羽生善治二冠が王位を奪還してタイトル獲得数が歴代最多の80期に
王位戦(広瀬章人王位―羽生善治二冠)7番勝負は、羽生が4勝3敗で奪還して王位に4年ぶりに返り咲きました。羽生は広瀬に●●○○●とリードされて苦しい展開でしたが、第6局と第7局に連勝して逆転を果たしました。
第7局の戦型は広瀬の振り飛車穴熊vs羽生の居飛車穴熊。「振り穴王子」こと広瀬が最後に伝家の宝刀をまた抜いたのです(今期王位戦はその戦型で1勝1敗)。しかし広瀬の積極的な指し方が裏目に出て、羽生に一方的に攻められて完敗しました。
奪取したタイトルは「防衛してこそ一人前」とよくいわれます。広瀬にとって辛い結果となりました。しかし羽生と互角に渡り合った将棋の内容は、大いに絶賛されています。ほかのタイトル戦や次期王位戦に登場するなど、いずれまた活躍することでしょう。
羽生が王位を奪還したことで、タイトル獲得数は通算80期に達しました。これは歴代最多の大山康晴十五世名人に並ぶ記録となりました。大山は初タイトルから32年目の1982年(昭和57年)、59歳で80冠を達成しました。羽生は初タイトルから22年目の今年、40歳で80冠を獲得しました。ただ大山の最盛期の時代のタイトルは5冠なので、両者を数字で単純に比較することはできません。
羽生のすごいところはタイトルを獲得した比率です。タイトル戦に登場した105期のうち80期の獲得は、約76%の「タイトル獲得率」となります。以下、タイトル戦登場が多い7人の棋士の獲得率(カッコ内)を並べます。大山は112期のうち80期(約71%)。中原誠十六世名人は91期のうち64期(約70%)。谷川浩司九段は57期のうち27期(約47%)。米長邦雄永世棋聖は48期のうち19期(約40%)。佐藤康光九段は35期のうち12期(約34%)。森内俊之名人は19期のうち9期(約47%)。
羽生がタイトル戦に初登場したのは1989年(平成元年)の竜王戦で、第1期竜王の島朗(九段)に挑みました。羽生は当時19歳。それまでタイトル戦の会場に、記録係や観戦で行ったことさえなかったそうです。そんな羽生が竜王戦で初タイトルを獲得すると、今日まで22年間にわたって各タイトル戦で活躍し続けています。タイトル戦の対戦相手や流行戦法は、時代ごとに少しずつ違います。どんな状況でもずっとトップ棋士であるのは、類まれな実力と不断の努力のほかに、ものすごい精神力の賜物だと思います。
羽生が22年前の竜王戦で初挑戦したときの段位は六段でした。それ以降、肩書が段位になった時期は今までありません。これも隠れた記録です。ただし竜王戦第5局で挑戦者の谷川からタイトルを奪われた1990年11月から、棋王戦第4局で南芳一棋王からタイトルを奪った91年3月までの約110日間が、羽生の唯一の「無冠」の時期でした。しかし当時は竜王戦と名人戦の保持者が敗れた場合、向こう1年間は「前竜王」「前名人」と名乗る決まりがあり、羽生も無冠の時期は前竜王の肩書でした。なお、ある時期からその肩書を辞退する棋士が続出したので、現在はほとんど形骸化しています。
それほど強くて数多くの栄冠に輝いている羽生が、終盤の局面で「指先が震える」ことが近年よくあります。普通は、勝負の緊張感に堪えられない棋士、めったに勝てない棋士が勝利を意識して生じる現象です。しかし羽生の場合は「勝利を確信した」行為なのです。かつて谷川九段も勝利寸前に「ほっぺたを膨らませた」ものでした。
じつは羽生の指先が震えた最初の対局は、2003年(平成15年)の王座戦で渡辺明(当時五段)に挑戦を受けたときでした。羽生は○●●○○という戦績でやっと防衛したのですが、第5局の終盤では指先が震えて駒を持てず、何回も手を引っ込めました。そんな光景に関係者は驚いたそうです。
あれから8年たちました。羽生が渡辺竜王から2回目の挑戦を受けた今期王座戦では、終盤で羽生の指先が震える結末となるのでしょうか…。
次回は、今年の将棋ペンクラブ大賞の贈呈式。
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