名人戦の契約をめぐる大新聞社の葛藤と升田、大山の影響
名人戦は毎日新聞社と朝日新聞社の共催で行われています。新聞に掲載される名人戦7番勝負やA級順位戦の対局では、観戦記者・解説者・担当記者が両紙で違い、それぞれに紙面を工夫しています。最も伝統があって将棋ファンに人気が高い名人戦・順位戦を、毎日と朝日の大新聞社が協力して盛り上げているわけです。しかし、この形態に至った経緯はかなり複雑でした。5年前に将棋連盟と毎日、朝日の3者間で名人戦の契約をめぐって紛糾したとき、連盟が事態を収拾する手立てとして名人戦共催を提案し、それが初めて実現したのです。また、以前にも名人戦の契約をめぐって、毎日と朝日には葛藤がありました。
名人戦は戦前の1935年(昭和10年)に創設され、毎日(当時・東京日日新聞社)が主催しました。戦後の46年(昭和21年)からは、実力主義の「順位戦」制度が始まりました(戦前は段位主体の制度)。新時代にふさわしい順位戦制度によって、新世代の塚田正夫(実力制第二代名人)、升田幸三(実力制第四代名人)、大山康晴(十五世名人)らが台頭し、第一人者だった名人の木村義雄(十四世名人)と名勝負を繰り広げました。
こうして将棋界は復興しましたが、戦後の混乱期の連盟は運営が苦しい状況でした。そこで連盟は49年(昭和24年)、名人戦主催紙の毎日に対して契約金の大幅増額を要求しました。ただ当時は新聞社も運営が苦しく、毎日との交渉は進展しませんでした。そして交渉はついに不成立となりました。その後、朝日が連盟の希望額を受け入れ、朝日が名人戦を主催することになりました。じつは、朝日の「嘱託」だった升田が裏で働きかけたようです。昔は大棋士が新聞社の嘱託になることがありました。升田は朝日、大山は毎日の嘱託で、微妙な影響を及ぼしていました。
その後、連盟と毎日の関係は1年ほど没交渉でした。やがて両者が歩み寄って「王将戦」が創設され、毎日は「3番手直り指し込み」制度を要望しました。これは一方が3連勝か4勝1敗で3番勝ち越すと、タイトル獲得と同時に次の対局が香落ちの手合いに変わる、かなり過激な制度でした。しかし毎日との関係を修復したい連盟は受け入れました。当時・名人の木村は王将戦創設の推進役を務めました。指し込みの危険については、第一人者の自負で考えもしなかったのでしょう。しかし、それがすぐ現実のものとなったのです。
52年(昭和27年)の第1期王将戦で、保持者の木村は挑戦者の升田に1勝4敗で敗れて王将を失いました。さらに第6局で、木村は香を落とされて対局する事態に追い込まれました。一方の升田は、名人に対して香落ちで指すことは少年時代からの夢でした。しかし朝日の嘱託の立場として、毎日の棋戦で前代未聞の歴史的な対局をすることに複雑な心境でした。そんな思いを引きずって出向いた第6局の対局場の旅館で、ちょっとしたことが引き金になって対局拒否に至った「陣屋事件」が起きたのです。
1970年代になると、名人戦の契約金をめぐって連盟と朝日の交渉がよくもつれました。そして1976年(昭和51年)には、連盟の要求額と朝日の回答額が折り合わず、名人戦の契約は不成立となりました。その後、名人戦は朝日から毎日に移りましたが、時の連盟首脳が大山でした。このように名人戦の主催紙が移ったとき、升田、大山がキーマンとなったようです。
次回は、コメントへの返事。
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