将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

2011年5月13日 (金)

作家・団鬼六さんと田丸が12年前に週刊誌の企画で平手戦の対局

団鬼六さんと田丸が平手戦の対局

作家・団鬼六さんは1990年(平成2年)、『将棋ジャーナル』という将棋雑誌の経営を事情があって引き継ぎました。自ら斬新な企画を立て、活気に満ちた誌面に変えました。ただ売り上げはあまり伸びず、経営は次第に苦しくなっていきました。そして92年に休刊に追い込まれ、大きな借財を抱えた団さんは横浜の豪邸を手放しました。お金に困っていた当時、「今は牛丼店で牛皿を肴にお酒を飲むのが楽しみ」と随筆に書いたものです。

89年に断筆宣言した団さんは、借金返済の事情もあって95年に作家として復活しました。そして、伝説的な真剣師で団さんとも深い交流があった故・小池重明さん(元アマ名人)の壮絶な人生を綴った『真剣師 小池重明』が、社会的にも注目されて大いに売れました。その後、団さんに作品の依頼が相次ぎました。

私は以前に『週刊宝石』という週刊誌で、将棋界の裏話を題材にした随筆を連載していました。その週刊誌で小説を書いていた団さんが、「田丸さんはあれこれ書いているが、将棋の腕前はどれほどのものや」と、私に対して平手戦の対局の挑戦状を突きつけたのです。12年前のことでした。私は35年前に団さんと知り合いましたが、将棋を指したことはありませんでした。いい機会と思って了承し、週刊誌の企画として対局することになりました。上の写真は、対決ムードにあおった誌面です。

アマ四段の棋力を持つ強豪の団さんは、「もし田丸さんが僕に負けたら、プロ棋士の看板を返上してもらわねば…」と、対局前に挑発的な言葉を発しました。もちろんプロの私が平手で負けるはずがありません。団さんはその前年に脳梗塞を患い、将棋の実戦から遠ざかっていると聞きました。そこで、まず練習将棋を指しました。案の定、団さんの将棋はひどい内容でした。しかし何局か指すと、ようやく本来の調子が出てきました。

本番の対局の戦型は団さんの急戦向かい飛車で、序盤で早くも飛車交換して激戦になりました。私が一方的に勝っては週刊誌の企画として面白くありません。接戦になるように手加減して指しましたが、その調節の仕方に狂いが生じ、終盤では負け筋になってしまいました。受けなしに追い込まれた私が王手をかけて迫ると、団さんは王手の応手を誤ってトン死を喫し、私が何とか逆転勝ちしました。

団さんが私に平手戦の対局の挑戦状を突きつけたのは、執筆に追われて以前のように将棋を指す時間がなかったからで、久しぶりに緊張感のある将棋を指して満足そうでした。私たちは対局後、関係者と一緒にお酒を飲んで楽しいひとときを過ごしました。

団さんは9年前に新宿の大型キャバレーを借り切ってパーティーを開きました。文芸、映画、将棋などの分野の知人らが出席してにぎやかでした。団さんは『真剣師 小池重明』の映画化を望んでいて、予定している監督と俳優が紹介されました(主演は小池役の遠藤憲一さん)。ただ資金面の事情があったのか、今日まで実現していません。

団さんは近年、病気が重くなって入退院を繰り返していました。しかし新作の執筆に意欲を燃やしていました。4月10日には屋形船を借り切って浅草まで隅田川を上り、家族や親しい人たちと花見を楽しんだそうです。結果的にそれが最後のお別れとなり、5月6日に79歳で亡くなりました。団さんのご冥福をお祈りいたします。

天国には、指導将棋を受けて個人的にも親しかった大山康晴(十五世名人)、升田幸三(実力制第四代名人)、好敵手だった俳優の石立鉄男さん、あの小池重明さんらがいます。団さんは心おきなく将棋を楽しめることでしょう。それから、夫人公認の47歳年下の愛人でなぜか9年前に自殺した「さくら」さんにも会えるはずです…。

団鬼六さんの葬儀は東京・芝公園「増上寺」で行われます(通夜は5月15日午後6時から、告別式は16日午前11時から)。

次回は、田丸が立会人を務めたマイナビ女子オープン第3局。

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