将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

2010年5月17日 (月)

中原―大内の名人戦、村山九段との対局などのコメントへの返事

「当時は今以上に名人の価値があったわけですから、大内八段にかかった重圧は相当なものだったのでしょうね」とは『冬木』さんのコメント(4月27日)。

1975年の名人戦(中原誠名人―大内延介八段)第7局は将棋史に残る大激闘でした。私は記録係として盤側からつぶさに見ていましたが、勝利と名人を意識した大内の揺れ動く対局心理がひしひしと伝わってきました。1日目で早くも優勢となった大内が、当夜は寝つけなくて思わず窓を開けると、中原の部屋にも明かりが灯っていました。後日談によると、中原は一睡もできなかったそうです。両者の名人への強い思い入れを象徴するエピソードで、名人は特別な存在と認識されていた時代でした。

「大内八段はあんまり時間がなくて、▲4五歩と突く前に▲7一角と指してしまったんですね。その手を見た中原名人は悠然とトイレに行った…なんて逸話を思い出します」という内容のコメント(4月29日)は『天童市民』さん。

大内が名人を取り損ねたその運命の局面で、残り時間は3分ありました。大内は2分考えて▲7一角と打ちましたが、実際は▲4五歩と突いてから▲7一角と打つ読み筋なのに、なぜか手順前後してしまったのです。1分将棋の秒読みに追われ、ふと読み筋に空白が生じたのでしょう。一方の中原は残り時間が約1時間ありました。観戦記によれば、相手に失着が出たときにゆっくりと手洗いに立つのは奨励会時代からの中原の癖だそうです。

「田丸八段が指した対振り飛車の急戦の棋譜(銀河戦・櫛田陽一六段戦)を見ると、普通の船囲いではなく、二枚金の囲いでした。船囲いと比べて、二枚金の囲いの利点と弱点を教えてください」という内容のコメント(5月1日)は『ケイさん』。

対振り飛車の居飛車側の玉の囲いは、普通は≪6八銀・6九金・5八金≫の船囲いです。私が指した≪7九銀・6八金・5八金≫の囲いは、金無双(きんむそう)と呼ばれます。主に相振り飛車の戦型で用いられます。船囲いとの比較で利点は、がちっと堅いこと、玉の左側を攻められたときに▲8八銀と上げて守れることです。弱点は駒組に進展性がないことですが、最初から急戦をめざす方針なら問題ありません。

「村山聖九段の追悼番組で、1993年の銀河戦で田丸八段が村山七段と対局されたのを見ました」とは『morris』さんのコメント(5月5日)。銀河戦の村山戦は不定形の相居飛車で、私がのびのびと指したら自然に勝ってしまったという内容でした。それで村山のAブロック・8連勝を阻止しました。

私が村山と最後に対局したのは、1998年2月のB級1組順位戦でした。その年の最初の対局だったので、久しぶりに羽織袴を着用して臨みました。勝てばA級昇級が決まる村山に対して、「相手の大事な一番こそ全力で戦え」という米長哲学を実践する心境でもありました。将棋は私の得意型の急戦矢倉から乱戦となり、村山が終盤で一気に寄せて勝ちました。その村山が29歳の若さで病死したのは、半年後の98年8月でした。

次回は、加藤一二三九段と近隣住民との「猫騒動」。

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コメント

コメントを取り上げていただき有難うございます。
大内先生にとっては将棋人生で最も大事な一局だったでしょうね。優勢であるからこそ、名人という頂点を目の前にしたからこそ、震える様な重圧を感じたのでしょうね。

投稿: 冬木 | 2010年5月17日 (月) 22時14分

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