新宿の酒場で遭遇、新聞社の嘱託の棋士、順位戦で師弟戦のコメントへの返事
「田丸八段と初めて会ったのは30年くらい前の3月、新宿・歌舞伎町の酒場でした。何やら紙を広げて、うまそうにグラスをあけていました。テレビの将棋番組でお顔を存じていたので、思い切って声をかけました。その日はB級1組順位戦の残留をかけた対局に勝って、1人で祝杯をあげていること、紙は順位戦の星取表であることなど、一見の将棋ファンの私に気さくに話してくれました。それ以来、共通の趣味のテニスが縁となって、いまだにお付き合いが続いています。田丸八段と会わなかったら、こんなに将棋ファンにはなっていなかったでしょう。田丸八段が5月5日のブログで語った自然体の余生については、しっかりと看取らせていただきます。戒名は『唱球院獅攻昇龍居士』と考えてみました」という内容のコメント(5月7日)は《K島》さん。
私は対局が終わると、いつもお酒を飲みます。今し方の勝負でついた匂いを、お酒で洗い落とすのです。飲む場所は新宿などの盛り場か自宅近くの居酒屋。終局時間が早くて親しい人がいれば一緒に飲みに行くこともありますが、たいがい1人で飲みます。そして勝てば「祝い酒」、負ければ「やけ酒」となります。勝ったときは棋譜用紙(雑誌の順位戦星取表も)を見ながら戦いを振り返ると、勝利の余韻にひたれて美酒を味わえます。負けたときは悪手や敗因の手が思い起こされて、お酒がおいしくありません。そんなときは無理しても食べることにします。人間は腹を満たすと現実を忘れます。そうすれば負けを引きずることもなく、明日には元気を取り戻せます。長い勝負の生活で得た知恵なんです。
新宿の酒場で遭遇して親しくなった《K島》さんが考えた『唱球院獅攻昇龍居士』という私の戒名は、唱はカラオケ、球はテニス、獅はニックネームの「ライオン丸」、攻は将棋の棋風、昇龍は私の扇子の言葉「昇竜飛天」などから付けたそうで、なかなか似合っています。ただ近年はカラオケにあまり行きません。普段はブログなどの文章を書くことが多いので、唱は「書」に替えたいですね。
「ある棋士が○○新聞の嘱託という話を何度か聞きましたが、どういった関係なんでしょうか。現在でもいるんでしょうか」というコメント(3月27日)は《popoo》さん。
明治・大正の時代の将棋界は、現代の将棋連盟のような統一団体がありませんでした。それぞれの一門のボスに当たる棋士が新聞社の将棋欄を取り仕切り、弟子同士の対局を行わせたり、独自の昇段制度を決めたり、観戦記の解説を担当したそうです。大正から昭和の時代になると、統一団体が発足して一門同士の交流が盛んになりました。それでも各新聞社には、有力棋士が「嘱託」として残りました。
戦後になると、毎日新聞社は大山康晴(十五世名人)、朝日新聞社は升田幸三(実力制第四代名人)、読売新聞社は塚田正夫(実力制第二代名人)など、新世代の有力棋士を嘱託に迎え入れました。棋士が新聞社の嘱託になっても、社内で働くわけではなく、観戦記の解説もしません。いわば戦前の慣例の名残でした。新聞社としては、有力棋士を抱き込むことによって、連盟との棋戦契約を円滑に運びたい、との思惑があったのかもしれません。なお、戦後まもないころに名人戦の契約が毎日から朝日に移ったときは、升田が暗躍したという噂でした。現在は、新聞社の嘱託を務める棋士はいないと思います。
「B級2組以下の順位戦で、師弟の対戦が不可となった規定はいつごろからですか」というコメント(4月23日)は《kumaa》さん。
私は1977年(昭和52年)度のC級1組順位戦で、師匠の佐瀬勇次(名誉九段)と対戦しました。同年度のB級2組順位戦でも、原田泰夫(九段)―桜井昇(九段)戦の師弟戦がありました。それ以降は師弟戦が見当たらないので、B級2組以下の順位戦で師弟戦が廃止されたのは78年度からのようです。
次回は、5月26日の将棋連盟総会の模様。
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コメント
嘱託に関して、お答えいただきありがとうございます。
コラムやブログ等で今でも記者の方と一緒に飲みに行く方もいらっしゃることをお聞きしたので、もしかしたら今でもあるのかな、と思ってたので。
投稿: popoo | 2011年5月28日 (土) 11時04分