「東西決戦」の対局に勝って四段に昇段した38年前
1972年2月22日。奨励会の三段だった私は、関西の酒井順吉三段(現七段)と「東西決戦」の対局を戦いました。勝者のみが四段に昇段して棋士になれる大一番でした。
戦型は酒井のひねり飛車。私が中段に金を進めて玉頭に圧力をかけると、酒井は猛然と攻め込んできました。読み筋になかったので驚きましたが、冷静に応戦して有利となりました。しかし局面が進むほど「四段」の2文字が頭をよぎり、そのプレッシャーで指し手が乱れて形勢がもつれました。そして悪手を指してしまいました。
写真の局面は、下側が田丸、上側が酒井(便宜上先後逆)。酒井の△8七銀は単なる角取りではなく、次の△3九歩成が△7八銀打▲5九玉△4九金までの詰めろです。形勢不利と思った私は▲2二飛の王手をかけ、「合駒を使ってくれ!」と心の中で叫びました。
写真の局面から、実戦は△3二金▲2一飛成△8八銀成▲1一竜△3九歩成▲6四香と進みました。酒井は△3二金と打って先手を取り、△8八銀成で角を取りました。しかし金を使ったので詰めろの順が消え、▲6四香の王手に△6三歩の合駒が打てません。
写真の局面では△5二銀と引き、▲4四桂△3九歩成▲5二桂成△同金▲3四角の攻防手に対して、△4二桂と受ければ酒井の勝ち筋でした。しかし1分将棋の秒読みに追われている酒井は、その順を読み切れませんでした。
本譜の▲6四香以下も難しい変化がありましたが、私は着実に優位を広げて勝ちました。終局時刻は5時7分。7時間あまりの激闘でした。将棋雑誌に載った観戦記によると、終局直後の言葉は、田丸が「逆転したね」、酒井が「受けまちごうたわ」。終局後の写真は、勝者も敗者も放心状態のようでした。じつは大一番に勝ったときほど、喜びをすぐ感じられないものなんです。私もこの東西決戦では「夢現(ゆめうつつ)」でした。
私は検討を終えると、階下の赤電話から師匠の佐瀬勇次(名誉九段)に四段昇段をまず報告しました。そして実家で朗報を待っている母親に連絡しました。そのとき沈んだように小声だったので、「うそじゃないの。負けたみたいよ」と言われました。そんな母親が昇段を実感したのは、私の後援者たちから贈られた羽織袴の和服一式を見た半月後でした。
東西決戦の数日後。いぜんとして放心状態だった私は、軽井沢の山中で起きた連合赤軍と警察隊の激闘を、テレビの前でぼんやり見ていました。棋士になれた喜びを本当に抱いたのは、もう少し先でした。
38年たった今でも、東西決戦の対局と写真の局面を思い出すことがあります。もし負けたとしても、まだ21歳と若かったので、四段昇段のチャンスはまたあったかもしれません。しかし、まったく違う人生になったことでしょう…。
次回は、瀬川問題などのコメントへの返信。
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コメント
三段と四段の差は本当に天国と地獄ですね。
確かに四段になるためには「運」も必要だと思います。
でも、「運も実力の内」といいますから、なるべき人がなるのだと思います。
実力がありながら、残念ながら四段になれなかった人で心に残る人がいましたら、いつか書いてください。
投稿: 穂高 | 2010年2月26日 (金) 08時27分