将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

2010年8月10日 (火)

終戦の翌年から始まった実力主義の順位戦制度

戦前の昭和初期の将棋界は、段位に絶対的な重みがありました。しかし年月がたつにつれ、最高位の八段同士で技量の差がかなりあったり、四、五段の棋士が八段に連勝したりして、段位主体の制度の欠陥が次第に露呈してきました。

終戦から3ヶ月後の1945年(昭和20年)11月。空襲による焼け跡と復員服姿ばかり目についたという当時。東京・目黒の将棋連盟(当時は将棋大成会)仮本部で臨時総会が開かれました。その席上で、木村義雄名人(十四世名人)が重大問題を提案しました。従来の段位を主体とした制度を撤廃し、実力主義の新制度を導入しようという爆弾動議でした。総会では活発に論議された末に、木村の提案は基本的に了承されました。やがて新制度に向けて委員会が設けられ、検討を重ねた結果、現行の順位戦制度が発足しました。

翌年の46年5月から始まった第1期順位戦は、新順位決定戦でした。まずA級(八段)、B級(七段、六段)、C級(五段、四段)と段位でクラスに振り分け、勝敗とポイント制でABCの新ランキングを決定しました。その結果、A級は塚田正夫八段(実力制第二代名人)が優勝して木村名人への挑戦権を獲得しました。B級は1位が升田幸三七段(実力制第四代名人)、2位が大山康晴六段(十五世名人)。C級は1位が丸田祐三四段(九段)で、次期には一気に七段へ昇段しました。

それにしても、このような大改革が半年ほどの短期間でよく実現したものです。戦後になって民主主義の世の中に様変わりしましたが、棋士たちの認識も大きく変わったのです。順位戦制度を推進した木村名人は自著で、「将棋界が実力主義の真剣勝負によって、各競技界の先駆となり得たことに誇りを感じている」と綴りました。なお当初は段位も廃止し、ボクシングのように「○級○位」という呼称にしました。しかし段位の肩書がないと、対外的に不都合という声があり、段位は1年後に復活しました。

名人戦は戦前に創設されて以来、毎日新聞社が主催してきました。戦後は新聞社も経営が厳しく、名人戦の契約金は連盟の要求額を満たせませんでした。そんなとき、ある将棋愛好家が社長を務める「日本ハップ社」という薬品会社が協賛してくれました。これによって棋戦の経済的基盤が確立し、新制度がスタートできたのです。

順位戦制度の主旨は、各棋士をABCのクラスに分ける実力主義です。実力ある若手棋士が昇級して台頭しやすい半面、上位棋士やベテラン棋士が低迷して降級することもあります。ところが初期の順位戦では、その主旨に反してA級以外は降級しませんでした。戦後の混乱期はひどいインフレで社会全体が貧しく、連盟は棋士の生活を案じて引退に追い込むような措置をとりにくかったのでしょう。

それとは別の事情もありました。連盟は名人戦の契約金を新聞社に増額要求する根拠として、現役棋士の人数を減らしたくなかったのです。その一環として、アマ名人戦の成績優秀者が順位戦に1期だけ特別参加できる制度も設けました。第3期から第5期にかけて、6人のアマが順位戦に参加しました。成績次第では棋士への道も開かれたようです。アマたちの成績は、加納和夫が7勝5敗、高橋誠司が4勝3敗で、ほかの4人は負け越しでした。

次回は、その後の順位戦と降級制度の変遷。

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コメント

レトロな将棋ファンにとって、大変興味深い記事です。
若手棋士の皆さんにも、是非読んで欲しいですね。
田丸先生は色々な資料を、どうやって手に入れていらっしゃるのでしょうか?いつもきちんと調べていらして感服しております。

投稿: 五平餅 | 2010年8月10日 (火) 21時17分

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