将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

2011年4月14日 (木)

「米長哲学」の原点となった大野―米長戦の終局後の意外なエピソード

41年前の1970年(昭和45年)3月に行われたB級1組順位戦の最終戦・大野源一(九段。当時八段・58歳)―米長邦雄(永世棋聖。同七段・26歳)戦は、大野が勝てばA級に昇級して5年ぶりに返り咲きできる一戦でした。米長はこの対局に際して、「自分にとって重要ではないけれど、相手にとって重要な対局こそ全力で戦え」という心境で臨みました。これが、いわゆる「米長哲学」の原点となったのです。

米長は後年に将棋雑誌の随筆で、故人となった大野の思い出を綴りました。前記の大野戦の模様、終局後の意外なエピソードも明かしました。それを抜粋してお伝えします。

米長は必勝を期して対局に臨みましたが、大野に猛烈に攻められて不利な形勢となりました。しかし懸命に粘っているうちに逆転の予感がしたとき、心の奥では「うまく負かされたい」と思ったり、「勝負師に情けは禁物だ」と自身を戒めたり、心がかなり揺れ動いたそうです。そして深夜の12時すぎ、米長が逆転勝ちを果たしました。

終局後、大野と米長はしばらく放心状態でした。控室で待機していた棋士や新聞記者らが対局室に入ってくると、重苦しい雰囲気にいたたまれなくなり、全員がすぐに出ていきました。やがて、対局者だけで感想戦が始まりました。米長は相槌を打つのもつらく、一刻も早くこの場から去りたい気持ちでした。感想戦は1時間ほどで終わり、大野が駒箱に駒を収めたとき、米長はとてもほっとしました。

しかし米長が立ち上がろうとすると、大野から「米長、碁を打とう」と意外な言葉をかけられて驚きました。普段の対局なら丁重に断って帰るところですが、大先輩の無念の思いを察するとそうもいきません。仕方なく碁の相手を務めました。米長はうわの空で打ったので、ひどい内容の碁でした。それは大野も同じで、石をぼろぼろ取られました。

とうとう夜が明けました。米長が「これから東京に帰ります」と挨拶すると、何と大野は「駅まで送らせてくれ」と言いました。米長が「1人でも帰れます」と固辞すると、大野は「お前はあわてもんだからいかん。わしがどうしても送る」と聞き入れません。そして両者は対局場の関西本部(当時は大阪市南部の阿倍野区)から新大阪駅まで、タクシーに同乗したのです。こうしてB級1組順位戦の最終戦の長い1日が終わりました。

木見一門の大野は升田幸三(実力制第四代名人)、大山康晴(十五世名人)の兄弟子で、両巨頭を呼び捨てにできる唯一の棋士でした。大野はかなり毒舌で、仲間内を二言目には「この阿呆」「素人将棋のくせに」などと言いました。しかし気さくで無類の好人物なので、相手は不快に思いませんでした。大野―米長戦から数ヶ月後に両者が再会したとき、大野は「おっ、米長。お前はまだ生きていたのか」と、笑顔で話しかけてきたそうです。

大野は律儀な性格でした。対局に遅刻することは決してなく、用事があると必ず30分前までに到着しました。そんな用心深い大野が、1979年(昭和54年)1月の夜に、あまりにも突然の終焉を迎えたのです。仕事が終わって家路を急いでいたのか、遮断機の下りた鉄道の踏切に入り込んでしまい、轢死しました。享年67歳でした。

次回は、コメントへの返事。

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