第1回「将棋の日」イベントでタイトル戦の十段戦(中原―大山)が土俵上で対局
1975年(昭和50年)11月17日に行われた第1回「将棋の日」イベントの会場は、当時は大相撲の本場所が開かれた東京・台東区の「蔵前国技館」でした。
そのイベントでの超目玉企画が、中原誠十段に大山康晴棋聖が挑戦していたタイトル戦の十段戦(竜王戦の前身棋戦)第2局が土俵上で対局されたことでした。
写真は、その対局光景。左から、記録係、立会人の金易二郎名誉九段、萩原淳九段、中原、大山。
当日は、東京・広尾「羽沢ガーデン」で行われた十段戦第2局の1日目でした。午後3時すぎに対局を中断し、盤・駒・脇息・座布団などを対局場から国技館に運びました。土俵上という以外は、通常の対局とまったく変わらない設定でした。
午後5時に対局が再開されました。大山の四間飛車に中原の5筋位取りという戦型の序盤で、大山が封じ手をした5時40分まで3手が進みました。その間、場内は水を打ったような静寂さに包まれました。そして大山の封じ手が終わると、約8000人の観衆から万雷の拍手が巻き起こりました。
当時は、タイトル戦のテレビ中継はまだ行われていませんでした。タイトル戦の公開対局も初めてのことでした。短時間とはいえ、タイトル戦の生の対局を見た将棋ファンは大いに感動したようです。
第1回将棋の日イベントを企画し、裏方で総指揮を執ったのが芹沢博文九段でした。会場は大相撲の殿堂にしたいと思いついたのも芹沢で、個人的に親しかった共同通信の田辺忠幸さん(棋王戦の担当記者。後に観戦記者)を通じて、相撲協会に掛け合いました。田辺さんは運動部に所属したこともあり、相撲界に顔が利きました。そして、将棋を愛好した親方たちの理解もあって、国技館を使用することができたのです。
《棋界と角界。棋士と力士。四角い盤面と丸い土俵。1対1の勝負。順位戦と番付。名人と横綱。指し手と差し手。寄せと寄り切り。待ったなし》
日本の伝統的文化である将棋と相撲は、もともと関連性が多くあります。これらの例のように、勝負の形式、名称、用語などがよく似ています。
相撲の親方の中で、最も将棋が好きだったのは故・二子山親方(元大関・貴ノ花。元横綱・貴乃花親方の父親)でした。現役時代は暇さえあれば付き人と将棋を指し、稽古場に将棋の本を持参するほどでした。約40年前には中原と記念対局をしたこともありました。得意の棒銀で攻めると、中原に「筋がいいです」と誉められました。ただ猛烈な早指しだったので、中盤で2手続けて指してしまったそうです。
半月ほど前に亡くなった鳴戸親方(元横綱・隆の里)は、弟子たちの勝負勘を鍛えるために将棋を奨励し、稽古が終わると日替わりで弟子たちと指しました。相撲の取り口が将棋の指し手に現れるので、指導しやすかったそうです。私が8年前に将棋雑誌の取材で鳴戸部屋を訪れたとき、親方が17歳の三段目・萩原(現関脇・稀勢の里)を指差して、「将来きっとものになる」と目を細めていたのが印象的でした。
次回は、田丸・櫛田の師弟が11月17日に勤続表彰。
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