将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

2010年2月 4日 (木)

大山康晴十五世名人の生前の思い出

私は奨励会時代、大山康晴十五世名人の対局の記録係を何局も務めました。無敵の強さで君臨していた当時、その対局姿は泰然としていて、まさに「巌」のようでした。大山は小ぶりの扇子を使いました。開閉して音を立てることはなく、扇子の紐をゆらゆら揺らしながら読みに没頭しました。たまに何かの歌を口ずさむこともありました。

対局中に観戦者が入ってくると、考慮中でもふと顔を上げ、だれなのか確認しました。面識のない人だと気になるのか、席を外して「あの人はだれ?」と関係者に聞いたりしました。将棋界のドンとして、一通りのことは把握しておきたいと思ったのでしょう。私はそんな雲の上の存在の大山と、話をする機会はもちろんありませんでした。

私は20代半ばの若手棋士のころ、将棋連盟で「手合係」を務めました。公式対局の日程を決める重要な職務です。当時の順位戦は同日対局ではなく、各棋士の希望に添って対局日を決めました。だから対局者同士の調整が大変で、棋士が手合係を務めたのもそんな事情によります。現在は連盟の職員が担当しています。

各棋戦で勝ってタイトル戦にも登場した大山は、とくに対局日程が過密でした。さらに講演、将棋会館建設の募金活動などで、全国を飛び歩いて超多忙でした。私は大山の対局日程を決めるために、連絡を頻繁に取り合いました。大山が私の実家に電話をかけてくることもあり、大山の肉声を初めて聞いた母親は「大山さんの声って、意外にやさしいのね」などと言いました。

大山の対局日程をまず設定し、それに合わせて対戦相手を決めました。中には勝手だと文句を言う棋士もいましたが、「とにかくお願いします」と低姿勢になって対処しました。私は青年時代、少し神経質で内気でした。しかし、この手合係の仕事を通して対人関係に慣れ、性格も丸くなったようです。

1975年11月。私は大山に年内の予定対局を提示し、対局日程の追加を談判しました。すると大山は「5日連続で指す」と言いました。実際は対戦相手の関係で3日連続でしたが、中原誠名人、桜井昇六段、内藤国雄九段を連破したのです。以後も12日間で7局(2日制タイトル戦を含む)も指し、5勝2敗の成績でした。負けた相手は2局とも中原でした。大山は72年、中原に名人位を奪取されました。しかし、いぜんとして抜きんでた実力を持っていました。

私が大山と初めて対局したのは1979年。いくら攻め込んでも軽くかわされて切っ先が届かず、まるで軟体動物と指しているような感じでした。初勝利は3局目の対戦の80年。大山が本気モードで指していないとわかっていても、やはりうれしかったものです。それが自信につながり、81年に順位戦8期目でB級1組に昇級できました。

私は大山との対戦成績が4勝8敗。この成績以外に、2局の不戦勝をした珍しい記録があります。大山がガンで休場した1985年、大山が死去した92年です。92年はA級順位戦の対局で、その舞台で大山とぜひ対局したかったです。

次回は、宿命のライバルといわれた大山と升田の関係。

|

裏話」カテゴリの記事

コメント

田丸先生と大山先生の、私の心に残る1局は、昭和63年に行われた第38回NHK杯トーナメントです。先手の田丸先生が右四間飛車から果敢に攻め込み、必勝態勢。しかし田丸先生は寄せの決め手を逃し、大山玉は端からスルスル脱出、最後は9八まで逃げ延びてしまいました。
田丸先生は必勝の将棋を棒に振り、苦痛の表情。それをテレビカメラは非情にも捉えていました。いっぽうの大山先生は「やれやれ…一仕事終わった」とお茶を飲み、湯呑み茶碗を茶卓へ置きます。まさに対照的な光景でした。
その2手後、田丸先生の投了。あの将棋が田丸先生の快勝だったら、私はその将棋を忘れていたでしょう。敗者にドラマがあるからこそ、将棋ファンの記憶に残るのだと思います。

投稿: 大沢一公 | 2010年3月27日 (土) 23時59分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/545452/47474886

この記事へのトラックバック一覧です: 大山康晴十五世名人の生前の思い出: