59年前の王将戦で升田幸三が木村義雄との香落ち戦を対局拒否した「陣屋事件」
神奈川県秦野市の「陣屋」旅館は、将棋・囲碁のタイトル戦でよく使われています。私が立会人を務めた先日の王将戦第6局の対局場にもなりました。丹沢山塊の地下水源が湧き出る鶴巻温泉の元湯でもある陣屋は、鎌倉時代は源頼朝の側近の武将・和田義盛の陣地でした。明治時代には、黒田藩が明治天皇をお泊めするために豪壮な建物を築きました。そんな歴史的に由緒がある旅館で、将棋の対局にからむ「陣屋事件」が59年前に起きたのです。
1952年(昭和27年)2月17日。第1期王将戦(木村義雄王将―升田幸三八段)第6局の対局前日でした。木村と関係者らは対局場の陣屋に早めに着きました。升田は独りで夜に到着し、陣屋の玄関のベルを鳴らすと、だれも迎えに出てきませんでした。奥からは宴会での人声がかすかに聞こえました。すると、升田は旅館側の非礼に腹を立てて隣の旅館に引きこもり、王将戦関係者に「対局拒否」を伝えたのです。
青天の霹靂の事態が起きました。将棋連盟と王将戦の主催紙・毎日新聞社の関係者は、翌日の対局開始まで升田を懸命に説得しました。しかし升田の気持ちは変わらず、ついに「対局放棄」で升田の不戦敗という結果となったのです。
連盟理事会は升田の行為を不当として、1年間の出場停止処分にしました。しかし連盟の措置をめぐって、将棋を愛好する著名人や識者が新聞・雑誌で賛否両論の論戦を交わし、社会的にも大きく注目されました。やがて連盟は、一方の当事者の木村(当時・名人)に問題の解決を一任しました。木村は升田に遺憾の意を表し、連盟の処分を白紙に戻す円満な裁定案を示して決着が付きました。以上が世に知られた「陣屋事件」のあらましです。ただ事の真相は、もっと根深いところにあったのです…。
じつは第1期王将戦第6局は特別な対局でした。升田は第5局で木村に勝って4勝1敗とし、王将のタイトルを獲得しました。通常はそれで終了ですが、当時の王将戦は7番勝負を全局戦いました。さらに「3番手直り指し込み」という厳しい制度が設けられました。一方が3連勝または4勝1敗で3番勝ち越すと、タイトル獲得と同時に手合いが「香平」に変わるのです。つまり第6局は、八段の升田が王将・名人の木村に対して、香落ちの手合いで指すという前代未聞の対局になるはずでした。
升田は少年時代、「名人に香を引いて勝ったら…」という意味の言葉を物差しの裏に書き残し、棋士をめざして故郷の広島から大阪に向かいました。それが王将戦第6局で実現することになったのですが、升田の心はなぜか晴れ晴れとしませんでした。病気を理由にして不戦敗も考えたそうです。そんな思いを抱いていたので、陣屋でのちょっとしたことが対局拒否に至ったようです。その裏事情については、次回のテーマにします。
陣屋の関係者の話によると、あの王将戦の対局前日の夜、旅館の玄関のベルは壊れてなく、迎えの者も近くにいたそうです。なお数日後、升田が陣屋を訪れて旅館側とわだかまりを解いたそうです。その後、陣屋は旅館の玄関前に陣太鼓を置き、係員が太鼓を鳴らして宿泊客を迎えることにしました。上の写真で、右が陣太鼓。昨年からは敷地の入り口に置き、隣接するレストランの客にも陣太鼓で迎えています。
次回は、名人戦をめぐる大新聞社の思惑と大山・升田の関係。
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コメント
陣屋事件は書物での知識しかありませんが個人的には升田先生の名人に対する畏敬と思っています。
ゴミ・ハエ論争など一般的に遺恨を感じさせる両者ですが器が大きい升田先生は名人に恥じの上塗りをさせない・・・の心境だったのでは?と思います。最初から対局をする積もりは無かったと勝手に思っています。
弟弟子の大山先生とは別の感情があったのでしょうか。私は陣屋事件の話を聞いてから升田先生を好きになりました!
投稿: 関東のホークスファン | 2011年3月25日 (金) 07時03分