将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

2010年11月 5日 (金)

新宿の将棋クラブで手合い係を務めた41年前の思い出

1969年(昭和44年)1月。18歳・三段の私は師匠(佐瀬勇次名誉九段)宅での3年間の内弟子生活を終えると、「新宿将棋クラブ」で手合い係を務めることになりました。

新宿将棋クラブは歌舞伎町・コマ劇場の辺りにあった老舗の道場で、私の兄弟子の藤代三郎(指導棋士七段)が席主を長いこと務め、昔は多くの客で賑わっていました。しかし藤代が辞めたり、近くに「新宿将棋センター」が開かれたこともあって、69年当時は客が減って寂れていました。経営者は5階建てビルのオーナーで、その3階が将棋クラブでした。中年の人が常勤で手合い係を務めていましたが、体調があまり良くないという事情から、私とほかの奨励会員ら3人が手伝うことになったのです。

そのビルの屋上に3畳ほどのプレハブ小屋があり、そこが私たち奨励会員の住居となりました。記録係、たまの指導将棋でしか収入がなかった奨励会員にとって、家賃なしで住めたのでとても助かりました。こうして新宿・歌舞伎町の一角で、3人の若者たちの共同生活が始まりました。私は炊事を担当し、1台の電熱器で卵焼き、野菜炒め、味噌汁などを作りました。貧しい日々でしたが、自由に暮らせる生活は意外と快適でした。

新宿将棋クラブに常勤した人の勤務時間は12時から19時で、私たち奨励会員は開店の準備、午前中の手合い係、夜の手合い係、閉店後の掃除、お金の管理などの仕事を交代で務めました。手合い係の仕事そのものは、それほど大変ではありませんでした。将棋クラブには多種多様の人たちが出入りし、将棋ファンが楽しむ生の姿を見られたことは、今になって思えば得難い経験だったと思います。ただ場所柄で目つきの鋭い「その筋」の客もいて、賭け将棋をよく指していました。私たちに凄むような態度は見せませんでしたが、閉店時間がきても指し続けて帰らず困ったものでした。

私は新宿の生活に慣れてくると、歌舞伎町の歓楽街を散歩したり、たまに居酒屋に入ってビールを飲みました。コマ劇場の近くに「歌舞伎湯」という大衆浴場があり、夏は浴衣姿で洗面具を持って出かけました。当時の私は五分刈りの坊主頭でした。風体から家出している少年と思われたようで、巡回中の警官に職務質問をよく受けました。そのたびに「将棋の棋士をめざして修業中の者です」と正直に言いました。

新宿の歌舞伎町は昔から「不夜城」として賑わっていました。しかしネオンが一斉に消えて静まり返ったことが1日だけありました。69年10月21日で、その日は「国際反戦デー」でした。当時は学生運動が盛んで、前年の同日には過激派が新宿駅構内に侵入して大混乱となり、後に騒乱罪が適用されたほどでした。そこで当日は警察の要請によって、歌舞伎町の大半の店が休業か早仕舞いしました。新宿将棋クラブも夕方で閉めました。そして当夜、ヘルメット姿の過激派のデモ隊とジュラルミンの盾を持った機動隊が靖国通りでもみ合う光景を、私は群衆の中で別世界のことのように眺めていました…。

新宿将棋クラブは経営が赤字だったようで、69年12月に閉鎖となりました。10代の私にとって、いろいろな経験をした1年間でした。あの41年前のことは今でもたまに思い出します。その後、早稲田大学の近くの3畳間のアパートに移りました。

次回は、将棋愛好家の作家・渡辺淳一さんの喜寿の祝賀会。

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私は兼業主夫。以前は会社勤めをしていましたが、ふとしたことから兼業主夫になりました。兼業主夫ってものスゴク忙しいんです。 [続きを読む]

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