秒読み中にトイレに行った相手に「塩を送って」敗れた全盛時代の大山
大山康晴(十五世名人)は1960年代前半から約10年間、タイトル(当時は五冠)をほぼ独占して全盛時代でした。タイトルを失ったのは4回だけで、そのうち3回は翌期にタイトルを奪回しました。そんな大山がタイトル防衛を目前に珍しいミスをしたのです。
1968年(昭和43年)の十段戦(竜王戦の前身棋戦)は、大山十段に加藤一二三八段が挑戦しました。加藤はそれまで大山にタイトル戦で5回挑戦し、いずれも敗退していました。その十段戦も加藤が2勝3敗と負け越し、第6局の終盤は敗色が濃厚でした。加藤は当時から長考家で、序中盤に持ち時間を惜しみなく使い、1分将棋の秒読みにいつもなりました。第6局でも、終盤に入る前から秒読みに追い込まれました。
加藤は秒読みが延々と続くうちに尿意を催しました。通常は我慢するしかありません。しかし形勢が悪いこともあって、開き直ってトイレに行ったのです。加藤が部屋を出た直後に大山が指せば、加藤は「時間切れ」負けになったかもしれません。しかし大山は、加藤が席に戻るまで待ちました。形勢はすでに優勢でした。相手がトイレに行っている間に時間切れによって防衛というのは、第一人者として体裁が悪いと思ったのでしょう。
大山は加藤にいわば「塩を送った」のでした。その後に異変が起きました。手数は17手と長くても平易な詰み手順をなぜか見落としたのです。次の手でも、同じ詰み手順を気がつきませんでした。そして九死に一生を得た加藤が逆転勝ちを収めました。
全盛時代の大山将棋は「精密機械の読み」といわれ、即詰みを2回も見落とすことはありえませんでした。もしかすると、加藤が時間切れ負けを覚悟でトイレに行ったことが、大山の対局心理や読みに微妙な影響を及ぼしたのかもしれません。
大山―加藤戦は第7局に持ち込まれ、加藤が勝ってタイトルを初めて獲得しました。
同じ年の68年3月。B級2組順位戦・原田泰夫八段―佐伯昌優六段戦で、奨励会二段の私が記録係を務めました。原田は勝てばB級1組への昇級が決まります。激闘が繰り広げられていた終盤の局面で、意外な光景が現れました。1分将棋の秒読みだった佐伯が、「お手洗いに行ってもかまいませんか」と原田に声をかけたのです。原田は一瞬、怪訝そうでしたが、すぐに笑顔で「どうぞ」と応じました。そして佐伯が席に戻るまで指しませんでした。
原田は清廉潔白な人柄で、郷土の新潟の英雄・上杉謙信に心酔していました。その謙信が塩不足に困っていた宿敵の武田信玄に「塩を送って」助けた故事がありました。原田は昇級がかかった一戦でも、相手の弱みに付け込むようなことはできなかったのでしょう。
原田には勝機がありましたが、疑問手を指して敗勢となりました。「いや、うまくやられました。まことに憎い男…」と、相手を讃えながら投了しました。じつは前期順位戦でも佐伯に敗れて昇級を逃し、またも同じ相手に大事な一戦を失ったのです。原田は感想戦が終わると、ある観戦記者を誘って新宿の焼鳥屋に行き、「僕の悪い癖ですよ。もう勝てると思うと心がわくわくし、酒場での祝杯を思い浮かべてしくじるのですよ」と、苦笑しながら語ったそうです。
大山と原田は、相手に塩を送って結果的に大事な一戦に敗れました。しかし大山は翌期に挑戦者となり、加藤から十段のタイトルを奪回しました。原田は佐伯戦の次の対局に勝ち、B級1組への復帰昇級を決めました。
私は、秒読み中の相手がトイレに行ったときに指さないことが「美談」とは思いません。生理面も勝負のうちです。私も数年前の順位戦で経験しましたが(前回ブログを参照)、勝てば昇級するような対局だったら勝負に徹して指したことでしょう。実際にトイレに行った間に、時間切れ負けになった対局例がありました。
なお囲碁の対局では、秒読み中に1~2分のトイレ休憩が認められるそうです。勝負のルールとしては手ぬるいと思います。ただ囲碁は将棋と違って、終盤では1目を争うようなぎりぎりの戦いがあまり多くない、というゲーム性もあるのかもしれません。
次回は、竜王戦・飯野健二七段との対局。
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コメント
こんにちわ。
大山先生の話も、原田先生の話も聞いたことがあります。
特に原田先生とは『将棋ペンクラブ』の交流会で何度もお会いし、お世話になっていましたので、感慨深く思いました。
また佐伯先生とも、おひざもと『京急将棋まつり』で毎年会っています。
原田先生は昨年、七回忌の法要があったと、弟子の鈴木環那女流から聞きました・・・早いものです。
佐伯先生は、今なおご健在。盤寿81歳になってほしいですね。
原田先生は『礼儀作法も実力のうち』という名言を遺されました。
さすずめ秒読みの中でのトイレは『体調管理も勝負のうち』となりますでしょうか・・・お粗末
投稿: S.H | 2011年7月12日 (火) 14時32分
二つの話はそれぞれに棋士の人となりが出ている良い話ですね。
ルールには縛られない古き良き時代と武士の情け、そう、勝負を重んじるからこそ小事には影響されたくない思いがあるのかもしれません。
現代においては、加藤のように『トイレ行かせてくれ』なんていう人はいないとは思いますが、もし言われたら、今でもほとんどの棋士は快諾してくれるのではと思います。でも、待っていいものか邪念が横切るのは間違いないですね。誰かにまた言ってほしいものです。
投稿: 将棋太郎 | 2011年7月13日 (水) 11時05分
田丸先生、はじめまして。長野市在住のhori21です。
いつも楽しく、興味深く拝見しております。
今回もトイレにまつわるお話でおもしろかったのですが、ただ一点
”囲碁の対局では、秒読み中に1~2分のトイレ休憩が認められるそうです。勝負のルールとしては手ぬるいと思います。”
以上の部分についてですが、何で勝負のルールとして手ぬるいので
しょう?私は、トイレは生理現象であって勝負の要素に含まれるべ
きものではなく、将棋の勝負とは全く別次元のものと思います。
当然、水分を控える等の努力はするべきでしょうが、どうしても
という場合もあるのではないでしょうか。
なので、囲碁の対局のトイレ休憩は、当然のことと思います。
投稿: hori21 | 2011年7月14日 (木) 17時01分