亡くなった将棋ジャーナリストの山田史生さん、永井英明さんの足跡
今年の7月9日、将棋ジャーナリストの山田史生さんが76歳で死去しました。
昨年の9月24日、『近代将棋』元社長の永井英明さんが86歳で死去しました。
今回は、亡くなった2人の将棋ジャーナリストの方の足跡をお伝えします。
写真・上は、「囲碁・将棋チャンネル」の情報番組『週刊!将棋ステーション』に、田丸(右)が2年前にゲスト出演したとき。左が司会者の山田さん、中は聞き手の女性。
写真・下は、36年前のNHK杯戦の決勝戦で聞き手を務めた永井さん(左)。右は解説者の大山康晴十五世名人。※『近代将棋』より転載。
山田さんは読売新聞社の将棋担当記者を務め、「十段戦」と「竜王戦」の発展に尽力してきました。とくに最大の仕事は、十段戦を発展的に解消して26年前に竜王戦を創設したことでした。将棋界の最高棋戦として、高額の契約金や優勝賞金、四段でも竜王を獲得できる方式、アマの公式戦初参加、海外対局などの新機軸は人気を呼びました。そして時々の強者や勢いのある棋士が竜王戦で活躍しました。5年前の渡辺明竜王―羽生善治名人の7番勝負は、渡辺が3連敗から4連勝して逆転防衛を果たし、将棋界 を大いに盛り上げたものです。
竜王戦が発足した当初は、棋士も将棋ファンも「名人戦」が一番と見る傾向があり、山田さんは将棋界の序列問題で将棋連盟によく談判しました。本来は穏やかな性格の方でしたが、竜王戦の序列第1位は絶対に譲らない信念を持っていました。山田さんの著書『将棋名勝負の全秘話全実話』(講談社)には、そんな経緯が詳しく書かれています。
竜王戦の名称については、ほかに最高棋戦、棋神戦、巨星戦、棋宝戦、達人戦など、様々な候補が上がったそうです。結局、「竜は古来、中国では皇帝のシンボルで貴いものを表す。将棋で竜王は最強の駒」という観点から、竜王戦に決まりました。
山田さんは17年前に読売新聞社を退職した後は、竜王戦の観戦記者、囲碁・将棋チャンネルの司会者や助言者を務め、将棋ジャーナリストとして活躍してきました。長年にわたって務めた前記の情報番組は、昨年に健康上の理由で降りました。私が今年の4月に将棋会館で会ったとき、「田丸さんのブログは、将棋界の出来事や裏話を詳しく書いているので、とても参考になります」と話されました。元気そうな様子だったので、それから3ヵ月後に亡くなったとは残念でなりません。
永井さんは戦後まもない63年前に、24歳の若さで『近代将棋』を創刊しました。将棋を楽しみながら強くなれるという編集方針を立て、実戦譜や定跡の解説、読み物、詰将棋など、多彩な記事を誌面に盛り込みました。理論派の棋士・金子金五郎九段が哲学的な視点で棋譜を解説した「金子教室」は、根強い愛読者がいました。
1960〜70年代の頃は、『近代将棋』は固定読者がいて販売部数が安定し、将棋連盟発行の『将棋世界』と並んで2大将棋雑誌でした。それだけに、連盟や棋士に対して何かと気遣いをしたようです。大山康晴と個人的に親しくする一方で、升田幸三に直営道場の顧問を依頼したりして、2人の実力者とは微妙なバランス関係を保ちました。それは、中原誠・米長邦雄、谷川浩司・羽生善治の時代になっても同様でした。
じつは、私は20代前半の若手棋士の頃に出版の世界に興味を持ち、『近代将棋』で編集の仕事を手伝ったことがあります。永井さんに新しい企画を提案すると(ドキュメンタリー記事、劇画、特集グラビアなど)、基本的に何でも受け入れてくれました。私が後年に連盟の出版担当理事や『将棋世界』編集長を務めたり、著書を刊行した際は、そんな編集経験がとても役に立ったと思っています。
永井さんはNHK杯戦の司会者を10年以上にわたって務め、わかりやすくてソフトな語り口は視聴者に好評でした。知らない人には、NHKのアナウンサーと思われたそうです。
情報が早い『週刊将棋』が発行されたり、ネット時代が到来すると、『近代将棋』の販売部数は次第に落ち込み、10年以上前には娯楽系の出版社に経営を譲渡しました。
永井さんの盤寿(81歳)を祝う会が6年前に盛大に開催されたとき、多くの将棋関係者から祝福を受けました。結果的に、それが花道となりました。『近代将棋』は親会社の事情で5年前に休刊が決まりましたが、最後まで編集者の仕事を全うした人生でした。
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コメント
私は山田史生さんとは4年ちょっとのお付き合いでしたが大変お世話になったのを覚えております。
貴重な品々をいただきまして本当にありがたいと思っております。4月にメールが届きましてそれが最後になっていましました。
なんて言えばいいのかな、、、難しいのだが、、病気自体は1年前に直接聞かされていました。医療は進歩しているし大丈夫と言っておりましたが多分ご本人は覚悟は出来ていたと思いますし、私自身もある程度は覚悟しておりましたがこんなに早いとは思ってもみませんでした。
私にとっては竜王戦はある意味運命を感じておりまして、初の解説会に行ったのも、前夜祭に初めていったのも、そしてあの初代永世竜王をかけた渡辺明竜王VS羽生善治名人(2008年当時)で渡辺明竜王が大逆転防衛。そして翌年の就位式に参加したこと。これが自分のターニングポイントになりました。
このような機会を与えてくれたことに非常に感謝しないといけません。もし許されるなら山田史生先生の功績をたたえる本を是非ともみなさんの共同執筆という形で出していただきたいと切に願うものです。
投稿: 深田有一 | 2013年7月23日 (火) 13時40分
こんにちわ。
。
。
・・・山田さんの訃報には、驚きました。
昨年、永井・米長両会長が亡くなられて、まだ1年なのにまた関係者が・・・という感じです
永井会長(私はそう呼んでします)は、子供のころからNHK杯を見てましたので、おなじみで、将棋を知らない母が「この司会の人、身だしなみ、キレイねえ。さすがNHK職員さんは違うわあ。」と、『勘違い』していました
平成11年秋、NHK将棋の日・箱根へ行き、あの『花月園』で朝風呂にはいってたとき、永井会長とバッタリ!!将棋談話を楽しみ、後の『関根九段引退慰労会』でも再会。その際は山田さん、東公平さん・島田良夫さん・(故)田辺忠幸さんとも会いました。
米長先生と『すくすく王将杯』(小学生3人1チーム団体戦)を主催し、私も関西予選のお手伝い。そのさい、才能を芽生えさせたのが、稲葉・澤田・室谷の3棋士です。
『盤寿の祝い』はいきたかったのですが・・・せめて88の米寿は迎えてほしかった・・・残念の一言。
山田さんはまさに名前の『史生』の通り『現代将棋界の歴史に携わるべくして、生きた』将棋人生だったと思います。
。
『将棋ペンクラブ』や『国際フォーラム』などで何度も会い、何度も将棋談話を聞きました。
十数年前、週刊将棋に『将棋つれづれ草』という、将棋担当になられたころの自伝を連載し、ペンクラブ大賞受賞。
その文章は切抜きして、今も手元にあります。
その連載こそ、のちの『将棋名勝負の~』の原作になったと、勝手に思っています
また、扇子写真集『棋士と扇子』(里文出版)も持っています。
読売新聞の小田さん・西條さんも山田さんのことを尊敬していらして、『後継』は万全、と確信しました。
私とは干支が同じ(3まわり違い)で、年齢は知っていました。
5年後は盤寿だな、と思っていた矢先でした。
返す返すも残念です。
永井さん、山田さん、そして米長先生、3御大のご冥福を、心よりお祈りいたします
投稿: S.H | 2013年7月27日 (土) 17時22分
はじめまして。山田史生さんの従妹、山田虎吉の姪の山田(旧姓)千佳子と申します。虎吉伯父さんの10歳年下の私の父が生まれました時に、「現代風に(?)」義数と名付けてくれたのが伯父です。従妹ですが、史生さんには、姉1人弟3人で、子供の頃から妹のように可愛がってもらいました。早稲田大学生の頃、当時私共が住んでいた京都に度々遊びに来てくれました。その後父が大阪読売新聞社に入社、運動部長、社会部長・・・定年後は、伯父と同じ平成元年に75歳で亡くなるまで囲碁クラブに毎日通って老後を楽しみました。父は大阪に転居と同時に、伯父と懇意の藤沢朋斎の従妹と再婚しました。藤沢秀行は叔父にあたります。
投稿: 福井千佳子 | 2016年2月 4日 (木) 15時14分