将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

2010年2月22日 (月)

四段昇段をかけて「東西決戦」の対局を戦った38年前の2月22日

私の誕生日は1950年5月5日。それと棋士としての誕生日が1972年2月22日。前者は「5」、後者は「2」の数字が並び、私にとってどちらもラッキーナンバーです。

38年前の2月22日。奨励会の三段だった私は、関西の酒井順吉三段(現七段)と「東西決戦」の対局を戦いました。勝者が四段に昇段できる、人生がかかった大一番でした。

当時の四段昇段制度は、三段リーグを東西に分けて行い、東西の優勝者同士による決戦の勝者が四段に昇段できました。これが世に言われた「東西決戦」で、年間で2人だけが棋士になれました。現行の四段昇段制度もかなり難関です。現在進行中の三段リーグの人数は31人で、その中から上位2人だけが四段に昇段できます。ただリーグ戦では競争相手の成績の関係で、最終戦で負けても四段昇段が決まるケースがあります。

東西決戦では勝利しか道はなく、勝つと負けるでは天国と地獄ほどの落差が生じます。なお60年代には、東西決戦の敗者同士による再決戦で四段に昇段できる制度がありました。しかし将棋連盟の財政上の理由で、69年以降は昇段枠が3人から2人に減りました。

私は18歳で三段に昇段しました。そして三段リーグ3期目に関東で優勝、70年に関西優勝者の坪内利幸三段(現七段)と東西決戦を戦いました。結果は完敗でした。その後の三段リーグは、決戦で負けたショックが尾を引いたり、青春期を迎えて将棋以外のことに心を奪われたりして、成績が低迷しました。

71年の秋、私は「今期こそ」との決然とした思いで7期目の三段リーグに臨みました。三段陣の顔触れは、関東が宮田利男(現七段)、菊地常夫(同)、沼春雄(同)、椎橋金司(故六段)、鈴木英春(元アマ王将)など。関西が淡路仁茂(現九段)、真部一男(故九段)、小阪昇(現七段)、伊藤果(同)、青木清(現六段)、酒井など。各8人、合計16人で四段を争いました。なお東西リーグの人数を揃えるために、関東の三段が関西に所属することがありました。

私は「一戦必勝」をめざし、対戦相手ごとに綿密に対策を立てました。すると好調にスタートダッシュし、負け将棋を何局も拾い勝ちする幸運にも恵まれ、優勝争いに加わりました。そして11勝1敗で2回目の優勝をしたのです。

私は青年時代、クラシック音楽に傾倒していて、新宿・三越百貨店の近くにあった名曲喫茶『ランブル』によく行きました。この店には会話禁止の一室があり、そこでリクエスト曲がかかるまでじっと聴きました。私の好きな作曲家はベートーベンとショパン。東西決戦の前日は、ベートーベンの『運命』を聴いて戦意を高めたものです。

72年2月22日。東西決戦は東京の将棋会館で行われました。公式棋戦のようにカヤ盤とツゲの盛り上げ駒が用意され、記録係が付きました。いつも奨励会員に威張り散らしている棋士も、この日ばかりは神妙な様子で勝負を見守ります。酒井三段とは初対戦。得意戦法も棋風もまったく知りませんでした。先手番となった酒井は、ひねり飛車の戦型を採りました…。

次回も、酒井三段との東西決戦の対局。

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コメント

瀬川さんの編入試験を実施するかしないかの際、大内九段が以前は東西対決を制した2人しか年に四段になれなかった、今は倍の4人で次点2回がいれば最大6人まで可能性がある、にもかかわらず三段リーグすら突破できなかった人にプロの道を開くのはおかしい、と大反対したと聞きました。
大内九段の意見ももっともだ、と思いましたが、田丸さんはいかがお考えですか?

投稿: popoo | 2010年2月22日 (月) 11時31分

コメントのコメントまで記事して頂いて大変恐縮しています。
大山名人のとなり(西阿知)に住んでいますので、いつも大変楽しく
読まして頂いています。
38年前の2月22日でしたか!!
菅井三段も忘れられない一日になるでしょうね!

投稿: オンラインブログ検定 | 2010年2月24日 (水) 19時29分

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