将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

2010年2月 8日 (月)

宿命のライバルといわれた大山と升田の珍しいツーショット写真

大山と升田のツーショット写真
この写真は、私が35年ほど前に撮りました。ある囲碁大会の団体戦に、棋士で構成する将棋連盟チームが参加したときのものです。左が大山康晴(十五世名人)、右が升田幸三(実力制第四代名人)。対局を終えた升田が、対局中の大山の戦況を横から見守っています。写り具合は良くありませんが、じつはとても珍しいツーショット写真なのです。

大山と升田は「昭和棋界の竜虎」として激闘と名勝負を繰り広げ、宿命のライバルといわれました。その両者は、盤外でも何かと対立しました。しかし元来は木見一門の兄弟弟子(升田が兄弟子)で、内弟子生活で同じ釜の飯を食べた間柄でした。木村義雄(十四世名人)が棋界に君臨していた戦前戦後の時代、打倒木村に向けて切磋琢磨したものです。

大山と升田は囲碁大会で、そんな修業時代にタイムスリップした気分になったのでしょう。写真の表情はどちらも笑みが浮かび、ほのぼのとした光景です。ちなみに5人1組のこの大会では、大山、升田、丸田祐三(九段)、河口俊彦(七段)らの連盟A1チームが優勝し、加藤治郎(名誉九段)、米長邦雄(永世棋聖)、芹沢博文(九段)、真部一男(九段)らの連盟A2チームが3位入賞しました。将棋の棋士は囲碁も強いのです。

仲の良い兄弟弟子だった大山と升田が、盤上だけでなく盤外でも対立した原因は、生き方や性格の違いのほかに、両者を取り巻く環境がありました。昔は一流棋士が新聞社の嘱託となり、大山は毎日新聞社、升田は朝日新聞社に所属しました。その毎日と朝日の間には、名人戦の契約をめぐって過去に葛藤がありました。嘱託の立場の大山と升田も、そんな渦の中に巻き込まれて溝がますます深まったのです。

大山と升田の緊張関係が、急に雪解け状態になった時期がありました。1974年のことで、両者は時の連盟理事会の政策に危機感を抱いて手を結んだのです。そして有力棋士たちの賛同も得て、棋士総会の場で理事会に総辞職を迫りました。両巨頭の大山と升田に膝詰め談判されては、もはや受けはありません。理事会は総辞職しました。大山は新政権で理事に就任、升田は閣外協力すると表明しました。

大山と升田が仕組んだあの政変劇は、棋士たちにとって大きな驚きでした。冷戦時代にアメリカとソ連が平和条約を結んだようなものです。両者が長年の確執を超えて協調したのは、運命共同体という意識のほかに、同門の兄弟弟子という絆がやはりあったと思います。

しかし、両者の密月は長く続きませんでした。名人戦の契約をめぐって連盟と朝日(以前は単独契約)の交渉がもつれ、1976年に名人戦の契約は朝日から毎日に移りました。升田は大山の策謀だと非難し、両者の関係はまた悪化しました…。

升田は1991年に73歳で死去、大山は92年に69歳で死去しました。大山は天国の升田に呼ばれたのだろう、といわれたものです。その両者は天国で、好きな囲碁を打っていると思います。

次回は、郷田真隆九段の遅刻による不戦敗について。

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コメント

大山升田の存在感は、現在の棋士ではかなわない凄みがありますね。羽生名人と渡辺竜王が盤を挟んで対峙するよりも、大山升田が盤を挟んで対峙した方が迫力や重みを感じます。

投稿: 天童 | 2010年2月 9日 (火) 01時27分

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