現代棋界に受け継がれている山田道美九段の精神と研究法
山田道美九段は仲間内と群れるのを好みませんでした。ただ関根茂九段、宮坂幸雄九段、富沢幹雄八段とは親しい間柄でした。1960年代前半のころ、その4人で実戦主体の研究会を始めました。共同研究なら各自の考えが違っていて広がりがあるからです。これが現代棋界で行われている「研究会」の草分けでした。私は奨励会の二段時代、山田の研究会に1回だけ特別参加させてもらいましたが、公式戦のように真剣な空気でした。
山田は無敵だった大山康晴(十五世名人)とタイトル戦で激闘するうちに、中終盤の力不足を痛感しました。それを克服するために難解な詰将棋に取り組み、青年時代の中原誠(十六世名人)や森けい二(九段)と「VS」(1対1の練習将棋)で指して鍛えました。山田が勝てば相手に1勝あたり5局分の棋譜筆写を課し、負ければ相手に1000円を払う条件でした。複写機がなかった当時、棋譜の入手は筆写しかなく、山田は将棋会館に通っては手書きで棋譜を集めていました。
さらに、山田は15人ほどの奨励会員を集めて「山田教室」を開きました。会場は山田が会館の近くに研究室用に借りていたアパートの一室。開始時刻の朝8時に遅刻すると罰金があり、そのかわり山田は早く起きて朝食を用意してくれました。まるで合宿のような雰囲気でした。山田は奨励会員と指しても手を抜かず、私は1局も勝てませんでした。
棋士同士の研究会、A級棋士と若手棋士とのVSや奨励会員との研究会。現代では珍しくない研究法ですが、当時はかなり異例のことでした。将棋の研究に打ち込んできた山田にとって、格とか体面といった問題は眼中になかったのでしょう。やがて山田の考えに影響を受け、中原や米長邦雄(永世棋聖)も別の研究会を開きました。
山田は奨励会員に対して暖かい目線で接し、伸び悩んでいる者には親身になって励ましました。私も低迷していたころ、山田の激励で立ち直れました。また、「将棋に勝つには健康管理が大事」と考え、奨励会員と一緒にハイキング、テニスをして体を鍛えました。
山田はタバコを吸わず、お酒は付き合い程度。対局で疲れるとサウナや指圧で体を癒しました。将棋を中心にした生活を送るために、普段から摂生を心がけていました。そんな山田が急に病魔に襲われたのです。
1970年6月上旬。私が会館で山田を見かけて会釈すると、山田は笑みを浮かべながら手を挙げました。それが、私が最後に見た山田の姿でした。じつは、そのころから山田の体調は良くなく、腰が痛かったそうです。そこで指圧を受けたところ、結果的に逆療法となって腰から出血しました。入院してもすぐに適切な治療を施されず、「血小板減少性紫斑病」という病名が判明したときには、すでに手遅れとなってしまいました。70年6月18日、山田は現役A級棋士として36歳の生涯を閉じました。
山田の絶局は6月6日の大山戦でした。両者は盤上で何局も激闘しましたが、対局を重ねていくうちにお互いの生き方を理解するようになりました。最後の対局の休憩時間には、将棋連盟の運営や普及活動について論じ合ったそうです。
山田が生きていたら、その後の棋界はまったく別の様相になったでしょう。ただ山田の将棋への真摯な精神や研究法は、現代棋界に受け継がれています。
次回は、新首相となった菅直人さんの将棋の腕前。
| 固定リンク
「裏話」カテゴリの記事
- 6月8日に開かれた日本将棋連盟の通常総会(2018.06.19)
- 5月29日の日本将棋連盟の通常総会で報告された三浦九段の冤罪問題の後始末(2017.06.06)
- 4月27日の連盟理事予備選挙で佐藤九段、森内九段、清水女流六段など7人が内定(2017.04.28)
- 田丸が三浦九段と半年ぶりに再会。将棋連盟の理事選挙での立候補者たちの公約(2017.04.21)
- 将棋連盟の理事制度と理事選挙について(2017.03.28)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
山田道美九段と言えば、対四間飛車の急戦“山田定跡”なしに語る事は出来ないですね。▲3五歩も▲9七角〜▲7九角も、現代でも先手やや良しの結論が出ているのは、当時の山田九段の研究のレベルの高さを測る一つの物差しだと思っています。しかし、神、仏がいるとするならば本当に非情ですね。
投稿: ケイ | 2010年6月26日 (土) 22時57分
山田道美九段の話を聞けば聞くほど天才だなと感じます。
本当に惜しい人を失くしましたね。
でも、
「山田の将棋への真摯な精神や研究法は、現代棋界に受け継がれています。」
これを読んで安心しました。
投稿: 穂高 | 2010年7月 1日 (木) 18時22分