将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

2014年6月23日 (月)

岩手県久慈市の柔道の三船久蔵十段記念館で見た将棋の盤駒と免状

岩手県久慈市の柔道の三船久蔵十段記念館で見た将棋の盤駒と免状

私は6月上旬に指導将棋の仕事で岩手県久慈市を訪れたとき、近代柔道の礎を築いた三船久蔵十段の記念館を地元の方に案内してもらいました。

三船久蔵は久慈の出身でした。20歳のときに柔道家をめざして上京し、講道館に入門しました。そして厳しい修練の末に、相手の動きを利用して投げる「空気投げ(隅落とし)」という神技を編み出しました。まさに「柔よく剛を制す」柔道の真骨頂でした。62歳のときに十段に昇段し、「柔道の神様」として崇められました。

三船は「柔道は動の世界であるが、人間は動だけでは調和がとれない。静の境地に入って考える習慣をつけなければならない」と、文武両道の精神をかねがね説いていたそうです。そして平常心の鍛練と集中力の養成のために、将棋を愛好したのです。

写真は、三船の記念館に陳列された将棋の盤駒と免状など。特別に許可を得て撮影させてもらいました。

三船が愛用した将棋盤は、かなり使い込んだような痕が盤上に残っています。駒は自身で彫ったという象牙製です。手前に駒の表、奥に裏が置かれています。「香車」の駒は、なぜか「京車」となっています。「歩兵」の駒は、崩し字で「歩人」と読めます。

写真の左下は、昭和28年(1953年)4月11日の日付で将棋連盟から三船に贈られた三段の免状。「会長 渡辺東一」「名人 大山康晴」「十四世名人木村義雄」と、3人の棋士が署名しました。また、記念品として三船に盛り上げ駒が贈られ、大山が駒箱の裏に「贈 三船先生 神技」と揮毫しました。

三船の三段免状の文言は、「夙ニ将棋ニ 趣味ヲ有シ 研鑽年アリ 進境顕著ナルヲ認メ 茲ニ参段ヲ允許ス 」でした。現在の三段免状の文言は、「趣味ヲ有シ」以下が「丹念ニシテ 研鑽怠ラス 上達明ラカナルヲ認メ…」となっています。

現在の免状の文言は、将棋を愛好した作家の瀧井孝作が連盟に依頼されて撰文したものです。昭和33年から段位ごとに違う格調の高い文言となりました。三船の免状を見ると、昭和28年の頃には文言の下地がある程度できていたようです。なお「進境顕著ナルヲ」は、現在の二段免状の文言になっています。

61年前の昭和28年は、名人戦で挑戦者の大山八段が木村名人を破って新名人に就いた翌年でした。日本の伝統的な文化である将棋と柔道の世界で、このような交流があったことに驚きました。

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コメント

田丸先生も「ほっと一息」といったところですね。三船柔道十段記念館ですか。「将棋もされていたんですね」連盟から「参段」ですか?現在ですと六段は差し上げていたのではないでしょうか。実際、時の名人が対戦しても勝てなかったかも知れません。途中「名人」が棄権して居たかも知れません。なぜかというと、たまたま二人以外に人が居ない時、やおら三船十段座したまま「えぃ!」と必殺の「新空気投げ」を掛けて部屋の隅まで飛ばしてしまっていたらどうでしょう。名人は悶絶状態!「私が考慮に夢中になっていたらふいっと急に倒れましたよ」となる可能性はありやなしや、こうなると誰も勝てませんね。八段昇段の大勝負の結着でした。指導将棋お疲れ様でした。

投稿: 囲碁人 | 2014年6月24日 (火) 15時51分

田丸先生「指導将棋」の出張ご苦労様でした。大震災の跡も生々しく、悲惨さが記録に残されているところではなかなか将棋で楽しむというわけにもいかないのではと気にはなっていました。連盟は積極的に復興支援活動に頑張っておられる姿はいいですね。「柔道の神様」は将棋も強かったのでしょうね。囲碁人さんの「新空気投げ」をくらってはひとたまりもありません。そんな「裏ワザ」は使わなかったでしょう。三船十段、姿三四郎(実在されていたようです)嘉納師範と「講道館」の華やかなりし頃のお話はたくさん芝居、映画になっていました。三船十段は講道館でも後の方の神話でしょうか。東京オリンピックで神永日本代表がヘーシンクに負けた時の記録に写っていたように記憶しています。当時、田丸先生は実物にお会いして居るかも知れませんね。

投稿: 千葉霞 | 2014年6月25日 (水) 14時46分

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