将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

2011年10月13日 (木)

「カメラ小僧」になって写真を撮りまくっていた若手棋士時代の田丸

「カメラ小僧」になって写真を撮りまくった若手棋士時半の田丸

この写真は、今から37年前の1974年(昭和49年)、東京・千駄ヶ谷の旧将棋会館の2階ロビーで撮影されました。後方の絵は、将棋を愛好した著名画家の方が将棋連盟に寄贈したものです。そして被写体は誰でしょうか?

すでにおわかりですね。若手棋士時代の私こと田丸昇五段(当時24歳)でした。髪の毛(当然ながら黒いです)は美容院でパーマしてウェーブが軽くかかっています。花柄シャツは当時の流行でした。私にも洒落っけを持った青春時代があったのです。

私が手にしているのはニコンの一眼レフカメラで、左はキャノンの一眼レフカメラ。どちらも私が所有していました。右のドイツ製の二眼レフカメラは、撮影用の素材にカメラマンの方から借りました。じつは当時、私は写真に凝っていたのです。

私は少年時代から文章を書くのが好きで、日記は15歳から10年間も書き続けました。棋士になると、将棋イベントや奨励会員を紹介する記事を将棋雑誌で連載しました。やがて写真も載せる必要を感じ、自分で撮り始めました。最初はいわゆる「バカチョン」カメラを使い、そのうちに性能の良いカメラで撮りたいと思うようになりました。

そこで「将棋世界」元編集長でカメラマンでもあった清水孝晏さんに相談したところ、基本的な技術を親切に教えてくれ、所有していたカメラ(左のカメラ)を譲ってくれました。また、偶然に知り合った将棋好きのカメラマンの弦巻勝さんとは、将棋と写真の交換教授をしました。その後、弦巻さんは私との付き合いがきっかけとなり、将棋の写真を本格化に撮るようになりました。弦巻さんが撮った棋士の対局姿や将棋関連の写真は、将棋雑誌に掲載されたほかに、写真誌「フォーカス」にもよく掲載されたものです。

私が写真を撮り始めたころ、ストロボが不調で真っ黒に写ったり、逆に露出オーバーで真っ白に写ったり、フィルム装填の不備で何も写ってなかったりと、失敗だらけでした。でも写真は将棋と同じです。実戦(撮影)を重ねていけば、次第に上達していくものです。いろいろと撮っているうちに、中にはでき映えのいい写真もありました。

私が撮った主な被写体は、対局光景、棋士のポートレート、将棋イベントなど。2台のカメラを持ち歩き、一方のカメラには対局写真用の45ミリか35ミリの広角レンズ、もう一方にはポートレート用の約100ミリの望遠レンズを付け、とにかく撮りまくっていました。長髪にジーパンという棋士らしくないラフな格好でしたので、「カメラ小僧」か「フリーカメラマン」に思われました。

そのうちに、著名人の写真を撮る貴重な機会がありました。私の宝物ともいえるその写真は、1975年に女優の吉永小百合さんが大山康晴(十五世名人)と将棋を指した6枚落ちの記念対局、同年にフォーク音楽界のカリスマ的存在だった歌手の吉田拓郎さんが中原誠(十六世名人)と将棋を指した6枚落ちの記念対局、76年にプロ野球・巨人軍の監督だった長嶋茂雄さんが中原と将棋を指した2枚落ちの記念対局です。

いずれの著名人は当時、将棋にはまって熱中していました。吉永さんの対局姿と表情は、じつに麗しかったです。長嶋さんの得意戦法は中飛車で、とても攻めっ気が強かったです。拓郎さんは定跡をきちんと覚え、正座して指しました。

私が写真に夢中になったのは1970年代半ばの3年間だけでした。その後は普通のカメラで日常のスナップ写真を撮るぐらいでした。今は携帯電話のカメラで撮っています。

次回は、兄弟弟子でありながら宿命のライバルとされて不仲説も流れていた升田幸三(実力制第四代名人)と大山康晴の珍しいツーショット写真を紹介します。

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