現役棋士40年目を迎えた田丸の過去の実績と今の心境
私は1972年(昭和47年)2月に奨励会・三段リーグの「東西決戦」に勝って四段に昇段し、72年度から公式戦に出場しています。そして歳月を重ねて、今年度には現役棋士40年目を迎えました。
将棋連盟は毎年11月の表彰式で、25年目と40年目の現役棋士に対して「勤続表彰」をします。私は25年目には、記念の銀杯と金一封を贈呈されました。今年の40年目には感無量の思いがあるので、羽織袴の姿に威儀を正して臨むつもりです。
このように棋士にとって、40年という歳月はひとつの大きな節目になっているのです。その年数まで現役を続けられたことに、私はとても満足しています。というのは、すべての棋士が40年表彰を受けられるとは限らないからです。
私が四段に昇段した71年度と、その前後の10年間には、合わせて38人の棋士が生まれました(66年度~71年度は15人、72年度~76年度は23人)。後者の期間に四段昇段者が多いのは、74年度から奨励会が三段と二段以下が合体した制度に変わり、四段昇段者が不定数になったからです。
現時点でその38人の棋士の内訳は、現役・17人、引退・17人、死亡・4人。各棋士の現役年数(四段昇段の次年度から起算)は、40年以上が7人、35年~39年が15人、30年~34年が11人。30年以下が5人。
四段昇段順で私の先輩にあたる14人の棋士にのうち、すでに40年表彰を受けたのは6人(今も現役で順位戦参加者は森けい二九段、田中魁秀九段)。私の後輩にあたる23人の棋士のうち、数年以内に40年表彰が見込まれるのは谷川浩司九段、青野照市九段など11人。このように先輩でも後輩でも、40年表彰を受けられる確率は4割台なのです。
私の過去の公式戦での実績を振り返ってみると、きわめて地味なものでした。タイトル戦挑戦と棋戦優勝はなく、リーグ戦入りは王位戦(86年)の1回だけ。約20年前から毎年の負け越しで、約15年前には通算勝率が5割を切り、近年の年間勝利は10勝以下。後半は不本意な成績が続いています。
ところが「順位戦」だけは、なぜか成績が良かったり、勝負運が強かったのでした。月に1局ペースの順位戦の対局は心身両面で調整しやすく、対戦相手の順番や先後が事前に決まっているので、研究家(昔の私です)として作戦を立てやすかったものです。
棋士9年目の80年度にB級1組に昇級できました。その後、昇級争いよりも降級争いのほうが多かったですが、しぶとくB級1組に残留しました。87年度にB級2組に降級しましたが、88年度にB級1組にすぐ復帰しました。そして1992年(平成4年)には、順位8位で8勝4敗という成績ながら、幸運にもA級に昇級できたのです。
私が棋士として誇れる唯一の実績は、このA級昇級といえるでしょう。ただひそかに自負しているのは、「鬼の住み処」ともいわれたB級1組に通算16期も在籍できたことです(81年度~87年度、89年度~91年度、93年度~98年度)。
私の棋士人生を端的に数字で表すと、順位戦・B級1組に在籍が通算16期、フリークラス転出までの順位戦在籍期間が37年、今年は現役棋士40年目、などとなります。内容的には「質」よりも「量」といえます。しかし競争がさらに激化している現代棋界では、その量を積み重ねることもけっこう大変なのが現実です…。
私は本日、61歳の誕生日を迎えました。50代以降は公式戦の成績がまったく不振でしたが、20代~40代のころでなくてよかったと、プラス思考で対処しています。規定では私は65歳で定年ですが、実際は5年後に引退となります。それまでは現役棋士としての「余生」を自然体で過ごしたい、というのが今の率直な心境です。
次回(来週)は、4月に行われた「田丸将棋会」の模様。
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コメント
田丸先生!棋士生活40周年、本当におめでとうございます。田丸先生は名前を隠して棋譜を並べても恐らく多くの人が当てる事が出来る稀有な棋士と思います!
これからも自身の信念が籠もった将棋を見せて下さい!
もう一度、田丸ー櫛田戦を見たいです。
投稿: 関東のホークスファン | 2011年5月 5日 (木) 22時08分
田丸先生の御誕生日及び現役勤続40年に、これ以上はない喜びを感じております。
どのような職務であれ、景況がどうであれ、たった一つの生業を40年間かけてまっとうするのは至難の技の中の至難の技です。
それを何一つ不祥事に見舞われることなく達成した、田丸昇・獅子丸・ロン毛丸・ライオン丸先生は、棋士の鑑です。
これからも素晴らしいことを学ばせて頂きたく、よろしくお願い申し上げます。
投稿: 柳 | 2011年5月 6日 (金) 05時07分
田丸先生、勤続40年おめでとうございます。
田丸先生のブログを拝見していていつも思うのですが、説明が具体的で分かりやすいです。「勤続40年を迎えること」が決して容易なことでないことを数字で分かりやすく説明して頂き、よく分りました。
谷川先生の本、あるいは村山聖九段の伝記などを読みますと、奨励会に入る少年が目指すものとして「A級八段」という言葉が何度も出て来ます。
田丸先生は謙遜しておられますが、先生はその「A級八段」のお一人なのですから大変なことですよ。連盟のHPで先生の昇段履歴を拝見すると、
「1981年4月1日 七段」
「1991年4月16日 八段」
とありますので、B級1組から8勝4敗でA級昇格を決めた期(1991年度)の最初に「七段昇格後**勝」の条件を満たされて八段に昇段なさったようですが、同じ年にA級に昇格なさって八段昇段のもう一つの条件を満たされた訳ですね。
田丸先生のお話を伺いますと「「勤続60年」の記録を打ち立てる可能性が十分にある「神武以来の天才」加藤一二三 九段の凄さ、その加藤九段をもってしても永世称号には手が届かなかった将棋界の厳しさが一層よく分かります。
投稿: オヤジ | 2011年5月 6日 (金) 11時16分
初めまして。
最近になって田丸さんのブログを知った者です。
私は長野県民なので、ご活躍は学生の頃から存じておりました。
当時の将棋雑誌の順位戦欄において、上位に長野出身者が居る事をとても嬉しく思っていた記憶があります。
全国区の競争社会ともなると、地方出身者(特に昔)はなにかと不利・不便が生じるものですが、それを克服しプロとして素晴らしい量の実績を残されたこと、心より尊敬致します。
最後になりましたが、
勤続40周年、お誕生日、おめでとうございます。
これからも長く活躍されることをお祈りします。
投稿: bon | 2011年5月 6日 (金) 23時21分
先生と初めてお会いしたのは30年くらい前の3月、歌舞伎町の酒場でした。先生はカウンター一つのその店で、なにやら紙を広げてうまそうにグラスをあけていました。こちらはテレビでお顔は存じ上げていましたので、思い切って声をかけると、その日B級1組順位戦残留をかけた大勝負に勝って、一人祝杯を上げていること、広げている紙は順位戦の星取表であること、など一見の将棋ファンに気さくにお話いただきました。その席で「じゃ、いつかテニスを」ということになり、なんだかんだで、いまだにお付き合いいただいております。田丸先生と会わなかったら、こんなに将棋ファンにはなっていなかったでしょう。「自然体の余生」しっかりと看取らせていただきます。看取った暁には戒名が必要ですね。考えてみました。「唱球院獅攻昇龍居士」唱はカラオケです。「桃色吐息」を熱唱するときのうっとりした表情がかわいかった。球はテニスです。45度の角度からくりだす「矢倉スマッシュ」が武器でした。獅はニックネーム、ライオン丸から。白髪のライオンはサーカスの人気者(笑)攻は棋風から。ノーガードの突撃、意表をつく奇襲、なんか大東亜戦争みたいだな。昇はお名前からですが、扇子の揮毫は「昇天飛龍」だったと記憶しています。だから昇龍で… ご自分でも作ってみてください
投稿: K島 | 2011年5月 7日 (土) 07時33分
いつも楽しみに拝見しております。
40年勤続、おめでとうございます。
田丸先生ご自身は謙遜していらっしゃいますが、
1つの道を40年に渡って歩み続けることは並大抵のことではないと
僕のような若輩者でも理解できます。(なにしろ僕はまだ30年しか生きていません!)
それも将棋界のような実力主義、生存競争の世界の話ですから
偉大な達成だと思います。
それに加え、近年のこのブログによる優しいファンへの語りかけは
対局成績とはまたひと味違う価値を生み出していると感じます。
これからもお体大切に、
素晴らしい文章をあらわしてくださることを期待しております。
投稿: イトウ | 2011年5月 7日 (土) 14時45分