12歳で将棋を覚えたきっかけは村田英雄が歌った大ヒット曲『王将』
前回のブログで書いたように、少年時代の私はとても内気で、外で友達と遊ぶよりも、家の中で何かの独り遊びをするのが好きでした。
私は小学校の高学年のころ、東京・荒川区に住んでいました。映画や小説で4本の「お化け煙突」として題材になった火力発電所が、近くの荒川の北岸にありました。夕方になると大人たちは軒先に縁台を出し、外で将棋をよく指しました。友達たちも下校すると、路地裏で指しました。下町ではそんな「縁台将棋」の光景は日常的なものでした。
私はいわゆる「本将棋」をまったく知りませんでした。たまに誰かと「回り将棋」「お金将棋」「はさみ将棋」で遊ぶぐらいでした。だから大人や友達が将棋を指していても、ぼんやりと眺めていました。ひとつ気になったのは、赤い色の駒があることでした。みんながよく使った「番太郎」と呼ばれた安物の駒は、裏側のと金・成香などが赤かったのです。
私が12歳の小学6年だった1962年(昭和37年)の夏休み。「♪吹けば飛ぶよな将棋の駒に…」という歌詞で始まる歌謡曲が、ラジオからよく流れていました。村田英雄が歌った『王将』で、戦後初のミリオンセラー(100万枚)となった大ヒット曲でした。
当時は橋幸夫、坂本九、中尾ミエ、弘田三枝子などが歌った青春ボップスが流行していて、私もよく口ずさんでいました。演歌調の歌謡曲は大人向けでした。ところが『王将』を聴くと、演歌なのに耳の中にすっと入ってきて、子ども心にも心地よかったのです。なぜ引かれたのか、その理由はわかりません。やがて、自分でも歌うようになりました。
私は『王将』の曲がきっかけとなり、将棋を覚えることにしました。近所の知り合いの人に手ほどきを受けました。最初に教わったのは、飛車先の歩を突いてから右銀を進める「棒銀」でした。5筋に飛車を振る「中飛車」も習いました。もちろん当初はまったく歯が立ちませんでしたが、そのうちにたまに勝てるようになりました。
凝り性の性格なので、将棋に興味を持ち始めるとすぐに熱中しました。定跡や詰将棋の本をぼろぼろになるまで読んで勉強し、新聞の将棋欄も欠かさず読みました。ただ「矢倉」とか「垂れ歩」などの専門用語の意味がよくわからず、大山(康晴十五世名人)、升田(実力制第四代名人)の偉大さも知りませんでした。当初は、将棋の棋士が存在すること自体を理解してなかったのです。
中学に進むと、肩にかける布製の通学バックに、マジックで駒形の「王将」を大きく書きました。教室では暇さえあれば消しゴムを駒の代わりにして、テレビで見た棋士の手つきを真似てみましたが、いつも隣の机の下に飛んでいきました。
それほど将棋が好きだったのに、棋士をめざすとは夢にも思っていませんでした。棋力も10級程度でした。棋士をめざすきっかけは、ちょっとしたことでした。その話は、また改めてブログのテーマにします。
次回は、開幕した竜王戦(渡辺明竜王―羽生善治名人)第1局。
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コメント
僕は将棋を覚えたての頃,駒を中指と薬指で挟んで指していました。よくそんな器用な持ち方ができたものだと今では思います。
投稿: spinoza05 | 2010年10月12日 (火) 19時52分