勝1敗)。しかし広瀬の積極的な指し方が裏目に出て、羽生に一方的に攻められて完敗しました。

奪取したタイトルは「防衛してこそ一人前」とよくいわれます。広瀬にとって辛い結果となりました。しかし羽生と互角に渡り合った将棋の内容は、大いに絶賛されています。ほかのタイトル戦や次期王位戦に登場するなど、いずれまた活躍することでしょう。

羽生が王位を奪還したことで、タイトル獲得数は通算80期に達しました。これは歴代最多の大山康晴十五世名人に並ぶ記録となりました。大山は初タイトルから32年目の1982年(昭和57年)、59歳で80冠を達成しました。羽生は初タイトルから22年目の今年、40歳で80冠を獲得しました。ただ大山の最盛期の時代のタイトルは5冠なので、両者を数字で単純に比較することはできません。

羽生のすごいところはタイトルを獲得した比率です。タイトル戦に登場した105期のうち80期の獲得は、約76%の「タイトル獲得率」となります。以下、タイトル戦登場が多い7人の棋士の獲得率(カッコ内)を並べます。大山は112期のうち80期(約71%)。中原誠十六世名人は91期のうち64期(約70%)。谷川浩司九段は57期のうち27期(約47%)。米長邦雄永世棋聖は48期のうち19期(約40%)。佐藤康光九段は35期のうち12期(約34%)。森内俊之名人は19期のうち9期(約47%)。

羽生がタイトル戦に初登場したのは1989年(平成元年)の竜王戦で、第1期竜王の島朗(九段)に挑みました。羽生は当時19歳。それまでタイトル戦の会場に、記録係や観戦で行ったことさえなかったそうです。そんな羽生が竜王戦で初タイトルを獲得すると、今日まで22年間にわたって各タイトル戦で活躍し続けています。タイトル戦の対戦相手や流行戦法は、時代ごとに少しずつ違います。どんな状況でもずっとトップ棋士であるのは、類まれな実力と不断の努力のほかに、ものすごい精神力の賜物だと思います。

羽生が22年前の竜王戦で初挑戦したときの段位は六段でした。それ以降、肩書が段位になった時期は今までありません。これも隠れた記録です。ただし竜王戦第5局で挑戦者の谷川からタイトルを奪われた1990年11月から、棋王戦第4局で南芳一棋王からタイトルを奪った91年3月までの約110日間が、羽生の唯一の「無冠」の時期でした。しかし当時は竜王戦と名人戦の保持者が敗れた場合、向こう1年間は「前竜王」「前名人」と名乗る決まりがあり、羽生も無冠の時期は前竜王の肩書でした。なお、ある時期からその肩書を辞退する棋士が続出したので、現在はほとんど形骸化しています。

それほど強くて数多くの栄冠に輝いている羽生が、終盤の局面で「指先が震える」ことが近年よくあります。普通は、勝負の緊張感に堪えられない棋士、めったに勝てない棋士が勝利を意識して生じる現象です。しかし羽生の場合は「勝利を確信した」行為なのです。かつて谷川九段も勝利寸前に「ほっぺたを膨らませた」ものでした。

じつは羽生の指先が震えた最初の対局は、2003年(平成15年)の王座戦で渡辺明(当時五段)に挑戦を受けたときでした。羽生は○●●○○という戦績でやっと防衛したのですが、第5局の終盤では指先が震えて駒を持てず、何回も手を引っ込めました。そんな光景に関係者は驚いたそうです。

あれから8年たちました。羽生が渡辺竜王から2回目の挑戦を受けた今期王座戦では、終盤で羽生の指先が震える結末となるのでしょうか…。

次回は、今年の将棋ペンクラブ大賞の贈呈式。

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2011年8月13日 (土)

終盤の95手目まで同一手順が続いた王位戦(広瀬王位―羽生二冠)第4局

今週に行われた王位戦(広瀬章人王位―羽生善治二冠)7番勝負第4局の将棋には驚きました。後手番の羽生の誘導で横歩取りの戦型となり、終盤の95手目まで前例ある戦いの同一手順が続いたのです。その前例局は昨年のB級1組順位戦(井上慶太九段―畠山鎮七段)で、激闘の末に後手番の井上が勝ちました。

そもそも振り飛車を得意として「振り穴王子」の愛称がある広瀬が、勝てば3勝1敗となって王位防衛へさらに前進する第4局で、横歩取りを指したことが不思議でした。しかし公式戦データを調べてみると、広瀬はこの数年間に横歩取りで5勝(先手番で4勝、後手番で1勝)していました。十分な自信をもって臨んだようです。

横歩取りには様々なパターンがあります。第4局で羽生は実戦経験が豊富な展開に持ち込みました。広瀬は実戦経験がなかったのですが、井上―畠山戦の棋譜は知っていました。どこかで変化して分のある戦いにする目論見でしたが、結果的にそんな状況にならずに前例局をたどりました。そして96手目、羽生は▲5三香の王手を△同銀(井上は△6一玉と逃げた)と取って前例局から分かれました。その後、広瀬は詰めろ逃れの詰めろの攻防手を放ったり、玉が中段に逃げ出して抵抗しましたが、羽生が着実に寄せきりました。これで戦績は、ともに2勝2敗の五分となりました。

横歩取り、角換わり腰掛け銀などの流行型では、前例ある戦いがよく展開されます。対局者は日頃の研究や新工夫を試み、どこかで一方が指し手を変えるものです。王位戦第4局のように、前例局で勝負が明らかとなっている終盤の局面まで同一手順が続いたのはとても珍しいことでした。ちなみに、過去には101手まで同一手順の実戦例がありました。

今期のA級順位戦(渡辺明竜王―郷田真隆九段)でも、同じようなことがありました。角換わり腰掛け銀の流行型から攻め合いとなり、先手番の渡辺は郷田の玉を受けなしに追い込みました。その局面で渡辺の玉に即詰みがあるかどうかが焦点ですが、きわどく逃れて先手が勝ちという結論がすでに出ていました。ある若手棋士の定跡書にも紹介されています。しかし郷田には何か秘手があるかもしれないと、控室の検討陣は注目していました。結果はやはり即詰みがなく、渡辺が勝ちました。感想戦で渡辺に「定跡なので」と言われた郷田は、「そうですか、定跡ですか…」と茫然としていたそうです。

郷田は決して研究不熱心な棋士ではなく、流行型の将棋もよく指します。ただデータにはあまり頼らず、自身の将棋観や表現を重視しています。渡辺戦では結論が出ているとは知らずに、たまたま入り込んでしまったようです。

このように流行型の将棋を指すには、日頃から研究を重ねておかないと「知らないで負ける」ことがあります。しかし、流行型ばかりで研究会の将棋をなぞるような風潮は、プロ将棋の魅力という点で果たしてどんなものでしょうか…。

私は流行型の将棋とはいっさい無縁です。いつも自分の好きな将棋を指しています。今週の11日の瀬川晶司四段との対局(竜王戦)では、矢倉模様から居角の形で相手陣をにらむ陣形に組みました。機を見て▲4五歩△同歩▲同桂と攻める狙いです。そういう指し方を公式戦でよく用いています(ほかの棋士はほとんど指しません)。ただ角筋を通す6筋の位を逆襲されたり、守りが弱い角頭を攻められたり、なかなか思うようにいきません。瀬川戦では《▲8八角・7八銀・7九玉・6七金・6九金・5七銀》と左美濃に組む新工夫を試みました。その作戦は良かったのですが、仕掛けた際に不必要な1筋の突き捨てが悪く、相手に歩を多く渡したことで反撃されて苦しくなりました。終盤に追い込みましたが及びませんでした。

この対局は当日に携帯電話で中継され、「仕事の合間に観戦します。熱戦を期待しています」(関東のホークスファン)、「田丸八段の武運を祈っています」(修造)という応援コメントをいただきましたが、ご期待に添えませんでした。

次回は、コメントへの返事。

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2011年8月 7日 (日)

通算6期目の名人位を獲得した森内俊之名人の就位式

森内俊之名人の就位式

今年の名人戦は、永世名人の資格をともに有する森内俊之(十八世名人)と羽生善治(十九世名人)の対戦にふさわしい名勝負が繰り広げられ、挑戦者の森内が3連勝3連敗で迎えた第7局で羽生名人に勝って、通算6期目の名人位を獲得しました。

森内名人の就位式は7月29日に東京・目白の「椿山荘」で開かれました。名人戦を共催する毎日新聞社、朝日新聞社の両社長、将棋連盟会長(米長邦雄永世棋聖)らが挨拶し、祝辞は森内の知人の水津康夫さんが述べました。

じつは、森内は大のクイズ好きでした。子どものころは『アップダウンクイズ』『クイズダービー』などのクイズ番組をよく見ていました。18歳からは『アメリカ横断ウルトラクイズ』に毎年参加し、『アタック25』というクイズ番組に出たこともあります。そうした縁で知りあったのが、『史上最強のクイズ王決定戦』『クイズ・グランプリ』などのテレビ番組で何度も優勝経験がある「クイズ王」として知られた水津さんでした。

将棋愛好家でもある水津さんは、クイズ番組に出るときは棋士の扇子をいつも携帯しました。ある番組が水津さんの日常を紹介したとき、将棋会館で扇子を求める光景をテレビで見た森内は水津さんに手紙を書き、それがきっかけで親しくなりました。将棋雑誌で対談したこともあり、「何かを思い出すとき、すぐに辞書などで調べないで自分の頭で考えることを心がけています」(水津)、「将棋でも定跡や常識に頼らずに、自分で考えることが大事です」(森内)と語り、クイズと将棋には共通点があることで一致しました。

森内は「開幕前は大震災が起きて大変な状況でしたが、歴史と伝統がある名人戦にふさわしい対局をする気持ちで臨みました。3連勝しても簡単ではないと思っていました。最終局にもつれ込んであまり勝てる気はしませんでしたが、どんなに難しい状況でも打開する可能性があることを示せたと思います」と謝辞を述べました。

その森内には、名人戦の協賛社から本人の希望による「ストーブ」が贈られました。来春に始まる名人戦の防衛戦に備え、寒い冬の季節に風邪を引かないように、今のうちから環境を整えておきたい、という心構えなのかもしれません。

ところで連盟の米長会長は挨拶の中で、「来年の名人戦も森内さんと羽生さんの熱戦を期待しています」という新聞社の社長の挨拶に関連し、「来年の就位式にいるべきは毎日と朝日の両社長です」と、なかなか意味深長な言い方をしました。

2006年に起きた名人戦の契約問題では、連盟・毎日・朝日の三者間で大きく揺れました。そして名人戦は単独契約ではなく、毎日と朝日が共催する契約に落ち着きました。あれから5年たち、今期名人戦は5年契約の最終年となります。現在、連盟は毎日、朝日と次期以降の契約について話し合っています。連盟は基本的に現行の内容を希望しています。しかし現下の低迷している経済状況では、新聞社側の事情によって、交渉が円滑にまとまるかどうかは流動的なのです。米長の先の言葉は、それを暗示しているともいえます。なお来年の名人就位式は現契約の5年目で、新契約の1年目の就位式は再来年です。

来年の2012年には、将棋の名人制が始まってから400年目の節目を迎えます。江戸時代初期の慶長17年(1612年)、初代・大橋宗桂が一世名人に就いたといわれています。そういう記念すべき年に、名人戦の契約問題でもめることはできれば避けたいものです。

次回は、コメントへの返事。

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2011年7月15日 (金)

竜王戦で対局した相手は負ければ引退となる飯野健二七段

竜王戦の相手は飯野健二七段

私は7月6日、竜王戦で飯野健二七段と対局しました。一番下の6組の昇級決定戦(別名は裏街道)という地味な一戦でしたが、相手の飯野にとっては特別な意味がありました。飯野は今年4月にフリークラス規定によって「引退」が内定し、残っている対局がすべて終わった時点で引退となります。そんな状況で、最後の棋戦として私と対局しました。

私はこれまでの棋士人生で、自分が勝てば昇級したり負ければ降級、相手が負ければ昇級を逃したり降級など、ともに昇降級に関わる順位戦の対局を数多くしてきました。しかし飯野戦のように、自分が勝てば相手が引退となる対局は初めての経験でした。

私は青年時代、同世代の奨励会員らと一緒に「棋友」という同人雑誌を出しました。そのメンバーの1人が4歳年下の飯野でした。性格が良い飯野は先輩たちに可愛がられ、私も目をかけたものです。上の写真(撮影・田丸)は、36年前の1975年(昭和50年)に20歳で四段に昇段した飯野。ご覧のように、アイドル歌手だった「野口五郎」を思わせる端正な容姿で、当時の棋士としては珍しくマイカーを運転しました。

70年代後半のプロ棋界では「矢倉」の将棋が全盛でした。若手棋士の多くが矢倉に傾倒する中で、飯野は軽快な「ひねり飛車」や力戦型の将棋を好みました。私が最も印象深い飯野の対局は、78年に最難関だった十段戦(竜王戦の前身棋戦)リーグ戦入り(2人のみ)をかけた大山康晴十五世名人との一戦でした。

A級棋士や強豪棋士を5連破した飯野は、勢いを駆って大山戦でも優勢となりました。しかし終盤の土壇場の局面で、大山は攻防を兼ねる妙手を連発して、作ったような大逆転を果たしたのです。飯野はその局面で、17分考えた末に投了しました。飯野は敗れましたが、大山戦での健闘は大いに評価されたものです。

飯野は83年度のC級2組順位戦で8勝2敗の好成績を挙げましたが、惜しくも次点でした。次いで84年度も8勝2敗でしたが、全勝1人と1敗2人がいて昇級できませんでした。90年度も8勝2敗で及びませんでした。

私の37期にわたる順位戦の経験では、昇級するには「実力」のほかに「運」も大事だと思っています。飯野のように8勝2敗で昇級できない不運なケースもあれば、時には7勝3敗で昇級できる幸運なケースもあります。その運をつかめるかどうかで、以後の棋士人生も変わってくるものです。まあ、運をつかめるのも実力のうちといわれますが…。

結局、飯野は順位戦で昇級できませんでした。24期目には3回目の降級点に該当して降級、10年前からフリークラスの所属となりました。どこかで昇級していたら大きな自信となり、違った棋士人生になったと思います。

田丸―飯野戦の戦型は、飯野の角交換型の振り飛車で、中盤でお互いに角を中段に打つ力戦型となりました。飯野の対局中の様子は普段と変わりませんでした。私も自然体で指しました。相手の大事な一戦こそ全力で戦えという「米長哲学」は意識しませんでした。

終盤で飯野に誤算があり、対局は早々と夕方に終わって、私が勝ちました。感想戦ではお互いに淡々と進めました。順位戦での降級の一戦で何度も敗れた私は、「慰めの言葉」はかえって辛いということを経験したので、私に敗れて引退となった飯野には何も言葉をかけませんでした。飯野もその日を覚悟していたのか、さばさばとした表情でした。

じつは当日、飯野の娘で女流棋士をめざしている研修会員の飯野愛さんが、ほかの対局の記録係を務めていました。父親の対局を案じる気配があるその愛さんと、対局中にふと目が合ったとき、少しばかり複雑な気持ちになりました…。

次回は、棋士の引退と定年について。

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2011年7月12日 (火)

秒読み中にトイレに行った相手に「塩を送って」敗れた全盛時代の大山

大山康晴(十五世名人)は1960年代前半から約10年間、タイトル(当時は五冠)をほぼ独占して全盛時代でした。タイトルを失ったのは4回だけで、そのうち3回は翌期にタイトルを奪回しました。そんな大山がタイトル防衛を目前に珍しいミスをしたのです。

1968年(昭和43年)の十段戦(竜王戦の前身棋戦)は、大山十段に加藤一二三八段が挑戦しました。加藤はそれまで大山にタイトル戦で5回挑戦し、いずれも敗退していました。その十段戦も加藤が2勝3敗と負け越し、第6局の終盤は敗色が濃厚でした。加藤は当時から長考家で、序中盤に持ち時間を惜しみなく使い、1分将棋の秒読みにいつもなりました。第6局でも、終盤に入る前から秒読みに追い込まれました。

加藤は秒読みが延々と続くうちに尿意を催しました。通常は我慢するしかありません。しかし形勢が悪いこともあって、開き直ってトイレに行ったのです。加藤が部屋を出た直後に大山が指せば、加藤は「時間切れ」負けになったかもしれません。しかし大山は、加藤が席に戻るまで待ちました。形勢はすでに優勢でした。相手がトイレに行っている間に時間切れによって防衛というのは、第一人者として体裁が悪いと思ったのでしょう。

大山は加藤にいわば「塩を送った」のでした。その後に異変が起きました。手数は17手と長くても平易な詰み手順をなぜか見落としたのです。次の手でも、同じ詰み手順を気がつきませんでした。そして九死に一生を得た加藤が逆転勝ちを収めました。

全盛時代の大山将棋は「精密機械の読み」といわれ、即詰みを2回も見落とすことはありえませんでした。もしかすると、加藤が時間切れ負けを覚悟でトイレに行ったことが、大山の対局心理や読みに微妙な影響を及ぼしたのかもしれません。

大山―加藤戦は第7局に持ち込まれ、加藤が勝ってタイトルを初めて獲得しました。

同じ年の68年3月。B級2組順位戦・原田泰夫八段―佐伯昌優六段戦で、奨励会二段の私が記録係を務めました。原田は勝てばB級1組への昇級が決まります。激闘が繰り広げられていた終盤の局面で、意外な光景が現れました。1分将棋の秒読みだった佐伯が、「お手洗いに行ってもかまいませんか」と原田に声をかけたのです。原田は一瞬、怪訝そうでしたが、すぐに笑顔で「どうぞ」と応じました。そして佐伯が席に戻るまで指しませんでした。

原田は清廉潔白な人柄で、郷土の新潟の英雄・上杉謙信に心酔していました。その謙信が塩不足に困っていた宿敵の武田信玄に「塩を送って」助けた故事がありました。原田は昇級がかかった一戦でも、相手の弱みに付け込むようなことはできなかったのでしょう。

原田には勝機がありましたが、疑問手を指して敗勢となりました。「いや、うまくやられました。まことに憎い男…」と、相手を讃えながら投了しました。じつは前期順位戦でも佐伯に敗れて昇級を逃し、またも同じ相手に大事な一戦を失ったのです。原田は感想戦が終わると、ある観戦記者を誘って新宿の焼鳥屋に行き、「僕の悪い癖ですよ。もう勝てると思うと心がわくわくし、酒場での祝杯を思い浮かべてしくじるのですよ」と、苦笑しながら語ったそうです。

大山と原田は、相手に塩を送って結果的に大事な一戦に敗れました。しかし大山は翌期に挑戦者となり、加藤から十段のタイトルを奪回しました。原田は佐伯戦の次の対局に勝ち、B級1組への復帰昇級を決めました。

私は、秒読み中の相手がトイレに行ったときに指さないことが「美談」とは思いません。生理面も勝負のうちです。私も数年前の順位戦で経験しましたが(前回ブログを参照)、勝てば昇級するような対局だったら勝負に徹して指したことでしょう。実際にトイレに行った間に、時間切れ負けになった対局例がありました。

なお囲碁の対局では、秒読み中に1~2分のトイレ休憩が認められるそうです。勝負のルールとしては手ぬるいと思います。ただ囲碁は将棋と違って、終盤では1目を争うようなぎりぎりの戦いがあまり多くない、というゲーム性もあるのかもしれません。

次回は、竜王戦・飯野健二七段との対局。

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2011年7月 8日 (金)

用足し以外に勝負のうえで重要な意味がある対局においてのトイレ

スポーツ番組のアナウンサーは、実況中継中の用足しの心配について聞かれることがよくあり、当日は水分の摂取をなるべく控えるそうです。私たち将棋棋士も、同じような質問を受けます。ただ放送中に席を離れることが難しいアナウンサーと違って、対局中に中座してトイレにはいつでも行けます(自分の手番だと持ち時間がその分だけ減ります)。

棋士は対局中、頭を酷使したり緊張感が高まってくると喉が渇きます。お茶やミネラルウォーターなどの飲み物をかなり多くとります。必然的にトイレに行く回数が増えます。長考が続く難解な局面では、対局者が1手ごとにトイレに行く場合もあります。

じつは、対局者がトイレに行くのは用足しだけではなく、勝負のうえで重要な意味があります。閉ざされた空間は、高ぶった気持ちを静めたり、逆に「がんばるぞ!」と独り言を吐いて戦意を高揚させるのに、打ってつけの場所なのです。私は用を足しながら、勝負手を決断したことが何度もありました。また、ある人に「自分の陰囊(ふぐり)を指で包み込めば気分が落ち着く」と言われ、実際にトイレで試してみました(効果は不明)。

NHK杯戦のテレビ将棋では、持ち時間が少ないことやトイレがすぐ近くにないこともあって、対局者は開始から終局まで座りっぱなしです。しかし13年前に私が島朗(九段)と対局したとき、島が対局中に数分ほど席を立ったことがありました。後で聞いた話では、トイレ代わりにスタジオ外の人気のない場所で構想を練っていたそうです。

トイレに行くタイミングと様子で、相手の心理を探ることもあります。というのは、対局者は形勢が好転したときや好手を発見したとき、えてしてトイレに行くものです。小声でぶつぶつ言いながら足早に席を立ったときなどは、とくに要注意です。だいたい対局者は、本心と態度が逆のことが多いです。私も終盤で勝ちそうになると、内心はニンマリとしながらも険しい表情で席を立ち、トイレで勝ち筋を最終確認することがありました。

40年以上も前に、ある若手棋士がA級棋士と対局したとき、序盤の局面がある棋書で解説されている戦法と偶然にも同一となりました。それを思い出した若手棋士は、その棋書を見つけると、そっとトイレに持ち込んで熟読したのです。そして実戦も棋書のとおりに進行し、優勢となった若手棋士が快勝しました。トイレを「カンニング」の場所に利用したという話でした。その「トイレ棋書」の一件は後日に知れ渡り、大方の棋士は笑い話の種としました。ただ若手棋士を非難することはなく、A級棋士たる者がそんなことで負けることがおかしい、という見方をしたものでした。

局面が終盤に進んで持ち時間が切迫してくると、対局者は生理面も気がかりになってきます。だいたい残り時間が数分あたりの局面で、最後の用足しをすませておきます。1分将棋の秒読みになると、トイレに行く余裕はありません。しかし形勢がもつれて長手数となって秒読みが延々と続くと、生理面は深刻な問題になります。対局室とトイレはそれほど離れていないので、相手の手番のときに急いで往復すれば、時間内に戻って指せる可能性があります。もし間に合わなければ「時間切れ」によって負けとなります。かなりの「早業」を要しますが、実際に実行した棋士もいました…。

私が5年前のC級1組順位戦で橋本崇載(七段)と対局したとき、秒読みが延々と続いていた橋本は、ついに我慢し切れずにトイレに駆け込みました。私はすぐに指しませんでした。別に「塩を送った」のではなく、終盤の難解な局面だったので考え込んでしまいました。正直なところ、時間切れで勝ちたくないという思いもありました。そして勝負の結果は、私が疑問手を指して逆転負けしました。

43年前のタイトル戦でも、秒読み中の挑戦者がトイレに行ったとき、優勢だった保持者はあえて見過ごして指さず、結果的に敗れたことがありました。

次回は、43年前の十段戦(大山十段―加藤八段)でのトイレの一件。

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2011年7月 5日 (火)

タイトル戦の対局場、対局での喫煙、持ち時間の使い方のコメントへの返事

「将棋のタイトル戦がよく行われる愛知県・蒲郡の『銀波荘』の女将が、最終まで縺れ合いになることを祈って第6局や第7局を待つ気持ちですと、中日新聞の記事で語っていました」という内容のコメント(6月25日)は《第7局の準備は》さん。

タイトル戦の対局場の順番は、主催新聞社が総合的に判断して決めます。7番勝負の場合、第4局までは必ず行われます。第5局は4連勝、第6局は4勝1敗で早く決着すると行われません。第7局の確率はさらに低くなります。しかし実現すると、今年の名人戦第7局のように大いに盛り上がります。山梨県甲府市の対局場の解説会場には、定員を大きく上回る500人もの将棋ファンが詰めかけたそうです。

対局場側は対局室・関係者の客室・取材本部・解説会場となる部屋を押さえ、前夜祭の準備、対局者への配慮、取材陣やファンへの対応など、準備万端を整えて対局を待ち受けます。それだけに、前記の対局場の女将の率直な心境はよく理解できます。なおタイトル戦が早く終わって行われなかった場合、主催新聞社から対局場へのキャンセル料の支払いはまったくない取り決めになっているそうです。その代わり今期が第7局だったら、来期は第5局に繰り上げるなどの埋め合わせをすることがあります。

将棋を愛好する作家・本岡類さんの推理小説『奥羽路 七冠王の殺人』(祥伝社刊)は、棋界初の七冠王が実現した第5局の夜に殺人事件が起き、対局者の七冠王の棋士に嫌疑がかかる衝撃的な内容です。じつは、その棋士の4連勝で終わっては困る第5局の対局場関係者の思惑が事件の背景となりました。対局場がからんだ将棋ミステリーです。

「昔のNHKのテレビ将棋で、対局者が煙草を吸っていた映像を観た記憶があります。いつごろから禁煙になったのでしょうか。ちなみに田丸八段は煙草を吸いますか」という内容のコメント(6月25日)は《しおんの王☆》さん。

以前はNHKスタジオの対局室の盤の脇に灰皿が確かに置いてあり、対局者の喫煙光景が画面に流れました。それが時代の潮流や消防法の関係によって、禁煙になったと思われます。いつごろからかは不明です。

将棋会館の対局では喫煙できます。ただロビーに行って吸うなど、相手の対局者に気を遣う棋士が多いです。対局室を禁煙にするべきだという声は以前からありました。しかし日本たばこ産業(JT)が棋戦主催者になっている事情もあって、将棋連盟の理事会は制度化にやや及び腰です。囲碁団体の日本棋院は、対局室を禁煙にしているそうです。ちなみに私は30代半ばまで吸っていましたが、それ以降はずっと禁煙しています。

現代で喫煙する主な棋士は、内藤国雄九段、大内延介九段、勝浦修九段、石田和雄九段、田中寅彦九段、塚田泰明九段、先崎学八段など。棋士全体では少数派です。タイトル戦によく登場する棋士の中で、喫煙する人はほとんどいません。

「公式戦での持ち時間の使い方で、対局者の間に約束事みたいなものがあるのでしょうか。たとえば、相手が中座しているときに指してはいけないとか。秒読みに入ったときのトイレも教えてほしいです」という内容のコメント(6月22日)は《将棋太郎》さん。

公式戦での持ち時間の使い方はまったく自由で、約束事みたいなものはありません。相手が中座したときに指してもいいのですが、相手がいないと何となく指しにくいものです。相手が長考して指すと、次の一手がほぼ必然でも付き合って長考することがあります。相手の残り時間が少なくなると、自分の考慮時間中に考えさせないために、持ち時間が充分あってもわざと早く指すことがあります。秒読み中のトイレは深刻な問題です。これもひとつの勝負の要素といえます。実際に様々なエピソードがありました。次回のテーマとします。

次回は、対局中のトイレについて。

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2011年6月23日 (木)

名人戦(羽生名人―森内九段)第7局で森内が勝って4期ぶり・通算6期の名人に

名人戦(羽生名人―森内九段)

第69期名人戦(羽生善治名人―森内俊之九段)第7局は6月21日・22日に山梨県甲府市で行われました。名人戦で3勝3敗となって最終局に持ち込まれた例は、過去に15回ありました。一方が3連勝から3連敗したケースは今期が初めてでした。上の写真は、NHKの中継画面(右が羽生、左が森内)。

昨年の名人戦は、羽生が挑戦者の三浦弘行八段に4連勝して防衛しました。名人就位式では、強い羽生を称えて「将棋界の白鵬のようだ」という祝辞がありました。ある関係者は「来年はできるだけ第7局までお願いしたい」と挨拶しました。近年は名人戦の対局場を公募で決めるのが通例で、準備万端を整えながら流れてしまった第5局以降の対局場側の事情を慮ったものでした。羽生は苦笑いしていましたが、今期名人戦で3連敗から3連勝して第7局を迎えるとは、本人も周囲も想像がつかないことでした。

今期名人戦で第1局から3連勝した森内は、第5局・第6局の対局場で「来てくれて、ありがたかったです」と言われ、何とも複雑な心境だったそうです。

タイトル戦の最終局では、改めて「振り駒」をして先手・後手を決めます。先手番になれば、作戦の選択権を持てる利点があります。今期名人戦は第6局までに、先手側が4勝2敗と勝ち越していました。

かつて羽生は最終局で先手番になることが多く、振り駒でも運が強いといわれました。しかしこの10年ほどの7番勝負の最終局では、羽生の先手番は12回のうち4回だけでした。2005年(平成17年)の名人戦(森内名人―羽生四冠)第7局でも森内が先手番となり、相矢倉の激闘の末に森内が勝って防衛しました。

今期名人戦の第7局は振り駒の結果、森内が先手番となりました。そして第1局・第5局と同様に、後手番の羽生が「横歩取り」に誘導する予想通りの戦型に進展しました。

羽生が△8五飛と中段飛車に構えると、森内は居玉のままで左右の桂を五段目に跳ねて攻め込み、1日目から激闘が繰り広げられました。最新の横歩取りに疎い私は「運命の一戦によくもこれほど大胆に…」と思いましたが、多くの棋士が公式戦で用いている「研究課題」とのことです。羽生と森内も実戦経験がありました。

それにしても、最近の一流棋士、若手棋士の対局には「その局面までA―B戦と同形」というケースが多いです。観戦記者も「その局面で①②③の手があり、勝率が高いのは①…」などと、パソコンの棋譜データを元にして書きます。あるベテラン棋士はそんな傾向について、「最近の棋士は研究会の将棋をなぞっているようだ」と批判気味に語りました。

現代の棋士たちは特定の戦型を、パソコンの棋譜データで調べたり、公式戦や研究会の実戦で経験を積みます。しかし、どんなに研究を深めても、どこかの局面で未知の領域に入ります。その後は各棋士の強さ、個性、表現力によって指し方が変わってきます。

名人戦第7局は、昨年の王将戦・羽生(先手)―深浦康市九段戦と途中まで同じ進展でしたが、後手の羽生が48手目に手を変えて未知の戦いとなりました。その後、森内は成銀で相手陣に迫り、控室の棋士たちが思いも寄らなかった▲4四角と切る強手を放ちました。羽生は懸命に防戦し、一時は持ち直したように思われました。しかし森内は落ち着いた指し方で優勢となり、123手で勝ちました。

本局は十八世名人(森内)と十九世名人(羽生)の対戦にふさわしい大熱戦でした。甲府市の対局場、主催新聞社、将棋会館などの解説会場はどこも大盛況だったそうです。

森内は4期ぶりに名人に返り咲き、名人在位は通算6期となりました。

次回は、コメントへの返事。

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2011年6月21日 (火)

最終の第7局にもつれ込んだ今期名人戦(羽生名人―森内九段)と過去のデータ

第69期名人戦(羽生善治名人―森内俊之九段)7番勝負はドラマチックな展開になりました。森内が第1局から3連勝して名人奪取まであと1勝に迫ると、羽生が第4局から3連勝して巻き返したのです。最終の第7局は6月21日・22日に山梨県甲府市の「常盤ホテル」で行われています。

名人戦で羽生が森内に3連敗したとき、「予想外の結果」という声が上がりました。また「羽生不調」説も流れました。実際に名人戦第1局から第3局の前後の時期の3月下旬から5月中旬にかけて、羽生は2勝6敗と負け越しました。しかし1月から3月の時期は8割台の勝率でした。名人戦第4局に勝って以降は、棋聖戦第1局(深浦康市九段戦)、王位戦挑戦者決定戦(藤井猛九段戦)、竜王戦本戦出場決定戦(郷田真隆九段戦)などの大きな対局も含めて8連勝しています。羽生は負け越して谷間ともいえる時期に、名人戦で3連敗したわけです。

羽生と森内が対戦したタイトル戦は過去に11シリーズあり、羽生の6勝5敗(7番勝負は4勝4敗)と拮抗しています。なお、4連勝で決着したシリーズが3回ありました。

2003年(平成15年)の第61期名人戦は、羽生竜王が森内名人に4連勝。同年秋の第15期竜王戦は、森内九段が羽生竜王に4連勝。2005年の第54期王将戦は、羽生二冠が森内王将に4連勝。いずれも挑戦者がタイトルを奪取しました。

プロ野球の日本シリーズや囲碁のタイトル戦では、3連敗から4連勝して劇的な逆転勝ちを収めたことが過去に何度もありました。将棋のタイトル戦では、3連勝~3連敗という事例がそもそも稀でした。

最初の事例は1978年(昭和53年)の第17期十段戦(中原誠十段―米長邦雄八段)で、中原が3連勝~3連敗の後に第7局を勝って防衛しました。

じつはこの数年間のタイトル戦で、3連勝~3連敗となった事例が今期名人戦を含めて4回ありました。

2006年(平成18年)の第55期王将戦(羽生善治王将―佐藤康光棋聖)は、羽生が3連勝~3連敗の後に第7局を勝って防衛しました。

2008年(平成20年)の第21期竜王戦(渡辺明竜王―羽生善治名人)は将棋史に残る名勝負でした。渡辺が3連敗~3連勝の後に第7局を勝って防衛しました。将棋のタイトル戦で3連敗から4連勝で逆転した初めての事例となりました。勝った渡辺は竜王戦5連覇によって初代の「永世竜王」に就きました。一方の羽生は竜王獲得通算7期による永世竜王と、それにともなう空前絶後の大記録となる「永世七冠」も逃したのです。

2009年の第50期王位戦(深浦康市王位―木村一基八段)は、深浦が3連敗~3連勝の後に第7局を勝って防衛しました。

タイトル戦で一方が3連勝~3連敗した過去の事例では、いずれも保持者が第7局を勝って防衛しました。

以上の過去のデータも参考にしながら、名人戦第7局を見ることにしましょう。まず改めて行う「振り駒」の結果が注目されました。第6局までの戦型で予想すれば、羽生が先手番なら相矢倉、森内が先手番なら横歩取りの戦型になりそうです。

ただ今の日時は、6月21日午前9時半すぎ。振り駒で森内が先手番となり、戦型は羽生の誘導によって、やはり横歩取りになりました。

次回は、名人戦(羽生名人―森内九段)第7局の模様と結果。

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2011年5月17日 (火)

マイナビ女子オープン(甲斐女王―上田二段)第3局で上田が勝って新女王に

上田が勝って新女王に

第4期マイナビ女子オープン5番勝負(甲斐智美女王―上田初美二段)第3局が5月10日に将棋会館で行われ、私が立会人を務めました。

写真は、対局開始時の光景(左が甲斐、右が上田、中央が田丸)。近年の女流タイトル戦では、和風姿の対局者をよく見かけます。本局の両者はともにクリーム色に花柄の着物で、甲斐は紺色の袴、上田は緑色の袴。女流棋士らしい華やかな身なりでした。私は紺色の着物に鶯色の袴で、地味な色調にしました。あでやかな女剣士の立ち合いを、白髪の古武士が見守るという絵柄です。甲斐の後方の床の間には「マイナビ女子オープン」と揮毫された特製の掛け軸がかかっていて、勝負の雰囲気を盛り上げていました。

甲斐(27歳)は昨年、初タイトルの「女王」と「女流王位」の二冠を獲得して、上昇気流に乗っています。上田(22歳)は2回目のタイトル挑戦です。下馬評はもちろん甲斐が優勢でした。しかし甲斐は第1局で勝ち将棋をトン死で逆転負けし、第2局も負けて角番に追い込まれました。上田が本局に勝てば、念願の初タイトルが実現します。こうして対照的な立場の両者ですが、いつもと変わらぬ落ち着いた対局態度でした。

当日は「女流棋士講習会」(女流棋士が棋士と指して鍛練する会)と女流棋士による大盤解説会が行われ、参加した女流棋士たちが折りを見て控室に来て、戦況を見守ったり継ぎ盤で研究しました。広瀬章人(王位)、郷田真隆(九段)、藤井猛(九段)、屋敷伸之(九段)、飯島栄治(七段)などの棋士も顔を出し、研究を眺めたり加わりました。男性の棋士と女流棋士が頭を寄せ合って何組も継ぎ盤で研究する光景は、なかなか微笑ましいものでした。冗談をやたらに飛ばす藤井の盤では、笑い声がよく起こりました。自分の対局のように真剣な表情の飯島の盤では、核心をつく解説ぶりに女流棋士が頷いていました。私は控室で研究や雑談にいっさい入らず、無言でじっと見守って立会人に徹しました。

戦型は第1局・第2局と同じく甲斐の中飛車で、両者は穴熊の堅陣に玉を囲いました。中盤のある局面では、甲斐が巧みにさばいて好調でした。控室の研究でも上田の苦しい形勢となりました。そのとき伊藤明日香(女流初段)が「こんな手はないわよね…」と、やや恥ずかしそうに言った手が、飛車に連絡するだけの1手パスに近い▲5六歩でした。その数分後に上田が▲5六歩を指すと、控室に驚きの声が上がりました。

局後の検討では▲5六歩について、上田は「ほかに手がなかった」、甲斐は「まったく読んでなかった」と語りました。結果的にそれが甲斐の疑問手を呼び、上田が優勢になりました。私は今週発売号の『週刊将棋』で、「▲5六歩は将棋の流れを変えた陰の好手だと思います」と感想を述べました。ちなみに控室でその手をただ1人予想した伊藤は、伊藤果(七段)門下で上田の姉弟子に当たりました。

上田は優勢になってからも冷静に指し、甲斐に粘りを与えませんでした。最後は即詰みに仕留めて勝ちました。3連勝で甲斐を破った上田は、初タイトル、三段昇段、賞金500万円と、3点セットの栄誉を得ました。そのほかに、ある「権利」も生じたのです。

今年4月に「公益社団法人」となった将棋連盟の新規約では、タイトルを獲得した女流棋士は連盟の正会員(棋士と同じ地位)になることができます。連盟会長の米長邦雄(永世棋聖)は終局後に上田を理事室に呼び、「10万円を連盟に払うか、連盟を退会しなさい」と話したそうです。もちろん米長一流のジョークで、正会員の年会費が10万円だと説明したのです。上田は連盟の正会員になる前者を受諾しました。

私が覚えている小学生時代の上田は、大きなメガネをかけて漫画の「アラレちゃん」みたいでした。あれから10年以上たち、人間も将棋もすっかり成長しました。新「女王」になった上田のさらなる活躍を大いに期待しています。

次回は、コメントへの返事。

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2011年4月29日 (金)

里見香奈女流三冠の奨励会受験に関するコメントについて

里見香奈(女流三冠)が「奨励会」を受験する問題は、大いに関心を持たれたようです。このブログにも多くのコメントが寄せられました。その内容は賛否両論でした。

「今回の里見さんの件が、将棋界の女性普及の新たなヒントになればと思います。大事なのは里見さんを倒す少女を見つけ、育てていく環境づくりです」というコメント(4月22日)は《S.H》さん。「里見さんが以前に、男性棋士に勝てる棋士になりたい、と話したのを覚えていました。里見さんの挑戦は若い女流棋士(予備軍を含む)の発奮剤になると思います」という内容のコメント(同日)は《イトウ》さん。「里見さんのチャレンジ魂には敬服して応援しますが、相手の奨励会員には里見さんに勝ってその実力を見せてほしいです」というコメント(同日)は《関東のホークスファン》さん。

これらのコメントは里見の奨励会受験について、女性への将棋普及と実力向上、里見の後に続く女性への期待などの観点から、里見を理解して励ましています。ただ《関東のホークスファン》さんは、里見と対戦する奨励会員の気持ちも酌んでいます。

「里見さんはタイトルを返上し、女流棋戦を休んでから奨励会に入るべきだ。食えている奨励会員が生まれることになれば、奨励会全体の空気が悪くなる」というコメント(4月26日)は《ポチ》さん。「真摯に将棋に取り組んでいる男性奨励会員の将来に影響しないことを何よりも願います」というコメント(4月27日)は(shiromaru)さん。「里見さんに限らず、女流棋界と奨励会の掛け持ちを完全解禁したほうがよいと思います」というコメント(同日)は《スナック小島》さん。「特別優秀な人を特別扱いするのは仕方ないと思いますが、方法が間違っていたのではないでしょうか。里見さんは保持している3つの女流タイトル戦は失冠するまで参加し、ほかの棋戦は参加しない、というのが落としどころだったのでは…」というコメント(4月28日)は《二番隊隊長》さん。

これらのコメントのように、里見が奨励会に入会した場合に最も問題となるのは、将棋連盟から特例で認められた女流棋界との重籍です。女流棋士としても活動しながら脚光を浴びて高収入を得る里見に対して、将来の保証がない男性奨励会員は不公平感や不満を持ちかねません。女流棋界と重籍していない3人の女性奨励会員も複雑な思いでしょう。原則論でいえば、《ポチ》さんの説はもっともです。《二番隊隊長》さんの説は現実的な折衷案です。

里見とほかの奨励会員の間には、立場の違いによる疎外感が生じることも懸念されます。ただし盤上の勝負はまったく同等です。両者が力いっぱい戦っていくことで、同じ棋士をめざす仲間という気持ちはいずれ共有すると思います。

「里見さんが奨励会在籍中は女流棋戦から消えてしまうのでは、女流棋戦が成り立たなくなる。平たく言うと、スポンサー企業の了解を得られないという、連盟側の理由と思います。これはもっともでしょう。里見さんが出場しないのでは、女流棋戦を見る楽しみが大幅に減ってしまいます」というコメント(4月28日)は《オヤジ》さん。

連盟が里見の女流棋界と奨励会の重籍を特例で認めた背景には、経済基盤が決して十分とはいえない女流棋界の実情がありました。確かに《オヤジ》さんのコメントのとおりです。じつは、女流棋界と奨励会の重籍を初めて認めた30年前も同じような状況でした…。

「一番の問題になることは、里見さんが将棋連盟の正会員でありながら、奨励会員であることだと思います」というコメント(4月25日)は《popoo》さん。※今年4月に公益社団法人となった連盟は、四段以上・タイトル経験者の女流棋士を正会員とした。

以上のコメントのように、里見の奨励会受験に関する問題はなかなか複雑です。改めてブログのテーマとします。

次回(5月5日)は、現役棋士40年目を迎えた田丸の心境。

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2011年4月26日 (火)

最強の「女流棋士」の里見香奈女流三冠が初の「女性棋士」をめざす背景

今や最強の女流棋士である里見香奈(女流三冠)が、棋士養成機関の「奨励会」の1級編入試験を受験するという話には、私もかなり驚きました。里見はその理由について、「奨励会に入って自分の棋力を磨き、自分がどこまでできるか挑戦したい」と語りました。

里見は女流棋戦のほかに、竜王戦・王座戦・棋聖戦などのプロ公式戦にも特別出場できます。そのプロ公式戦での対局は、3年間で15局ありました。成績は2勝(矢倉規広六段と牧野光則四段に勝利)13敗でしたが、内容的には大いに健闘していると思います。

私見では、里見が自分の棋力を磨く環境は現状でも十分だと思います。ただ里見はプロ公式戦で対局を重ねていくうちに、自分の実力不足を痛感したようです。より高いレベルに達するには、奨励会で修業するのが最適と考えたのでしょう。19歳という若さは、どんな難関にも立ち向かっていけそうです。私は、そんな里見の心意気を高く評価したいです。

里見が奨励会に入会して四段に昇段すれば、初の「女性棋士」が生まれます。しかしそれに至るまでの道程は、厳しい三段リーグが象徴するように、きわめて長く険しいものがあります。過去の例では7人の女性が奨励会で修業しましたが、最高位は1級でした。現在は3人の女性が奨励会に在籍しています(2級が2人、4級が1人)。

それから、ほかの男性奨励会員と、将棋連盟から女流棋界と奨励会の重籍を特例で認められた里見とでは、決定的な立場の違いがあります。前者は四段に昇段できなければ、奨励会を退会するしかありません。後者の里見は、女流トップ棋士としても活動して脚光を浴び、仮に奨励会を退会しても女流棋士は続けられます。将来の保証がなくて人生がかかった前者と、自分の棋力を磨きたいと純粋に思う後者の対局はどうなるのでしょうか…。

じつは、女性奨励会員が女流棋士を兼ねることは以前は認められました。女流棋界のレベルアップにつながり、人気も拡大する一定の成果がありました。その一方で、男性奨励会員に悪影響を及ぼす、奨励会の日程が女流棋戦の対局に左右される、などの弊害が生じました。ある年には、奨励会の最下級である6級の女性奨励会員が、プロ公式戦に特別出場して四段の棋士と対戦しました。本来ならば記録係を務める立場の者が対局席に座り、その女性奨励会員より先輩で上位者が記録係として「お茶」を出したのでした。

1998年(平成10年)の連盟総会では、前記のような問題を指摘する声が高まりました。そして投票の結果、女流棋界と奨励会の重籍を禁止することが決定しました(すでに重籍していた女流棋士は対象外)。つまり、里見の場合は特例の措置だったのです。

約15年前に放送されたNHKの連続テレビ小説『ふたりっ子』は、将棋界を舞台にしたドラマでした。ヒロインの「香子」は棋士をめざして奨励会に入会し、苦難の末に四段に昇段できました。しかし、それはドラマでの話です。現実には、女性棋士は今まで生まれていません。

このように将棋界は男社会ですが、「歌舞伎」みたいに女子禁制ではありません。女流棋界は男子禁制なので、いわば「宝塚」にあたります。なお、昔から数多くの女性棋士が生まれている囲碁界では、女流棋戦はありますが、女流棋士という概念はないそうです。

次回は、里見の奨励会受験に関するコメントについて。

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2011年4月22日 (金)

特例の奨励会編入試験を受けて女性初の「棋士」をめざす里見香奈女流三冠

女流棋士の里見香奈(19歳・女流三冠)が棋士養成機関の「奨励会」への受験を将棋連盟に強く希望し、連盟は奨励会1級の編入試験を特例で行うことを決めました。

現行規定では、女流棋士は奨励会との重籍はできません。奨励会を受験して合格すれば、女流棋界は休会しなければなりません。実際に前例がありました。1998年(平成10年)には女流1級の甲斐智美(女流二冠)が奨励会入会によって休会し、5年後に奨励会を退会して女流初段で復帰しました。2009年(平成21年)には女流1級の香川愛生が奨励会入会によって休会し、今年3月に奨励会を退会して女流1級で復帰しました(現在は来年3月まで休場中)。これらの前例に倣うと、里見が奨励会に入会すれば女流棋界は休会し、保持するタイトルも手放すことになります。里見もその覚悟だったようです。

連盟は里見の強い希望を理解し、奨励会受験を受け入れることにしました。ただ現行規定を適用すると、あまりにも影響が大きくなります。そこで、里見の素晴らしい実績に対する評価と女流棋戦主催者への配慮から、女流棋界と奨励会の重籍を特例で認めたのでした。里見は従来どおり、女流棋戦に出場して対局します。ただし竜王戦・王座戦・棋聖戦などのプロ公式戦の女流棋士枠については、奨励会員扱いとなるために出場できません。

通常の奨励会入会試験は、毎年8月に東西で一斉に行われます(昨年の受験者は計71人)。里見の場合は、連盟の意向で特例の編入試験が行われることになりました。

里見は5月3日の関東奨励会例会日に、加藤桃子2級(16歳)、伊藤沙恵2級(17歳)と対戦します《2局とも手合いは里見の後手番》。そして5月21日の関西奨励会例会日に、西山朋佳4級(15歳)と対戦します《手合いは里見の香落ち》。編入試験の対戦相手は、いずれも女性奨励会員です。里見はこの3人と対戦し、2勝すれば奨励会に1級で入会します。1勝2敗は2級で仮入会となり、3敗は不合格です。

里見は2004年(平成16年)の12歳のとき、女流棋士2級でデビューしました。その後、めきめきと頭角を現してタイトル戦で活躍しました。現在は女流名人・女流王将・倉敷藤花の三冠を保持し、通算勝率は7割台に達しています。今年から始まる大型棋戦の「リコー杯女流王座戦」では、優勝候補の最右翼です。まだ19歳と若いので、「里見時代」はかなり長く続くと思います。

里見は盤上で活躍するとともに、女流棋界の若きスターとして盤外でも人気を呼び、メディアに注目されたり写真集が刊行されました。獲得する年間の賞金・対局料も、女流棋士としては大台となる1000万円に近いようです。ちなみに前年度の公式戦でわずか4勝(勝率は2割台)の田丸は、実質的な対局料の総額が約300万円でした。里見の賞金・対局料の総額は、不成績のC級棋士、フリークラス棋士をすでに上回っています。

そんな里見が「奨励会に入って自分の棋力を磨き、自分がどこまでできるか挑戦したい」という強い思いから、奨励会の受験を決意しました。その背景には、いったい何があったのでしょうか…。

里見が奨励会に入会して四段に昇段すれば、女性初の「棋士」が誕生することになります。しかし難関の三段リーグが象徴するように、それに至る道程は長く険しいものがあります。過去の例で女性奨励会員の最高位は、前記の甲斐と岩根忍(女流二段)の1級でした。

次回は、「女性棋士」と「女流棋士」の違いについて。

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2011年4月14日 (木)

「米長哲学」の原点となった大野―米長戦の終局後の意外なエピソード

41年前の1970年(昭和45年)3月に行われたB級1組順位戦の最終戦・大野源一(九段。当時八段・58歳)―米長邦雄(永世棋聖。同七段・26歳)戦は、大野が勝てばA級に昇級して5年ぶりに返り咲きできる一戦でした。米長はこの対局に際して、「自分にとって重要ではないけれど、相手にとって重要な対局こそ全力で戦え」という心境で臨みました。これが、いわゆる「米長哲学」の原点となったのです。

米長は後年に将棋雑誌の随筆で、故人となった大野の思い出を綴りました。前記の大野戦の模様、終局後の意外なエピソードも明かしました。それを抜粋してお伝えします。

米長は必勝を期して対局に臨みましたが、大野に猛烈に攻められて不利な形勢となりました。しかし懸命に粘っているうちに逆転の予感がしたとき、心の奥では「うまく負かされたい」と思ったり、「勝負師に情けは禁物だ」と自身を戒めたり、心がかなり揺れ動いたそうです。そして深夜の12時すぎ、米長が逆転勝ちを果たしました。

終局後、大野と米長はしばらく放心状態でした。控室で待機していた棋士や新聞記者らが対局室に入ってくると、重苦しい雰囲気にいたたまれなくなり、全員がすぐに出ていきました。やがて、対局者だけで感想戦が始まりました。米長は相槌を打つのもつらく、一刻も早くこの場から去りたい気持ちでした。感想戦は1時間ほどで終わり、大野が駒箱に駒を収めたとき、米長はとてもほっとしました。

しかし米長が立ち上がろうとすると、大野から「米長、碁を打とう」と意外な言葉をかけられて驚きました。普段の対局なら丁重に断って帰るところですが、大先輩の無念の思いを察するとそうもいきません。仕方なく碁の相手を務めました。米長はうわの空で打ったので、ひどい内容の碁でした。それは大野も同じで、石をぼろぼろ取られました。

とうとう夜が明けました。米長が「これから東京に帰ります」と挨拶すると、何と大野は「駅まで送らせてくれ」と言いました。米長が「1人でも帰れます」と固辞すると、大野は「お前はあわてもんだからいかん。わしがどうしても送る」と聞き入れません。そして両者は対局場の関西本部(当時は大阪市南部の阿倍野区)から新大阪駅まで、タクシーに同乗したのです。こうしてB級1組順位戦の最終戦の長い1日が終わりました。

木見一門の大野は升田幸三(実力制第四代名人)、大山康晴(十五世名人)の兄弟子で、両巨頭を呼び捨てにできる唯一の棋士でした。大野はかなり毒舌で、仲間内を二言目には「この阿呆」「素人将棋のくせに」などと言いました。しかし気さくで無類の好人物なので、相手は不快に思いませんでした。大野―米長戦から数ヶ月後に両者が再会したとき、大野は「おっ、米長。お前はまだ生きていたのか」と、笑顔で話しかけてきたそうです。

大野は律儀な性格でした。対局に遅刻することは決してなく、用事があると必ず30分前までに到着しました。そんな用心深い大野が、1979年(昭和54年)1月の夜に、あまりにも突然の終焉を迎えたのです。仕事が終わって家路を急いでいたのか、遮断機の下りた鉄道の踏切に入り込んでしまい、轢死しました。享年67歳でした。

次回は、コメントへの返事。

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2011年4月11日 (月)

「米長哲学」の原点となった41年前のB級1組順位戦の最終戦での盤上ドラマ

1970年(昭和45年)3月13日。B級1組順位戦の最終戦が行われました。その時点では、11勝1敗の内藤国雄(九段。当時棋聖・30歳)のA級昇級が決定していました。ほかの昇級候補は、9勝3敗の大野源一(九段。同八段・58歳)、中原誠(十六世名人。同七段・22歳)、8勝4敗の芹沢博文(九段。同八段・33歳)の3人でした。大野が米長邦雄(永世棋聖。同七段・26歳)に勝てばA級昇級が決定します。大野が負けた場合、高柳一門の兄弟弟子が対戦する芹沢―中原戦の勝者がA級に昇級します。

この41年前のB級1組順位戦の最終戦では、勝負にまつわる盤上ドラマのほかに、様々なエピソードがありました。将棋雑誌の記事、米長の随筆などを元にしてお伝えします。

最終戦の何日か前、芹沢と米長が酒場で会いました。芹沢は晩年、タレント活動のほうが目立っていました。しかし青年時代は名人候補として大いに嘱望され、卓抜した将棋観は中原や米長に影響を及ぼしました。その米長は芹沢を兄のように敬い、芹沢から「振り飛車はやめたまえ」と忠告されて居飛車一筋になったほどでした。酒場で米長が「芹沢さんのためにも、僕は絶対に勝ちます」と激励すれば、芹沢は「ようし、中原をぶちのめしてやる」と断言しました。芹沢がA級に昇級すれば、7年ぶりの返り咲きとなります。

前回のブログに書いたように、米長は大野との対局に際して、「できれば人柄のよい大野大先輩にうまく指されて、負かされればいいなぁ」ということを、ちらっと思ったそうです。しかし「自分にとって重要ではないけれど、相手にとって重要な対局こそ全力で戦え」という思いになり、それが「米長哲学」の原点となりました。大野との対局で大阪に出向いた前日には、「死にもの狂いで戦おう」と決心しました。対局当日の朝、対局場の関西本部(当時は大阪市南部の阿倍野区)は多くの棋士や新聞記者らが詰めかけてにぎやかでした。還暦に近い大野がA級に昇級すれば快挙で、5年ぶりの返り咲きとなります。

大野―米長戦は、大野がずっと優勢でしたが、最後に勝ち筋を逃して、米長が逆転勝ちしました。終局は深夜の12時すぎでした。

東京で行われた芹沢―中原戦は大熱戦が展開され、芹沢が優勢になりましたが勝ち筋を逃して、中原が逆転勝ちしました。終局は深夜の1時すぎでした。終局直後、兄弟子の芹沢は中原に「これでお前は八段だな。おめでとう」と、A級昇級を意味する言葉で祝福しました。中原は怪訝な表情でした。芹沢が大阪の結果を知るわけがありませんが、主催紙の観戦記者が深夜の12時すぎから盤側にずっといたので、直感で米長が勝ったと覚ったようです。やがて関係者から大阪の大野―米長戦の結果が知らされると、芹沢は「もういちど、念のために大阪に電話して確認しなさい」と言いました。当時は現代のようにネット中継がなく、ファクス通信もなかったので棋譜用紙を見て確認できませんでした。

中原は深夜に帰宅し、待っていた両親に「上がったらしい…」と伝えました。夢うつつの気分で、内心まだ信じられませんでした。そして午前中になって将棋雑誌編集部から芹沢戦の自戦記を依頼されると、A級昇級をやっと実感したのです。

芹沢は終局後、観戦していた若手棋士を誘って新宿へ飲みに行きました。朝に帰宅して夫人から結果を聞かれると、「負けたよ。中原が昇段だ」と答えました。すると夫人が「あら、よかったわね。お祝いに何をあげようかしら」と明るく言ったので、芹沢は落ち込んでいた気分がなぜか和らいだそうです。

じつは、大野―米長戦でも終局後に意外なエピソードがありました。それは次回にて。

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2011年3月31日 (木)

丸山九段の冷却シート、NHKの将棋番組、香落ち戦のコメントへの返事

「A級順位戦最終局でネット上で話題になったのは、丸山忠久九段が対局中に頭髪の上に冷却シートのようなものをしばらく貼ったことです。あれはどういう意図があったのでしょうか」というコメント(3月7日)は《ひろ》さん。

私も衛星放送の中継でその光景を見ました。丸山にとって負ければA級陥落のおそれがある対局でしたが、そんな深刻さとは裏腹に奇妙な感じがしました。相手の対局者の渡辺明(竜王)も不思議そうに見ていました。あれは子ども用の熱冷ましシートだそうで、家族に幼児がいる丸山家の常備薬なのかもしれません。丸山は緊張感による頭部のほてりを冷ますためにそれを使いました。朝日新聞の観戦記によると、当初は額に貼り、すぐに取り外して頭の上に貼り直したそうです。どちらにより効能があるのかはわかりません。丸山は局後、苦笑しながら「変でしたか?」と話したそうです。

「4月からNHK杯戦の番組の放送時間が短くなるようです。講座の時間も短くなり、衛星放送の土曜日のジャーナルがなくなります。名人戦、竜王戦が今までのように衛星放送で放送されるのか気がかりです」というコメント(3月11日)は《関西関西》さん。

NHKは4月1日から、従来の衛星放送(BS1・BS2・ハイビジョン)が2波に減ります。BS1・BSプレミアムに移行し、前者は国際報道とスポーツ、後者は教養と娯楽の番組に分かれるそうです。そうした再編によって、将棋番組にも変更がありました。

NHK教育テレビで日曜日に放送される将棋・囲碁の番組は、次のような時間帯に変わります。将棋講座(10時~10時15分)、将棋NHK杯戦(10時15分~11時45分)、囲碁将棋フォーカス(11時45分~12時15分)、囲碁講座(12時15分~12時30分)、囲碁NHK杯戦(12時30分~14時)。将棋・囲碁ともに、講座が5分、NHK杯戦が10分、放送時間が短くなります。そして衛星放送の情報番組『囲碁将棋ジャーナル』が、地上波の『囲碁将棋フォーカス』に変わります。

NHKの衛星放送統合によって、番組のラインナップに様々な影響が出ています。地上波の将棋・囲碁の番組の放送時間は少し減ることになります。ある関係者の話によると、衛星放送の名人戦、竜王戦などのタイトル戦中継は、報道番組という意味合いもあってこれまでどおり放送されるそうです。ただし「将棋の日」などのイベント関係の番組は、将来的にどうなるか不明のようです。

「香を引いて指すというのは、左の香落ちですか。また、公式戦で香落ち戦を指したのは升田幸三ですか」という内容のコメント(3月16日)は《よっしー》さん。

香落ちの手合いには、飛車側の「右香落ち」と角側の「左香落ち」があります。江戸時代には右香落ちも指されましたが、明治時代以降は左香落ちに統一されています。右香落ちでは下手側がハンディをとがめにくく、左香落ちよりも平手に近いといえます。公式戦で香落ち戦を指したのは、升田幸三(実力制第四代名人)と大山康晴(十五世名人)の2人だけで、いずれも王将戦で相手の対局者を「指し込み」にしました。升田は当時・名人の大山に勝ちました。大山は二上達也(九段)、加藤一二三(九段)らに勝ちました。

次回は、新年度から将棋連盟が公益社団法人に。

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2011年3月28日 (月)

プロ棋士が犯した様々な「反則」の中で最も多いのが「二歩」

「反則といえば、真っ先に思い浮かぶのは淡路仁茂九段ですね」というコメント(3月5日)は《永世棒銀》さん。「そんなに印象に残る珍反則ですか。内容を知りたいです」というコメント(同)は《川口博司》さん。

プロ棋士といえども、錯覚やうっかりによって「反則」を犯したことが稀にあります。過去10年間の公式対局(女流棋戦も含む)を調べてみたら、約40局の反則負けの例がありました。年平均が約4局で、多いか少ないかはみなさんで判断してください。

反則の中で最も多いのが「二歩」で、半数を占めました。終盤の寄せ合いの局面で、読みに没頭して盤を部分的に見たり、秒読みに追われたとき、つい自陣の歩を忘れて敵陣に歩を打ったり、敵陣に打った歩を忘れて「底歩」を打った例が大半でした。もっとも小林健二(九段)などは、▲9四歩がいるのに▲9二歩と打ちました。前からの読み筋だったので、二段差の二歩に気がつかなかったようです。

二歩の共通例として、「筋悪」の手はありません。「好手」や「手筋」の手が多いものです。そんな「魅力」に引き込まれて、郷田真隆(九段)、田中寅彦(九段)、山崎隆之(七段)、矢内理絵子(女流四段)らの一流棋士でも二歩を打ちました。また、大山康晴(十五世名人)も二歩を打ちましたが、それで大山に初めて勝った相手の棋士は「二歩でなくても勝てる形勢だったのに…」とぼやいたそうです。

《永世棒銀》さんのコメントにある淡路九段の反則は「2手指し」でした。序盤で相手の手番なのに、次の手が必然なので続けて指してしまったのです。同じ例はほかに2局あり、いずれも序盤の局面でした。序盤の駒組が続いている局面では、どちらの手番かわかりにくいことがあります。私はそんなとき、棋譜用紙を見て手番を確認します。

「豪快」な反則といえば、石橋幸緒(女流四段)が一番でしょう。▲6六角が自分の▲4四歩を飛び越えて、▲2二角成と王手したのです。石橋は数手前からそれで詰みと読んでいて、反則を指摘されても何のことかわからなかったそうです。四段目の歩がしばし消えていたのでしょうか…。詳しい話は2009年10月19日のブログを見てください。

「怪物」の異名がある若手棋士の糸谷哲郎(五段)も、豪快な反則負けをしました。終盤で△7八同馬と王手された局面で、8八の玉で▲7八同玉と馬を取ったつもりでしたが、馬を取って駒台に置いてから何と▲8七玉と指したのです。△7八同馬▲同玉△3八飛の王手のとき、▲8七玉と逃げる読み筋なのが、前の2手を飛び越えて▲8七玉と指してしまいました。つまり、2手指しの反則でした。

そのほかに、後手番なのに先手番と思い込んで初手を指す、△4七成桂が△3六成桂と引く、△4三馬が△7一馬と引く、▲5四角が▲4五角成と成る、王手をうっかりする、などの反則負けの例がありました。

それにしても、様々な反則があるものです。ちなみにネット将棋では、二歩などの反則の手は、いくらクリックしてもソフトが対応しません。

私は40年間の公式対局において、反則をしたことはありません。ただ近年は、反則に近いような悪手や見落としをよく指してしまいます。

次回も、コメントへの返事。

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2011年3月22日 (火)

59年前の王将戦で升田幸三が木村義雄との香落ち戦を対局拒否した「陣屋事件」

升田が対局拒否した陣屋事件

神奈川県秦野市の「陣屋」旅館は、将棋・囲碁のタイトル戦でよく使われています。私が立会人を務めた先日の王将戦第6局の対局場にもなりました。丹沢山塊の地下水源が湧き出る鶴巻温泉の元湯でもある陣屋は、鎌倉時代は源頼朝の側近の武将・和田義盛の陣地でした。明治時代には、黒田藩が明治天皇をお泊めするために豪壮な建物を築きました。そんな歴史的に由緒がある旅館で、将棋の対局にからむ「陣屋事件」が59年前に起きたのです。

1952年(昭和27年)2月17日。第1期王将戦(木村義雄王将―升田幸三八段)第6局の対局前日でした。木村と関係者らは対局場の陣屋に早めに着きました。升田は独りで夜に到着し、陣屋の玄関のベルを鳴らすと、だれも迎えに出てきませんでした。奥からは宴会での人声がかすかに聞こえました。すると、升田は旅館側の非礼に腹を立てて隣の旅館に引きこもり、王将戦関係者に「対局拒否」を伝えたのです。

青天の霹靂の事態が起きました。将棋連盟と王将戦の主催紙・毎日新聞社の関係者は、翌日の対局開始まで升田を懸命に説得しました。しかし升田の気持ちは変わらず、ついに「対局放棄」で升田の不戦敗という結果となったのです。

連盟理事会は升田の行為を不当として、1年間の出場停止処分にしました。しかし連盟の措置をめぐって、将棋を愛好する著名人や識者が新聞・雑誌で賛否両論の論戦を交わし、社会的にも大きく注目されました。やがて連盟は、一方の当事者の木村(当時・名人)に問題の解決を一任しました。木村は升田に遺憾の意を表し、連盟の処分を白紙に戻す円満な裁定案を示して決着が付きました。以上が世に知られた「陣屋事件」のあらましです。ただ事の真相は、もっと根深いところにあったのです…。

じつは第1期王将戦第6局は特別な対局でした。升田は第5局で木村に勝って4勝1敗とし、王将のタイトルを獲得しました。通常はそれで終了ですが、当時の王将戦は7番勝負を全局戦いました。さらに「3番手直り指し込み」という厳しい制度が設けられました。一方が3連勝または4勝1敗で3番勝ち越すと、タイトル獲得と同時に手合いが「香平」に変わるのです。つまり第6局は、八段の升田が王将・名人の木村に対して、香落ちの手合いで指すという前代未聞の対局になるはずでした。

升田は少年時代、「名人に香を引いて勝ったら…」という意味の言葉を物差しの裏に書き残し、棋士をめざして故郷の広島から大阪に向かいました。それが王将戦第6局で実現することになったのですが、升田の心はなぜか晴れ晴れとしませんでした。病気を理由にして不戦敗も考えたそうです。そんな思いを抱いていたので、陣屋でのちょっとしたことが対局拒否に至ったようです。その裏事情については、次回のテーマにします。

陣屋の関係者の話によると、あの王将戦の対局前日の夜、旅館の玄関のベルは壊れてなく、迎えの者も近くにいたそうです。なお数日後、升田が陣屋を訪れて旅館側とわだかまりを解いたそうです。その後、陣屋は旅館の玄関前に陣太鼓を置き、係員が太鼓を鳴らして宿泊客を迎えることにしました。上の写真で、右が陣太鼓。昨年からは敷地の入り口に置き、隣接するレストランの客にも陣太鼓で迎えています。

次回は、名人戦をめぐる大新聞社の思惑と大山・升田の関係。

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2011年3月18日 (金)

大震災と停電で慌ただしかった王将戦(久保王将―豊島六段)第6局で久保が勝って王将初防衛

王将戦第6局で久保が初防衛

「東北関東大震災」が勃発して世の中が騒然とし始めた今週の3月14・15日。王将戦(久保利明王将―豊島将之六段)第6局が神奈川県秦野市・鶴巻温泉「陣屋」で行われ、私は飯野健二七段とともに立会人を務めました。第5局は先週の8日・9日で、豊島が勝って2勝3敗と挽回したことで第6局が実現しました。ほかの対局日程の関係によって、第5局との間隔は移動日を含めてわずか4日でした。さらに11日には大震災が起きました。対局者も関係者も、大変な事態で第6局を迎えたのでした。

じつは主催紙のスポーツニッポン新聞社・毎日新聞社と将棋連盟の間で、水面下の話し合いが行われたそうです。大震災によって甚大な被害が生じ、スポーツ・文化関連の行事が中止や延期になっている状況において、王将戦第6局を行ってよいものかと危惧したのです。ただ大震災から対局までの日数が少ないうえに、通信事情が悪化して関係者同士で連絡が取りにくく、結論がはっきり出ていませんでした。

対局前日の13日。対局者、立会人、関係者らが無事に対局場に到着しました。夕方5時には対局室で「検分」をして、明日以降の対局に備えました。しかしその時点でも対局を行うかどうか、関係者同士で話し合いがされていたのです。意見を求められた私は「こんなご時世に対局をするのか、という批判にはあえて甘んじ、将棋ファンに真剣勝負を見てもらいましょう」と、対局を行ってほしいと希望しました。そして夜の8時ころ、主催紙の責任者が「いろいろな意見が出ましたが、対局を粛々と行ってもらうことになりました」と語り、対局を行うことが正式に決まったのです。

対局開始前、大震災の被害者に哀悼の意を表し、全員で黙祷を捧げました。上の写真は、1日目の午前中の対局光景(右が久保、左が豊島)。窓から陽がたっぷりと射し込み、室内の照明も明るいです。しかし思わぬ難題が生じました。

対局場の秦野市は東京電力が実施する「計画停電」の対象地域になっていて、対局中の停電が心配されたのです。午前と午後は何とかできる明るさですが、陽が傾く夕方以降は真っ暗になります。そこで対局場の旅館が発電機を手配してくれ、盤の近くに3台の電灯を置きました。1日目は停電にならず、対局者が「封じ手」をした後の6時すぎに、試しに照明を落として発電機で電灯を点けてみました。その様子は、まるで「闇試合」をするようでした…。

こうして慌ただしい状況でしたが、幸いにも2日目も停電になりませんでした。対局は通常どおりに行われ、私は立会人としてとても安堵しました。

将棋の内容は大熱戦でした。久保の十八番の三間飛車に対して、豊島は新工夫の指し方で押し気味に進めました。しかし久保は粘り強く指して守り、機を見て反撃して次第に優位に立ちました。そして最後は鮮やかな詰み手順で勝ちました。久保の将棋は「さばきのアーティスト」と称されますが、今では「粘りのアーティスト」ともいえます。感想戦で自信の一手を、「耐久性がある」と語ったのが印象的でした。

この第6局に勝って王将を初防衛した久保は「自分らしい将棋を指すことを心がけました」と語りました。羽生善治(名人)から王将を奪取した前期王将戦第6局も、本局と同じ対局場でした。20歳の若さでタイトル戦に初登場した豊島は「タイトル戦を戦うのは楽しかったです。また出たいです」と語りました。

次回は、59年前に「陣屋」旅館で起きた前代未聞の「対局拒否」事件について。

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2011年3月11日 (金)

田丸流の相振り飛車、テレビ将棋の感想戦、反則の指摘などのコメントへの返事

「田丸八段は相振り飛車にして玉を飛車側に囲う形をよく指されました。どんな経緯で思いつかれたのでしょうか」というコメント(1月21日)は《spinoza05》さん。

通常の相振り飛車は、玉を飛車と離して右側に囲います。玉を左側に囲う利点は、相手の攻撃をじかに受けないことです。私が公式戦でよく指したのは、まず6筋の位を取ってから<▲7八玉▲8九飛▲6六角▲7七桂▲6七銀▲5七銀▲5八金▲3八金>と組む形です。飛角桂の攻め駒が相手陣をにらみ、金銀のバランスが好型です。私は若手棋士時代、相居飛車から「右玉」の戦型(▲3八玉▲2九飛の形)が好きでした。それを「左玉」にアレンジしたものが、田丸流の相振り飛車なのです。

「NHK杯戦や銀河戦のテレビ将棋は、文字放送を導入すべきだと私は考えています。感想戦で対局者の声が小さすぎて、何を言っているのかよくわからず、いらいらしてしまうからです。要所の局面では、番組制作者がテロップを画面に表示して説明すれば、視聴者は理解しやすいです」という内容のコメント(1月29日)は《吉澤はじめ》さん。「NHK杯戦で対局者はピンマイクを付けているのに、感想戦では小声でもごもご言ってよく聞こえません。ぜひ改善してほしいです」というコメント(3月8日)は《チャンク》さん。

テレビ将棋での感想戦は、その将棋の流れを振り返りながら、対局者の読み筋を知ったり勝因や敗因を確認する意味で、視聴者はとても参考になると思います。しかし前記の方たちの指摘のように、対局者の感想が意味不明瞭だったり、小声で聞き取れないことがよくあります。そんなときは司会者(NHKは矢内理絵子女流四段)が間に入り、感想戦の進行を整理したり、対局者の感想をはっきり確認するのが望ましいと思います。ただ司会者の女流棋士は対局者に遠慮しているのか、感想戦を「仕切る」形にはなっていません。

対局者は終局直後、通常の心理状態ではありません。勝者はほっとした脱力感、敗者は悔しさによる虚無感が生じます。そんな状態で感想戦に入れば、つい小声でもごもごと話してしまうのは仕方ないと思います。それは長時間の対局でも同じです。対局者が平静な気持ちになってはっきり語れるのは、だいたい終局して30分以上たってからです。

感想戦の要所の局面で、画面にテロップを表示して説明するのは名案だと思います。将棋番組は生放送ではないので、技術的に難しくなく、専門的なことはだれか棋士が監修すればいいでしょう。NHKの将棋番組担当者と会う機会があったら、提案してみます。

「私の実戦(▲側が私)で、▲8二銀△○○▲9一銀不成△○○▲8二銀成と進んだのですが、記録係の書いた棋譜用紙には▲8二銀△○○▲9一銀成△○○▲8二成銀と書いてあり、しばらく進んだ時点で審判員にそれを指摘され、協議の結果、私の反則負けとなりました。1人の観戦者が▲9一銀不成だったと言ってくれましたが、駄目でした」というコメント(2月25日)は《まさき》さん。

▲9一銀成から▲8二成銀と指せば、たとえ残り時間が切迫している状況でも、記録係や相手の対局者はたいがい気がつくはずです。明らかに記録係の記載ミスです。そもそもアマの大会では、棋譜用紙に誤りが生じるのはよくあることです。ところが、その棋譜用紙を優先事項にして反則負けに決めたとは、理解しがたいです。私見では、対局中の盤面をあくまでも優先すべきだと思います。

次回も、コメントへの返事。

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2011年3月 4日 (金)

A級順位戦の最終戦で森内九段が名人戦挑戦者に、降級は木村八段、藤井九段

A級順位戦の最終戦・全5局が、3月2日に東京の将棋会館で一斉に行われました。カードは、森内俊之九段(6勝2敗)―久保利明二冠(4勝4敗)、渡辺明竜王(6勝2敗)―丸山忠久九段(3勝5敗)、谷川浩司九段(4勝4敗)―郷田真隆九段(4勝4敗)、高橋道雄九段(4勝4敗)―藤井猛九段(3勝5敗)、三浦弘行八段(3勝5敗)―木村一基八段(3勝5敗)。「将棋界でいちばん長い日」といわれるこの最終戦の模様は、NHK衛星放送の特別番組で午前・午後・深夜に分けて終局まで中継されました。

名人戦挑戦者は同成績の森内九段と渡辺竜王にしぼられ、一方が挑戦権を獲得するか、両者が同成績でプレーオフ(挑戦者決定戦)に持ち込まれる可能性がありました。

降級(2人)該当者は、不利な順に藤井九段、木村八段、丸山九段、三浦八段、久保二冠。藤井と木村は、負けると降級が決まりました。昨年の名人戦挑戦者の三浦、4勝している久保も、ほかの対局の結果次第では負けると降級する可能性がありました。

中でも注目された対局は、名人戦挑戦と残留をめざす森内―久保戦、渡辺―丸山戦、ともに降級該当者の三浦―木村戦でした。もっとも順位戦に「消化試合」はありません。昇級・降級に関係なくても、最後の勝ち負けで生じる順位差がいかに大きいかを、棋士たちはよく心得ています(昇級・降級で同成績の場合、順位上位者を優先)。

どの対局も熱戦が繰り広げられ、夜戦に入りました。そして12時前に三浦―木村戦が終わり、三浦が勝ちました。木村は強靭な受け将棋が得意で「千駄ヶ谷の受け師」の異名がありましたが、本領を発揮できずに敗れて、4期在籍したA級から降級しました。投了前にトイレに行って数分間も中座したのは、心の整理を付けるためだったと思います。

高橋―藤井戦は高橋が勝ち、藤井は10期在籍したA級から降級しました。谷川―郷田戦は郷田が勝ち、通算1200勝を目前に足踏みしている谷川はまたも敗れました。渡辺―丸山戦は丸山が勝ち、渡辺は挑戦者争いから一歩後退しました。

森内―久保戦は全局の中で、最も早く戦いが始まりました。しかし日付が変わった12時を過ぎても、両者は自陣の駒組に手を戻すなど、一進一退の力のこもった攻防が展開されました。やがて森内が勝ち筋になったと思われた局面で、久保が驚異的な粘りを発揮して、形勢はいつしか混沌としました。そして両者1分将棋の秒読みが1時間ほど続いた1時40分、森内が175手でようやく勝ちました。衛星放送の解説者の島朗九段は「久保さんの生命力の強さには驚きました。森内さんでなければリードを守り切れなかったでしょう」と評し、両者の健闘ぶりを讃えました。

A級順位戦の最終戦の各対局は部屋ごとに仕切って行われ、対局者はほかの対局の結果がわかりません。自分で結果を聞いたり、ほかの人が知らせることもありません。それが不文律になっているのです。森内は終局後、主催紙記者のインタビューで自分が名人戦挑戦者になったことを知りました。一方の久保には、感想戦で結果(久保が残留したこと)を伝えた人はいなかったようです。しかし当人はその場の空気で、だいたいわかるものです。久保の表情は最初こそ硬かったですが、だんだん緩んでいったことが物語っていました。

森内九段は名人戦の舞台に、3年ぶりに登場することになりました。羽生善治名人との7番勝負第1局は、4月7日・8日に東京・目白の「椿山荘」で行われます。

次回は、女流棋士講習会で田丸が女流棋界の歴史を講義。

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2011年2月 8日 (火)

奨励会の年齢制限規定の変遷とそれにまつわる将棋ドラマ

私が奨励会に入会したのは46年前の1965年(昭和40年)。当時の奨励会A組(三段リーグ戦)に在籍した21人のうち、順位戦・C級2組から降級した40代の棋士が2人、30代の三段が6人いました。奨励会に年齢制限規定がなかった時代でした。それから3年後、将棋連盟は「30歳までに四段に昇段できなければ奨励会を退会」という年齢制限規定を定めました。それに該当した奨励会員の多くは「準棋士」(現・指導棋士)となり、普及や後進の育成などの活動に当たりました。

連盟が68年に年齢制限規定を定めたのは、人数が増えていった三段リーグ戦を精鋭化させたい、奨励会を退会した準棋士に普及活動などに専念してほしい、将棋界以外の新天地で出直してほしい、といった理由によるものでした。現実には「古参奨励会員の整理」でしたが、それはやむをえなかったと思います。私は当時、18歳の三段でした。同年代の仲間たちも含めて、30歳という年齢はまったくぴんときませんでした。しかし、それから13年後の81年、その年齢制限規定に直面した奨励会員が現れました。

81年にNHKでドラマ『煙が目にしみる』が放送されました。主人公は30歳の年齢制限が迫っている奨励会の三段という、異色の将棋ドラマでした。原作者は、後年に『独眼竜正宗』『八代将軍吉宗』などの大河ドラマを書いた劇作家のジェームス三木さん。将棋愛好家のジェームスさんは以前から奨励会の年齢制限規定に関心があり、ドラマのモデルとしてそれに近い立場の奨励会員を取材しました。その1人が鈴木英春(三段)でした。

私は鈴木と奨励会入会・年齢が同年で、10代のころはとても親しく付き合いました。その鈴木は19歳で三段に昇段しました。ただ鈴木の以後の生活ぶりは、夢とロマンを求めて全国各地を放浪したり、禅の世界に魅せられて寺に住み込んだりと、将棋一筋ではありませんでした。やがて年月が過ぎ去っていくと、年齢制限規定が重くのしかかってきたのです。ドラマ『煙が目にしみる』では、主人公は苦難の末に四段に昇段できます。しかし現実は厳しく、鈴木は81年の春に奨励会を退会しました。鈴木はその後、アマ棋界に転じてアマ王将戦で優勝するなど活躍し、後進の育成にも力を入れています。

連盟は82年、奨励会の年齢制限規定を30歳から25歳に引き下げました(81年までの入会者は従来の30歳)。当時の奨励会は三段以下が合体された制度(年間の四段昇段者は不定数)でしたが、87年から現行の三段リーグ戦の制度(年間の四段昇段者は4人)に変わりました。四段昇段が狭き門になったことで、やがて奨励会を年齢制限規定で退会した三段が増えました。その中で、アマ棋界に転じてアマ名人戦・アマ竜王戦などの主要棋戦で優勝したのが鈴木純一さん、瀬川晶司さん(6年前に特例試験でプロ棋士四段に)、小牧毅さん、今泉健司さん、秋山太郎さん、小泉有明さん、加來博洋さんなど。

奨励会を年齢制限規定で退会した三段の中には、昇段争いにいつも加わった人もいて、「将棋が弱くてやめたのではない」というのが本心でしょう。そこで連盟は1994年(平成6年)、「25歳を過ぎても三段リーグ戦で勝ち越しすれば、1期ごとに28歳まで延長可能」「年齢にかかわらず三段リーグ戦に6期在籍できる」という規定を追加しました。それで年齢制限規定は少し緩和されましたが、三段リーグ戦が難関である現実は変わりません。

次回は、相撲界の八百長問題について。

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2011年2月 4日 (金)

将棋連盟の財政事情の影響を受けた四段昇段制度の変遷

昔の奨励会は、三段と二段以下が合体された制度でした。三段は8連勝か12勝4敗で四段に昇段できました。この制度だと年間の四段昇段者が不定数でした。1950年代半ばには、四段昇段者が4人、5人と多かった年がありました。当時の将棋連盟の運営は経済的にかなり苦しかったそうです。そこで財政の悪化を憂慮した連盟は、四段昇段者を限定させる制度として「予備クラス」を設けました。順位戦・C級2組からの降級者と三段が参加した半年ごとのリーグ戦で、優勝者が四段に昇段できました(年間で2人)。

この予備クラス制度は1956年(昭和31年)度から始まりました。やがて人数が増加すると、奨励会A組(予備クラスを改称)は東西のリーグ戦に分けられ、東西の優勝者同士が対戦して、勝者が四段に昇段できました。これが世に言われた「東西決戦」でした。勝つと負けるとでは、まさに天と地ほどの差がありました。その後、あまりにも厳しすぎるという声もあって、62年度からは年間の四段昇段者が3人に増えました。前期・後期の東西決戦の敗者同士が対戦して、勝者が四段に昇段できました。

なお前期・後期に連続優勝(前期の東西決戦に敗戦)すると、無条件で四段に昇段できました。その場合、後期リーグ戦の一方の優勝者も四段に昇段できました。連続優勝したのは桜井昇(八段)、桐山清澄(九段)、勝浦修(九段)の3人でした。それで恩恵を受けたのは田辺一郎(七段)、高田丈資(故七段)、石田和雄(九段)でした。

69年度からは連盟の財政事情によって、年間の四段昇段者は以前の2人に減りました。私は同年度の後期リーグ戦で優勝しましたが、東西決戦で坪内利幸(七段)に敗れました。それから2年後の東西決戦で酒井順吉(七段)に勝ち、四段に昇段できました。

74年度からは、三段と二段以下が合体された制度が復活しました。その制度が決まった同年5月の連盟総会では、順位戦・C級2組から降級してもすぐには引退とならない「C3」(現行のフリークラスに当たる)制度が設けられました。私は、棋士寿命を延ばす代わりに、奨励会の四段昇段制度を緩和したバーターのように思えたものでした。

連盟の財政は70年代半ばから80年代半ばにかけて、棋戦の契約金の増額などによって割りと安定していました。そんなこともあって、前記の奨励会制度は13年間も続きました。やがて連盟は、四段昇段者が多い年では8人も生まれた状況を危惧するようになりました。そして1987年(昭和62年)度からは、現行の三段リーグ戦(年間の四段昇段者は4人)の制度に変えました。

こうして四段昇段制度の変遷を振り返ってみると、連盟の財政事情の影響をいつもじかに受けたのが奨励会だということがよくわかります。昔の東西決戦について、あの厳しさがより強い棋士を生んだとの見方もありました。実際に中原誠(十六世名人)、米長邦雄(永世棋聖)は名人になりました。ただ東西決戦を2回経験した私は、若くて有望な奨励会員の芽を摘んだ体のいい「産児制限」だったと思っています。それは現行の制度にもいえることかもしれません。ちなみに竜王・名人を獲得した羽生善治(名人)、谷川浩司(九段)、森内俊之(九段)、佐藤康光(九段)などの一流棋士たちは、三段以下が合体された制度の時代に棋士となりました。

次回は、奨励会員の年齢制限規定について。

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2011年2月 1日 (火)

フリークラスから順位戦・C級2組への昇級はかなり高いハードル

順位戦に参加しない棋士はフリークラスに所属します。それには次の3パターンがあります。①順位戦に在籍時に自身の意思でフリークラスに「転出」。②順位戦・C級2組からフリークラスに「降級」。③奨励会三段リーグで次点を2回獲得し、フリークラスに所属を「選択」して四段昇段。現時点で、①は田丸ら18人、②は17人、③は2人(そのうち吉田正和四段は規定の成績を収めて新年度から順位戦・C級2組に参加決定)います。

①では、転出時における順位戦のクラス・年齢によって引退年齢が決まります(田丸の場合は65歳)。順位戦に復帰はできません。②では、規定の成績を収めれば順位戦・C級2組に昇級できます。降級後10年、または60歳で引退。③では、規定の成績を収めれば順位戦・C級2組に昇級できます。10年以内に昇級できないと引退。なお②と③の棋士が引退となった場合、各棋戦のランクや実績によって現役延長の可能性があります。

②と③のフリークラス棋士が順位戦・C級2組に昇級するには、次の規定のうちのひとつを満たすことです。A「年度(4月~翌年3月)の通算成績が所定の条件で6割以上の勝率」。B「直近の30局以上の対局で6割5分以上の勝率」。C「年度の対局が所定の局数(一例が30局)に達する」。D「全棋士参加の棋戦で優勝、タイトル戦挑戦」。

この昇級規定はかなり高いハードルだと思います。普通に勝ったり負けたりでは届きません。2009年度のC級1組(31人)・C級2組(44人)の棋士の成績でAの規定に当てはめてみると、C級1組は広瀬章人(王位)、戸辺誠(六段)など6人、C級2組は豊島将之(六段)、糸谷哲郎(五段)など11人が該当しました。その人数比率は伸び盛りの若手棋士が多い両組でも2割程度でした。ましてや成績不振でC級2組から降級した②のフリークラス棋士にとっては、さらに厳しいです。

実際にこの規定が20年以上前に制定されて以来、フリークラスから昇級できた棋士は伊奈祐介(六段)、伊藤博文(六段)、瀬川晶司(四段)、吉田のわずか4人だけです。このうち②の唯一の昇級例が伊藤でした。③の伊奈と吉田は四段昇段時の年齢が若く(ともに22歳)、フリークラスの中では上昇志向の存在でした。特例のプロ編入試験で合格して棋士になった瀬川も、年齢はともかくとして上昇志向の存在といえました。

その伊奈、瀬川、吉田がフリークラスに所属した1年目の年度(10月に四段昇段の場合は翌年の年度)の成績を、同期のほかの新四段(4人)の成績と比較してみました。伊奈は1998年度に9勝10敗で、ほかの新四段のうち2人は6割台の勝率でした。瀬川は2006年度に14勝10敗で、ほかの新四段のうち2人は7割台、6割台の勝率でした。吉田は09年度に13勝11敗で、ほかの新四段のうち1人は6割台の勝率でした。07年に③のケースでフリークラスに所属した伊藤真吾(四段)は07年度に11勝10敗で、ほかの新四段のうち3人は7割台、6割台の勝率でした。

難関の三段リーグにおいて、1位・2位の四段昇段者と、3位の次点2回による四段昇段者の実力がそれほど違うとは思えません。しかし1年目の成績を比較してみると、前者の新四段たちが明らかに上回っていました。後者の新四段には「10年以内に昇級しないと引退」というプレッシャーが知らずうちに重くのしかかり、それが対局にも影響しているのでしょうか…。

次回は、奨励会での四段昇段制度の変遷。

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2011年1月28日 (金)

フリークラスから順位戦・C級2組に昇級した吉田正和四段

フリークラスに所属する吉田正和四段(25歳)が1月19日に伊藤博文六段との対局(竜王戦)に勝ちました。その結果、直近の通算成績が20勝10敗(0.667)となり、規定によってフリークラスから順位戦・C級2組への昇級が決まりました。今年の6月から始まる新年度の順位戦に参加できます。

吉田四段はアマ時代の2005年5月、朝日アマ名人戦の全国大会で優勝して天野高志さん(朝日アマ名人)に挑戦し、3番勝負で2勝1敗と勝ち越して最年少記録の19歳で朝日アマ名人になりました。その吉田は終局後の勝利者インタビューで、「タイトルに興味はないけど、自分の評価が上がるのはうれしい。今は自分より強いアマはいないと思っている」と語り、型破りのコメントで周囲を驚かせました。表彰式では、正面を向かずに顔を下げたままでした。こうした言動には訳がありました。

吉田は10代前半からアマ棋界で活躍し、主要アマ棋戦で準優勝を2回しました。しかし、なぜか奨励会入りを望みませんでした。その理由は不明でしたが、「アマ棋界にも強い人がおり、まずアマで1番になりたい」と語ったことがありました。やがて北陸で独り住まいをしていた18歳のとき、実戦相手が周囲にいない現実に気がつき、奨励会受験を決心したそうです。その後は、棋譜研究やネット対局に明け暮れて受験に備えました。05年はそうした状況だったので、前記のコメントを率直に述べたのでしょう。

吉田は05年9月、「奨励会初段入会試験」を受験しました。これは1997年に導入された制度(受験資格は満22歳以下で、主要アマ棋戦で優勝または準優勝)で、奨励会員と5戦して3勝すれば合格します。この制度で初の受験者となった吉田は入会試験に合格し、神吉宏充六段門下で奨励会に初段で入会しました。

吉田は入会後、07年の秋に始まった第42回三段リーグに参加して13勝5敗(次点)の成績を収め、翌年の第43回三段リーグでも同成績で次点となりました。三段リーグでは、1位と2位が四段に昇段できます。3位の次点を2回獲得すると、同じく四段に昇段できますが、順位戦に参加できずフリークラスの所属となります。この次点による四段昇段は本人の任意です。過去の例では、伊奈祐介(六段)が1998年にこの権利を行使して四段に昇段しました。伊藤真吾(四段)も07年に同じケースで四段に昇段しました。佐藤天彦(五段)は04年に権利を保留し、2年後の06年に正規のルートで四段に昇段しました。

吉田は2008年10月、「良い区切りで奨励会を卒業し、広い世界で活躍する夢を見たい」という思いから、フリークラスを選択して四段に昇段しました。難関の三段リーグにおいて、2期連続で次点の成績を残したのは実力のある証です。吉田が規定の成績を収めて、順位戦への昇級を果たす可能性は十分にありました。

しかし吉田は、1年目の08年度は5勝4敗、09年度は13勝11敗と勝ち星があまり伸びませんでした。10年度も出だしが1勝4敗と不振でした。しかし夏以降は、井上慶太八段、杉本昌隆七段、畠山鎮七段、山崎隆之七段らの上位棋士を破って勝ち星を積み重ね、今年の1月に規定の成績を収めて順位戦・C級2組に昇級しました。吉田は「2年は長かった」と語りましたが、昇級のハードルは決して低くないのが実情です。

次回は、フリークラス棋士の処遇と四段昇段制度の変遷。

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2011年1月25日 (火)

反則が確認された場合の第三者の指摘について

「対局者が反則をした場合、将棋連盟の規則では第三者も反則を指摘できるとなっています。確かに泥棒を見たら通報するのが当然ですが、将棋は別だと思います。第三者が反則を指摘するのは、広い意味での助言にあたり、反則を指摘してはいけない、というのが私の考えです。相手の反則を見つけるのも、対局者の実力だと思います」

私の知り合いのKさんから、こんな内容の意見が届きました。Kさんはある県のアマ将棋団体の実行役員を務めています。実際に将棋大会で、反則をめぐるトラブルを経験したのかもしれません。公式アマ大会では、連盟が定めるプロ公式戦での「対局規定」が原則として適用されます。その第3章(対局の進行)の第8条には反則について記されていて、とくに重要なのが第2項・第3項・第5項です。

「両対局者が反則に気がつかずに対局を続行し、終局前に反則行為が確認された場合には、反則が行われた時点に戻して反則負けが成立する」(第2項)。「終局後は反則行為の有無にかかわらず、終了時の勝敗が優先する(投了の優先)」(第3項)。「対局者以外の第三者も反則を指摘することができる」(第5項)。

つまり反則行為は、終局前に確認されたら「アウト」ですが、終局後なら「セーフ」になるわけです。そして対局者以外の第三者(立会人・記録係・観戦記者・棋戦関係者・観戦者など)が反則を指摘しても、助言にはあたりません。

プロ公式戦や公式アマ大会では棋譜を取るので、実際の盤面で反則行為が確認されなくても遡って確認できます。しかし発見されにくい反則だったり、秒読みが延々と続いている最中だと、対局者も記録係も終局まで反則に気がつかないケースもあるかもしれません。本来は終局後でも、反則負けを適用するべきだと思います。ただ持ち時間の少ない棋戦では、午前に1回戦、午後に2回戦と、同じ棋士が続けて対局することがあります。次の対局が行われているとき、反則をした棋士を替えさせるというのは現実的に難しいです。

Kさんは「第三者が、心情的に勝ってほしいと思う人の反則には黙認し、逆の場合は指摘するのではないかと」と心配していました。また心情的に公平な立場でも、「とても口に出せる状況ではない」という事態もありそうです。いずれにしても、第三者が反則を発見したのに指摘できないというのは、納得いかないと思います。

30年以上前の女流棋戦の対局で、対局者のAが盤面の駒を誤って駒台に落とし、それを気がつかないで「持ち駒」として盤面に打ったことがありました。対局者・記録係・観戦記者のだれもがわからずに進行し、しばらくたった時点で記録係が「あっ」と叫んで反則が確認されました。その記録係はAと同じ一門でしたが、棋士をめざす修業中の立場として、Aを利するために反則を見過ごすことは絶対にできなかったと思います。

現行の対局規定は1989年に制定されました。当時、反則行為があっても投了時の勝敗が優先する規定について、「劣勢なほうがわざと反則をするのではないか」と心配する声がありました。それから20年以上たった現在まで、棋士の良心にもとるそうした事例はもちろんありません。

次回は、フリークラスから昇級した吉田正和四段について。

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2011年1月21日 (金)

大山戦での手法・相振り飛車、棋士の廃業などのコメントへの返事

「田丸八段が大山康晴十五世名人との大一番で、3手目に▲6八玉と大胆な手を指したのを記憶しています」というコメント(12月3日)は《田舎天狗》さん。

大山十五世名人との大一番とは、1990年の棋王戦挑戦者決定戦でしょうか。その将棋は▲7六歩△3四歩▲4八銀△8四歩▲5六歩△8五歩▲5五歩△8六歩▲同歩△同飛▲7八金△8五飛(▲先手が田丸)と進み、私が5筋の位を取る形の相居飛車の戦型となりました。3手目に▲4八銀は、私が振り飛車党の棋士に対してよく用いた手法でした。▲2六歩を省略する意図ですが、じつはもうひとつの意図があり、それは次のコメントで解説します。なお、3手目に▲6八玉も公式戦で指しましたが、大山戦ではありません。

「田丸八段は大山十五世名人と相振り飛車で戦ったことのある、めったにいない棋士のお1人と聞いたことがあります」というコメント(12月24日)は《UT》さん。

大山十五世名人の2000局以上の公式戦の中で、相振り飛車の戦型は確かに稀少だと思います。その1局が、89年の王座戦の大山―田丸戦でした。▲7六歩△3四歩▲6六歩△6二銀▲7八銀△6四歩▲6七銀△6三銀▲6八飛△5四歩▲5六歩△4二銀▲4八玉△5三銀▲3八玉△3二飛(△後手が田丸)と進み、相振り飛車の戦型となりました。

まず△6二銀(先手では▲4八銀)とします。そして三段目に2枚の銀を並べ、相手が飛車を振ったら、同じく飛車を振って相振り飛車に持ち込みます。飛車を早く振ると、相手は居飛車を選ぶ可能性があります。飛車先の歩を保留したり、飛車の横利きを通しておくことによって、飛車を振りやすくするのです。

私はこの変則的な相振り飛車を公式戦で何局か用いましたが、勝率は割りと高かったです。大山戦では<△6三銀△5三銀△7二金△5二金△6二玉>の駒組で玉を守り、以降は飛角桂を軽くさばいて攻め込んで、快勝することができました。振り飛車対策に困っている方、守りよりも攻めを重視したい方に向いています。いちど試してみてください。

「棋士が途中廃業して、まったく違う職業を選んだ例はあったのでしょうか。また、除名になった棋士はいるのでしょうか?」というコメント(1月6日)は《桃哲》さん。

戦後65年間において、現役棋士・引退棋士・死亡棋士を合わせた棋士の総数は約300人になります。その中で、一身上の理由によって将棋連盟を退会して棋士を廃業したのは、わずか数人だけです。世の中では、勤め人が転職した例はいくらでもあります。作家、俳優、音楽家、運動選手などの特殊な業種の人が、まったく違う職業に転じることも珍しくありません。その意味では、将棋棋士は転職がほとんどない稀有な職業のようです。

連盟の規約では、「連盟の名誉を毀損する」「連盟の目的に反する行為をする」「会員(棋士)の資格を利用して不正行為をする」「禁固以上の刑に処せられる」などに該当した棋士は除名の対象となり、棋士総会で会員の4分の3以上の決議によって棋士の資格を失います。ただし、過去にそうした事例はありません。また、今後もそうなってほしくないものです。

次回は、反則を犯した場合の第三者の指摘の是非について。

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2010年12月27日 (月)

竜王戦が誕生した成り立ちと棋戦名の由来

読売新聞社は、「十段戦」という将棋の棋戦をかつて主催していました。定員6人のリーグ戦に入ると、一流棋士と計10局(各人と先後2局)も指せるのが、棋士にとって最大の魅力でした。囲碁の棋戦は「棋聖戦」を主催していました。1980年代前半のころ、囲碁の契約金は将棋より約2倍も上回っていました。当時の将棋連盟・理事会は、「将棋と囲碁は、過去の歴史や実績から見て平等である」という見地から、読売に対して十段戦の契約金の大幅増額を毎年のように要求してきました。

やがて読売は1984年(昭和59年)、連盟の要求に対して「棋聖戦は囲碁界で、席次第1位の扱いを受けている。しかし十段戦は将棋界で、名人戦に次ぐ扱いである。契約金の差額はその違いであって、囲碁と将棋を差別しているわけではない。ただし、読売は将棋界で最高の棋戦を主催することについて強い関心がある」と回答しました。

こうして新棋戦創設の気運が高まり、85年には準備委員会が開かれました。連盟理事、有志棋士、読売の担当記者らが集まり、当時七段の私も出席しました。その会合では、新陳代謝のある棋戦方式、独自の昇段制、挑戦手合いの興業制など、様々な意見が出ました。私は「賞金制の導入」を提案しました。

その後、連盟と読売の交渉は2年間にわたって続きました。そして87年3月、両者は大筋で合意しました。新棋戦の概要は、現行の竜王戦の仕組みと同じです。新方式のシステム、新体系の賞金制、昇降級の促進、独自の昇段制、興業制の実施(後年に公開対局、海外対局が行われました)など、85年の準備委員会で出た意見が結果的に反映されました。

読売は、新棋戦の契約金を将棋界最高額とする絶対条件として、新棋戦が将棋界の「序列第1位」になることを挙げました。しかし当時の連盟会長・大山康晴(十五世名人)が名人戦を主催する毎日新聞社の嘱託だったので、毎日に顔を立てた大山が「新棋戦は名人戦と同格に」「序列第1位は名人戦と隔年交代に」などと読売に申し入れて、交渉は最終局面で難航しました。その後、読売が妥協案を出して話はようやくまとまりました。87年10月、連盟と読売の新棋戦契約が調印されました。

新棋戦の名称については、「棋神戦」「最高峰戦」「巨人戦」「巨星戦」「棋宝戦」「達人戦」「竜王戦」「将棋所」(江戸時代の将棋家元)など、様々な候補が挙がったそうです。その中で「神」の字は宗教とからみ、「巨」の字はプロ野球チームとの区別でまぎらわしい、などの問題がありました。結局、消去法で最後に残ったのが「竜王戦」でした。「竜は古来、中国では皇帝のシンボルで貴いものを表す」「竜王は将棋の駒の中で、最強の働きをする」といった根拠が、棋戦名の由来でした。

名人戦・順位戦では、四段の棋士が毎年昇級しても、名人になるまで早くても5年以上かかります。それに比べて竜王戦では、実力がある若手棋士が台頭しやすいのが最大の特徴です。これまでに島朗(九段)、羽生善治(名人)、佐藤康光(九段)、藤井猛(九段)、渡辺明(竜王)など、時の有望若手棋士が竜王を獲得しました。また2年前の竜王戦の渡辺―羽生戦では、渡辺が3連敗から4連勝して大逆転防衛し、社会的にも注目されました。

竜王戦は誕生から23年たちました。将棋界の最高棋戦にふさわしい重みと人気、それに歴史が備わってきたと思います。

次回は、「棋士派遣」で訪れた山形・米沢での将棋会。

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2010年12月21日 (火)

渡辺竜王が羽生名人を破って竜王戦7連覇を達成

今年の第23期竜王戦7番勝負は、渡辺明竜王が挑戦者の羽生善治名人を4勝2敗で破り、竜王戦7連覇を達成しました。渡辺はその竜王戦で、17期・22期の森内俊之九段(十八世名人)、18期・19期の佐藤康光九段(永世棋聖)、21期・23期の羽生名人(十九世名人)と、永世称号を取得した3人の棋士をそれぞれ2回も破ったわけで、まさに驚異的な強さを見せました。

中でもタイトル戦登場が計102回(78勝24敗)の羽生に対して、渡辺が1期を挟んで連破したのはすごいことでした。羽生が同じタイトル戦で同じ棋士に連続で敗れたのは、名人戦で森内(2004年・05年)、王位戦で深浦康市九段(07年・08年)と2例ありますが、いずれも羽生の失冠、挑戦というパターンでした。羽生の挑戦を連続で敗退させたのは、今年の竜王戦の渡辺が初めてでした。

渡辺は竜王戦7番勝負に際して、「特別な気持ちではなく普段どおりです。大きな舞台にふさわしい将棋を指して、期待に応えたいという責任感はあります」と、自然体で対局に臨む心境であると語りました。

実際に竜王戦での戦型を見ると、渡辺が自然体と言ったことがよくわかります。先手番の第1局・3局・5局は羽生が誘導した「横歩取り」、後手番の第2局・4局・6局は「相矢倉」と「角換わり腰掛け銀」(第4・6局)でした。羽生は今年の名人戦で三浦弘行八段に横歩取り(先手・後手ともに)で3連勝したように、横歩取りは大一番で用いる戦法です。相矢倉と角換わり腰掛け銀は、先手番が主導権を握っているので、後手番は対応策や待ち方に苦慮します。渡辺もそれらの戦法の実戦経験が豊富で、勝率も悪くありません。しかし相手が羽生となればやはり別です。

竜王戦7番勝負はいずれも熱戦が繰り広げられました。第1局こそ手数は93手でしたが、第2局以降は142手、138手、139手、155手、146手と平均手数を超える長手数でした。ちなみに渡辺が羽生に大逆転防衛した2年前の竜王戦では、7局のうち100手未満が3局ありました。今年は渡辺が内容的に苦しい展開の将棋が多かったようですが、決め手を与えない粘り腰や意表をつく勝負手などで、難局を乗り切りました。

とくに第6局での渡辺の勝ち方が素晴らしかったと思います。羽生の攻めを堂々と受けて立ち、端の9筋を詰めたり、と金を作ってポイントを得ると、終盤で羽生の寄せを余して1手勝ちに持ち込みました。投了局面では、渡辺のすべての駒が働いているのに対して、羽生は6三の成銀が遊び駒になっていました。結果的に、その差が勝負を分けました。

渡辺は竜王戦で大きな実績を挙げながら、ほかのタイトル戦ではあまり活躍していません。挑戦は07年の棋聖戦(佐藤に1勝3敗で敗退)以来ありません。しかし最近は、棋王戦の敗者組で連勝して挑戦者決定戦に進出し、勝者組の広瀬章人王位に2連勝すれば、久保利明棋王への挑戦権を獲得できます。A級順位戦でも4勝2敗の成績で、名人戦の挑戦者争いに加わっています。来年は、渡辺がさらに飛躍しそうです。

次回は、竜王戦の歴史について。

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2010年12月14日 (火)

現役のまま亡くなった大山、芹沢、板谷、村山らの棋士の生き様と「絶局」

今回のテーマは前回に続き、現役のまま亡くなった棋士の最後の対局である「絶局」です。

芹沢博文九段(1987年に51歳で死去)は後半生で、将棋番組の解説、観戦記・随筆の執筆、雑誌で著名人との対談、テレビでタレント活動など、盤外で活発に活動しました。田中角栄元首相の後押しによる政界進出も取り沙汰されました。大の酒豪だった芹沢は、長年にわたって深酒を続けました。その影響で晩年は体を壊し、医者から断酒をきつく言い渡されました。しかし、それでも飲みました。絶局は7日前の鈴木輝彦八段戦(竜王戦)で、芹沢は中盤で投了しました。芹沢は自分の思うままに生きた人でした。芹沢の深酒について、「長い年月をかけた、ゆるやかな自殺だった」という見方もありました。

板谷進九段(1988年に47歳で死去)は「熱血漢」という言葉がふさわしい人でした。「将棋は体力だ」が信条で、対局では体を張って全力で戦いました。地元の名古屋を中心に普及活動を精力的に展開し、あるイベントでは100人相手の多面指しをしました。弟子の育成にも熱心でした。晩年には、奨励会員・社会人・大学将棋部のための研修所を作るために奔走しました。しかし、知らずうちに無理を重ねていたようです。将棋クラブで「気持ちが悪い…」と言って急に倒れ、3日後に亡くなりました。絶局は半月前の有吉道夫九段戦(棋聖戦)で、相矢倉の激闘の末に板谷が141手で勝ちました。

大山康晴十五世名人(1992年に69歳で死去)はまさに昭和棋界の「巨星」でした。大山は91年12月にガンの再発で手術を受けました。それから1ヶ月半後に公式戦に復帰すると、A級順位戦で米長邦雄九段、谷川浩司竜王(いずれも当時)らを連破し、名人戦挑戦プレーオフに進出したのです。驚くべき底力と精神力での復活劇でした。新聞は「ガンも投了」という見出しを付けました。ただ大山の体は完全に回復していませんでした。医者は大山に、散歩と昼寝を日課にして静養することを勧めましたが、大山は聞き入れませんでした。やがて体調が悪化し、大山は92年7月に亡くなりました。絶局は1ヶ月前の中村修九段戦(棋聖戦)で、戦型は大山の中飛車。大山は馬を作って柔軟に指しましたが、中村が146手で勝ちました。

私は92年の春、順位戦でA級に昇級しました。92年度A級順位戦では、7局目に大山との対戦が組まれました。とても楽しみにしていましたが、残念ながら実現しませんでした。翌年のA級順位戦最終日の控室には、大山の遺影が飾られたものです。大山と田丸の対戦成績は、田丸の6勝8敗。そのうち2勝は不戦局(大山が84年にガンで休場したときの対局を含む)で、大山に対して戦わずに2勝したのは私だけかもしれません。

村山聖九段(1998年に28歳で死去)は幼少時から難病に見舞われ、死の影と隣り合わせに生きたそうです。だから20歳の誕生日のとき、「20歳になれるなんて思っていなかったので、とてもうれしいんです」と素直に喜びました。将棋の強さは羽生善治(名人)も認めたほどで、「終盤は村山に聞け」という言葉は有名でした。村山は98年2月、順位戦でA級に復帰昇級しました。その一戦の相手が私で、村山の寄せの強さが印象的でした。絶局は3月の木村一基九段戦(王位戦)で、村山が粘る木村をねじ伏せて勝ちました。村山はそれから病気療養で入院し、8月に亡くなりました。98年版『将棋年鑑』のアンケート欄で、「好きな言葉」への村山の回答は「土に還る」でした。

次回は、渦中の「海老蔵」の父親「団十郎」の将棋愛好ぶりについて。

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2010年12月10日 (金)

過去40年間に現役のまま亡くなった棋士の「絶局」について

真部一男九段(2007年に55歳で死去)が体調不良によって序盤で投了した最後の対局から1ヶ月後。投了局面で真部が指したかった手を、大内延介九段が偶然にも指したという不思議なことが起きました。「名局は、羽生・佐藤・森内・渡辺の最先端の将棋だけではないと思いました」という《ジロウ》さんのコメント(11月24日)のとおりです。

そこで、現役のまま亡くなった棋士の最後の対局である「絶局」について調べてみました。過去40年間で該当者は、大山康晴十五世名人、塚田正夫実力制第二代名人、大野源一九段、芹沢博文九段、板谷進九段、森安秀光九段、村山聖九段など、21人いました。

山田道美九段(1970年に36歳で死去)は、大山十五世名人がタイトルを独占して無敵だった60年代に、大山に敢然と立ち向かいました。タイトル戦で激突した両者には、盤上盤外で争った様々な逸話がありました。詳しくは6月18・22・25日のブログを見てください。奇病によって急死した山田の絶局は12日前で、奇しくも大山戦(棋聖戦挑戦者決定戦)でした。大山の振り飛車に対して山田が棒銀で攻めた両者らしい戦型で、結果は大山が勝ちました。山田は夕食休憩時、将棋連盟の運営や普及問題について大山と話し合ったそうで、晩年はお互いの生き方を理解し合う関係になっていました。

山田は大山戦の翌日に研究会を開き、親しい棋士や奨励会員が参加しました。そこで山田が宮坂幸雄九段と指した将棋が、事実上の絶局でした。ところが山田の死後、宮坂はその将棋をどうしても思い出せなかったのです。やがて宮坂は、「あの将棋は山田さんが天国に持っていったんだ」と思うことにしたそうです。

塚田正夫実力制第二代名人(1977年に63歳で死去)の絶局は、半月前の花村元司九段戦(B級1組順位戦)でした。塚田は病気で入院していて、とても対局ができる状態ではありませんでした。しかし「花村くんが好調(5勝1敗)なので、不戦敗では本人にも周囲にも申しわけない」と言って、無理に退院して対局に臨みました。結果は花村が勝ちました。塚田は病床でも対局のことを気にかけていたようで、無意識に発した最後の言葉は「扇子を持ってこい、財布を出せ」でした。

大野源一九段(1979年に67歳で死去)は「振り飛車名人」と謳われ、A級に通算16期も在籍しました。後輩の棋士には「この阿呆」「素人将棋のくせに」などと言って口が悪かったですが、無類の好人物でした。また律儀で用心深く、用事があると必ず30分前に到着しました。そんな性格の大野が冬の夜、家路を急いでいたのか遮断機の下りた鉄道の踏切に入り込んでしまい、轢死したのです。絶局は1ヶ月前の本間爽悦八段戦(C級1組順位戦)で、大野が今で言う「ゴキゲン中飛車」を軽妙に指して勝ちました。

花村元司九段(1985年に67歳で死去)は独特の勝負術に長けていて「東海の鬼」という異名があり、「2分以上は長考」と豪語するほど早指しが得意でした。78年には最年長記録の60歳でA級に昇級しました。2ヶ月前の絶局は、若手棋士だった高橋道雄九段戦(棋王戦)でした。中盤で銀を捨てる意表をつく一手を放ってリードを奪い、懸命に粘る高橋に236手もの長手数で勝ちました。それほど強くて元気だった花村が、体調が急に悪化して亡くなりました。遺族の方は「病気も早指しでした」と語ったそうです。

次回も、現役で亡くなった棋士の「絶局」について。

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2010年11月16日 (火)

竜王戦7番勝負(渡辺竜王―羽生名人)は波乱含みの様相

第23期竜王戦7番勝負(渡辺明竜王―羽生善治名人)は10月から始まり、渡辺竜王がまず2連勝しました。渡辺は竜王戦で羽生(第21期・23期挑戦者)、森内俊之九段(第22期挑戦者)に対して3年越しに10連勝したわけで、竜王戦に強い本領を発揮しました。先週の第3局は羽生名人が勝ち、対戦成績は渡辺の2勝1敗となりました。渡辺が防衛して7連覇するのか、羽生が奪取して「永世七冠」の偉業を達成するのか、来週の第4局以降の戦いに目が離せません。

私が第1局の終盤戦をテレビで見ていて、「羽生がいよいよ寄せに入ったな…」と思っていたら、数手後に羽生が突然の投了をしたのには驚きました。対局場の控室でも大混乱になったそうです。ただ実際はその局面では、羽生はすでに勝ちにくい状況だったようです。第2局は羽生が指しやすい展開でしたが、大きな疑問手はなかったのに勝ち切れませんでした。第3局の終盤戦では渡辺の勝勢といわれましたが、はっきりした勝ち筋が意外となく、歩切れを補う羽生の冷静な好手によって流れが変わりました。

なお、羽生がこの数年間のタイトル戦で最初に2連敗したのは3例あります。2005年の王位戦・佐藤康光棋聖戦は、2勝3敗から2連勝して王位を防衛しました。07年の王位戦・深浦康市八段戦は、2連敗から3勝3敗と持ち直しましたが、第7局で敗れて王位を奪取されました。08年の棋聖戦・佐藤棋聖戦は、2連敗から3連勝して棋聖を奪取しました。

2年前の竜王戦は、羽生が3連勝した後に渡辺が4連勝し、将棋界で初めての大逆転ドラマが起きました。今年の竜王戦も、将棋の内容と結果を見ると波乱含みの様相です。

その竜王戦が行われている最中の11月上旬。ある女性週刊誌が「結婚15年目の夫婦すれ違い」というタイトルで、羽生夫妻の別居問題を報じました。記事によると、羽生夫人(元女優の畠田理恵さん)は今年の春に都内の自宅を出て、横浜市内のマンションで13歳の長女、11歳の次女と暮らしているそうです。その理由は、次女がフィギュアスケートを習っていて、早朝や深夜に行われる練習のためにスケートセンターの近くに移ったとのことでした。夫人は夫婦の不仲説については、明確に否定しました。

羽生が大事な竜王戦を戦っているとき、こんな記事が出たのは著名人ならではの定めともいえます。私は同情する半面、真相はいったいどうなのかとも思ってしまいました。

じつは先週12日の将棋連盟・臨時総会の場で、私は羽生とたまたま隣り合わせの席となりました。休憩のとき、ある先輩棋士が羽生に娘さんたちのことで話しかけたのを耳にしました。その話によると、フィギュアスケートの選手をめざしている次女の腕前は5級(1級から始まり最高位は7級)とのこと。将棋界の師弟関係と同じく、指導者を簡単に変えられないそうで、横浜に移ったのもそのためだったようです。羽生はそうした事情をにこやかな表情で話していました。週刊誌の記事の影響は心配ないと思います。

次回は、コメントへの返事。

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2010年10月22日 (金)

コンピューター将棋ソフト『あから2010』が清水市代女流王将に勝利

コンピューター将棋ソフトの棋力は、10年ほど前はアマ二、三段といわれました。その後は急速に進歩してアマ五、六段に伸びました。そして現在ではさらにパワーアップし、アマ名人戦、アマ竜王戦などで優勝したトップアマと遜色がないそうです。実際、専門紙が企画したお好み対局などでよく負かしています。

将棋連盟は5年前、プロ棋士・女流棋士が公式の場で許可なくコンピューター将棋ソフトと対局することを禁じる通達を出しました。それには意図がありました。棋士対ソフトの勝負の価値を高めるためでした。そして3年前、渡辺明竜王と当時の最強ソフト『ボナンザ』が対局しました。結果は、渡辺が終盤の寄せ合いで一手勝ちを収めましたが、実際は難解な変化があって形勢不明でした。ソフトの強さが改めて認識されました。渡辺がもし負けたら「竜王」の威光にも影響しかねないので、対局料はかなり高額だったそうです(一説では竜王賞金の約4分の1とか)。

今年の10月11日。コンピューター将棋ソフト『あから2010』と清水市代女流王将が対局するイベントが東京大学で開催されました。会場には多くの取材陣や700人以上の将棋ファンが訪れ、関心の高さをうかがわせました。

このコンピューター将棋は、過去の大会で優勝した『ボナンザ』『激指』『GPS将棋』『YSS』など4種のソフトが多数決合議制で指し手を決めるシステムでした。合議制の利点は「好手を指すよりも悪手を減らす」効果があり、各ソフトの「形勢判断が正確」「深く読める」などの個性も生かせるそうです。なお『あから(阿伽羅)』は10の224乗の数を表し、将棋で想定される局面の数がこれに近いことから名付けられました。

清水と『あから』の対局の持ち時間は、各3時間で使い切ると1手60秒。プロ棋戦に相当する設定でした。清水は着物姿で対局に臨み、相手側に駒の操作係と入力係が座りました。振り駒の結果、清水が先手番。戦型は清水の居飛車、『あから』の四間飛車となりました。

清水は序盤で急戦模様に指しながら、▲9八香と上げて穴熊囲いをめざしました。すると『あから』が先に動いて戦いが始まりました。中盤では清水が駒得して有利かと思われました。しかし『あから』も持ち直して、終盤の戦いに入りました。自玉のトン死筋が心配な状況でも、「怖がらず」に踏み込むところがコンピューター将棋の特徴です。そんな勝負所の局面で、1手60秒の秒読みに追われた清水が悪手を指しました。その後は『あから』が猛烈に攻め込み、86手で清水に勝利しました。

清水は事前に関係者からコンピューター将棋について説明を受け、いろいろと研究してから対局に臨みました。だから対局中は、指し手がよく予想できたそうです。ただ私が棋譜をざっと見た印象では、清水の強さがあまり発揮されませんでした。「勝たねば…」という思いもプレッシャーになったようです。それと居飛車穴熊(実戦では序盤で▲9八香と上げ、終盤で王手を受けて▲9九玉と引いただけですが)とは相性が良くなく、近年の公式戦では5戦全敗でした。

コンピューター将棋ソフトが公式の場で女流棋士に勝ったのは初めてのことでした。今後は男性棋士が相手になるかどうかが注目されますが、現時点では不明です。

次回は、コンピューター将棋に関するコメントについて。

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2010年10月15日 (金)

渡辺明竜王に羽生善治名人が挑戦する竜王戦が開幕

第23期竜王戦7番勝負がいよいよ開幕しました。渡辺明竜王に対して、羽生善治名人が挑戦しています。渡辺が防衛すれば、最多記録の竜王7連覇を達成します。羽生が奪取すれば、竜王在位が通算7期となって「永世竜王」の称号を取得できます。

渡辺と羽生は2年前の竜王戦でも対戦しました。あのときは規定によって、渡辺が勝てば竜王連続5期、羽生が勝てば竜王通算7期で、ともに永世竜王がかかった勝負でした。結果は、羽生が3連勝した後に渡辺が4連勝して巻き返し、渡辺が奇跡的な逆転防衛を果たしました。囲碁のタイトル戦やプロ野球の日本シリーズでは、3連敗から4連勝した逆転劇は何度か例がありました。しかし将棋のタイトル戦では初めてのことでした。

将棋のタイトル戦は、竜王・名人・王将・王位・棋聖・王座・棋王など7棋戦あります。羽生は1996年2月に7タイトルをすべて制覇し、社会的にも大きく注目されました。その羽生は今期竜王戦で、さらなる大記録をめざしています。

タイトル戦で優勝回数を重ねると、永世竜王・永世名人・名誉王座などの称号を取得できます。その条件は通算10期、通算5期、連続5期など、棋戦ごとに定められています。タイトル獲得数が合計78期に達している羽生は、竜王戦以外のタイトル戦で永世称号をすでに取得していて、「永世六冠」となっています。そして今期竜王戦で勝てば、「永世七冠」が実現するのです。これは途方もない大記録です。

2年前の12月に、数多くの名曲を残した作曲家の故・遠藤実が「国民栄誉賞」を受賞しました。じつは羽生の永世七冠が実現していたら、羽生が同時受賞する話が水面下で進んでいたそうです。永世七冠とは、それほど偉大な実績なのです。羽生が今期竜王戦で勝てば、政府から特別に表彰されるだろうと私は期待しています。

渡辺と羽生は竜王戦7番勝負に臨んで、次のように語りました。

渡辺「羽生さんと指すときは、やはりほかの人とは違う意識があります。ただ戦術的にはほかの人と指すときと同じです。大きな舞台にふさわしい将棋を指して、期待に応えたいという責任感はあります」

羽生「積極的に動いていって、主導権を取ることが大事かなと思っています。それが大きな課題でありテーマになります。棋士になって25年という節目でもありますし、力一杯全力を尽くしたいです」

竜王戦第1局は10月14日・15日に長崎市で行われています。振り駒の結果、渡辺が先手番と決まりました。戦型は、後手番の羽生が誘導して「横歩取り」になりました。両者はともに実戦経験が豊富で、先手・後手のどちらでも指しています。なお2年前の竜王戦では、横歩取りは用いられませんでした。第1局は1日目から激しい戦いが始まっています。

今期も大熱戦の展開が予想される竜王戦に注目しましょう。

次回は、コンピューター将棋の歴史。

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2010年9月28日 (火)

NHK杯戦で人気投票、千日手のコメントへの返事

「どうしてNHK杯戦には<ファン人気投票出場枠>がないんでしょうかね。加藤一二三九段―神吉宏充七段戦というような面白い対戦を見たいです」という内容のコメント(8月28日)は『ジロウ』さん。

NHK杯戦の出場者や対戦を、ファンの人気投票で選ぶというのはユニークな発想です。加藤―神吉戦の場合、重厚対変幻自在、長考派対早指し派という対比もありますが、ともに重量級の両者の体が画面からはみ出るような対局光景が見ものです。

そのほかに、以前はハブ対マングースの関係だった羽生善治名人―日浦市郎八段戦、新旧「振り穴王子」の広瀬章人王位―福崎文吾九段戦、1980年代に激しく火花を散らした谷川浩司九段―田中寅彦九段戦、「藤井システム」の1号局といわれる藤井猛九段―井上慶太八段戦、21年前に大遅刻事件があった高橋道雄九段―櫛田陽一六段戦、新旧ギャンブラーの先崎学八段―田村康介六段戦、親子の西川慶二七段―西川和宏四段戦、現役大学生の糸谷哲郎五段―中村太地四段戦などが、ともに共通点や因縁があったりして、私なら見てみたい対戦です。

ただ公式戦での対戦は無理があるので、「お好み対局」なら可能でしょう。『ジロウ』さんが人気投票の方式を望むなら、NHKにどんどん投書するといいと思います。「みなさまのNHK」として、視聴者の声を取り入れるはずです。

千日手の問題について、次のようなコメントが寄せられました。いずれも一理ある内容です。「千日手・指し直し局で持ち時間がプラスされるのは、してほしくない気がします。最初から秒読み将棋で内容が稚拙になったとしても、それを含めて人間同士の勝負だからこそドラマがあると思います」という内容のコメント(8月31日)は『ケイ』さん。「王位戦(深浦康市王位―広瀬六段)第5局・指し直し局は深浦が先手でしたが、第6局も深浦が先手でした。手番は変わらないのでしょう」という内容のコメント(9月1日)は『しゃーふ』さん。「チェスでは連続王手の千日手も引き分けなので、文化の違いが出ていて面白いです」というコメント(9月14日)は『ネブラスカ』さん。

千日手・指し直し局では、残り時間が少ないと、タイトル戦は2時間、通常の対局は1時間に持ち時間が増えます。残り時間も勝負のうちなら、『ケイ』さんの考えももっともです。ただ現実問題として、タイトル戦がテレビ将棋のように早く終わってしまってはつまらないと思います。以前はタイトル戦で千日手になった場合、中1日おいて指し直す、両者の残り時間を足して折半した時間を持ち時間にする、という規定の時代もありました。

王位戦第6局で広瀬が先手になった場合、広瀬は▲△▲△▲▲(▲は先手。指し直し局は除く)と6局のうち4局も先手になります。こうしたことは不合理だという声があり、『しゃーふ』さんが言うように、ある時期から先後に関しては1局完結方式となりました。

サッカーやラグビーで引き分けになった場合、勝負を決めずに「勝ち点1」「ノーサイド」とする規定があります。同じ欧州で発展したチェスもゲーム性から、「ドロー」もひとつの勝負の結果という考えがあるようです。

次回で、本ブログは1周年を迎えます。

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2010年9月10日 (金)

「振り穴王子」こと広瀬章人新王位は23歳の早大生

王位戦7番勝負(深浦康市王位―広瀬章人六段)で、タイトル戦初挑戦の広瀬が王位戦3連覇の深浦を4勝2敗で見事に破り、広瀬新王位が誕生しました。

広瀬には「振り穴王子」の異名があり、振り飛車穴熊が得意戦法です。振り飛車穴熊というと、玉の守りを固めてから豪快に攻め込むイメージがあります。しかし広瀬の指し方はとても柔軟です。攻防のバランスを保ちながら、相手の攻めと自陣の守りとの距離感を測る感覚が優れています。そして機を見て寄せに転じると、一気呵成に寄せ切る終盤の強さが際立っています。その典型例が羽生善治名人との挑戦者決定戦で、一瞬の隙をついて居飛車穴熊の玉を寄せ切ったのは見事でした。王位戦リーグでも渡辺明竜王、木村一基八段らに振り飛車穴熊で勝ちました。

広瀬は深浦との王位戦で、振り飛車穴熊を合計6局(第5局・第6局の千日手局を含む)も用いました。振り飛車穴熊での戦績は第4局まで○●●でした。第5局では深浦の猛攻によって穴熊が落城寸前に陥りましたが、受けの好手を連発してしのいで千日手に持ち込んだことが、勝負の大きな分岐点になったと思います。第5局以降の振り飛車穴熊の戦績は△△○で、結果的に王位獲得への原動力となりました。

「今回は挑戦者の巧さが際立ったように思います。2局続けて千日手は珍しい」とは『五平餅』さんのコメント(9月2日)。「広瀬君の将来性を考えて、今回の将棋の内容を見て厳しい意見を述べたほうがいいですよ」とは『moge』さんのコメント(9月3日)。「第6局指し直し局は名勝負でした。今期は名人戦、棋聖戦が盛り上がりのないまま終わってしまったので、ようやくタイトル戦らしい勝負が堪能できました」とは『十字飛車』さんのコメント(9月3日)。

『五平餅』さんのコメントのように、広瀬は23歳と若いのに将棋の指し方は老練なところがあります。『moge』さんのコメントは、若いうちから勝負にこだわって穴熊を用いたり千日手も辞さないのは、大成しないのではないかという考えでしょうか。ただ『十字飛車』さんのコメントのように、今期王位戦はどの将棋も白熱した戦いとなり、最後までファンを沸かせました。広瀬将棋の強さが本物かどうかについては、他棋戦での活躍、来期王位戦の防衛戦の実績などによって、今後の評価が定まってくると思います。

広瀬は早稲田大学教育学部に在籍する大学生の顔も持っています。ただ5年前に棋士になって以来、年間平均で約40局の対局をこなしていて、学業に専念できない事情もあってか今年で6年生になるそうです。昔はクラブ活動などに熱心なあまり、8年生も珍しくなかったのが早大生です。広瀬が棋士と大学生の二足のわらじを履いて留年したのは、いたしかたないことでしょう。

じつは、早大出身者の棋士がなぜか多いのです。ざっと数えて10人ほどいます。奨励会で棋士をめざしながら受験勉強するのはかなり大変なはずですが、近年は「一芸入試」や「自己推薦」の手続きで入学するケースもあるようです。

次回は、棋士と学歴について。

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2010年9月 7日 (火)

千日手になった場合の昔の対局規定と問題点

将棋連盟の会長を務めたこともある故・原田泰夫九段は「千日手は将棋を滅ぼすガン」だと、以前に警鐘を強く鳴らしました。というのは、昔は千日手の割合が今より多かったのです。過去10年間のプロ公式戦で生じた千日手は約2%で、記録が残っている1966年度から69年度は約3%でした。わずか1%の差ですが、年間の対局数が今より半分の時代だったので、かなり目立ったはずです。

終盤で生じた千日手は、手を変えて打開すると負け筋になりかねないので、いつの時代でも仕方ないと思います。しかし昔は、序盤での千日手が多かったようです。ともに仕掛けの糸口をつかめない、先に仕掛けたほうが不利になる、というケースです。

私が記録係を務めた相掛かり・相腰掛け銀の戦型の対局では、先手が飛車先歩交換をすでにしているのに▲2四歩△同歩▲同飛△2三歩▲2六飛と1手パスすると、後手も同様に△8六歩▲同歩△同飛▲8七歩△8四飛とし、この手順を3回繰り返して千日手になりました。相四枚矢倉の四手角(▲2六角・△8四角)の陣形から▲4五歩△6五歩とともに仕掛け、▲4四歩・△6六歩と先に取り込んだほうが不利という定説によって双方とも手待ちし、千日手になることもありました。

どちらの例も、双方とも打開するのは無理と判断したのでしょう。しかし実戦によく現れる戦型なので、日頃から研究していれば何か攻め筋を見出せるはずだと、奨励会員の私は思ったものでした。「無気力相撲」という言葉がありますが、「無気力将棋」とのそしりを受けかねないことで、原田九段はそれを心配したのです。

1966年度から69年度の千日手は、加藤一二三九段(27局)と山田道美九段(20局)がとくに多く、加藤の順位戦の同一対局では3連続千日手となる例も生じました。加藤と山田は将棋に対して真剣に取り組んだ棋士で、序盤から仕掛けの辺りは長考を重ねました。それだけに少しでも成算がないと、仕掛けを自重することがよくありました。

じつは昔は千日手になった場合、現行規定の「即日指し直し」ではなく、原則として「翌日指し直し」でした。しかし対局日程が詰まっていると、1週間後に延期されたり、極端な例は1ヶ月後ということもありました。対局が延期されると、観戦記者は二度手間となり、記録係の手配、対局室の用意など、何かと負担がかかる問題点がありました。順位戦の終盤だと対局結果にタイムラグが生じ、星勘定の面で味が悪くなります。また、ごく少数ですが不心得者の棋士がいました。ギャンブル好き同士の対局では、双方が談合して午前中に千日手にすると、ギャンブル場に直行という悪しき事態も起きました。

1960年代後半、千日手規定が少し変わりました。午後3時以降に千日手になった場合は翌日指し直しで、午後3時以前は即日指し直しとなりました。これは、前記のような不心得者の行為を排除する意図があったようです。そして1970年度からは、すべての千日手(タイトル戦は除く)が即日指し直しとなり、指し直し局の持ち時間は残り時間、または最多1時間に充当する現行規定に改まりました。

千日手の問題については、コメントが寄せられていますので、またテーマに取り上げたいと思います。

次回は、広瀬章人新王位の誕生について。

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2010年9月 3日 (金)

江戸時代初期に二世名人によって定められた千日手の禁止

同一手順が繰り返されて局面が進展しない場合、千日も指し続けても勝負がつかないという意味で、「千日手」が成立して指し直しとなります。ただし連続王手の千日手模様では、王手をかけるほうが手を変えないと負けです。

この千日手の規定が初めて成文化されたのは、江戸時代初期の1636年(寛永13年)でした。二世名人・大橋宗古の著作『象戯図式』の巻末には「将棋治式三ヶ条」として、二歩、千日手、行きどころのない手(▲1一香、▲2二桂などの手)を禁止することを図解入りで説明し、打ち歩詰めの禁止も併せて謳いました。宗古によって定められたこれらの基本的ルールは、約370年たった今でも生きています。しかし千日手に関しては、解釈の仕方で何かと問題がありました。

映画・歌でおなじみの『王将』の登場人物で、宿命のライバルだったのは阪田三吉(追贈・名人、王将)と関根金次郎(十三世名人)。1906年(明治39年)、その両者(当時、関根は八段、阪田は五段半)が対戦した将棋の終盤で、お互いに金銀を打ち合う千日手模様の手順が生じました。現行の規定では千日手ですが、当時は仕掛けた側が手を変えなくてはならず、阪田がしかたなく手を変えると形勢を悪くして負けました。一介のアマだった阪田は「段が上の関根はんが手を変えてくれはらにゃ…」と嘆いたそうです。しかしこの敗戦で発奮し、「今日から本当の将棋指しになる」と宣言して棋士人生を歩みだすきっかけとなりました。

冒頭に記した現行の千日手規定は、戦後に制定されました。千日手は序盤、中盤、終盤といつでも生じますが、その段階によって性質が異なります。序盤では、駒組ができあがった局面で仕掛けの糸口をつかめない、先に仕掛けたほうが不利になる、というケース。中盤では、手を変えて打開しても不利ではないが無理することはない、何となく自信がない、というケース。終盤では、手を変えて打開すると明らかに負け筋、というケース。どのケースでも、両者の思惑が一致すると千日手に至ります。王位戦(深浦康市王位―広瀬章人六段)の第5局と第6局では、ともに終盤で千日手が生じましたが、お互いに手を変えたほうが負け筋になるケースでした。

そのほかに、千日手の指し直し局では先手・後手が入れ替わるので、先手番を得たい後手番の棋士があえて千日手に誘導することもあります。また、体力や気力に自信がある棋士は、「もう一丁!」という気分で千日手に持ち込みます。

ちなみに過去10年間のプロ公式戦で生じた千日手は、2000年度は44局、01年度は57局、02年度は51局、03年度は56局、04年度は46局、05年度は48局、06年度は32局、07年度は48局、08年度は46局、09年度は46局で、全対局の中で千日手の割合は約2%でした。

故・原田泰夫九段は「千日手は将棋を滅ぼすガン」と強く提唱し、自身の対局で千日手模様になると、無理しても打開したものでした。その背景には、昔は千日手になった場合の対局規定に大いに問題があったからです。

次回は、千日手における対局規定の変遷。

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2010年8月31日 (火)

千日手も生じて大激闘だった王位戦(深浦王位―広瀬六段)第5局

大激闘だった王位戦第5局

王位戦7番勝負(深浦康市王位―広瀬章人六段)第5局は7月24・25日に行われました。戦型は第1局・第4局と同じく、広瀬の振り飛車穴熊に深浦の居飛車穴熊。1日目から激戦が繰り広げられました。写真の局面(下側の先手が広瀬、上側の後手が深浦)は、深浦が△4八馬から△3八金と打って相手の穴熊玉に迫ったところで、2日目の午前中なのに早くも終盤戦という状況です。

写真の局面は、広瀬が苦しい形勢に思われました。しかし▲3七銀打△4七馬▲3九金と受けて容易に腰を割りません。さらに以後の広瀬の指し手だけを挙げると、▲2六角〜2八金〜1六角〜5九飛〜2八金〜5六角〜3八銀〜4七金〜3八金打〜1七角と、50手ほどの間に右下の自陣エリアに飛角金銀を打ち続けて頑強に受けました。それでも控室の検討では、深浦が勝勢という話でした。しかし深浦に明快な勝ち筋がなかったのです。お互いに金銀を打ち合う同一手順が続き、打開したほうが負けになることから、2日目の19時33分に149手で「千日手」が成立しました。

現行のタイトル戦規定では、千日手が生じた場合は30分後に指し直します。指し直し局の持ち時間は、残り時間(深浦2分・広瀬4分)が少ない深浦を2時間に設定し、増えた1時間58分を広瀬に足します。王位戦は昼食以降は終局まで夕食なしで行われますが、特例なので30分の合間に軽食が用意されました。そして20時10分、指し直し局が始まりました。

指し直し局も広瀬の振り飛車に深浦の居飛車穴熊模様でしたが、広瀬は美濃囲い、深浦は米長玉(▲9八玉)に組みました。この将棋も大激闘が展開され、巧みに攻め込んだ広瀬が120手で勝ちました。終局は26日午前1時20分。当日朝の帰途の事情があったのか、局後の検討は行われなかったそうです。

この結果、広瀬は3勝2敗とリードし、初の王位獲得まであと1勝となりました。次の第6局は今週の9月1日・2日に行われます。

私は、広瀬が攻め切って勝った指し直し局よりも、深浦の寄せをしのいで結果的に千日手に持ち込んだ将棋のほうが印象に残っています。広瀬には「振り穴王子」というニックネームがあります。その名のとおり、歯を食いしばって頑張るというのではなく、淡々と楽しそうに受けているような感じがします。この分ではニックネームの最後の1字が替わって「振り穴王位」となりそうです。

深浦は木村一基八段の挑戦を受けた昨年の王位戦で、3連敗から4連勝して奇跡の逆転防衛を果たしました。そんな粘り腰があるので、結末はともかくとして、第7局までもつれ込むと思います。

次回は、千日手について。

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2010年7月29日 (木)

王位戦で「振り穴王子」こと広瀬章人六段が大活躍

今期王位戦7番勝負は、4連覇をめざす深浦康市王位に対して、23歳の新鋭・広瀬章人六段が挑戦しています。広瀬はタイトル戦初登場で、対戦前は「ストレート負けだけはファンの方に申し訳ないのでしないようにします」と控えめに語りました。しかし初陣の第1局で見事に勝ちました。第2局は深浦が勝ち、1勝1敗と互角の戦績です。

広瀬は2005年に四段昇段後、順調に勝利を重ねて7割近い通算勝率を挙げています。今期王位戦では、渡辺明竜王、佐藤康光九段、木村一基八段、松尾歩七段などの上位棋士が多い紅組リーグで4勝1敗で優勝。白組リーグ優勝者の羽生善治名人(王位獲得は通算12期)とのプレーオフに勝って、挑戦権を獲得しました。

広瀬の得意戦法は振り飛車穴熊。そうしたことから「振り穴王子」というニックネームがついています。本人はあまり気に入らないようですが、王位戦で挑戦権を獲得する原動力になりました。紅組リーグでは松尾戦以外の4局が振り飛車穴熊で、次いでプレーオフの羽生戦、第1局・第2局の深浦戦と連用しています。

振り飛車穴熊というと、玉の守りを固めてから豪快に攻め込む戦いを連想させます。ただ現代では居飛車側も穴熊に囲う作戦が多く、単純な攻め合いではなかなか勝てません。私は最近の広瀬将棋を見て、攻防のバランスを保ちながら相手の攻めと自陣の守りの距離感を計るのが優れている、と思いました。渡辺戦、羽生戦、第1局の深浦戦では、中央に馬を据えて相手玉(穴熊)に利かし、上部から攻める形に持ち込みました。このパターンが得意のようです。とくに印象深いのは羽生戦で、相手の攻めを呼び込んでから、馬を切って一気に寄せた手順は見事でした。

広瀬の外見には、天才棋士がかもし出すオーラを感じません。理知的な秀才タイプでもなく、闘志を前面に出す根性タイプでもありません。とらえどころのない茫洋とした強さがあり、さりげない手から強烈な勝負手を放ちます。とても個性的な若手棋士だと思います。

王位戦は今期で51期。昔から若手棋士が王位戦でタイトル戦に初登場することが多く、「初の○段で挑戦」「四段で初の王位獲得」などの記録が出ました。ほかの出来事も含めた過去の例を列記します(棋士の名称、段位、年齢はいずれも当時)。

1966年、大山康晴王位に有吉道夫八段(30歳)が初挑戦、タイトル戦で初の師弟対決が実現。67年、大内延介(25歳)が初の六段で挑戦。69年、西村一義(27歳)が初の五段で挑戦。70年、米長邦雄(27歳)が初挑戦。72年、内藤国雄九段(32歳)が初の王位獲得、12連覇の大山を破る。76年、勝浦修八段(30歳)が初挑戦。83年、高橋道雄(23歳)が五段で初の王位獲得。90年、佐藤康光五段(20歳)が初挑戦。91年、中田宏樹五段(26歳)が初挑戦。92年、郷田真隆(21歳)が四段で初の王位獲得。93年、羽生善治(22歳)が初の王位獲得。96年、深浦康市五段(24歳)が初挑戦。そして今年、広瀬六段が初挑戦。

次回は、羽生善治名人の就位式。

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2010年5月13日 (木)

名人戦(羽生名人―三浦八段)第3局は終盤で大波乱

名人戦第3局は終盤で大波乱

先週の6・7日、名人戦(羽生善治名人―三浦弘行八段)第3局が行われました。戦型は3局連続の「横歩取り」でした。盤勝負で一方が同じ手番のとき(例=第1局・第3局・第5局)、同一戦法を用いることはよくあります。ただ双方が先手・後手を入れ替えて同一戦法を採った例は珍しいです(相矢倉は除く)。

研究家の三浦は横歩取りを深く掘り下げていますが、羽生も横歩取りの実戦経験が豊富で得意としています。お互いに引くに引けない、という心境でしょう。

第3局は前2局とはまったく違った戦いでした。三浦の攻めを羽生が押さえ込む展開となりました。中盤では三浦の攻めがやや息切れ気味でした。羽生はじわじわと締めつけていき、そのまま押し切るかと思われました。しかし三浦は懸命に頑張りました。

名人戦第3局では、全国47都道府県で大盤解説会が開かれ、私は九州・熊本の会場に出向きました。

写真の大盤の局面(下側の先手が三浦、上側の後手が羽生)は、羽生の△4五角の飛車取りに対して、三浦が6八にいた銀を▲5七銀と上げて受けたところです。この手で▲4六飛と逃げると、△6六桂(▲同歩は△7八角成)の王手金取りを打たれて先手が負け筋です。私は▲5七銀を見て、「おっ」と思いました。苦しいながらも相手に決め手を与えない粘りで、三浦の勝負への執念を感じ取りました。勝負の夕方はまだわからないと思ったもので、実際に終盤で大波乱が起きました。

実戦は写真の局面から、△5六角▲同銀△4四桂▲1二角△2七歩▲3九銀△7六歩▲6五桂△7七歩成▲5三桂成△同銀▲4五角成と進み、三浦は一手違いの勝負形に持ち込みました。それでも三浦の負け筋でしたが、羽生が角打ちの王手に対して合駒の応手を誤って形勢が逆転し、三浦に勝ち筋が生じました。

しかし1分将棋の秒読みに追われている三浦は勝ち筋を逃し、自玉に詰めろをかけられた局面で投了しました。長い激闘を経て、精魂が尽きてしまったのです。相手玉への王手はしばらく続けられますが、「良い棋譜を残したい」と表明した三浦にとって、棋譜を汚すことになると思ったのでしょう。

感想戦終了後に盤側から、三浦が投了した局面でベタ金の連続王手で詰めろを防ぐ手段が指摘されました。秒読みの両対局者はまったく気付きませんでした。しかし、これはあくまでも結果論というもの。

これで名人戦は羽生の3連勝となり、三浦は角番に追い込まれました。三浦としては、第4局(18・19日)では開き直って指すしかありません。そして何とか1勝すれば、かすかな光明が射し込んできます。戦型は4局連続の横歩取りが予想されます。

次回は、コメントへの返事。

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2010年4月27日 (火)

田丸が記録係として見た過去の名人戦エピソード

過去の名人戦エピソード

私は奨励会員、若手棋士のころ、名人戦の記録係を4回務めました。記録係の席から見た戦いの模様、対局者の様子などを振り返ってみます。

1967年の名人戦(大山康晴名人―二上達也八段)第3局で、当時17歳・1級の私はタイトル戦の記録係を初めて務めました。対局場に移動中に立会人の棋士から「名人のカバンを持ちなさい」と言われてそうすると、「ありがとう。名前は? えっ、田丸っていうの。丸田さん(祐三九段)と逆なんだ」と話しかけられ、大山の柔らかく高い声を初めて聞きました。大山の対局姿はどっしりとしていて、まるで巌のようでした。

1969年の名人戦(大山康晴名人―有吉道夫八段)は、名人戦史上で初めての師弟戦が実現しました。私は東京・赤坂の料亭で行われた第3局の記録係を務めました。旅館ではないので部屋数に限りがあり、記録係は1日目の夜は盤を片付けて対局室で寝ました。師弟の両者は盤外では和やかな雰囲気で、大山は「有吉」と弟子を呼び捨てにしました。戦いは「火の玉流」の棋風の有吉が猛烈に攻め、「受けの達人」の大山が徹底的に受ける展開で、結果は大山が完勝しました。終局時間は、まだ陽が高い2日目の12時すぎでした。

1975年の名人戦(中原誠名人―大内延介八段)は、名人戦3連覇で王道を歩む中原と、当時は異端の戦法だった穴熊を武器に勝ち上がった大内の勝負でした。メディアは中原「自然流」と大内「怒涛流」の対決としてあおり、将棋ファン以外の人たちも注目しました。両者の勝負は白熱して3勝3敗となり、当時五段の私は第7局の記録係を務めました。

第7局では大内が中原の不用意な一手をとがめ、1日目で早くも優勢となりました。翌朝の新聞の見出しは「一気に決戦状態へ」。これは形勢の優劣を書けない建前の表現でした。しかし2日目に入ると、大内は勝利と名人位を過剰に意識して疑問手を続出、形勢は次第にもつれました。そして終盤の局面で、大内が▲4五歩と突けば勝ち筋なのに別の手を指しました。中原がその手を見て席を立つと、大内は「ばかな、しまった。先に▲4五歩と突くんだ。それで決まっていたでしょう…」と、記録係に向かって口走ったのです。

結局、第7局は双方入玉で持将棋となりました。第8局の日程は未定で、両対局者の希望日が合わないので、立会人の提案で振り駒で決着をつけました。新聞の観戦記には「記録の田丸昇五段が、先後をきめるのと同じ要領でコマを振り、〈と〉が多く出て大内の主張が通る」と書かれました。第8局では中原が大内の穴熊を封じて完勝、名人位を死守しました。写真は、私が撮った第8局の終局光景。大内の茫然とした表情がすべてを物語っています。

1978年の名人戦(中原誠名人―森けい二八段)第1局の前日、挑戦者の森は別のホテルに単独で泊まりました。そして当日、対局室に入ってきた森の頭を見て、関係者一同は目を見張りました。長めの髪が青々とした剃髪に変わっていたのです。特別立会人の大山十五世名人は思わず「坊主が何人もできちゃった…」と言って、異様な雰囲気のその場を治めました。坊主とは光頭の大山のほかに、立会人の花村元司九段、観戦記担当の作家・山口瞳らです。第1局は、度肝を抜かれた中原が変調をきたして敗れました。

次回は、コメントへの返事。

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2010年4月22日 (木)

名人戦(羽生―三浦)第2局は横歩取りの大乱戦から羽生が連勝

名人戦(羽生善治名人―三浦弘行八段)7番勝負第2局は今週の20・21日に行われ、横歩取りの大乱戦から羽生が勝って連勝しました。この結果、羽生は三浦に対して2003年から12連勝したことになります。

ただ番勝負においては、1局の勝利によって勝負の流れが変わることはよくあります。2年前の竜王戦では挑戦者の羽生に3連敗した渡辺明竜王が、第4局の終盤で開き直って指して一矢を報いると、3連勝して逆転防衛を果たしたことは記憶に新しいです。三浦にとって第3局は正念場で、勝てば勝負の行方はまだわからないと思います。

第1局と第2局の戦型は、先手・後手を入れ替えた形でともに横歩取りでした。居飛車党と振り飛車党の対戦では、両者の戦型が入れ替わることはめったにありません。しかし居飛車党同士の対戦ではよくあります。深い研究と実戦経験が生かされる横歩取り、角換わり腰掛け銀の戦型はその傾向が強く、互いの新研究をぶっつけ合うように用います。

研究家の三浦は名人戦の挑戦者になると、1日10時間の研究を12時間に増やしたそうです。とくに横歩取りの戦型は主要テーマで、自信をもって臨んだことでしょう。しかし、第1局は終盤まで優劣不明の大接戦でしたが惜敗し、第2局は中盤で早くも苦しくなって完敗しました。得意の横歩取りでの連敗は痛手で、プロ野球チームの楽天が岩隈、田中を先発させて1勝もできなかったようなものです。

ところで第2局・2日目の戦いを報じた朝日新聞夕刊で、「三浦挑戦者 苦戦か」との見出しはきわめて異例でした。新聞のタイトル戦速報記事は、中立を守ることと対局者に配慮して、通常は形勢の善し悪しについて書きません。一方が優勢でも、「一気に決戦へ」「攻勢に出る」「懸命に立て直す」などと、盤上の戦いを表現してぼかすものです。まあ、対局者が2日目に夕刊を見ることはないでしょうが…。

三浦は初めての2日制対局に備えて、仲間との練習対局で本番さながらに「封じ手」の体験をしました。第1局では羽生が封じ手番でした。第2局では封じ手時刻の直前に三浦の手番でした。普通はそのまま考えて封じ手をするところですが、三浦はわずか4分で指しました。研究どおりの展開なので指したのか、慣れない封じ手をしたくなかったのかは不明です。

名人戦第3局は連休明けの5月6日・7日に千葉県野田市で行われます。この対局では全国各地で大盤解説会が開かれ、私は九州・熊本に行って解説します。個人的には、名人戦を盛り上げるために三浦に勝ってほしいと思っています。

研究不熱心なベテラン棋士の私としては、最先端の横歩取りの戦いを解説するのは大変なので、横歩取り以外の戦型を望んでいます。しかし第1局のように▲2六歩△3四歩▲7六歩△8四歩の手順で始まれば、3局連続の横歩取りは十分に可能性があります。後手番の羽生に戦型の選択権があるところが、現代将棋の一面を表しています。

次回は、過去の名人戦のエピソード。

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2010年4月19日 (月)

苦い思い出がある22年前のNHK杯戦・大山戦

苦い思い出がある22<br />
 年前の大山戦

「自分がテレビ将棋を見始めたころ、解説者が〈攻めの田丸〉と言っていて、カッコイイと思った記憶があります」とは『ほたる』さんのコメント(1月20日)。

「私の心に残る1局は、第38回NHK杯戦・大山―田丸戦です。田丸七段が右四間飛車から果敢に攻め込んで必勝態勢。しかし寄せの決め手を逃し、大山玉は端からスルスルと脱出して逃げ延びてしまいました。必勝の将棋を棒に振った田丸七段の苦痛の表情を、テレビカメラは非情にも捉えていました。一方の大山十五世名人はお茶を飲み、対照的な光景でした。あの将棋が田丸七段の快勝だったら、私はその将棋を忘れていたでしょう。敗者にドラマがあるからこそ、将棋ファンの記憶に残るのだと思います」という内容のコメント(3月27日)は『大沢一公さん』。

22年前の1988年9月に放送されたNHK杯戦・大山康晴十五世名人―田丸昇七段戦は、私にとって苦い思い出がある将棋でした。大山の四間飛車に対して、私は右四間飛車・腰掛け銀の作戦から〈攻めの田丸〉らしく攻め立てました。〈受けの達人〉の大山は容易に決め手を与えませんが、ようやく終盤で私に勝ち筋が生じました。しかし▲9五香と打てば寄り筋なのに、▲9五歩と打って大山玉を逃がしてしまい形勢がもつれました。

写真の局面は、下側の先手が田丸、上側の後手が大山。ここで▲8八歩は「打ち歩詰め」の禁手で打てません。実戦は▲9六角△7六玉▲7七歩△同玉▲6八銀引△7六玉と進み、この局面でも▲7七歩は打ち歩詰めです。私は以後も必死に迫りましたが、最後は△9八玉と逃げられ、それから2手後に無念の投了となりました。

私は大山十五名人との10局以上の対戦で、何局か勝ちました。しかし王位戦リーグ入りの一戦(84年)、棋王戦挑戦者決定戦(90年)など、重要な対局での大山の集中力と強さを身に染みて感じました。また、このNHK杯戦の対局のように、大山将棋には相手の間違いを誘発させる独特の感覚や空気がありました。ただ勝負の結果はともかくとして、「昭和棋界の巨星」の大山と数多く対局できたことは、自分の将棋人生にとって貴重な財産だと思っています。

私は1982年から99年まで、NHK杯戦に18年連続で出場しました。最高成績はベスト16です。過去の印象的な将棋を振り返ってみます。

初出場した82年の木下晃五段(前期にベスト4の大活躍)戦は快勝し、その勝ちっぷりが翌年のNHK将棋講座の講師に選ばれた理由のひとつになったようです。89年の森内俊之四段戦は横歩取りから派手な大乱戦となり、私が寄せ合いを制した将棋は会心譜です。93年の櫛田陽一五段戦は初めての師弟対局で、師匠の私が敗れて弟子に「恩返し」をされてしまいました。

順位戦でB級2組に降級してNHK杯戦出場のシード権を失ってからは、予選でいつも敗退して本戦に10年も出場していません。数年後の引退までに、何とか1回は実現したいと思っていますが…。

次回は、名人戦の展望と過去のエピソード。

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2010年4月12日 (月)

櫛田陽一六段との師弟戦は「ポンポン桂」の戦法

櫛田陽一六段との師弟戦

わが弟子・櫛田陽一六段のことを書いた4月5日のブログについて、「櫛田六段の四間飛車は最高です。すごく勉強になるし面白い。プロの中で一番魅せる振り飛車だと思っています」とは『通りすがり』さんのコメント。「将棋の世界の人間的な部分を拝見したようで、感じ入りました。櫛田先生頑張れ!」とは『五平餅』さんのコメント。どちらも櫛田を応援していただき、ありがとうございます。

近年の振り飛車は角筋を止めずに角交換するなど、以前はタブーとされた指し方も珍しくありません。櫛田は四間飛車を得意とし、大山康晴十五世名人、鈴木大介八段のタイプに近い振り飛車です。居飛車穴熊に対しては急戦の「藤井システム」を用いず、玉を銀冠の囲いに固めて受けて立ちます。いかにも振り飛車らしい指し方は、『通りすがり』さんのコメントのように勉強になると思います。

「友人の四間飛車に対して、田丸八段の著書に載っていた〈ポンポン桂〉を用いたら快勝しました。その後、友人はそれを逆用して私を苦しめるのです。私たちの中では、〈ポンポン桂〉は必勝裏定跡となっています」という内容のコメントは『ケイ』さん。

私の著書「振り飛車破りユニーク戦法」で解説している戦法のひとつが、『ケイ』さんが名付けた〈ポンポン桂〉です。じつは昨年の銀河戦・櫛田六段との師弟戦の対局で、私はその戦法を用いました。写真の局面は、下側の先手が田丸、上側の後手が櫛田(実際の先手番は櫛田)。櫛田の四間飛車に対して、私が▲3七桂と跳ねたところです。

写真の局面で△6四歩なら、▲4五桂と跳ねるのが奇手。『ケイ』さんは▲3七桂から▲4五桂の動きを〈ポンポン桂〉と表現しました。▲4五桂以下は△同歩▲3三角成△同桂▲2四歩△同歩▲同飛と、先手は桂を捨てて強引に角交換して飛車で2筋から破ります。

▲2四同飛の局面では、次に▲2一飛成から▲1一竜で香を取る手、または▲3五歩(△同歩は▲3四歩)で桂頭を攻める手が有力です。後手は桂得しても有効な使い道はありません。結論として、▲2四同飛の局面は先手が十分に指せます。

田丸―櫛田戦は、写真の局面から△3二飛▲2六飛△1四歩▲4六歩△6四歩▲6八金上△7四歩▲4五歩△4二飛▲3五歩△同歩▲4四歩△3四銀▲4六銀と進みました。

櫛田は▲4五桂を警戒して△3二飛と指しました。私はそれに対して、▲4六歩から▲4五歩と突いて角交換を狙いました。そして▲3五歩の突き捨てが好手で、▲4四歩に△同銀は▲3四歩△2二角▲2四歩△同歩▲同飛で先手有利です。実戦は▲4六銀以下、△4四飛▲4五歩△4二飛▲3三角成△同桂▲3一角と進んで先手が指せる展開でしたが、▲4五歩では▲2四歩△同歩▲4五歩△4三飛▲3三角成△同飛▲2四飛も有力でした。

この〈ポンポン桂〉は、江戸時代からある古い定跡です。私はたまに用いますが、けっこう振り飛車を苦しめています。みなさんも、いちどお試しください。

次回は、27年前のNHK将棋講座の思い出。

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2010年4月 8日 (木)

名人戦(羽生名人―三浦八段)7番勝負が開幕!

名人戦(羽生―三浦)が開幕

第68期名人戦(羽生善治名人―三浦弘行八段)7番勝負が本日より開幕しました。第1局の対局場は、昨年と同じ東京・目白「椿山荘」。

写真は、前夜祭の光景。壇上の出席棋士と対局者は、左から森内俊之九段、木村一基八段、羽生善治名人、三浦弘行八段、藤井猛九段、渡辺明竜王。会場には将棋愛好家という川端達夫文部科学大臣、原口一博総務大臣も出席して祝辞を述べました。両対局者は名人戦に臨んで、次のように挨拶しました。

羽生「この檜舞台に立てるのは棋士としての喜びです。ファンをうならせるような将棋を指したい」。三浦「昨年の第1局は立会人を務めて花見もしましたが、今年はそんな時間はありません。素晴らしい棋譜を残したい」。

両者の対戦成績は羽生の16勝6敗で、2003年から羽生が10連勝しています。データでは羽生がはっきり有利です。ただ一定期間に続けて対局するタイトル戦では、1局の勝負の結果で流れが変わることがよくあります。そんな例が14年前に実際にありました。

三浦は五段時代の1995年、棋聖戦5番勝負で羽生に挑戦して3連敗で敗退しました。96年にも棋聖戦の挑戦者になりました。羽生は同年2月、前人未踏の七冠制覇を達成して無敵の存在でした。三浦はその羽生に対して、第1局に勝って羽生戦初勝利を挙げました。これで流れが微妙に変わりました。1勝2敗とリードされた第4局では、終盤の寄せ合いを制して勝ちました。そして第5局も勝ち、羽生から棋聖を奪取したのです。羽生の七冠の期間は約5ヵ月で終わりました。

三浦は毎日10時間も研究する勉強家として有名ですが、名人戦に備えて研究時間を2時間増やして12時間にしました。何でも、スケートの浅田真央が朝から夜まで12時間も練習すると聞き、自分はまだ足りないと痛感したそうです。また、初めての2日制対局なので、仲間の棋士との練習対局で「封じ手」の体験をしたそうです。

いかにも三浦らしいエピソードでした。とにかく今期名人戦では、三浦が第1局か第2局で1勝すれば、勝負はもつれるような気がします。

注目の第1局は振り駒の結果、三浦の先手番と決まりました。そして▲2六歩△3四歩▲7六歩△8四歩▲2五歩△8五歩という手順で始まり、横歩取りの戦型となりました。

名人戦は第1局の東京に続いて、岩手、千葉、福岡、大阪、奈良、山形と転戦します。今後の熱戦に期待しましょう。

次回は、櫛田六段への応援コメントと「ポンポン桂」の戦型。

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2010年4月 1日 (木)

前年度最終戦の中村太地四段との竜王戦

3月30日に竜王戦で中村太地四段と対局しました。前年度の最終戦でした。じつは2年前にも竜王戦で対戦し、その将棋は私が大いに優勢となったのですが、寄せを誤って逆転負けを喫しました。本局では雪辱を期して臨みました。

矢倉模様の戦型で後手番の私が先に動くと、それをとがめられて作戦負けとなりました。その後も飛車角を押さえ込まれて苦しい形勢でしたが、銀を捨てる勝負手を放って強引に飛車を取り、終盤では手応えを感じました。しかし中村四段の冷静な受けの応手と絶妙な寄せによって、どうしても一手負けでした。

中村四段は21歳の若手棋士。早稲田大学・政経学部4年生という別の顔もあります。米長邦雄永世棋聖門下なので、私からは甥弟子の関係です。長身の礼儀正しい好青年で、ジャニーズ事務所の岡田准一(V6メンバー)に似た端正な顔立ちです。もっと活躍すれば、「イケメン棋士」としてメディアからも注目されるでしょう。

私が中村に勝ってさらに1勝すると、櫛田陽一六段と対戦する可能性がありました。櫛田は私の弟子です。師弟対局を実現して、お互いに5組昇級と決勝トーナメント出場をめざしたいものだと、半月前に当人同士で話していたのですが、残念ながら絵に描いた餅となりました。

「自分は田丸八段、櫛田六段の大ファンです。今期の銀河戦で田丸―櫛田戦の対局が特に印象的でした」という内容のコメントは『マサヤ』さん。師弟そろって応援していただき、ありがとうございます。

銀河戦の対局では、櫛田の四間飛車に対して、私が古典定跡で急戦した戦型となり、少し有利な戦いと思っていました。しかし中盤でミスを連発し、終盤で追い込んだものの、私の一手負けとなりました。

櫛田は1988年に全日本プロトーナメント(朝日オープンの前身棋戦)決勝3番勝負で谷川浩司王位と対戦して準優勝、90年にNHK杯戦で島朗前竜王に勝って優勝するなど、大きな実績を残しています。若手棋士のころは「大物食い」で名を馳せました。

少年時代の櫛田には「グッシー」という異名があり、アマ棋界で大活躍して風雲児のような存在でした。当時はプロになる気はなく、真剣師としても有名だったあの小池重明(元アマ名人)を尊敬していました。その櫛田に奨励会入りを強く勧めたのが私で、そんな縁で師弟関係が結ばれました。1983年のことで、櫛田が18歳のときでした。詳しい話については、次回にします。

次回は、わが弟子・櫛田陽一六段のこと。

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2010年3月21日 (日)

田丸が和服姿で臨んだ38年前の棋士デビュー対局

38年前の棋士デビュー対局

私は38年前の2月22日、奨励会三段リーグの「東西決戦」に勝って四段に昇段し、晴れて21歳で棋士となりました。その翌日の日記には、「悪夢を見ていたような将棋だった」「感傷も喜びも何にも湧いてこない」という一節が書いてありました。負け将棋を拾っただけに、素直に喜べなかったのです。また、新たに始まる棋士人生に思いを馳せると、厳粛な気持ちになりました。

四段に昇段してしばらくは、虚脱状態の日々が続きました。やがて一門関係者、稽古先、友人、親族らに挨拶したり、後援者の方たちがお祝いに贈ってくれた和服の着付けの練習をしていると、棋士になった実感がやっと持てました。

私は20歳まで丸坊主でした。成人になると世間の長髪ブームに乗って髪を伸ばし始め、一時は肩まで垂れるほど長くしました。師匠や兄弟子には「見苦しいから髪を短く切れ」と何度も注意されましたが、頑として切りませんでした。しかしデビュー対局に備えて、少し短くした髪型に変えました。

東西決戦から1ヶ月後の1972年3月21日。棋士としてデビューする初対局がありました。棋戦は新人王戦で、相手は河口俊彦四段(現七段)。

写真は、田丸の対局姿。羽織袴の和服に身を包んで臨みました。着物は「大島紬」、袴は「仙台平」、襦袢は「羽二重」、帯は「博多織」と、いずれも高価なものでした。後日に主催紙に掲載された観戦記には、その光景が次のように描写されました。

《私は目を見張った。この朝、田丸はまったく別人のように見えた。仙台平の袴をさわさわとさばいて対局室にスックと立ったあで姿、いや晴れ姿と書くべきだろうが、ポッと桜色に上気した頬、ウェーブした長髪、手には真っ白な扇子。それらは初々しい女剣士のあで姿と呼ぶにピッタリだった》

戦型は河口の四間飛車に対して、私は袖飛車作戦を採りました。私が中盤で相手の大駒を押さえにいくと、河口は角を切って攻め込み、互いの玉頭で激しく戦いました。難しい形勢だと思っていました。しかし河口は何か読み違いがあったようで、夕食休憩直前の6時すぎに突然投了しました。河口が一礼したとき、私はとっさに理解できず、しばらくぽかんとしてから礼を返しました。

デビュー対局はややあっけない形で終わり、私は初陣を勝利で飾りました。河口は新人棋士を相手に指しにくくそうで、戦意がいまひとつ高まらなかったようでした。私は順位戦ならこれほど簡単に勝てるはずがないと、自分に言い聞かせました。

私は対局当日、体調を少し崩していて、初めての和服姿に不自由さを感じました。将棋の内容も決して良くありません。しかし、盤面にひたすら集中していました。あの姿勢を忘れてはいけないと、38年後の今でもたまに思い出します。

次回は、全国各地での「親子将棋教室」の模様。

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2010年3月 4日 (木)

今年の「将棋界の一番長い日」のA級順位戦最終戦

3月2日にA級順位戦の最終戦が行われました。東京・将棋会館の対局室にはカメラが設置され、NHK衛星放送が全5局の戦いを終局まで生放送しました。私は23時から午前2時までの夜の部の放送を最後まで見ました。

A級順位戦最終戦では、名人戦の挑戦者争いが焦点ですが、通の将棋ファンは残留争いに注目します。一流棋士の証といえるA級(10人)の地位をめぐって、過去に様々な盤上ドラマと泣き笑いがあり、いつしか「将棋界の一番長い日」と呼ばれるようになったのです。現在はテレビ放送・ネット中継でリアルタイム観戦ができますが、以前は将棋会館の大盤解説会が主な情報源で、数百人ものファンが駆けつけて熱気が充満しました。

A級から落ちたら引退すると公言していた大山康晴十五世名人が降級の危機に陥った1990年の最終戦では、異様な雰囲気が漂っていました。その大山が勝って残留の結果が大盤解説会場に伝わると、拍手が巻き起こって落涙する人もいたほどでした。

今年は名人2期の実績がある佐藤康光九段が、まさかの絶不調で降級がすでに決定しました。もう1人の該当者は、井上慶太八段が負ければ落ち、井上が勝って藤井猛九段が負けると藤井が落ちます。ちなみに名人経験者でA級降級の例は、塚田正夫名誉十段、中原誠十六世名人、加藤一二三九段、米長邦雄永世棋聖。塚田と加藤は、翌年にA級に復帰しました。米長はフリークラス転出、中原は2年後にフリークラス転出しました。佐藤には、塚田・加藤のような復帰昇級に期待しましょう。

名人戦の挑戦者争いは、単独トップの三浦弘行八段が勝てば決定します。三浦が負けると、谷川浩司九段、丸山忠久九段、高橋道雄九段らにプレーオフのチャンスが生じます。

それにしても10人のA級棋士のうち、半数の5人が佐瀬(勇次名誉九段)一門なのには驚きます。高橋、丸山、木村一基八段は佐瀬の弟子で、藤井、三浦は佐瀬の孫弟子です。1992年のA級も、米長、高橋、私こと田丸が佐瀬一門でした。84年は、藤内(金吾八段)一門の谷川が名人、内藤国雄九段、森安秀光九段、淡路仁茂九段がA級棋士でした。

午前10時に始まった対局は、日付が変わっても大熱戦が繰り広げられました。そして、井上が木村に負けてA級降級が決定しました。井上は3勝1敗から5連敗し、A級順位戦のレベルの高さと怖さを実感する結果となりました。井上は感想戦で笑みを浮かべていましたが、敗者ほど明るく振る舞うものです。

郷田真隆九段と三浦の対局は最終盤まで優劣不明の形勢で、午前1時過ぎにようやく決着しました。三浦がきわどく勝ち、羽生善治名人への挑戦権を獲得しました。終局直後に取材陣がどっと入ってくると、三浦は席をちょっと外しました。1分将棋の秒読みが続いてトイレに行けなかったからでしょう。勝利の談話を淡々と語った三浦の表情には笑みがありませんでした。先の井上とは逆に、勝者ほど表情が厳しくなるものです。

次回は、「孤高の棋士」三浦八段について。

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2010年2月25日 (木)

「東西決戦」の対局に勝って四段に昇段した38年前

東西決戦の対局に勝って四段昇段
1972年2月22日。奨励会の三段だった私は、関西の酒井順吉三段(現七段)と「東西決戦」の対局を戦いました。勝者のみが四段に昇段して棋士になれる大一番でした。

戦型は酒井のひねり飛車。私が中段に金を進めて玉頭に圧力をかけると、酒井は猛然と攻め込んできました。読み筋になかったので驚きましたが、冷静に応戦して有利となりました。しかし局面が進むほど「四段」の2文字が頭をよぎり、そのプレッシャーで指し手が乱れて形勢がもつれました。そして悪手を指してしまいました。

写真の局面は、下側が田丸、上側が酒井(便宜上先後逆)。酒井の△8七銀は単なる角取りではなく、次の△3九歩成が△7八銀打▲5九玉△4九金までの詰めろです。形勢不利と思った私は▲2二飛の王手をかけ、「合駒を使ってくれ!」と心の中で叫びました。

写真の局面から、実戦は△3二金▲2一飛成△8八銀成▲1一竜△3九歩成▲6四香と進みました。酒井は△3二金と打って先手を取り、△8八銀成で角を取りました。しかし金を使ったので詰めろの順が消え、▲6四香の王手に△6三歩の合駒が打てません。

写真の局面では△5二銀と引き、▲4四桂△3九歩成▲5二桂成△同金▲3四角の攻防手に対して、△4二桂と受ければ酒井の勝ち筋でした。しかし1分将棋の秒読みに追われている酒井は、その順を読み切れませんでした。

本譜の▲6四香以下も難しい変化がありましたが、私は着実に優位を広げて勝ちました。終局時刻は5時7分。7時間あまりの激闘でした。将棋雑誌に載った観戦記によると、終局直後の言葉は、田丸が「逆転したね」、酒井が「受けまちごうたわ」。終局後の写真は、勝者も敗者も放心状態のようでした。じつは大一番に勝ったときほど、喜びをすぐ感じられないものなんです。私もこの東西決戦では「夢現(ゆめうつつ)」でした。

私は検討を終えると、階下の赤電話から師匠の佐瀬勇次(名誉九段)に四段昇段をまず報告しました。そして実家で朗報を待っている母親に連絡しました。そのとき沈んだように小声だったので、「うそじゃないの。負けたみたいよ」と言われました。そんな母親が昇段を実感したのは、私の後援者たちから贈られた羽織袴の和服一式を見た半月後でした。

東西決戦の数日後。いぜんとして放心状態だった私は、軽井沢の山中で起きた連合赤軍と警察隊の激闘を、テレビの前でぼんやり見ていました。棋士になれた喜びを本当に抱いたのは、もう少し先でした。

38年たった今でも、東西決戦の対局と写真の局面を思い出すことがあります。もし負けたとしても、まだ21歳と若かったので、四段昇段のチャンスはまたあったかもしれません。しかし、まったく違う人生になったことでしょう…。

次回は、瀬川問題などのコメントへの返信。

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2010年2月22日 (月)

四段昇段をかけて「東西決戦」の対局を戦った38年前の2月22日

私の誕生日は1950年5月5日。それと棋士としての誕生日が1972年2月22日。前者は「5」、後者は「2」の数字が並び、私にとってどちらもラッキーナンバーです。

38年前の2月22日。奨励会の三段だった私は、関西の酒井順吉三段(現七段)と「東西決戦」の対局を戦いました。勝者が四段に昇段できる、人生がかかった大一番でした。

当時の四段昇段制度は、三段リーグを東西に分けて行い、東西の優勝者同士による決戦の勝者が四段に昇段できました。これが世に言われた「東西決戦」で、年間で2人だけが棋士になれました。現行の四段昇段制度もかなり難関です。現在進行中の三段リーグの人数は31人で、その中から上位2人だけが四段に昇段できます。ただリーグ戦では競争相手の成績の関係で、最終戦で負けても四段昇段が決まるケースがあります。

東西決戦では勝利しか道はなく、勝つと負けるでは天国と地獄ほどの落差が生じます。なお60年代には、東西決戦の敗者同士による再決戦で四段に昇段できる制度がありました。しかし将棋連盟の財政上の理由で、69年以降は昇段枠が3人から2人に減りました。

私は18歳で三段に昇段しました。そして三段リーグ3期目に関東で優勝、70年に関西優勝者の坪内利幸三段(現七段)と東西決戦を戦いました。結果は完敗でした。その後の三段リーグは、決戦で負けたショックが尾を引いたり、青春期を迎えて将棋以外のことに心を奪われたりして、成績が低迷しました。

71年の秋、私は「今期こそ」との決然とした思いで7期目の三段リーグに臨みました。三段陣の顔触れは、関東が宮田利男(現七段)、菊地常夫(同)、沼春雄(同)、椎橋金司(故六段)、鈴木英春(元アマ王将)など。関西が淡路仁茂(現九段)、真部一男(故九段)、小阪昇(現七段)、伊藤果(同)、青木清(現六段)、酒井など。各8人、合計16人で四段を争いました。なお東西リーグの人数を揃えるために、関東の三段が関西に所属することがありました。

私は「一戦必勝」をめざし、対戦相手ごとに綿密に対策を立てました。すると好調にスタートダッシュし、負け将棋を何局も拾い勝ちする幸運にも恵まれ、優勝争いに加わりました。そして11勝1敗で2回目の優勝をしたのです。

私は青年時代、クラシック音楽に傾倒していて、新宿・三越百貨店の近くにあった名曲喫茶『ランブル』によく行きました。この店には会話禁止の一室があり、そこでリクエスト曲がかかるまでじっと聴きました。私の好きな作曲家はベートーベンとショパン。東西決戦の前日は、ベートーベンの『運命』を聴いて戦意を高めたものです。

72年2月22日。東西決戦は東京の将棋会館で行われました。公式棋戦のようにカヤ盤とツゲの盛り上げ駒が用意され、記録係が付きました。いつも奨励会員に威張り散らしている棋士も、この日ばかりは神妙な様子で勝負を見守ります。酒井三段とは初対戦。得意戦法も棋風もまったく知りませんでした。先手番となった酒井は、ひねり飛車の戦型を採りました…。

次回も、酒井三段との東西決戦の対局。

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2010年2月18日 (木)

「さばきのアーティスト」の久保が羽生に快勝した王将戦第3局

王将戦第3局は久保が羽生に快勝
写真は、2月10日〜11日に静岡・掛川で行われた王将戦(羽生善治王将―久保利明棋王)第3局の対局光景。立会人の私が、羽生の着手に合わせて控室のモニター画面を撮ったものです。

私は同じカードだった2年前の王将戦でも立会人を務めました。羽生は別に変わりありませんが、久保は前回と比べて落ち着きが感じられました。所作がゆったりしていて、苦手という和服の着付けも様になっています。昨年の棋王戦で念願の初タイトルを獲得したことで、風格と余裕が出てきたのでしょう。

久保はこの対局の2日前の8日、B級1組順位戦の対局に勝ってA級昇級を決めました。もし負けたら昇級の一戦は3月12日の最終戦に持ち越され、3月10日〜11日に和歌山・白浜で行われる王将戦第5局の何と翌日なのです。当日の朝8時に出発すれば、大阪・福島の関西本部での対局に間に合いますが、心身両面でかなり負担が生じます。

タイトル戦の関係で、当事者の順位戦の対局日程が変わることはあります。ただ昇級や降級に影響を及ぼす最終戦は、同日対局が絶対の原則です。しかし久保は先にA級昇級を決め、安堵して王将戦第3局に臨みました。

近年のタイトル戦は、対局者や対局室の様子が固定カメラで映し出され、ネット中継で全国に配信されます。対局者は一挙手一投足を見られるわけですが、そんなことを気にしていたら将棋は指せません。とくに羽生は慣れたもので、合間におやつのケーキをぱくついたり、時にはあくびをして、適当にリラックスしています。

固定カメラの数メートル先にはガラス戸を隔てて通路があり、関係者が出入りしたりカメラマンがそっと撮ったりしますが、盤面に集中している対局者はいちいち見ません。その羽生が「ギョツ」と驚くような表情と仕草を見せたことがありました。私たちはいったい何かと訝ると、ある棋士が控室に顔を見せました。昨年の王将戦で羽生と第7局まで激闘した深浦康市王位です。深浦は別件で来ていました。それにしても、深浦が通ったときに羽生が目を向けたのは、タイトル保持者の「殺気」を感じたのかもしれません。

羽生―久保戦は相振り飛車の戦型。久保が三間飛車から石田流の陣形に組むと、羽生は金銀4枚の矢倉囲いで守りを固めました。すると久保は相手玉をじかに攻めず、逆サイドに飛角銀を転換する意表をつく指し方を採りました。そして中盤で銀捨ての強手を放って攻め込み、羽生の頑強な抵抗を打ち破って快勝しました。最終盤で「羽生マジック」を思わせる手が出て、控室は一瞬騒然となりましたが、久保は冷静に勝ちを読み切りました。

本局は「さばきのアーティスト」といわれる久保の本領が発揮された将棋でした。しかし指し方が華麗だけでなく、随所に粘りと渋さが見られ、じつに勝負強いと思いました。次の王将戦第4局は本日の18日に勝負がつきます。

次回は、田丸が四段昇段を決めた東西決戦の対局。

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2010年2月15日 (月)

山内一豊の居城だった掛川城で羽生―久保の王将戦第3局

掛川城で羽生―久保の王将戦
王将戦(羽生善治王将―久保利明棋王)第3局は先週の10日〜11日、静岡県掛川市「掛川城二の丸茶室」で行われ、私は立会人を務めました。写真はその掛川城で、右側の建物が対局場となった茶室です。

戦国時代の15世紀、今川家が掛川城を築きました。豊臣秀吉の時代には、妻の内助の功の逸話で有名な山内一豊の居城でした。現在の城は18年前に240年ぶりに再建されたもので、全国で初の木造復元天守閣とのことです。

タイトル戦の対局場は通常はホテル・旅館です。近年は東大寺、東本願寺、延暦寺、金剛峯寺など、歴史的な寺院で行われることがあります。昨年の名人戦では熊本城が対局場となり、初めて「お城将棋」が実現しました。

羽生は前夜祭で「昔はお城で将棋を指しました」と挨拶しました。江戸時代には毎年11月17日、江戸城の御黒書院において、将軍の御前で家元の棋士たちが将棋を指すのが恒例の儀式だったのです。なお将棋連盟は35年前、お城将棋の故事によって11月17日を「将棋の日」と定めました。

立会人の私は午前9時、「定刻になりましたので、久保棋王の先手でお願いします」と宣言しました。久保が初手を▲7六歩と指すと、カメラマンたちのシャッター音やフラッシュが対局室に一斉に広がりました。おなじみの対局開始光景です。

以前は撮影用に、対局者が初手を何回か指し直すのが常でした。しかし厳密には「二手指し」に当たるとの見解もあり、近年は行われていません。将棋で「待った」が許されないように、たった1回のシャッターチャンスでも誤りなく撮るのは、プロカメラマンとして確かに当たり前の仕事です。

現在のタイトル保持者、A級棋士など一流棋士の大半は居飛車党です。「藤井システム」で名を馳せた藤井猛九段も、最近は居飛車党に転じて矢倉を指します。そんな中で、久保は純粋の振り飛車党として活躍しています。

久保は王将戦で、第1局は三間飛車、第2局は中飛車に振りました。第3局では第1局と同様に3手目に▲7五歩と伸ばし、三間飛車に振りました。

対して羽生は、第1局は居飛車でしたが、第3局では飛車を2筋に振り、相振り飛車の戦型となりました。それにしても、羽生がどんな戦型でも指しこなすことに驚きます。研究が高度に進んでいる最新型にも、避けずに対応します。羽生は過密な対局日程において、いつ研究しているのだろうかと、仲間内では不思議がられています。

次回も、王将戦第3局・羽生―久保戦の勝負の模様を伝えます。

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2010年2月 1日 (月)

大山康晴十五世名人との棋王戦挑戦者決定戦の対局

20年前の1990年1月。私は年明け早々から将棋連盟の出版担当理事として、「羽生新竜王」増刊号の出版に向けて追い込みにかかっていました。そんな時期に棋王戦で米長邦雄九段(8日)、羽生善治竜王(19日)との対局に何と連勝し、挑戦者決定戦に進出したのです。そして1月29日、南芳一棋王への挑戦権をかけて大山康晴十五世名人と対局しました。

正直なところ、棋士としての状況が一変しそうなことに戸惑いを感じました。タイトル戦の対局の様子と雰囲気は、立会人を務めた経験からおよそわかっていましたが、対局者として自分がその場にいることがまったく想像できなかったのです。むしろ当時の心境は、3勝6敗で降級の危機に陥っていたB級1組順位戦の成績のほうが気掛かりでした。

私は公式戦で大山とそれまで10局ほど対戦し、何局か勝ちました。しかし本気モードとは思えない対局もあり、大山に本当に勝ったとは思っていませんでした。しかし、この一戦だけは違います。大山と盤を挟んで対座したとき、無言の圧力をひしひしと感じました。時に大山は66歳、田丸は39歳でした。

仲間内の多くは、タイトル戦で数多くの勲章がある大山よりも、タイトル戦未経験の田丸に勝たせてあげたい、と思っていたようです。しかし対局開始から1時間後、私は早くも苦しい形勢となりました。

将棋は田丸の先手で、▲7六歩△3四歩▲4八銀△8四歩▲5六歩△8五歩▲5五歩△8六歩▲同歩△同飛▲7八金と進みました。3手目の▲4八銀は私がよく指した手で、不定形の戦型に誘う狙い。大山はそれに対して、いつもの振り飛車ではなく居飛車を選びました。私は近年、相居飛車での「5筋位取り」作戦をよく用います。大山戦では成り行きでその戦型になりました。とにかく、自分の土俵に大山を誘い込むことができました。

ところが、私は序盤の局面で見落としをして、26手目で早くも桂損となりました。その後は苦しい戦いがずっと続きました。いちど優位に立つと、絶対に隙を見せないのが大山の強さです。形勢挽回はまったくできませんでした。途中から観戦記者の方は、対局室にほとんどいませんでした。後日談によると、「田丸さんの深刻な表情を見るのがつらくなった」からだそうです。

対局は夕方の5時前に早々と終わり、大山の圧勝でした。私は手も足も出ない内容でした。こうして大山は最年長記録の66歳で、タイトル戦への登場を果たしたのです。感想戦を終えて私が席を立つと、大山は手帳を広げてタイトル戦日程について担当記者とすぐに話を始めました。まだ敗者の私がいる前でしなくてもと内心思いましたが、何でも現実的に処理するのが大山流です。

私がわずか10日間で夢に見たタイトル戦挑戦の機会は、このように潰えました。「こんな絶好のチャンスはなかったのに…」と痛感したのは、対局直後よりも数日後でした。

次回は、大山康晴十五世名人の生前の思い出。

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2010年1月21日 (木)

今月の対局は「返り討ち」にあったり逆にしたり

昨日の1月20日、竜王戦で土佐浩司七段と対局しました。戦型は矢倉模様。私はいつものように独自の作戦を立てて仕掛けると、土佐の対応策が消極的でした。私はかさにかかって攻め込み、中盤で意表をつく一手を放って有利となりました。そして99手で快勝、本年最初の勝利をあげました。

今月は13日に中田功七段(棋王戦)、20日に土佐七段(竜王戦)、28日に塚田泰明九段(王将戦)との対局が組まれています。この対局相手を見て、少しばかり妙な気持ちになりました。以前に順位戦の最終戦でいずれとも対局し、昇級や降級にかかわる一方が負けたことがあったからです。

2007年のC級1組順位戦最終戦で、私は中田と対局しました。2勝7敗の私は、負ければC級2組に降級し、勝てば残留できます。6勝3敗の中田は、勝てば来期の順位が上がります。したがって「消化試合」ではありません。その対局は、私の完敗でした。それから3年後、先週に中田と対局し、結果的に「返り討ち」にあってまた負けました。

2005年のB級2組順位戦最終戦で、私は土佐と対局しました。9連敗の私は、すでにC級1組への降級が決まっていました。8勝1敗の土佐は、勝てばB級1組への昇級が決まります。前記の中田とは違い、私は「消化試合」でした。その対局では、羽織袴を久しぶりに着て臨みました。1992年のA級昇級をかけた対局でも着た「勝負服」です。

私の兄弟子・米長邦雄永世棋聖は現役時代、「相手の大事な一番こそ全力で戦えば勝ち運がつく」とよく語りました。私もそれに倣ったものですが、通算9期在籍したB級2組での最後の対局になるのかな、という感傷的な思いもありました。

私はその対局に勝ち、土佐はB級1組への昇級を果たせませんでした。それから5年後、昨日に土佐と対局し、逆に「返り討ち」にする結果となりました。

2001年のB級2組順位戦最終戦で、私は塚田と対局しました。8勝1敗の塚田は、勝てばB級1組への昇級が決まります。1勝8敗の私は「降級点」が決まって「消化試合」でした。しかし私はその対局に勝ち、塚田は結果的に昇級できませんでした。それから9年後、久しぶりの対局が来週にあります。

順位戦の最終戦では、前記のような状況の対局はよくあります。その結果で生じた因縁を、「返り討ち」や「敵討ち」などの時代がかった言葉で表現するのは適切ではないかもしれません。実際に当事者の棋士たちは、そうした過去は心の中にしまい込み、新たな気持ちで対局に臨むものです。勝負の厳しさは「お互い様」と割り切るほうが、かえってすっきりします。それが本来の勝負の世界のあり方です。

次回は、青森・三沢での親子将棋教室。

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2010年1月18日 (月)

本年最初の対局は「三間飛車」のスペシャリストに新手法で急戦

本年最初の対局は新手法で急戦
先週の1月13日、棋王戦で中田功七段と対局しました。中田七段は師の大山康晴十五世名人の将棋を受け継いで振り飛車一筋です。とくに「三間飛車」のスペシャリストとして知られていて、「コーヤン流」と呼ばれる軽快な駒さばきは定評があります。

現代の振り飛車対策は「居飛車穴熊」が定番の戦法です。しかし私は性に合わず、指したことはほとんどありません。以前は、「左美濃」を得意にしました。近年は、急戦で攻めたり、変形の相振り飛車に持ち込んだりします。これまでの中田戦では、三間飛車に対して急戦で攻めるパターンでしたが、巧みに応戦されてなかなかいまくいかず、かなり負け越しています。

なお、『ケイ』さんのコメントで「ポンポン桂」という戦法が紹介されました。これは私がよく用いる急戦の振り飛車対策で、いろいろと思い入れがある戦法です。具体的な指し方については、いずれブログのテーマに取り上げて解説します。

写真の局面は、先週の中田戦の序盤戦。先手(下側)が田丸、後手(上側)が中田、手番は田丸。私は4筋攻撃と9筋端攻めを併用させる新手法を試みました。

写真の局面で、普通に▲4五歩と仕掛けるのは、△同歩▲3三角成△同銀で攻めきれません。私は▲3五歩△同歩▲2四歩△同歩(△同角は▲4四角で良い)▲9五歩△同歩▲同香△同香▲3四歩と攻めました。9筋で歩を得て、角取りに打つ▲3四歩が狙いの一手。△2二角と逃げれば▲2四飛と進み、次に▲2三飛成が厳しいので先手が香損でも有利になります。

実戦は▲3四歩以下、△9八香成▲3三歩成△同銀▲4五歩△同歩▲2三角△3一飛▲4五角成と進みました。▲2三角では、▲4三角△3一飛▲2一角成△同飛▲3三角成と銀桂を取るのも有力な攻め筋で、次に▲9四桂の王手が生じます。当初はその予定でしたが、気にかかる手があって自重しました。

実戦はその後、一進一退の攻防が繰り広げられ、私は少し有利かと思っていました。しかし決めにいったつもりの手が、いつものように「暴発」になってしまい、本年最初の対局を勝利で飾ることはできませんでした。

写真の局面の陣形を作ってから、3筋・4筋・9筋を併用させる急戦は有力な手法だと思います。興味のある方はいちど試してみてください。

昨年の秋は、2ヵ月以上も対局がない時期がありました。しかし年明けの1月は、この中田戦に続いて、今週20日に竜王戦で土佐浩司七段、来週28日に王将戦で塚田泰明九段と、毎週のように対局があります。

次回は、竜王戦の土佐七段との対局。

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2009年12月21日 (月)

勝利祝福、昇段激励、題材提案、誤り指摘、などのコメントに感謝します

私が前回ブログで、竜王戦の対局で23歳の若手棋士・金井恒太四段に勝ったことを報告すると、勝利を祝福するコメントをいただきました。面識のない方(たぶん)にネット上で祝福や称賛を受けたのは初めての体験で、何か不思議な気持ちでした。ほかの方にも別件でコメントをいただいたので、今回はお礼かたがた返事を伝えます。

『山野モズク』さんは「思わずガッツポーズ(中年の星!)。おかげさまで私も今夜のお酒の理由ができました」と、わが事のように喜ばれました。若手棋士に1局勝っただけで中年の星とは照れくさいです。でもベテラン棋士の奮起が期待されていると思うと、張り合いが出てまた頑張ろうという気持ちになりました。そして、2年後の棋士生活40周年を颯爽と迎えたいですね。ちなみに将棋界では、勤続25年目と40年目に表彰されます。

『ソフトバンクファン』さんは「急戦矢倉や相振り飛車、急戦調の将棋を何回も並べました。九段昇段を達成できるよう、頑張ってください」と、田丸を激励されました。正直なところ、自分の将棋が参考になっているとは思いませんでした。IT時代に手作りを大事にする人がいるように、データ将棋時代に独自の作戦でいく姿勢が共感を呼んだのでしょうか…。なお九段昇段には、八段昇段後に250勝が必要です。現時点で白星がだいぶ足りませんが、1勝ずつ積み上げていきます。

『吉澤はじめ』さんは「次もぜひ勝ちましょう!」とのコメント。その対戦者は土佐浩司七段。4年前のB級2組順位戦の最終戦で、全敗の田丸が昇級候補の土佐に勝った因縁の相手です。

『ケイ』さんは「棋王戦の挑戦者決定戦で敗れ、どのような気持ちで対局に臨まれたのか聴かせてください」と、ブログの題材として提案されました。1990年の棋王戦・大山康晴十五世名人との将棋は、私にとって貴重な実績になったとともに、苦渋の一戦でもありました。しかし面白いエピソードもあるので、当時の思い出を近いうちに振り返りたいと思います。

『ろれるり』さんは「十七世(森内)に十八世(羽生)は、十八世(森内)に十九世(羽生)の誤植ですね」と、誤りを指摘されました。確かにその通りで、私の単純なミスでした。さっそく訂正しました。ありがとうございました。

新聞・雑誌に寄稿した場合、編集者が原稿をチェックしたり校正します。しかしブログでは編集者に当たる人はいません。すべて執筆者に任されています。文章の用語・表現・事実確認などについて、細心の注意を払うべきだと改めて痛感しました。

このブログへの感想、将棋に対する質問などがありましたら、コメントをぜひお寄せください。できるだけ反映します。

予定テーマだった「竜王戦創設の経緯」については、また改めて取り上げます。次回は、新聞社との関係と新聞紙の効用について。

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2009年12月17日 (木)

3ヵ月ぶりに勝利の美酒を味わった若手棋士との竜王戦の対局

私は若手棋士時代、「研究家の田丸」とよく評されたものです。すべての棋譜を集めて棋士別・戦法別に整理し、対局ごとに作戦を練りました。そうした地道な努力が実り、順位戦では8期目にB級1組へ昇級できました。

現代の研究システムはそうした「紙台帳」ではなく、パソコンの棋譜データベースによる「高速通信」の時代です。新戦法・新手法が日進月歩で更新されています。正直なところ、頭の固い中年棋士にはとてもついていけません。

私は15年ほど前から、流行に背を向けた時代遅れの戦法を指し続けています。「クラシックカー」のような格調はなく、ただの「古いポンコツ車」です。したがってエンストをよく起こしますが、たまに自分でも驚くような鮮やかな走りも見せます。

昨日の12月16日。竜王戦6組1回戦で、23歳の若手棋士・金井恒太四段と対局しました。金井はC級2組順位戦で6勝1敗と好成績で、有力な昇級候補です。

戦型は矢倉模様。私は後手番ながら急戦策をめざしました。私が公式戦でよく用いる作戦で、以前はそれなりに威力を発揮しました。しかし近年は対策を立てられて、なかなかうまくいきません。今回の対局では、少しばかり工夫してみました。別に研究したわけではなく、ほんの思いつきでした。

その手法が意外にも当たって中盤でリードしました。しかし若手棋士たちは、少しぐらい苦しくてもへこたれません。とくに中年棋士に対しては、「いずれ間違えるだろう」と徹底的に粘ります。実際、その粘りに根負けして自爆するパターンが多いのです。しかし今回は、逆に相手を焦らせる柔軟な指し方が功を奏しました。田丸が圧倒的な内容で104手で勝利を収めました。

私の棋士生活は今年で38年。近年は勝負への執念が欠けていて、昨年から今年にかけて14連敗も喫しました。無敵時代の大山康晴十五世名人は「勝つことに慣れるのが心配」と言ったそうですが、私は「負けることに慣れてしまった」状態でした。しかし不思議なもので、1局でも勝つと妙に自信がつくのです。

昨夜は3ヵ月ぶりに勝利の美酒を味わいました。やはり勝利は何事にも勝る喜びです。それがあるからこそ、いくら負けが込んでも勝負師人生を長く続けられてきたのでしょう。

次回は、今回の予定テーマだった竜王戦創設の経緯。

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2009年12月 7日 (月)

降級が決まった最終戦で昇級候補に勝った4年前のB級2組順位戦

2005年3月。私はB級2組順位戦の最終戦で、土佐浩司七段と対局しました。当期は9連敗とまったく不振で、すでにC級1組への降級が決まっていました。一方の土佐は8勝1敗と好成績で、私に勝てばB級1組への昇級が決まります。

「すでにA級昇級が決まっている田丸が最終戦で、負ければ降級する棋士に勝った…」という内容の『穂高』さんのコメントが以前にありました。これは事実ではありませんが、A級昇級を「C級1組降級」に、負ければ降級を「勝てば昇級」に置き換えると、田丸の立場は逆ですが似通った話になります。

順位戦の最終戦では、昇降級に関わる棋士Aと、そうではない棋士Bとの対戦という組み合わせがよく生じます。こうした場合、Aは必死に戦うしかありませんが、Bの気持ちは様々です。勝負に明け暮れる棋士といえども人間。その時々の状況や心境によって、対局への臨み方が違ってくるのです。主に、次の4例が考えられます。

①自分のために「全力で戦う」②相手の不幸は蜜の味と「楽しみながら戦う」③相手や状況に関係なく「自然体で戦う」④相手の立場を慮って今ひとつ「力が入らない」

土佐は当時49歳。若手棋士が台頭する中で、中年棋士が昇級候補になっているのは立派でした。初のB級1組昇級を期待していた仲間やファンは多かったようです。

私はその土佐に対して、好きでも嫌いでもないという、まったく白紙の関係でした。そこで、③の心境で対局に臨みました。

対局当日は羽織袴を久しぶりに着用しました。1992年のA級昇級をかけた対局で着た「勝負服」です。これが最後のB級2組順位戦の対局になるのかな、という感傷的な思いもありました。周囲には「虫干しがてら着たんですよ」と笑いながら話しました。

私の和服姿を見て、いつも冷静な土佐の表情に驚きの色が浮かびました。私の「やる気」と「事の重大さ」を改めて感じたようです。そんな対局心理が作用したのか、土佐の指し手は精彩を欠きました。逆に私は伸び伸びと指し、得意型からがんがん攻め込むと、パンチが炸裂しました。

対局は早くも7時すぎに終わり、田丸が一方的に勝ちました。後に将棋雑誌に載った終局時の写真には、「気合い十分な白髪鬼?」とのキャプション。確かに、私は勝負の鬼になった気分でした。なお、別の昇級候補の棋士が勝ったので、土佐は昇級を逃しました。

「相手の大事な一番に全力で戦えば勝ち運がつく」とは、米長邦雄永世棋聖の有名な勝負哲学。私は土佐に勝って、それを期待しました。しかし以降の順位戦でも不振が続き、坂道を落ちるように降級していったのです…。

次回は、渡辺竜王の4連勝で終わった今期竜王戦。

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2009年12月 3日 (木)

相手棋士の「同情」を期待した21年前のB級1組順位戦・降級の一戦

1988年3月。私はB級1組順位戦の最終戦で、小林健二八段と大阪で対局しました。前期順位戦では昇級争いに加わり、次点でしたが10勝3敗の好成績を収めました。当期は勝ち将棋を落としたのが響いて3勝8敗と負けが込み、小林に負けるとB級2組に降級します。しかし勝てば残留できます。

私は以前にも降級の危機を脱したことが何回かあり、「悪運が強い」と言われていました。でも正直なところ、その年ばかりは駄目かと思いました。

小林は前A級棋士。当期は7勝4敗で、A級復帰の可能性はすでに消えました。ただ順位戦に「消化試合」はありません。勝ち星が多いほど、次期の順位が上がるからです。小林の場合、勝てば3位、負ければ4位となります。昇級をめざす者にとって、わずか1位差でも大きいものです。田丸が残留できるか、小林が順位を上げるかの勝負でした。

ちなみに順位戦で昇級すると、次期の対局料収入がおよそ3割アップします。逆に降級すると、およそ3割ダウンします。順位戦での昇降級は、昇段や棋士生命にも大きな影響をもたらします。

小林はいつも全力で戦う棋士で、若いころは「火の玉少年」と呼ばれました。将棋は本格的な居飛車党。後年に振り飛車党に転じましたが、当時はたまに用いる程度でした。じつは1ヶ月前に別の棋戦で対局したとき、私は小林の振り飛車に対して快勝しました。

小林の戦型は振り飛車でした。いつもは序盤からじっくり時間を使うのに、その日はとても早指しでした。そして、そわそわと落ち着きがなく何回も席を外しました。私は、小林の不慣れな振り飛車と、対局に集中しない様子を見て、あることを想像したのです。苦境にいる私を見兼ねて、「同情」めいたものを感じているのではないかと…。小林は私より7歳年下で温和な性格です。私と個人的な付き合いはないですが、仲は悪くありません。

しかし、私のとんだ思い違いでした。小林が早く指したのは実戦経験があったからです。対局室をしきりに離れたのは、重苦しい雰囲気から逃れるためでした。終盤の勝負所では2時間以上も長考し、勝ちをしっかり読み切りました。一方の私は、妙な期待感にとらわれて、全般に指し手が変調になりました。結果は完敗でした。

私は対局後、近くの居酒屋に一人で入りました。悔いが残る将棋を指し、溜め息が出たものです。でもお酒を飲めば、とりあえず気持ちが安らぎます。長い棋士生活では、勝てば祝い酒、負ければ悔し酒、ということを繰り返してきました。

なお次期のB級2組順位戦では、前半が3勝2敗でしたが後半に5連勝。B級1組へ1期での復帰昇級を果たしました。

次回は、B級2組順位戦の最終戦で全敗の田丸が昇級候補と対戦した話。

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2009年11月30日 (月)

五段昇段と同時に相手棋士の首を切った35年前のC級2組順位戦

1974年2月。私はC級2組順位戦の最終盤で、関西の星田啓三七段と対局しました。私は当時、棋士2年目の23歳の四段。7勝1敗の成績で昇級をめざしていました。一方の星田は57歳のベテランで、成績はかなり悪かったです。

前期順位戦では後半に失速して昇級を逃しました。私は今期こその気構えで対局の2日前に東京を立ち、京都に寄って寺院を散策して英気を養ってから、大阪の対局場に向かいました。村田英雄の『王将』の曲のように、「あすは大阪(東京)に出て行くからは、何が何でも勝たねばならぬ」という心境でした。

私は星田戦で、若い虎が老羊に襲いかかるように激しく攻め込みました。ただ星田は下り坂にいるとはいえ百戦錬磨の勝負師。何しろ『王将』のモデルになった、あの伝説的棋士・阪田三吉の弟子で、師の棋風を受け継いで力強い将棋が持ち味でした。いつしか私が不利になりました。しかし終盤で星田が悪手を指し、私がきわどく勝利を収めました。

対局を終えて事務室に寄り、東京の結果を聞いてみました。同じ昇級候補の棋士が負けると、私の昇級が決まります。しかし「まだ対局中」との返事。そこで「果報は飲んで待て」と思って外出すると、背後から星田に「ちょっと、そこらに行きまひょ」と声をかけられました。

私は星田と連れ立って近くの居酒屋に行きました。一緒に飲むのはもちろん初めてです。星田はしんからお酒が好きな人で、おいしそうに杯を傾けました。私たちは今し方の熱戦を忘れたように淡々と雑談し、そのうちにアマへの「稽古将棋」の話題になりました。東京に比べて大阪のほうが、件数が少なく単価も低いと思いました。それでも星田にとって貴重な副収入のようで、少しでも稼がなくてはという思いが伝わってきました。

私は星田の成績がふと気になりました。成績不良で「降級点」に該当したようですが、問題は2回目か3回目かです。じつは当時の制度では、C級2組順位戦で降級点を3回取ると、引退を余儀なくされました。つまり、私が星田の首切り人になったかもしれないのです。勝利の美酒が少し苦く感じました。やがてお開きとなり、勝った私が勘定を払おうとすると、星田に「まあまあ、ここは」と軽く手で制されました。

私は翌日、C級1組への昇級と五段昇段の決定を知らされました。そして星田が3回目の降級点を取ったことも…。

それから3ヶ月後の将棋連盟総会。順位戦でC級2組から陥落しても一定期間は多棋戦に参加できる、現行の「フリークラス」に当たる制度が導入されました。理事会から突然の動議だったので、総会では議論が紛糾しましたが、結果的に承認されました。そしてこの制度によって、星田は特別に救済されたのです。私は正直なところ、ほっとしました。

次回は、田丸が降級の一戦を迎えた話。

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2009年11月26日 (木)

順位戦の最終戦での棋士たちの微妙な対局心理

「すでにAクラスに昇級が決まっている田丸さんが、負ければ降級する人と最終戦で対局し、勝ったことがあったような…。さすがはプロだなと思った出来事でした」という『穂高』さんのコメントが以前にありました。

このコメントを具体的に説明すると、「B級1組順位戦の最終戦で、すでにA級昇級が決まっている田丸は、負ければB級2組に降級する棋士と対戦し、田丸が情け容赦なくその棋士に勝った」という話だと思います。これは事実ではありませんが、似たような話が重なっています。

私は1992年にB級1組順位戦の最終戦で、同じ昇級候補の島朗八段との直接対決に勝ってA級に昇級しました。形勢不明の大熱戦が終盤まで続き、土壇場で島に読み違いがあって、私が幸運にも勝てました。手数は142手、終局は翌日の0時43分。田丸の将棋人生の中で、最も思い出が深い将棋でした。したがって、最終戦の前にA級に昇級していません。

順位戦の最終戦では、昇降級に関わる深刻な立場の棋士Aと、すでに安泰な立場の棋士Bが対戦するケースがあります。もしAとBの間で何らかの取引があり、BがAにわざと負ければ、いわゆる「八百長」になります。しかしそうした不正行為がなくても、AとBが親しい関係だったり、Bが性格的に優しかったら、Bは結果的に力が入らずに負けてしまうかもしれません。このように順位戦の最終戦では、棋士たちの対局心理が微妙に揺れ動くことがあります。

私は四段時代に順位戦の後半で棋士Cと対戦したとき、まだ中盤の難しい局面なのに、Cが突然投了したことがあります。私は体調が悪くて棄権したのだと思いましたが、別の事情があったのです。Cは昇級候補の棋士Dと仲が悪く、Dが昇級するぐらいなら同じ昇級候補の田丸に勝たせちゃえ、と思ったようです。棋士といえども人間、時には感情に左右されることもあります。

私の兄弟子の米長邦雄永世棋聖は「相手の大事な一戦こそ全力で戦え」と提唱し、現役棋士時代は自身の勝負でそれを実践してきました。リーグ戦の最終戦で、相手の挑戦権や昇級を阻止したり、陥落させたことが多々ありました。米長の勝負哲学によると、なあなあで指して負けると負け癖がつき、勝ち運も逃げてしまうとのことです。そんな米長哲学が後輩棋士たちに浸透し、今では情実がからむ勝負はほとんどありません。

次回は、私が順位戦の最終戦で体験した苦い思い出、穂高さんのコメントにある勝負に徹した話について。

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2009年11月 9日 (月)

全盛時代の大山康晴十五世名人はタイトル戦の対局が麻雀旅行

大山康晴十五世名人は1950年代後期からおよそ10年間、タイトルをほぼ独占して全盛時代を築いた。大山の勝利よりも敗戦が話題になり、自身も「勝つことに慣れるのが怖い」と語った。あまりの強さから「大山は盤外戦術を使ったり、相手に催眠術をかける」という噂が流れたほどだ。実際、大山が敗色濃厚な終盤戦で、相手が泥沼に引き込まれるように悪手を指し、大逆転が起きることがよくあった。

大山が対局中に前記のような怪しいことを、もちろんするわけがない。大山は抜群に強かったし、一流の勝負術に相手がはまっただけだ。ただタイトル戦の対局場では、ある仕切りによって自分のペースに持ち込んでいた。

大山は全盛時代、タイトル戦の対局で全国を転戦していたが、まるで麻雀旅行みたいな有り様だった。対局場に着くと麻雀卓をすぐ用意させ、立会人や記者などの関係者と麻雀を打った。それは対局前夜、1日目の夜、2日目の終局後と、3日間に及んだ。対局中には自ら関係者を指名して控室で打たせ、たまに立ち寄って観戦した。大山は麻雀を楽しむために対局しているようだった。だから麻雀をしない者は疎んじられ、「立会人は麻雀を打てる人にしてほしい」と関係者に注文をつけた。

私は修業時代、大山のタイトル戦の記録係を何回か務めたが、不思議な光景を見たことがある。1日目の封じ手時刻(当時は6時)を2時間前に早めることを、大山が相手の挑戦者にじかに持ちかけたのだ。その2時間分は折半し、両者の直前の指し手に1時間ずつ加えて「みなし長考」にするもの。大山のこの不可解な申し出に対して、若くて従順な挑戦者は断りきれなかったようだ。まだ陽の高い4時に封じ手となり、1日目が終わった。

私は先輩の記録係から聞いて、その事情を知った。大山は対局を早く切り上げて麻雀を打ちたかったのだ。やがて控室から麻雀パイの音が響いてきた。

大山はタイトル戦の対局で、なぜあれほど麻雀三昧に過ごしたのか。大山にとって麻雀は、スポーツ選手の軽いストレッチ体操みたいなもので、頭をほぐして気分転換を図ったと思う。それと、別の大事な理由があった。大山は盤上の戦いだけでなく、対局場を仕切って自分のペースにするのも戦略だと思っていた。麻雀はその小道具だった。ひとつの盤外戦術といえる。

ベテラン棋士Aと若手棋士Bの対局で、Aは「夕方からテレビ番組の収録なんだ。さっさと負けて早く行かないと…」と言って、時計を気にしながら猛烈な早指し。気のいいBはそれに合わせて早く指すと、いつしか不利な形勢になった。するとAは指し手が急に慎重になり、終局は深夜に及んだ。結果はAの勝ち。実際にあった盤外戦術だ。ちなみに、Aはタレント活動をしていた芹沢博文九段、Bは青年時代の青野照市九段。

次回テーマは、異業種交流の将棋会。

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2009年11月 5日 (木)

いつも全力投球で対局を戦う加藤一二三九段の意外なエピソード

加藤一二三(ひふみ)九段は来年1月に古希(70歳)を迎えるが、今でも持ち時間をフルに使っていつも全力投球で戦っている。私は同じ棋士として、その真摯な姿勢に大いに敬服している。ただ加藤の対局中の言動には、意外なエピソードが多々あった。

花柄ネクタイを結び直しながら、上体を伸ばして盤面を上から見る。やたらと咳払いを出す。対局相手の背後に回って盤面を見る。チョコレートやケーキをぱくぱく食べる。持ち時間を使いきって1分将棋なのに、1手ごとに「あと何分」と記録係に聞く。加藤の対局では、こうした光景がよく見られる。

加藤の咳払いに対して、ある棋士は「うるさくて対局に集中できない」と理事会に訴えた。咳払いのたびに手を口の前に当てる、という行為で暗に抗議した棋士もいた。私も加藤との対局で咳払いを受けたが、かなり高音に聞こえた。緊張による生理現象なのでしかたないと思ったが、加藤が勝勢になったとたんに、ぴたっと止まったのには驚いた…。

対局相手の背後に回って盤面を見るのは、相手が不在だったり休憩時間ならともかく、対局中は失礼な行為だ。そもそもプロ棋士なら、頭の中で盤面を反転して読むことは別に難しくはない。相手側から盤面を見て対局心理を知りたい、ということなのだろうか。ある棋士は、加藤が背後に回ると、自分も相手側に回って対抗した。

8月に行われた加藤と若手棋士の対局で、暑がりの加藤が対局室のエアコン設定温度をかなり低くすると、寒がりの若手棋士が元に戻した。その後、両者は1手ごとに席を立って設定温度を変えたという。常識的には後輩が先輩に従うものだが、その若手棋士はマイペースで知られていた。それにしても漫画みたいな光景だ。

同じ部屋で対局が2局ある場合、関係者が対局前に盤を適切に配置する。ところが、加藤は対局前に盤の位置を自分で決めることがよくあった。本来は良くないことだが、大先輩なので異議を唱える棋士はいなかった。しかし10年ほど前、こんな一件があった。

中原誠(十六世名人)が対局室に入ると、2面の盤の位置に不自然さを感じた。加藤側の盤が中央にかなり寄り、中原側が隅に追いやられている感じだった。中原は対局前に「少しずらしてくれませんか」と言うと、加藤は「もう決まっていますから」と応じなかった。中原はいったん引き下がったが、30分後に「加藤さん、やっぱりおかしいよ。50センチでいいから動かして」と頼んだ。それでも加藤が無言なので、中原が「加藤さん、喧嘩を売るの?」と気色ばむと、加藤は「いやいや、別に他意はありません」と応じて盤を動かし、その場は治まったという。

だれでも棋士は、最良の状態で対局に臨みたい。加藤のこうした一連の行為も、その現れだと理解したいが、行きすぎがあったと思う。そういえば加藤は、野良猫への餌やりで近隣住民と訴訟になったが、どう決着したのだろうか…。

次回は、対局での盤外戦術について。

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2009年11月 2日 (月)

タイトル戦で起きた飛行機Uターン、封じ手時刻、扇子の音などのトラブル

今回のテーマは、タイトル戦で起きたトラブル。ただタイトル戦に登場する棋士たちはみんな紳士的なので、そうした事態はきわめて少ない。

1994年の王将戦(谷川浩司王将―中原誠前名人)第5局は2月下旬に青森・三沢で行われた。ところが対局者や関係者が対局前日に搭乗した飛行機が、大雪のために三沢空港に着陸できず、羽田空港に引き返した。翌日、三沢にやっと到着した。

そして関係者で協議した結果、第5局は通常の持ち時間・8時間の2日制ではなく、持ち時間・5時間の1日制に短縮することに決まった。日程を延ばすと2日目が土曜日で、対局場のホテルが満室という事情もあったようだ。王将戦は1月から3月にかけて冬に行われる。こうした気象による不測の事態はありうることだ。その後、王将戦は雪国での対局が少なくなった。

1996年の名人戦(羽生善治名人―森内俊之八段)第1局の1日目の夕方、「封じ手」をめぐって問題が起きた。封じ手時刻の5時半、立会人が「封じ手の時間になりました」と手番の森内に声をかけると、森内が「指すつもりなんですけど」と言って指した。記録席にある時計と森内の時計は、秒針が少しずれていたようだ。結局、森内の指し手は認められ、羽生が封じ手をした。翌日、立会人は「記録係の時計が公式の時刻を示す」と両対局者に伝えた。

2日制のタイトル戦では、1日目の封じ手時刻に手番の対局者の指し手は封筒に密封され、翌日の対局開始時に開封される。封じ手をしないと、手番側が翌朝まで考えることができる。また封じ手を明らかにすると、相手側に同じメリットが生じる。森内はこの名人戦でタイトル戦に初登場した。森内は慣れない封じ手をしたくなかったのかと、関係者は推測した。

2007年の名人戦(森内俊之名人―郷田真隆九段)第1局の1日目。考慮中の森内が相手の郷田に向かって、「自分の手番のときに扇子の音を立てるのは控えてほしい」とじかに掛け合った。森内は郷田が立てる扇子の音を、対局開始時から気になっていたようだ。森内の要望に対して、郷田はいったん了承した。しかし郷田は、扇子の音は許容範囲ではないかと思い直した。その10分後、立会人を含めて話し合いをしたいと申し出た。

そこで立会人は記録係の時計を止め、別室で対局者、立会人、関係者らで協議した。前代未聞の事態だ。そして協議の結果、森内の手番のとき、郷田は扇子の音に配慮する、ということで決着した。対局は30分後に再開された。森内は興奮して鼻血が出たのか、鼻にティッシュペーパーを詰めていた。翌日の2日目、郷田の手元には扇子がなかったという。

今回のトラブル例に、森内が2回も出てしまったが、普段の森内はいたって常識人である。後者のケースは、対局に打ち込みたいための言動だろう。次回も、対局でのトラブルについて。

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2009年10月29日 (木)

タイトル戦の立会人は重要な職務だが、退屈になるほど平穏なのが望ましい

「立会人はどんな仕事をするのですか」という『五平餅』さんのコメントがあったので、それを簡単に説明しよう。

タイトル戦では2人の棋士が「立会人」として対局を見届ける。正立会人はベテラン棋士、副立会人は中堅棋士か若手棋士という組み合わせが一般的。前者は対局全般の進行を仕切り、後者は担当記者に戦況を伝えたり大盤速報会で解説する。日程は地方での2日制タイトル戦だと、往復の移動日を含めて4日間にわたる。正立会人の場合、次のような仕事がある。

空港や駅で対局者・関係者と待ち合わせて対局場に向かう。一同で対局室を下見して盤駒や照明などを検分。前夜祭で主催者や地元関係者と交歓。1日目の9時に対局開始を宣言。取材陣の要請に応じて対局撮影を許可。控室で担当記者に戦況を随時説明。1日目の夕方に対局者に「封じ手」時刻を伝える。対局者の封じ手2通のうち1通を預かる。2日目の開始時に封じ手を開封して指し手を示す。控室で白熱する戦いを検討。終局後の感想戦に同席して適当な時間に終える。打ち上げの宴席で両対局者の間に座って歓談。対局翌日に一同で帰参。

このように列記すると、立会人の仕事は過密に思えるかもしれない。しかし節目の責務さえ果たせば、あとは時間的に自由だ。対局室にずっといる必要もない。1日目は長考が続いて局面に動きが少ないので、私は自室で昼寝したり散歩する。控室で囲碁や麻雀に興じてもよく、温泉に入るのも楽しみだ。ただし、対局中の時間に飲酒はご法度。

タイトル戦の対局場は、地方都市のホテル、観光地の温泉旅館、歴史的な寺院など様々である。今月21日、私は福岡県飯塚市で行われた女流王位戦第3局の立会人を務めた。その対局場は、明治から大正の時代に「炭鉱王」と呼ばれた大資産家の伊藤伝右衛門の本邸で、明治天皇の系統につながる美貌の歌人・柳原白蓮が嫁いだことで知られる。写真は、対局室と庭園の光景。言葉ではうまく表現できないが、贅を尽くした造りや調度が随所に見られた。

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白蓮はこの豪壮な屋敷で、25歳年上の伊藤伝右衛門と10年ほど暮らした。しかし「籠の鳥」生活や妻妾同居に嫌気が差し、7歳年下の帝大生と恋に落ちた。そして、白蓮が新聞紙上で夫に絶縁状を突き付けるという大スキャンダルに進展した…。

タイトル戦の立会人は重要な職務を担っており、何か問題が生じた場合は最高責任者として対処する。ただタイトル戦に登場する現代の棋士たちはみんな紳士的なので、そんな事態はめったに起きない。立会人が退屈になるほど平穏なのが望ましい。しかし、昔はいろいろなトラブルがあった。

次回は、タイトル戦で生じたトラブルについて。

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2009年10月26日 (月)

豪快な「反則手」で注目された石橋幸緒女流王位の次の対局で、立会人として見た石橋の意外な様子

先週の21日に女流王位戦(石橋幸緒女流王位―清水市代二冠)第3局が福岡県飯塚市で行われ、私は立会人を務めた。

石橋は第2局の終盤で、六段目の角が四段目の自分の歩を飛び越えて敵陣の二段目に成り込むという、前代未聞の豪快な「反則手」によって勝ち将棋を落とした。その一件は新聞・テレビで報道され、石橋は全国的に注目された。それから1週間後の対局なので、私だけでなく関係者たちは、腫れ物を触るように石橋を見守っていた。

20日の前夜祭で主催者代表は、「昨年も当地で対局が行われました。あのときは地元出身の麻生総理誕生で大いに沸いていました。でも1年後には政権交代で退陣しました。政治の世界では一寸先は闇と言いますが、まさにそのとおりでした。将棋でも思いも寄らないことが起きるものですね…」と挨拶した。具体的なことは語らなかったが、やはりあの一件を示唆した。

そして当の石橋が登壇すると、「あの対局によって、一躍有名になりました」と反則について明るく語った。これで会場は一瞬のうちに和んだ空気となった。石橋はその後も自分から進んで反則の話題に触れ、私にも「ブログ(19日更新記事)を見ましたよ」と話しかけてきた。関係者との宴席では、大好きなプロ野球の話に花を咲かせた。ちなみに横浜ベイスターズのファンで、横浜球場で始球式を務めたこともある。

石橋は第2局の反則負けで大きなショックを受けたはずだが、外見は意外にもあっけらかんとした様子だった。

第3局は横歩取りの戦型で、飛車角が中段で乱舞する派手な展開となった。石橋は前局の後遺症もなく、積極的に攻めて押し気味に進めた。しかし清水は頑強に受けて容易に腰を割らない。そして大熱戦の末に、清水が競り勝った。

私は女流タイトル戦の立会人を初めて務めたが、女流トップのレベルの高さに驚いた。両者は1分将棋の秒読みでも、じつに正確に読んでいた。感想戦で青野照市九段がある有力手を指摘したとき、両者は暗に疑問に思ったのか、黙って盤上で以後の指し手を示した。すると青野のほうが口をつぐんでしまった…。女流棋士の強さを物語る印象的な光景だった。

じつは、清水と石橋は師弟関係にある。その両者は女流タイトル戦で、これまでに7回も対戦した。戦績は師匠の清水が4勝3敗。8回目の対戦となった今期女流王位戦は、清水が2勝1敗と勝ち越し、タイトル奪取に王手をかけた。それにしても個人競技において、師弟同士が大舞台で戦って切磋琢磨するというのは、世界的にもあまり例がないと思う。

次回テーマは、立会人の仕事について。

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2009年10月22日 (木)

対局での遅刻時間は持ち時間から3倍引き。最長1時間の遅刻で不戦敗の囲碁に比べて甘い将棋の対局規定

前回は、先週のタイトル戦で女流棋士が犯した反則をテーマにした。その反則には「二歩」「王手うっかり」「駒の動き方を間違える」「2手続けて指す」など、盤上の指し手による例が多い。盤外での状況によって、反則負けや不戦敗になるケースもある。

持ち時間を使いきって1手60秒(または30秒)の秒読みでは、最後の10秒を1、2、3…と読まれ(ちなみにロケット発射は10、9、8…の順)、9のうちに指さないと時間切れで負けになる。NHKのテレビ対局では、10の時点でブザーが鳴る。ただ通常の対局では、記録係が10を読むのをためらい、タイムオーバー気味になる場合がある。

対局日や対局場所を思い違いして、不戦敗になったケースもある。関東―関西の棋士の対局で、関東の棋士が関西に行くべきなのに、関東と思い込んだのが後者の一例。どちらの不戦敗も、棋士としてとても恥ずかしいことだ。対局通知をしっかり確認すれば、そんなことには絶対にならないはずである。

対局開始時間に遅刻すると、遅刻時間の3倍を持ち時間から引かれる。たとえば持ち時間・5時間の対局で、40分の遅刻は持ち時間が3時間に減る。1時間40分以上の遅刻だと、持ち時間がなくなって不戦敗になる。持ち時間の少ない対局では、1時間以内の遅刻で不戦敗になる場合がある。

今年3月の持ち時間・6時間の順位戦の対局で、棋士Aが1時間57分も遅刻した(理由は寝坊)。相手の棋士Bは、来るのか来ないのかといやな気分で待っていただろう。そして不戦勝と思った矢先に、Aが対局室に駆け込んできた。Aの持ち時間は、わずか9分に減った。しかし対局結果は、なんとAが勝ったのだ。将棋の内容は別にして、2時間近くも待たされたBは心理的に悪影響が及んだと思う。

今月8日に台風18号が上陸し、首都圏の交通機関は大きく乱れた。その影響を受けて川本昇九段、梅沢由香里女流棋聖ら4人の囲碁棋士が、日本棋院の対局場に11時まで到着できず不戦敗になった、という記事が新聞に載った。日本棋院の対局規定では、遅刻の事由や持ち時間にかかわらず、遅刻1時間で不戦敗になる。

遅刻に関しては、将棋の対局規定は囲碁に比べて甘いと思う。将棋も最長1時間の遅刻で不戦敗にすべきだ。

次回は、私が立会人を務めた21日の女流王位戦(石橋幸緒女流王位―清水市代女流二冠)第3局の模様をお伝えする。第2局で反則負けを喫した石橋の様子が見物だ。

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2009年10月19日 (月)

石橋幸緒女流王位がタイトル戦で角による豪快な「反則手」で勝局がふいになる

今月14日に行われた第20期女流王位戦五番勝負(石橋幸緒女流王位―清水市代女流二冠)第4局で珍事が起きた。石橋が終盤の局面で、六段目の角を四段目の自分の歩を飛び越えて敵陣の二段目に成り込む反則手(▲6六角→▲2二角成)によって、勝局がふいになったのだ。

斜めに進む角の動きはじつに豪快で、▲2二角成が実現すれば相手玉はぴったり詰みとなる。石橋は5手前から読んでいて、自信たっぷりに指した。反則を指摘されても、何をしたのかすぐ理解できなかったという。反則手を指した瞬間だけ、四段目の歩は消えて見えたのだろうか…。なお、その局面では石橋は持ち時間が十分にあり、いったん受けに回れば必勝形だった。

プロ棋士といえども、ごく稀に反則を犯す。最も多いのは、同じ縦の筋に自分の歩がいるのに、持ち駒の歩を打つ「二歩」。あの大山康晴十五世名人でも犯した。私も修業時代に二歩を打ったが、二段差だったので笑われた。自陣の下側にある歩をうっかりして、敵陣に歩を打つケースが多く、至近距離の二歩はめったにない。

そのほかに、駒の動き方を間違える、相手の王手に気づかないで玉を取られる、相手の手番なのに2手続けて指す、などの反則例がある。どのケースでも、石橋と同じように、反則手ほど好手が多い。まさに、綺麗な花には棘があるのだ。また、何手も先を深く読んでいるうちに、誤って予定外の手を指して反則という、プロならではの例もある。

この対局後、新聞やテレビで反則手の話題が報道され、石橋は急に注目された。ある新聞では、20歳の井山裕太囲碁新名人誕生の記事より、石橋の反則記事のほうが大きかった。石橋には気の毒だったが、将棋の話題を全国的に広めた効果が生じた。

女流王位戦はこれで1勝1敗となり、第3局は今週の21日に福岡県で行われる。私はその対局の立会人を務める。対局の模様や石橋の様子は、来週のブログでお伝えする。

今回は、予定を変更して反則手をテーマにした。次回は、別の形の反則負けについて。

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2009年10月 8日 (木)

弟子との対局でまたも「恩返し」された師匠の私

将棋界と相撲界は、ともに日本の伝統的競技として、何かとよく比較された。確かに、勝負の形式や用語には、共通点がいくつかある。

棋界と角界、棋士と力士、四角い盤面と丸い土俵、一対一の男の勝負、順位戦と番付、指し手と差し手、待ったなし、寄せと寄り切り、名人と横綱、など。

しかし、決定的に違う点がある。大相撲では同じ部屋の力士同士の対戦は絶対にないが、将棋の公式戦では同じ一門の棋士同士の対戦は珍しくない。それどころか、師匠と弟子が対戦することもある。現役を引退して親方となる相撲界と違って、将棋界では師匠が現役を続けながら弟子育成をするのだ。

私は今年9月、ケーブルテレビ・スカイパーフェクTVで放送される「囲碁・将棋チャンネル」が主催する「銀河戦」で、弟子の櫛田陽一六段と対戦した。組合わせは抽選で決められるため、このようなカードが偶然に生じたのだ。

弟子と対戦する師匠の気持ちは複雑だ。年長の師匠に弟子が負けるようでは「こいつは大丈夫なのか」と心配になるし、師匠が負ければ同じ勝負師として純粋に悔しい。なお将棋界では、弟子が師匠に勝つことを「恩返し」するという。つまり、師匠に育ててもらって強くなった証しを実際に示したというわけだ。

私は櫛田との対局で、師弟という関係を超えてひたすら盤面に集中した。中盤では有利な形勢となったが、見落としがあって一気に形勢が悪化した。結果は櫛田が勝った。師弟戦の指しにくさというよりも、櫛田が強かったことにほかならない。

じつは16年前にも、NHK杯戦でベスト8進出をかけて櫛田と対戦し、やはり負けたことがある。「恩を返された」のはこれで2度目となった。今度は「恩知らずのやつだ」と言いたいものだ。

次回テーマは、私が所属する佐瀬一門の弟子たちについて。

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2009年10月 5日 (月)

「と金ドリーム」が叶う竜王戦は優勝賞金が3900万円

将棋界の最高棋戦である「竜王戦」は高額の賞金で知られる。対局料がもともと高いうえに、決勝トーナメント(11人)に入って勝ち上がるとさらに増額する。そして竜王保持者と挑戦者が争う七番勝負に出ると、勝者は3900万円(今期から700万円増額)、敗者は750万円を獲得できる。さらに保持者は、別に対局料として750万円を得る。つまり竜王保持者が勝てば、合計で4650万円を獲得できるのだ。

渡辺明竜王は、竜王を連続5期獲得している。その5年間で得た竜王戦での賞金・対局料は、およそ2億2千万円。他棋戦の分を含めると、もっと高額になるだろう。将棋連盟が発表した年間の賞金ランキングによると、渡辺は2007年が約8000万円で2位、2008年が6000万円で2位。なお両年とも、タイトル獲得数が多い羽生善治名人が1位になった。

野球やサッカーのようなプロスポーツの世界に比べると、将棋界の賞金水準は決して高くない。ただスポーツ選手と違って、棋士は現役の寿命が長い。年をとれば次第に実力は落ちていくが、中高年になっても現役続行は可能なのだ。私は今年で棋士生活が38年目。今では成績不良でランクが落ち、対局料収入は最盛期から半減した。それでも棋士を細く長く続けていられる。なお、棋士にも「定年」制度がある。現在59歳の私の場合、65歳まで現役を続けることができる。

将棋界では、竜王戦と名人戦が二大棋戦。ただ両者で決定的に違う点は、タイトルまでの道程だ。名人戦はA級・B級1組・B級2組・C級1組・C級2組と5クラスに分かれ、新人棋士はC級2組から一段ずつ上がって頂上をめざす。名人になるには、最短でも6年かかる。実力本位の制度とはいえ、ヒエラルキーの形状をなしている。竜王戦も1組から6組までランクがあるが、6組の新人棋士でも1位になれば決勝トーナメントに出場でき、さらに勝ち上がれば挑戦者になれる。つまり、わずか1年で竜王を獲得することも夢ではないのだ。新入社員がいきなり社長に昇進できるシステムの竜王戦は、まさに「と金ドリーム」が叶う棋戦といえよう。

藤井猛九段は以前に竜王を3期獲得し、30歳で東京・西荻窪に家を建てた。渡辺竜王も2年前、23歳の若さで西荻窪に家を建てた。訪ねた人の話では、どちらも豪邸だという。つまり西荻窪には、「竜王御殿」が2軒もあるわけだ。じつは、私も西荻窪に長く住んでいる。しかし高額賞金に縁がなかったので、いまだ賃貸マンション暮らし。これが勝負の世界の現実である。

次回は、私が弟子と対局した「師弟戦」の話。

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