大阪・北畠の旧関西本部の思い出と今は駐車場になっている跡地
関西将棋会館(大阪・福島)が開館したのは、30年前の1982年(昭和57年)の年初でした。それ以前の旧関西本部は、大阪・北畠にありました。大阪市南部の中心地・天王寺から大通り(阿倍野筋)をバスで10分ほど南下した辺りでした。私は4月上旬に所用で関西に行ったとき、約30年ぶりに北畠の旧関西本部の跡地を訪れてみました。
写真・上は、旧関西本部があった大通りで、中央の空いているところが跡地。写真・中は、今は駐車場になっている跡地。
関西将棋会館は5階建てのビルですが、旧関西本部は2階建ての細長い木造家屋でした。古色蒼然とした佇まいがありました。なお、写真・中の白い車が駐車している手前右半分のスペースは酒屋でした。左側の一間ほどの入口に関西本部の看板がかかっていましたが、玄関は数メートル奥なので、初めて訪れた人は気付かずに通り過ぎてしまうこともあったそうです。
旧関西本部の1階は事務室、宿直室(主に角田三男八段、北村秀治郎八段が交代で宿直)、塾生部屋(塾生は本部に住み込んで雑用などをする奨励会員)などがあり、2階の和室は対局や宿泊に当てられました。関東の棋士が対局で関西本部を訪れると、関係者たちは「いらっしゃい」と挨拶してくれましたが、言外に「よそ者が来たな」という感じを受けました。関西棋界の人たちの関東棋界への対抗心は、今より強かったような気がします。
昔の関西棋界は、自由な空気があった関東棋界に比べると、上下関係が厳しかったです。奨励会員は棋士に対して絶対服従で、服装は黒ズボンに白シャツとみんな地味な格好でした。その一方で、無頼派の棋士が多かったです。控室では連日のように麻雀が行われていました。酒好きの棋士同士の対局では、終局後に記録係に隣家の酒屋に一升瓶の酒を買いに行かせ、酒を飲みながら感想戦をすることもあったそうです。
私の旧関西本部での対局の思い出などを列記します。
坪内利幸三段に敗れて四段に昇段できず、落胆して途方に暮れた奨励会の「東西決戦」(1970年)。順位戦で C級2組から降級した目の不自由な西本馨四段が、介添えの人が読み上げる棋譜を聞いて対局していた奨励会での光景(1973年)。きちんと正座した対局姿に大物の片鱗がうかがえた11歳の谷川浩司5級(同年)。勝って昇級を決めると同時に、相手の星田啓三七段を降級させたC級2組順位戦の対局(1974年)。谷川初段が記録係を務めた森安秀光六段との新人王戦準決勝の対局(1975年)。振り飛車の名手・大野源一九段の往年の強さを実感したC級1組順位戦の対局(1977年)。森安八段の振り飛車を初めて破って自信を得た王将戦の対局(1980年)。有吉道夫九段に逆転勝ちした旧関西本部での最後のB級1組順位戦の対局(1981年)。
旧関西本部の周囲は、以前と変わらない庶民的な町並みでした。ただ棋士たちがよく行った喫茶店やお好み焼き屋は、閉店したり違う店名になっていました。私が対局後にたまに行った居酒屋は同じ店名でした。艶やかな容姿の女将も今は70歳ぐらいかと想像し、再会したい思いでしたが、昼間だったので閉まっていました。
写真・下は、北畠の帰りに寄った新世界「通天閣」。映画や歌謡曲でおなじみの『王将』の舞台になっています。映画の場面では、阪田三吉が住んでいた長屋の背景に通天閣がそびえています。村田英雄が歌った歌謡曲の3番の歌詞の最後は、「空に灯がつく 通天閣に おれの闘志が また燃える」。私は少年時代、その歌を聴いて将棋を覚えたものでした。
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コメント
旧・関西本部跡の貴重なレポート,有難うございました。
何かで,子供を関西奨励会に入れようと,旧・関西本部を訪れたお母さんが,あまりに「古色蒼然とした」たたずまいに,応対した棋士に「失礼ですが,ご収入はいかほどですか(ウチの子が奨励会を突破して棋士になれても,食べて行けるのでしょうか?)」と聞き,想定以上の数字を答えられて安心した,という話を読んだことがあります。
田丸先生のブログで,「現・将棋会館の建築中,高輪の旧・日本棋院の建物を借りて臨時の将棋会館にしていた」と読んだように思いますが,こちらの建物も,かなり「古色蒼然とした」たたずまいだったようですね。これは,囲碁の中山典之七段の著作で間接的に知っております。
田丸先生のように,昔のことを良くご存じで,かつ筆の立つ方はどんどん減って行かれると思います。今後もご健筆に期待しております。
投稿: オヤジ | 2012年5月 2日 (水) 12時41分