将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

2010年10月 8日 (金)

独り遊びが好きだった田丸の少年時代

田丸の少年時代

今回と次回は、田丸の少年時代の思い出を振り返ってみます。

私は60年前の1950年5月5日、長野県北佐久群北御牧村(現・東御市)で生まれました。浅間山が北方にそびえ立ち、旧信越本線の小諸〜上田間の南方にある布引観音の近くの高原の集落です。太陽が昇り始めた朝の5時に生まれ、こどもの日で鯉のぼりがはためいていたことから、祖母(シモ)が「昇」と名前を付けました。母親(昭子)は初産のうえに、私が逆子の状態になっていたので、かなり難産だったそうです。

生地の長野は母方の実家で、生まれてまもなくして父親(勇)の実家がある横浜に移りました。幼年時代のことで今でも記憶している光景は、伊勢佐木町で見たアメリカ兵のラッパズボン、親に連れらて見た白黒の映画のワンシーンでした。今、思い出してみると、それは東宝映画でバンジュン(伴淳三郎)が出ていたような気がします。

写真は、私が3歳のころで、まるで浮浪児みたいな格好でした。私の家は当時、事情があって母子家庭となり、貧しい暮らしでした。ただ当時の日本は、3年前に勃発した朝鮮戦争によって経済復興したとはいえ、社会全体がまだ豊かではない時代だったのです。

私は幼年時代、母親が仕事で出かけると、近所の知り合いの人の家に2歳下の妹(一美)と一緒に預けられました。妹は活発な性格で、外で飛び回って遊んでいました。私は家の中でする独り遊びが好きでした。マッチ棒やオハジキをいくつかもらうと、それらを畳の上でいろいろな形に並べて、飽きもせずに一日中そうしていたそうです。

小学校は家の事情によって、横浜、川崎、東京・中野、荒川と3回も転校しました。もともと孤独で人見知りする性格のうえに、転校生の境遇だったので、友達はあまりできませんでした。小学生時代はもっぱら読書をしました。昼休みは図書室でシャーロック・ホームズなどの推理小節を読み、家では小学生向けの日本史の図鑑を読むのが好きでした。それから、やはり家の中で独り遊びをしていました。

川崎に住んでいたころ、東海道線と京浜急行が並走する光景を家の窓から見ていて、赤い車体の京浜急行の魅力に引かれました。それが忘れられず、荒川時代に時刻表を勝手に作り始めたのです。川崎時代、京浜急行は特急・急行・鈍行の電車があり、品川発の行き先は久里浜・浦賀・逗子と分かれました。途中駅の平和島・蒲田・川崎・横浜などで、待機する鈍行を特急らが追い越します。その次々と繰り広げられる追い越しパターンがなぜか面白かったのです。さらに時間帯や行き先ごとの電車の本数、各駅ごとの発車時間の間隔を念頭において、ノートに発着時間の表を書き込みました。やがて、何日間も熱中していると目眩が生じてしまい、途中でやめました。

小学生時代を振り返ってみると、私はかなり変わっていました。時刻表作りなどの独り遊びは、学校や友達との付き合いが嫌で現実逃避していたのかもしれません。ただ、何かに夢中になっていたかったのでしょう。そんな少年が将棋に出会ったのは、小学6年の夏休みでした。1962年のことで、ラジオから流れてきたある歌謡曲を聴いたのがきっかけでした。

次回は、田丸が将棋を覚えたきっかけ。

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コメント

田丸先生こんにちは。田舎天狗様、貴重なアドバイスを有難うございました。遅れましたが、ブログ開設一周年おめでとうございます。
今回はとても可愛らしいお写真ですね。孤独を好んだ少年が将棋と出会ってどのように変わっていかれたのか、次回が興味津々です。ひょっとして、田丸先生のご実家も農業を営んでおられたのでしょうか。勝手に親近感を抱いてしまっております。

投稿: 野菜村から | 2010年10月 8日 (金) 21時55分

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