将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

2012年5月28日 (月)

荒川一中・3年9組の先生を交えた伊豆への最初で最後の同級会旅行

荒川一中・3年9組の先生を交えた最初で最後の同級生旅行

東京で唯一の路面電車として現存している都電荒川線(三ノ輪橋〜早稲田)で、三ノ輪橋の次に「荒川一中前」という電停があります。私は、その電停名となっている東京都荒川区立荒川第一中学校を卒業しました。46年前の1966年(昭和41年)のことです。

当時はプロ野球・東京オリオンズ(千葉ロッテの前身チーム)の本拠地だった「東京スタジアム」が近くにあり、私は怪童と言われた投手・尾崎行雄(東映)の豪速球を球場で見たことがあります。また、二重事故で電車と線路上の乗客が衝突して死者160人の大惨事となった1962年の「三河島事故」の高架線路、4歳の幼児が営利誘拐から殺害された1963年の「吉展ちゃん事件」の犯行現場も、すぐ近くにありました。

小学5年から中学卒業まで住んだ荒川は、私にとって思い出が深い場所でした。小学6年で将棋を覚え、中学1年で近くの将棋クラブに通い始め、中学2年で棋士をめざして奨励会に入会と、わずか2〜3年の間に人生の転機を迎えたからです。

三ノ輪橋の電停の近くにあった将棋クラブは、大人たちが賭け将棋を指していてすさんだ雰囲気でした。しかし将棋を指したい一心の私は、50円(席料)玉を握りしめて通ったものです。時には真剣師の人が教えてくれることもありました(もちろん無料で)。やがて10級の棋力が初段まで伸びると、棋士になりたいと本気で思うようになりました。

私は5月中旬に荒川一中・3年9組の同級生たちと、先生を交えて伊豆半島・城ヶ崎へ旅行しました。以前にも都内の飲食店でクラス会が何度か開かれましたが、一泊旅行は初めてのことです。というのは、この数年間に2人の同級生(男・女)が亡くなったからです。病気とは無縁に思えた元気な2人が先立ったことで、「私たちもいつ何時どうなるのか…」という声があり、最初で最後の同級生旅行が実現したのです。

写真は、宿泊地での記念撮影。先生と8人の男女(61歳〜62歳)が参加しました。前列の左から2人目が工藤清二先生。後列の右から2人目が田丸。

工藤先生は今年で77歳の喜寿を迎えましたが、いたって元気な様子でした。そして数多くの教え子がいるのに、私たちのエピソードや住んでいた場所、兄弟姉妹のことまで覚えていたのには驚きました。先生はクラス担任とともに、英語の教科を担当しました。東北なまり(岩手県の出身)が少し入った英語の発音は懐かしい思い出です。

私は中学3年のとき、すでに奨励会に入っていて、平日に行われた奨励会の例会(現在は土日・祝日)に行くために月に2日は学校を欠席しました。工藤先生は私の将棋への熱意を認めてそれを許可し、中学卒業後も何かと激励してくれました。

写真の後列・左から2人目は、当ブログにコメントを寄せたことがある秋葉均さん。彼は20代半ばで将棋に夢中になり、勤務していた大手出版社で作った将棋部で、私が数年ほど指導したことがありました。私とは同級生であり、将棋の弟子という関係です。

それにしても、還暦を過ぎた中学の同級生と先生が一緒に旅行するのは珍しいようです。旅先では愛称で呼び合ったり、昔話に花が咲いたりして、つかの間のタイムスリップを体験しました。みんなの私への共通の思い出は、「田丸くんって、授業が終わるとすぐ帰ったよね」でした。そうです。私は中学時代、将棋しか関心がありませんでした。

中学卒業時に配布された名簿には、全生徒の進路(高校・会社)が記されていました。当時は「中卒者は金の卵」と言われた時代で、約3割の人が就職して社会に出ました。私の進路は「将棋士」でした。それが本当に実現したのは6年後でした。

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