55歳で急逝した真部一男九段の奨励会時代の思い出
私は3年前に55歳で急逝した真部一男九段と、奨励会入会がほぼ同期でした。その真部を初めて見かけたのは、東京オリンピックが開催された46年前の1964年(昭和39年)の夏でした。場所は東京・千駄ヶ谷の旧将棋会館の道場で、2階建ての木造だったころです。当時の真部は12歳の中学1年生。切れ長の目をした利発そうな少年という印象でした。棋力は三段で、近いうちに奨励会入会試験を受けたいと周囲の人に話していました。私は14歳の中学2年生で、棋力は3級。棋士をめざす思いは同じでしたが、棋力が低かったので年下の真部に羨望を抱いたものです。
私は64年11月、佐瀬勇司(故・名誉九段)の弟子にさせてもらいました。そして12月に将棋会館で会ったとき、師匠は奨励会に6級で入会したばかりの真部を引き合わせてくれ、私と真部は道場で指しました。結果は何と私の3勝1敗でした。
翌年の65年1月、私は奨励会入会試験を受けました。棋力は二段程度に伸びていました。自分では少し無理かなと思いましたが、師匠に強く勧められて受験したのです。その試験将棋で対戦したのが真部でした。1ヶ月前に指して勝ち越したので、勝てる自信はありましたが、結果は一方的な敗戦でした。やはり本番と練習ではまったく違いました。
私は試験将棋で2連敗しました。しかし師匠が奨励会幹事の棋士に裏で話をつけてくれ、奨励会に6級で入会できました。受験者が少なかった当時、入会試験で成績が悪くても、幹事の独断や師匠の口利きによって入会を認めた例はたまにあったようです。
私はいわば「裏口入会」したわけです。ただ当然ながら力不足で、入会早々に7連敗して負けが込みました。真部は順調に勝利を重ね、65年12月には2級に昇級しました。このように真部と私は奨励会入会が同期でも、実力や評価で雲泥の差がありました。高校野球に例えて比較すると、真部は甲子園で活躍するスター選手、私はやっとベンチ入りできた控え選手でした。対戦成績も最初の1年間は2勝10敗と「鴨」にされました。
上の写真は、66年のころ。左端が真部(1級・14歳)、右端が田丸(3級・16歳)。同世代の私と真部は、普段は仲の良い友達でした。真部は少年漫画を読むのが大好きで、「マガジン」という愛称で先輩たちに可愛がられていました。
真部は奨励会時代から才気あふれる将棋を指しました。ただ筋の良さにとらわれたり、勝負に淡泊な面がありました。また思春期になると、異性への興味が増したり、ボーリング・ビリヤードの遊びに興じたりして、将棋がお留守になった時期があったようです。そのために、真部と私は「ウサギと亀」の関係だったのに、私が次第に追い付きました。そして三段と四段の昇段は、私のほうが先になりました。
私は若手棋士のころ、真部とよく一緒に飲んだりして親しく付き合いました。亡くなる20年ほど前からは、個人的に会ったり話すことはありませんでした。最後に言葉をかわしたのは、3年前に順位戦の対局で同室になったとき。私が立てる扇子の音が気になった真部の「田丸くん、ねぇ…」に対して、私の「あぁ、ごめん…」でした。
次回は、コメントへの返事。
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コメント
ごぶさたしています。昨年11月にアーリーリタイヤし、テニスやらゴルフやら将棋やら図書館やら男女交際やらで楽しんでいます。質問ですが、写真中央の髪の多い木村一基八段はどなたでしょう? たぶん奨励会時代のお仲間かと思いますが、ちょっと気になったので。
投稿: K島 | 2010年12月 1日 (水) 08時37分