「女流棋士研修会」で女流棋界の歴史講義
女流棋士の実力向上を図る趣旨で、「女流棋士研修会」が将棋会館で月2回行われています。女流棋士の参加者は8人前後で若手が多く、清水市代女流二冠もたまに参加します。女流棋士は若手棋士、奨励会員らと2局指します。公式戦のように真剣な様子で戦い、男性側は勝つと将棋連盟からの謝礼が増えます。
女流研修会の幹事はA級棋士の高橋道雄九段。その高橋から私に、研修会参加の依頼がありました。ほかのベテラン棋士にも声をかけていて、女流棋士に「おふくろの味」ならぬ「おやじ将棋の味」を体験させたい意図があるようです。
私は将棋を指すことは辞退しました。その代わりに、女流棋士に女流棋界の歴史を講義したいと提案しました。女流棋士には自分たちの世界の歴史をもっと知ってほしいと、以前から思っていたのです。私は若いころから将棋の歴史を調べていて、女流棋界が発足した約35年前の経緯もよく知っていました。高橋幹事は私の提案を受け入れました。私は今年1月から4月まで、研修会の冒頭30分間で計4回の歴史講義をしました。
写真は、4月の参加者たち。左から渡辺弥生2級、熊倉紫野初段、中村真梨花二段、鈴木環那初段、山口恵梨子初段。渡辺は遅咲きの東大出身棋士。山口は18歳で私が会ったのは小学生以来。
第1回の講義では、江戸時代まで遡りました。将棋の文献に女性が初めて登場したのは江戸後期の文化年間(19世紀初頭)。大橋浪女二段が福島順喜七段と飛車落ちの手合いで指した棋譜が残っています。私が大盤でその将棋を並べると、女流棋士たちは200年前の浪女の戦いぶりを興味深く見つめ、好手を指すと喝采を送りました。勝負は、浪女が一手勝ちを収めました。当時の将棋番付には、ほかに池田菊女、水野こう女などの名前が載っていましたが、人数は少なく棋力もあまり高くなかったです。
その後、明治〜大正〜昭和と時代が移ると、将棋を指す女性はほとんどいませんでした。賭け将棋がよく指されたことも、女性から敬遠された一因になりました。将棋の歴史に女性が再び登場したのは、昭和中期になってからです。その話は、次回にします。
囲碁界の女流棋士の歴史は、将棋界よりもはるかに長くて水準も高かったです。豊臣秀吉が天下を統一した16世紀末の文献には、囲碁を打つ女性の記述がありました。江戸から明治の時代にかけては、多くの女流棋士が活躍しました。喜多文子八段は伊藤博文、渋沢栄一らの政財界トップに指導しました。また、昭和の名棋士として知られる坂田栄寿二十三世本因坊の師匠は増淵辰子八段でした。これを将棋界に当てはめると、同世代の大山康晴十五世名人の師匠が女流棋士というようなものです。
囲碁の女流棋士は将棋の女流棋士よりも水準がはるかに高いと、両者の実力がよく比較されます。ただ前記の例のように、歴史がまったく違うのですからしかたないことです。
次回は、女流棋士誕生の経緯とその後の発展。
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