用足し以外に勝負のうえで重要な意味がある対局においてのトイレ
スポーツ番組のアナウンサーは、実況中継中の用足しの心配について聞かれることがよくあり、当日は水分の摂取をなるべく控えるそうです。私たち将棋棋士も、同じような質問を受けます。ただ放送中に席を離れることが難しいアナウンサーと違って、対局中に中座してトイレにはいつでも行けます(自分の手番だと持ち時間がその分だけ減ります)。
棋士は対局中、頭を酷使したり緊張感が高まってくると喉が渇きます。お茶やミネラルウォーターなどの飲み物をかなり多くとります。必然的にトイレに行く回数が増えます。長考が続く難解な局面では、対局者が1手ごとにトイレに行く場合もあります。
じつは、対局者がトイレに行くのは用足しだけではなく、勝負のうえで重要な意味があります。閉ざされた空間は、高ぶった気持ちを静めたり、逆に「がんばるぞ!」と独り言を吐いて戦意を高揚させるのに、打ってつけの場所なのです。私は用を足しながら、勝負手を決断したことが何度もありました。また、ある人に「自分の陰囊(ふぐり)を指で包み込めば気分が落ち着く」と言われ、実際にトイレで試してみました(効果は不明)。
NHK杯戦のテレビ将棋では、持ち時間が少ないことやトイレがすぐ近くにないこともあって、対局者は開始から終局まで座りっぱなしです。しかし13年前に私が島朗(九段)と対局したとき、島が対局中に数分ほど席を立ったことがありました。後で聞いた話では、トイレ代わりにスタジオ外の人気のない場所で構想を練っていたそうです。
トイレに行くタイミングと様子で、相手の心理を探ることもあります。というのは、対局者は形勢が好転したときや好手を発見したとき、えてしてトイレに行くものです。小声でぶつぶつ言いながら足早に席を立ったときなどは、とくに要注意です。だいたい対局者は、本心と態度が逆のことが多いです。私も終盤で勝ちそうになると、内心はニンマリとしながらも険しい表情で席を立ち、トイレで勝ち筋を最終確認することがありました。
40年以上も前に、ある若手棋士がA級棋士と対局したとき、序盤の局面がある棋書で解説されている戦法と偶然にも同一となりました。それを思い出した若手棋士は、その棋書を見つけると、そっとトイレに持ち込んで熟読したのです。そして実戦も棋書のとおりに進行し、優勢となった若手棋士が快勝しました。トイレを「カンニング」の場所に利用したという話でした。その「トイレ棋書」の一件は後日に知れ渡り、大方の棋士は笑い話の種としました。ただ若手棋士を非難することはなく、A級棋士たる者がそんなことで負けることがおかしい、という見方をしたものでした。
局面が終盤に進んで持ち時間が切迫してくると、対局者は生理面も気がかりになってきます。だいたい残り時間が数分あたりの局面で、最後の用足しをすませておきます。1分将棋の秒読みになると、トイレに行く余裕はありません。しかし形勢がもつれて長手数となって秒読みが延々と続くと、生理面は深刻な問題になります。対局室とトイレはそれほど離れていないので、相手の手番のときに急いで往復すれば、時間内に戻って指せる可能性があります。もし間に合わなければ「時間切れ」によって負けとなります。かなりの「早業」を要しますが、実際に実行した棋士もいました…。
私が5年前のC級1組順位戦で橋本崇載(七段)と対局したとき、秒読みが延々と続いていた橋本は、ついに我慢し切れずにトイレに駆け込みました。私はすぐに指しませんでした。別に「塩を送った」のではなく、終盤の難解な局面だったので考え込んでしまいました。正直なところ、時間切れで勝ちたくないという思いもありました。そして勝負の結果は、私が疑問手を指して逆転負けしました。
43年前のタイトル戦でも、秒読み中の挑戦者がトイレに行ったとき、優勢だった保持者はあえて見過ごして指さず、結果的に敗れたことがありました。
次回は、43年前の十段戦(大山十段―加藤八段)でのトイレの一件。
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コメント
田丸先生、こんにちは。いつも興味深いお話を有難うございます。
囲碁ブームを巻き起こした漫画「ヒカルの碁」で、主人公が棋士採用試験(総当たり形式)を戦っている最中に、自分が仲の良かった先輩との一戦で、先輩が反則を犯したのに気づき、一瞬だけ「反則を指摘して望外の一勝を得るか、黙って勝負を続けるか」を迷って、一瞬後に反則を指摘して勝利を収めたエピソードがありました。主人公は中学生です。
主人公は、その後「負けていた碁をタナボタで拾ってしまったこと」に思い悩み、棋士採用試験で苦戦することになります。何かのきっかけで立ち直り、棋士採用試験を突破する結末になるのですが。
田丸先生の5年前の対局での
「別に「塩を送った」のではなく、終盤の難解な局面だったので考え込んでしまいました。正直なところ、時間切れで勝ちたくないという思いもありました。」
というお話は、そういった感じでしょうか。
国家の存亡をかけた戦争であれば、「宋襄の仁」は許されません。二千年後まで、愚か者の見本として語り継がれることになります。
ですが、将棋という競技においては、たとえプロ同士であっても、
「相手が時間切れで悪手を指して自滅するのは、時間を有効に使って指した自分の勝ち。ただ、相手の生理現象を奇貨として、他力によって勝ちを得るのは後味が悪い」
ということになるのでしょうか。「棋士」道精神が問われる所ですね。
こういうのは「米長哲学」ではどう考えるべきなのか、ぜひ米長永世棋聖に折を見てお尋ね下さい。
「泥沼流」で知られた米長さんであれば
「もちろん、イカサマ以外のあらゆる手段を使って勝つ!(将棋でイカサマをして勝つのは、プロ同士では不可能でしょうが)
難しい局面で、持ち時間を使い果たした相手がトイレに走ったら、相手の姿が消えた瞬間に何も考えずに一手指す。それで時間切れになれば俺の勝ち、相手が時間前に戻ってきたらメチャクチャな手を指した俺の負けになるだろうから、単なるリスクテーキングの問題だ。そんな、宋襄の仁をやってるようじゃ勝負師失格だよ、田丸さん」
など、「第二の米長哲学」が聞けるかもしれません。(笑)
投稿: オヤジ | 2011年7月 8日 (金) 20時47分
初めて書き込みます。
瀬川晶司先生も自身の著書の中で、奨励会三段時代に秒読み中の相手(勝又清和・現六段)が突然トイレに駆け込んだが最善の手が見つからなくてすぐには指せず、結果敗れてしまったというエピソードを語っていましたね。
「勝たなければ意味が無い」立場にあるプロ棋士・奨励会員ですが、やはり一番優先すべきは「常に最善手を指したいと考え続ける姿勢」であって欲しいと思いますし、だからこそ「プロ」の存在意義があるのではないかと思います。
投稿: samura | 2011年7月 9日 (土) 08時56分