将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

2010年8月13日 (金)

棋士生命にも影響する順位戦・C級2組の降級制度の変遷

第1期順位戦は1946年(昭和21年)に始まりました。第7期以降はA級からC級2組までの現行の5クラス制が定着しました。A級は10人、B級1組以下のクラスは各13人と定員制を設け、各クラスとも毎期、昇級2人・降級2人で入れ替わりました。棋士の実力をクラスで定める厳しい制度でした。しかし当初は、最下級のC級2組は降級が免除されました。将棋連盟の理事会は、C級2組降級=引退で仲間の棋士の首を切ることになる規定を作りにくかったのでしょう。

やがて棋士が増加すると、連盟の財政的事情もあって、第10期順位戦以降はC級2組にも降級枠を設けました。その結果、第10期のC級2組は17人のうち4人が降級しました。40代・50代の3人の棋士は引退し、30代の棋士は「予備クラス」に編入されました。これは現行の三段リーグに相当し、年間2人が四段に昇段しました。

以後のC級2組では、第11期に4人、第12期に3人、第13期に3人が降級しました。その多くが50歳前後のベテラン棋士で、引退に追い込まれました。しかし第13期では棋士1年目の北村文男(七段)が6勝8敗で降級する不運に見舞われ、1年で予備クラスに逆戻りとなりました。このように以前のC級2組順位戦は、棋士生命にも大きく影響する深刻な勝負でした。

第17期順位戦以降は、1年で降級しない「降級点」制度がB級2組以下に設けられました。仮に13人のクラスの場合、降級点(定数は4人に1人)は成績下位3人が該当します。この降級点を通算2回取ると、下位クラスに降級します。さらにC級2組は降級点を通算3回で降級と、降級基準はかなり緩和されました。

1974年(昭和49年)2月。第28期C級2組順位戦の対局で、当時四段の私は星田啓三(八段)に勝ってC級1組昇級を決め、逆に星田は降級点3回で降級(引退)となりました。そのときの複雑な思いは、昨年11月30日のブログで書きました。

ところが74年5月の連盟総会で、加藤治郎(名誉九段)会長が「昨年秋の臨時総会でC2から落とさない議題を出して了承してもらうつもりだったが、うっかり忘れてしまった。時期は遅れたが、この場で了承してもらいたい」と発言し、思いもよらぬ緊急動議を出したのです。しかし、すでに終わった順位戦の勝負の結果を覆すことで、事情はどうであれ本来はありえない話です。実際に反対意見が多かったです。その加藤会長の動議は、結果的に理事会預かりとなりました。

そして後日、C級2組から降級した星田と橋本三治(八段)は、条件付きで現役を続けられることが決定しました。これが現行の「フリークラス」制度の前身に当たる「C3」制度でした。

私はベテラン棋士を救済するぐらいなら、若くて強い奨励会員に門戸を広げるために、四段昇段制度(当時は東西決戦による年間2人)を改めるべきだと思いました。ほかの多くの棋士も同じ考えでした。総会では、奨励会の三段と二段以下を合体した制度(四段昇段者は不定数)も緊急動議されて決定しました。36年前に急に決まったC3と奨励会制度は、ある意味で棋士にも奨励会員にも緩める「バーター」だったような気がします。

次回は、渦中の政治家も出席した「囲碁・将棋チャンネル」パーティー。

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