将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

2010年9月 3日 (金)

江戸時代初期に二世名人によって定められた千日手の禁止

同一手順が繰り返されて局面が進展しない場合、千日も指し続けても勝負がつかないという意味で、「千日手」が成立して指し直しとなります。ただし連続王手の千日手模様では、王手をかけるほうが手を変えないと負けです。

この千日手の規定が初めて成文化されたのは、江戸時代初期の1636年(寛永13年)でした。二世名人・大橋宗古の著作『象戯図式』の巻末には「将棋治式三ヶ条」として、二歩、千日手、行きどころのない手(▲1一香、▲2二桂などの手)を禁止することを図解入りで説明し、打ち歩詰めの禁止も併せて謳いました。宗古によって定められたこれらの基本的ルールは、約370年たった今でも生きています。しかし千日手に関しては、解釈の仕方で何かと問題がありました。

映画・歌でおなじみの『王将』の登場人物で、宿命のライバルだったのは阪田三吉(追贈・名人、王将)と関根金次郎(十三世名人)。1906年(明治39年)、その両者(当時、関根は八段、阪田は五段半)が対戦した将棋の終盤で、お互いに金銀を打ち合う千日手模様の手順が生じました。現行の規定では千日手ですが、当時は仕掛けた側が手を変えなくてはならず、阪田がしかたなく手を変えると形勢を悪くして負けました。一介のアマだった阪田は「段が上の関根はんが手を変えてくれはらにゃ…」と嘆いたそうです。しかしこの敗戦で発奮し、「今日から本当の将棋指しになる」と宣言して棋士人生を歩みだすきっかけとなりました。

冒頭に記した現行の千日手規定は、戦後に制定されました。千日手は序盤、中盤、終盤といつでも生じますが、その段階によって性質が異なります。序盤では、駒組ができあがった局面で仕掛けの糸口をつかめない、先に仕掛けたほうが不利になる、というケース。中盤では、手を変えて打開しても不利ではないが無理することはない、何となく自信がない、というケース。終盤では、手を変えて打開すると明らかに負け筋、というケース。どのケースでも、両者の思惑が一致すると千日手に至ります。王位戦(深浦康市王位―広瀬章人六段)の第5局と第6局では、ともに終盤で千日手が生じましたが、お互いに手を変えたほうが負け筋になるケースでした。

そのほかに、千日手の指し直し局では先手・後手が入れ替わるので、先手番を得たい後手番の棋士があえて千日手に誘導することもあります。また、体力や気力に自信がある棋士は、「もう一丁!」という気分で千日手に持ち込みます。

ちなみに過去10年間のプロ公式戦で生じた千日手は、2000年度は44局、01年度は57局、02年度は51局、03年度は56局、04年度は46局、05年度は48局、06年度は32局、07年度は48局、08年度は46局、09年度は46局で、全対局の中で千日手の割合は約2%でした。

故・原田泰夫九段は「千日手は将棋を滅ぼすガン」と強く提唱し、自身の対局で千日手模様になると、無理しても打開したものでした。その背景には、昔は千日手になった場合の対局規定に大いに問題があったからです。

次回は、千日手における対局規定の変遷。

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コメント

広瀬新王位誕生ですね。第六局指し直し局は名勝負でした。今期は名人戦、棋聖戦が盛り上がりのないまま終わってしまったので、ようやくタイトル戦らしい勝負が堪能できました。

投稿: 十字飛車 | 2010年9月 3日 (金) 20時57分

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