将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

2010年12月14日 (火)

現役のまま亡くなった大山、芹沢、板谷、村山らの棋士の生き様と「絶局」

今回のテーマは前回に続き、現役のまま亡くなった棋士の最後の対局である「絶局」です。

芹沢博文九段(1987年に51歳で死去)は後半生で、将棋番組の解説、観戦記・随筆の執筆、雑誌で著名人との対談、テレビでタレント活動など、盤外で活発に活動しました。田中角栄元首相の後押しによる政界進出も取り沙汰されました。大の酒豪だった芹沢は、長年にわたって深酒を続けました。その影響で晩年は体を壊し、医者から断酒をきつく言い渡されました。しかし、それでも飲みました。絶局は7日前の鈴木輝彦八段戦(竜王戦)で、芹沢は中盤で投了しました。芹沢は自分の思うままに生きた人でした。芹沢の深酒について、「長い年月をかけた、ゆるやかな自殺だった」という見方もありました。

板谷進九段(1988年に47歳で死去)は「熱血漢」という言葉がふさわしい人でした。「将棋は体力だ」が信条で、対局では体を張って全力で戦いました。地元の名古屋を中心に普及活動を精力的に展開し、あるイベントでは100人相手の多面指しをしました。弟子の育成にも熱心でした。晩年には、奨励会員・社会人・大学将棋部のための研修所を作るために奔走しました。しかし、知らずうちに無理を重ねていたようです。将棋クラブで「気持ちが悪い…」と言って急に倒れ、3日後に亡くなりました。絶局は半月前の有吉道夫九段戦(棋聖戦)で、相矢倉の激闘の末に板谷が141手で勝ちました。

大山康晴十五世名人(1992年に69歳で死去)はまさに昭和棋界の「巨星」でした。大山は91年12月にガンの再発で手術を受けました。それから1ヶ月半後に公式戦に復帰すると、A級順位戦で米長邦雄九段、谷川浩司竜王(いずれも当時)らを連破し、名人戦挑戦プレーオフに進出したのです。驚くべき底力と精神力での復活劇でした。新聞は「ガンも投了」という見出しを付けました。ただ大山の体は完全に回復していませんでした。医者は大山に、散歩と昼寝を日課にして静養することを勧めましたが、大山は聞き入れませんでした。やがて体調が悪化し、大山は92年7月に亡くなりました。絶局は1ヶ月前の中村修九段戦(棋聖戦)で、戦型は大山の中飛車。大山は馬を作って柔軟に指しましたが、中村が146手で勝ちました。

私は92年の春、順位戦でA級に昇級しました。92年度A級順位戦では、7局目に大山との対戦が組まれました。とても楽しみにしていましたが、残念ながら実現しませんでした。翌年のA級順位戦最終日の控室には、大山の遺影が飾られたものです。大山と田丸の対戦成績は、田丸の6勝8敗。そのうち2勝は不戦局(大山が84年にガンで休場したときの対局を含む)で、大山に対して戦わずに2勝したのは私だけかもしれません。

村山聖九段(1998年に28歳で死去)は幼少時から難病に見舞われ、死の影と隣り合わせに生きたそうです。だから20歳の誕生日のとき、「20歳になれるなんて思っていなかったので、とてもうれしいんです」と素直に喜びました。将棋の強さは羽生善治(名人)も認めたほどで、「終盤は村山に聞け」という言葉は有名でした。村山は98年2月、順位戦でA級に復帰昇級しました。その一戦の相手が私で、村山の寄せの強さが印象的でした。絶局は3月の木村一基九段戦(王位戦)で、村山が粘る木村をねじ伏せて勝ちました。村山はそれから病気療養で入院し、8月に亡くなりました。98年版『将棋年鑑』のアンケート欄で、「好きな言葉」への村山の回答は「土に還る」でした。

次回は、渦中の「海老蔵」の父親「団十郎」の将棋愛好ぶりについて。

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コメント

村山九段の「好きな言葉」にはしんみりとさせられますね。

ところで、大山先生に関して、田丸先生は大山先生と相振り飛車で戦ったことのある、滅多にいない棋士のお一人と聞いたことがあります。いずれ、その思い出を語っていただけると嬉しいです。

投稿: UT | 2010年12月24日 (金) 19時47分

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