将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

2011年2月 4日 (金)

将棋連盟の財政事情の影響を受けた四段昇段制度の変遷

昔の奨励会は、三段と二段以下が合体された制度でした。三段は8連勝か12勝4敗で四段に昇段できました。この制度だと年間の四段昇段者が不定数でした。1950年代半ばには、四段昇段者が4人、5人と多かった年がありました。当時の将棋連盟の運営は経済的にかなり苦しかったそうです。そこで財政の悪化を憂慮した連盟は、四段昇段者を限定させる制度として「予備クラス」を設けました。順位戦・C級2組からの降級者と三段が参加した半年ごとのリーグ戦で、優勝者が四段に昇段できました(年間で2人)。

この予備クラス制度は1956年(昭和31年)度から始まりました。やがて人数が増加すると、奨励会A組(予備クラスを改称)は東西のリーグ戦に分けられ、東西の優勝者同士が対戦して、勝者が四段に昇段できました。これが世に言われた「東西決戦」でした。勝つと負けるとでは、まさに天と地ほどの差がありました。その後、あまりにも厳しすぎるという声もあって、62年度からは年間の四段昇段者が3人に増えました。前期・後期の東西決戦の敗者同士が対戦して、勝者が四段に昇段できました。

なお前期・後期に連続優勝(前期の東西決戦に敗戦)すると、無条件で四段に昇段できました。その場合、後期リーグ戦の一方の優勝者も四段に昇段できました。連続優勝したのは桜井昇(八段)、桐山清澄(九段)、勝浦修(九段)の3人でした。それで恩恵を受けたのは田辺一郎(七段)、高田丈資(故七段)、石田和雄(九段)でした。

69年度からは連盟の財政事情によって、年間の四段昇段者は以前の2人に減りました。私は同年度の後期リーグ戦で優勝しましたが、東西決戦で坪内利幸(七段)に敗れました。それから2年後の東西決戦で酒井順吉(七段)に勝ち、四段に昇段できました。

74年度からは、三段と二段以下が合体された制度が復活しました。その制度が決まった同年5月の連盟総会では、順位戦・C級2組から降級してもすぐには引退とならない「C3」(現行のフリークラスに当たる)制度が設けられました。私は、棋士寿命を延ばす代わりに、奨励会の四段昇段制度を緩和したバーターのように思えたものでした。

連盟の財政は70年代半ばから80年代半ばにかけて、棋戦の契約金の増額などによって割りと安定していました。そんなこともあって、前記の奨励会制度は13年間も続きました。やがて連盟は、四段昇段者が多い年では8人も生まれた状況を危惧するようになりました。そして1987年(昭和62年)度からは、現行の三段リーグ戦(年間の四段昇段者は4人)の制度に変えました。

こうして四段昇段制度の変遷を振り返ってみると、連盟の財政事情の影響をいつもじかに受けたのが奨励会だということがよくわかります。昔の東西決戦について、あの厳しさがより強い棋士を生んだとの見方もありました。実際に中原誠(十六世名人)、米長邦雄(永世棋聖)は名人になりました。ただ東西決戦を2回経験した私は、若くて有望な奨励会員の芽を摘んだ体のいい「産児制限」だったと思っています。それは現行の制度にもいえることかもしれません。ちなみに竜王・名人を獲得した羽生善治(名人)、谷川浩司(九段)、森内俊之(九段)、佐藤康光(九段)などの一流棋士たちは、三段以下が合体された制度の時代に棋士となりました。

次回は、奨励会員の年齢制限規定について。

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