将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

2011年10月20日 (木)

昭和棋界の双璧だった大山と升田の珍しいツーショット写真

昭和棋界の双璧だった大山と升田の珍しいツーショット写真

私は青年時代、写真に凝って撮りまくっていました。主な被写体は対局光景や棋士などの将棋関連で、写真はその中の1枚。ピントは外れ、光は中央で分離して、でき映えは良くありません。しかし、とても珍しいツーショット写真として気に入っています。

左は大山康晴(十五世名人)、右は升田幸三(実力制第四代名人)。両者は昭和棋界の双璧として将棋史に大きな足跡を残しました。ともに関西の木見金治郎九段の兄弟弟子で、修業時代は内弟子生活を送って同じ釜の飯を食べた間柄でした。暴れん坊の兄弟子の升田は、生真面目な5歳年下の大山をよく可愛いがったそうです。

升田と大山は長じると、タイトル戦に登場して頭角を現しました。両者はタイトル戦で何度も激突し、宿命のライバルといわれました。やがて盤上だけでなく、盤外でも火花を散らすことがありました。升田は朝日新聞社、大山は毎日新聞社と、異なる新聞社の嘱託になったことで、互いの取り巻きの思惑が両者の関係に微妙な影響を及ぼしたのです。名人戦契約で将棋連盟と主催新聞社とで問題が起きると、対立する関係にもなりました。

とにかく升田と大山は、実績(升田は信長型、大山は家康型)、棋風(升田は攻め、大山は受け)、性格(升田は豪放、大山は実直)、私生活(升田は奔放、大山は地味)など、あらゆる面で対照的でした。いつしか不仲説も噂されました。実際に前記の問題などで何かと張り合いました。しかし将棋界の一大事という事態になると、ともに歩み寄って協調したものです。

写真は、日本棋院(囲碁団体)が主催した囲碁の団体対抗戦の対局光景でした。1974年(昭和49年)6月に、棋院の大ホールで行われました。将棋連盟はA・Bの2チームが参加しました。Aチームのメンバーは、大将が升田、副将が大山、ほかに丸田祐三(九段)、佐藤庄平(八段)、河口俊彦(七段)。Bチームは、米長邦雄(永世棋聖)、芹沢博文(九段)、真部一男(九段)など。いずれも囲碁の棋力はアマ四、五段の強豪でした。

私は当時、24歳の若手棋士五段。大山と升田は雲の上の存在で、話をする機会もありませんでした。ただ撮影時は、ファインダー越しに見たのと、将棋ではなく囲碁だったので、緊張感はあまり覚えませんでした。それにしても、5面の碁盤が横に並んだ場所で、大山と升田が隣り合わせて囲碁を打っている光景は、何か不思議な感じがしました。

写真は、囲碁の対局が終わった升田が、まだ対局中の大山の囲碁を楽しそうに見ているところです。大山も笑みを浮かべているように見えます。両者の共通の趣味が囲碁でした。升田が大山を慈しむように見ている光景は、内弟子時代の兄弟弟子に戻った雰囲気でした。

74年の当時、連盟の内部では将棋会館建設問題で大きく揺れていました。時の理事会の運営に危機感を抱いた大山と升田は手を結び、ほかの有力棋士の賛同も得て、総会で理事会に総辞職を迫る事態になりました。大山と升田が協調したことは、冷戦時代のアメリカとソ連が平和条約を締結したようなものです。

しかし大山と升田の「蜜月」は長く続きませんでした。2年後の76年に連盟と朝日の名人戦契約交渉が決裂し、名人戦が古巣の毎日に戻ったからです。当時の連盟首脳が大山でした。升田(朝日の嘱託)は大山(毎日の嘱託)の策謀だと非難し、両者の関係は再び悪化しました。

大山と升田の囲碁対局の光景は、短い雪解け期の貴重なツーショット写真となりました。

次回は、女優の吉永小百合さん、日色ともえさんの将棋の記念対局。

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