将棋棋士 田丸昇の と金 横歩き

2009年12月14日 (月)

竜王戦の前身棋戦は九段戦、十段戦

読売新聞社は1948年に「全日本選手権戦」という棋戦を発足し、1950年にそれが引き継がれて「九段戦」がタイトル戦として誕生しました。現行の「竜王戦」の前身棋戦でした。

戦後復興期の1940年代後半はインフレがひどく、東京の小売物価指数を例にすると、47年の100に対して、48年は293、49年は477と2年間で5倍近く上がったそうです。そんな時代だったので新聞社の経営も苦しく、当時は名人戦(朝日新聞社)、九段戦(読売新聞社)、王将戦(毎日新聞社)の3棋戦だけでした。

現在、九段の棋士は現役・退役を合わせて40人以上います。しかし1970年代初めまでは、九段は大山康晴(十五世名人)、塚田正夫(実力制第二代名人)、升田幸三(実力制第四代名人)の3人だけでした。その九段に昇段するには、「九段戦で優勝」のほかに「名人2期・順位戦のA級で抜群の成績」という難しい規定がありました。

この九段昇段規定には「九段は名人の彼方に存在する」という逆転現象が生じています。つまり以前の九段は、単に八段の上の段位ではなかったのです。会社の役職で例えてみると、名人を社長とすると、九段は社長を2期務めた会長になるわけです。

この制度に疑問を抱いていた棋士はかねてから多く、1973年に新しい九段昇段制度が定められました。それに不満を持った升田が「納得できないから九段を返上する」と表明して大騒ぎになりましたが、後に撤回して治まりました。

1962年に九段戦が発展的に解消され、「十段戦」が誕生しました。第1期十段戦は大山と升田で争われ、大山が新十段になりました。大山は十段戦で6期連続優勝、1968年に加藤一二三八段に奪取されましたが、翌年にすぐ取り返しました。なお十段は段位ではなく、タイトルの名称です。十段を獲得した加藤は、大山との防衛戦で敗れると元の八段に戻りました。

1974年に囲碁界で大激震が起きました。日本棋院(囲碁棋士の団体)が囲碁名人戦を主催する読売新聞社に対して契約の打ち切りを突如通告し、朝日新聞社と名人戦の契約を新たに結んだのです。契約金が長年にわたって据え置かれた事情が背景にあり、朝日との契約金は3倍に増額されました。この名人戦問題は訴訟に発展しましたが、やがて読売は「棋聖戦」という大型の囲碁棋戦を創設しました。

囲碁界の契約金問題は、将棋界にも波及しました。将棋連盟は名人戦を主催する朝日に対して、契約金の大幅増額を要求しました。そして1976年に朝日との交渉が不成立となって契約は終了し、後に毎日新聞社が名人戦を主催しました。連盟は読売に対しても囲碁棋聖戦と同等の契約金を要求し、それが竜王戦の創設につながっていきます…。

次回は、竜王戦が創設された経緯。田丸は今週の16日(水)、竜王戦で若手棋士の金井恒太四段と対戦します。結果は次の更新でお知らせします。

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