69歳で死去した米長邦雄永世棋聖のご冥福をお祈りします
米長邦雄永世棋聖が12月18日に前立腺ガンによって69歳で死去しました。同じ佐瀬(勇次名誉九段)一門の弟弟子である私としては、あまりにも早い死に言葉がありません。今はただ故人のご冥福をお祈りするばかりです。
写真は、2002年の秋に将棋会館で行われた表彰式での光景。右から、「勤続40年」の表彰を受けた米長永世棋聖、私こと田丸昇八段、西村一義九段。
佐瀬一門の棋士の中では1番弟子の米長、2番弟子の西村、3番弟子の田丸が並んだ記念写真です。撮影した人(『将棋世界』編集部員)が「歴史的3ショット!?」という文言を入れましたが、米長、西村、田丸の3人の兄弟弟子が収まった写真はこれ以外にありません。まさに最初で最後の歴史的ショットとなりました。
米長は当時59歳でした。現役棋士として活躍しながら、東京都教育委員を務めるなど、盤上盤外で幅広く活動していました。2003年の春には将棋連盟の理事に就任しました。そして同年12月12日の対局(王将戦・郷田真隆九段)を最後に引退を表明しました。米長は『将棋世界』に発表した手記の結びで、「私は新たにやりたいことがあるのです。勝敗の世界から完全に切り離れて、将棋の普及に務めることです」と綴りました。
米長は2005年に連盟の会長に就任すると、61年ぶりに実施した「プロ棋士編入試験」(瀬川晶司新四段の誕生)、名人戦主催を巡って紛糾した問題で「毎日新聞社と朝日新聞社の共催」案による事態収拾、連盟の「公益法人」化、子どもたちへの「普及」、米長自身が臨んだ最強将棋ソフト「ボンクラーズ」との対局、今年の10月に実施された「将棋文化検定」の発案など、引退時の公約どおりに将棋界の発展、将棋の普及、話題作りに取り組んできました。
米長はいつも精力的に活動していました。病気とはおよそ無縁に思えたものでした。ところが4年前に「前立腺ガン」を患ったことを公表したのです。米長は「手術は成功しました。おかげさまで《あちら》の営みにも支障ありません」と、一流のジョークで経過が良好であることを報告しました。
連盟会長の任期が4期・7年目を迎えた昨年には、「ナベツネさん(渡辺恒雄・読売新聞グループ本社会長)の年齢まで会長として頑張るんだ」と公言したほどでした。渡辺会長は当時85歳で、あと17年は務めるという意味でした。それは誇張ではないと思えるほど、見た目にはとても元気でした。しかし米長は今年の夏頃から体調を崩し、自宅での療養生活を余儀なくされました。
私は今年の7月8日、米長が『週刊現代』で連載していた「名勝負今昔物語」の取材を受けるために米長の自宅を訪れました。米長の弟弟子になって48年たちましたが、2人きりで向かい合って話した記憶はあまりありません。当初は少し緊張しましたが、昔話をするうちに、いろいろな記憶がよみがえって話が弾みました。※8月6日のブログを参照してください。
取材が終わって米長に玄関で見送られたとき、「そうだ。田丸くんに話があるんだけど、またの機会にしよう…」と、ぼそっと言われました。それが何の話だったのか、今となってはわかりません。
あれから約5ヶ月後、米長は天国に旅立ちました。11月下旬の自身のブログには「人生は必ず終わるもの。どのような形で投了するのか、あるいは投了させられるのか…」と書いたそうです。
米長の思い出については、とても書き切れません。また折に触れて、このブログで回想したいと思っています。
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コメント
永世棋聖の死去は現在の将棋界に於いて、とても大きな損失だと考えるファンの一人ですが棋聖の人となりを誤解されてる方が多い様なので出来るだけ早い時期に発表して貰いたいと思います。
投稿: (む_む) | 2012年12月21日 (金) 21時32分
将棋連盟会長の急逝の報に接し 謹んでお悔やみ申し上げます。
3ショットの写真を拝見し、東十条の故佐瀬勇次名誉九段宅に
紹介も無しに、お邪魔して将棋を教えて頂いたことを思い出しました。
当時、田丸先生は17歳で奨励会1~2級だったと記憶しています。
私が田丸先生に香落ちで指導を受けている時に、米長先生、西村先生のお二方が常連さんと指導将棋を指していました。
3人のお弟子さんが揃っていたことを思い出した次第です。
話は変わりますが、今年の11月に、田丸先生の著書「実録名人戦秘話」
を書店で偶然発見しました。
専ら理工系の書棚を物色するのですが、何気なく足が向いた先で発見し
たの次第です。
棋士の品格を磨く、順位戦を勝ち上がり、A級棋士になられた八段は
別格と思います。
投稿: シリウス | 2012年12月21日 (金) 23時49分
米長会長のご逝去は痛恨の極みです。
非常に悲しいです、また米長会長がもうこの世にいないとは到底信じられません。
ブログの更新が無いので気に病んではいましたがこんなに早く逝かれるとは・・
棋界の太陽のような方でした。
今となってはサイン入りの著者と扇子が宝物になってしまいました。
葬儀には是非とも参列したいのですが故人とはイベントや講演でお顔を見ただけの縁もゆかりも無い一般人ですのでご指導いただいている専門棋士の先生にお願いして参列させていただこうと思います。
合掌
投稿: こうめい | 2012年12月22日 (土) 18時12分
こんばんわ。
。
私は夜勤ゆえ、朝寝て夕方起きて仕事に行くのですが、12/18読売新聞夕刊の1面真ん中にドーンと『米長邦雄さん死去』の文字が出ていたのには、ただただびっくりで、一気に眠気が吹っ飛び、呆然と新聞を握っていました・・・
十数年前、近代将棋・永井英明会長と共に小学生団体戦『すくすく王将杯』を設立し、地方予選も設け、関西予選会場のスタッフに私も参加しました。
東海では澤田真吾少年が兄・妹と共に活躍し、こちら関西では稲葉 陽少年らの『加古川チーム』と室谷姉妹(早紀・由紀)らの『大阪狭山チーム』が激突。
先に加古川が、後年、大阪狭山の子供らが全国大会にでて、数年後、澤田・稲葉・室谷といった3棋士が誕生。
今はJTはじめ、さまざまな子供大会がありますが、すくすく王将杯は、その先駆けとも言えましょう。
今年、その主催者2人が相次いで旅立たれたことには、本当に残念至極。
ただただ両会長のご冥福を祈るのみです。
米長先生、本当にありがとうございました。
お疲れ様でした。
田丸先生は、今後西村先生や同門の皆様方と共に体調に気をつけ、元気に長生きし、佐瀬先生・米長先生がなし得なかった『盤寿81歳』を目指してください


投稿: S.H | 2012年12月22日 (土) 18時41分
米長会長といえば、「兄は3人ともバカだったので、東大にいった。
私は賢いから将棋指しになった」と四段時代の名言が有名ですが、普通の
人がいつたら、ぶっ殺されそうですが、まさに米長会長にしか言えない名言
です。将棋界のイメージUPには、はかりしれない働きをしたと思います。
升田名人の「将棋など世の中にあつてもなくてもいいものだ、だけど将棋を知らない人はバカだ」歴史にのこる名言です。
心よりご冥福お祈り申し上げします。
投稿: オンラインブログ検定 | 2012年12月26日 (水) 23時57分