竜王戦が誕生した成り立ちと棋戦名の由来
読売新聞社は、「十段戦」という将棋の棋戦をかつて主催していました。定員6人のリーグ戦に入ると、一流棋士と計10局(各人と先後2局)も指せるのが、棋士にとって最大の魅力でした。囲碁の棋戦は「棋聖戦」を主催していました。1980年代前半のころ、囲碁の契約金は将棋より約2倍も上回っていました。当時の将棋連盟・理事会は、「将棋と囲碁は、過去の歴史や実績から見て平等である」という見地から、読売に対して十段戦の契約金の大幅増額を毎年のように要求してきました。
やがて読売は1984年(昭和59年)、連盟の要求に対して「棋聖戦は囲碁界で、席次第1位の扱いを受けている。しかし十段戦は将棋界で、名人戦に次ぐ扱いである。契約金の差額はその違いであって、囲碁と将棋を差別しているわけではない。ただし、読売は将棋界で最高の棋戦を主催することについて強い関心がある」と回答しました。
こうして新棋戦創設の気運が高まり、85年には準備委員会が開かれました。連盟理事、有志棋士、読売の担当記者らが集まり、当時七段の私も出席しました。その会合では、新陳代謝のある棋戦方式、独自の昇段制、挑戦手合いの興業制など、様々な意見が出ました。私は「賞金制の導入」を提案しました。
その後、連盟と読売の交渉は2年間にわたって続きました。そして87年3月、両者は大筋で合意しました。新棋戦の概要は、現行の竜王戦の仕組みと同じです。新方式のシステム、新体系の賞金制、昇降級の促進、独自の昇段制、興業制の実施(後年に公開対局、海外対局が行われました)など、85年の準備委員会で出た意見が結果的に反映されました。
読売は、新棋戦の契約金を将棋界最高額とする絶対条件として、新棋戦が将棋界の「序列第1位」になることを挙げました。しかし当時の連盟会長・大山康晴(十五世名人)が名人戦を主催する毎日新聞社の嘱託だったので、毎日に顔を立てた大山が「新棋戦は名人戦と同格に」「序列第1位は名人戦と隔年交代に」などと読売に申し入れて、交渉は最終局面で難航しました。その後、読売が妥協案を出して話はようやくまとまりました。87年10月、連盟と読売の新棋戦契約が調印されました。
新棋戦の名称については、「棋神戦」「最高峰戦」「巨人戦」「巨星戦」「棋宝戦」「達人戦」「竜王戦」「将棋所」(江戸時代の将棋家元)など、様々な候補が挙がったそうです。その中で「神」の字は宗教とからみ、「巨」の字はプロ野球チームとの区別でまぎらわしい、などの問題がありました。結局、消去法で最後に残ったのが「竜王戦」でした。「竜は古来、中国では皇帝のシンボルで貴いものを表す」「竜王は将棋の駒の中で、最強の働きをする」といった根拠が、棋戦名の由来でした。
名人戦・順位戦では、四段の棋士が毎年昇級しても、名人になるまで早くても5年以上かかります。それに比べて竜王戦では、実力がある若手棋士が台頭しやすいのが最大の特徴です。これまでに島朗(九段)、羽生善治(名人)、佐藤康光(九段)、藤井猛(九段)、渡辺明(竜王)など、時の有望若手棋士が竜王を獲得しました。また2年前の竜王戦の渡辺―羽生戦では、渡辺が3連敗から4連勝して大逆転防衛し、社会的にも注目されました。
竜王戦は誕生から23年たちました。将棋界の最高棋戦にふさわしい重みと人気、それに歴史が備わってきたと思います。
次回は、「棋士派遣」で訪れた山形・米沢での将棋会。
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